3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(2)トラウトマン和平工作失敗の重大性

故山本七平(またはイザヤ・ベンダサン)が「日本人と中国人」の中でトラウトマン和平工作について、あれほど激しく当時の日本側の対応を批判しているのはなぜだろうかと、自分なりに考えてみた。これは私にとってもショッキングだったからである。山本七平はもちろん右翼ではないし、いわゆる保守派でもない。もしそのように思っている人がいれば、それは完全な誤解なので、この際、考え方をあらためて欲しいと思う。では山本七平とはいったい何者なのか(?)というと、私の考えでは「預言者」という言葉がもっともふさわしいのではないかと思っている。ただし、これは私一人の考えではなく、かつて山本七平を人生の師と仰いでいた故小室直樹も「山本七平先生は神から遣わされた預言者であると確信している」という不思議な言葉を残していたらしい。かといって、私は小室直樹の影響を受けてそう思ったというわけではなく、以前からそのように考えていたのである。私の考えでは、戦前から戦後を通じて預言者と形容してもよい人物が少なくとも三人いたと考えている。その三人とは内村鑑三、賀川豊彦、そして山本七平である。ご存じの通り、この三人はいずれもクリスチャンであり聖書の影響を強く受けた人物である。

ただし、上の三人の中で山本七平だけは熱烈なクリスチャンであったという印象は少なく、内村や賀川のようなキリスト教の伝道師でもあったというわけでもないので、激烈な預言者というイメージはない。しかし、イザヤやエレミアのように激烈な預言者だけが預言者というわけではなく、故山本七平のように静かに切々と持説を説きながら、ときには皮肉っぽく憂いを語る預言者がいてもよいのではないかと思う。

山本七平のルーツは和歌山県の新宮市にあり、その実家は三代前からのクリスチャンの家系だったそうである。驚くのは山本七平の叔父さんにあたる和歌山の近親者は幸徳秋水が起こした大逆事件の仲間の一人であったといわれているのである。そのような血筋をみると、故山本七平の思想が保守とか右翼とかいうものとはまったく無縁であったということが分かるのではないだろうか。故山本七平は小さい頃から聖書に傾倒し、その世界観の中で育っていったのだと思われる。しかしながら、彼は青春の真っ盛りにフィリッピン・ルソン島の戦場に徴兵され、不本意にも皇軍の兵士として生き地獄を経験させられたのである。復員してからも、彼はマラリアや結核などの病に苦しみ、ようやく人間としてのまともな生活ができるようになったのは昭和30年代頃からであったと述懐されている。その後に山本氏は出版業を経営する傍ら、自らの青春を捧げた天皇制とは何だったのか、戦争とは何だったのかという問題を生涯のテーマとして追い続けるようになったのだと思われる。

さて前置きが少し長くなったが、そのような故山本七平の人生を懸けた問題意識の中で、先のトラウトマン和平工作に関する激しい言葉が発せられたのだという意味深さを考えなければならないと思う。確かに蒋介石がトラウトマンの和平案を受諾する意思を示したのは南京攻略戦のほんの1週間ほど前であり、もはや南京戦への準備で戦意高揚していた方面の軍隊にとって、いまさら方針転換ということは容易にはできなかったかもしれない。しかし、そんなことは故山本七平にも当然分かっていたはずである。山本七平が問題にしているのは、その和平案が他ならぬ自らが相手(蒋介石)に出した和平案であったという事実であり、その条件を相手側が飲むということは、そもそも戦争目的が完遂したことを意味するということに他ならなかったはずである。すなわち日本側の戦争目的はあくまでも蒋介石率いる国民党政府に満州国を承認させるという1点しかなかったはずなのだ。

ところが日本政府はいつの間にか本来の戦争目的を忘れ果て、中国の首都を落として彼らを完全に屈服させようと目論んだ節がある。その日本政府の戦争目的のあいまいさがわけがわからないというのである。たとえば今現在、北朝鮮がさまざまな挑発行為を起こしながら、わけのわからない政治工作をしている状況がある。しかし、一貫して言えるのは、彼らは要するに自らの延命を図っているだけであり、そのための策動にすぎないということであろう。したがって北朝鮮が本当に戦争を仕掛けてくるというのは考えにくく、だからこそ彼らはまたしても日本政府や中国政府に接近して彼らなりの和平協議を始めようと方針転換(本日5月25日のNEWS)をしてきたのではないか?その意味では北朝鮮のさまざまな動きというのも一つの方針に従っているという見方からすればむしろ分かりやすいのであるが、当時の日本政府の行動は世界中から何を考えているのか、あるいは何を得ようとして戦争しているのか分からない、そのようにみられても仕方がなかったのである。

