3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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小保方現象の異様さ

ここ何週間か続いている小保方さんをめぐる異常な騒動について(小保方さんには誠に失礼ではあるが)これをSTAP現象ならぬ小保方現象と名付けさせてもらう。この現象をみていて、さまざまなことが私の頭に去来した。まず思い出したのは1857年7月1日のイギリス・リンネ学会での出来事である。何のことかというと、これは科学史上でも最も有名な或る学説が発表された日である。その学説とは今日では小学生でも知っているダーウィンの進化学説である。正確には「自然選択と分岐の理論」と名付けられて、この理論の概要がわずかな科学者たちや記者の前で発表された。忘れてならないのは、この理論はダーウィン一人の学説ではなく、もう一人の学者との共同学説として発表されている。その人の名前は今日あまり知られてはいないがアルフレッド.L.ウォレスという名のアマチュアの自然学者であった。ただし、その発表の席にはウォレスはいなかった。それどころか、ウォレスは自分の学説がダーウィンとの共同学説としてリンネ学会で発表される予定があるということさえも知らされていなかった。

「えっ!そんなことがあるのか?」とびっくりするかもしれないが、なぜそうなったのかというと、ウィレスは当時リンネ学会が行われたイギリスにはいなくて、遠くボルネオの奥地で研究生活を送っていたので、電話も通信機も航空機さえもない時代に本人と連絡をとることは難しかったのである。それにしても本人の許可もとらずに勝手にダーウィンとの共同学説として自分の学説を発表されたウォレスは怒らなかったのかという疑問をもつ方もいるだろう。今の常識では、こんなことはもちろん考えられないが、当時のイギリス社会は貴族社会であり、ダーウィンは由緒ある貴族階級に属し、一方ウォレスは平民階級であったので、こういう人権を無視したことも平気で行われたのであろう。そもそも当時のイギリスでは自然科学という分野は時間とお金の余裕がある貴族の人々の間でのみ関心がもたれたので、大學さえも出ていない平民階級のウォレスが貴族の組織であるリンネ学会にその名を刻まれること自体がウォレスにとっては名誉である(はずだ)と、勝手にダーウィンと彼の相談役であった地質学者のライエルが相談して決められたのである。実際、ウォレスはのちにこの発表を知って怒るどころか、むしろリンネ学会で自分の学説を認められたことに対して(当然のごとく)感謝をしているので、その発表は必ずしも人権無視だったとはいえないかもしれない。

しかし、このときのリンネ学会の発表にはそれよりもっと重大な疑惑がもたれても当然なほど不自然な点が多い。そもそもダーウィンとウォレスの共同学説とされながら、ダーウィン自身の学説の根拠がきわめて乏しいのである。ウォレスの学説は当時の権威ある科学誌に掲載され、第一級のレベルのものであると当時の科学者にも認定されたほどだからウォレスの学説には十分な根拠があったが、それに比べてダーウィンの学説はそれまでどの雑誌にも掲載されたことはなく、これといった優先権の証拠もなかった。ただダーウィンには当時のリンネ学会のボス的存在であった地質学者ライエルという強い味方があり、それと親友の科学者フッカーの協力などもあり、その学説はウォレスが投稿した論文によって認知される以前にダーウィンが同じ仮説に基づき研究を続けていたという彼らの間接証言によって、ダーウィンとウォレスの両者に優先権があるということが認められた。ちなみに、このリンネ学会で提出されたダーウィンの優先権の証拠とされた物証というのは、フッカーに渡した進化論に関するラフスケッチとアメリカのエーサ・グレイという植物学者に宛てた(ウォレスの論文に相似する)手紙だけであり、それ以外にはこれといった物証もなかったのである。ただし、エーサ・グレイに宛てた手紙の内容は、ウォレスがそれ以前に発表していた別の論文の剽窃ではないかという疑惑がかけられている。(参考:アーノルド・C・ブラックマン著「ダーウィンに消された男」朝日選書)

もちろんダーウィンの進化論が本当に認められたのは、このリンネ学会の発表から約2年後に出版された「種の起源」によっているので、ダーウィンが今日の進化論の生みの親であったという認識が間違っているというつもりはないが、その陰で自らの学説の優先権を確保するために疑惑のある発表がなされたという事実は消すことができない。科学史の一大ミステリーとも称されるこれほどの疑惑に比較すると、今回小保方さんに対して向けられている疑惑は学者たちの基準に合格していないというものにすぎず、これを「捏造」とか「改竄」とかいって非難するのはあまりにステレオタイプにすぎるのではないかと感じられる。小保方さんの論文に古い写真の使いまわし等の不正があったとされているが、この結果、小保方さんの発見そのものに疑惑がもたれるのは仕方がないとしても、この疑惑だけで小保方さんを世間周知の場で断罪するというのはまるで中世の魔女狩りを想起させるほど異様な光景にみえた。

