3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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南京事件の真相 その一

「南京事件」「虐殺」というキーワードでヤフー検索をすると、驚いたことに「南京大虐殺は捏造だった」というページがいきなり目に飛び込んでくる。このページがヤフーの検索ワードの上位にひっかかる理由は来訪者が多いからであろうと容易に推測できる。その他にも同じキーワードで上位にでてくるのは、大体、「南京大虐殺はなかった」とするいわゆる「まぼろし派」のページである。東京や大阪の街頭ではネット右翼たちが「中国人と朝鮮人をぶっ殺せ!」というような異常なシュプレヒコールを叫びながらデモを展開しているという。これは由々しき事態である。これを放置すると日本は中国や韓国のみならず世界中から信を受けることは難しいだろう。このような思いもあって、以下に南京事件の研究家として知られる泰郁彦氏の著作「南京事件」(中公新書1986年2月初版)から一部分を引用させていただこうと思った。この書を読めば南京で虐殺があったのかどうかという議論が存在すること自体がバカバカしい気がするであろう

ちなみに泰郁彦氏はいわゆる左巻きの学者ではなく、むしろどちらかといえば保守派の歴史学者である。最近でも韓国の慰安婦問題について、慰安婦の強制連行の証拠となる事実はなかったという見解を表明しており、その立場から橋下発言を産経新聞の「正論」欄で「大筋では(橋下発言は)間違っていない」という文章を寄稿しておられるのをみても、泰氏のイデオロギー的背景がどのようなものかということはおおよそ分かるだろう。ただし、私はなにも保守派だから信用できると言いたいのではない。世の中にはイデオロギーの背景によって、その人が主張する事実をねじ曲げてとられる傾向があるために、あえて泰氏のイデオロギーの背景を説明したまでである。いずれにしても、左翼であろうと右翼であろうと事実は事実であり、その事実をいかに受け取るかということは一人ひとりの判断と責任にゆだねられているのだということは付け加えるまでもないと思う。
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さて、泰郁彦氏の著作「南京事件」に入る前に、最小限の予備知識として知っておいていただきたい南京事件の背景について若干の説明をしておく。日本軍が南京に入城したのは1937年12月13日である。それまでに前にも説明したように、トラウトマン和平工作が行われており、一時停戦の機運もまったくなかったわけではないが、南京攻略の総司令官松井石根が戦後語ったところによると、日本は国民政府の首都南京を攻め落としてから和平案を受諾させたいと考えていたそうである。しかし、これは逆効果であった。蒋介石は一旦和平案を受諾する意志を表明したが、日本軍の進軍が止まないために断念し、これ以降徹底抗戦を決意し、すでに首都も内陸部の重慶に移していたのである。したがって蒋介石は日本軍が南京を攻略する以前に南京防衛を諦め、これより以降、中国奥地の内陸戦へ持ち込もうとしていた。

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南京市街の地図(斜線内は安全区)

ただし、蒋介石の意図は中国軍全軍に正しく伝わっていたわけではないようだ。南京防衛を託された中国国民軍の最高司令官唐生智はぎりぎりまで南京死守を誓ってふんばっていたが、その後蒋介石の撤退命令を受け、自らも一部部隊とともに奥地へ逃げ込んだ。ただし指揮命令系統が混乱していたためか、撤退命令を知らずに戦っていた中国軍も多くいたようである。彼らの多くは南京陥落前に日本軍に殺され、また捕虜になった者も大部分は処刑されたと考えられている。12月13日、日本軍が南京に入城する前に勝敗はほぼ決しており、ほとんど無抵抗のうちに日本軍は短時間で南京市街全域を占領することができた。一般にいわれる南京の大虐殺という事件は、この占領後に起こった出来事であると考えられている。

