3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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南京事件の真相 その二

「南京の虐殺事件はまぼろしにすぎない」という論者がしばしば例にあげることで、日本側の従軍記者やジャーナリストたちの証言で南京城内には死体はほとんどなかったというような複数の証言があるというのであるが、このような証言は状況的に考えて大虐殺事件と決して矛盾するものではない。

思えば私は阪神大震災時に震度7の体験をした者であるが、あの日1995年1月17日早朝、地震が発生してから約1時間後、周囲の状況を確認したいと思いまだ夜の帳があけたばかりの町にでてみた。すると多くの人々が毛布などにくるまってぞろぞろと歩いている異様な光景に出くわした。もちろん自分もその一員であったのだが、意外なことに周囲の人の表情をみると、どの人も笑顔を浮かべており冗談を言い合ったりして笑っている人もいるのである。なぜこんな時に笑えるのだろうかと思うかもしれないが、自分も含めて彼らは皆とりあえず「命拾い」をした人ばかりなのである。自分は幸運にも助かったんだという思いがあふれて、つい笑顔がこぼれてしまうのではないかと思う。

歩きながら周囲の家々を見渡すと、木造建築はほとんど崩壊していてぺしゃんこにつぶされている家も多くあるのだが、だれもその下にいる人を助け出そうとはしない。もちろん実際はそんなわけはなく、家族や友人、縁者が下敷きになった人を助けだそうとしている光景もあったはずだが、少なくともその時は自分と関係のない他人の家には誰もかまっていられなかったのである。なぜならそこらじゅうの家がほとんど崩壊しているので、仮に他人を助けたいという崇高な思いがあったとしても、どこから手をつけていいのかもわからないし、それに一人の人間の力だけでは崩壊した家の下敷きになっている人を救い出すのはまず無理であっただろう。歩きながら、人間はこれほど他人の生命に対して無関心になれるものかと(ぼんやりと)思いながらも、今はとにかく自分自身と家族のことが第一であり、当面の水と食料と電池を探して回ることを優先して歩いていたのである。

このときのことを思い返すと、私はあるおそろしいことに気がついた。実は、私は震災後誰一人死人をみたこともないし、怪我人さえ一度も見ていなかったのである。この地震でおそらく数千人の死者がでているだろうという確かな実感はあったが、しかし、実際にこの目で死んでいる人をみたわけではない。地震後に街を歩き回っていたとき、そこらじゅうに崩壊した家々の下には当然多くの瀕死者がいたはずだが、私は彼らを救出する作業に加わらなかったために、一人の死者も見ることはなかったのである。これはおそらく私だけではなく、多くの市民もそうだったのではないか?六千人以上の人が周りで亡くなっていたにもかかわらず、実際には一人の死者も見ていない!いま考えれば、この奇妙な事実と南京事件での一部のまぼろし派の証言には似た部分があるのではないかと思った。

私が現在まで知り得た秦郁彦氏や笠原十九司氏らの資料をみるかぎり、南京事件で異常な虐殺があったという事実は到底否定することはできない。それらの資料は主に日本軍の下級士官が残した日誌類であり、その記録が現在も残っているということは非常に稀なケースであるということを我々は認めなければならない。なぜなら戦前から南京虐殺を証拠立てる兵士の記録類は没収され処分されたケースが多いからである。したがって、それらの記録は実際の出来事の全貌ではなく、あくまでも氷山の一角としてとらえなければならないのはいうまでもないことだと思うが、だからといって南京事件の虐殺がだれの目にもとまるほど明々白々な事件であったというわけでは必ずしもないということに我々は注意する必要がある。

