3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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「南京大虐殺は捏造だ」を批判する その2

いまから思えば迂闊な次第であるが、実をいうと私自身つい最近まで「南京の大虐殺は捏造だ」という論をなんとなく支持していた者である。確信があったわけではない。ただなんとなくそう思っていた。東京裁判で日本は一方的に断罪された。そのときに最大の罪状としてあげられたのが南京大虐殺である。その犠牲者の数は10万とも20万ともいわれ、これは原爆や東京大空襲においてアメリカが無辜の日本人に対して行った大虐殺を正当化する意図があったのではないかと疑われた。すなわちそのためにでっち上げられたのが南京大虐殺ではないのかという疑問である。これは非常に分かりやすい論であり、私もその種の東京裁判における虐殺捏造論に説得力を感じていた。

その後、南京の事件について知らなさすぎるのは少々不安なので、少し理論武装をするために東中野氏の「南京事件を検証する」という本を購入し読んでみた。読後、「ああ、そうか。やはり捏造なんだな」という感想をもって自分を安心させた。ただし、その本を読んでいて少し割り切れない気分が残ったのは、「便衣兵といわれる中国兵に対する処刑は行われた。しかし彼らは軍服を脱いでいるので捕虜としての待遇を受けられないのは当然であり、彼らに対する処刑はハーグ国際条約に違反するものではない」という説明である。この説明にはなんとなく違和を感じていたのである。その違和の理由はそのとき殺された便衣兵たちに対する同情のようなものを感じたからではないかと思う。その後、私はもう少しこの事件を調べてみようと思って秦郁彦氏の本や笠原十九司氏の本を購入したが、その熱意も続かなかった。それらの本は最初の方をかじり読みしただけで、いつしか本棚の奥にしまわれていた。

ところが最近になって故山本七平氏の「日本人と中国人」(著者名はイザヤ・ベンダサン)を読み、私の南京事件に対する関心があらためて深まった。山本七平氏というと、70年代の初めに雑誌「諸君」誌上で本多勝一氏と「百人斬り論争」を展開したことで有名である。この種の論争の最初の火付け役となった論争だったといってもよいだろう。したがって山本七平氏というと、虐殺否定論者ではないかと世間では思われているし自分自身でもそのように思っていた。しかしながら、「日本教について」(文芸春秋社 著者名はイザヤ・ベンダサン)に掲載されたこの論争をよく読むと、山本七平氏は決して南京の虐殺を否定しているわけではないことが分かる。彼が否定したのは、東京日日新聞の「百人斬り」の記事は武勇伝のたぐいの粉飾記事であり、その記述は事実そのものとはいえないというものであった(この論争については当ブログでも右記http://iwanoaho.blog.fc2.com/blog-date-201303.htmlに詳しく紹介しております)。

後日、この論争について山本七平氏は「日本人と中国人」(著者名はイザヤ・ベンダサン)の中で次のように釈明されている。

最初、日本と中国との戦争にもっとも深い関心をもっていたのは、実はナチス・ドイツであった。日中共倒れがソビエトの「漁夫の利」であることぐらいは、子供にでも分かることである。そしてそれは必然的にソビエトによる東欧一帯への圧力加重となっていく。

一方、「半睡の国」アメリカは最初はなんら実質的関心を示さなかった。しかし、「竜の髭を引く抜く」のが趣味の日本人は、南京でバネー号撃沈、レディーバード号砲撃という非常に奇妙な事件を起こした。どこの国の国民でも、自国の軍艦が撃沈されたとなれば、その方へ全国民の注意が集中する。それだけではない。全世界もこれに注目する。集中したとなれば、当然、新聞・ラジオはこれらの解説をする。解説するとなれば、日本がなぜ南京を攻撃したのかを解説しなければならない。出来なければ、「日本人は天性戦争が好きな好戦民族で、彼らは好きだからやっているのだ」としか言いようがない。

そこへ南京虐殺のニュースが入る。一方、これと合せて日本の新聞の狂態的報道ぶりをみれば、全日本人が血に狂って狂喜しているとしか見えない。この三つが重なって描き出した象はあまりにもグロテスクであった。戦争中、連合国側が描いた日本人像とは、ほぼこれから生まれた像である。

確かに南京事件には虚報が多い。戦時中、私が調べたものの中にもその例がある。たとえばニュース映画の中に、ぱっと一枚の写真が入る。“かくしカメラでとった恐るべき虐殺の現場”と説明がつき、黒こげの死体が累々と横たわっている。そしてすぐ消える。このフィルムを拡大して仔細に調べてみると、関東大震災のときの被服廠跡の惨状の写真の一部を拡大したものであったりする。

この写真は今でも「証拠」として日本の新聞に載っているかもしれない。これらの「虚報」や虚報を事実だと強弁した記事は、事実を詳細に調査すれば自ずと明らかになることだが、しかし、たとえ事実が明らかになっても、「南京事件というのはなんだあの程度のことだったのか」と言ってはならない。私が『諸君』の「本多勝一様への返書」で『虚構を事実と強弁してはならない』といった理由の一つはこれである。氏の「中国の旅」は、典型的な悪しき意味の黙示文学なのである。黙示文学の精細な描写はすべて実は虚構なのである。その虚構を事実と強弁し誇大数字を並べて感情に訴えていくと、逆にこの事件の背後にある真の問題点、何度もいうようだが、「ポツダム宣言に等しきものを提示しておいて、相手がそれを受諾すると通告したら、提示した本人がいきなり総攻撃を開始した」というこの問題の核ともいうべき事実を逆に隠蔽してしまうのである。(「日本人と中国人」祥伝社P47-48)


注意すべきことは、この文章で山本七平氏が主張しているのは南京大虐殺自体が虚構だということではなく、本多氏のように事実かどうか判定しかねる問題によって人間の感情に訴えるやり方が、むしろ南京事件の本質を見えなくさせているということであって、これは虐殺否定論ではまったくないということである。

前にも何回か述べたように山本七平氏にとって、南京攻略戦は本質的にありうべからざる狂気の戦争であった。当時の日本政府(近衛政権)は盧溝橋事件後、事態収拾のためにナチドイツの駐華大使トラウトマン氏を仲介役として蒋介石国民党政府に対して和平工作を行っていた。その和平条件とは以下の三つである。

一、華北において反日行動を慎むこと。
二、互いに反ソ防共のために協力すること。
三、満州国の独立を認めること。

このうち一と二では蒋介石も合意できたが、三だけはどうしても認められないとしていた。あたりまえのことだが満州国というのは日本の傀儡政権にすぎないということは誰がみても明らかであり、このために日本は国際社会から激しく非難され国際連盟の脱退を余儀なくされていた。当然ながら清朝を滅ぼして孫文の三民主義に基づいた近代中国を樹立するという理想に燃えていた蒋介石にとっても、清朝の再興という虚構を謳う満州国を承認するということは考えられないことであった。

ところが、上海事変で国民党軍が20万人もの犠牲者を出すほど決定的な敗北を喫したために、遂に蒋介石が折れて日本側の和平工作を受諾してもよいという返事をトラウトマン大使を通じてしてきた。山本七平氏によると、この決断は蒋介石にとってポツダム宣言の受諾にも等しいものであったという。ところが、近衛内閣はこの蒋介石の和平案の受諾を無視して一方的に南京陥落へと攻め上がってきたのである。

ちなみに、この和平工作の経緯に関しては「ラーベの日記」の編者であり元中国大使もつとめたエルヴィン・ヴィッケルト氏が「南京の真実」(講談社)の中で詳しく述べている。それによると、当時、やむなく上記の和平案に乗ってきた蒋介石に対する日本側の返答は、以前よりも一層厳しい条件、すなわち「華北一帯の統治を南京政府から分離すべし」という厳しい条件を突きつけたものであり、これは蒋介石にとって絶対に受け入れられない条件であったとヴィッケルト氏も証言している。この結果、蒋介石は和平を諦め徹底抗戦という道を選ばざるをえなかったのである。

