3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

日韓の歴史問題 その4 条約で騙し続けた日本 日清戦争から日露戦争まで

一昨年の12月に安倍政権が樹立されてから一年と一か月になるが、その安倍政権よりも一か月余り後に生まれた韓国の朴槿惠政権との間でいまだに首脳会談が実現しないというのは確かに異常なことではあるが、これに対する日本政府と日本人一般の反応をみていると、まるで明治時代初期の征韓論を思わせるように居丈高にみえるのは私だけであろうか?

このような異常事態を招いた経過について、よく考えていただきたい。安倍総理は政権発足後すぐに「河野談話と村山談話の見直し」をほのめかし、従軍慰安婦問題については「強制連行の証拠はない」という発言、さらに「戦後レジームからの脱却」はたまた「侵略という言葉の定義は定まっていない」というような発言を繰り替えして中韓のみならずアメリカからも厳しい批判があった。さらに昨年四月には恒例の靖国神社例大祭に主要閣僚が参拝し、安倍氏は参拝を控えたものの玉串料を奉納して、あくまでも靖国に対する自らの思いが不変であることを内外に印象付けた。

このような安倍総理の(かつての自民党のどの総理にもなかった)極右体質が韓国の人々に歓迎されないのは当然のことであろう。お互い首脳会談をやるからには無表情のまま握手をするなどという不自然な行動はできない。互いに笑みを浮かべて和気あいあいの雰囲気を作り出すのが礼儀というものである。しかし朴槿惠大統領にとって安倍総理と笑みを浮かべながら和気あいあい歓談する気分にはどうしてもなれないのは無理もない話であり、それに対する何の理解も配慮もなく、朴槿惠大統領に対して多くの日本人が傲慢極まりない人物だと一方的に非難をしているのはいかがなものか。

これは明治初期の征韓論とまったく同じ構図である。当時、日本に明治新政府が発足した後、長い付き合いのある隣国に王政復古を通告し新たな国交を結ぶべく、日本は朝鮮王朝に対馬の使節を介して国書を送った。しかしながら、その国書の中に当時の朝鮮王朝が絶対に容認できない二つの言葉があった。それは「皇」と「勅」という言葉である。「皇」というのはローマ皇帝という言葉にも使われるように、帝国主義的野心を秘めた言葉であると解釈され、また「勅」という言葉は日本の皇帝の臣下になれということを意味しているものと解釈された。それまで朝鮮王朝にとってその言葉を使用することが許されるのは、彼らの宗主国である清王朝だけであり、かつて秀吉のときに侵略された憎むべき東夷の国(当時の中華秩序から見て東の果てに位置する蛮族の意味)からそのような言葉をちらつかせて来られるのは、何か魂胆があるにちがいないと思われたのであろう。

彼らがそのように警戒したのは無理もなかった。事実、その約40年後にはまさにその言葉の通り日本国天皇の臣下にされてしまったのであるから、彼らの警戒心は決して理由のないことではなかったといえる。

しかし当時の明治政府は朝鮮王朝が国書に対し受理もせず送り返してきたことに対して、「無礼である」とか「侮辱である」とかいって、いっきょに征韓論が高まっていった。これがきっかけで韓国を討つべしという強硬論が政府内部で勢いをもつようになるのであるが、この後、政権内部の征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助らが敗れ、彼らは下野することになるが、やがてほどなく反征韓論であったはずの岩倉具視や大久保利通、木戸孝允ら政府主流派は江華島事件を起こし、まさに彼らが否定していた武力でもって征韓を実行したのであった※。

※後の時代に西郷隆盛は征韓論者だったというレッテルを貼られるが、彼の主張は武力征伐を意味するものではなく、自らが使節となって国交樹立を実現させたいというものであったとされる(ただし、板垣退助は実際に武力征伐を唱えていたらしい)。また前にも述べたように西郷は下野してから政府の強引な江華島事件を聞きつけ、これに憤慨し批判していたことからもいえるように、西郷が征韓論者であったというのは、明治政府の悪意のレッテルではないかという気がする。

