3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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「日本の保守を問う」文藝春秋の企画

最近、新聞を開くとほぼ毎日といってもよいぐらい広告欄に中国や韓国を侮蔑するタイトルの本や雑誌の特集記事が目に飛び込んでくる。しかも、ここ最近はどちらかというと中国よりも韓国を侮蔑する本や記事が多いことに気がつく。前にも紹介したが夕刊フジなどはほぼ連日韓国を侮蔑する記事がトップの大見出しで掲げられている。たとえば、先週(5月19日~24日)のバックナンバーをみると次のような見出しになっている。
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ちなみにアマゾンで「韓国」という言葉でくくってみると、でるわでるわ。参考に、新しい順でピックアップしてみよう。

「ローマ法王の韓国への苦言」2014,5 国際情勢研究会 ゴマブックス株式会社
「韓国経済がけっぷち サムソンとともに自滅する韓国経済」2014・5 勝又寿良著 サンクチュアリ出版
「中国4分割と韓国消滅 ロスチャイルドによる衝撃の地球大改造プラン」2014.5 板垣英憲著 ヒカルランド
「韓国とかかわるな!韓国とかかわると人も国も必ず不幸になる法則」2014・5 著者不明サンクチュアリ出版
「韓国を嫌うのが正しい50の理由」2014・5 田母神俊雄他 晋遊社
「反日韓国百のうそ」2014.5 別冊宝島 宝島社
「なぜこの国は平気で嘘をつくのか」2014・5 渡部昇一他 WAC
「中国人・韓国人にはなぜ心がないのか」2014・5 加瀬英明著 ベストセラーズ
「韓国 反日謀略の罠」2014.5 拳骨拓史著 扶桑社
「韓国人による恥韓論」2014.5 シンシアリー著 扶桑社新書
「ヒラリークリントンの嫌いな韓国 中国」2014.4 国際情勢研究会 ゴマブックス株式会社
「妄想大国 韓国を嗤う」2014.4室谷克実、三橋貴明共著 PHP研究所
「日韓円満断交はいかが?」2014.4 大高未貴著 ワニブックスPLUS新書
「どの面下げての韓国人」2014.3 豊田有恒著 祥伝社新書
「笑えるほどたちが悪い韓国の話」2014.3 竹田恒泰著 ビジネス社
「嘘つき韓国の正体」2014.3 SAPIO編集部 小学館
「守護霊インタビュー 朴槿恵韓国大統領 なぜ私は反日なのか」2014.3大川隆法著 幸福の科学出版
「日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか」2014.3 黄文雄著 徳間文庫
「日本を取り戻す アベノミクスと反日の中国・韓国」2014.3 黄文雄著 光明思想社
「貶める韓国 脅かす中国 新帝国主義時代試される日本」2014.3 産経新聞取材班 産経新聞出版
「犯韓論」2014.3 黄文雄著 幻冬舎ルネッサンス
「醜いが目をさらすな 隣国韓国」2014.2 古田博司著 ワック文庫
「愚韓新論」2014.4 三橋貴明著 飛鳥新社
「嫌韓流 嘘で自尊心を満たす泥棒国家の正体」2014.2 呉善花、三橋貴明、他 晋遊舎
「もうこの国は捨ておけ!韓国の狂気と異質」2014.2 呉善花、石平著 ワック
「中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争」黄文雄著 徳間文庫
「反日韓国 やばすぎる正体」2014.2 別冊宝島 小学館
「呆れた韓国」2014.2 著者不祥 オークラ出版
「反日プロパガンダの近現代史 なぜ日本人は騙されるのか」2014.1倉山満著 アスペクト
「日本人は中韓との絶交の覚悟を持ちなさい」2014.1 呉善花、黄文雄、石平著 李白社
「世界中から嫌われる中国と韓国 感謝される日本」2014.1 宮崎正弘著 徳間ポケット
「言いがかり国家 韓国を黙らせる本」2014.1 宮越秀雄著 彩図社
「韓国がタブーにする 日韓併合の真実」2013.12 崔基縞著 ビジネス社
「日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の心の闇」2013.12 呉善花、黄文雄、石平著 李白社
「なぜ反日韓国に未来はないのか」2013.12 呉善花著 小学館
「呆韓論」2013.12 室谷克実著 産経新聞出版
「高山正之が米国・支那・韓国・朝日を斬る 日本人をますます元気にする本」2013.12 高山正之著 テーミス
「だから中国・韓国は嫌われる」2013・11 晋遊舎ムック
「ほんとうは日韓併合が韓国を救った」2013.11 松木國俊著 WAC
「中韓以外みーんな親日 クールジャパンが世界を席巻中」2013.10 酒井亨著 ワニブックスPLUS
「中国人と韓国人が作ったインチキ神話に操られる日本人」2013.6 黄文雄著 ヒカルランド
「歪みの国 韓国」2013.6 金慶珠著 祥伝社新書
「韓国はなぜ性犯罪大国となったか」2013.4 加来秀一著 amazon international service
「近くて遠い国でいい 日本と韓国」2013.4 渡部昇一、呉善花著 WAC
「悪韓論」2013,4 室谷克実著 新潮新書
「日本人は中国人・韓国人と根本的に違う」2013・4 呉善花、黄文雄、石平著 徳間書店
「困った隣人 韓国の急所」2013,3 呉善花著 祥伝社新書
「いよいよ韓国経済が崩壊するこれだけの理由」2013.1 三橋貴明著 WAC
「虚言と虚飾の国 韓国」2012.9 呉善花著 WAC
「やっかいな隣人 韓国の正体」2006.9 呉善花、井沢元彦著 祥伝社黄金文庫
「韓国堕落の2000年史」2006.6 崔基縞著 祥伝社  2006・6