南京市内には元々百万人以上の市民が居住していたが、日本軍が入城するまえにほぼ80%の住民が内陸部へ逃げていた。その前から連日連夜爆撃が続き、そのうえ日本軍が攻め込んでくるという噂もあったからである。その中でも取り残された市民の数が約20万人いたとされる。南京市は中国の首都でもあったので海外の外国人も多数住んでいた。しかし、彼らもほとんど南京陥落前に逃げ出したのであるが、牧師や金稜女子大の学校関係者らごく一部の外国人が残ることを決意していた。彼らは市街地で戦闘にならないように、事前に日本軍に働きかけ安全区を設けることを認めさせ、そこには無辜の一般市民がいるので攻撃しないように約束を取り付けた。ただし、その約束を日本軍は必ず守ると保障したわけではなく、戦闘に支障がないかぎりは尊重するとしていただけである。いずれにせよ南京にいたほとんどの市民はこの安全区に逃げ込んだのであるが、問題は日本軍が南京に入城する前に中国軍が戦意を喪失して一斉に武器を捨て軍服も脱ぎ棄て、安全区の一般市民に紛れ込んでしまったことである。したがって、日本軍が南京に入城したときには武装した中国軍はほとんど一人もおらず、そこらじゅうに脱ぎ捨てた軍服や捨てられた武器が散乱していたのである。日本軍はこのように軍服を脱ぎ捨てた元兵士を「便衣兵」と名づけ、彼らを徹底的に摘発する方針を打ち出した。

南京の大虐殺という異常な事件はここから起こることになる。南京大虐殺は虚構にすぎないという人々によれば、便衣兵を摘発し彼らを処刑したことは認めるが、これは戦時国際法に基づいた不法捕虜に対する正当行為であるから虐殺とはいえないという立場を一貫して主張している。しかし、日本軍は南京の戦争をそもそも「戦争」とはいっておらず、自ら戦時国際法を適用されないと主張しているのだから、この件で戦時国際法を持ち出す資格もない戦争だったといえよう。しかし、問題はそんな法律問題ではなく、そこでいったい何が行われたのかということである。それについて現場を何も知らない人間が漠然と語っても意味がない。実際にそこで行われたことは人道に著しく反する残虐行為であり、近代戦の中でも特筆すべき蛮行があったとされているのである。それが具体的にどのような事実だったのかということを、われわれは詳しく知る必要があると思う。これから引用する文章は、ほとんど当時現場にいた人々の証言である。これらの証言をどのようにみるかは、われわれの判断と責任にすべてゆだねられているのだということをあらためてここに付け加えておく。

以下の文章は12月13日の南京陥落後にしばらく南京城内に滞在していたニューヨーク・タイムズのダーディン記者が12月17日に本国アメリカへ打電した記事である。

「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を逃してしまった・・・・中国政府機構の瓦解と中国軍の解体のため南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともに確立されると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大被害を受けることもなくなったと考えて、中国人民の間に大きな安堵の気持ちが広がった。歓呼の声で先頭の日本兵を迎えた住民もいた。しかし日本軍が占領してから二日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。」P2-3

つづいて彼が目撃した恐怖の光景が、ジャーナリストらしく要領のよい、しかし冷静な筆致で映画フィルムのように生々しく描き出されている。いくつかの実例を要約引用しておこう。

「一般市民の殺害が拡大された。警官と消防夫が特に狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺された」「日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよいほどだった。」「多数の中国人が妻や娘が誘拐されて強姦された、と外国人たちに報告した。」「記者は上海行きの軍艦に乗船する直前、バンド(埠頭)で二百人の男子が処刑されるのを見た。殺害には十分間かかった。男たちは壁の前に一列に並ばされて銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、一軒一軒しらみつぶしの捜索がおこなわれ、集められて処刑された」

このダーディンの報道記事は二日半の見聞に限られた速報ながら、南京アトローシティにおける蛮行のほぼ全類型を網羅していた。三週間後に出た詳しい続報を待たずとも、世界中にセンセーションを巻き起こしても不思議はないスクープであり、少し前に起きたゲルニカ爆撃に匹敵する衝撃波を送り出した(P4-5)


以下の証言は、国際安全区の幹事でYMCAの書記長フィッチの証言である。後日、別の角度から見た証言として国際安全区委員会代表ドイツ人ジョン・ラーゲの日記を紹介する予定であるが、そのときにもフィッチが度々登場するので覚えておいてほしい。

「便衣狩りは十二月十四日、日本軍の大佐が来訪して、六千人の便衣兵を差し出せと要求したことに始まる。断ったが日本兵は勝手に捜索して千三百人をよりだし、ジュズつなぎにして揚子江へつれ出し、処刑したという。十六日にも警察官五十人を含む千人が拉致され、二十四日には、元兵士でも名乗り出れば助命するといつわって、つれ出した二百四十人を処刑。強姦は十五日から一日千件の割で続発し、被害者の年齢は十歳から七十歳にわたり、その後殺された者も少なくなかった。放火と略奪は、フィッチによれば、十二月十九日から大規模にはじまり、彼が働くYMCAの建物も焼かれ、商店の八割、住宅の五割が略奪され、焼き払われたという。」