いずれにしても、当時の日本と韓国の関係は現在の両国の険悪な関係に驚くほどよく似ている。明治の政府も現在の日本政府と同様、なぜ韓国(朝鮮)はわれわれと会談しようともしないのかという不信感をもっており、これを「無礼である」とか「侮辱である」という道徳的な非難に直結させていたのであるが、これはよく考えると日本側の物差しを相手側が採用しないことに対して抱く自己中心主義史観の反映であろう。

前にも紹介したが、故山本七平氏の言葉をもう一度かみしめてみたい。

私が会った韓国の人は、現状を肯定するにせよ批判するにせよ、常にそれを、李朝時代、日本統治時代、朝鮮戦争時代といった長い歴史の中の「一つの時期」として考え、その現状を「自民族の歴史の一貫」として、過去との対比と将来への展望の中に位置づけてこれを見ていることを感じざるをえなかった。そしてこの歴史的位置づけの中で日本の統治時代は、もちろん大きな比率を占めている。この点の韓国人の感じ方は、決してわれわれと同じではない。彼らはわれわれのような忘却の民ではなく、過去が流れ去ってしまうわけでもない。(中略)
日本の新聞の「韓国報道」には以上の視点がない。この点西欧よりもむしろアメリカの世論に似た面があるが、調べてみると、少なくとも韓国に関する限りこの傾向は戦後の特徴ではなく、戦前、否、明治以来ほぼ一貫している「日本人の韓国観」だともいえる。その特徴は日韓を区別できず、そのため「韓国の歴史において韓国を見る」ことができず、日本の現状を絶対の尺度として相手を批判し規制しようとするアメリカ的態度である尺度とはいうまでもなく、戦後は「アメリカ輸入・日本型民主主義」であり、戦前は「プロシャ輸入・日本型君主制」であった。そしてこの輸入先に対しては常に従順なのだが、韓国に対して少なくとも日本の新聞は「自己の尺度」を絶対化し、日本というベッドに適合するように体型を変えよと韓国に要求する態度になっても、相手が相手の歴史という自らの尺度で自己を評価する権利を認めようとしなかった。


ついでながら、このあとに続く文章も引用しておく。

アメリカは頑迷に自己の基準を守るからまだよいが、日本は、絶対化して韓国にまで強要する自らの尺度を、何かの拍子に日本自身がパッと捨てて、くるりと百八十度転換し、次の日から全く別の尺度を絶対化し、今度はその尺度を韓国に押し付けてくるという事態が起こらないという保証がどこにもない。そして日本はくるりと変われば前日のことは消えてしまう。「日本人は永遠の裏切り民族だ」と李承晩元大統領は生涯言い続けたそうである。彼は明治以降の日本の対韓政策を永々と説明し、戦後における日本人も「最後には裏切る、絶対信用してはならない」と結論づけ、これを、耳にタコができるほど聞かされたという欧米人記者も少なくないという。

そして韓国人から見れば、日本という「君子国」の豹変は何も40年前の「一夜にして民主主義」だけではなかった。明治以来の対韓外交史は彼らの目から見れば日本豹変史だともいえる。明治維新も彼らの目から見れば開港派と攘夷派の激烈な闘争である。そして攘夷派が勝った。しかし勝った途端に攘夷派は開港派に豹変し、豹変した瞬間に韓国にも開港を迫った。また不平等条約の押付に憤慨していながら、同じ不平等条約を韓国に押しつける。-韓国側からみれば、どうもこの辺からすでにおかしいのである。ついで、日本は一貫して韓国が独立国であることを主張し、日清戦争後には韓国を軍事的に強化して自己の同盟国にするつもりがあったらしく、陸士に1896年(明治29年)から急に留学生を受け入れ、1909年(明治42年)までに合計63名が来日しているが、その翌年には日韓併合を強行してこれを打ち切っているそして一視同仁とは言うものの、韓国人の士官学校入学は45期まで実質的に拒否している。-ほんの小さな一例だがこういった例をあげれば枚挙にいとまなしであろう。従って、今日の新聞の基準が明日にはくるりと変り「善意」をもって新しい基準を日本がまた韓国に押し付けてくるという事態が起こらないという保証はまったくない。そしていや過去はいざ知らず、将来は絶対にそういうことは起こりません」と断言できる日本人も、またいないだろう。(「
洪思翊中将の処刑」山本七平ライブラリー文芸春秋 P56-57)


