3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(3)トラウトマン和平工作の真相

ジョン・ラーベ著「南京の真実」(講談社1997年刊)を今読み終わったばかりだが、この本の編者エルヴィン・ヴィッケルト氏自身のあとがきとして記された「ヒトラーとラーベ」という章の中で、「トラウトマン和平工作」についての非常に興味深い事実関係の言及があるので急きょその部分を紹介したい。ちなみに編者エルヴィン・ヴィッケルト氏は元駐華ドイツ大使であり、ラーベ氏とも親交のあった人物である。後に歴史学者・作家としてドイツ作家協会の会長も務めた超一流の人物である。この人物が当時の時代を振り返って、トラウトマン和平工作がいかに重要なターニングポイントであったかということを、あえてこの「ラーベの日記」の最終章に記しているのである。これを読むとやはり故山本七平氏の卓見が間違いなかったということを確信できる。なお、「ラーベの日記」については後日、あらためて別稿にて詳しく紹介するつもりです。

1936年11月ジョン・ラーベ邸を訪ねた後、私(エルヴィン・ヴィッケルト氏)は上海まで足を延ばして、クルーベル総領事宅に客として一週間ほど滞在した。当時、交換留学生はよくこうして世話になっていた。ちょうどベルリンで日独防共協定が締結されたばかりだった。夕食のとき、私はいった。

「防共協定を結ぶなら、蒋介石のほうが良かったのではないでしょうか。蒋介石は共産党の毛沢東と闘わなければならないのですから、領土拡張に躍起になっている日本は問題があるのではないでしょうか?」私はいささか生意気だったのだ。ところが意外なことにクリーベルは同意したのである。私は思わずたたみかけた。「領事は、総統がランツベルク刑務所に勾留されたとき、いっしょに判決を受けた仲ではありませんか。総統に手紙でそのようにお伝えになったらいかがですか」。しかし彼はこういっただけだった。「もう二度手紙を出した。三通目は書かない」

当時はまだ、軍事・外交に関しては保守層が権力を握っており、中国にいたドイツ人たちはみな親日政策に反対であった。日独防共協定はベルリンで調印された。立ち会ったのは、武者小路駐独日本大使と、非常に異例なことに、外務大臣ノイラートではなく、ナチの外交官リベントロップだった。外務省もこの交渉には関与していなかった。中国との友好関係を維持したいと考えたからである。

1937年6月27日、蒋介石は駐華ドイツ大使トラウトマンにいった。ドイツは日本と非常に親密であり、日本と平和的に交渉できる唯一の強国ではないか、と。彼はドイツを仲介役とした和平交渉の希望をにおわせたのである。

いっぽう日本軍は、8月の上海攻撃で中国側の激しい抵抗にあって困惑していた。兵器でははるかに日本に劣ってはいたが、ドイツ人軍事顧問に鍛えられた国民政府軍は予想以上に手強かったのだ。10月21日、日本の広田外務大臣はディリクゼン駐日ドイツ大使にドイツかイタリアのどちらかが南京政府に調停を勧めれば喜んで受け入れようと伝え、日本の提案する和平条約の草案を示した。つまり、日本と中国の両国がドイツ政府に調停を頼んだのである。

11月5日、トラウトマン大使は和平条約案を読み上げたが、蒋介石はためらった。日本側の条件を厳しすぎると思ったからである。だが数週間後、日本軍は果敢に戦う中国軍を打ち破って南京にむかって進軍した。ここにいたって蒋介石はついに講和を決意した。12月2日、トラウトマン大使は蒋介石に乞われて漢口から南京に戻った。トラウトマンを通じて、一か月前に出された日本側の条件は依然として有効だとの確認をとった後、蒋介石は日本の和平案を受け入れる意向を表明した。その夜ローゼン書記官は、大使の電報を暗号にし、緊急印Cito!を添えて送信した。12月6日、ラーベは日記に記している。「ローゼンは、日本が南京を占領する前に平和が訪れるといいといい、といっている」ドイツ大使館は驚くほど楽観的だったのである。

