3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

昭和天皇の御心とA級戦犯合祀問題

故山本七平氏は49歳で発表した「日本人とユダヤ人」以後、わずか20年ほどの間に200冊を超える著作を残している。その膨大な著作の中でも重要なものの一つに前にも紹介した「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)がある。これは山本七平氏が亡くなる2年前の作品であり、事実上の遺作といってもよいのではないかと思う。

この書の中で故山本氏が展開しているのは昭和天皇の戦争責任問題なのであるが、それを肯定するか否定するかという以前に、昭和天皇の「自己規定」という観点からこの問題をみたらどうなるのかというユニークな問題を提起した作品である。われわれはややもすると天皇には自由意志というものがないのではないかと思いがちであるが、これは誤解であって、実際は天皇というのは事実上憲法に規定された存在なので、憲法に逸脱した行為をすることができないのである。つまり天皇に自由意志というものはあってもそれを行使することは憲法上制約されているのである。明治以来の天皇制というのは天皇の独裁権力を認めているわけではなく、あくまでも憲法に規定された制約的存在としてその権力が認められているにすぎない。すなわち、これが立憲君主制というものの天皇のお立場である。

したがって天皇というのはそのようなお立場であることを幼少の時から教育され、自らが憲法に規定された存在であるという徹底した自己規定を自らに課して生きておられる。だから天皇には実質的な権力というものはない。これは戦前も戦後も同じことである。ただし戦前の天皇には名目上「統帥権」というものが与えられていたのだが、これも実質的には機能したことはなく、事実上は軍部が統帥権をもつようになっていた。

このようにみると天皇に戦争責任があったのかどうかという問題は生易しい問題ではないことが分かる。明治の日清戦争以来、天皇がいくつもの戦争に関与されたことは間違いのない事実であるが、それらの戦争においてどの程度天皇に責任があったのかとなるときわめて難しい問題になる。戦争を始めるにあたっていわゆる御前会議というものが招集され、最終的には天皇によって裁可が下される。しかし、天皇は戦争をせよという命令を下しているわけではなく、ただ招集された重臣たちの決定をよしとみなし裁可を下すだけである。事実上、天皇はそれらの決定を断ることは非常に難しい立場に置かれていると考えた方がよいだろう。

特に昭和天皇の場合は若くして即位したために、周囲の年寄り連中のお歴々に逆らうことは余程の経験と知識、判断力に自信がなければできなかったであろう。しかしながら、その昭和天皇が珍しく自らのお立場を逸脱して天皇としての権力を振りかざしたことが、少なくとも2度あったとされる。その一つは2,26事件のときであり、もう一つは世に言う終戦時のご聖断である。

2,26事件というのは天皇に心酔した青年将校たちが天皇に実質的な統帥権を与え、天皇のご親政(天皇による直接統治)を実現しようと図ったクーデターであったが、非常に皮肉なことに、この時天皇は残虐なテロ行為に怒り、自らの命令で近衛軍を動かし、彼らを鎮圧させたのであった。彼らにしてみればまさに自ら望んでいた天皇の統帥権の遂行によって彼ら自身の望みが断たれたのである。

もう一つの終戦時のご聖断というのは、これはあまり知られてはいないが、ポツダム宣言を受諾するときに御前会議で紛糾したために、天皇自身の決断でポツダム宣言を受諾させたという話である。このときのことを昭和天皇自身が次のように回想しておられる。

「だが戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしもないので、鈴木(貫太郎 当時の首相)が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。……この場合に私が裁決しなければ、事の結末はつかない。それで私はこの上、戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった。」(「裕仁天皇の昭和史」P23)

昭和天皇はこのあと有名な玉音放送を録音するのであるが、一億玉砕戦を信じていた陸軍の一部にこの情報が伝わり、玉音放送を阻止するべく、あくまでも戦争継続のためにクーデターを挙行すべしとした勢力があったが、この話については後でまた触れることにする。ご存じのように、この話は映画「終戦のエンペラー」でも描かれていたが、映画では最後にマッカーサーとの感動的な会談シーンで終わっている。これは決して作られた美談ではなく事実であった。マッカーサー自身が次のように回想しているのである。

