3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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日韓の歴史問題 その2 秀吉の朝鮮出兵から征韓論、江華島事件まで

明治16年に日本で初めて作られた紙幣に使用された肖像画の人物を知っている人はおそらくあまりいないであろう。その肖像画はもちろん聖徳太子ではないし明治天皇でもない。ひとつヒントをいうと、その人物は伝説上の人物であり必ずしも実在の人物であったとはいえない。しかもその人物は男性ではなく女性である。ここまでいうと多くの人は天照大御神とか卑弥呼を思い浮かべるかもしれないが、残念ながらいずれも正解ではない。正解は神功皇后という今日ではあまりなじみのない古事記や日本書紀に記された女性である。なぜその女性が、よりによって日本で発行された第一号の紙幣の肖像として使われたのかというと、そこには根深い日韓の歴史問題があったのである。

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日本最初の紙幣 神功皇后の紙幣

実は神功皇后というのは、伝説ではその昔神のお告げで新羅や百済そして高句麗を攻め落とし朝鮮を征服した立役者だったといわれる人物である。それが本当の話なのかどうかという話とは別に、なぜそういう人物が最初の紙幣の肖像として使われたのかというと、当時の明治政府の最重要な国策が背景にあったということが自然に浮かび上がってくる。明治16年というと、日清戦争以前であるが、すでにそれ以前から明治政府は朝鮮半島を征服の対象と考えていたのであり、その象徴として神代の伝説にある神功皇后の肖像が使われたわけである。

神功皇后の伝説は別にして、現実の歴史の中でも日本が朝鮮を征服しようとした時代があったことは誰もが知るところであろう。いうまでもなく秀吉の時代の朝鮮出兵である。日韓の歴史を通観してみると両国は古くは良好な関係のときもあったが、秀吉の朝鮮出兵を契機にして両国の関係が冷え込んで以来、良い関係を築くことは非常に難しくなった。このときの侵略によって韓国人に植え付けた不信感は現在の韓国人にも深い傷跡となって残っていることを、まずわれわれは知らなければならない。

歴史の教科書には秀吉の朝鮮出兵の実際の被害については詳しく紹介されていない。しかし、現在京都の東山区にある耳塚という小高い墓のような土地の成り立ちを知ると、そのときの朝鮮人の被害がどれほどのものであったのかということが分かる。秀吉は当時の武士たちにどれだけの数の朝鮮人を殺したのかということを知りたいがために、斬り捨てた朝鮮人の鼻を持って帰るように命じたのである。斬りとった鼻は塩漬けにされ、具体的戦果の証拠品として持ち帰らせた。このとき武士たちは鼻だけではなく耳も持ち帰ったので、耳塚と名付けられることになった。その証拠品となった鼻や耳の数はどのくらいの数があったのかというと、その数はなんと10万以上はあったと研究者はみている(中塚明著「日本と韓国・朝鮮の歴史」高文研P49)。

秀吉の次に天下人となった家康のときには通信使という朝鮮の使節を呼び寄せるのが習わしになった。徳川家が代替わりするたびに朝鮮から500人もの使節が大阪に船を着けて淀川を上り京都から江戸までの東海道を参勤交代の大名のように行列を組んで参上させられたのである。もちろんその逆の交流はなかったので、事実上、朝鮮は日本の属国扱いになっていたといえる。このような日朝間の歪な交流は秀吉による朝鮮侵略のトラウマが朝鮮王朝にいつまでも残っていた証拠であろう。その延長の中で明治政府の征韓論があったことを知らなければならない。

どの教科書にも書かれているように明治時代になると突然「征韓論」という勇ましい言葉がでてくる。しかし、なぜそうなったのかということを教科書は書いていない。簡単にいうと、征韓論のきっかけは明治新政府が朝鮮王朝に対して送った王政復古を通告する国書に対して返事もせずに送り返してきたという事件に端を発している。

なぜ送り返してきたのかというと、その文面に「皇」と「勅」という文字があったからであるといわれる。当時の朝鮮王朝にとって「皇」と「勅」という文字の使用を許容できるのは清王朝だけだったので、日本の新政府がそのような文字を使った書状を送り付けたことに対して、これを受け付けることはできなかったのである。それと儒教的伝統と古来の儀式を重んじる朝鮮王朝にとっては、チョンマゲを切り洋服を羽織って現れた明治新政府のあまりの変身ぶりが理解できなかったのである。明治政府は国交を結ぶための儀式を洋装で行うことを求めたが、これについても朝鮮王朝は伝統的衣裳でなければ応じられないと断固拒否をしていた。

これに対して明治新政府は侮辱であると受け取り、一挙に征韓論が台頭してくるのである。ところがこのとき明治新政府の中で意見が二つに分かれ、これがやがて抜き差しならない大きな政治的対立を生むことになる。よく知られているように、このとき征韓論を唱えた西郷隆盛らの意見は岩倉具視や大久保利通ら主流派の意見と折り合うことができず、その結果、西郷らは下野して、やがて新政府に対する不信感をもった部下たちを集めて反乱を企てるようになったといわれる。しかしながら、歴史教科書などでも征韓論者といわれた西郷隆盛が本当に征韓論を唱えていたのかどうかという問題については、今日の研究者の間でも別の解釈があるようである。