最終的に日本軍は中国大陸をすべて占領し植民地にしようと考えたのであろうか?しかし、冷静に考えればそんなことはできない相談であるということは蒋介石だけではなく世界中がおそらく分かっていたことだろう。かつてのナポレオンがロシア征服を断念せざるをえなかったように、またナチスがソ連征服を断念せざるをえなかったように、あれだけ広大な領土を征服するというのは土台無理な話なのである。しかし、昭和12年12月13日、日本軍が南京を攻め落とした報道に日本中が歓喜し、東京などで数十万人の大衆が街頭に溢れ戦勝を祝う提灯行列を大々的に行った事実からみても、日本人はこれで戦争に勝ったと思ったのだとみて間違いがない。しかし、現実は蒋介石率いる中国国民党軍は南京を早くから諦め日本軍が侵略してくる以上は内陸に拠を移して徹底抗戦するしかないという方針を固めていた。実際、日本よりもはるかに人員でまさる中国軍は長期の内陸戦になれば負けるはずがないという確信があっただろう。日本が中国に勝つ道は唯一早期講和に持ち込む道だけだったが、その唯一の機会が南京攻略前のトラウトマン和平工作を受諾するという蒋介石の意思表明だったのである。だからこそ、その機会を自ら放棄した日本政府は何を考えているのか分からないということになるのである※。

※この事実を誰よりも正しく予見していたのは、皮肉なことに満州事変を起こした張本人石原莞爾であったが、彼の意見は軍上層部で受け入れられることはなかった。彼は盧溝橋事件後、この戦争を拡大させてはならないとして次のように述べたという。「目下は満州国建設に専念し、対ソ軍備を完成し、これをもって国防の安因を図らねばならぬ時機に、もし支那に手を出してこの計画を支離滅裂にしてはならない。今や支那は昔の支那ではなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形になり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力・軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期することが必要である。」(「軍務局長武藤彰回想録」)


これはアメリカとの戦争においても同じである。アメリカと全面戦争になれば、はじめから日本はアメリカに勝てるはずはなかった。そのことは真珠湾の奇襲攻撃を立案した山本五十六が誰よりも熟知していたが、日本政府は講和の道を先へ先へと引き伸ばし、その結果は原爆投下に至るまで一億玉砕という極限状況まで想定せざるをえなかった。その意味では当時の日本政府は今の北朝鮮政府よりもはるかに愚かな存在であったというしかない。

歴史に「もしも・・・」はありえないが、あのときトラウトマン和平工作が成功していればどうなっていたのであろうか?そうすれば日本は以後の中国内陸戦を戦わずに済んだだけではなく、アメリカとの無謀な戦争もせず済んだはずであった。アメリカが日本との戦争を決意したのは真珠湾が最初ではなく、南京事件であまりにもむごい虐殺があったということを認定したことがきっかけであった。これはすべての日本人が認めなければならない事実である。もちろん日本はそれ以前の満州事変によって、著しく国際的な信用を落としていたが、それでもなお日本は当時アメリカとの友好関係を曲りなりに保っていたし、そのことはたとえば満州事変後にもかかわらず日米親善野球が行われていたことをみても分かる。南京の虐殺報道がなければ、日本はアメリカから過酷な経済制裁を受けることもなかったはずなのである。アメリカが日本に対して石油輸出停止など貿易上の包囲網を作っていくのは、南京の出来事で日本人を懲罰しなければならないと考えたからであった。

そればかりではない。トラウトマン和平工作が成功していれば蒋介石率いる国民党軍は中共軍との内戦に勝利し、孫文の親日思想に基づいた国民党政府が中国全土を掌握しただろう。蒋介石はもともと日本に留学経験のある親日家であり、日本の近代化に習って民主主義的な近代国家を建設しようとした孫文の意志を受け継いだのであった。だから彼は決して日本との戦争を望んでいなかった。蒋介石にとって第一の敵は中共軍であり、日本に対しては満州国の承認はできないものの、できるだけ衝突は避けて平和共存を図ろうとしていたとみることができる。もしもトラウトマン和平工作が成功していれば、おそらく蒋介石は満洲国に対してそれ以上干渉をすることもできなかったであろうし、日本が目指していた満州国の真の独立に一歩近づいていたかもしれないのである。

今日の保守派の見解によると、しばしば日本は満州国の建設で中国の近代化に貢献したとかいうような論がまかり通っているが、そもそも日本が中国の近代化に貢献したかったのであれば、蒋介石と和解し彼の近代化政策を支持すべきであっただろう。それによってこそ満州国の近代化と同時に中国の近代化を成し遂げることができ、必要以上の欧米列強の干渉を防ぐ道も開かれたはずなのである。

またこれに類する話で、たとえば日本は大東亜戦争で欧米に植民地化されたアジアを解放するという歴史的使命を果たしたのだというような見解もあるが、これもまことに手前勝手な話であり、当時の日本は確かにアジアの中で真っ先に近代化に成功して各国のお手本にはなっていたが、南京事件によって中国の近代化はむしろ遅れ、逆に中国共産党が力を強めて結果的に戦後間もなく共産主義の中国を誕生させ、さらにその余波はベトナムやカンボジアなどの各地へドミノ現象となって共産国を次々と誕生させたのであった。もし日本の戦争が何事かに貢献したのだとすれば、それはアジアの共産主義化という流れに貢献したというべきではないであろうか。それらの歴史の流れがすべて南京事件という一点に起因しているということを忘れてはなるまい。(南京事件についてはいずれ稿をあらためて書きたいと思っています)。
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