3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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南京事件の真相 その三

前回のラーベの日記の最後の日付(十二月十七日)に次のように書いていたことを思い出してほしい。

アメリカ人の誰かがこんなふうにいった。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」

あたらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金稜女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。……


これは決して誇張ではなく、ラーベ氏の直感だったのだと思う。日本軍が南京に入城したのは十二月十四日のことである。そのわずか3日後にこのような危惧をいだかざるをえない異常な状況がラーベ氏の身の回りに次々と起こっていたからである。

実際、南京事件での強姦の数の異常さは近代戦の中でも他に類がないほどの規模のものであり、これはナチドイツの蛮行においてもみられなかったものであると秦郁彦氏は書いている。秦氏によると、ナチドイツは優生思想が強くみだりに強姦することは許されていなかったので、戦地での強姦事件というのはあまりなかったとされている。しかし、日本軍の場合は強姦に対して軍の規律はきわめて緩かった。しかも、南京事件の場合は兵士たちが強姦行為を働くための、あらゆる好条件が偶然にも揃っていたのである。

およそ七万の兵士たちが南京に入城してから始めたことは便衣兵の摘発であった。彼らはすべての南京城内にある家に土足で入ることを許され、その内部を徹底的に調べていった。国際安全区外の家はほとんど空き家であったが、それらの空き家が調べ終わった後は次から次へと放火されていった。おそらく便衣兵が隠れることがないようにするためであろう。次に日本兵たちは国際安全区に逃げ込んだ便衣兵をしらみつぶしに摘発していった。この過程で兵士たちは同時に家の中にいる中国人女性を強姦していったのである。これはほとんど合法的行為であった。むしろ兵士たちにとってはまたとない役得であり、戦地での唯一といってもよい享楽の時間でもあったであろう。彼らの多くは国内に妻子をもつ良き夫良き父であったはずだが、この異常な環境下ではだれの束縛もなくしたい放題のことができたのであり、まさに彼らは自由の野に放たれた野獣と化したのである。したがって、ラーベ氏の日記に「安全区は日本兵用の売春宿と化した」と書いたのは、まさにそれは起こるべくしてそうなったのだというべきであろう。しかも、当時の南京の現場には軍紀を取り締まるべき憲兵隊がほとんどいなかったので、兵士たちはしたい放題だったのである。

いわゆる従軍慰安婦という制度が組織化されるのはこの異常な経験からであったともいわれる。南京でのあまりの日本軍の惨状をみるにみかねた上層部が慰安所の設置を決めることになった経緯がこのラーベの日記後半部でもふれられている。このような事実を知ると、維新の会代表・橋下氏が沖縄での米軍の強姦事件を例にあげて風俗の活用をというような発言をしていたのは、まったくはなはだしい認識違いであることが分かるであろう。

以下は前回の続きであるが、読まれる前に読者に注意を喚起したい。前回の日記もそうであるが、これらのラーベ氏が見聞きした事実は氷山の一角にすぎないということである。実際にはこの日記には書かれていない何倍、何十倍(あるいは何百倍)もの闇に眠る悲劇があったとみなければならないだろう。しかしながら、これらの記述からわれわれは南京事件の真相についてのかなり正確な全体像を思い描くことができるのではないか。

十二月十八日
最高司令官がくれば治安はよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを片っ端から追い払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。

私が家にいるかぎりは、問題なかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、本部に呼び出しがあった。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。……家に着くとちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆け込んできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。……

危機一髪。日本兵が塀を乗り越えて入り込んでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て銃剣を放り出し、難民の少女に襲いかかった。
私はこいつをただちにつまみだした。もう一人は逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。

夜八時にハッツが来た。日本の警部といっしょだ。かなりの数の警部をトラックに乗せてつれてきている。金陵大学にある難民収容所を夜間見張るためだという。日本大使館での抗議が早速いくらか役に立ったようだ。寧海路5号にある委員会本部の門を開けて、大ぜいの女の人や子供を庭に入れた。この人たちの泣き叫ぶ声がその後何時間も耳について離れない。わが家のたった500平方メートルほどの庭や裏庭にも難民は増えるいっぽうだ。300人くらいいるだろうか。私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいるかぎり、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。……