以下はページが一挙に跳ぶが、主に日本軍兵士の日誌などを中心に集めてまとめた検証ページからの引用である。先のダーディン記者のスクープ記事をあわせてみると、その信用度はますのではないかと思う。

この間に、各所で逃げ遅れた敗残兵が集団で投降してきたが、興奮で殺気立った兵士たちは上官の制止もきかず、片はしから殺害したようだ。佐々木少将は午後二時頃、和平門まで前進したが、「その後俘虜ぞくぞく投降し来り数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ片はしから殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛酸をかえりみれば兵隊ならずとも<皆やってしまえ>と言いたくなる。白米はもはや一粒もなく、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合せは無いはずだった」と書いている。P116

一方、佐々木回想録は、「この日我作戦地域内に遺棄された敵屍1万数千」「江上に撃滅したもの並びに各部隊に俘虜を合算すれば我支隊のみにて2万以上の敵は解決されているはず」と述べ、中島師団長日記(13日)は、「後ニ到リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約15000、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約1300」と記す。問題は捕虜の「処理」だが、中島日記(13日)に「大体、捕虜ハセヌ方は針ナレバ片端ヨリコレヲ片付クルコトトナシ」とある。(P117)

たとえば、児玉義雄大尉は次のように証言している。「彼我入り乱れて混戦していた頃、師団長の声で師団命令として、“支那兵の降伏を受け入れるな。処刑せよ。”と電話で伝えられた。私はこれはとんでもないことだと、大きなショックを受けた……参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用されるところとならず……」(P118)


これらの記述は南京占領前直前の戦闘の報告である。すでに捕虜に対する処刑の方針が定まっていたことがみてとれると思う。

第十六師団による南京城内外の掃討作戦は14日から15日にかけて続行され、13日と同じように敗残兵は投降すると否とを問わず、手当たり次第に処分されたようである。この掃討作戦については、歩兵第30旅団の発した命令が残っているので一部を抜いて示そう。
一、敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意志ヲ有セルモノ散在ス
二、旅団ハ本14日、南京北部城内及ビ城外ヲ徹底的ニ掃討ス
六、各隊ハ師団の指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ(P117-118)

「十一時三十分入城、広場において我小隊は敗残兵370名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。我は敗残兵中よりジャケツをとって着る。面白いことこのうえなし。自動車、オートバイなども多数捕獲す。各自乗りまわせり。八時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室にいれて殺す。」西田上等兵の日記。(P120)


上の記述は南京城占領後の記録である。ダーディン記者が報告していた日本軍の略奪行為を物語っている。敗残兵に対する処理方針は各兵に徹底されていたこともうかがわれる。

「最前線の兵7名で凡そ310名の正規軍を捕虜にしたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取り上げ服装検査、その間に逃亡を図った奴三名は直ちに銃殺。間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し、兵隊200人ばかりで全部突き殺す。…中に女一名おり、殺して陰部に木片を突っ込む。外に2000名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き刺す兵がいた」(小原予備主計少尉日記) 十二月)(P121)

十二月十四日、南京周辺とくに城外東方の日本軍は彷徨する敗残兵の討伐に多忙をきわめた。そのほとんどが指揮者もなく戦意を失った空腹の兵で、日本軍をみかけると小ぜりあいするか、無抵抗で次々に投降し捕虜となった。しかし、どれが敗残兵か捕虜か見分けもつきにくく、情報が渾沌としていた。この日の飯沼参謀日記には、「南京東方地区より約一千宛の捕虜二群下関方向に移動しあり」「三時頃佐々木支隊の一中隊は南京東北方に於て約二万を捕虜とせりと」などの諸情報が記入されている。
(中略)
このときの捕虜百数十人は、軍司令部の命で「掃滅」させられてしまうが、今なお論争の的になっているのは、歩三八の第十中隊が堯化門で捕えた大量捕虜(飯沼日記の二万に相当か)の始末である。
歩三八戦闘詳報第十二号付表は「不慮7200名ハ第十中隊堯化門付近ヲ守備スベキ命ヲ受ケ、同地ニアリシガ、14日午前8時30分頃数千名ノ敵白旗ヲ掲ゲテ前進シ来リ、午後1時武装ヲ解除シ南京ニ護送」と記す。
(中略)
ところでこの7200人の捕虜はどうなったのか。軍司令部に問い合わせると、「直ちに銃殺せよ」と言ってきたが、沢田少尉が拒否すると、「では中山門までつれて来い」と指示が変わり、迎えの部隊と同行して中山門まで連れて行った、と沢田は述べている。
この転送風景を目撃したのが、『野戦郵便旗』の著者佐々木元勝氏で、その十七日の項に「夕露に煙る頃、中山門に入る前、また武装解除された支那兵の大群に偶う。乞食の大行列である。誰一人可哀そうなのはいない。7200名とか」と記し、引率の将校が「一挙に殺す名案を考案中……船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく、警察署に留置し、餓死さすのだとか……」と語ったのを記録している。中島日記にも「此七、八千人之ヲ片付クルニハ相当大ナル濠ヲ要シ中々見当タラズ一案トシテハ百二百ニ分類シタル後適当ノカ所ニ誘キテ処理スル予定ナリ」とあるように、どう始末したらよいか名案が決まらぬままに「10中隊ハ捕虜ヲ南京刑務所ニ護送ス」となる。その後の彼らの運命については、処刑説、上海移送説、釈放説といろいろだが、今のところ確認できない※。※翌年一月上旬南京に出張した参謀本部の稲田中佐が、榊原派遣軍参謀から「収容所の捕虜を上海で労役に使うつもりでいて、数日出張した留守に殺されてしまった」(稲田正純談)と聞いている。(以上、P122-124)