いずれにしても、この和平交渉の決裂の責任は蒋介石側にあるのではなく100%日本側(近衛政権)にあったのだと山本七平氏は「日本人と中国人」の中で強く主張している。蒋介石が日本側が提案した和平案を受け入れたにもかかわらず、それを認めずに首都南京への侵攻しようとした日本政府の行動にはまったく弁解の余地はない。当時の近衛内閣は南京を陥落させれば蒋介石は完全に屈服し戦争は終わるだろうと楽観していたらしいが、これは決定的な判断ミスであったという他にないだろう。このときの判断ミスによって、以後の果てしない泥沼の戦争へと続くのであり、そしてまたアメリカを敵に回して対米戦争までやらなければならなくなったのである。

したがって山本七平氏にとっては、このような戦争を始めた近衛政府の失敗は議論の余地もなく、これは近代戦にも例がないほどの狂った戦争であったとまで酷評している。山本七平氏は、もはや「それは「狂人だいこ」の踊りであって『戦争』ではない」とまで書いている。このような南京攻略戦に対する山本七平氏の見方は今はやりの自虐史観批判とは180度異なるものであろう。驚くべきことにPHP社主催の山本七平賞選考委員の中にはこのような故山本七平氏の見方を真っ向から否定する反自虐史観論者が何人かいる。その一人渡部昇一氏によると「日本は過去をまったく反省する必要はない」などといって南京事件も含めすべての過去を正当化しているのだから、天国の山本七平先生は「そんなトンデモ賞はやめてしまえ」と怒っているのではないかと思う。

別稿でも何度か同じことを書いたが、ここでもう一度、山本七平氏の以下の言葉を引用しておきたい。
「日本人が過去の経験において絶対に忘れるべきでないことがあるとすれば、このことである。これが、誰からも強要されたのではない『自らの提案』だったという事実である。自らの提案を自ら破棄した者は、もはやだれも信用しない」

この言葉には南京事件に対する故山本七平氏の思いがあふれているように思う。この言葉は当時の蒋介石の日本に対する不信感を代弁したような意味もあるが、同時にここで山本七平氏が言いたかったことは、自らが提案した和平工作を自ら破り「狂人だいこの戦争」を行ったという歴史的事実は、われわれ日本人が後世にまで心に刻まなければならないという意味であろう。このような南京事件に至る事実関係を等閑視し、ただその「虐殺」の事実をあげつらうだけでは、その本質は伝わらない。そんなものはナチのユダヤ人虐殺に比べれば物の数ではないとされるのが「オチ」ではないか?そのようなむなしい議論は南京事件の本質に一向に触れない議論であることを故山本七平氏は警告していたのではないかと思う。 

誤解がないように付け加えておくが、山本vs本多の百人斬り論争が「諸君」誌上で行われたのは1972年であり、今日のような南京の大虐殺をめぐる論争は存在さえしていない時代である。戦後、南京事件の本格的研究を最初に行った人物は洞富雄早稲田大学教授であり、その研究書(「南京事件」新人物往来社)は1972年に初めて世にでている。したがって山本vs本多論争のネタになった本多勝一氏の「中国の旅」は、事実上南京の虐殺事件について出版された最初の書であったといえるのかもしれない。私はその本を読んでいないので、なんらそれについていう資格はないのであるが、山本七平氏はあまりよい印象をもたなかったのであろう。しかし、それは南京の虐殺はなかったという立場からではなく、事実と虚構がないまぜになっている本の構成に違和を感じたのではないかと思う(読んでいない人間がこういうのも無責任ではあるが)。

後の時代の秦郁彦氏のように厳密な史料批判に基づく研究書であれば、山本氏の見方も変わっていたのではないかと思う。その意味ではあの論争は山本七平氏の側にもまったく落ち度がなかったとは言い切れない。なぜかというと、「百人斬り」という東京日日新聞の報道は必ずしも虚構だったとはいえないからである(これについては後にその記事を書いた記者の証言があるので紹介したい)。いずれにしても山本七平氏は「たとえ事実が明らかになっても、『南京事件というのはなんだあの程度のことだったのか』と言ってはならない」と指摘しているように、南京で多くのむごたらしい虐殺があったらしいという事実は当然のこととして認めているのである。その後、山本七平氏は南京の虐殺事件について詳しく自らの胸中を語ってはいないが、おそらくそのようにみていたのであろう。

いずれにしても、この「日本人と中国人」を読むことによって南京事件について再度見直したいという欲求が私の中に生れて来た。すぐに私は10年ほど前に購入しながらほったらかしにしていた秦郁彦著「南京事件」を読み直してみようという気になった。その後、笠原氏の「南京事件」、ジョンラーベの「南京の真実」などを立て続けに読んでみた。その後も洞富雄氏や「まぼりし派」の書なども複数入手して読んいる。以下、この事件のあまりにもむなしい論争に関する私の結論を述べてみたいと思う。

最初に「まぼろし派」といわれる人々の論点を整理しておこう。彼らが「南京大虐殺はまぼろしだ」とか「南京大虐殺は捏造だ」という根拠をまとめれば以下の通りである。

1)南京攻略前後で南京市の人口は変動していないという論
2)便衣兵の摘発と殺処分は当時の国際法に鑑みて正当であったという論
3)当時、南京へ行った何人ものジャーナリストやカメラマンらの話では大虐殺の証拠はないという論
4)虐殺とレイプは中国軍が行ったという論


他にもいくつかあるかと思うが、大体以上のような根拠にもとづいて彼らは「大虐殺はなかった」と断定しているらしいのだが、これについて順番に調べてみよう。

1)南京攻略前後で南京市の人口は変動していないという論について

「南京大虐殺は捏造である」と主張している人々の最大の論拠になっているのは、当時の南京市内の人口統計である。元々、南京市は百三十万人ほどの人口を擁する大都市であった。これは京都市にほぼ匹敵する人口である。しかしながら、上海事変で中国国民党軍が敗退したというニュースが伝わると、日本軍が大挙南京攻略へ向けて押し寄せてくるのではないかという噂が広がり、多くの市民は自らの住まいを捨てて中国の奥地へと逃げたのである。その結果、南京市内の人口は約二十万人になったとラーベの日記にも記されている。ちなみに取り残された人々は逃げたくても逃げることができないほど貧しい人々が大半であったとラーベ氏は書いている。ところが日本軍が十二月十三日に南京に入城し占領してから南京市の人口がどうなったのかというとほぼ二十万人であり、また南京が平静を取り戻した後の調査では、なんと二十五万人に増えていたというのだ。HP「南京大虐殺は捏造であった」には次のように書かれている。

日本軍の南京への攻撃開始の約1週トビトが間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表しています。そののち日本軍は12月13日に南京を占領しました。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表しているのです。(HP「南京大虐殺は捏造であった」より)

確かに、このような人口統計が事実であるとすると南京で三十万人が虐殺されたという現在の中国共産党政府の主張はまったくありえないことになる。しかしながら、この人口統計にははじめから入っていない人々がいることに注意しなければならない。まず、この数字の中には中国国民党軍の兵士たちは含まれていない。その数は笠原十九司氏によると約十万人いたと想定されている。さらにこの人口統計の中に入っていないのは南京城を取り巻く農村地帯の住民である。日本軍が南京を攻略する数日前に南京城を取り巻く24キロ四方は中国軍によって焼き放たれている。これは日本軍の徴発行動(現地の中国人民家から強制的に物資を奪う行動)を事前に予測してとった「清野作戦」という自衛上正当な戦略である。この結果、大量の農民たちが住居を失い南京城内へ入ってきたと想定されている。ところがこの人々は先の人口統計の中には含まれていない。なぜなら、南京市内に二十万人いるという発表は11月28日にだされているが、農村が焼き放たれたのは12月7日以降のことであり、それ以降の人口の流入は先の計算の中にはいっていないのである。おそらくその地域の住民は数万人はいたであろう。彼らの多くはとりあえず強固な城壁で囲まれた南京城内へ入った方が安全だと思われたであろう。したがって、その後の農村地帯からの流入人口を含めると、12月7日以降の人口はかなり増えていたのではないかと推定できる。