中国政府は南京虐殺の数を三十万人から四十万人だとしているが、まぼろし派によるとどこにそんな死体を見たという人の証言があるのかとあざ笑う人が多い。もちろん私もその数字は誇張ではないかと思っているが、しかし日本軍が南京陥落を目指して四方八方から三百キロを超える道のりを進軍していった過程で、どこでどんな残虐なことが行われたのかということはほとんど資料としても残っていないので、その進軍の中で行われた虐殺もいれると中国政府の言い分が必ずしも不当な数であるとはいえないと思う。いずれにしても、その全貌を知ることは今日ではほぼ不可能にちかいことであるが、少なくともいえるのはごく一部残された資料から見ても相当な数の虐殺があったという事実は否定できない。

その前に「虐殺」とは何かという言葉の定義をしておきたい。戦時における「虐殺」というのは通常の正当な戦闘行為以外による方法または非戦闘状況下で殺害することを意味している。したがって兵士ではない一般市民に対する虐殺は当然のこと、たとえ相手が兵士であっても投降兵または武装解除して抗戦意志をもたない敗残兵などに対する殺害も虐殺として認められる。これにはまぼろし論者から反論もあるかもしれないが、以前にも述べたようにハーグ国際条約には明確にそのような規定がなされているのであり、それでも分からない人はハーグ陸戦条約(wiki)をよく読んでいただきたい。

南京事件の場合問題となるのは便衣兵の扱いであったが、彼らの多くは揚子江沿いの下関などへ連れていかれて集団で殺された。これらの行為は明らかに「虐殺」にあたるということはいうまでもないだろう。まぼろし派の一部はそれをさえ虐殺とはみていないようだが、そんな理論は世界中どこにも通用しないであろう。通用するというなら、国際連合へ行ってでも堂々と主張なされよといいたい

ところで、そのようにして虐殺された便衣兵や武装解除した中国の敗残兵の数だけでも一万や二万どころではないと考えられるのである。これは前に紹介した秦氏の史料によってもほぼ裏づけられている(ただし笠原氏の史料ではその数はさらに膨大になるとしている)。
ここで注意すべきことは、だからといってそれらの虐殺死体が誰の目にもとまるものであったというわけではないことである。彼らの死体の多くは南京市街の外にある揚子江沿いの下関に置かれていたといわれ、その遺体の数だけでも三万ほどあったとされているが、そればかりではなく揚子江に流された死体も多くあるし、また各地の沼や側溝などに投げ入れられた死体も数多くあったと考えられるので、虐殺死体そのものは一般の人々の目にふれるような場所に放置されていたわけではないのである。

したがって、多くの従軍記者やジャーナリストが虐殺死体など見たこともないと証言しているのは、決して不思議なことではなく、その状況の中では十分にありえたことだろう。また虐殺とはいっても、すべての兵士が虐殺に関与したというわけではなく、おそらく南京陥落後七万人いたとされる日本兵の中で虐殺に直接関与したものは少数であろう。したがって日本軍の兵士の中にもそんなことがあったのかと、戦後になってそのような事実を知らされて不思議に思う者がいたとしてもおかしくはない。南京市街はもともと百万を超える大都市であった。その中で何が起こっているかということを完全に把握できる人間は一人もいない。したがって、「南京の虐殺はまぼろしにすぎない」という人々の誤りは、「木を見て森を見ず」という最も初歩的な「帰納法の誤用」またはそれよりもっと悪質な「牽強付会」の類ともいうべきものである。なお「まぼろし派」の誤りについては、いずれ稿をあらためて書いてみたい。