上記、20000人あるいは7000人という捕虜の処分はどうなったのか明らかではないが、ラーベの日記を読むと30000人程の遺体が揚子江岸に放置されていたとあるので、これと関連するのかもしれない。これについては後日あらためて触れたい。

「明ければ十四日難民区へ。今日こそしらみつぶしにやって戦友の恨みを晴らしてやろう、と意気込み、ある大きな建物に入ると、数百人の敗残兵が便衣に着がえつるあるところを見つけた。そばには青竜刀やピストルなど山のようにある。持物検査をしてけったり、ひっぱたたいたあと電線でジュズつなぎにする。三百人はいたが始末に困る。そのうち委員会の腕章をつけた支那人に『いるか』と聞くと、向いの大きな建物を指して『多々有』と言うので、入ると難民が一杯、その中から怪しそうな一千人ばかりを一室に入れ、さらに三百人よりだし、夕方に六百人近くの敗残兵を引き立て玄武門に至り、その近くで一気に銃殺した。」増田六助上等兵の証言「南京城内掃蕩の記」(『支那事変出征戦友の手記』に収録)

十二月十八日付の難民区委員会の文書第七号は「14日日本軍将校1名が司法部へやってきて難民の半数を取り調べ、そのうち2,3百人を元中国兵として逮捕、連行し、350名は一般市民であるとして残した」と述べている。二日後に改めて日本軍が司法部の再検査をやり、委員のリッグスをなぐったうえ、警官百人を含む男子のほとんど全員を連行した。そして2000人ばかりが漢中門外で射殺されたというのが、警官の一人で東京裁判にも出廷した伍長徳の証言で、彼は処刑者を中島部隊と名指したが、第六師団の可能性もあり、特定は困難である。(P127)

「十二月十六日 午前十時から残敵掃蕩にでかける。午後又出かける。若い奴を335名を捕えてくる。……此の中には家族も居るであろう。全く此れを連れ出すのに泣くのが困る。手をすがる、体をすがる、体にすがる。全く困った。……揚子江付近に此の敗残兵を335名を連れて他の兵が射殺に行った。」(井家又一日記)(P131)

「目につくほとんどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四週を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊共何百名も狩り出しているが、1中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立ててくる。その直ぐ後に続いて家族であろう。母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。市民と認められる者はすぐ帰して、36名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方ない。真実は分からないが、哀れな犠牲者が含まれているとしても、致し方のないことだろう」(水谷上等兵の日記)(134)

こうして選りわけた「便衣兵」の始末もまちまちで。今となっては追跡のしようはないが。概していえば少人数の集団は難民区周のあちこちの空地で刺殺するか、射殺され、まとまった集団は他隊に引き渡されて、多くはその夜、下関の波止場周辺で、機関銃隊の手で一挙に射殺されたと推定される。(P135)

十六日夜、下関で1200名を銃殺した第一機関銃中隊も、執行人の方から名乗り出る人がないかわりに、目撃者の記録は意外に多い。その一人である佐々木野戦郵便局長は、夕方、下関へ黙々と護送されて行く便衣兵の大行列をみたあと、部下から彼らが処刑されたと聞き、翌朝現場を目撃した惨烈な印象を次のように記している。「銃殺した俘虜は二千名(余)で……石油をかけられたのでぶすぶす燻って居る。其臭いは秋刀魚を焼いた様である。波打際に血を流し累々横たわって居る。……」(P136)