あらためて断わっておくが、この文章は今から35年も前のものである。この文章をみると、山本七平氏の言葉はまるで預言者のように正確に未来を予測しているのに驚かざるを得ない。

故山本七平氏がいうように、隣国に対する日本の「善意」というものは所詮このようなものでしかなかったということは、今も昔も同じではないかと思われる。最近、「日本は韓国によいことばかりしてきた」というような日本善玉論の本が平気でまかり通っているのをみると、日本人のいう「善意」の意味は昔から全然変わっていないのであろう。というより、最近のネット右翼たちの大量繁殖をみていると、もしかすると日本人は先祖がえりを起こしているのではないかとさえ思う。

ここであらためて、日本がいかにして韓国(朝鮮)に対して「善意」という名の押し付けで騙し、最終的には併合にまでもっていったのかという経緯について少しく検証してみたい。

1875年の江華島事件の後、朝鮮王朝は圧倒的武力の差に恐れをなし開国の要求を飲むことになった。ここで日本は朝鮮に対して(自らがアメリカに強いられたのと同じような)不平等条約(日朝修好条約)を結ばせることに成功している。この条約は治外法権とか関税自主権の放棄という項目を認めさせたものであり、これによって日本はただ単に貿易上の利益を得ただけではなく、将来の朝鮮半島の植民地化という方針の橋頭保となるのである。ただし、当時の朝鮮はこの条約が不平等条約であるということはまったく知らなかった。その彼らの無知につけ込んで、日本がこれは両国の互恵関係にとってよいものだと押し付けるので、それを仕方なく受けたというのが真相だろう。

特に重要なのはこの条約の第一款に記された次の条文である。
「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。」

これのどこが問題なのかと思われるかもしれないが、わざわざこの一文を条約の第一款として書いたのは、朝鮮が清国の属国ではないということを両国の間で認めることを意味しており、これは後々併合にいたる布石としても重要な意味をもつものとなった。

もちろんこの時点では、朝鮮にとってもこの条文は当然のことであり、むしろ日本が朝鮮を対等の国として認めているという風に善意に解釈し悪い気はしなかったであろう。しかしながら、この条文があったために、以後の日清日露の戦争が始まったのだということを、後々彼らは気づくことになる。なぜなら日清日露の戦争は「朝鮮の自主独立のために」という大義名分をうたったものだからである。

どんな戦争でも、それが(真の)自衛戦争でないかぎり戦争を起こすためには必ず大義が必要である。すでに述べたように日清戦争のときは朝鮮の自主独立のためという大義をうたい、これを始めたのである。もちろん朝鮮の人々は決してそれをそのまま信じている者はいなかった。元々は反日的な意図を内包した農民一揆(東学党の乱)を押さえつけるために朝鮮政府が清国に派兵を求めたことがきっかけであり、このとき日清両国の間でいずれか一方が朝鮮に派兵をした場合、もう一方の国も派兵する権利をもつという取り決め(天津条約)を日清両国間で結んでいたために、これさいわいとばかりに日本も派兵を決定したのである。当然、その派兵は清国と戦争を始めることが目的であった。その前に、この天津条約を交わすきっかけとなった甲申事変について少し説明したい。

甲申事変というのは日清戦争より10年前の朝鮮王朝内部で起こった親日開化派によるクーデターのことであるが、この事件は実は日本政府が後ろで糸を引いていた事件であった。事件の首謀者金玉均らが福沢諭吉の招きで来日し、福沢は彼らに文明開化の必要を説いて、彼らを親日開化派に育て上げた。その後、彼らは故郷で同志を増やし、そして日本軍の力を借りてクーデターを起こそうと決意する。

事件の詳細については省く(詳しくはwikipedeaを参照されたい)が、この時、日本は朝鮮王朝内部の矛盾を利用して親日派を背後で操りながら、あわよくば日本にとって好ましい親日政権を樹立させようと企んだのである。もちろん福沢諭吉自身は純粋に朝鮮にも文明開化をもたらしたいと考えたのかもしれないが、中華文明の中でも最も模範的な儒教国家として誇り高い彼らに対して、日本式文明開化を移植しようとする試みは容易ではなかったし、またそれを血なまぐさい殺傷を伴うクーデターで実現させようとしたことには無理があった。