十二月十九日
わが家では静かに夜が更けていった。寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、20人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。広州路83~85号の難民収容所からは助けを求める請願書が来た。

南京安全区国際委員会 御中
ここに署名しました540人の難民は、広州路83~85号の建物の中にぎゅうぎゅうに押し込まれて収容されています。今月の13日から14日にかけて、この建物は3人から5人の日本兵グループに何度も押し入られ、略奪されました。今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。トラックに乗せられ、翌朝になってようやく帰されるのです。これまでに30人が暴行されました女性や子供たちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!どうかわれわれをお助けください!
南京にて 1937年 12月18日  難民一同……

十八時
日本兵が6人、塀を乗り越えて庭に入ってきた。門扉を内側から開けようとしている。なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻って行くことになった。おまえらにはそれでじゅうぶんだ。なにも門を開けてやることはない。……

十二月二十日
……午後6時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手馴れている。私は思ったままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏はいった。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」
いまこうしているうちにも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。そのなかにはYMCA会館も入っている。これは故意の、というよりむしろ当局の命令による放火ではないだろうか。……

十二月二十一日
日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は市中の6カ所で火が出た。……
昨日、スマイスはこんなことをいっていた。いったいいつまで、ハッタリをきかせていられるだろうか。その気持ちはよく分かる。われわれの収容所にいる中国人のだれかが、妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。安全区は血の海になるだろう。つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否されたという知らせが入った。そんなことだろうと思っていた。……
午前2時、ドイツ人やアメリカ人全員…つまり外国人全員が鼓楼病院に集結して、日本大使館へデモを行った。アメリカ人14人、ドイツ人5人、白系ロシア人2人、オーストリア人1人、日本大使館宛の手紙一通を手渡し、その中で人道的立場から以下の3点を要求した。

一、 街をこれ以上焼かないこと
二、 統制を失った日本軍の行動をただちに中止させること
三、 食糧や石炭の補給のため、ふたたび平穏と秩序が戻るよう、必要な措置をとること。

デモ参加者は全員署名した。

われわれは日本軍の松井石根司令官と会談し、全員が彼と握手した。大使館では私が代表して意見を言い、田中正一副領事に日本軍は街を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。領事は微笑みながら否定したが、書簡のはじめの二点については軍当局と話し合うと約束してくれた。だが、第三点に関しては耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、われわれのことなど知ったことではないというのだろう。……

十二月二十二日
憲兵本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。
その間も軍の放火はやまない。火事が上海商業儲備蓄銀行のそばの家、つまりメインストリートの西側まで拡がったら、とはらはらしどうしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片付けていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのをみつけた(たった一つの沼だけで30体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。……
私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が54人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。ところがなんとそのうちの43人が処刑されていたのだ!それは3,4日前のことで、しばられて河岸へ連れて行かれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、同じく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、その下敷きになったまま河に落ちて、助かったということだった。……

十二月二十三日
……昼食のとき、兵隊が3人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、どやしつけて追い払った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。おまえらに扉なんかあけてやるものか。クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。私が本部にもどる直前、またまた日本兵が塀を乗り越えようとしていた。今度は6人。今回もやはり塀越しにご退場願った。思えば、こういう目にあうのもそろそろ20回ちかくになる。……
今日、シンバーグが棲霞山から持って来てくれた手紙には(彼は江南セメント工場~南京間をふつう1時間で往復する)。棲霞山の一万七千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽しているのだ

十二月二十四日
昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、シーメンスのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。女性たちへのクリスマスプレゼントだ。ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産したものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口が聞けるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。
地下の遺体安置所にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。七歳ぐらいの男の子のもあった。銃剣の傷が四つ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから二日後に死んだという。……
この一週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。だから、こういうむごたらしい姿をみても、もはや目をそむけはしない。クリスマス気分どころではないが、この残酷さをぜひこの目で確かめておきたいのだ。いつの日か目撃者として語ることができるように。これほどの残忍な行為をこのまま闇に葬ってなるものか!
私が病院に出かけているあいだ、フィッチがわが家の見張りをしてくれた。まだ当分は兵隊たちにおそわれる心配があるので、難民だけにしておくわけにはいかない。うちの難民は350人から400人ぐらいだとばかりと思っていた。だが今では602人。なんとこれだけの人間が庭(たった500平方メートル)と事務所に寝泊まりしているのだ。韓によると、男302人、女300人とのこと。そのうち十歳以下の子供が126人。ひとりはやっと2か月になったばかりだ。これにはジーメンスの従業員やわが家の使用人、またその一族は入っていないので、全部入れると650人くらいになるのではないだろうか。……