この他にも「韓国」を非難(批判)する本は数多くあるが、最近流行のいわゆる「嫌韓本」と思われるものをピックアップしてみた。これらの本はタイトルからみても明らかなように意図的に隣国を侮蔑するものであり、そしてそのような侮蔑を悦ぶ日本人読者を対象としたものであろう。もちろん中には「それは誤解だ」という真面目なものもあるかもしれないが、少なくとも、これらのタイトルから惹起されるのは売らんかなという(著者及び出版社の)儲け主義が否定できないということである。これは出版月をみても明らかだろう。この種の流行のきっかけを作ったのは、昨年4月に発売されて数十万部のベストセラーになった「悪韓論」(室谷克実著)という本であり、これをきっかけに同じようなタイトルの本がこれでもかというぐらいに作られている。まさにここぞとばかり時流に乗って儲けようという商魂が露骨にみえる。その時期をみれば、これらの本はほとんど安倍政権後に著されたものだということに気付く。安倍政権の成立によって、それまでの韓流ブームの流れが終わり、ナショナリズムを肯定する空気が作られていった。その流れの中でこれらの本が異常増殖したものとみてよいだろう。

それにしてもこういうタイトルにすれば売れるからといって、他民族を侮辱したり差別するような表現がまかり通るということは憂うべきことではないか。これは問題になっているヘイトスピーチと軌を一にするものであろう。にもかかわらず大手の出版社までもがこのブームに便乗しているのをみると、まさに世も末という嘆かわしさである。出版不況の中、大手出版社といえども背に腹はかえられないという現状はあるらしいが、だからといって時流に乗り隣国に対するヘイトスピーチを扇動するような本を出して儲けようというのは、出版社としての良心が問われるべきだろう。

ただし、このような感想は決して私個人のものではないということが分かってほっとした。これまで保守論壇の主流派と思われていた月刊「文藝春秋」が、このおかしなブームを危ぶむような特集を組んでいるのである。今月(6月)号の「文藝春秋」には「安倍総理の保守を問う」というテーマで数多くの識者、文化人からアンケートの文章を投稿してもらっている。このアンケートに応じて投稿しているのは次のような方々である。

藤原正彦、磯田道史、山折哲男、曽野綾子、伊東四朗、中西輝政、海老名香葉子、金子兜太、山川静夫、中島岳志、香山リカ、保坂正康、内田裕也、中野剛志、佐高信、金美麗、井上章一、榊原英資、安田浩一、斎藤孝、柳田邦男、養老猛司、高樹のぶ子、堀江貴文、姜尚中、鹿島茂、舞の海秀平、桝添要一、坂東真理子、堺屋太一、福田和也、西木正明、佐々木常夫、孫崎亨、所功、後藤健次、加地伸行、徳岡孝夫、武村正義、開沼博、池澤夏季、丹羽宇一郎、野村克也、野田聖子、橋本治、御厨貴、田中康夫、竹中平蔵、浜矩子、出井伸之、手嶋龍一、古市憲寿、雨宮処凛、東浩紀、加藤紘一、清家篤、松本健一、枝野幸男、池内恵、河渕三郎、小林亜星、外山滋比古、佐伯啓恵、萩原博子、大橋巨泉、関川夏央、黒鉄ヒロシ、内田樹、小池百合子、中谷巌、竹森俊平、森永卓郎、北岡伸一、中條高徳、川村雄介、佐藤正久、猪木武徳、横路孝弘、呉智英、田中優子、寺島実郎、中野翠、岸田秀、亀山郁夫、上野千鶴子、適菜収、佐藤優、古賀伸明、水木楓、湯浅誠、田原総一朗、亀井静香、小熊英二、坪内祐三、城繁幸、山口二郎、江上剛、山内昌之、與那覇潤、佐々淳行