このように考えると、南京市内に取り残されて便衣兵となった兵士の数と焼き放たれた農村部から流入してきた人々の数をあわせると、最大で四十万人ぐらいの人口があったと考えてもおかしくない。そもそも11月28日の中国側の二十万人という発表にしても、おおよその把握にすぎず正確な人口調査を基にしたものではない(あたりまえだが、そんな調査をしている余裕はなかった)。はっきりしていることは日本軍が南京に入城する前の南京市内の正確な人口は誰にも分からないということだけである。したがって、南京攻略前後で人口が変動していないという論拠によって「虐殺はなかった」という「まぼろし派」の主張は正確な事実に基づいたものではなく、その根拠自体が虚構なのである。

2)便衣兵の摘発と殺処分は当時の国際法に鑑みて正当であったという論
南京攻略前後の人口が変動していないという否定派の理屈の中には、はじめから中国国民党軍の兵士の数が含まれていないということを善意の第三者はよくよく注意しておかなければならない。でなければ、「まぼろし派」の論理の虜になって早とちりしてしまうだけである。私自身も東中野氏の著書を読んでいるとき、この人口問題が「大虐殺はなかった」という決定的証拠だと思い込んでしまった。

しかし、東中野氏は便衣兵に対する殺処分行為を認めており、それは彼らが一般市民に紛れ込んだ不法戦闘員だから、その処分は正当なものだと主張していることを知って私の中には違和感が生じた。果たして人間の命を簡単に犬や猫と同じように殺処分にしてしまってよいものであろうかという素朴な疑問をもったのである。この疑問がなければ私自身もいまだに虐殺否定派のまやかしに気付かなかったであろうと思う。この問題ついてHP「南京大虐殺は捏造であった」には次のように書かれている。

そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。
問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。こうした点で、数千人の「不法戦闘員」の処刑は、「捕虜の処刑」でも「捕虜の虐殺」でもなく、合法的なものだったのです。


このような文章をあっさりと書いている方がキリスト教の牧師先生なのだということを思うと空恐ろしくなる。この文章には宗教家どころか一人の人間としての正常な感覚さえ麻痺している者の発想だとしか思えない。

たしかに「兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならない」というようなハーグ陸戦条約の規定は正規の捕虜としての待遇を得るための資格として記されていることは事実である。しかしながら、その資格のない捕虜に対しては人間としての扱いをまったくする必要がなく、殺すのも自由であるとはどこにも書かれていない。兵士が軍服を着用しなければならないという規定は、現実の戦闘において無辜の市民を巻き込むような無差別殺戮をできるだけ少なくするための規定であり、その理想はあくまでも人道上の理由によるものであった。すなわちハーグ陸戦条約の精神には、たとえ戦争といえども人間の命を軽くあつかうことがあってはならないという人道上の理想があり、その理想にそって捕虜を人道的に扱うべきであるとしているのであり、正規の捕虜と認められないものに対してはどんな非人道的扱いも自由であると宣言しているわけではないのである。

しかも、南京事件で「便衣兵」と名付けられた元兵士たちは決して本来の「便衣兵」すなわち「交戦意志をもちながら平服姿に化けた兵士」であったとはいえない。彼らはほぼ全員交戦意志を失くし武器を捨てた元兵士であったので、本来的には逮捕することさえも許されない一般市民として扱われるべき存在であった。なぜならハーグ陸戦規定によれば、兵士というのは経験の有無によって規定されるのではなく、軍服の着用および武器の携行、そして交戦意志の有無によって規定されるのであり、たとえ元兵士であったとしてもその立場を自ら捨て去って軍服を脱いだ者はもはや兵士とは呼べないからである。したがって、そのような者に対しては捕虜として逮捕されることもあってはならないのである。これがハーグ陸戦条約の精神であるといえよう。したがって某牧師のハーグ陸戦条約の解釈には二重の誤りがあるということになる。

この問題については「南京事件の探求」(文春新書)の著者北村稔氏が「まぼろし派」考え方を自ら捨てざるをえなくなった経緯も含めて誠実に語っているので、紹介しておこう。

筆者は吉田氏からのご教示をいただくまでは、日中戦争当時の国際法解釈では、軍服を脱いで潜伏した兵士は戦争捕虜としての保護の対象にはならぬものと考えていた。しかし吉田氏の主張通り、その立法精神を明記した「ハーグ陸戦法規」の「前文」には、各条約の内容を「人道的見地から運用する必要」が確認されている。その結果、「ハーグ陸戦法規」を批准していた日本の戦争法規に関する法律家間においても、すでに日中戦争の時点で便衣兵の扱いに慎重を期する必要性が確認され、この処刑に関しては、裁判の手続きを要するものとみなされていた。ところが南京を占領した日本軍は、裁判の手続きなしに、軍服を脱ぎ捨て民間人になりすましていて中国兵を、便衣兵のゆえをもって集団で処刑したのである。吉田氏は、日本軍による処刑は日中戦争当時の国際法の水準に鑑みても不法行為であったと告発する。当時の実情に即していうと、吉田氏も指摘するとおり、軍服を脱いで難民の中に逃げ込んだ中国兵たちは「戦闘意志」を秘める「便衣兵」ではなく、戦意を喪失した敗残兵の集団であった。そして日本軍もまた、彼らを便衣兵とみなしていたというよりは実際には敗残兵とみなしていたと考えられる。(「南京事件の探求」文春新書P99)

「まぼろし派」がいう便衣兵のゆえをもって殺処分は国際法的に正当であったという論は言葉尻だけをとらえた小中学生レベルの屁理屈というものであろう。しかも、実際に日本軍がやったことは軍服を着用していた正規の捕虜に対する大量の殺処分もあったという数多くの事実をみれば、もはや彼らの論理は完全に破たんしていることは、どんな言葉でも言い繕うことができないほど明瞭である。

日本軍が南京を攻略した12月13日以前に南京城周辺で激戦があった。その激戦で敗れて投降した中国兵たちは、二万名近くいたとされている。当然ながら彼らは国際法の規定によっても正規の捕虜となったわけであるが、はたして彼らは正規の捕虜として規定されている「人道的な扱い」を受けたのであろうか?少なくとも、どこかの捕虜収容所へ連れて行かれたのだというならまだ分かる。しかしながら、実際にはこれらの二万名の捕虜はその場で殺処分となったとされている。この大量の捕虜の処分について北村氏が次のように書いている。

軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を、一旦は収容しながらも数日後に処刑したことは、軍服を脱ぎ捨て潜伏していた兵士の集団処刑に輪をかけて問題を複雑にしている。南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した二万人近い戦争捕虜の処刑が問題の焦点である。
戦争捕虜は「ハーグ陸戦法規」により保護を規定されており、その大量処刑は計画的大虐殺であると告発されても弁解の余地のない出来事である。欧米人告発者も捕虜の大量処刑を伝聞により認知していたと思われる。しかし戦争遂行に支障をきたす場合は捕虜の処刑も容認できるとする国際法解釈(戦数理論)が存在したのであり、このあと指摘するとおり欧米人告発者もこの解釈の存在を認識していた。もっとも吉田裕氏のご教示によれば、このような解釈は当時から世界の法学者間では少数派に属し、陸軍と近かった国際法学者でさえ(吉田裕氏は信夫淳平氏を挙げる)、すでに日中戦争当時において捕虜の処刑に対しては「これを殺さざれば自らの安全を保障し難い場合に限る」という厳重な制限を付けていた。吉田裕氏は南京占領当時の日本軍には「これを殺さざえば自らの安全を保障し難い」などの状況は存在せず、それにもかかわらず捕虜を殺害したことは甚だしく国際法に違反するとして日本軍の行為を告発する。軍服を脱いで潜伏していた兵士の処刑とは異なり、戦争捕虜の処刑に対しては「まぼろし派」の正面切った反論はみられない。(「南京事件の探求」文春文庫P109-110)