十二月二十五日
……ミルズがきて、見張りを交代してくれたので、私はアメリカ人の家へと車を走らせた。果てしない間、死体だらけの道を、もう十二日間ものざらしになっている。
仲間たちはひっそりと座っていた。みな物思いに沈んでいる。ツリーはない。ただ暖炉の赤い小さな旗に使用人たちのせめてもの心づかいが感じられた。私たちは難民登録というさしせまった問題について話し合った。心配でたまらない。難民は一人残らず登録して「良民証」を受けとらなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。早くも悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいよりわけられたのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。兵隊用のおおがかりな売春宿をつくろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分など吹きとんでしまう。……

十二月二十六日
 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!なんたって、600人をこす人々の命なのだから。新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。元中国兵という疑いで処刑されるのだという。わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。……
昨日は日本兵が押し入ってこなかった。この二週間ではじめてのことだ。やっといくらか落ちついてきたのではないだろうか。ここの登録は終わった。しかも後からこっそりもぐりこませた二十人の新入りにも気前よく良民証が与えられた。……
安全区本部でも登録が行われた。担当は菊地氏だ。この人は寛容なので我々一同とても好意をもっている。安全区の他の区域から、何百人かずつ、追い立てられるようにして登録所へ連れて来られた。今までにすでに二万人が連行されたという。一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。なんというむごいことを…。我々はただだまって肩をすくめるしかない。くやしいが、しょせん無力なのだ。……

さて日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。そこへ唖然とするようなことが起きた。我々がよく知っている、上品な紅卍会のメンバーが(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いもよらなかったが)、なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。

十二月二十七日
……鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五か所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは。射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下、この方法が取られている。さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、なにがあったのか、とうるさいからだ

十二月二十八日
……。今日、ほうぼうから新たな情報が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。ある所では、五十人ぐらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。生き延びた人の話によると、空き家に連れて行かれ、貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。それから日本兵は中庭で大きな庭に火をつけ一組ずつ引きずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げ込んだというのだ。そのうちの十人が逃げ延びて、塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服を呉れたという。これと同じ内容の報告が三方面からあった。もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。ベイツはいまこれについて詳しく調べている。ただ、いざ報告するときは誰から聞いたか分らないよう、よくよく気をつけなければならない。知らせて来た人にもしものことがあったら大変だ。……

宣教師のフォスターからジョージ・フィッチにあてた手紙
ジョージへ
鳴羊街十七号付近の謝公嗣、この大きな寺院の近くに中国人の死体がおよそ五十体ある。元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが。日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなあ?もしそうなら許可を取ってもらえないだろうか?よろしく!

フィッチにあてたフォスターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発で分かる。この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗がすすんでいる。
スマイスと私は日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。岡少佐はトラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。今南京にいるドイツ人は全部で五人だが、いっしょに暮してもらえないか。そうすればこちらとしても保護しやすい。もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。私はきっぱりと言った。「身の安全ということなら、中国人とおなじでけっこうですよ。日本軍は中国人を保護すると約束しているんですからね。もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、トラウトマン大使や他のドイツ人といっしょにさっさとクトゥー号で逃げていましたよ。」
岡少佐はいった。「私はあなたがたの命を守るように頼まれているんです。それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします」それについては、ただ次のように答えるしかなかった。「南京陥落後の十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、ドイツ人の家も持ち物も無事でした。略奪や放火、強姦、撲殺、こういうことが始まったのは日本軍がやってきてからです。誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。舞い戻ってきた中国人によって略奪された家はもともと多くありませんでしたし、みんな太平路にありました。太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」……