面白いことに、小保方さんの不服申し立ての会見があった翌日、朝日新聞(大阪朝日)の夕刊一面には「小保方会見 私は思う」という異例の見出しが躍っていた。
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この会見に即座に反応した一般の国民もまるで裁判官にでもなったつもりなのか、小保方さんに同情する人と非難する人の二派に分かれてあらぬ論争に発展しているようにみえる。この論争の中で面白いと思ったのは非難派の言い分である。ある知り合いの人物が「小保方さんは国益を損ねたから非難されるのは当然だ」とまでいうのを聞いて、私は少々考え込んでしまった。おそらくこの人の意見は非難派の人々の心中を代表するものとみてもよいのだろう。ただし、この場合の「国益」は、次のような二つの意味にとれる。

一つは小保方さんの論文の失策は(それが故意であろうとなかろうと)日本の国際的評価を貶めたということであり、もう一つはスタップ細胞が(捏造であろうと単なる勘違いであろうと)虚偽であったとした場合の「国益」の損失である。おそらくそのように非難している人は後者の前提でそういっているのだろうと思うが、仮にそうだとすると、それこそ勘違いもはなはだしい。今現在の時点ではスタップ細胞の発見が虚偽であったという事実認定はされていない。この事実認定は今後の検証チームにまかされているはずであり、その白黒がはっきりとするのはまだ当分先のことである。つまりそのように非難している人は、勝手に「スタップ細胞は虚偽にちがいない」と思いこんで、だから「国益」を損ねたといっているのではないだろうか?ただし、この場合の「国益」とはスタップ細胞の発見が真実であった場合のプラスに比べてその損失が大きすぎるといっているのか、それとも虚偽をさも真実らしく発表した迂闊さが「国益」を損ねたという意味なのかよく分からないのであるが、おそらくこれは前者の考え方に基づいているのであろう。つまりスタップ細胞の発見が真実であった場合に比べて、その国益上の損失があまりにも大きすぎるという意味なのであろう。もっと分かりやすく言えば、スタップ細胞に対する期待があまりにも大きかったために、その期待が裏切られたための失望の度合いが大きすぎるということではないか?

仮にそうだとすると、ちょっと待てよと言いたい。期待させられながら失望を味わった反動は確かに大きいかもしれないが、その責任は期待を抱かせた側にあるといえるのであろうか?仮に小保方さんが本当に虚偽を捏造したという話であるなら、その怒りの矛先が小保方さんに向けられるのも分かるが、そうではなくスタップ細胞の発見が小保方さんの単なる勘違いであったとすれば、彼女を責めることはできないはずだ。なぜなら勘違いは誰にでもあることであり、それでもって非難に値するとすれば、その種の非難はどんな人も甘受しなければならないものとなる。さらに期待が失望に変わったことは、決して被害を受けたことと同じではないので、その失望感の責任を期待を抱かせた側に向けるのもお門違いというものである。期待をさせた側に責任があるとすると、小保方さんだけではなく、マスコミにも責任があるであろうし、何よりも小保方さんの発見を十分な検証もせずに発表させた理研にも責任があるはずだ。だとすれば彼らが怒りをぶつけるべき対象は理研でありマスコミでもなければならないはずだ。しかし期待が失望に変わったというのであれば、そもそも期待した側にも責任があるのではないか?ただ勘違いしないでほしいのは理研の調査委員会が小保方さんの論文に不正があったと認定したのは、決してスタップ細胞の発見が捏造であったということではないことである。仮に今後の検証でスタップ細胞の発見が真実であったということになれば、それらの非難はすべて雲散霧消する類のものではないか?だとすると、それらの非難は早とちりに基づく錯覚的な感情にすぎないものであったということになる。

「国益」というと思い出すのが、昨年9月のアルゼンチンでのオリンピック招致合戦である。あのとき安倍総理は「汚染水は完全にブロックされています」という言葉を堂々と言い放って問題となったが、大方の国民はオリンピック招致のためにはやむをえないと考えたのか、その言葉の問題性は安倍総理の大きな失点とはならなかった。この場合、「国益」とはつまり「嘘」をついてでも許されるほど大事なものといってもよいのであろう。

ところが不思議なことに今回は小保方さんの論文に「嘘」が発見されたので、これが「国益」を損なったというのだからわけが分からなくなる。もしオリンピック招致の「国益」のためには「汚染水は完全にブロックされています」という「嘘」も許されるというなら、小保方さんの「嘘」もノーベル賞受賞の「国益」のためには許されてもしかるべきではないか?そのような皮肉を言いたくもなる。それに安倍総理の「嘘」と小保方さんの「嘘」を比べれば、明らかに前者の方がはるかに深刻であり、また故意(あるいは悪意)の度合いの強い「嘘」であるといってもよいだろう。この二つの「嘘」と「国益」の対比を考えると、日本人というのはいったいどういう神経をしているのであろうかと本当に分からなくなる。