以上百名(掲載順)

尚、このアンケートの他に、特別インタビューとして荻生田光一、田母神俊雄、水島総、小林よしのり、岡崎久彦、前原誠司、櫻井よしこ、石原慎太郎の8名の個別対談が掲載されている。

もうひとつ、文藝春秋社は「文藝春秋SPECIAL」という特別号を同時期に出版している。この特集もほぼ同じテーマに取り組んだものである。この特別号は「季刊」として年4回出版されているらしいが、この企画の動機と目的を記した文章が面白いので、紹介しておきたい。

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自分の頭で考える人の新しい雑誌をつくりました。世界はいま、大きく変わりつつあります。イデオロギーの砦の中にいれば、深く考えなくても暮らせる時代は終わりました。われわれは目の前の課題をいちいち議論し、解決していかなくてはならない、じつに“面倒な”時代を生きているのです。こんなとき、簡単な“正解”が示されると、ついそれに飛びついてしまう。しかし、本当にそれで問題は解決したのでしょうか。
この雑誌は正解を求めません。ひとつのテーマについて、あらゆる角度から最良のテキストを集め、読者の皆さんに提供します。正反対の意見でも、読むに足るものならどちらも掲載します。正解はみなさん自身で考えてほしいのです。
簡単な正解の代わりに、簡単に読める工夫をしました。忙しい現代人の生活スタイルにあわせ、一本の論考を4ページから6ページにしてあります。ちょっとした移動時間でもまるまる一本読めてしまう分量です。さらに深く知ることができるように関連書籍も示しました。
みなさんが自分自身の正解へたどりつくための思考の補助線になればと願っています。


ちなみにこの特別号に寄稿している方々の名は次のとおりである。

内田樹、浜崎洋介、趙世瑛、古田博司×宮崎哲也、竹嶋渉、安田浩一、菅野朋子、田母神俊雄、富坂聡、城山英巳、岡本隆司、與那覇潤、ケビン・メア、高原基彰、中野剛志、昆吉則、石破茂、柳澤協二、栗田智、名越健郎、鶴保庸介、橋玲、一ノ瀬俊也、アレキサンダーベネット、櫻井よしこ、津堅信之、川島蓉子、山本征治、橋爪大三郎×大沢真幸、先崎彰容、白井聡、出口治明、辻田真佐憲、林洋子、秋田豊、熊崎敬、古市憲寿×古谷経衝、佐波優子

これらの方々の名をご存知の方もご存知でない方もいると思うが、面白いのはまったく正反対の見方やあるいは相敵対する考え方が同時に掲載されているので、これはかつてなかった画期的な試みとして評価に値するのではないかと思う。これこそ出版社の良心というべきものではないであろうか。文藝春秋社というと、1923年に作家の菊池寛によって創刊された古い歴史のある雑誌であり、日本の戦前から戦後の激動をまのあたりにして、それぞれの時代に翻弄されながら右に左にと論説が揺れ動いた歴史をもっている。有名なのは芥川賞と直木賞を主催している出版社ということだろう。このところは姉妹週刊誌の週刊文春で過激なナショナリズムを煽るような記事が目立ち、本来の「保守」という社の伝統的立場がおかしくなってきたということを自覚し出したのかもしれない。

ついでながら月刊誌「文藝春秋」と週刊誌「週刊文春」は同じ文藝春秋社ではあるが、その思想性や編集方針はそれぞれの編集長や編集委員にまかされており、まったく別物と考えるべきなのであろう。そのことは長らく文藝春秋の編集長をやってこられた半藤一利氏と週刊文春の元編集長花田紀凱氏を比較すれば、説明するまでもなく明らかであろう。