二万人の捕虜の虐殺というと第二次世界大戦下での最大級の捕虜虐殺といわれるソ連軍によるポーランド兵の虐殺(カチンの虐殺)に匹敵する驚くべき虐殺数である。これだけをとっても、「南京の大虐殺はまぼろしだ」というのは無理があることが分かる。ちなみに著者の北村氏はかなり右寄りといってもよいほどの保守派の論客であり、虐殺肯定派の誇大な虐殺数については徹底的に疑問を差し挟んでいる方であるが、その北村氏をしてもこの幕府山での二万人近い捕虜の殺処分については事実であったと肯定しておられる。ただし、北村氏は当時の軍の食糧事情の不足などにより、捕虜を殺害せざるをえない状況でもあったということを認め、日本軍の行為の残虐性だけをあげつらうことを避けているのであるが、いずれにしてもこれを仮に弁護しようとするならば、正規の捕虜ではない「便衣兵」に対する処分の正当性を弁護することと矛盾してくるわけであり、結局、「まぼろし派」の論理は完全に破たんしているといわざるをえないのである。

事実、東中野氏の著書を調べてみても、この幕府山での捕虜虐殺に関してまったく触れられていないので、この点では反論を放棄しているとみなさざるをえない。ついでながら彼の著書にはふんだんに写真が利用されているのであるが、書かれている内容はというとお粗末なものであり、たとえば「このようなさまざまな見解にとどまりながらも、秦郁彦教授の主張が、越え難い大山のごとくに聳え、私たちの行き着くべき結論かと思えた」(「南京事件 証拠写真を検証する」草思社P9)とはじめの方で殊勝なことを書いているのであるが、どんなに読み進めても秦氏が著書の中で紹介した一次資料に対するまともな反論らしきものはみあたらない。またラーベの日記についても、ただ漠然と「伝聞にすぎない」と述べているだけであり、おそらく1997年に講談社から出版された本(「南京の真実」)にも目を通していないのではないかと思うほど完ぺきにスルーなのである(出版時期(初版2005年)をみると、まさか目を通していないことはないはずだと思うが)。

要するに何らかの理由で彼は「虐殺肯定派」と同じ土俵では取り組みができないのであろう。そこでは負けが決まっているので、別の土俵で相撲を取りたいということなのであろうか?彼の本の唯一の売りは「南京虐殺の証拠として通用する写真は1枚もなかった」というものである。みかけは確かに鮮明な写真をふんだんに使用している分、見栄えのする豪華な本になっている。文字だけのお固い本は読み慣れない漫画世代には恰好の本である。実はそこにこの本の狙いがあるのではないかとさえ勘ぐられる。いかにも平和そうな南京当時の写真を大きくみせることで、読者の印象操作をすることが狙いではないか?

しかし、(あたりまえのことだが)それらの一見平和そうな写真はすべて日本軍によって意図的に撮られたプロパガンダ写真である。そもそも虐殺を物語るような写真が数多くあるわけがない。こしたがって、この本のタイトルにもなっている「南京事件 証拠写真を検証する」という試みにいったいどういう意味があるのか分からない。そもそも虐殺を物語る写真が数多く存在するわけがないのであるから、「証拠写真を検証する」意味がいったいどこにあるのであろうか?また虐殺肯定派が写真を証拠にしているなどという話は聞いたことがない。その意味はせいぜい中国共産党が使用している証拠写真のいい加減さを検証する程度のことでしかないであろう。しかし、中国共産党のプロパガンダを告発したところでいったい何の得になるのか?そんなことははじめからわかりきったことではないか?

結局、彼の本はこれといった内容のないみせかけ本にすぎないのである。これは虐殺肯定派の専門家に対して論争を挑んだ学術的に価値のある書ではなく、そのようなレベルの論争を期待する読者を対象としたものでもない。むしろこの本は、南京事件についていままで深く考えたことのない善意の第三者のみを対象とした低俗なアンチ啓蒙書ともいうべき類の書にすぎないのではないかという気がする。この問題をもっと深く考察しようとする人ならば、当然ながら秦氏や笠原氏の専門家の研究と比較対照するだろうが、それほどの熱意のない者にとっては恰好の餌食となるだけであり、この点では気をつけなくてはならないだろう。

3)当時、南京へ行った何人ものジャーナリストやカメラマンらの話では大虐殺の証拠はないという論
ラーベの日記を慎重に読むと自ずから分かることだが、虐殺は誰の目にも触れるように公然と行われているわけではなかった。虐殺が行われたのは主に南京城外にある長江沿いの下関一帯であり、そこは多くの一般人の目に留まるような場所ではなかった。また南京城内で行われた虐殺も、人目のつかない空き地などで行われたのであり、その遺体も沼地や側溝など人目のつかない場所に放置されていた。ラーベ氏の2月7日の日記には次のように書かれている。

紅卍会の使用人二人に案内されて、午前中ソーンといっしょに西康路の近くの寂しい野原にいった。ここは二つの沼から中国人の死体が百二十四体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げ込まれたのだ。近くのもう一つの沼には二十三体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。

当時の南京市内には沼地が3000もあったという。このラーベ氏の証言によると、数千の遺体が沼地などへ投げ込まれていたということになる。一方、南京市の主要な大通りは12月17日の朝香宮殿下を迎える入城式の前にきれいに整理されており、はじめてそこに来た者は一見して何事もなかったかのような印象を受けたであろう。多くのジャーナリストやカメラマンが南京に入ったのはその後のことであり、彼らが虐殺の印象をもたなかったのは至極当然のことである。

東中野氏や田中正明氏、鈴木明氏らと並んで「まぼろし派」の主要論客として知られる阿羅健一氏が「南京事件 日本人48人の証言」(小学館文庫 2002年)という本を出版している。この本は南京へ行ったジャーナリストやカメラマン、そして兵士たちの証言を集めたものである。当然ながら、そこで紹介されている人々は「南京大虐殺はなかった」という阿羅氏の目的に沿って選ばれた人々であると思われる(明らかに虐殺肯定派の人は選ばれていない)が、これを読むと、「南京虐殺は見たことも聞いたこともない」と全員口裏を合わせたようにいうのであるが、その一人ひとりの発言をみると、面白いことにその口からボロボロと止めどなく(虐殺と思われる)新証言がでてくるのである。この点、阿羅氏にはよくぞそれらの証言を包み隠さず(?)本書に収めてくれたものだと評価したいと思う。

阿羅氏はこの本の「あとがき」で次のように書いている。

「南京にはいたるところに死体があり、道路が血でおおわれていた、としばしば語られるけれど、そのような南京は48人の証言の中にはまったくない。東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事のようだ。」

この文章で阿羅氏は意図的にか、あるいは誤解しているのか、「南京にはいたるところに死体があり、道路が血でおおわれていた、としばしば語られるけれど…」と書いているが、いったいそのような話を誰がしているというのであろうか?ラーベ氏の日記を読んでもそんな話は出てこないし、東京裁判でのマギー牧師やフィッチ氏の話にもそのような誇張した話はないはずだ。ただ南京事件について何も知らない人々がそのようにイメージしているだけではないか?確かに20万人とか30万人の中国人が殺されたというからには、その死体は南京市内のいたるところにうず高く積まれていなければありえないと想像されるかもしれない。事実、漫画家の小林よしのり氏らはそんなことをいっているらしい。要するに、このような想像は虐殺肯定派がいっているのではなく、むしろ虐殺否定派が勝手にそのように頭の中で妄想して、それを否定の材料にしているにすぎないのではないか?