もしかすると日本人というのはダブルスタンダードどころか、トリプルスタンダードでもフォーススタンダードでもなんでもござれ、その場その場で「国益」のための「嘘」は許される場合もあれば許されない場合もあるということで、もともと律儀な一貫性という殊勝さはもちあわせてもいないと考える方が正解かもしれない。あるとすればその場の「空気」によっては、「嘘」も「本当」になり、「本当」が「嘘」になることもある。そう考えると、安倍総理がアメリカの圧力に屈した形で「村山談話と河野談話の継承」を口にしたのも「本当」めいた「嘘」なのかもしれないとも思えるので、あれほど「村山と河野は売国奴だ」と口汚く罵っていた右派のお偉方も文句一ついわないのではなかろうか?つまり日本教では空気次第で「嘘」は「本当」に化け、「本当」が「嘘」に化けることも問題なく、その化かし合いこそが日本教の奥義であるといっても差支えないのではあるまいか。

しかし、これが小保方現象の正体なのかと思うとちょっと情けない話だ。私が「国益を損ねた」という言葉に違和を感じたのは、そう非難をする人々の発想の貧しさがみえみえだからである。スタップ細胞の発見が事実であるとすると、これは国益に資するだけではなく、科学界に革命を起こすほどの素晴らしい発見である。ファラデーの発見やワトソンとクリックの発見が人類の共有財産になっているように、あるいは山中伸弥氏のIPS細胞の発見も同じく人類の共有財産になったように、それらは人類の進歩に偉大な貢献をしたからこそ評価されているのであり、「国益」というような低次元のものではないはず。しかし、そのような「国益」中心の発想しかできない人々が日本人には多いということは日本人の次元の低さを物語っており、それこそが日本人の国際的評判に悪影響を及ぼすものではなかろうか。この騒動で日本人というのは国益のことしか関心がないのかと海外の国々から評価されるとすれば、結果的にはそのことによって逆に国益を損ねるのではないか?

小保方非難に与する人々の発言でもうひとつ気になるのは、これは主に学者やジャーナリストの人々の批判にみられるのであるが、小保方さんの論文の不正に対する批判が過度にすぎるのではないかと感じられる点である。小保方さんは学者としてレベルが低すぎるとかそういう類の批判が見受けられるが、そんな批判は科学上の新発見にとって本当はどうでもいいことである。発表の手順がどうであろうと、論文としてのレベルがどうであろうと、あるいはたとえその過程で不正が発見されたとしても、その発見が真実であるのかどうかということだけが科学上の問題であらねばならないし、それ以外のことは本来二次的な問題である。どんなにレベルの高い論文であっても、その仮説が真実のものでなければ、そのような論文には何の価値もないし、また逆にどんなにレベルの低い論文であっても、それが真実の発見であれば後世に残るものとなる。問われるべきは小保方さんの発見が真実であるのかどうかということだけであり、それ以外の問題を強調して批判するのは本末転倒というべきであろう。

名著「科学革命の構造」(みすず書房 1971)を著したトマス・クーンによると、科学革命というのは通常科学を生業とする専門家の仕事よりも、むしろ通常科学の枠をはみ出すようなスタイルの非専門家の仕事から生まれてくるものだとされている。通常科学というのはすでにあるパラダイムの下で、そのパラダイムを補強する小さな事実を積み上げるのに貢献するような研究のことであり、ほとんどの科学者はこのような通常科学の研究によってその生活を保証されている。一方、パラダイムを変えるような大きな変革をなそうとする科学者は異端視され、まともな生活は保証されない。それどころか彼らの独自の研究は通常科学を生業とする科学者からしばしば重箱の隅を突かれるような批判にさらされることになる。なぜなら、すでに認められている科学上のパラダイムは確固としたものであると信じられているので、その体系はそう簡単に崩れることはありえないと思われているからである。

小保方さんの論文に不正があるということを強調する学者たちは、主に通常科学の信奉者であり、彼女の仮説があまりに大胆であることに対して異議を挟もうとしているのではないであろうか?もちろん、その種の異議は正しい論拠に基づく限り当然な異議であり、すでにあるパラダイムからの異議を唱えることによって、新しいパラダイムを唱える仮説の真偽を論じることはむしろ絶対に必要なことである。ただ誤解されてはならないのは、論文に写真の切り張りやコピペなどの不正があったからといって、この仮説を信じられないという最終結論の根拠にすべきではないということである。ましてや科学の結論とは無関係な人格的批判というものはすべきではないだろう。

ついでになるが、この騒動で思い出したもう一つの出来事がある。それは明治40年代に起こった千里眼事件と名付けられた事件である。この事件は御船千鶴子という超能力をもっているといわれた女性の能力の真偽を確かめるために東大教授がさまざまな実験を試み、これらの実験の多くは成功したが、ささいなことで不信感をもたれてしまい、結局、御船千鶴子はペテン師だという噂が広まり大バッシングを受け、最後は御船千鶴子本人の自殺という顛末になった。この後、実験を試みた東大教授まで非難され辞職に追い込まれている。これはいわば日本最初の魔女狩り事件とでもいうべきであろう。小保方現象とこの千里眼事件にはいくつもの共通点があるのではないかと思う。そこには「世間」という名の空気に安易に呪縛されるわれわれの社会特有の危険性があるのではないだろうか。
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