さて、前置きが長くなったが、これから紹介する「ラーベの日記」(ジョン・ラーベ著「南京の真実」講談社1997年刊)は、南京事件の全貌を知る上でおそらくもっとも重要な史料ではないかと思う。しかし、残念ながらこの史料が公刊されたのは1997年である。なぜ、そんなに重要な史料が戦後47年以上も世にでなかったのかというと、実にそこには複雑な人間ドラマがあったのであるが、その理由についてはあとで述べることにする。ラーベ氏はドイツ人であり戦前はナチの党員であった。ナチドイツと蒋介石の国民党政府はもともと結びつきが強く、反共反ソ政策で蒋介石に相当強く肩入れをしていた。ただしラーベ氏はナチドイツの役人ではなく、民間会社(主に発電所や電話の設置会社)ジーメンスという中国支社の代表をしていた。「ラーベの日記」が南京事件を語るうえで重要な第一級の史料である理由は、彼が南京国際安全区の代表として、南京市民と日本軍の間でさまざまな交渉役をやっただけではなく、自らの広大な敷地(500平方メートルもあった)を難民の避難所として提供し、多くの難民の苦境を救うために命がけで動き回ったことなどで、普通の人には容易に知り得ない情報に直接間接に接する機会があったことがあげられる。この日記を読むと、当時の南京でどういうことが起こっていたのかということが、かなり正確に分かるのではないかと思う。

ちなみに、この「ラーベの日記」は2009年にドイツ・フランス・中華人民共和国の合作映画として映画化されており、中国版「シンドラーのリスト」として大絶賛を浴び第59回ドイツ映画賞で作品賞、主演男優賞、美術賞、衣装賞の4部門で賞に輝いた。アメリカでも20世紀フォックス社が配給しており、ニューヨーク・タイムズなどでも絶賛されたようである。しかしながら、日本の配給会社は試写さえ行わずに公開を拒否したといわれる。また日本兵役で香川照之や柄本明らがでているが、彼らは「非国民」「売国奴」として一部のまぼろし派から口汚く非難されているのだ!なんという国なのだろうか?これではわれわれ日本人の側から歴史認識問題を云々する資格はないだろう。


映画「John Rabe」予告編

能書きばかり長くなってしまったので、ここらで本篇に入ることにする。引用文はあまりにも長くなりそうなので2回に分けて紹介することにした。最初は上海事変の終わりごろから南京市上空にやってくるようになった日本の爆撃機の空襲が始まったころ(十月十四日)から南京陥落後数日(十二月十七日)までの日記である。(以下に紹介する文章はジョン・ラーベ著「南京の真実」講談社からごく一部を引用したものです。前後の省略部分は「……」で記しておきます)

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南京市街と国際安全区(斜線部)の地図 ラーベ邸の位置も分かる。


十月十四日
……日本人が毒ガスを使っているという噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、すでにここの病院に毒ガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。みな毒ガスをひどく怖がっている。南京の一般市民はガスマスクをもっていないからだ。マスクに酢などの液体を染み込ませるよう指示されたが、これはしょせん一時しのぎにすぎず、いざというときにはまったく役に立たない。……

十月十七日
……映画館はすべて営業を停止した。ホテルや店、薬局も大半はしまっている。市内はびっくりするほど落ち着いている。軍人、警官、民団(民兵)もきちんとつとめを果たしている。外国人は誰も(もうあまりたくさんは残っていない。ドイツ人についていえば、女性が12人、男性が6人)不愉快な目にはあっていない。逆だ!異国でがんばっているというので、中国人は驚きながらも好意をもってわれわれをみているのだ。……

誰もかれもが先を争ってわが家の防空壕に入りたがる!なぜだか分からない。うちのはおそろしく頑丈だと噂が立っているらしい。これを作ったとき、せいぜい12人とふんでいた。ところがいざ入る段になってみると、ひどい計算違いをしていたことが分かった。総勢30人すし詰めだ。……
不安を感じたことはないといったら嘘になる。防空壕が激しく揺れ始めたとき、私もひそかにこんな気持ちに襲われた。「どうか爆弾が落ちませんように」だが、不安なんか吹き飛ばすんだ。他愛ない軽口。いかがわしい冗談。するとみな、にやりとする。これで爆弾への恐怖がいくらかなりとも和らいだ。
防空壕の中では赤ちゃんを抱いた女の人を優先すること。彼女たちが真中で次にそれより大きい子供をつれた女の人。最後が男性。男たちの驚きをよそに、私はくりかえしこういってゆずらなかった。
すぐ近くでたてつづけに爆弾が落ちる。みんな口をぽかんとあけ、ものもいわずに座っている。子供や女の人には脱脂綿で耳栓をした。ところが少しでも静かになると、待ってましたとばかり、ひとり、またひとりと勇士がでていってあたりを見回す。敵の爆撃機が撃たれて、きれいな弧を描いて燃えながら落ちてくるようなら大変だ。みな大喜びで、拍手大かっさい。なかでひとり、この変てこなご主人だけは何を考えているのか分からない。彼は黙って帽子をとり、そしてつぶやく。「静かに!3人も人が死んだんだ」……