「私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めているのではないかという不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現にこれらの国が提出した最初のリストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私はそのような不公正な行動がいかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分かっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。
ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政を布かねばならなくなり、ゲリラ戦が始まることは、まず間違いないと私はみていた。結局、天皇の名はリストからはずされたのだが、こういったいきさつを天皇は少しも知っていなかったのである。
しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
『私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためおたずねしました』私は大きな感動に揺すぶられた。死をもともなうほどの責任、それを私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(「裕仁天皇の昭和史」P114-115)


この回想録が真実であったとすれば昭和天皇は誰にいわれなくとも自分自身で戦争責任をお認めになっていたということになる。故山本七平氏のように戦争の悲惨さを体験した世代の人々にとっては、天皇の戦争責任というのは誰しも実感として否定できない(これは山本氏自身もそうだということを認めている)というが、しかし、昭和天皇は自らその責任を自覚しマッカーサーに対して全責任が自分にあることを認めたその勇気に対しては何人も文句はいえまい。その天皇の勇気がある意味で日本を救ったのではないかと思う。

もしあの御前会議の中で天皇自身がご聖断を下されなければ、日本はその後も果てしのない泥沼の戦争に突入していた可能性もあったのである。原爆を何発落とされようと、地上戦になれば空爆だけでは勝敗の決着はつかない。そのために一億玉砕で戦う覚悟を決めた兵士も事実数多くいた。

このような終戦時の経緯をみると、昭和天皇にとって靖国神社でA級戦犯が合祀されているという問題がいかなる問題だったのかということが想像できるのではないかと思う。いわゆるA級戦犯の合祀は終戦から33年もの時を経た1978年に突然に表面化した問題であった。これを行ったのは当時の靖国神社宮司松平永芳という人物である。なんと彼はこれを誰にも相談せずに独断で実行したというのである。もちろんこれは宗教的儀式なので、その挙行は宮司としての立場と責任において可能なことではあったが、いやしくも天皇陛下に一言のことわりもいれずにこれを挙行したことで、後々、昭和天皇がこれに対して不快感を表明するという異例の事態に発展する。

当時の宮内庁長官、冨田朝彦氏のメモによれば、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語ったとされている。戦後、昭和天皇がこれほどの言葉を残されているということは他にないことである。したがって、これには昭和天皇もよほど憤慨されたのだろうとみてまちがいない。では何が昭和天皇をそこまで憤慨させたのであろうか?

そのためには昭和天皇にとってA級戦犯とはいかなる存在だったのか、ということを知る必要がある。昭和天皇はマッカーサーに告げられたごとく「私は戦争の全責任は負う者である」ということをお認めになっていた。しかしながら、マッカーサーはその天皇を許し、軍部の指導者たちを戦犯として裁いた。これを普通に考えると、昭和天皇にとってA級戦犯たちは自分の身代りに死刑になった恩人だと思われても当然である。したがって、昭和天皇が彼らを心底憎んでいたとは思えない。そのような憎しみの念ではないとすれば、では何故にA級戦犯合祀に憤慨されたのであろうか?

以下は私の想像である。

昭和天皇がA級戦犯の合祀に憤慨されたのは、昭和天皇自らのご聖断をきっかけに戦後の平和が築かれたのだという自負心があったからではないかと思う。つまり戦後の平和は昭和天皇が誰よりも真っ先に自分の罪を認めたことから由来しているのだということを深くお知りになっていたのだと思う。

一方、昭和天皇にとってA級戦犯たちは憎むべき対象ではなく、むしろ一心同体ともいうべき存在だったはずである。なぜかというと、戦争責任は彼らと同じく御自身に責任があることを認めておられたからである。戦争遂行にあたって過去何度も御前会議が開かれて、天皇はたとえ心中で反対であったとしても、その決定をよしとして裁可したということは、その責任を免れるものではないことを天皇御自身がもっともよく知っておられたにちがいない。したがってA級戦犯に対しては憎しみよりもむしろ彼らに対して自分の身代わりとなってよくぞ死んで呉れたという感謝の念の方が強かったのではないかと思う。