十二月十七日の朝日新聞は「持て余す捕虜大量、二十二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」の見出しで次のように伝えている。「両角部隊のため鳥龍山、幕府山砲台の山地で捕虜にされた14777名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕えた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先ず銃剣を捨てさせ付近の兵営に押し込んだ。……一番弱ったのは食事で。部隊さへ現地で求めているところへこれだけの人間に食わせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到底食わせることはできなかった」

この大量の捕虜はどこからやってきたのか。朝日新聞は教導総隊所属と伝えているが、紫金山で敗れた総体の全員が逃げ込んでも、これほどの数にはならないはずで……。ともあれ大量の捕虜をかかえこんだ山田支隊長と両角連隊長は困惑し、まず江北を前進中の師団司令部へ、ついで軍司令部へどうすべきか問い合わせた。山田メモは次のように記す。「十五日、捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ「始末せよ」との命を受く。各隊食糧なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食糧ありときき運ぶ。捕虜に食わせろとは大変なり。」(P141-142)

一つは松井大将の専属副官だった角良晴少佐で、『偕行』シリーズ(14)で大要次のように証言している。「十二月十八日朝、第六師団から軍の情報課に電話があった。『下関に支那人約十二、三万人居るがどうしますか』情報課長、長中少佐は極めて簡単に『ヤッテマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い、松井司令官に報告した。松井は長中佐を呼んで強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事した。ところが約一時間ぐらい経って再び問い合わせがあり、長は再び『ヤッテマエ』と命じた」span>

もうひとつは、昭和十三年春、長が田中隆吉に語った次のような告白である。「鎮江付近に進出すると……退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた……(自分は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した
自分はこの命令を軍司令部の名を利用して無線電話に依り伝達した。命令の原文は直ちに焼却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しという訳にはいかなかった」(田中隆吉『裁かれる歴史』)

この二つの証言は、前者が九十一歳の老人の記録、後者は十年後の回想という性格から。事実誤認と思われる要素を含むが、総合すると山田支隊の捕虜問題を指しているように思える。幕僚が上官の意図に反する指示(指導)をすることは、軍隊の性格上本来はありえないはずだが、下剋上、幕僚専制の風習が横溢していたこの時期には必ずしも珍しくなかった。長はその中でも別格の暴れ者で、南京戦線でも粗暴、奇矯の振舞いが目立った。…命令違反や捕虜虐殺も彼を知る人の間では「長ならやりかねない」とうなずく人が多い。
(P143-144)

そこへ山田支隊は十九日に浦口へ移動せよ、との命令が届く。支隊長もかばいきれず捕虜たちの運命は決まった。山田メモには「十八日 捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。十九日 捕虜の件で出発は延期、午前総出で始末せしむ。軍から補給あり、日本米を食す。 二十日 下関より浦口に向かう。途中死体累々たり。十時浦口に至り国東支隊長と会見」と簡潔にしか記されていないので、捕虜の「始末」が実行された日時ははっきりしないが、十七日夕方に補充兵として着隊した大寺隆上等兵の次のような日記から判断すると、十七日夕方から夜にかけてだったと思われる。「十八日 今朝は昨日に変る寒さ、風は吹く、小雪は降る。整列は〇八〇三。後藤大隊長、矢本中隊長の訓示の後、各分隊に分かれる。午後は皆捕虜兵の片付けにいったが、オレは指揮班のために行かず昨夜までに殺した捕虜は約2万、揚子江岸に山のように重なっているそうだ七時だがまだ片付け隊は来ない。十九日 午前七時半、整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の遺体に驚く。今日の使役兵師団全部。石油をかけて焼いたため悪臭甚だし。午後二時までかかり作業を終わる。」(P145-146)