十月十九日 
今日はまたずいぶんと丁寧なご挨拶じゃないか!夜中の2時に空襲警報と来た。ようやくブーツをはき終えたとき、爆弾が落ちて家中が揺れた。ところがかのリーベだけは爆弾などどこ吹く風で、ぐうぐう眠っている。「リーベさん。2回目のサイレンだよ!」そのとたん何度か爆音がした。……

十月二十一日
……車で発電所へ向かう途中、空襲警報が鳴った。命からがら家へ帰ると、みなすごく興奮している。ドイツ語ができる上海商業備蓄銀行の職員が、上海から南京へ向かう道に日本軍が毒ガスを落としたという知らせを受け取ったのだ。……

十月二十四日
晩のラジオのニュースによると、日本は大場で上海の前線を突破した模様。こんなことはあってほしくないが、もし本当だとすると、もうすぐわれわれは上海から切り離されるかもしれない。

十一月六日
今日出張先であれこれ、いやなニュースを耳にした。中国人の間ではだんだんと「もうどうでもいいや・ムード」が広がっているように思える。リーベもこの間、こんなことをいっていた。発電所で働く労働者たちに「いっそ共産主義者になったほうがましなのではないか」と聞かれたというのだ。……
いや驚いた。新聞によると、中国軍(傭兵部隊だということを忘れてはならない。南京は指令を出したものの、むろんのこと徴兵令はでなかったからだ)が、強力な日本軍と上海で戦っているという。ドイツ人の軍事顧問が鍛え上げたえりすぐりの南京部隊が上海に派遣されていたのだが、すでに3分の2が戦死したらしい。いくら精鋭部隊といえども、武装が十分でなければどうしようもない。日本の近代的な軍隊は巨大な大砲や無数の戦車、爆撃機を備えている。中国のとは比べものにならない。

十一月十日
爆撃機が9機ほど上空を飛びかっている。中国側はもうれつに砲撃しているが、当たらない。高射砲のかけらがすきまなく降ってくる。近所の屋根がガタガタ音をたてはじめたので、リーベを除く全員を避難させた。……

十一月十一日
爆撃が雨あられのように降ってくる。だしぬけに表で歓声があがった。高射砲がひとつ命中したのだ。あっという間に防空壕はもぬけの殻。こんな見物は見逃す手はないというわけだ。まっぷたつになった爆撃機が炎に包まれ、もうもうたる煙をあげて落ちてくる。5人から7人乗っているはずだが、中から2人、炎と煙の中を飛び降りた、パラシュートもつけずに。……

十一月十五日
政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行鞄と荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。それから鉄道部へ行った。そこのボーイからこっそり聞き出したのだが、ここも明日荷造りするらしい。
ドイツ大使夫妻のところにお茶に呼ばれ、シュぺーマン将軍を紹介される。大原府から来たそうだ。クトゥー号はまず女性と貴重品を漢口から運んでから、大使館の人間と残りのドイツ人を運ぶ予定になっているという。……

十一月十七日
メインストリートは一晩中騒々しかった。乗用車、トラック、なんと戦車まで、どれもがのろのろ通っていた。政府のおおがかりな移転が始まったのだ。国民政府主席の林森氏はすでに発ったという話だ。韓の家族のことが心配だ。早くしなくては…。
今聞いたのだが、蘇州付近で張学良の指揮下のおおよそ5千人の兵士たちが蒋介石に対する服従を拒んだのだそうだ。それでようやく日本軍があんなにやすやすと侵攻できたのか分かった。なんでも、蒋介石委員長がみずから蘇州に赴き、精鋭部隊に命じて反抗的な一団から武器を取り上げさせたという。委員長も楽ではない。その精力に脱帽!その結果、蘇州の前線部隊は再び踏みとどまったとの話だ。……