尚、東京裁判で認定された被害者の数は10万人から20万人であり、その数字は南京城内で想定された死体の数だけではなく、南京城外で想定された死体の数を含めている。しかも、それらの数字は日本軍に許可をとって活動していた紅卍会と崇善堂などの慈善団体が実際に埋葬した死体の数を根拠にしているのであり、中国の国民党軍が勝手に捏造した数ではないのである(ましてや中国共産党とは無関係である)。これによると、紅卍会が埋葬した死体の数は主に南京市内で約4万体とされ、また崇善堂が埋葬した死体の数は主に南京城外で11万体とされている。紅卍会の埋葬数についてはほぼ正確な数であったと現在でも議論の余地なく認定されているが、ただし、崇善堂の埋葬数については一部の虐殺肯定派からも疑問が呈されており、それはそれで今後の検証課題であろう(もし東京裁判で捏造があったとすれば、崇善堂の埋葬数が誇張されたのではないかという話にはなりうる)。ただし、それらの埋葬数には揚子江に流された何万人という被害者の数は含まれていないので、その数字を含めると、東京裁判で認定された10万から20万という数は必ずしも非現実的であるとはいえないと思う。しかし問題はそれらの数字の真偽ではなく、実際にはその推定数の四分の一程度であったとしても、これは史上まれな大虐殺というべき事件であったという事実になんら変わりはないということである。

私は毎日、何十羽の雀を目にするが、しかしいまだかつて雀の死体をどこにも見たことはない。だからといって、雀は死なないということはいえないのと同じように、南京市内に死体が散乱していなかったという証言をもって虐殺はなかったということもいえないのである。南京市は京都市とほぼ同じ規模の大都市である。その中で何があったのかということを、わずかな滞在時間の間にすべて把握することも不可能であろう。にもかかわらず、彼らは「虐殺なんて見たことも聞いたこともない」などと断言するのであるが、しかし阿羅氏も認めるように、そういいながら同じ舌で大量の中国兵が刺殺されているのをみたとか、あるいは揚子江に無数の中国兵の死体が流れているという話を聞いたとか、そのような話がボロボロとでてくるのである。虐殺というのはまさにそういう個々の不法殺戮の総体を意味しているわけだが、彼らはそれをいまだに虐殺だとは認識していないので、自分では虐殺の証言だとはつゆも思わず、それを証言しているというわけである。以下、その証言の一部を紹介しておこう。

東京日日新聞記者 鈴木二郎記者
阿羅 さきほどの下関の死体ですが、殺している現場を見たのですか。
鈴木 いや、死体を見ました。千人以上はありました。
阿羅 散兵壕の死体は戦死体ではなく、焼死体だったのですか
鈴木 ガソリンをかけて焼いてありました。これらすべてが虐殺だったかどうかというと、全てが虐殺だったとは必ずしも言えない。しかし、それは敗戦国の運命で虐殺になってしまいます。
阿羅 次に百人斬りの話を聞きたいのですが、
鈴木 私は三回の記事のうち、最後の記事だけにかかわっています。南京へ行く途中、あれを書いた浅見君に会ったら、こういう二人がいる、途中で会ったら何人斬ったか数を聞いてくれ、といわれていた。そこであの記事になった。全体のことはあまり知らなかった。

阿羅 二人から話を聞いて、本当の話だと思いましたか。
鈴木 逃げる兵は斬らないといっていました。本当だと思いました。戦後、野田少尉が、塹壕にいる中国兵にニーライライと言ってでてくるところをだまして斬った、と語ったと聞いて、裏切られた思いをしました。

報知新聞 二村次朗カメラマン
阿羅 捕虜をやったという話がありますが。
二村 「数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れて行かれるのを見たことがあります。たしか昼でした。
阿羅 捕虜をみて社で話題になりませんでしたか。
二村 捕虜といっても一人や二人を斬るのは見たことあります。皆もそういうのは見ているから、特に話題になったことはありませんでした。捕虜と一言でいいますが、捕虜とて何をするか分かりませんからね。また戦争では捕虜を連れていくわけにはいかないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。
阿羅 南京で死体はみなかったですか
二村 死体はほとんどみませんでした。何百人の死体をみていれば、記憶にあると思います。多くの特派員が揚子江に無数の死体が流れているのを見た、という話は聞いたことがあります。

報知新聞 田口利介記者
阿羅 第十六師団の軍紀はどうでしたか
田口 私が見たかぎりどうということはありませんでした。ただ、南京に向かう途中でしたが、第十六師団の曹長で、百人斬りをするんだと言っていたのがいました。南京まで百人斬ったのかどうか知りませんけど、戦友の仇をとるんだといって、中国人をみると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃなく便衣の者もいたと思います。
阿羅 南京事件を知ったのはいつですか。
田口 最近です。前田君(同盟通信記者)の本なんかを読んでね。あの本には下関に死体があったと書いてありましたが、私が行った時はありませんでした。私と同じく海軍の従軍記者の岩田岩二氏が、遅れて揚子江から砲艦で南京入りしましたが、彼は南京に近づくと無数の死体が流れてきたと言っていました。しかしその当時はこれが大虐殺によるものかどうかピンときませんでした。

読売新聞 森博カメラマン
阿羅 日本兵による中国兵に対する殺戮があったと聞いていますが
森博 ありました
阿羅 ごらんになったのですか
森博 見ていませんが兵隊から聞きました。
阿羅 どんなことですか
森博 捕虜を揚子江の淵に連れて行って、どこかに行けといって放したが、結局、殺したということです。岸が死体でいっぱいだったとも聞きました。
阿羅 略奪もあったと聞いていますが
森博 南京ではどうだったか分かりませんが、略奪といいますか、そういうことは兵士だけではなく記者もやっていました。作戦が始まるとき、連隊本部からは従軍記者も何日か分の食糧をもらいます。しかし重いですから二三日分の食糧しかもたずに従軍して、なくなれば後は民家に入って探します。食糧をとるのは悪いとは思っていませんから、そういうことは兵隊も記者もやっていました。

同盟通信 新井正義記者
「われわれが南京にいたとき、大虐殺なんて聞いたこともなかった。何年か前上海の支社長をやっていた松本重治が回顧録を書くことになったが、松本は上海にいたから南京のことは何も知らない、そこで南京で取材を行っていた深沢と前田、そして僕が呼ばれた。一緒に話をしながら当時の話をしてくれというわけだ。その時、前田は見たといっていたが、僕は虐殺とかそういう現場を見たことがないんだな。
死体は見た。兵士の死体だ。便衣の者もいた。その中に捕虜の死体もあっただろう。南京の全域をカバーしたわけではないが、全部で三四万の死体があったんじゃないかな。

同盟通信 浅井カメラマン
阿羅 虐殺があったtいわれていますが。
浅井 私は見ていませんがあったという話です。
阿羅 やっているのを誰かが見たのでしょうか?
浅井 少数の記者が死体を見たといっていました。東宝の白井茂さんなんかはわれわれと違って、南京の真ん中に宿舎があったので、いろいろ見たでしょう。『カメラマンと人生』に書いています。
阿羅 浅井さんご自身がご覧になったことは?
浅井 中国人が城内をぞろぞろとひかれていくのは見ています。その姿が眼に焼き付いています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えている者や、難民となって南京に逃れてきた農民もいたと思います。手首が黒く日に焼けていたのは敗残兵として引っぱられていったと思います。
阿羅 それはいつ頃ですか?
浅井 昼でした。二百人か三百人の列で、その列が二つか三つあったようです。


同盟通信 細波孝無電技師
阿羅 南京城にはどういうコースで行きました?
細波 湯山を通って中山門から入りました。湯山の近くでは相当の捕虜が竹囲いの中にいたのが印象的です。
阿羅 どのぐらいの捕虜ですか?
細波 数えた訳ではないのでよくわかりませんが、一万人近くいたと思います。南京へ行く通りからは見えませんが、ちょっと入ったところに竹囲いがあり、そこにいました。その時は偶然見たのだと思います。