捕虜の大群は田山大隊の兵士たち(百数十人)に護送され、上元門付近の仮釈放所から四列縦隊で長蛇の列を作って江岸まで5キロ以上の道のりを歩いた。数時間かかって江岸に到着したときは日も暮れかかっていた。柳の木が点々としている川原で、少し沖に大きな中州が見え、小型の舟も二隻ほどいた、と栗原利一伍長は回想する。捕虜たちは対岸または中州に舟で運び、釈放すると聞かされて、おとなしく行軍してきたのだが、ここに至って異様な空気に感づいたと思われる。一人の捕虜が監視役の少尉の軍刀を奪ったのがきっかけとなってか、連隊史が記すように渡江中に対岸の中国軍に撃たれたせいか、大混乱となり、機関銃と小銃が火を吐いた。集団脱走とも暴動ともつかぬ殺戮は一時間以上つづき、夜が明けたあとには二千~三千の捕虜の死体がころがり、「
処刑」した方の日本軍も将校一、兵八人が混乱に巻き込まれて死んだ。(P146)

個々の実態については、創価学会青年部反戦出版委員会が編集した『揚子江が哭いている』が、実名、仮名をとりまぜた第六師団兵士の告白的証言を収録している。捕虜の殺害も各所で起きたらしいが、十六日、蕪湖へ向かう途中の歩一三連隊が捕えた「一千名以上の敗残兵」(荻平昌之大尉手記)を中華門外で集団射殺したシーンについては、児玉房弘上等兵の次のような証言がある。「山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数えきれないほどの中国兵捕虜の姿、そこに突然『撃て』の命令。……『まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分りました』」(P151-152)

別の例では、水西門付近に宿営していた歩二三連隊宇和田弥市上等兵の日記(十二月十五日)にある、「今日逃場を失ったチャンコロ約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会う。老若取り混ぜ、服装万別、武器もなにも捨ててしまって大道にヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも言え様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。」とか、「二百人近い敗残兵が投稿してきたのを、二十五人で引きつれて歩兵に渡すと“捕虜をつれて戦ができるか”と一喝され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた。その前日にも三百人近い敗残兵や住民を機銃で射殺したという。…」『揚子江が哭いている』という野砲六連隊分隊長の回想は、下関の釈放捕虜の運命に関わる見聞だった可能性が高い。((p155)

便衣兵と判定された中国人たちは、下関などで処刑されたが、この時期の処刑風景を何回か目撃した一人に、飛行第八大隊付の井出純二軍曹がいる。その手記の一部を紹介しよう。「さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、 死体を水面にけり落しているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落していた。傍まで行くと四十歳前後のヒゲの応召兵が『戦友○○のカタキ討ちだ。思い知れ』と大声で怒鳴りながらダンベラをふるっている。私に気づくと『航空隊の人よ、少し手伝ってくださいよ。手首も腕も疲れた。頼みますよ』と言われたが、30分近く見物した後で胸が悪くなっていた私は……手を振って早々にその場を離れ去った。」(井出「私が目撃した南京の惨劇」)P167-168


以上で捕虜虐殺の真相に関する秦郁彦著「南京事件」からの引用を終わる。他にも引用したい個所は多々あるが、特に印象に残った部分をピックアップしておいた(もっと詳しく知りたい方はぜひ本書を手にとっていただきたい)。もちろんこれらの記述がすべて真実だとはいいきれないだろうが、重要なことは、これらの記述はその当時に現場で虐殺事件に直接関与した者(あるいはその目撃者)が記した第一次史料だということである。これらの史料以上に信用性のあるものを探すことは難しいだろう。ただし、いうまでもないが、これらの史料には重複があり、同じ事件を複数の他者が別々に証言したものも含まれている。それにしても、これらの捕虜虐殺事件の総数を計上するとすれば、それは1万とか2万では済まないのではないかという気がする。その当時南京市街周辺にいて捕虜になった中国兵の数は正確に把握しきれないと思うが、当時の日本兵の総数7万人を上まわる数であったとしてもおかしくない(笠原氏の研究では10万以上の中国兵が残っていたとされている)。もし中国兵捕虜がすべて殺されたのだとすると、その虐殺数は想像を絶するものがある。しかもその中には便衣兵の摘発の際に間違って連行された一般市民も大勢いたはずなのである。

いまだに大虐殺はまぼろしにすぎないと主張する論者がしばしばいうのは、南京市内の人口が事件前と事件後も約20万人だったということである。しかし、この数字には中国兵の数は含まれていないので、そんな数字の魔術はまったく意味がないことになる。たしかに日本軍が南京の一般市民を無差別に殺戮したというような事実はない。したがって中国政府がいうような30万人とか40万人の虐殺数は誇張があるだろう。しかし、捕虜の虐殺だけでも相当な数になることは容易に想像できるのではないかと思う。捕虜になった中国兵が何万人もいたことはまちがいのないことであり、そして彼らはほとんどすべて殺された可能性があるのである。まぼろし論者がいうには便衣兵の処刑は虐殺とはいえないという。なぜなら彼らは国際法に則った捕虜とはみなされないので、殺されても仕方がない立場であったというのである。これはとんでもない詭弁である。そもそも日本政府は盧溝橋事件以来の戦争を国際法に基づく「戦争」とは規定せず、戦争よりもはるかに規模の小さな「事変」という言葉でごまかしてきた。したがって国際法に基づく「戦争」を名乗ることを拒否した側が、国際法の適用を云々する資格もないのは当然である※。

