3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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誇りの正体と靖国問題

人間にとって何が一番大事なものなのだろうか?という質問をすると、おそらく人によってはさまざまな違った答えがあるだろう。すぐに浮かんでくるのは「家族」「愛人」「友人」「仕事」「健康」「財産」「お金」「地位」「名誉」…などなど、その人の境遇によってはおそらく違った答えが返ってくるのではないだろうか?しかし、いかなる境遇にあろうと、すべての人が共通して大事だと思っているものが一つある。それは「誇り」という言葉である。やや難しい類義語に「矜持」という言葉もあるが、ここでは「誇り」というわれわれが普通に使っている言葉の意味について少し考えてみたい。

いかなる人にも必ず「誇り」があると思う。しかもそれは決して個人だけではない。人はしばしば「家族に誇りをもっている」とか、「国に誇りをもっている」とか、「地域に誇りをもっている」とか、「会社に誇りをもっている」とかいう言葉を口にすることがある。野球やサッカーの選手が「このチームに誇りをもっている」というような言葉をしばしば口にするのを聞くこともあるだろう。あるいはいろんな場面でいろんな人々が「日本人としての誇りを感じる」という言葉を聞くこともある。しかし、いったい「誇り」とは何なのだろうか?人はその意味をよく分かって使用しているのだろうか?

辞書で調べると「誇り」とは「誇ること。名誉に感じること。またその心」とある。この説明は同語反復であり「誇り」という言葉の意味を説明したことにはならない。この辞書の説明でもいえるとおり、われわれはなんとなくその意味をわかっているようでいて実は案外分かっていないのではないだろうか?

にもかかわらず、すべての人間にとって一番大事なものは「誇り」であるのだとすれば、これほど不思議な言葉もないといってもよいかもしれない。おそらく「誇り」という言葉は定義しづらいので、その言葉は人によって別々の意味に使われているケースも多いだろう。辞書にもあるように「誇り」というと「名誉」と同じ意味だと考えている人も多いのではないだろうか?では「名誉」とは何だろうか?辞書を引くと、これには様々な具体的説明があるので、そのまま引用しておこう。

名誉の意味
1 能力や行為について、すぐれた評価を得ていること。また、そのさま。「―ある地位」「―な賞」
2 社会的に認められている、その個人または集団の人格的価値。体面。面目。「―を回復する」「―を傷つける」
3 身分や職名を表す語に付けて、その人の功労をたたえて贈る称号とするもの。「―会長」
4 有名であること。評判が高いこと。また、そのさま。よいことにも悪いことにもいう。
5 珍しいこと。また、そのさま。不思議。

「誇り」という言葉は果たしてこの「名誉」と同じ意味なのであろうか?だとすると「誇り」はすべての人が抱いているものではなく、一部のすぐれた人だけが抱くことのできるものだということになりはしないか?たしかに「誇り」という言葉には、「他人よりもすぐれている」という意味合いがあることをわれわれはなんとなく感じている。われわれが「日本人としての誇りを感じる」という場合、それは日本人の歴史や伝統、あるいは礼儀正しい民族性とかすぐれた忍耐力や創造性など、世界の中でも誇れるさまざまなすぐれた美質と能力が日本人にあるということに誇りを感じるというような意味合いがあるのではないだろうか。

それはたしかにその通りかもしれないが「誇り」=「すぐれている」という意味では必ずしもないと思う。特に「民族の誇り」とか「国家の誇り」という場合、おそらく日本人だけではなくすべての民族、すべての国民に「誇り」はあり、それは本来優劣の問題ではないと思われる。中国人には中国人の誇りがあり、チベット人にはチベット人の誇りがあり、韓国人には韓国人の誇りがあり、北朝鮮人にも北朝鮮人の誇りがあるだろう。その誇りは経済が発展しているとか、歴史があるとか、文化的にすぐれているとか、その他さまざまな意味合いの誇りがあるのだろうと思うが、それは必ずしも民族的優越感だけを意味しているだけではなく、むしろ民族としての一つの「核」ともいうべきものではないだろうか?すなわち「誇り」というのは、人間の生命の根幹にあるものであり、それがなければ生きられないものということさえいえるのではないかと思う。

すなわち「誇りがない人間」は存在しないのと同様、「誇りのない民族」や「誇りのない国家」も存在しないのではないかと思う。ではいったい「誇り」とな何なのか?