阿羅 南京では虐殺があったといわれてますが、ご覧になってますか?
細波 言っていいですか?
阿羅 ぜひ
細波 虐殺なのかどうか、誰にも言ったことがないのです。揚子江のところに下関という広いところがあってね。
阿羅 南京の船着場ですね。
細波 そうです。城門をでた河川敷の土手のところです。ここには塹壕やトーチカもありました。コンクリート製で真四角の水車小屋のようなものです。中国では守りのため重要なところにはこういうのが一つか二つありました。
阿羅 やっているのを見たんですか?
細波 いや、やったすぐ後のことだと思います。やってるところは見せないでしょうからね。トーチカに捕虜を詰め込んで焼き殺したと思います。トーチカの銃前から苦しそうに息をしてこちらを見ている中国兵がいたことが、今も印象に残っています。苦しそうに鼻をふんふんいわせてね。
阿羅 トーチカには何人ぐらいいましたか。
細波 二三十人は入るんじゃないかな。家具などが詰めてありました。そういうのが三つか四つありました。たぶん焼いたと思います。銃弾はもったいないので、家具にガソリンをかけて焼いたと思いますよ。トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。中には針金で縛って繋いでいたのもありました。阿羅 死体の数はどのくらいですか。
細波 さあ、どの位か。百人位でしょうか。湯山にいた捕虜をやったのでしょう。
阿羅 湯山から連れていかれたのですか。
細波 たぶんそうだと思います。私が南京にはいってから捕虜が連れて行かれるのを見ましたから。あれが湯山の捕虜だと思います。
阿羅 南京城内を連れて行かれたのですか。
細波 えーと。そうですね。中山門に通じる通りだったと思います。たしか夜でした。誰かが捕虜の移動だと言うので見に行った記憶があります。八列縦隊で五十メートルぐらいで区切って、いくつかありました。捕虜はぞろぞろと歩いて、列の前と後ろに日本兵が何人かついていました。
細波 私が見たのは湯山にいた捕虜の何分の一かでした。見たのはそれだけですが、何回かに分けて連れて行かれたのではないでしょうか。一度に連れて行ったら大変ですから。
阿羅 そうすると下関には一万人近くの死体があったわけですか。
細波 いいえ
阿羅 一万人をやっている途中を見たのですか。
細波 その時の様子から。私が見たのは終り頃だと思います。私の想像ですが、揚子江は干満の差が激しいので江岸にあった死体は、中心の激しい流れに巻き込まれ、浮上せずに黄海へ流れて行ったと思います。あとで二万人位捕虜をやったと聞いたことがあります。だから下関では場所と時間を考えると一万弱ですが、やったのではないかと思います。湯山では窪地などもあり、そのような見えないところでも、何人か捕虜をやったということを聞いたことがあります。これも見たことではありません。捕虜が連れて行かれるのを見た時はただの移動だと思っていましたが、下関で見た時、そういえばあの時の捕虜は顔が青白く、三途の川を連れて行かれるようなものだったなと思いました。

阿羅 下関での正確な日を覚えていますか。
細波 入城式の前の日か、その日だったような気がします。
阿羅 時間は
細波 朝早くだったと思います。だから夜やったのでしょう。
阿羅 細波さんがご覧になったことは同盟通信の中で話題になりましたか。
細波 話題にしませんでした。
阿羅 なぜですか。
細波 その頃は死体といっても免疫になっていましたから、

松井軍司令官付・岡田尚氏の証言
阿羅 蘇州にはいつまでいましたか。
岡田 二日ぐらい蘇州にいて、いよいよ南京が陥落だというので、私は管理部の村上中佐と湯水館まで進みました。湯水館に行く途中のことですが、日本兵がクリークの土手で捕虜を刺殺していました。
阿羅 何日のことですか。
岡田 十二日だと思います。午後一時ごろでした。千人から二千人位の中国兵が空地に葬られて、中には女の兵士もいました。何人かを土手に並べて刺殺していましたが、それを見て残虐だと思っていると、村上中佐が車から降りて、指揮官の中尉か少尉にそのことをいいました。すると、戦の最中だし、これしかないと言われましてね、そういわれると、我々も何も言えません。指揮官は弾が大切なので撃ち殺すわけにはいかない。司令部には問い合わせていない、と村上中佐に言ってました。中国兵をどんどんやって、南京に行くということしかなかったと思います。さきほど言いましたように殺気立っていましたし、捕虜をどうしたらよいか方法がなかったと思います。

第十軍参謀 谷田勇大佐の証言
阿羅 南京城内の様子はどうでしたか?
谷田 軍司令部が南京城内に入ったのは十四日のお昼直前、十一時三十分でした。中華門から入ったが付近に死体はほとんどなかった。三時頃になり、私は後方課長として占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵一個分隊を伴い自動車で城内一帯を廻った。下関に行ったとき、揚子江には軍艦も碇泊しており艦長と会見した。この埠頭の岸辺には相当数の死体があった。千人といったが、正確に数えれば千人以上あったと思う。二千人か三千人位か。軍服を着たのが半分以上で普通の住民もあった。

海軍従軍絵画通信員 住谷磐根氏の証言
阿羅 南京にはいつ頃着きましたか。
住谷 私の乗った栂は第十一艦隊に属していましたが、何かの都合で遅れて上海を発ったようでした。上海の黄浦江を出てから南京まで二、三日かかったと思います。南京に近づくと遠くで南京が燃えており、さらに近付くと千五百メートルか二千メートル先で、船に乗った中国兵が浦口へ逃げて行くのがみえました。そこで栂はこれを砲撃し、しばらくすると板きれなどにつかまった中国兵があっちにもこっちにも流れてきましたので、今度は小銃で撃ちました。甲板から水面まで四、五十メートルぐらいですから、百発百中です。寒い冬ですからそのままでも死んだでしょう。中にはこっちをみておがんでいる兵隊もいました。阿羅 南京には相当の捕虜がいたといわれますが。
住谷 暗くなって帰ったその日のことですが、興中門近くにきた時、向こうに黒い影が見えてきました。道路は建物の影でなければ白く見えますから何だろうと思い、ちょうど興中門でその影を追い越しましたが、その影というのは中国兵の一団でぞろぞろ歩いて行くところでした。その後、参謀室にいると、南京で敗残兵をとらえたということを第三艦隊に報告していたらしく、敗残兵はどうなったかと無線の問い合わせがきていました。その敗残兵とは先ほど見た中国兵だったらしいです。
そのうち一人の中尉が試し斬りをすると、軍刀をもっていこうとするので私もついて行きました。行くと埠頭の突端に鉄の柵があり、そこから先はコンクリートで護岸されてまして、ここに四五人ずつならべて後ろから銃剣で突いてコンクリートに落としていました。日本兵は二十人ほどで中国兵が千人弱いました。それを見ていた中尉は試し斬りをする気も失せてしまいました。
私が懐中電灯をつけてみていましたら、そこにいると返り血を浴びるといわれましたので、それをしおに帰りました。
翌朝早く起きて行ってみると、コンクリートの上は死屍累々で、数えてみると八百人ほどの死体がありました。中には死にきれずに手を動かしている者や、ごそごそと動いている者もいました。銃剣で後ろから刺すだけですから、死なない兵もいます。揚子江はまだ増水していませんでしたが、増水すれば湾岸ぎりぎりのところまできますから、流れてしまいます。これが後で南京虐殺だといわれたのだと思います。

外務省情報部特派カメラマン 渡辺義雄氏の証言
阿羅 南京に着いたのはいつですか。
渡辺 掃海艇で一晩過ごし、翌日、南京に着いたと思います。日にちがはっきりしませんが、入城式の一日か二日ぐらい前ではなかったでしょうか。
阿羅 下関に着いたのですね?
渡辺 そうです。下関に着きましたら、そこにいた兵隊がわれわれに、三百メートルから五百メートル先で首斬りをやっているから見ないか、川べりで斬って川に落としている、というのです。間もなく川が赤くなるともいってました。そう言われましたが、木村さんは死体をみるのも嫌な人でしたから、見たくないといい、そのままになりました。
阿羅 斬ることは公然と行われていたのですか?
渡辺 その兵隊は見ませんか、撮りませんかといってましたから、全然隠していません。兵隊たちは戦友がやられた復讐心が強かったので、斬るのは当然だと思っていたと思います。
阿羅 斬っていると聞いてどう思いましたか。
渡辺 前の日、私も上海で大場鎮の激戦跡をみていますから、南京では兵隊のそういう気持ちを聞くと、さもあろうと思いました。残酷だと思いつつも、もっともだなと思いました。その時、中国兵が斬られるのは戦争での当然の刑罰だと思いました。
阿羅 斬られた中国人は捕虜だったのですか?
渡辺 翌日か翌々日に南京城内で将校と下士官の二人がいましたので、いろいろ聞きますと、捕虜をつかまえて南京にある監獄にいれたが入りきれないし、食べさせる食糧もない、やむをえずやったといってました。二人は私に、それではどうやって食わすのだといってました。それを聞いて私はしょうがないなと思いました。
阿羅 どの位の捕虜がいたのでしょうか?
渡辺 捕虜と犯罪人で一万人位いたと聞きました。そのうち何人かをやったということですが、犯罪人をやったのか、捕虜はどのぐらいその巻き添えをくったのかは分かりません