ところがディルクゼンが蒋介石の意向を伝えると、広田はこの数週間で事態は変わったと告げ、「日本が要求している華北政権は南京の中央政府から独立すべし」といってきた。これは中国側が呑むはずのない要求だった。こうしてトラウトマン和平工作は水泡に帰したのである。(以上、「南京の真実」講談社ジョン・ラーベ著P177-178)


もともと日本側が蒋介石に突きつけた和平案の最大の条件は「満州国承認を認めよ」ということだったはずである。その他の項目、たとえば互いに防共に尽力するとか、反日行動を慎むとかいう点では蒋介石は日本側と一致していた。それまで蒋介石がどうしても呑めなかったのは満州国を承認する条件だけであった。蒋介石としても事実上は満州国を黙認せざるをえない状況であることを認めていたが、しかし「承認」という所まではどうしても譲れなかったのである。しかし、上海事変での多大な損害(中国側は20万人以上の死者がでたとされる)を出し、このうえ南京まで攻めてこられると首都の防衛さえできないという状況に追い込まれて、やむなく「満州国承認」を認めるという決断をしたのであった。これは山本七平がいうように、まさに蒋介石にとっては無条件降伏にも等しい決断だったはずである。

ところが蒋介石がその難しい決断をしたことに対して、日本の広田外相はあたかもそれをあざわらうかのように、さらにハードルをあげて「華北政権は南京の中央政府から独立すべし」という条件まで付け足してきたので、これは蒋介石が到底呑めるはずのない条件だったとヴィッケルト氏が回想しているのである。

この条件はどういう意味なのかというと、そもそも日本は満州事変以来、満州に近い華北周辺で反日テロ事件が頻発していたのでこの地帯に中国人の保安隊(日本の傀儡軍)を置いて警備に当たらよせていたのであるが、そのやり方をさらに周囲に広げていこうという戦略で北京市を中心とする華北政権(実際には政権ではなく地方の軍閥の自治区にすぎなかったが)とさまざまな交渉をしながら、武力の威圧を背景に手なずけていたのである(事実、当時の華北地帯の自治区では人事権にまで日本が干渉していたし、北京大学の学生らの反日デモに対しても日本軍が鎮圧する権利を要求していた)。

ところが盧溝橋事件が勃発したあと、蒋介石の南京政府が乗り出してきたために戦線は拡大の一途となった。したがって日本側の「華北政権を南京中央政府から独立させよ」という要求は、要するに華北地帯は日本の支配地域であることを認めよという要求に他ならなかったわけである。つまり日本側は南京政府の和平案受諾表明に対して、逆に「それならついでに北京を中心とする華北一帯を統治することはあきらめよ」というさらなる条件を突き出したわけである。当時をよく知るヴィッケルト氏はこの条件の変更は蒋介石にとって呑めるはずのものではなかったと証言しているのである。ちなみに前に紹介した渡部昇一氏らの保守派の書の中では、これらの条件はやさしいものであったと書いているものが多いが、これはとんでもなく自分に都合のよい史実を捻じ曲げた歴史解釈にすぎないものであろう。

いずれにしても、当時の蒋介石は中国全土を統一するだけの力をもっていたので、そんな要求は絶対に呑むことはできなかったのである。もちろん日本側も蒋介石がそれを呑めるはずがないということを分かって条件をあげてきたのだろうということは容易に想像できる。この時点では日本側は南京攻略に絶対の自信をもっていたので、それをいまさら思いとどまることは難しかったのだろう。南京は中央政府の首都だったので、これを陥落させれば将棋のたとえでいえば戦争はつむはずだと安易に考えたのかもしれない。しかし、ここに日本側の重大な誤算があったのである。それは石原莞爾が正しく予見していたように、日本軍が南京攻略を果たしたところで将棋はつまないどころか、それから以後の展開は日本軍にとって泥沼以外のなにものでもなくなるということである。
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