このクーデターは一時的には成功したが、ほどなく清国の軍事介入によってクーデターを実行した一味はことごとく逮捕され処刑された。このときの経験が後々の日本の朝鮮政策を変えたといえるであろう。福沢諭吉はこのクーデターの失敗によって「脱亜入欧」ということを言いはじめ、もはやアジアにはなんら学ぶべきものはないという考え方に変わったといわれる。しかしながら、前にも紹介した勝海舟のようにアジアは団結しなければならないと考える人々もいたが、これについてはまたあとで触れることにする。

いずれにしてもこの事件の失敗によって日本は一つのことを学んだのである。それは朝鮮を支配するためには、どうしても清国の影響を排除しなければならないということであった。すなわち清国と戦争をしてでも、彼らの影響を完全に排除しなければ朝鮮を支配することはできないということである。このとき以来、日本は近い将来清国と一戦を交えることを計画し、着々とそのための軍事力増強に努めたとみてまちがいないだろう。

一方、清国はこの甲申事変のときに日本の近代装備された欧式軍事力に驚嘆したはずである。甲申事変のときは日清両国の軍隊が一時的に対峙することはあったが、全面衝突することはなかった。しかし、いずれは軍事的に衝突する日が来るかもしれないと清国側が危惧していたとしても不思議ではない。この事件がきっかけで交わされた天津条約というのは、そのような清国側の危惧によって結ばれたのではないかと思われる。

先にも述べたように、この条約には両国のいずれかが朝鮮半島に派兵する事態が発生した時には、互いに通告し合い、もう一方の国の軍隊も同時派兵する権利があるという奇妙な約束があった。よく考えれば、これは清国にとって何のメリットもない約束である。なぜなら朝鮮はもともと清国の属国であるから、何か事があったときに清国が派兵する権利を有するのは自明なことであったはずだからある。しかし、この甲申事変のときに日本の近代的軍隊を目の当たりにした清国は将来不測の事態が起こって両国が衝突しないように、今のうちに紳士協定を結んでおいた方が得策だと考えたのかもしれない。

だが、日本側にとってはこの紳士協定を利用しない手はなかった。近い将来、清国を圧倒する軍事力を身につければ、次に何かの事態が生じたときには、合法的に軍を派兵し、(その気になれば)容易に戦争を起こすこともできたからである。

1984年、農民一揆(東学党の乱)が起こったとき、朝鮮政府はこれを鎮圧するために清国に派兵を求めたが、彼らは天津条約については何も知らないために、日本軍が同時にやってきたことに驚いた。ただし、このとき驚いたのは朝鮮政府だけではなく、反乱に立ち上がった農民たちの方も驚いたのである。この結果、日本兵が鎮圧に来たことを知って、彼らは反乱をあきらめ早々と退散してしまったのである。

本来なら、これで両国の派兵の意味がなくなり、互いに兵を引き上げるのが当たり前だが、これさいわいと清国との戦争を覚悟して朝鮮に乗り込んできた日本軍は漢城(ソウル)に居座ったまま帰ろうとしなかった。一方、清国軍の指揮官袁世凱は一人先に帰国してしまい、清国軍は最高指揮官のいない状態で日本軍と対峙しあうことになる。彼らが日本と戦争を望んでいないことはたしかであった。その証拠に清国の方は互いに同時撤兵しようと提案をしてきたが、日本側は一向にそれを受けるつもりはなく居座ったままであった。そこで自然と両軍の間の緊張は高まっていく。

このとき日本は清国と戦争をしたくてうずうずしていたわけだが、しかし、何の大義もなしに戦争を始めると、それは一方的な侵略戦争ということになり国際的な信用を失うことになる。だから日本は清国と戦争するために、「朝鮮は自主独立の国である」という日朝修好条約第一款の条文を利用し、これを名目上の大義として戦争を始めたのである。つまり日本は条約にうたっている朝鮮の自主独立のため清国の朝鮮支配を打ち砕くことが戦争目的であるとしたのである。このため日本が朝鮮派兵後にしたことは朝鮮の王宮を占領し、彼らを無理やりに日本の味方につけることであった。これ自体、明らかに朝鮮に対する侵略行為であったが、巧妙にもその意図を隠し、あくまでも朝鮮政府が日本の味方であるということを海外に印象付ける策略がとられた。