この「文藝春秋」及び特別号「文藝春秋SPECIAL」の中から特におもしろかったものを一部紹介したい。

以下は「文藝春秋」アンケートより

香山リカ(精神科医、立教大学教授)
最近の日本は保守の復活」というより、あえて排外主義から精神的な孤立主義に陥ることでしか、自らのアイデンティーを維持できなくなっているように見える。
出版社で編集に関わる知人から、いま売れる本は二種類と聞いた。ひとつは中国と韓国やそこの人々を欠点、問題点をあげつらう本、そしてもうひとつは外国人による「日本のここが好き」という賞賛が書き連ねられた本だそうだ。いずれもそこに書かれていることのすべてが間違いとは言えないが、普通の「私は見た」といった主観的な主張に彩られている本といえる。ところが読者は「やっぱり韓国は悪い国で、日本は世界からあこがられる国なのだ」とあえて事実だと思い込もうとする。それに対して誰かが「これはあくまでも多様な意見のひとつであって」と口をはさもうとすると、すぐに「こいつは反日だ」とレッテルを貼り、排除しようとするのである。このまま「世界の人は日本が大好き」「日本以外の国は劣等」といった一元的で浅薄な思い込みをどんどん強化していくと、間違いなく日本は国際的に孤立してしまうだろう。


柳田邦男(ノンフィクション作家)
政治や社会の動向を色分けする用語は、しばしば曖昧で欺瞞に満ちている。政治の世界で保守という言葉が堂々の進撃を始めたのは、1955年の保守合同からだ。……半世紀以上経ち、安倍政権の時代になるや、この国の政府は経済再生の名の下にかつてないほど堂々と、経団連の意向をマル受けするマシーンと化し、首相が原発輸出、武器輸出のセールスマンとなった。年末に兜町にでかけて、株価礼讃をする姿は、拝金主義謳歌の印象を漂わす。

北岡伸一(国際大学学長)
保守は寛容でなくてはならない。人間は所詮弱いものであることを知っているから、他者の誤りにも寛容である。また保守は上品(decent)でなくてはならない。罵詈雑言は人間関係を不可避的に悪化させる。保守は人間の限界を知るがゆえに、ものごとと距離を置く。人間関係においても節度をもつころを重視する。現在の日本は右傾化しているかどうかと言われれば、「そうでしょうね」と言うほかない。なぜなら、最近みられるのは、以上のような良質の保守の後退だからである。他人の言い分に耳を傾けず、本格的な歴史書も読まず、他人を罵倒する一方的な論調は、保守の対極にあるものである。

寺島実郎(日本総合研究所理事長)
自民党は本来「自由・民主」を掲げたリベラル政党であった。背景には社会主義勢力との緊張感があった。冷戦後の曲折を経て、この党は価値座標の混迷の中で、国家主義政党に向かいつつある。しかも、「親米ナショナリズム」という屈折したナショナリズムが沈殿している。同じく、かつての革新勢力をはじめ、大方の野党も価値基軸を見失い、国民に二一世紀の選択肢を示せぬまま茫然と立ち尽くしている。
また「中国・韓国には侮られたくない」という次元のナショナリズムに引き寄せられ、政治指導者ならば国民の自制を促して「協調のアジア」への構想を示すべきにもかかわらず、近隣との緊張を「国権主義の制度化」に繋げようとする意思が見える。世界の知性というべき人達との最近の会話を通じて感じるのは、そうした日本への不信と疑念である。


岸田秀(心理学者)
政治における保守とは国の伝統的な形を守ることであろう。ところで、日本の場合、国の伝統的な形とは何であろか。日本にそのようなものがあったであろうか。近代の日本を考えてみよう。ペリーに恫喝され、欧米諸国に対する軍事的劣勢を悟らされて、それまでの幕藩体制を捨て、天皇を神聖不可侵な神とし、富国強兵のスローガンのもとに近代国家の建設をめざしたが、明治「維新」と称していたのだから、当時の為政者は保守ではなく革新のつもりであった。それから日本は日清日露の両戦役、第一次大戦に勝って世界の五大国の一つにのしあがり、ついには米国と戦って敗北を喫し、敗戦後は米国の属国となって自由民主主義を奉じている。戦後体制はかつての軍国主義を悔い改め平和国家を目指したのだから、方向は逆だが、明治政府と同じくやはり革新のつもりであった、…考えてみれば、戦争がなかった江戸時代は人々がむやみに殺し合った戦国時代に対する反動であり、戦争に明け暮れた日本近代は大平の安逸を貪り外国の脅威に無警戒だった江戸時代に対する反動であり、戦後の戦争放棄の平和主義は、軍国主義時代に対する反動であり、日本は反動の反動の反動を繰り返してきただけで、日本の歴史には、真の保守も革新もなかったのではないか。

山口二郎(法政大学教授)
保守主義者は人間の多様性、世の中の複雑性を大前提とする。そして人間が不完全で悪を為しうることを念頭において、世の中に対する働きかけについてその帰結を慎重に考慮し、人間の浅薄にブレーキをかける。自分を含む人間の愚かさを認識することこそ保守の神髄である。進歩と保守の対立はいわば青年と大人のそれである。
安倍晋三政権の復活以後、安倍氏及びその取り巻きが進めているのは、保守の復権ではない。二十世紀の世界戦争の中で自分の属する国家や自分の父祖が悪を為していないと言い張るのは、日本人だけは愚かではないというようなもので、保守の対極の態度である。彼らは青年以前の、子供じみた自己中心主義を露呈しているにすぎない。