引用終わり

前に述べたように、この本は「まぼろし派」の代表的論客の一人阿羅健一氏によって集められた証言集である。したがって、これらの証言は「まぼろし派」の見方に偏ったものと受け取るのが普通であろう。実際、戦後になって自ら積極的に虐殺の証言をしていた元兵士や従軍記者、カメラマンなども数多い。しかし、この本ではそれらの虐殺の(積極的)肯定派の証言は紹介されていない。にもかかわらず、これだけの証言がボロボロと集まるということは、やはり大虐殺があったという事実には覆いがたいものがあるということを物語っているのではないか。

これらの証言を注意深く聞いていると、前に紹介した秦郁彦氏や笠原十九司氏、そしてラーベの日記にも描かれたさまざまな虐殺シーンと重なる証言があり、それらの資料の信頼性をあらためて強く裏付けてもいるということである。同時に上の証言の中には新たな事実ともいうべき貴重な証言もみられる。たとえば、下関で大量の首斬りが行われていたという事実やまた別の証言では下関の埠頭で捕虜たちをならべて銃剣で順番に突き殺していたという証言もあれば、さらに別の証言ではトーチカの中にいれて焼き殺したとか、あるいは別の証言では南京城外で女性も含めた数千人の捕虜が刺殺されていたという証言もあった。そして、これらの残虐な殺害行為は銃弾を節約するためでもあったという驚くべき証言もでている。

もうひとつ注意すべきことは、この本にでてくるジャーナリストやカメラマン、兵士たちは、いずれも南京の戦争犯罪に間接的にせよ加担した人々であったということである。特に兵士たちはほとんどが大尉以上の将校であり、中には戦争犯罪人として投獄されていた人物もいる。またジャーナリストやカメラマンにしても、すべて当時のプロパガンダに加担した人々であった。彼らはその当時、捕虜や便衣兵の虐殺があったということを知りながら、それを国際法に違反する不法な処刑であったとは思わず、それらの事実を黙殺し報道しようとさえしなかった。しかも、彼らは戦後になっても捕虜の処刑は戦争だから仕方がなかったという見方で、いささかの反省もなく自己正当化しているのである。そして、この本の著者でありインタビューアでもあった阿羅氏自身も彼らと同じ地平に立って、それらの虐殺行為の正当化に汲々としているのである。この証言集について阿羅氏は最後に次のように纏めている。

ともあれ南京事件と言われるものの実態は中国兵の処断である。戦場であったから悲惨な場面はいくらもあった。逃げようとする中国兵の中には城壁から落ちて死んだ者もいた。しかし、それは戦場ならどこにでもある光景である。四十八人の証言はそういったことを教えてくれる

このような大雑把な結論は、自身が集めた書中の証言者の具体的証言を意図して暈かすものであろう。果たしてこれらの証言は戦場ならどこにでもある光景だったのであろうか?では、いったいその戦場とはどの戦場を指しているのか?確かに研究者によると南京以外の戦場でも多くの虐殺証言がある。日中戦争全体では最大で2000万人以上の犠牲者があったとされているので、むしろ南京の大虐殺事件はその一部にすぎなかったとみるべきである。そのような意味では阿羅氏の指摘も正しいかもしれないが、すべての戦場を相対化して、どの戦場でも似たようなことはあったという意味ならば、その指摘は「南京大虐殺は幻だ」という自らの論を破たんさせないための詭弁以外の何物でもない。すなわち、そのような指摘は虐殺はどこの戦場にもあったという漠とした一般論にすり替えているだけではないか?阿羅氏がこれらの証言によって認めるべきことは、南京の虐殺を物語る証言は事実多くあるということであって、決してその逆ではありえないであろう。

ついでながら阿羅氏は当時南京へ取材に行った第一回芥川賞受賞者の石川達三氏にも電話でインタビューを申し込んだが、残念ながら会うことができなかったと書いている。しかし、次のような返事をもらったそうである。

私が南京へ入ったのは入城式から二週間後です。大虐殺の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私には今も信じておりません。

石川達三氏が南京に入ったのは実際には一月五日である。この時は確かに数多くの死体は処理されていて、南京市内は見た目には虐殺の痕跡は分からなかったかもしれない。しかし、彼は精力的な取材によって、南京事件を題材にしたルポルタージュのような小説を帰国後、わずか数週間で書きあげている。その作品が「生きている兵隊」(中公文庫)である。しかしながら、この作品は首斬りシーンや女性のレイプなど残酷な描写があるという理由で発禁処分となり、彼は四か月間もの拘留を強いられた。石川達三氏は南京攻略戦を国を挙げて祝賀する当時の異様な空気の中で、戦争を決して美化せず、戦争とはいかに残酷なものであるかということをその作品で描こうとしたのである。これは70年も前の出来事であるが、最近の「裸足のゲン」に対する教育委員会や文部省、そして一部の新聞社の反応をみていると、時代の雰囲気はあまり変わっていないように思われよう。

笠原十九司によると、戦後、石川達三氏は1946年の読売新聞のインタビューで次のように答えたと紹介している。

入城式に遅れて正月私が南京へ着いたとき、街上は死体累々で大変なものだった。大きな建物へ一般の中国人数千人を押し込めて床へ手榴弾を置き、油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜を錬兵場へ集めて実弾の一斉射撃によって葬った。しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切って河中へつきおとしたり、逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机につかまって川を流れていくのを下流で待ち構えた駆逐艦が機銃の一斉射撃で片っぱしから殺害した。(笠原十九司著「南京事件論争史」平凡社新書P90)

このような石川達三氏の証言は先の阿羅氏の証言集の中の証言と奇妙な一致を示している。したがって、これは捏造話ではありえないであろうと思う。だとすると阿羅氏が紹介した電話インタビューは本当にその通りであったのか疑いが残る。


4)虐殺は中国人が行ったという論
「まぼろし派」の本などを読むと必ずでてくるのは通州事件の言及である。この事件は盧溝橋事件(1937年7月7日)から3週間後に北京市郊外の通州市で起こった凄惨な事件であった。事件の概要は次のようなものである。当時、通州には仕事の関係で約400人の日本人が在住していた。その頃、満州を取り巻く華北一帯は反日行動が相次ぎ不穏な空気に包まれていた。しかし、日本軍は華北一帯を支配していた糞東防共自治政府を親日派として手なずけており、通州の日本人を保護するために彼らが組織する保安隊にまかせていた。ところが盧溝橋事件で戦争が勃発すると、保安隊の態度が変わり、彼らは日本人に対して突然牙を向け、日本の民間人に襲い掛かり、232人が虐殺されたというものである。その殺害の仕方は表現するのも躊躇われるほど残虐なものであり、この事件が当時の日本の新聞でも大々的に報じられたために、この事件によって中国を制裁すべしという日本の世論が沸騰したといってもよいであろう。

「まぼろし派」の言い分では、この事件によって日本軍は正当防衛的な報復行動に出たのであり、したがってその後の南京攻略にまで到る戦争はやむをえなかったのだと一様に指摘する。しかしながら、この事件が起こる前にすでに日中間で激しい戦争が起こっており、日本軍は北京市をはじめとしてその一帯を攻撃していた。その攻撃の最中に親日派の保安隊を間違って誤爆し、彼らを敵に回してしまったという経緯がある。