ここで私の結論をいわしてもらおう。「誇り」というのは「人が天の下(または神の下)で自らを正しいと信じる根拠である」といえるのではないかと考える。この世の中、どんな人も自分が「悪」であると信じて生きている人はいないと思う。たとえ犯罪者といえどもそうである。自分が「悪」だと信じることは生きることが許されないということを意味している。だから人は必ず自分を正しい者だと信じなければ生きることはできないはずだ。もちろんその正しさの根拠となるのは人さまざまである。

ある人は自分の知識の豊かさを正しさの根拠とするかもしれないし、また他の人は自分の判断力や行動力を正しさの根拠とするかもしれないし、また他の多くの人は普通の常識を正しさの根拠とするかもしれない。おそらく人間はどんなことでも誇りにすることは可能なのである。強い人はその強さを誇りにすることができるし、また弱い人であってもその弱さを誇りにすることさえできる。たとえば新約聖書の中でパウロが次のような言葉を残しているのである。

「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。」(コリントⅡ12・5)


いずれにしても天の下(または神の下)で正しいと思わなければ人は生きられないのであり、すべての人は自分を「悪」であると信じながら生きることはできないはずなのである。だからすべての人は自分を正当化するためにさまざまな誇り抱きながら生きているのではないだろうか?それこそが人間の「誇り」の正体ではないかと思う。

したがって、いかなる人間も生きている限り「誇り」を失うことはない。これは戦争という極限状況の中においてもいえることである。戦争というのは人間と人間の殺し合いであるが、その最中であっても人間は誇りを失うことはないのである。むしろ敵を殺すということは当然に何らかの正しさの根拠を必要としている。「人殺しは悪だ」と信じていては敵を殺すことはできない。この人殺しは正当な行いであると信じればこそ、人は戦争で多くの敵を何の後ろめたさを感じることもなく殺せるのではないであろうか?また人はしばしば戦場での命を惜しまない勇敢さや自己犠牲の精神を「誇り」として強く感じる。これは自分の「誇り」のために命を賭けることこそが、自己の「正しさ」の証明であると感じるからだろう。


日中戦争が泥沼状態になった頃、アメリカのハル国務長官から日本軍の中国戦線の全部隊を撤退すべし等の条件を突きつけられ、さもなければ石油の禁輸を含む一切の貿易上の制裁を解除することはできないと通告された。これは日本にとっては事実上の最後通告であり、この厳しすぎる条件を日本側が飲めない以上、日本は自らの生存権のためにアメリカを相手に戦争を仕掛けるしかないと東條内閣が判断した。

そこでこの戦争を大東亜解放戦争であると名づけ、この戦争は欧米によって植民地化されたアジアをアジア人自身の手で解放するための聖戦であると大見えをきった。今日の目で見れば、こんなものは追い込まれた東條内閣がとってつけた大義名分に他ならないことは自明のはずだが、驚くべきことに、最近になって、「自虐史観と戦おう!」という一部の勇ましい人々が、そのようなかつての大義名分をあらためて再評価し直し大東亜戦争を肯定しようとしているというのだから、(アメリカ人にとって)日本人というのは本当に懲りない民族だと思われよう。いっておくが、これは決して皮肉でいっているのではない。あとで紹介するように、いまアメリカでは本当にそのような懸念が広がっている。

いずれにせよ、当時の多くの日本兵がその東條の大見えを信じ、来るべき東亜の正しい秩序のためを思って散って行ったのであり、その彼らの純朴な姿にはたとえ無益な人殺しのための戦争だったとはいえ、日本民族の生存と誇りをかけた戦いだったのだといえなくはないだろう。あの戦争が侵略戦争だったのかどうかという問いとは別に、そのような戦地で散ったわれわれの誇り高い先祖に対する思いがあるからこそ、靖国神社に参拝して彼らの霊を慰めるという儀式は日本人として当然なされるべきことだといえるかもしれない。