日清戦争の火ぶたが切られたのは、この日本軍による朝鮮王宮占領の成功後であったということをみれば、明らかにその意図が見えてくる。王宮を占領した日にちは1894年7月23日であり、この一週間後8月1日に日本は清国に対して宣戦布告をしている。この間、王宮内では国王高宗が虜にされ、そして失脚していた国王の実父・大院君が施政者として擁立され、日本と同盟を結ぶことを強要されていた。早く言えば王の一族を拉致監禁したうえで、攻守同盟の共同声明をだすように強いたのである。もちろん大院君とて喜んでそれに応じたわけではないが、なんとか日本は8月20日に「暫定合同条款」をださせ、そして26日には「大日本大朝鮮両国盟約」がだされた。

この暫定合同条款及び大日本大朝鮮両国盟約とはどういうものであったのか、海野福寿著「韓国併合」(岩波新書)から引用しておこう。

大島公使と金允植外相が調印した「暫定合同条款」は、つぎのような内容からなる。(1)朝鮮内政改革の施行、(2)漢城―釜山、漢城―仁川間鉄道の早期敷設、(3)漢城―釜山、漢城―仁川間の軍用電信(開戦前に無断架設)の条約化、(4)全羅道内に貿易港開港、(5)王宮占領事件の不問、(6)朝鮮「独立自主」のための日朝委員による合同会議開催、(7)王宮警護の日本軍の撤収、である。侵略の事実を覆い隠すかのように、その前文には「朝鮮国の自主独立を鞏固にし」、両国間の貿易振興、国交親密のためこの条約をむすぶ、と記されている。

ついで6日後の8月26日、「大日本大朝鮮両国盟約」が調印された。それは第二条で「日本国は清国に対し攻守の戦争に任じ、朝鮮国は日兵の進退及び其の糧食準備の為め、及ぶ丈け便宜を与うべし」と規定した、れっきとした攻守同盟条約である。
(海野福寿著「韓国併合」岩波新書P95)


このようにして日本は無理やりに日清戦争の大義を作ったのである。

下の年表をみてもらえば分かるとおり、明治政府は江華島事件で朝鮮に武力で威圧して日朝修好条約を結ばせてから、ほぼ10年単位で大きな事件が起こっていることがわかる。

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江華島事件は1975年であるが、それから約10年後に甲申事変が起こり、それからさらに10年後に日清戦争が起こり、そしてさらに10年後に日露戦争が起こっている。これは必ずしも偶然の結果ではなく、ある意味で計画的に準備されたものとみることもできる。つまり江華島事件後に次のステップとして親日派を育てクーデター(甲申事変)を起こさせたが、この失敗の経験から次は軍隊を増強し清国を排除しなければならないということを学び、また日清戦争の勝利以後は新たな脅威となったロシアの南下政策に対抗するために、さらに軍事力をグレードアップして対ロシアとの戦争準備を着々と始めたのではないかと考えられる。

日露戦争とはロシアの朝鮮半島進出を防ぐための自衛戦争であったという見方をとる者があるが、これは太平洋戦争がABCD包囲網から自己防衛するための防衛戦争であったというのと同じ暴論である。確かに明治政府がそのように考えていたふしはあるが、だからといってロシアが朝鮮半島に侵攻する可能性があったという証拠はあげられないし、仮にその可能性があったとしても、隣国がロシアに侵略されるとやがてはその脅威が直接日本にも及ぶようになるから先手を打ってでようという理論は過剰防衛論であるばかりか、自国の侵略を正当化する都合のよい理論にもなりうる。

ただし、当時ロシアが朝鮮半島ではなく満州及び遼東半島に触手を伸ばしていたということは事実であり、これは日本が日清戦争で獲得した地域の利権を直接に脅かすものであり、見過ごすことができなかったことはたしかである。だが、そうはいっても当時の日本とロシアの国力を比較すれば、誰がみても日本がロシアに勝てると予想をする者はいなかった。当然、日本政府もその国力の違いは承知していたので、日清戦争後の三国干渉に対して屈辱を舐めざるをえなかったのである。