ただし、この事件は当時としては日本で大きく報道されたが、戦後になって完全に忘れ去られ歴史教科書でも決して教えられることはない。戦後の東京裁判で日本側の弁護人がこの事件を取り上げて、日本側を弁護しようと試みたが、裁判官からはまったく相手にされなかった。それゆえ、「新しい歴史教科書を作る会」などが、これこそ戦後の自虐史観の象徴であると考え、この事件に焦点をあてようとするのであるが、しかし、そもそもこれは満州を強奪した後に華北一帯での日本の横暴な威圧行動が続く中で起こった出来事(日本側から見れば反日行動であっただろうが)であり、しかもその虐殺を犯した者たちは日本側に雇われていた親日派の保安隊であったということをみると、この事件で一方的に中国を非難するのはあたらないであろう。

しかしながら、「まぼろし派」の人々、およびその影響を多少なりとも受けた人々は、この事件を事実関係を無視して誇大に考え、これこそ日中戦争の原因であるかのようにいうのである。そして、彼らはこの事件で示された中国人の残虐性こそが非難されるべきであり、その後に日本側が起こした南京の虐殺事件を等閑に付し、それどころかこの事件の証拠をもって南京の虐殺事件は実は中国側が行ったのだとさえ述べるのである。

数日前の夕刊フジでアパグループのCEO元谷外志雄氏が「自虐史観に満ちている反日メディアの正体」と題する小論を投稿していた。その中には「はだしのゲン」の日本軍の残虐な描写に関する問題で次のように書かれている。

松江市教委が公立小中学校に置かれた漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を要請し、それが撤回された件もひどかった。「表現の自由や知る権利に関わる重大な問題だ」と批判していたが、こんな漫画を学校に置いたのはGHQが誕生させたといわれる日教組の後押しだろう。漫画には、日本軍による中国での蛮行が描かれているが、昭和12年に中国・北京の北方で起きた中国保安隊による日本人大虐殺事件(通州事件)を取り違えているとしか思えない。

この人はおそらく何冊もの反自虐史観の本に目を通したのであろう。そこにはどの本にもそのように書かれているので、このような早とちりをしているのだろうとしか考えられない。せめて秦郁彦氏の「南京事件」を丁寧に読めば、「はだしのゲン」の描写が通州事件のものではなく、その何百倍もの規模で日本軍が中国で行った残虐行為もあったということが分かるはずである。

たとえば、ラーベの日記(「南京の真実」講談社)にも証言されている日本軍の残虐行為について「まぼろし派」の代表的論客・田中正明氏は次のように書いて自らのブログ(「南京の真実は真実ではない」)に発表している。

ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない

田中正明氏が問題にするラーベの日記とは次の記録である。

今しがた張から聞いたのだが、私たちがかつて住んでいた家の近く、通りを入ったすぐのところの小さな家で人が殺されたそうだ。十七人の家族のうち、六人が殺されたという。娘たちをかばって家の前で日本兵にすがりついたからだ。年寄りが撃ち殺されたあと、娘たちは連れ去れれて強姦された。結局、女の子ひとりだけ残され、みかねた近所の人が引き取った。局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうでみかける。吐き気がして息苦しくなる。七十を超えた人さえ何度も暴行されたのだ……

この記録は2月3日に記述された日記である。この時期には中国兵どころか便衣兵もほとんど逮捕されていなかったはずである。したがってこれを中国兵の犯罪だとするのは無理があるだろう。

にもかかわらず、「そのような風習は支那にはあっても、日本には絶対ない」と断言できる根拠はいったいどこにあるというのだろうか?確かに通州事件ではそのような殺害事例が何件もあったといわれているが、だからといってそれが中国の風習であるとなぜいえるのか?それが中国の風習であるという学術的研究でもあるというのならまだ話は分かるが、そうでもない限り、そのような決め付けは中国の人々に対して失礼な話であろう。仮に百歩譲ってその通りだとしても、田中氏も認める通り、日本軍の行動には通州事件の報復という動機もあったのではないか?だとすれば、日本軍がそのような中国式風習をまねていたとしても不思議ではあるまい。

そういえば先に紹介した石川達三氏の「生きた兵隊」の中にも最初の方で中国女性に対するレイプ殺人のシーンの描写がある。その話は単なる想像ではなく石川氏が自ら当時の南京で取材したルポルタージュとして書いた作品である。この小説は祖国に帰れば普通のどこにでもいる男が兵士となって平気に残虐な行為を行えるようになる戦場での異常な心理的変化を見事に描いた作品である。戦場では残酷な行為を平気で行えることが勇者の証であり、そのような無感性人間になることに憧れさえいだくようになるということが戦場の実態であると石川達三氏はこの作品で描いているのであり、それこそが戦争の恐ろしさでありまた人間の恐ろしさであるということを教えているのである。つまり残虐さは「風習」の有無ではなく、どんな人間にも潜んでいるということである。だから、田中氏のようにそんな行為は中国人のやることであり日本人にはできないということは決して言えない。

いずれにしても、そのような女性に対する殺害事例があったということはラーベ氏の記述にのみみられるのではなく、秦郁彦氏の一次資料の中にも日本兵や従軍カメラマンの戦中日誌にも記されている。これをみると、もはやその事実は誰にも否定できないはずである。この事例については別稿(「はだしのゲンの描写は不適切か?」)でも紹介したが、再度紹介しておく。田中正明氏はまさかこの資料を知らないはずはないと思うが。


命令の有無はともかく、住民の無差別殺戮は現実に横行した。第十軍に従軍した前記の河野カメラマンは、「川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突き刺したりした。杭州湾から昆山まで道端に延々とそういう死体がころがっていた」(「証言記録三光作戦」46-47P)秦郁彦著「南京事件」P72

中山門外で別の処刑風景を目撃した小原予備主計少尉(第16師団経理部)は次のように記す。
「最前線の兵七名で凡そ三百十名の正規軍を捕虜にしたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取り上げ服装検査、その間に逃亡を図った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す…中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っ込む。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた」(小原立一日記 十二月十四日)秦郁彦著「南京事件」P121


読めば分かるように、この資料はいずれも日本の従軍カメラマンと兵士が残した戦中日誌であり、中国人が残したものではないのである。田中正明さん、貴方はこれらの資料を否定したいなら、それを否定できる科学的根拠を自ら明示しなければなりません。でなければ貴方の発言は無責任な感情的発言だとみなすしかないでしょう。

このように何でも悪いことは中国人の仕業にしようとする「まぼろし派」の論理がめちゃくちゃだということを知るためにもうひとつ。謀牧師のHP「南京大虐殺は捏造だった」をみると次のような記述がある。

つぎに、南京国際委員会のメンバーが残した南京における強姦事件の記録について、もう少しみてみましょう。
ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦! 強姦! 強姦! 我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」
 
しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「~しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。

そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。

また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。


いやはやここまでいわれると反論する気も萎えてくる。確かにどんなに不利な証拠が多くても自分の都合のいいように解釈しようとすれば可能ではある。しかし、当時の南京安全区の中で中国兵が民間人になりすまして逮捕を免れること自体が難しい状況の中で、自ら中国女性を強姦する勇気があったというのはよほどのつわものか、命知らずだったと考えられよう。たしかに、そのような命知らずの元中国兵もいたのかもしれないが、それはごく一部であり、彼らが何千件もの強姦を働いていたとは考えられない。そのようなことをすれば、安全区内に隠れた便衣兵を虱つぶしに摘発していた七万人もの日本兵が見逃すはずもないであろう。

また日本人に化けた一部の中国人が強姦を働いていたという話も、それが事実だとすると、これは日本兵が強姦を働くことに何のおとがめもなかったという異常な状況の中での話であり、その話は日本兵が行っていた強姦に便乗して同じ味をしめようとした(日本語が話せる)中国人もいたという話であり、そのような中国人が何人も(ましてや何十人も)いたという話ではない。むしろこの話は日本兵による強姦がいかに日常化していたかということを物語るものであろう。




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