南京のことはどうか上海には黙っていてください、と福井氏から頼みこまれた。つまり日本大使館にとって具合の悪いことは知らせないでくれということなのだ。私は請け合った。そうするほかないじゃないか?日本大使館を通さなければ手紙が出せないのだから。だが、いつの日かきっと、真実が白日の下にさらされる日が来る!……

十二月三十一日
今日、うちの難民がふたり、外をぶらついていたところを日本兵に連れていかれて、略奪品を運ばせられた。昼、家に戻ると、かみさんのひとりがひざまづいて訴えた。「お願いです!うちの人を連れ戻して下さい。でないと、殺されてしまいます!」みるも哀れな姿だった。しかたなく私はそのかみさんを車に乗せて、中山路でようやく連中を見つけた。
武装した兵隊二十人と向き合う。案の定二人を引き渡そうとはしない。私の立場はちょっと具合の悪いものだった。なんとか連れ戻すことができたときには心底ほっとした。家に戻ってから難民を集めて、この二人のおろか者をみなの前で叱りとばした。ばかなことをして捕まっても知らんからな。630人もいる人間のあとをそのたびに追いかけちゃいられない。いったい、何のためにここに逃げて来たんだ?また私が助けに行くと思ったら大間違いだ。……

一月二日
本部の隣の家に日本兵が押し入り、女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げて来た。クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀を飛び越えた。塀は非常に高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、私もあとを追おうとした。ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。さいわいかなり太い竹のうえだったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。やつらはあわてふためいて逃げて行った。……
我々がひそかにおそれていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。といったからといって、決して友人としてではない。敵としてだ!かつての日本軍のように、時間どおりに爆撃を落としていく。だが、今のところ、幸いなことにたいていは同じ場所、つまり南の飛行場かその近くに限られている。日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。……

一月五日
……。またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに、クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。機関銃で殺された市民たちだ。日本軍は城壁の外に出したがらない。南京の実態がばらされたら困るからな。
一月六日
……。午後五時。福田氏来訪。軍当局の決定によれば、我々の委員会を解散して、その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。資産を引き渡す?冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。「仕事を譲ることに関しては異存ありませんが、これだけはいっておきます。治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。難民のすまいの大半は壊され、略奪されている。焼き払われてしまった家もあるのだ。……

一月七日
……。南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。……
リッグスが今日の視察の報告書をもってきた。うつろな目をした女性がひとり、通りをふらふらさまよっていたという。この人は病院に運ばれ、身の上を話した。十八人家族だったが、生き残ったのはこの人ひとりだという。残りの十七人は射殺されるか、銃剣で突き刺されるかして死んだ。家は中華門の近くだそうだ。わが家の収容所にやはり近くに住んでいた女性がいる。弟が一緒だが、こちらは両親と三人の子供を亡くした。全員日本兵に射殺されてしまったのだ。せめて父親だけでも埋葬したいと、なけなしの金で棺桶を買ったところ、これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、亡骸を放り出したという。中国人なんかその辺に転がしておけばよいのだというのが、彼らの言い分だった。

一月八日
……
十一時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった「小規模」の死刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池の中に中国人(民間人)を追い込んだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士の一人が近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝ころび、男が水中に沈むまで発砲し続けたというのだ。

一月十二日
南京が日本人の手に渡って今日で一か月、私の家から約五十メートルほど離れた道路には、竹の担架に縛り付けられた中国兵の死体がいまだに転がっている。……
日本人と友好的にやっていくにはどうするかとあれこれ考えた末、あることを思いついた。南京安全区国際委員会を解体して、国際救済委員会を設立し、日本人にも出席してもらうのだ。やってみよう。これがうまくいくかどうかはやってみなければわからない。まずはじめに仲間と各国大使館の人たちに相談しなくてはならない。


一月十七日
……昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破滅の仕方をしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路はあとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。……

一月十八日
ほうぼうで煙が立ち昇っている。あいかわらず景気よく放火が続いているのだ。

一月二十二日
竹の担架にしばりつけられた中国人の死体については、これまでも幾度か書いてきた。十二月十三日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議し、請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。……今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関へ向かっていった。どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。……

