3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(1)山本七平が記したトラウトマン和平工作

70年代に「日本人とユダヤ人」に続いて出版された様々なベンダサン名の書の中に「日本人と中国人」という書物がある。最近、この本を取り寄せて読んだばかりなのだが、読む前までは中国批判が書かれているのではなかろうかと半分期待も込めていたのだが、そこにはいっさい中国批判はなく、むしろそこにあるのは日本人の一貫した中国コンプレックスであり、そしてそのコンプレックスの裏返しが明治以降中国を一貫して侮蔑する政策をとってきた原因にもなっているという分析をしており、やや意外な感じがしていた。。※「日本人と中国人」の著者はイザヤベンダサンとなっているが、ここではややこしいので、ベンダサン=山本七平としておきます。ただし、私自身はベンダサンをまったくの虚構の存在であるとは考えていませんが、少なくともこの「日本人と中国人」の著者は山本七平ご本人であったとみてまちがいはないと考えています。

たとえば、今日右翼とか保守とかいわれる人々に共通しているのは、韓国併合や日中戦争の正当化である。韓国を併合したのは韓国のためでもあり、また日中戦争は中国が仕掛けた戦争であり侵略戦争ではなかったというような戦前の日本を正当化(または美化)する歴史観が最近声高に保守とか右翼を自称する陣営から発信されているが、故山本氏の本の中ではいっさいそのような見方はとられていない。故山本氏の言説は、保守陣営が嫌ういわゆる自虐史観そのものではないかとさえ疑われるかもしれない。たとえば日中戦争においてもっとも右翼と左翼の論議が分かれる南京事件の経緯について故山本氏がどのように書いているのかみてみよう。

昭和十年十月、日本政府は、日中提携三原則を中国に提案した。すなわち排日停止・満州国承認・赤化防止の三ケ条である。この一年前、すなわち昭和九年十月十六日、中共軍は大西遷を開始し、十一月十日に国府軍は瑞金を占領し、蒋介石の勢威大いにあがった時であったから、日本もそろそろ「火事泥」(筆者注:これは満州事変のこと)の後始末にかかるのも当然の時期であろう、と蒋介石も世界も考えたのもまた当然である。

蒋介石はもちろんこの「日中提携三原則」を受け入れなかったが、しかし、これは外交交渉という点からみれば当然のことである。彼は何もこの提案をポツダム宣言のごとく受諾せねばならぬ状態にはないし、第一、こんなばかげた提案は、おそらく世界の外交史上類例がないからである。

日本は満州国は独立国であり、民族運動の結果成立した国であると主張している。従って満州国と日本国とは別個の国のはずである。それなら満州国承認は、あくまでも中国政府と満州国政府との間の問題であって、日本国政府は何ら関係がないはずである。従って秘密交渉ならともかく、公然とこの主張をかかげることは、その後も一貫して日本政府は。一心不乱に、「満州国とは日本傀儡政権であります」と、たのまれもしないのに、世界に向かって宣伝していたわけである。

(中略)

いわゆる杭州湾敵前上陸(一九三七年十一月)で上海の中国側防御線が崩壊しはじめたとき、トラウトマン駐支独大使による和平斡旋が始まった。いわゆるトラウトマン和平工作である。当時、日本の軍事行動を内心もっとも苦々しく感じていたのは、実はナチス・ドイツ政府であった。彼らは蒋介石軍の増強により、中ソ国境が現在の如くに緊張することを夢見ていた。皮肉なことに、いま(一九七二年当時)の中ソ関係こそ、ヒトラーの夢であり、ソビエト軍五十個師団のシベリア移駐こそ、彼の望みであった。

従って蒋介石軍に軍事顧問団を派遣し、その関係は一時、ある時期の南ベトナム軍と米軍事顧問団ぐらい密接であった。上海の防衛線は実は彼らの指導で出来たものである。また南京には、当時の上海在住のユダヤ人から「ゲッペルスの腹心」と恐れられたナチス党員の一商人がおり、あらゆる情報は大使館とは別の系統でナチス政府に送られ、またさまざまな指示も来て、蒋介石と密接な連絡をとって情報・宣伝に従事していたらしい。一方、ドイツではその後、日本軍の対支軍事行動に反対する「官製デモ」も行われている。彼らの狙いが「反共日蒋同盟」による中ソ国境の緊張化であり、トラウトマン和平工作が、この考え方を基礎としていることは、次のことから明らかである。すなわち日本政府と交渉の結果、その条件を、(一)満州国承認、(二)日支防共協定の締結、(三)排日行為の停止その他とし、彼はこれを全面的に相手に受け入れさせるため、あらゆる努力をしたわけである。