與那覇潤(愛知県立大学準教授)
右傾化の最大の背景は「戦中派の退場」だと思います。司馬や山本七平(21年生)のような軍隊経験を持つ人々が、国民大の物語の書き手として保守論壇の中心にいた頃は、戦争を日本人自身の「失敗」として捉えるという自意識が強くあった。存命の方だと読売の渡邉恒雄さん(26年生)が、靖国参拝問題に関して明確に安倍政権に反対しているのも、敗戦直前に徴兵されて、日本軍というものがどても自慢できない組織だと知っているからでしょう。
これに対し、兵隊に取られるより前に終戦を迎えた結果、少年期に思い描いていた「欧米列強と対等な世界の強国」とは異なる国(=端的には対米従属国)で成長し大人になったことへの、割り切れなさを感じている世代を「戦後派」と呼びます。海軍エリートの家系に生まれた江藤淳(32年生)・石原慎太郎(32年生)・西尾幹二(35年生)の各氏など、政権ブレーンないし「右傾化」の文脈で名前の挙がる方々がみなこの世代。当初はある種の世代間闘争だったはずのものが、54年生まれの安倍首相を媒介として、隔世遺伝のように繰り返されているという印象をもちます。
安倍さんのお祖父さんはご存知のとおり岸信介ですが、戦前すなわち「祖父」の名誉にこだわる人々が、なぜ戦後という「父」の達成は唾棄して省みないのか、父親不在が過剰なマッチョイズムを生むという逆説が、日本の保守の最大の矛盾だと思います。


堀江貴文(元ライブドア社長)
ネトウヨなどに代表される、最近先鋭化している保守勢力というのは、完全にグローバル化への抵抗の発露であると思われる。つまり、日本におけるこうした新保守主義というのは、日本という先進国に生まれたという優位性のみに依拠している人々が、最近の新興国の経済成長に伴った収入減などで、それまで見下していた人々の方が生活水準が上がり、むしろ自分たちよりも良く見えるような状態になってプライドがズタズタになってしまっているという状況をなんとか打破したいという動きなのだと思う。
実際、日本人の平均年収は既にグローバルトップ10から脱落しており、日本に大挙して押し寄せる中国人を始めとする外国人のパワーに圧倒されているのである。またMIT(マサチューセッツ工科大学)の機関誌が選んだ「世界で最も革新的な50社」に日本企業が一社もないにも関わらずアジアの企業が何社も入っているという状況もそれに拍車をかけている。つまり、自分たちの優位性を維持するためには戦争や鎖国的な動きも辞さないというくらいの自爆テロ的な行動なのである。……そもそもグローバル化で国民国家という概念すら、希薄化しようとしている、その国家とうものにしがみつくというのは間違いとしか言いようがない。


以下は「文藝春秋SPECIAL」よりの寄稿文の一部です。

内田樹 タイトル「ショービニスムと痩我慢」
「国民国家」が標準的政治単位になったのはせいぜい18世紀以降のことであり、それが「命を賭けても護り讃えるべきもの」という生々しいリアリティーを獲得したのはせいぜい19世紀のことである。今私たちが論じようとしている政治的情念はいくつかの歴史的条件が絡み合って形成されたものである。国民国家が「歴史の起源のときから存在し、未来永劫に存在する不動不変の統治システム」であるという考え方が登場したのは日本の場合は明治維新以後のことである。幕末まで日本には約三百の「国」があったが、それらを統合する政治単位には名前がなかった。だから、幕末には「国」という語でそれまで日本人が「国」と呼んでいたものを今後は「藩」と呼ぶというルール変更が行われたのである(江戸時代において「藩」というのは漢学者だけが用いていた学術語であり、市井の人の口にのぼることはなかった)。
……国民国家は一個の政治的擬制である。歴史的条件の変化によってそのつど伸縮し、形を変える。国民の定義が変わり、国土の範囲が変わる。そのようなものに宿命的に結び付けられていると熱狂的に感じるというのはどう考えても論理的ではない。しかし現にこの熱狂は政治的な力を発揮する。…