※ちなみに日本国政府は次のような声明を発しているのである。【帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約 其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体事項ヲ悉 ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ】と

しかも、秦氏の資料を読めば明らかなように、日本軍は終始一貫「捕虜を処刑すべし」という方針であり、その証拠に便衣兵ではない国際法でいう正式の捕虜(投降兵)に対しても同様の虐殺を行ってきたのである。したがって便衣兵だから殺されても仕方はなかったという彼らの論理はまったく成り立たないだけでなく、そもそも戦時国際法(ハーグ条約)の精神にもまったく反する行為である。

ちなみに秦氏と同じく南京事件の研究家として知られる笠原十九司氏の著書(「南京事件」岩波文庫)中にハーグ条約の規定について触れた個所があるので引用しておこう。


日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外におかれたものの苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民およ び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道法的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善をいっそう明確化した「捕虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)が1929年に締結されて、戦時国際法として存在した(日本は締結したが批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明している)。
ハーグ陸戦条約は「第二十三条[害敵手段、攻囲及砲撃の禁止事項] ロ、敵国又は敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること ハ兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」と、「害敵手段」を規制していた。これは直接の戦闘外におかれた兵士を保護するための規定である。十二月十三日早朝に南京城は陥落し、南京攻略戦の直接の戦闘は決着がつき、南京防衛軍も完全に崩壊してしまっていた。したがってその後の中国兵は、戦闘員を人道的に保護するために、投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在だったのである。日本軍が徹底した殲滅戦を強行したために、投降兵、敗残兵を殺戮したのは、同条約に違反する不法行為であり、虐殺行為であった。(笠原十九司著「南京事件」P221-222)


私の考えでは大量の捕虜を処刑した理由は一に食糧の問題、二に捕虜を収容する施設がなかったこと、三に敵地の中であるため捕虜が奪還されるのを恐れたこと、四に中国人に対する侮蔑があったと思う。このうち四は別にして、要するに物理的にのみ考えてみても、当時の日本軍は中国兵捕虜を正当に扱う余裕はなかったということになるであろう。そんなことをしていれば戦争にならないし、自分たちの命が逆に危機にさらされるということを彼らは分かっていただろう。しかし、だからといって捕虜を大量に虐殺してもよいという理屈にはならない。それこそが捕虜の生命を保護すべしという国際法の精神に背く行為なのである。したがって東京裁判で日本軍のこれらの行為が人道の罪に背くという罪状で裁かれたのはやむをえなかったといわざるをえない。もちろんその裁いた方のアメリカも原爆投下や東京大空襲で無辜の市民を大量に虐殺したではないかという問題があることはいうまでもない。だからあの裁判は勝者の裁判であったという側面があることも事実である。しかし、それは別の問題として訴えてゆくべき問題であろう。その前に自らが行った南京での戦争犯罪を根本から悔い改める必要があるのではないかと思う。

最後に、本書(泰郁彦著「南京事件」)のあとがきの言葉を紹介しておこう。一部の自民党などの保守政治家を気取る議員にはぜひとも噛みしめてもらいたい言葉である。

日本が満州事変いらい十数年にわたって中国を侵略し、南京事件をふくめ中国国民に多大の苦痛と損害を与えたのは、厳たる歴史的事実である。それにもかかわらず、中国は第二次世界大戦終結後、百万を超える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引き上げを許した。昭和四十七年の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も請求しなかった。当時を知る日本人ならこの二つの負い目を決して忘れていないはずである。

それを失念してか、第一次史料を改竄してまで、「南京“大虐殺”はなかった」と言い張り、中国政府が堅持する「三十万」や「四十万」という象徴的数字をあげつらう心ない人々がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書にでている原爆の死者数(実数は今でも不明だが)が多すぎるとか、「まぼろし」とかキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。そして、この認識なしに今後の日中友好はありえない、と確信する。
(泰郁彦著「南京事件」P244)