彼は十一月六日、行政院長孔祥煕と会見し、多少の曲折はあっても、ほぼこの線で事実は終息するという確信をもった。ここであくまで明記しておかねばならなぬことは、いずれにせよ、これを提案したのは日本政府だったということである。これは、相手がこの条件を呑みさえすれば、日本軍は平和裏に撤退することを、第三国という保証人を立てて、相手に申し入れたということである。日本人が過去の経験において絶対に忘れるべきでないことがあるとすれば、このことである。これが、誰からも強要されたのではない「自らの提案」だったという事実である。自らの提案を自ら破棄した者は、もはやだれも信用しない。確かにナチス・ドイツの斡旋はそれなりの計算があったであろう。しかしそのことは、現在でも釈明の理由にはならない。

中国政府は協議の末、十二月二日。トラウトマン大使に「日本案受諾」「同条件を基とした和平会談の開催」を申し入れてきた。と同時に、その後情勢は変化しているが日本側の提案に変更はないか、と念を押してきた。
これは当時の中国政府にとっては「ポツダム宣言」の受諾に等しかった。すなわち「無条件提案受諾」であり、その意味では、この条件への「無条件降伏」である。

これに対して日本側は条件に変化なしと通告した。戦争は終わった。だれが考えても、これで戦争は終わったのである。従ってそれ以後もなお軍事行動をつづけるなら。それは「狂人だいこ」の踊りであって「戦争」ではない。
ここまでの日本の行動は一応だれにでも理解できる。もちろん理解できるということは、その行動を是認できるということではない。簡単にいえば、泥棒が押し入って来て、金を出せといった。金を出したらそれを受け取って泥棒は去って行ったのなら、この行動は一応理解できる。同じように日本軍が押し入って来て「満州国承認を出せ」といった、そこで中国政府がそれを出したら、日本軍はそれを受け取って去って行った、というのなら、その行動は一応理解できるという意味である。

ところが。金を出せというから金を出したところが、相手はいきなりその金を払いのけておどりかかってきたら、この行為はもう「泥棒」とはいえない。さらにそこで坐りこんで動かなかったら、これはもう「泥棒」という概念では律しきれない行為で「狂人」とでも規定する以外にない。従って彼の行動を泥棒と規定しうるのは、相手が金を差し出した時までである。ここで泥棒という行為は終わったはずである。私が「だれが考えても、これで戦争は終わった」というのはその意味である。従ってここまでは「戦争」として理解できる、というのはその意味である。

日本は百パーセント目的を達した。一番の難問題はどうやら片付きそうであった。中国が満州国を承認すれば、全世界の国々の「満州国承認のなだれ現象」が期待できるであろう。事実、中国政府が承認したのに、非承認を固辞することは意味がない。「シンジア領有権確認戦争と同じように、これで「満州領有確認戦争」は日本の一方的な勝利で終わったわけであった。何よりも満足したのはナチス・ドイツ政府であったろう。これで蒋介石軍の崩壊は防がれ、日蒋同盟が中ソ国境の脅威となり、ドイツの東方政策はやりやすくなる。(中略)

だがここに、まったく想像に絶する事件が起こった。「ポツダム宣言」を受諾するといったところが、その途端に九十九里浜に米軍の大軍が上陸して東京になだれ込んだといった事件である。一体全体、これをどう解釈すればよいのであろうか。(中略)この驚くべき背信行為の複雑怪奇さは「独ソ不可侵条約」の比ではない。「独ソ不可侵条約」を複雑怪奇というなら、これは何と表現したらよいのであろうか。狂気であろうか。

さまざまな解釈はすべて私に納得できない。十二月八日に日本は中国が日本の提案を受諾したことを確認した。しかし日本側は軍事行動を止めない。それのみか十二月十日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?通常こういう場合の解釈は二つしかない。一つは日本政府が何らかの必要から、中国政府をも、トラウトマン大使をも欺いたという解釈である。これは大体、当時の世界の印象で、これがいわゆる「南京事件報道」の心理的背景であり、また確かにそういう印象を受けても不思議ではない(というのは他に解釈の方法がないから)が。どう考えてもこの解釈は成り立たないのである。

もし「欺かねばならぬ側」があるとすれば、それはむしろ中国政府で、「日本の提案を受諾します」といって相手の進撃をとどめ、その間に軍の再建整備を計った上で、相手に反対提案をし、それを受け付けねば反撃に出る、というのなら、これも一応理解できる。