與那覇潤 タイトル「三つの時代と日中関係の終わり 今こそ読み直す山本七平」
新興国で愛国主義が高まるのは世の常でありますが、なぜ、国づくりの過程を終えて久しいはずの日本で、過激な排外主義や隣国への憎悪が沸き起こるのか。長短合わせて3つのタイムスパン、3種類の時代「終焉」がいま同時に訪れているという視点が必要だと思います。……
実は、この3つの時代の終わりをひそかに1970年代初期に始まっていた―そう指摘したのが当時イザヤベンダサンの筆名で論壇に登場した山本七平だったと思います。72年の日中国交回復を受けて、同年末から1年半にわたり月刊「文藝春秋」で連載された「日本人と中国人」(現在は祥伝社刊)は、デビュー作「日本人とユダヤ人」の二番煎じとみなされてか当時は単行本になりませんでしたが、いま読むと非常に示唆的です。
社会主義陣営内での中ソ対立が明確になり、71年に米大統領ニクソン、翌年には田中角栄が競うかのように対中提携へ舵を切る。つまり「第三極としての中国の台頭による、親米・反米の二極構造の溶解」という意味では、冷戦はここで終わり始めていたのですね。山本はそれが、日本人にとって明治以降、ないし江戸以降の生き方の終焉にもつながることを、はっきりと認識していました。
なぜなら山本は「大東亜戦争」の最大の後始末といえる日中国交回復を、連載中で「小東亜戦争」と呼ぶ豊臣秀吉の朝鮮出兵の戦後処理を経て生まれた、江戸時代のあり方と対照しているからです。正規の国交は結ばす、いわば対外的な正統性の問題は棚上げして、とにかく交易だけは可能にした徳川幕府による対中関係の収拾を、山本は「エコノミックアニマル方式」と呼んで、明らかに田中外交の原点として見ている。実際、日中戦争の戦後処理でもこの時、歴史問題に関しては「日本軍国主義有罪、日本人民無罪」で、あえて突き詰めすぎないことで手打ちをしたわけです。
その意味では朝鮮出兵の戦後レジームだった江戸時代と同様、日中戦争の戦後レジームたる田中派主導の自民党体制も非常に“上手くやった”とはいえる。しかし、その成功は永遠のものか。本当に今後も続くだろうか。「戦後レジームからの脱却」を唱える(非田中派の)総理大臣の出現を待つまでもなく、山本はそのことを問おうとして、江戸時代における儒教思想の流入に着目しました。80年代冒頭に雑誌「諸君!」に掲載されて代表作となる「現人神の創作者たち」(ちくま文庫)のアウトラインは、時評として書かれたこの70年代初頭の連載で示されています。
なぜ江戸時代の儒学史を辿ることが、戦後日本の歴史問題やナショナリズムの将来を予告しうるのでしょうか。徳川初期の日本のインテリ層は儒教思想を受容し、その祖国である中国を大変持ち上げた。しかしそれが中途から転じて、むしろ日本を誇り、中国を貶すための道具に変容していった。このパラドキシカルな展開に、山本はその後の日本でも繰り返される、あるパターンをみたのです。……


橘玲 タイトル「日本人は世界でもっとも『世俗的』な民族である」
山本七平は『空気の研究』(文春文庫)で、日本の社会は「空気」と「水」という二種類の“ちから”によって支配されているのではないかと述べた。この卓見が忘れ去られているのは、「空気」についての考察があまりにも有名になったことと「水」の研究が中途半端に終わったからだ。山本は「水を差す」などの例をあげ、「水」は「空気」を崩壊させる一種の消化酵素のようなものだと述べたが、その正体を示すことはできなかった。

国別意識調査の中に、日本、中国、韓国、アメリカの四カ国で「人生の目標」についてアンケートを行ったものがある。回答者は以下の四つの選択肢が示された(複数回答可)。

A.親が私を誇りに思うように努めることが人生の目標のひとつである。
B,他人に迎合するよりも、自分らしくありたい。
C,友人の期待に応えるように努力している。
D,自分の人生の目標は自分で決める。

その結果を見れば分かるように、中国人や韓国人は「自己実現」だけでなく、「親を誇りに思う」とか、「友人の期待に応える」ことを人生の重要な目標と考えている。彼らは家族や世間を強く意識しているのだ。アメリカ人は友人(世間)はそれほど気にしないが、家族からは自分のことを誇りに思ってもらいたいとは思っている。それに対して日本人は、家族や友人たちの期待に反しても自分の人生の目標は自分で決め、自分らしくありたいと強く思っている。……
こうした調査結果を見て保守派のひとたちは「戦後日本の民主教育が悪いからだ」と激怒するであろうが、国別意識調査に現れるような性向は10年単位で変わるものではなく、文化や宗教、社会制度の長い歴史の中で培われてきたものだと考えられている。本稿では詳述する余裕はないが、例えば仏教哲学の碩学・中村元はインド・中国・韓国・チベット・日本の膨大な文献を渉猟し、日本の仏教がインド仏教(オリジナル)を徹底的に世俗化したものであることを明らかにした(「日本人の思惟方法」春秋社)。
…日本人は悟りを得るのに厳しい修業をする意味が理解できず、すぐに御利益のある教えを求めた。そのため死ねば誰でも(修業抜きで)仏になるばかりか、生身の肉体のままで究極の悟りを得る「即身成仏」の思想までが、“創造”された。
究極な世俗性が「日本人の本性」であることを示すために、中村は「万葉集」から大伴家持の次の句を引く。