というのは、西郷が主張していたのは実際は征韓論というものではなく、朝鮮との正式な国交を結ぶために自ら使節になりたいというものであり、その際には武器をいっさい持たず、しかも伝統の衣裳を身につけて礼を尽くせば、彼らも受け入れるはずだと考え、その役割を自ら果たしたいという申し出だったのである。しかしながら、岩倉らは貴下のような大物がもし殺されでもしたら戦争になるではないかといって、この提案を受け入れなかったといわれる。

ところが西郷らが下野してからわずか2年後(明治8年)に明治新政府は本物の征韓論ともいうべき強引な朝鮮侵略政策を実行に移すことになるのである。韓国の人々の誰もが知る日帝による最初の侵略事件、すなわち江華島事件が起こる。これは首都開城(ソウル)を流れる漢江の河口に面した要塞の島(江華島)へ測量のためと称して日本の軍艦が無断で入り、そのとき要塞から攻撃があったため、これを鎮圧するために反撃しさらに陸地へ上がって要塞の兵士数十人を殺害したという事件である。この事件の詳細については、先ごろ売国的発言などで韓国政府から入国拒否を言い渡された呉善花さんの著書から引用しておこう。

1875年(明治8年)5月、日本政府は雲揚(245トン)と第二丁卯(125トン)の小砲艦を釜山に派遣して、一方的な発砲演習を行わせる示威行動をとった。続いて9月20日、日本政府は沿海測量の名目で雲揚を朝鮮半島の江華島へ向かわせる。雲揚は江華島と半島との間の江華水道の河口付近で停泊し、その先は兵士らがボートに乗って江華水道を遡行した。水道の幅は200~300メートルと狭く、北は漢江、南は黄海に通じる要所で、沿岸各所に要塞があり砲台が設けられている。飲料水を求めたためとされるが、この内国河川への無断侵入は明らかな挑発行為である。
要塞の一つ、草芝鎮台から砲撃が開始されると、雲揚も水道に入り応戦する。砲台からの弾丸は船に届かず、草芝鎮台は雲揚の砲撃を受けて甚大な被害を受けた。しかし、退潮時のために雲揚は兵員たちを上陸させることができなかった。雲揚は次に江華島のすぐ南にある永宗鎮台を急襲した。次から次へと砲撃を受けて永宗鎮台は陥落、600名の守備兵はほとんど戦うことなく逃走してしまった。上陸した日本の将兵たちは城内と付近の民家を焼き払い、大砲38門をはじめ、残された兵器類を押収して帰船した。李朝側の死者36名、捕虜16名、日本側の死者1名、負傷者1名だったといわれる。(呉善花著「韓国併合への道」文春文庫P54)


この事件後、日本は朝鮮の開国を無理やり迫り、さらに不平等条約を結ばせることに成功することになる。これは明らかにペリーの艦隊の威嚇によって結ばされた日米不平等条約の締結という自らの苦い経験をまねた行動であった。

面白いことに、このあからさまな侵略的行動に対して下野した西郷隆盛は次のように政府を批判したといわれる。

「譬、此の戦端を開くにもせよ、最初測量の儀を相断り、彼方承諾の上、[それでも]発砲に及び候えば、我国へ敵するものと見做し申すべく候えども、左もこれなく候はば、発砲に及び候とも一往は談判いたし、何等の趣意にて此の如く此時期に至り候や、是非相糺すべき事に御座候。一向彼を蔑視し、発砲致し候故応砲に及び候と申すものにては、是迄の友誼上実に天理に於いて恥ずべき所為び御座候。」(板野潤治著「西郷隆盛と明治維新」講談社現代新書P180)

これを口語でいうと、およそ次のような意味である。「たとえ戦闘を始めるにしても、測量のことは無断でやるのではなく相手に断りを入れてからやるべきであり、それでもなお相手が攻撃してきたならば応戦するというなら分かるが、そうではなく相手に無断で測量をやっていながら、発砲されたからといってこれに応戦するのは、長い付き合いのある隣国に対して、いかにも道理に反する恥ずべき行動ではないか」

西郷隆盛は必ずしも平和主義者だったとはいえないであろうが、彼は少なくとも道理を大切にする人物だったということがよく分かる。もし西郷があのとき下野せずに以後も明治政府の中心にいたならば、以後の朝鮮政策も異なっていたのではないかと思われる。

江華島事件後、明治新政府と朝鮮王朝の正式な交流が始まることにはなったが、しかしこれは明らかに武力の威嚇を背景とした砲艦外交の所産であり、この結果、両国の関係は対等の関係というものではなく、著しく日本側にとって有利な条件下による交流が始まったのである。ただし、朝鮮王朝内ではこれをきっかけにあくまでも儒教文化を中心とした旧体制を守ろうとする守旧派と日本の欧米化を見習って改革を目指すべきであるとする開化派に分かれて相争うようになる。

つづく


参考文献:中塚明著「日本と韓国・朝鮮の歴史」高文研
    :呉善花著「韓国併合への道」完全版 文春新書
    ;海野福寿著「韓国併合」岩波新書
    :板野潤治著「西郷隆盛と明治維新」講談社現代新書
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