一月十九日
……
マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。近所の人々に助け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。
二月二日
韓の調べによると、うちの難民は総勢六百人、百三十五家族だという。そのうち二十四家族は家を焼かれ、帰るところがない。昨日、泣きながら出て行った人もいた。だれも日本軍を信頼していない。あたりまえだ。……
今日、上海日本大使館の日高六郎参事官と、ローゼン宅で昼食。我々が記録した日本兵の強姦をはじめとする暴行はこの三日間だけでもなんと八十八件もある。報告書を渡すと、日高氏はまったく困ったものだとつぶやいて、部隊が交代するときは往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけした。……


二月三日
収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うちの庭でも。七十人もの女の人がひざまずいて、頭を地面にこすりつけながら泣き叫んでいる。なんという哀れな姿だろう…胸がふさがる。みな、ここから出て行きたくないのだ。日本兵がこわいのだ。強姦されるはしないかとおびえている。しごくもっともな話だ。私は繰り返し訴えられた。「あなたは私たちの父であり、母です。これまで私たちを守ってくださいました。お願いです。どうか見捨てないで!最後まで守ってください。辱められ、死ななくてはならないというのなら、ここで死なせてください!」……

今しがた張から聞いたのだが、私たちがかつて住んでいた家の近く、通りを入ったすぐのところの小さな家で人が殺されたそうだ。十七人の家族のうち、六人が殺されたという。娘たちをかばって家の前で日本兵にすがりついたからだ。年寄りが撃ち殺されたあと、娘たちは連れ去れれて強姦された。結局、女の子ひとりだけ残され、みかねた近所の人が引き取った。局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうでみかける。吐き気がして息苦しくなる。七十を超えた人さえ何度も暴行されたのだ。……江南セメント工場のシンパーダさんが、ギュンターさんの報告を届けてくれた。これをみると南京だけが日本兵に苦しめられているのではないことが分かる。強姦、殺人、撲殺、同じような報告が四方八方から入ってくる。日本中の犯罪者が軍服を着て南京に勢ぞろいしたのかといいたくなる。……

二月五日
強姦などの暴行は二月一日から二月三日までのたった三日間でまたもや九十八件もあった。さいわいわが家の収容所では、今日も問題は起こらなかった。けれども南京全体の実態はとてもそんな甘いものではない。そのことはこの中国人の手紙が雄弁に物語っている。収容所の責任者であるこの人がいうには、そこの中国では五千人だった難民が八千人に増えたそうだ。

金陵大学付属中学からの手紙 一九三八年二月五日 於南京
拝啓 ラーベ様
書面をもって報告させていただきます。保護を求めて戻ってくる難民は増える一方です。そして家に長くはいられないと口々に訴えております。といいますのも、日本兵に絶え間なくひどい目にあわされたからです。娘を出せと言われ、言うことをきかなければ殺すと脅迫されるのです。
ラーベ様 あなたやあなたのご友人たちのほか、私どもはだれ一人頼れる人はありません。なにとぞ、ドイツ、アメリカ、日本の大使館と話し合ってくださるようお願いいたします。難民たちは、私たちのところに助けを求めてやってくるのですが、助けてやりたくとも私にはどうすることもできないのです。……

二月七日
……
紅卍会の使用人二人に案内されて、午前中ソーンといっしょに西康路の近くの寂しい野原にいった。ここは二つの沼から中国人の死体が百二十四体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げ込まれたのだ。近くのもう一つの沼には二十三体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。……

二月十日
昨日の夕方、福井氏が訪ねてきた。昨日、日本大使館で会うことになっていたのだが、うまくいかなかったのだ。なんと氏は脅かしをかけてきた。
「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵に回すことになりますよ」
クレーガーは思った通りをいった。つまり日本軍に具合の悪い証言をしたのだ。ロンドンからの長い電報、といっても実は香港からで、クレーガーが書いたということになっているのだが、福井氏はそれを例に出して、クレーガーは日本に悪意を抱いているといった。
「それならどう言えばいいんですか」私が聞くと福井氏は言った。「ラーベさんの良識にまかせます。」「つまり報道陣にこう言えばいいんですね。南京の状況は日に日に良くなっています。ですから、日本軍兵士の恥ずべき残酷な行為についてこれ以上報道しないでください。そんなことをすると日本人と欧米人の不協和音が、あすます大きくなってしまうだけですから、と」