この世にし 楽しくあらば 来む世には
虫にも鳥にも われはなりなむ

いまが楽しければ、来世はどうなったって構わない…日本人は万葉の昔からそう考えていた。
このことから冒頭の山本七平の疑問にもこたえることができる。日本には「空気=世間」のほかに、「水=世俗」という原理がある。日本の社会で空気の支配が強いのは、そうした拘束がなければ社会がばらばらになってしまうからだ。


橋爪大三郎×大澤真幸 「平成日本にナショナリズムはない」
大澤:ナショナリズムという言葉は19世紀の後半から使われるようになりました。社会科学や政治学や歴史学の観点からみると、人類普遍のものではなく、非常に特殊な現象です。会社や村・町などの自分の所属する集団や共同体、また家族や親族に対して愛着を持つことは、非常に一般的です。しかし、ナショナリズムはそれとは一線を画しています。どこにその違いがあるのか。「想像の共同体」の著者ベネディクト・アンダーソンの考えでもあるのですが、ナショナリズムの非常に重要な特徴は「見ず知らずの人が大半を占めている共同体に対して、自分の故郷や家族に対するのと同じぐらい強い帰属意識を持っているということです。

橋爪:ナショナリズムは18~19世紀の当時は、近代的、先進的なもので、時代精神を反映し、社会を前へ進める、良いものでした。いまはそうではない。歴史の趨勢に反対し、社会や人びとを過去の呪縛へ閉じ込めようとする「反動」です。グルーバル化が進展し、資本や情報がネーションの境界を越えて行き来し、経済実態や社会実態がどんどん拡散して、もともとネーションが人為的に仕切っていた文化や生活実態の分布が、どんどん変容しています。そうするとネーションの土台が脅かされてします。……
冷戦の20世紀はナショナリズムの時代というよりもインターナショナリズムの時代だった。でもその内実としては、ナショナリズムが深化しました。その中から育ってきたグローバリズムは20世紀にはイデオロギー(かけ声)だったのが、21世紀にはもう社会実態になったわけです。ではナショナリズムはどう位置づけられるかというと、この社会実態に対応できない人びとが退却するための、反動形成、心情的な先祖がえりの役割を果たすようになっています。


大澤:一番分かり安い例が橋爪さんがおっしゃったEUですね。あるいは地球全体が、アメリカ合衆国のようなものに、ユナイテッド・ステーツ・オブ・グローブ(地球合衆国)のような方向に向かっている。メインではそうした流れが起きているわけです。そういう中にあって、歴史的使命を終えたはずのナショナリズムが、いろいろな形で露出し、強化されています。最初に注目されたのは、社会主義が崩壊した跡地のような場所で、突然、猛烈なナショナリズムが起きました。僕はこれを、自著で「ナショナリズムの季節外れの嵐」と呼んだことがあります。収まっていくはずなのに、ローカルな範囲で強烈に吹きまくる嵐。メインの現象とサブの現象が逆方向で起きているといったのは、そういうことです。

橋爪:…そんな日本の嫌中・嫌韓はナショナリズムというよりも、プチナショナリズムです。そこには、ナショナリズムの実質がない。中産階級の没落感を補償するというのが、一番大きな心理的エネルギーになっている。

大澤:日本のナショナリズムを考えるときにやはり第二次世界大戦での敗北も効いていると思います。敗戦したという事実を日本人は心理的にうまく受け入れられていない。そのことが屈折に屈折を生んでいる。はっきり言うと、日本人は敗戦という事実を否認している。とはいえアメリカに負けたことだけは否定できないので、アメリカを自分たちを救済する解放軍だったかのように考えることでごまかしている。そして、中国に負けたことはすっかり忘れている。だから、中国や韓国が戦争やかつての植民地支配に関して何か言うと、日本人は異様に腹が立つんです。……
在特会は特権を持っている在日外国人に文句があると言いながら、在日コリアンのことしか考えていません。しかし在日コリアンには、日本人が羨ましく思う特権などありませんよ。日本にいる外国人で明らかに特権があるのは、在日米軍です。特権を許さない在特会が在日米軍に対して文句を言うなら分かるけれども、最も弱者に近い在日コリアンに対してだけ言う。何の責任もない在日コリアンしか思いつかないということ自体、日本における国際関係のいびつさを反映している。そこに明らかにおかしな非対称性があるのは、やはり日本におけるアジアの見え方とアメリカの見え方の違いと関係しているんですね。