しかしながら、その前に日本にとって憂慮すべき出来事が起こった。それは朝鮮王妃閔妃の一族が日清戦争後にロシアに接近しはじめたことである。日清戦争でせっかく清の影響力を排除し、もはや日本のなすがままになると思われた朝鮮政府がロシアに頼ろうとしつつあるというのだから、これは日本にとって見過ごすことはできない。閔妃にとってはロシアの力が日本を上回ると思ったのであろう。しかし、日本はこの極めて好ましくない王妃の反日的行動を実力で封じてしまったのである。これが前に紹介した閔妃惨殺事件である。これによって日本はまたしても朝鮮の王宮を占領し、彼らに日本の傀儡となることを強要するようになったが、これがかえって民衆の反発を買い反日運動を激化させ、さらに朝鮮政府内部の権力闘争も過激化し、政権はめまぐるしく変わることになる。

そうこうするうちに朝鮮は国名を大韓民国(以後は「韓国」と呼ぶ)とあらため、初代皇帝となった高宗は中立化に向かって動き始める。これはイギリスによって提唱され、清国、フランス、ドイツ、イタリアなどが次々と賛成したが、日本はこの案には容易に乗れなかった。当然であろう。日本にとって韓国は明治維新以来、いつの日か征服すべき対象であって、政治的干渉のできない中立国となられてはたまったものではないからである。

ところがやがてロシアも韓国の中立化を言い始めたので、日本は非常に困った立場に置かれるのであるが、この状況の打開策として日本は秘密裏にロシアと交渉している。それはなんと「満韓交換論」という世にも醜悪な交渉であった。つまり満州はロシアに支配権があることを認める代わりに、日本の韓国に対する支配権をロシアに認めてもらおうという秘密取引なのである。当然、この交渉の中で韓国や清国の意志は無視されていた。この互いに虫のいい話にロシアも乗ってくる気配をみせたが、ロシアが日本に要求した条件が相当厳しく、ついにこの交渉も断念せざるをえなくなった。この満韓交換交渉が破たんした経緯については、以下のwikipedeaの文章を引用しておこう。

ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

つまり満韓交換論でロシア側がだした提案は、北緯39度以北の領域、すなわち現在の北朝鮮を非武装地帯にしようという提案だったというわけである。これを日本側が飲めないとしたのは、どう考えても強欲すぎるのではないかといわざるをえない。日本の歴史家はこのあたりの日本の強欲さをあまり指摘しないのは、ややえこひいきではないかと思うのだが、どうであろうか?

いずれにしても、この交渉決裂の結果、日本はついにロシアとの開戦やむなきに至ったというわけである。この開戦の決断を促したのは、ちょうど都合よく日英同盟で世界一強い味方をつけることができたこともあるだろう。英国は当時世界最大の植民地をもつ大帝国であり、ロシアの東アジアでの覇権をけん制して日本と同盟を結ぶことになったのである。この結果、日本は多大な戦費を英国などの援助で引き出すことにも成功し、ロシアと開戦しても勝利の見通しがでてきた。この戦争が二国間の戦争で終わり世界大戦に発展しなかったのはむしろ幸運というべきである。なぜなら日英同盟では二国間以上の戦いになった場合には英国も参戦することを定めていたからである。この日露戦争後に欧州で第一次大戦が勃発したのは、決して偶然ではなかった。日露戦争はまさに後の世界大戦の時代の導火線ともなったのである。

思えば、故山本七平氏が「日本人と中国人」という本の中で「『竜の髭を引く抜く』のが趣味の日本人」としていたのは蓋し名言であると思う。秀吉の朝鮮征伐のときから日本人は明、清、ロシア、中華民国そしてアメリカという自らの十倍以上もの国土をもつ超大国を相手に次々と戦争をしかけてきたのだから、これほど向こう見ずな好戦国家もないであろう。

ただし、日清戦争のときの日本は確実に戦争に勝てるという確信があったが、日露戦争のときはおそらくそんな確信はもてなかったではずである。勝敗は一か八かやってみなければわからないという博打根性を発揮してこの戦争に打って出たのではないか。日本にとって幸いしたのは日英同盟だけではなかった。当時、ロシア内部では多くの社会主義者が生まれ、帝政打倒に燃えて革命騒動を起こしていたので、ロシアは内外両面の危機に対応しなければならなくなった。武力では日本にはるかにまさってはいたが、ロシア皇帝が統率する軍の指揮命令系統は必ずしも一枚岩ではなかった。これが日本の勝因の一つでもあったのではないだろうか。