そして戦後の平和はこの二つの事実によって築かれたのだという誰にも分からない昭和天皇の思いがあるのではないか。だとするならば、昭和天皇にとってA級戦犯を合祀するということは決してあってはならないということに気づくはずだ。なぜかというと、A級戦犯を合祀するということは、彼らが天皇の身代わりに引き受けた責任を帳消しにしようとする企てに他ならないからである。

そうすると昭和天皇にとっては、逆に心穏やかでなくなるのはいうまでもない。つまりA級戦犯の責任を帳消しにするということをやれば、同じく天皇の責任も帳消しにするということになるのであり、そうするとマッカーサーに告げた自らの話も嘘八百だったということになってしまうのである。要するにあのマッカーサー回顧録は天皇の一世一代の演技だったということになってしまうのである。

そんな卑怯なことは昭和天皇にとって受け入れられないことである。マッカーサーの前で自分が引き受けようとした責任は真実のものであり、そうであればこそ戦犯たちは自分の身代わりとなって裁かれたのである。そのように解釈しなければ天皇の御心もおさまらないのではないか。A級戦犯合祀に対して「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と憤慨して告げられたのは、そのような誰にも計り知れない天皇の深い御心があったのだと推察される。

これに対して独断でA級戦犯合祀を挙行した松平宮司の動機はどうだったかということを考えてみよう。

前にも述べたように彼は天皇の玉音放送を阻止するべくクーデターを起そうとしたグループに影響を与えていた東大教授平泉氏の弟子ともいえる人物であった。彼は戦時中は靖国神社とは何の関係もない海軍の将校であり、そのような軍人としての経歴のある人物が戦後靖国神社の宮司になることができたということ自体考えれば奇妙な話である。殺傷の罪を行った兵士が坊主頭になって出家するという事例は仏教ではよくある話であるが、軍人が神道の宮司になることがそんなに容易であったとはにわかに信じられない。

ところで松平宮司がA級戦犯の合祀を決めたのは彼らを昭和殉難者として祀るためであった。この昭和殉難者という言葉は実はA級戦犯を合祀するための巧妙な造語である。というのはそもそも靖国神社は戦争で散っていった犠牲者を神として祀るために作られた神社であるから、本来、戦争で亡くなったわけではないA級戦犯たちを靖国に祀るためには相当の無理があったのである。しかし、松平宮司は玉音放送を阻止させようとした平泉氏の教えに近かったので、終戦時の天皇のご聖断をこころよく思っていなかったといわれる。伝えられるところでは彼は昭和20年8月15日の玉音放送でもって終戦が訪れたという考え方を認めていなかったそうである。

彼らにとって本当の終戦日というのは昭和20年8月15日のことではなく、それから6年後の1951年9月のサンフランシスコ講和条約をもって初めて終戦となったと解釈されているので、その理屈によるとそれ以前に戦犯として裁かれて処刑された戦犯も皆戦争の犠牲者であったと考えられ、彼らを「昭和殉難者」として祀ることは靖国神社の本来の役割に沿うものであると解釈されたのである。

つまり松平宮司にとってA級戦犯たちは戦争の犠牲者であり戦争犯罪の責任者ではないとされたのである。この考え方が成り立つためには、先の戦争そのものが戦勝国によって裁かれるべき戦争ではなかったという、彼らの一貫した考え方がある。これは現在の靖国神社の遊就館という施設の展示によっても分かるとおり、日本が過去に行った戦争は侵略戦争ではなく、やむにやまざる自衛戦争であったというのが未だに靖国神社の公式見解となっているのをみても分かる。

このようなA級戦犯合祀の経緯とその思想背景を考えると、自らの戦争責任を認め戦後の平和秩序を築こうとされた昭和天皇の思いとは相容れなかったことが分かる。昭和天皇にとってA級戦犯の裁きは周辺国に多大な迷惑をかけた日本が当然受け入れなければならないこととして、また戦後の平和を生みだすための出発点としてもどうしても必要なことであったのだと思う。したがってその責任を帳消しにしようとする松平宮司の企みはそのような昭和天皇の御心に反するものであり、昭和天皇にとってそれは戦後の平和の基礎を破壊しようとするものとして映ったのではないであろうか。