二月十五日
……
委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。……

二月十七日
ヴォートリンさんのお別れパーティーはとてもいい雰囲気だった。ベイツとフィッチの他、李奇、アリソン、ローゼンが招かれていた。ごちそうがたくさんあったが、いざ帰るときになってつらい思いをした。この大学にいる難民は女性ばかりで、今ではおよそ三千人ほどになっていた。その人たちが戸口に群がって、わたしたちを見殺しにしないでください。南京を離れないと約束して下さいと口々に訴えたのだ。帰ろうとするといっせいにひざまずき、泣き、文字通り私の服にしがみついて離れなかった。
ようやくのことで門までたどりついたが、外に出た途端に門が閉められてしまったため、車を置いていかざるをえず、歩いて帰らなければならなかった。こんなふうにいうと、ずいぶん大げさに聞こえるかもしれない。だが、ここでともにあの悲惨な状況を見た人なら、我々がこの人たちに与えたものがどれほど大きな意味をもつかが分かるだろう。これらはみなあたりまえのことであって、英雄的な行為などではない。

二月二十二日
羅福祥氏は空軍将校だ。本名を汪漢萬といい、軍官道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。汪氏は韓の力添えで、上海行き旅券を手に入れることができたので、私の使用人だといってピー号に乗せるつもりだ。南京陥落以来、わが家にかくれていたが、これでやっと安泰だ。日本機を何機も撃ち落としたが、南京が日本軍に占領されたときは体の具合を悪くしていた。もはや揚子江を渡ることができず、逃げられなかった。支流を泳いでいくとき、友人をひとり失い、やっとのことで城壁をよじのぼって安全区に入ることができたのだ。
午前中、私は荷造りにかかりきりだった。「老百姓」たちはあれからまたいくども板を運んできてくれた。きっとどこからかくすねてきたのだろう。建設現場から直接もってきたものもあり、セメントがついていた。日本大使館から、万通号で荷物を上海へ送る許可がでた。あとは積み込むだけだ。これは韓やアメリカの友人たちに頼まなければならない。万通号が日本に着くころには、私はもういないからだ。……

夜十時のラジオニュース。ドイツは満州国を承認した。したがって、トラウトマン大使は国民政府に対して難しい立場に立たされることになった。ラジオではまだそれについてなにもいっていなかったが、大使は辞任するのではないかと心配だ(注・事実トラウトマンはその後しばらくして解任された)。ここにいて本国の事情をうかがい知るのはとても難しい。だが、正しかろうが、間違っていようが、祖国は祖国だ!


この日記の後、ラーベ氏は1938年4月15日に本国ドイツベルリンへ帰国した。帰国後、ラーベ氏はジーメンス本社での講演を皮切りに幾度か講演し、マギー牧師が撮影したフィルムも上映して南京の惨状を伝えようとしたが、それはナチの政策を支持する人々の心には届かず、逆にラーベ氏は同盟国日本を貶める者としてゲシュタポに密告され逮捕されることになった。その後、すぐに釈放されたが、以後は彼が信じていたナチドイツが戦争を拡大してゆく祖国の惨状をみながら、南京については沈黙を守り続け、戦後1950年に脳卒中の発作で亡くなっている。ちなみにラーベ氏は東京裁判の証人として出廷を要請されたが、断っている。その理由は次のようなことであったと紹介されている。「私は彼らが死刑になるのをみたくはない…それは償いであり、ふさわしい刑罰にはちがいない。だが、裁きはその国民みずからによって下されるべきだと思うのだ」と。尚、このラーベ氏の日記が発見されたのは、それから46年後の1996年のことであったという。この日記の発見によって、南京事件の真相はかなり明らかになったはずだが、残念なことにこの日記の事実すら知ることなく「南京の虐殺はまぼろしにすぎない」と断言する輩が多いというのはいったいどういうことなのであろうか?そして2009年にドイツ、フランス、中国の合作でドイツのアカデミー賞といわれるドイツ映画賞の作品賞他7部門で賞を受賞した作品であるにもかかわらず、なにゆえに日本では試写会さえできなかったのか?これは同じ日本人としてまったく情けない話ではないか?

 
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