ただこの戦争も日清戦争のときと同様、戦争の主要舞台は朝鮮半島であったということを忘れてはならない。韓国の人々にとってはこの戦争も実質的には日本の侵略戦争であった。日清戦争前から韓国(朝鮮)に当然の如く居座るようになった日本軍に対して、多くの農民が立ち上がりいわゆる義兵闘争を展開している。これは民族感情からいってあたりまえであろう。日米安保条約に基づいて沖縄の米兵が駐留しているのとはわけがちがうのである。韓国(朝鮮)政府は決して日本に駐留を要請しているわけではなく、そのような条約が成立していたわけでもない(駐留のための条約交渉はあったが韓国政府は局外中立化と交換条件にしていたために成立していなかった)。にもかかわらず、あたかもそこを自国の領土のように居座り続けるのは不法な侵略行為以外のなにものでもない。しかも、自国の領土内で他民族同士の戦争を起こされてはたまったものではない。傍若無人とはまさにこのことではないか。日本人には韓国人が迷惑を被っているという意識がはじめから毛頭ないのであるから、彼らからすれば腹が立つのもあたりまえである。

われわれがもし正常な想像力をもつならば、そのように韓国の人々が考えるのは当然なことであると気づかなければならないはずだが、今の日本人はまずそういった想像力をもつどころか迷惑をかけたのかもしれないとさえ思っていないのだから、故山本七平氏がいうように、日本人の韓国に対する物差しというのはよほど勝手な物差しなんだろうというしかない。

たとえば竹田恒康氏(この方はかつて山本七平賞を受賞されている!)という売れっ子評論家(?)によると、「日本は韓国のためによいことばかりしてきたんですョ」とか「日韓併合は韓国が望んだことなんですョ」というようなことを知ったかぶりにYOU TUBEなどで語っておられるのをみると、要するにそういった自分に都合のよい物差しで測る日本人が異常に多くなっているという証拠であろう。でなければ、あのような人物が売れっ子になるはずはないと思うのであるが、いかがなものであろうか?

実際のところどうだったのか?韓国の人々は果たして日清戦争や日露戦争で日本兵が自分たちの国土を守るためにわざわざやってきたんだということを信じているのだろうか?もちろんそんな韓国人は一人もいなかったはずだ。ただし、当時の空気の中では日本の武力に屈伏する他に選択はないとする韓国の政治家は多くいたし、彼らの中には(親露派とか親中派に対して)親日派という見方をされていた人々も多くいたのも事実である。その力関係の中で模索をしながら国の進むべき方向を探っていくというのが、その時代のリーダーたちの宿命であったからだろう。したがって日露戦争前夜になると、親露派と親日派に分かれて政治闘争が繰り広げられるわけだが、だからといって「親日派」=「日本人が好きな韓国人」とかいう意味ではなく、要はどちらについた方が得策かという状況判断によって分かれていたというのが実情であった。そのあたりの経緯について、海野氏の本から少し引用してみよう。

このような日本の軍事的制圧下で、1904年2月13日から林公使と李扯鎔との間に交渉が再開される。李扯鎔は外相を罷免されたが、後任の李斉純駐清公使が着任するまで外相臨時署理(代理)の任にあった。再開といっても継続ではない。開戦前とは日韓の状況がちがう。13日に林が作成した日本案は、形式的には相互援助協定だった前案とは異なり、「大韓民国政府は、全然日本帝国に信頼し、大日本帝国の助言を受け、内治外交の改良を図る可し」(第一条)と、日本が韓国に対し保護、指導の立場にあることを明文化した。

また前案になかった軍事協力事項を新たに設け、「第三国に侵害により、若しくは内乱の為め大韓帝国の皇室安寧或は領土保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、速やかに臨機必要の処置を取る可し。而して大韓帝国政府は、右大日本帝国政府の行動を容易ならしむる為め、十分なる便宜を供すること」(第四条)とした。日本軍の不当な軍事占領を合法化するとともに、以後の戦略展開に対する韓国の協力を義務付ける項目である。(海野福寿著「韓国併合」 岩波新書P129)