しかしながら、そのような日本人の尊い気持ちとはまったく裏腹に感じざるをえないもう一方の戦争の被害者側の民族がいることを忘れてはなるまい。

その被害者は主に中国人と韓国人であり、彼らは日本人の靖国に対する思いよりもはるかに大きな屈辱と恨みの思いを抱きつつ、いまなおその思いを子々孫々に伝えながら生きざるをえない人々である。そんな恨みはもう70年以上も昔のことだからもうそろそろ「水」に流してほしいとわれわれは考えるかもしれないが、もしそう彼らに考えてほしいというのであれば、日本人が自らの靖国参拝をいまなお続けることの正当性自体が成り立たなくなるだろう。逆にいえば、日本人が今なお靖国の霊を慰めるという思いをもつことが正しいことであるとするならば、同じように中国人や韓国人が彼らの先祖たちの過去の屈辱や恨みに対する思いを募らせるのも、当然無理もないことだということがいえるのである。

では、どうすればよいのであろうか?これは確かになかなか難しい複雑な問題であろう。なぜならば人間の命をかけた「誇り」というものを、そう簡単に否定できるものではないからであり、しかも加害者側と被害者側の「誇り」がまったく裏腹になってつながっているからである。相手側の誇りを立てれば自分たちの誇りが立たず、そして自分たちの誇りを立てようとすれば、相手側の誇りを否定することになるからである。しかし、少なくともその両者の「誇り」の質を比べたとき、われわれ日本人の側はあくまでも加害者の側であり、一方、中国人や韓国人は被害者の側であるということに思いを馳せると、当然な結論は導き出されるであろう。それは加害者側が自らの罪を認め、被害者側に対して謝罪し続けることをまず優先しなければならないということである。

もし謝罪し続ける必要はないというのなら、当然中韓との国交断絶まで覚悟しなければならないと思う。なぜならそれは彼らの誇りを否定することであり、彼らにとってはその誇りこそが自分の命よりも重いものだからである。

最近、渡部昇一らの極右グループが、もはや日韓は国交断絶をすべきだなどといっているらしいが、現実はそのように日本人が強がる前に彼らの方から国交断絶状態を強いられている状況であることを日本人は気付かなければならない。彼らが自虐史観云々と言い続け、過去の日本軍が犯してきた悪をすべて正当化しようとしている事実は、中韓米の間ではほとんど筒抜けだといってもよいだろう。だからこそ橋下発言がアメリカのいくつかの州議会で非難決議がでるほど集中砲火をあびているのだということに気付かなければならない。

事実、安部総理発足後、中韓のみならずアメリカからもほとんどまともな扱いをされていない。これは決して理由のないことではなく、安部総理が発足後すぐに発信した歴史認識(村山談話)の見直しとか慰安婦問題(河野談話)の見直しなど、いままで歴代自民党のどの総理もやらなかったほど大胆な発言を繰り返したために、アメリカのさまざまなメディアから懸念の声があがっているのである。

たとえば1月3日付けのニューヨーク・タイムズ社説では以下のように書かれている
「自民党のリーダーである安部氏がどのようにこれらの謝罪を修正するのかは明らかになっていないが、彼はこれまで日本の戦後史を書き換えることを望んでいることを秘密にはしてこなかった。こういった犯罪を否定し、謝罪を薄めるようなどのような試みも、日本の戦時中の残忍な支配に被害を受けた韓国、そして中国やフィリピンをも激怒させることであろう。安部氏の恥ずべき行動は北朝鮮の核兵器プログラム等の諸問題において、地域における大切な協力関係を脅かすことになりかねない。このような修正主義は歴史を歪曲することよりも、長い経済不況からの回復に集中しなければいけないこの国にとって、気恥ずかしいことである」。

当然ながらこの社説をオバマ大統領も目にしているし、それどころか現アメリカ政府内の安部総理に対する評価というのは、ほぼこの社説に近いものとみて間違いないだろう。したがって安部総理が訪米した時のオバマ大統領の冷淡な対応と対照的なほど韓国朴槿恵大統領に対する親密な対応、そればかりか先の米中会談、中韓会談などの互いの親密さをみると、日本の安部総理がいまこれらの主要国との関係の中で完全に孤立を強いられていることが分かる。