補足
上記の私の想像はやや単純にすぎるかもしれないと思い直すところもあるので、若干の補足と修正意見を書いておきたい。昭和天皇がA級戦犯を憎んでいたということはないかもしれないが、彼らに対して戦前戦中から不信感をもっていたということは事実であったと思われる。ある意味で昭和天皇は彼らに騙されたという強い被害意識はあったかもしれない。山本七平氏によると、昭和天皇に対してもっとも不敬だったのは実は天皇の重臣たちであったとして次のように指摘している。

「簡単にいえば、彼らは2.26事件でなしえなかったことを別の方法で進めようとしていた。彼らは天皇機関説を非難攻撃しつつ、これを逆用した。というのは天皇は機関説通り、『立憲君主』の道から踏み出そうとしない。そして一木・美濃部説によれば、『天皇と議会とは同質の機関とみなされ、一応、天皇は議会の制限を受ける』『議会は天皇に対し独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない』のであるから、軍部が翼賛会を通じて議会を乗っ取ればよい。(中略)こうなってしまうと、天皇に残された唯一の抵抗手段は上奏されてもなかなか裁可しない一種の「スト」だけになってしまうが、それも限度がある。もし「意に満たぬもの」は裁可を拒否するとなれば、これは立憲君主ではなくなってしまう。」(「裕仁天皇の昭和史」p251-252)

特に昭和天皇が強い不信感をもったのは近衛内閣に対してであった。近衛に対しては彼が日独伊三国同盟を結んだ時点で昭和天皇の不興を買ったといわれる。なぜなら昭和天皇はそれまで英米の文化に親しんでこられたので、それによって英米を敵に回すことになることに非常に危惧されたと伝えられるのである。

山本七平は次のように書いている。

天皇の親英親仏、反独反伊はたとえば「独伊が如き国家とその様な緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか」(昭和15年9月16日『天皇秘録』といった言葉にも表れている。「独伊が如き国家」という言葉は少々「差別的」だが、これがマジノ線(フランス北東国境の要塞線)が突破され、イギリスがダンケルクの総退却となり、フランスが降伏し、イタリア軍がリビアからエジプトへの侵攻を開始したとき、独伊枢軸側がいわば得意の絶頂にあったときの言葉であることを思うとき、そしてその結果、マスコミはもちろん、日本国中が独伊ブームといった現象を呈していたときの発言であることを考えると、天皇の親英米仏感は、決して一朝一夕のものではないことを思わせる(「裕仁天皇の昭和史」P53)※(筆者注)昭和天皇は幼少から英米文化を中心に親しんで育てられてきたので、このような状況の中でも親英米であったと山本七平は解説している。

また近衛が大政翼賛会をつくろうとしたとき天皇は次のように危惧されたという。

天皇は親ファシズム的な近衛文麿の行き方に危惧の念を抱いていたらしい。近衛が大政翼賛会をつくり、日本憲政史上はじめての「無政党時代」に進もうとしたとき、天皇は少々皮肉な言葉でこれを批判している。すなわち結成式の前日に近衛が発足について天皇に報告すると「このような組織をつくってうまくいくのかね。これは、まるでむかしの幕府が出来るようなものではないか」と言われ、近衛も返事ができず絶句した。(「裕仁天皇の昭和史」P39)

近衛総理は本格的な日中戦争を始めた総理であり、また残虐な南京事件を起こして世界中に悪評を広め、そして日独伊三国同盟を締結して米英を敵に回した張本人であった。その近衛内閣のすべての失政の残務処理のために後の内閣は泥沼の戦争に嵌りこんでいったと見るのが正解ではないだろうか。したがって昭和天皇が近衛内閣に対して大変危惧されていたのは正しい予見があったと思われる。しかし近衛総理は国民の間では明治以降の歴代総理の中でもっとも支持率が高く、天皇家に近いその血筋と見栄えのよさで大衆的人気を誇った総理であり、これは現在の安倍総理に対する国民の支持の仕方になんとなくオーバーラップする観もあるのがちょっと怖い気もする。ちなみに最近、東京都知事選に出馬宣言をした細川元総理は近衛文麿の孫にあたるという。


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