ただし、この日韓議定書の調印は決して韓国政府と日本政府の合意で正常に交わされたものではない。この調印に至るまでに韓国政府内で反対する者も多くいたが、彼らは日本の圧力で公職から追放されているのである。

調印に反対した李容翊は、この日の夜、日本軍に拉致され、「遊覧」の名目で日本に移送されて、約10か月の軟禁を強いられる。度支部大臣兼内務院卿等の要職はすべて解任された。この他鎮衛第四連隊長吉永洙、参将李学均、参領玄尚健ら反日派の主な人々も漢城から追放された。(中略)
韓国内では反対の声が高まり、中枢院(内閣諮問機関)副議長李裕寅らは上疏して李扯鎔ら議定書推進者を弾劾した。李扯鎔らの私邸には爆弾が投げ込まれ、漢城の街は騒然とした空気に包まれた。

こうした抵抗を威圧するかのように、3月17日、枢密院議長伊藤博文が特派大使として漢城にのりこんだ。名目は天皇名代の韓国皇室慰問である。18日慶雲宮で皇帝に謁見した伊藤は、「日韓議定書」の履行と、それを妨害する者の排除を強要した。宮内府大臣閔丙夷を通じで奏達した文中には、韓国兵の反抗があれば敵国とみなすとか、韓国の態度が不鮮明であれば兵力を数倍にするとか、威嚇す言辞がある。(同P130‐131)


この日韓議定書によって日本は事実上、韓国の保護国化に成功したわけである。ただし、ここに至るまでには相当な強権と武力を用いたことはいうまでもない。特に韓国の農民たちはこれを簡単に受け入れたわけではなかった。義兵闘争は日露戦争で日本が勝利したあとにも延々と続くことになる。以下に呉善花氏の著書(「韓国併合への道 完全版」文春新書)から日露戦争後の義兵闘争の被害をまとめた文章を引用しておく。

1905年(明治38)に日露戦争で日本が勝利し、第二次日韓協約によって日本が韓国の保護国となって以後、韓国の国権回復あるいは独立・改革を目指すナショナルな活動には、反日義兵運動と愛国啓蒙運動があった。

反日義兵運動は、日清戦争後の1890年代に「衛生斥邪」「反日反露」を掲げて武力蜂起を行った初期義兵運動を継承した反日武装闘争である。1907年(明治40)8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降とくに活発化し、全国各地で徹底した抗日ゲリラ戦を繰り広げた。

義兵闘争はほぼ全土にわたり、1907年8月から1910年末までの間に衝突回数2819、参加した義兵数は次の通りである。

1907年・・・44116名
1908年・・・69832名
1909年・・・25783名
1910年・・・1892名
総計・・・141603名
(朝鮮駐留軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』)

それに対する駐留日本軍は二千数百名、本国から新たに投入された兵士たちを含めても最大時で数千名だったと推測されるが、その組織的な討伐戦の展開で、各地の義兵集団はことごとく撃破され、併合までにほとんど鎮圧されている。

この3年半にわたる戦いで、義兵側の死者は17688、負傷者3800、捕虜1933と右同書に記録されているから、これはまさしく戦争といってよかっただろう。ところが、日本側の損傷はわずかに死者133、負傷者269を数えたに過ぎない。(呉善花著「韓国併合への道」完全版 文春新書 P188-189)


しかし、これらの義兵の反抗はまだ序の口であった。日韓議定書第四条「第三国に侵害により、若しくは内乱の為め大韓帝国の皇室安寧或は領土保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、速やかに臨機必要の処置を取る可し」という約款は、まさに日本軍の駐留こそが「大韓帝国の皇室及び領土保全の危険」そのものなのだという韓国側の真っ当な言い分を逆手にとった偽善(押しつけの「善意」)にすぎないものであった。彼らがそのことを完全に知るようになったのが、この議定書が交わされてから5年後に実行に移された日韓併合である。韓国(朝鮮)はこれに遡る条約で約束された「国の自主と独立を保証する」という文言で騙されていたということに気づくことになるのである。

つづく
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| | 2014-04-07(Mon)23:23 [編集]