これは一時的なものにすぎないのか、それともこれ以上の関係悪化の可能性があるのか、今のところ分らないが、少なくとも安部政権が続いている限りはこの関係悪化はどんどん進む一方であろうと思う。安部総理の任期期間はあと3年以上ある。だとすると、これから少なくとも3年以上中韓米はより密接な関係となり、そして日本だけは孤立化の道を歩まざるをえないであろう。しかし、これは安部総理が自らこのような結果を予期して選択したわけであろうから、このような外交上の逆風は当然覚悟のうえであったと思いたい。そうでなければ、安部総理は本当にうかつな失敗をしたのだとしかいえないのである。

「誇り」というのはそれが過剰になると、いとも容易に「驕り」に転化する。安部総理および保守派の人々が日本人の「誇り」をなによりも大切に思う気持ちはよく分かる。しかし、中国や韓国にも「誇り」があることを忘れてはならない。「誇り」の正体が「正しさの根拠」であるとすれば、今それぞれの国で過去の歴史認識をめぐる「誇り」すなわち「正しさの根拠」が衝突しあっているのだということに、我々は一刻も早く気付くべきではないかと思う。


補足1 最近、元外交官で京都産業大学教授の東郷和彦著「歴史認識を問い直す」(角川新書)を読んだ。東郷氏はなんとあの東条英機内閣の外相をつとめた東郷外相のお孫さんである。東郷外相はA級戦犯であったが、さいわいにも絞首刑は免れ20年間の入獄の刑を言い渡され、その後、獄中で亡くなられた方で、彼の霊も(A級戦犯にもかかわらず)靖国に祭られている。

当然ながら東郷氏は靖国参拝を大事なわれわれのつとめだという立場を理解しているが、しかし、一方靖国参拝が中韓との間で深刻な外交問題になっている以上、われわれは真の国益の観点から、この参拝という儀式を一時停止し、われわれ自身の中で議論を尽くすべきだという靖国議論のための<モラトリアム(猶予)期間>を提唱している。

これによって、なぜわれわれが尊いと思う行為が隣国の人々の心を傷つけることになるのか、またどうすればわれわれは彼らの理解を得て、靖国参拝を続けることができるのかという問題を真剣に考えようというのである。ここで具体的に問題となるのが日本人の歴史認識の問題であり、そしてその際に先鋭的な問題として浮かび上がるのがA級戦犯の合祀問題であり、またもう一つは靖国神社の付属施設「遊就館」で過去の戦争を正当化しているという問題があげられる。靖国神社はこの二つの問題を抱えているために世界の基準では理解されえない施設になっているのであり、この問題をわれわれが切り離して、純粋な戦没者の慰霊施設として靖国を再興できるのかどうかという問題を考えるべきだと東郷氏は提唱しているのである。


東郷氏こそ真の良識人であると思う。しかし、ある意味戦前よりも極右の思想に染まってしまった一部の異常な世論の中で東郷氏のような真の良識人の言葉はいやみに聞こえるかまたはよくても利敵行為、悪くすると「非国民」「国賊」というレッテルが貼られかねない情勢である。実は、このような状況は5.15事件前の日本とあまり変わらない。

ちなみに、5.15事件で暗殺された犬飼首相は平和を希求する国際的視野のある人物であった。彼は満州国の独立を認めたが、しかしその地は本来中国政府に宗主権があるという立場を変えなかった。この結果、彼は「国益に反する」人物としてナショナリストから断罪されるようになり暗殺されたのである。このとき暗殺者たちの行為は当時の国民世論によって共感され、なんと30万通を超える恩赦請願書が裁判所へ届き、犯人たちは処罰もされずに釈放されたのである。このとき以降「国益」=「正義」となって日中戦争から大東亜戦争へと突っ走っていったのだ。この事件が起こる以前は現在の日本とあまり変わらないほど自由で平和な国であったということを忘れてはならないと思う。

ここで東郷氏の痛切な言葉を一部紹介したい。

安部内閣は「村山談話の継続を確認しつつも、未来志向の安部談話をだす」という意向を表明してきた。この原稿をかいている時点で、時期は白紙ということであるので、今すぐという意向ではないようだが、私は今の日本の状況で、歴史認識問題を中心に据えた「未来志向の談話」を出すということには、強い違和感を感ずる。