(中略)

戦争は通常だれでもある程度は理解できる理由がある。もちろんその理由は「泥棒にも三分の理」に等しい理由で、理由がわかったからといってその行動を是認できるというものではないが、少なくとも理由が分かれば、たとえその理由がその場限りの理由にせよ、その理由を除く方法を相互に探索できる。だが理由がまったく分らないと、「彼らは戦争が好きだから戦争をやっているのだ」としか考え得なくなるのである。したがって、これへの反論では、まず南京総攻撃、およびそれ以後の戦闘の理由を説明しなければならない。それができないのならば、「戦争が好きで、これを道楽としてたしなんでいたのだ」という批評は、甘受せねばならない。・・・・


恥ずかしながら、私はこの文章を読むまでは、「トラウトマン和平工作」なる言葉自体も知らず、ましてやそれがかくも重大な時の転換点であるということは知るよしもなかった。今まで私が少しばかり聞きかじってきた南京事件についての(どちらかというと保守派の)見解を読むと、おおむね日本側に同情的な論調に終始しているものばかりであり、そのような見解に対して私は(若干の違和感をもちながらも)ほとんど無批判に受け入れていたのであった。そもそも満州国は立派な独立国であったというのが彼らの一致した見解であり、日中戦争の発端になった盧溝橋事件についても、中国側からの発砲がきっかけであり、戦争の火ぶたが切られた後も日本側は終始戦線の不拡大方針を取っていたとされている。にもかかわらず、中国側からの度重なる挑発行動があったので、日本軍はやむをえず南京まで攻めのぼらざるをえなかったのだろうというのが彼らの一貫した主張であり、私自身もそのような主張に説得力を感じていた。

このベンダサンの書物を読んだあと、ベンダサン(すなわち山本七平)とは近しい関係にある(?)渡部昇一氏の近著(「日本は中国にどう向き合うか」2013,2 ワックス株式会社)を取り寄せて読んでみた。渡部氏の本を読むのはこれが初めてだが、世間では保守派の重鎮としてみられ、しかもPHP社が主催する「山本七平賞」の選考委員の一人でもあり、おそらく故山本七平とは思想的にも近いのではないかと思ってきたので、彼の書物の中でどのようにこのトラウトマン和平工作の経緯が描かれているのかということに興味があったのである。その部分を抜粋しておこう。


シナ事変がはじまってからも日本は和平の努力を止めなかった。たとえば、「トラウトマン和平工作」と呼ばれるものがある。これはドイツに仲介を頼んだ和平工作で、昭和十二年(1937年)十一月二日「我国は正式に日本の和平条件七項目をディルクセン駐日ドイツ大使に通知」、これを駐華ドイツ大使のトラウトマンが蒋介石に伝えた。しかし蒋介石は国際連盟に訴えて開かれることになったブリュッセルでの九国条約国会議に期待し、日本の提案に乗ってこなかった。そうしているうちに日本軍が南京を占領したため、状況が変わったのだが、シナ側は回答期限を延ばし続け、催促に対してきちんとした対応を示さなかった。ここで日本側は諦めた。(「日本は中国にどう向き合うか」P267-268 ワックス株式会社)


これが保守派の重鎮といわれる人物の歴史観なのか?これがあの山本七平賞の選考委員をしておられる大先生が長年培った思想なのか??…と、正直疑問をもたざるをえなかった。ただし、この書は渡部氏自身が自ら戦前の資料にあたって辿り着いた独自の研究書ではなく、いわば一般向けに「非自虐史観」をやさしく説いただけのお手軽な啓蒙書である(これは渡部氏自身認めるだろう)。ただ驚くのは、この本は「大東亜戦争への道」(中村粲氏著)という一人の専門家の研究書を唯一の資料としており、その他の資料はまったく比較検討されていないばかりか引用もされていないということである。学者であれば、通常いろいろな資料を引用して比較するのが学者の良心というものだろうと思うが、渡部氏の場合は(その筋では「碩学の大家」ともいわれるらしいが)そんな通り一遍の形式はとらずに、手っ取り早く自らの信念に合致した立派な専門家の研究を多くの読者に紹介したいという素朴な動機によってしたためたということなのだろう(これはもちろん最大限好意的に解釈した場合である)。