十一月十八日
今日は「中華新聞」の南京版もでなかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラックが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうず高く荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士はぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな裸足で、黙々と行進している。果てしなく続く疲れ切った無言の行列。……

十一月十九日
……国際委員会が発足した。主要メンバーは鼓楼病院のアメリカ人医師、それから金稜大学の教授たち。全員宣教師だ。難民区を作ろうというのがその目的だ。つまり、城壁の中、あるいは外に中立地帯を作り、万が一砲撃されたとき、非戦闘員の避難所にしようというのである。いっしょにやらないかといわれた。私がここに残るというのはすでに噂になっていたのだ。私は承諾し、スマイス教授の家で開かれた夕食会で、アメリカ人の参加者全員に紹介された。……

十一月二十日
18時に号外がでた。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから南京は死守されそうだとも。

十一月二十三日
……韓が耳寄りな話をもってきてくれた。友人の中国人が、なんとトラック二台、ガソリン百缶、小麦粉二百袋を私に贈ってくれるというのだ。ありがたい。誕生日プレゼントだと思って、好意を受けることにした。大いに役に立つ。食糧と車はぜひとも必要だから本当に助かる。ぬかに釘でなければよいが。……

十一月二十四日
ロイター通信社が早くも国際委員会の計画について報じた。すでに昨日の昼、ローゼンもラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館宛にこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。

当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーベを代表に、イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。……

十一月二十五日
……昨日ラジオで聞いた上海からのニュースによると、日本軍司令部が南京に非戦闘員用中立区をつくりたいというわれわれの申し出を好意的に受け入れたとのこと。だが公式の回答はまだだ。……たったいま杭立武さんが、安全区の件で中国政府から了解を得る必要はないと教えてくれた。蒋介石が個人的に承認してくれたというのだ。渉外担当が決まった。南京YMCAのフィッチ。あとは日本側の賛意を待つのみ。……

十一月二十八日
昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。「防衛はこの町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合に備えている」という答えが返ってきた。次に、「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石、もしくは唐の返事は「その時は日本人がやればよい」というものだった。言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のためにだれも身をささげないとは…。さすが、賢明な御考えだ!……

十一月二十九日
……ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」であるあの方は、自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。ヒトラーの一言だけが、彼の言葉だけが日本政府にこのうえない大きな影響力をもつこと、安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人の中にもいない。総統は必ずそのお言葉を発してくださるだろう!……

十二月二日
フランス人神父ジャキノを通じ我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。

電報1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
11月30日の貴殿の電報の件
以下は南京の安全区委員会にあてられたものです  ジャキノ
「日本政府は安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重十するよう、努力する所存です」……

トラウトマン大使とラウテンシュラーガー書記官が漢口から戻ってきたのはちょっとしたセンセーションだった。ローゼンに事情を聞くと、これは委員会とは無関係だとのこと。こっそり教えてくれたのだが、大使は私が総統とクリーベルに電報を打ったことに必ずしも賛成ではないらしい。あれは必要なかったと考えているのだ!今日は時間がないので、あした大使を訪ねよう。思うに、彼が戻ってきたのはドイツによる和平工作の件だろう。……

十二月三日
 ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関の艀でこちらに来たのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。思ったとおり大使は和平案を伝えに蒋介石のところへ行ったのだ。私がそういうと何度かためらったあと、ローゼンも認めた。細かい内容については何も聞き出せなかったが、こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。うまくいくといいが!……