何よりもまず、どこに理非曲直があるにせよ、中国と韓国との関係で日本は今和解に達していない。中国との関係では尖閣問題の歴史問題化という新しい要因が加わったことにより、歴史認識問題は、当面新たなる先鋭化を迎えている。韓国との関係も慰安婦問題の再燃によって、歴史認識問題は今激しい緊張下にある。

歴史認識問題との関連で「未来志向」ということを日本側から言い出すことは、禁句だと私は考える。被害者の立場に立てば、「未来志向」と加害者が言えば、それは「過去を忘れましょう」と言っているのに等しく聞こえる。これこそ被害者がもっとも聞きたくない言葉である。この単純な心理に思い至らないほど、今の日本人の心は弱まり、自己中心主義的な民族になり果てたのであろうか。歴史認識に関して言えば、「未来志向の未来」とは、中国や韓国が日本に向けて送るべき言葉なのである。両国がそういう対日関係を作ろうと思うために、日本ができることはなにかと考えることこそ、肝要なのではないか。自らそれを世界に向けて言い出すことは、恥ずかしいことだと私は思う。(p146-148)



補足2 新聞を読んでいると公明党の機関誌(?)「潮8月号」に「アメリカが注視する日本の歴史認識」というタイトルの目次が目についたので、早速、本屋で購入して読んでみた。この記事を書いたのは米パシフィック・リサーチ・インスティテュート所長という肩書をもつ高濱賛氏である。公明党の機関誌だから与党総裁の批判は慎むべきはずだが、この記事は誠に辛辣な安部総理の外交批判が展開されている。これは先の東郷氏の危機感とほぼ共通するものであるが、著者は今現在のアメリカ政界の状況をリアルタイムで知りうる立場にいる方なので、より説得力をもっているように思える。その一部を引用しておこう。

ワシントンの政策立案者や世論形成に影響を及ぼすアメリカ人には、安部氏に対するある種の先入観がある。読者諸兄から「影響を及ぼすアメリカ人とは誰だ」と聞かれそうだが、これらアメリカ人とは、学者、大学教授、新聞社の論説委員、国務省、国防総省担当記者、コラムニスト、東京特派員、さらにはハリウッドの映画製作者や作家たち、と申し上げておこう。

そもそもそれは安部首相が2006年の第一次安部内閣の組閣後、07年3月1日に、「従軍慰安婦に関する旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言したことに端を発している。安部首相はその一方で、「斡旋業者が事実上強制していたケースもあり、広義の解釈では強制性があった」とも述べている。安部首相はその後「村山談話」「河野談話」の継承を認めたため、その時はワシントンの危惧の念は一時的には解消した。否、解消する前に安部首相は政権の座を降りていた、といったほうが正確かもしれない。完全に払拭しないまま、6年が経過した。

(中略)

ところが安部首相は12年の自民党総裁選時、再び「河野談話」や「村山談話」の見直しを提唱、政権の座についた後も衆院予算委員会で「侵略の定義は国際的にも学術的にも定まっていない」(4月29日)と答弁した。
ワシントンポストは、この発言を即座に取り上げ、「日本が韓国や中国を侵略したのは事実だ。安部氏は歴史を直視していない。これは自己破壊的修正主義だ。戦前の帝国主義への郷愁に浸っているようでは国内改革を進めたり、正当な主張である防衛予算の増額を隣国に納得させることは困難だ」と厳しく批判した。

同紙の論説委員長はフレッド・ハイアット元東京支局長。これまでにも日本の歴史認識については鋭い論陣をはってきている。だが、いろいろ調べてみると、この社説はなにも彼の個人的見解だけではないことが分かる。国務省当局者らオバマ政権対日政策担当者たちの見解を色濃く反映しているとみるべきだろう。

(中略)

ワシントン・ポストの社説と前後して、共和党親日派のトーマス・シーファー前駐日大使が「もし安部首相が河野談話を修正したりすることになれば、日米関係にネガティブなインパクトを与えることになるだろう」と指摘している。安部首相の言動に対する危機感は、民主、共和を超えて超党派で広がっている証左といえる。








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