補足1
泰氏の研究では虐殺数は四、五万人とされているらしいが、読後に少し気になったのは南京市郊外の主に農民に対する虐殺数である。これについて泰氏の書ではほとんど触れられていない。笠原十九司氏の研究によると、日本軍が南京を目指して進軍してゆく過程で、大規模な虐殺があったらしいということである。その虐殺数は信頼できる記録がないので、どこまで信用できるのか疑義が残るが、しかし、総勢二十万を超える日本兵が上海や杭州から四方八方の農道を利用して南京を目指して進軍していったときに、大規模な虐殺があったということは十分に推定されることである。それらの地域の農民はラジオも新聞も何もない環境の中で、日中間で戦争が起こっているということすら知らない人々が多くいた。ましてや日本軍が大挙攻め上がってくるという情報を知らなかった人々が多く、気がついたときには時すでにおそく逃げようとしても逃げられず、また逃げようとすれば兵隊と間違えられて射殺されるということもしばしばあった。それを物語る笠原氏の史料を一部引用しておこう。


11月22日 道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子でのびていたのも可哀想である。橋の付近には5,6個の支那軍の死体が焼かれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。
11月26日 午後4時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往しているのもまったく可哀想だがしかたない。午後六時、完全に占領する。七時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討がおこなわれた。自分たちが休憩している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕えようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと3名は捕らえた。兵隊たちは早速エンビ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。
11月28日 午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃をもち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来た時、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準をつけ一名を射殺。このときから掃討は始まっていたのである。自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのか分からないが、逃げる者は怪しいとみて射殺する。部落の12,3家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。老人が2、3人いて可哀相だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ5,6名を射殺する。意気揚揚あがる。


補足2
笠原氏の著書(「南京事件」岩波書店)の中で長江に筏などで逃げようとした膨大な数の中国兵士たちに対して軍艦上から射殺したという次のような記録がみられる。


日本軍の捕虜になるよりは長江の中で一緒に死のうと8人が板に乗り。長江にのりだした。夕方の5時ころだった。そのころ日本軍の軍艦が長江にやってきて、巡視しながら、長江上の敗残兵を掃射しはじめた。さまざまな器材に乗り、あるいはつかまって長江の流れにただよう中国軍将校が日本軍の機関銃の餌食となった。また日本軍艦にぶつけられて漂流道具もろともにひっくりかえされて溺死させられた人たちも多かった。戦友たちの無数の死体がたえず近くを流れてゆく。長江の水は血で染まり、凄惨な光景は見るに耐えなかった。軍艦上の日本兵たちが、長江を漂流する無力の戦友たちを殺戮しては拍手し、喜ぶ姿も見えたこのときの怒りは、生涯忘れることができない。(これは九死に一生を得た中国軍将校陳氏の話)

これに関する証言を海軍軍医泰山弘道が「上海線従軍日誌」に次のように書き残している。「下関に追い詰められ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗りて逃げんとする敵を、第十一艦隊の砲撃により撃滅したるもの約一万人に達せり(南京戦史資料集)
さきの陳氏も、葦の筏に乗った教導総隊の上等看護長に救いあげられて八卦洲に流れ着くことができた。陳氏は岸辺一帯に漂着したおびただしい死体と、さらに長江を流れてゆく無数の死体をみている。八卦洲には文字通り九死に一生を得てたどりついた軍民が何千人と避難していた。しかし、日本の軍艦がそれを発見して周囲を監視し、中洲から脱出できないようにした。陳氏はすぐに流木を集めて筏を作り、夜明けの濃霧を利用して北岸に無事脱出したが、包囲された何千人の軍民は、岸辺に集められ集団殺戮され、死体を長江に流された。陳氏はこのことを後に聞き、「こんな残虐な事件は世界史上にもあまり例がない」と悲憤の思いにかられた。(P159-162

補足3
先に紹介したYMCAのフィッチ氏の話によると、「強姦は十五日から一日千件の割で続発し、被害者の年齢は十歳から七十歳にわたり、その後殺された者も少なくなかった」とされている。この問題については、日本軍の兵士たちの日誌に具体的に記されているわけではないが、中国人の証言や国際安全区委員会代表ラーベ氏の日記にも克明に記されているので、後日あらためて紹介したいと思う。要は南京陥落後に日本軍が徹底した敗残兵狩りを行った過程で、それらの蛮行が起こるべきして起こったということである。その恐るべき蛮行の真相を知ると慰安婦問題を軽々しくいうことは到底許されないだろう。
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