 防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに安全区の三か所に新たに塹壕や高射砲台を配置する場を設けてられている。私は唐の使者に「もしただちに中止しなければ、私は辞任し委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望通りすべて撤退させると文書でいってきたが、実行には少々時間がかかるという。……

十二月四日
 どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係者の電話を引いている有様だ。今日、米を運ぶことになっていた8台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルぐらいしか離れていないところに、いくつも爆弾が落ちたのだ。……

十二月五日
  よく晴れた日曜日だというのに朝っぱらから腹がたってしかたがない。運転手が迎えに来なかったのだ。思えばこれで25回目だ。というわけで、やっとのことで車に乗り込んだとたん今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。だが今は許可証をもっているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。それにあまりやることが多くて爆弾などにかまっていられない。こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。
 アメリカ大使館の仲介で、ついに安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日送られてきたものと大筋は変わらない。つまり、日本政府はまた拒否してきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。……

十二月六日
 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗り込んだ。残りの人々もいつでも乗り込めるよう準備している。われわれの仲間だけが拒否した。これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。
 黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら軍紀が乱れるというのだ。「日本に征服された土地はその土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げ込もうとしている連中をわが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつけない。しかもこいつは蒋介石委員長の側近ときている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!なぜ金持ちを80万人という恵まれた市民を逃したんだ?首に縄をつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ。……

十二月七日
上海放送はトラウトマン大使が今日漢口に到着したと伝えていた。彼の和平案が蒋介石に拒否されたといっている。ローゼンからの極秘情報によれば(すでに書いたが)、もうそれは蒋介石に受け入れられたということだが、その一方で目下最後の戦闘準備がすすめられている。最後の一兵が倒れるまで戦う。兵士たちは口々にこういい続けている。……

十二月八日
何千人もの難民が安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和なときよりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子をみていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていく中、この寒空に家の陰や路上で横になっている。……
外国人のなかにはこういうことをいう人もいる。中国人の抵抗はどうせ只のポーズだ。メンツを失わないよう、形ばかり戦うだけだろう、と。だが、私はそうは思わない。南京防衛軍をひきいる唐が無分別にも、兵士はおろか一般市民をも犠牲にするのではないかと不安で仕方がない。……


十二月九日
……さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、歩哨はだめだといったが結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。
 午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町の一帯が見える。作戦上火をつけたのだ。町中が煙の帯に取り巻かれている。……燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の七時にたどりつき、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まで来ているとのことだ。あるいはその手前に。中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区中に響いている。……

十二月十日
不穏な夜だった。きのうの夜8時から明け方の4時頃まで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。きのう朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊にいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで、交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。……

正午 
朝からひっきりなしの攻撃だ。窓ガラスがガタガタいいっぱなしだ。紫金山では家が燃えている。城壁の外の町も燃え続けている。安全区にいる人たちは安心しているのか、あまり爆撃機を気にしていない。日本のラジオが、南京は24時間以内に陥落するだろうと伝えている。中国軍はすでにいいかげん士気を阻喪している。……

十二月十一日
水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおりいくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの「ベータ」のお気に召したらしい。さっきから声を限りにして合奏している。からすよりカナリアの方が神経が太いようだ。
 爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区」を信頼しているのだ。ここはとっくにセーフでもなんでもないのだが、いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから、いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくてもできないじゃないか。

九時
ついに安全区に爆弾が落ちた。福昌飯店の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者。……さらにもう一発(今度は中学校)。死者13人。軍隊が出ていかないという苦情があとをたたない。……

十八時
記者会見。出席者は報道陣の他は委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦バナイで発ったのだ。スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、「こそ泥」を捕まえ、その処分について聞いてきたという。この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることになるとは。私もそこまで考えていなかった。われわれはます死刑を宣告し、恩赦により、と24時間の拘置にし、留置場の不足によりやむをえず、ふたたび自由の身にしてやった。……

