3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(8)「水」の効用及び小泉氏と橋下氏の類似性

われわれの社会にはときどきおかしな空気が支配することがある。空気というのはある一定の時間、あるいはある一定の場所で、その時空間の中にいる人間の思考を支配する不思議な力をもっている。その空気の支配力を弱めるために有効なのが「水を差す」という行為である。「水を差す」という行為は空気に対する反抗を意図するものではないが、ある時空間の空気の中にいる人間にとってはその支配力を弱める唯一の方法である。

「空気の研究」を書いた山本七平氏は、「空気」に対抗するのは「水」の力であるという考えから、「空気の研究」の続編として「水=通常性の研究」というタイトルの論考をしたためている。それによると、「水」の力というのは、われわれの体内にある消化酵素のように一切の物を腐食させ、解体し、そして後に残るのは変質した内容であるが、それがわれわれ自身の栄養素となって、この日本の独特な文化を築いているのであるという。たとえば日本は仏教国といわれるが、それは渡来の仏教がいつのまにか変質して本来の仏教とは異なったものに変質しているのであり、そのような自然的自己同一化の過程こそが日本文化の特性であり、オリジナリティなのである。このような日本の文化はときに異常な空気が沸き起こったとしても、いずれは「水」を差すという行為によって、われわれの通常性が守られるのである。したがって、われわれの社会は「空気社会」であると同時に「水の社会」でもあるということになる。それらの行為によってわれわれは非日常的な興奮状態から、平静な日常性へと戻るのである。

さて、このところ橋下氏に対する批判がやけに目立つようになったのは、「水を差す」行為がそれなりに功を奏していることの表れなのであろう。橋下ブームに対して疑問をもつ人々が声をあげるようになったのは、空気の力が少しずつ弱まってきた証拠でもある。しかし現状では橋下氏に対して正面切った批判というものはなく、あくまでも消極的に「空気」に対して「水を差す」という程度の批判にとどまっているように思う。たとえば今週号の週刊新潮で何人かの著名人が橋下ブームに対する批判的な論調の文章を寄稿しているが、面白いのは大宅映子氏の発言である。大宅氏は橋下氏の考え方に大部分賛成であったという。しかし、にもかかわらず、このところの「橋下ブーム」には何か怖さを感じるのだという。

私、橋下さんお考え方を支持しています。もちろんすべてではないけど、自立や自己責任を求め、「個」を強くしていこうという姿勢や政策には同意だし、競争、彼が言うところの切磋琢磨を教育の現場に導入するのにも大賛成。私は日教組が悪の根源だと思っているから、そこも彼と一緒。でも何かが怖い。・・・それに「橋下ブーム」の怖さも感じます。もしかしたら、これが一番、恐ろしいかもしれない。彼自身のコントロールが利かないところまで、「ブーム」が一人歩きし、先走りしているような気がしてならないんです。

この発言は橋下氏に対する批判というよりも、むしろわれわれの国民性に対する不安なのであろう。大宅氏の不安は決して故ないものではない。おそらく橋下氏自身も分かっていることだと思うが、橋下人気というのはわれわれの網膜に映った虚像にすぎないものである。虚像というのは凸レンズを通してみると、その姿が何十倍にも大きくみえることがある。橋下氏の人気も実際の評価よりも何十倍にも過大に評価されている部分があるのではないか?しかし、そのような過剰な評価が生まれた原因については、誰にもそのはっきりとした理由が分からない。だから不安になるのだろう。

橋下氏に対する過剰な評価はなぜ生まれたのであろうか?実はそのからくりには日本教徒の「純粋人間」という概念があることは、すでに説明してきたとおりである。橋下氏が異常な人気を集めることができたのは、ひとえに彼が「純粋人間」として評価されたからに他ならない。彼がなにゆえ「純粋人間」として評価されたのか、あるいはいかにして彼は日本教の「純粋人間」となりえたのか?あるいはなりすましたのか?そのあたりの理由について、少し考えてみたい。

橋下氏が異常人気を集めた手法はおどろくほど小泉元首相の人気に似ていることが分かる。したがって橋下氏についていう前に小泉人気について振り返ってみたい。小泉氏が人気を集めたのは、ごく大雑把に言うと、一つは旧来の派閥政治を打破する大胆な政策を打ち出したこと、もう一つは既成政党の枠を超えて国民との二人称的関係を作ることに成功したこと。この二点ではないかと思う。あともうひとつ付け加えるとすれば、小泉氏が中国政府や韓国政府の猛反対を押し切って靖国神社参拝を挙行したことであろう。

この三点は、いずれも小泉氏が日本教の「純粋人間」に他ならないことを国民に強く印象付けたのである。小泉氏は2001年4月の自民党総裁選に立候補する際に、「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て(wikipedia)、自民党小派閥からの立候補にもかかわらず、本命の自民党最大派閥の長・橋本龍太郎氏を抑えて総理の座についた。このような小泉氏の手法は前に紹介した美濃部都知事が「都民党」という名称で知事に立候補したときとよく似ている。自分は党や派閥のしがらみと一切関係のない、すなわち「私心のない純粋人間」であるということを選挙民に印象付けることに成功したのだといえる。