以上、私が特に面白いと思った部分を一部ピックアップしてみた。結果的に、どちらかというとリベラル派と思われている方々ばかりを紹介したかもしれないが、誤解がないようにいうと、いわゆる保守派とか右翼的といわれる人々の論をわざと避けたというわけではなく、彼らの考え方や見方があまりに型にはまって創造性がなく面白みがないからである。これは考えれば昔とまったく逆の現象である。昔は左翼の考え方の方が型にはまっていて面白みがないと思っていたが、それが逆になっているように思える。もう少し正確にいうと、いわゆる昔の左翼というのはとっくに退場し存在さえしていないのに、かつての健全な保守といわれる人々の考え方が、むしろリベラルというレッテルを貼られて、より極端な右派から攻撃されているという方が正しいのではないか?彼らは旧態依然のイデオロギーの対立を信じており、その古い枠組みの中でしか物事を判断できない。そういう人々ではないかと思う。だからまったく新鮮味がなく創造性も感じられないのである。


最後に私自身の考え方を述べてみたい。

昔、アンチ・ダーヴィニストのアーサー・ケストラーという人が「ホロン革命」という本で指摘していたことだが、すべての生き物には必ず「個」の顔と同時に「全体」の顔をもっている。このもっとも分かりやすい例は粘菌類である。この生物は通常は単細胞のアメーバーのように「個」として生きているのだが、食糧が枯渇してくると自然と集合し、まるで一個の有機体のように行動するようになる。この粘菌類が最高度に進化した生き物が人類に他ならないとう見方ができるのではないか。この見方によると、人類が戦争という愚行を繰り返してきたのは食糧の奪い合いがその主な原因であったといえる。(ちなみにこの粘菌類の不思議な生態は南方熊楠が生涯の研究テーマとしていたことでも有名である。)

確かに内田樹や岸田秀や橋爪大三郎ら各氏が指摘するように、ナショナリズムというのは人類の歴史の中ではわずか二百年そこそこ前に芽生えた意識である。日本では江戸時代以前には国家という共同体はほとんど誰にも意識されていなかった。その当時の共同体は「藩」という小さな単位であり、内田樹によれば、「藩」という言葉さえも昔は使われず、人々の意識の中では「藩」=「国」だったのである。つまり「日本」という国家意識は明治以降に初めて意識された共同体であり、この共同体が万古不易のものであると信じた人々が「国益」のための無謀な戦争をやって、結局その戦争で最終的には原爆を落とされ無残な敗北を喫した日本人は、まるで粘菌類がばらばらになるように共同体から離れて元の「個」に解体されたとみることができる。ところが一部の日本人はかつての有機体のように一つになっていた時代を必ずしも悪い時代であったとは思えず、その解体後の利己的有り様を「保守」という価値観から批判しているだけではなかろうか。

思えばこのような保守の思考の中身は井戸の蛙と同じで、わずか百年か二百年の世界を万古不易のものと信じて、それを信じない者を「売国奴」とか「国賊」というような言葉でののしり排除しようとしているだけであり、そこに決定的に欠けているのは歴史的合理的な視点である。

井戸の中から踏み出して、より広い歴史的な視野でみるならば、ナショナリズムというのは一つの歴史的必然ではあったとしても、決して永遠不変のものではありえないことが分かるはずである。今世界がどのように変わりつつあるのかということをみると、まさに幕末に起きたことがより高次元に展開されつつあるという認識はもはや否定できない。冷戦の崩壊後に起こっている様々な複雑な現象はその大きな流れの一部であるとみなければならない。

すなわち大澤真幸氏がいうように、「地球全体が、アメリカ合衆国のようなものに、ユナイテッド・ステーツ・オブ・グローブ(地球合衆国)のような方向に向かっている。メインではそうした流れが起きている」のであり、そのような考え方を受け入れなければ幕末に取り残された人々と同じ運命を辿ることになるだろう。たとえナショナリズムを肯定するにしても、それがわれわれにとって常に最上位にあるものでなければならないという考えはもはや時代遅れになっているという認識をもたないと、世界の流れから取り残されることになるのではないか。
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