いずれにしても、この本を読むと、渡部氏と山本七平の歴史観があまりに真逆なので、ただただ驚くばかりなのであるが、もちろんこれは一人渡部氏にかぎったことではなく、おそらく今日保守派と称する人々に共通した歴史観を渡部氏が代表しているにすぎないのであり、その意味では山本七平の方こそもともと保守思想家ではないのだから、それを驚く方がどうかしているのだと指摘されればまことにその通りであり、反論することはできない。ただ、だとすれば渡部氏のような歴史観に立つ保守人士が長年「山本七平賞」の選考委員をしておられることに対してはいかがなものかといわざるをえない。ちなみにPHP社の山本七平賞のHPにこの賞の趣旨が掲載されているので紹介しておく。

「平成3年12月10日に逝去された、山本七平先生の長年にわたる思索、著作、出版活動の成果は、日本の読書界に燦然たる輝きをもって聳え立っています。今日「山本学」と総称される、先生の多岐多彩な知的営為は、畢竟、日本及び日本人とは何かを探し求める果てしない旅でもありました。PHP研究所はここに、先生の業績を顕彰することを願い、山本七平賞を設置し、その比類なき知的遺産を正しく受け継ぐ新たなる思索家の誕生を期待するものであります。」


当然ながら渡部氏は故山本七平先生という偉大な知性の功績を誰よりもお認めになっているお一人だと思う。したがって私のような名もない者に山本七平先生のことで批判を受ける筋合いはまったくないと思われるだろう。だとすると、渡部氏の言い分はこういうことになるのであろうか?故山本七平先生の功績は当然ながら素晴らしいものであるが、だからといって山本先生の歴史観が常に正しいとも限らないのではないか、と。

それはそのとおりだろうと思う。私も山本七平を神のように無謬の人物だとは当然考えていないので、先にあげたトラウトマン和平工作に関する山本七平の熱弁についても多少は疑問をもって受け取っている。たとえばトラウトマンの和平工作を蒋介石が受け入れたのは事実であったとしても、その時はすでに南京攻略に向けて大規模な行軍準備がされていたので、そこで現場の指揮官に思いとどまらせるということは実際上無理な状況だったのかもしれない。これについては渡部氏と同じく非自虐史観に立つ自由主義史観研究会編「教科書が教えない歴史」(扶桑社)という本の説明をみると参考になる。

日本軍は上海を占領し、早くも十二月には国民党政府の首都・南京攻撃の布陣を布いていました。この武力を背景に、トラウトマン駐華ドイツ大使の仲介で、国民党政府に和平を迫りました。武力は政治の一手段ですから、戦勝している日本としては当然の態度でした。しかも、この時日本が示した和平条件は、これまで日本軍が軍事的に抑えていた華北に国民党政権の行政ができるようにする、協力して中国の共産化を防ぐ、など緩やかなものでした。蒋介石は、和平を基礎としてこの案を受け入れると連絡してきました。しかし、日本側では、軍事と政治の連結・調整がうまくいかず、軍が南京を占領してしまい、交渉は進展しませんでした。その後、戦火は徐州、広東、武漢などの全中国に拡大してゆきました。(「教科書が教えない歴史」P188 藤岡信勝・自由主義歴史観研究会著 扶桑社)

この文章を読むと非常に簡略ながら、トラウトマンの和平工作が実現しなかった背景をきちんと説明しているようにはみえる。少なくとも渡部氏のように事実関係を曖昧にしたまま「そうしているうちに日本軍が南京を占領したため、状況が変わったのだが、シナ側は回答期限を延ばし続け、催促に対してきちんとした対応を示さなかった。ここで日本側は諦めた」と一方的に相手に責任をなすりつけて話を打ち切っているよりは多少はましである。


しかしながら、これをもし山本七平が読むとどう思うであろうか?おそらくその温厚な表情から激しい憤りを隠すことはできないのではないかと思う。なぜならこの件の経緯に関してベンダサンがどのように書いていたのか、もう一度記しておこう。

ここであくまで明記しておかねばならなぬことは、いずれにせよ、これを提案したのは日本政府だったということである。これは、相手がこの条件を呑みさえすれば、日本軍は平和裏に撤退することを、第三国という保証人を立てて、相手に申し入れたということである。日本人が過去の経験において絶対に忘れるべきでないことがあるとすれば、このことである

・・・だが、この話はまだまだ続きそうなので、続きはまた次回にしてみたい。できれば次回は山本七平がなぜそこまでいわずにおれなかったのかということを考えてみたい。そこにあるのは、今を生きるわれわれが気つかなければならない事の重大さである。
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