小泉氏は当選後も党や派閥ではなく、国民の声をなにより大事にしているという姿勢を明確にするために、首相就任後ほぼ毎日2回「ぶらさがり会見」という場を設け、国民は毎日のTVで小泉総理の発言を聞くことができるという、まさに総理と国民との二人称的関係を築くことに成功した。この手法は橋下氏もとりいれていることはご存知の通りである。また小泉元総理は郵政選挙の際、参議院で郵政改革法案が一部自民党員の反対によって成立しなかったために、衆議院を解散するという前代未聞の手法をとった。このときの小泉氏の弁は、「郵政民営化が、本当に必要ないのか。賛成か反対かはっきりと国民に問いたい」という言葉を真顔で国民に向けて訴えたことはいまなお記憶に新しい。当時の一般国民で郵政の民営化が本当によいのかどうか正しく判断できる者が何人もいただろうか?そんなことは誰にも分からないはずだが、とにかく小泉氏がそのような言葉を真顔で国民に語りかけているその姿をみて、多くの国民は小泉氏が「私心のない」人間として映ったのであり、まさに小天皇のように国民との二人称的な関係を築くことに成功したのである※。

また靖国参拝については、中国や韓国の激しい反発があったが、それでも臆せずにやり遂げることによって、みずからが日本教の「純粋人間」であるという印象を国民に与えることに一定の寄与をしている。もちろん小泉氏はもともと右翼的な思想の持ち主ではなく、どちらかというとアメリカナイズされた親米保守派である。彼は総理大臣になる前は靖国参拝を欠かさずに行っていたわけでもなく、むしろその逆であったらしい。元明治大学教授で自民党員として衆議院議員にもなった栗本慎一郎氏がこんなことを書いている(ちなみに栗本氏と小泉氏は慶応時代からの学友であったという)。

私はかつて国会議員として『靖国神社に参拝する会』に入っていた。そこで、小泉に『一緒に行こうぜ』と誘ったのですが、彼は来ない。もちろん、靖国参拝に反対というわけでもない。ではなぜ行かないのかといえば『面倒くさいから』だったのです。ところが、総理になったら突然参拝した。きっと誰かが、『靖国に行って、個人の資格で行ったと言い張ればウケるぞ』と吹き込んだのでしょう。で、ウケた。少なくとも彼はそう思った。

小泉氏は栗本慎一郎がいうように総理大臣になってから、まるで人が変わったかのように靖国参拝に目覚めたようだが、それは要するにある種の受け狙いだったのではないかというわけである。これが本当だとすると小泉氏は「純粋人間」どころか、むしろ天才的な役者だったということになる。いずれにしても「純粋人間」というのは、日本教徒にとって一つのイメージにすぎず、政治家が「純粋人間」を演じることによって国民の支持を広く集めるという手法は(小泉氏に限らず)ごくごく一般的に取られていると考えた方がよい。政治家というのはそういう役者としての才能も持ち合せなければ、なかなか国民の支持を得ることはむずかしいのではないか?つまり政治家というのは言葉巧みに演説できる才能だけではなく、日本教の教義についても敏感でなければならないと思うのである。その意味では橋下氏はある意味で小泉氏に並ぶほどの天才的な役者であるのではないか(?)とも思う(これはもちろん橋下氏をもちあげているわけではない)。

ちょっと話が脱線するが、靖国参拝を行う人間が親米派であるということ自体、本当は矛盾ではないかと思うが、日本教では決して矛盾であるとはみなされていないところが面白い。戦後の日本人がアメリカに飼い馴らされた子犬のようになってしまった姿を英霊たちがみるとどう思うであろうか?たとえばこれがイスラム教徒であれば、そんな奴らに参拝などしてくれるなと言われそうだが、日本教徒には過去の恨みは「水」に流そうというのが潔いことだとされている。だからこそ日本人は中国人にも朝鮮人にも同じように過去の恨みを「水」に流せるはずだと考えているのかもしれないが、そのような日本教的な(非論理的)美意識は他国の人間には少々分かりづらいのではないだろうか?


※民主党の菅元総理も現野田総理も「私心のなさ」という点では、「純粋人間」の有資格者であると思うが、彼ら二人に欠けているのは国民との二人称的な関係を築く才がないということに尽きるのではないかとつくづく思う。そういえば野田総理は今日の演説で「わたしには私心がありません。国民を心から愛しています」という発言をしていたらしいが、その言葉でさえも国民には空虚に響くのである。菅氏も野田氏も二人とも小泉氏よりもはるかに頭が良いし、人柄も良い人物である。しかし二人には小泉氏のような役者的才能がないのが欠点と言えば欠点なのである。これは民主党の多くの議員についてもいえるのではないかと思う。民主党員は確かに理論や理屈に優れた人物が多いように見うけられるが、多くの国民の目にはそれがかえって頭でっかち人間に見えているのではないかと思う。日本教の教義はあくまでも「心」で感じるものであって、頭で説明できるものではない。そのあたりが民主党の支持が伸びない原因ではないかとも思う(ただし、決してこれは悪口ではない)。


なかなか思うように筆がすすまないが、次回は愈々橋下氏について書いてみたい。
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