十二月十二日
日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃、ピストル、手榴弾、完全装備だ。警官も規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の8時に、再び砲撃が始まった。
11時に唐将軍の代理だといって、龍上校と周上校がやってきた。3日間の休戦協定を結びたい。ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。
休戦協定の内容は―この3日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。われわれはまずアメリカ大使あての電報、次に調停を依頼する唐将軍の手紙(大使に電報を打つ前に唐がこれをわれわれにださねなければならない)、最後に軍使に関する取り決めを、まとめあげた。軍使は白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。……だが私はショックを受けなかった。こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆は分かっている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。だから日本軍あての公式書状で「降伏」という言葉を使われては具合が悪いのだろう。なにがなんでも休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だとみせかけなければならないというわけだ。……

二十時
南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は避難してきた人たちでふたつともあふれそうになっている。ふたつの門の両方でノックの音がする。なかにいれてもらおうと、女の人や子供たちがひしめいている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げ込んできた男たちもいる。これいじょう聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんをもってきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが一番安全だと思っているのだ。……クリスチャンの話だと、メインストリートには軍服や手榴弾、そのほかありとあらゆる兵隊の持物がばらまかれているという。中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。……夜の9時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜9時から10時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は8時には自分の部隊を置いて船で漢口に逃げたという。……


十二月十三日
日本軍は昨夜いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んではいない。……委員会のメンバー3人で野戦病院へ行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部の中につくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよく分かった。砲撃が激しくなったとき、医者も看護人も患者を放り出して逃げてしまったのだ。我々はその人たちをおおぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院にはやめくのをみて、みな再び勇気を取り戻した。
 外交部へ行く道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。 我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後ふっとんでしまう。上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方をみると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に日本人司令官は2日後に来るといった。日本軍は北へ向かうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の3部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で6百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士たちもいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々はこれらの部隊を外交部と最高法院へ収容した。……我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。……本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたにちがいない。我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。……町を見まわってはじめて被害の大きさがよく分かった。百から二百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると 市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから撃たれたのだろう。
 日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったらとうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第に盗んだ。食糧が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また福昌飯店もこじ開けられた。中山路と大平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。……二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々が何をいってもしょせんむだなのだ。元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百人ないし五百人が連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。……日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人大急ぎで空き家にかくまった。韓は近所の家から、十四歳と十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。ベイツは安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出て行った。……

十二月十五日
朝の十時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。……
昨日、十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。

  南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国兵の悲運を知り、大きな衝撃を受けております。本委員会は、この地区から中国軍を退去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち12月13日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めてきたのです。
  我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本から寛大な処置を期待できるだろう、と。捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。  
                                 敬具
           ジョン・ラーベ、代表


……残念ながら午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げ込んできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器をとることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえられたというのだ。スマイスとミルズと私の三人でなんとか助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。


十二月十六日
朝、8時45分、菊地氏から手紙。菊地氏は控え目で感じのよい通訳だ。今日の9時から「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
 いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんでいる。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。……

ドイツ人軍事顧問の家は片端から日本兵によって荒された。中国人はだれ一人家から出ようとしない!私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れていたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子供が押し合いへし合いしていた。ひざまづいて頭を地面にすりつけ、どうか庭にいれてください、とせがんでいる。この悲惨な光景は想像を絶する。…… たったいま聞いたところによると、武装解除した中国兵がまた数百人、安全区から連れ出され銃殺されたという。そのうち50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区へ入れたというかどで処刑されたという。
 下関へいく道は一面が死体置場と化し、そこらじゅうに武器の断片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼き払われていた。
把江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字通り死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片付かない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。

 銃殺する前に、中国人兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。…… いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。女の人や子供たちがおおぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして互いに寄りそって体を温めたり、はげましあったりしている。この人たちの最大の希望は、私が「外国の悪魔」日本兵という悪霊を追い払うことなのだ。

十二月十七日
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと、「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえした。

 塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運よく救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約二百人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人の誰かがこんなふうにいった。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」

あたらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金稜女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。……

軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部まではすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げ込まれた。……
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