3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(3)35年前の空気汚染

(3)35年前の空気汚染
もう35年以上も前に出された「空気の研究」であるが、(問題の深刻さは別にして)当時の日本社会でも似たような「空気」があったことが、その本の中に書かれている。当時は自動車の排気ガスによる公害問題が大きな社会問題として連日マスコミ等に取り上げられていた。そのきっかけは70年代の初めにアメリカの上院で自動車の排出ガス規制法案(マスキー法)が提出されたことである。それによると人体に有害な一酸化炭素や窒素酸化物を10分の1に減らすべきだというものであった。ただし、アメリカでは自動車メーカーの大反対により廃案にされたわけだが、その法案が約5年後に我が国で日本版マスキー法として提出され、当時のマスコミ等によってこの法案を通すべきだという圧倒的な世論(空気)作りがなされていった。故山本七平によると、これはまさしく「空気」がいかにして醸成されるかという典型例でもあるという見立てから、この問題を風刺的に紹介していたわけである。

もちろん一酸化炭素が人体に有害であるということは当然の話であるが、自動車の排気ガスが出す窒素酸化物(NOx)が人体に有害なものであるのかどうかということまでは必ずしも科学的(当時)に明らかではなかった。その証拠に公害先進国のヨーロッパでも排出ガス規制法はなかったのである。にもかかわらず日本だけが、排出ガス規制の世論(空気)が異常に強まったわけである。当時、新聞等で連日話題になっていたのは、窒素酸化物と日光が反応することによって光化学スモッグが発生するという問題であった。すなわち自動車の排気ガスによる具体的な被害として、そのような深刻な問題があることがクローズアップされたのである。あの頃、夏の晴れた日には必ず光化学スモッグ注意報が新聞などに連日掲載されていたのを覚えている方も多いだろう。それは今日の放射線量の情報とよく似た反応であるといえばいえるかもしれない。ところが奇妙なことに、その後、光化学スモッグという言葉はある種の死語になったかのように使われなくなってしまった。

もちろんだからといって光化学スモッグの被害がまったくなくなったわけではない。最近でもごく限られた地域によっては光化学スモッグが発令されることもあり、今現在でもその被害がなくなったというわけではない(最近では中国の大気汚染の影響が比較的強い九州地方で光化学スモッグ注意報が発令されることがあるようである)。光化学スモッグの被害が少なくなったのは、確かにその後の自動車の排ガス規制によって、排気ガスによる環境汚染が減少したためであると(今となっては)評価することができるかもしれない。しかし、光化学スモッグの話題がいつのまに少なくなったのは、現実の空気の汚れがなくなったからではなく、むしろ世論という名の別の「空気」が変わったからであるということもいえるのではないか?

話のついでであるが、空中に飛散する放射線量は3.11後の値よりも、実は50年代、60年代の方がはるかに多かったということがいわれている。そのことは日本放射線影響学会による以下の発表をみれば理解されるだろう。

福島第一原発の近辺を除けば、放射線リスクは放出された核分裂生成物の降下物による汚染に起因します。今回の福島第一原発事故のリスクを推測する参考事例としてチェルノブイリとスリーマイル島の事故を引用していますが、核分裂生成物による汚染は、実はそれより以前の方がかなりひどいということも思い起こす必要があろうかと思います。1950‐60 年代、米国などの国連の安全保障理事会常任理事国が大気圏内核実験をくり返し行ったため世界中の大気が汚染され、世界平均で1 平方メートルあたり74 キロベクレル(UNSCEAR2000 ANNEX C)の放射性セシウム(セシウム137)が降下していました。また、日本の国土にも福島第一原発事故以前の通常検知されていた量(1 平方メートルあたりおおよそ0.02~0.2 ベクレル)の約1,000~10,000 倍(1 平方メートル当たり200~2000 ベクレル)の放射性セシウムが降下していました。しかもその汚染は核実験が禁止されるまで10 年位続いていました。ちなみにチェルノブイリの時も短期間ですが、福島第一原発事故以前の通常検知されていた量の約1,000 倍の放射性セシウムが降下していました。現在50-60 歳代以上の人は皆これらの被曝を経験していることになります。この人達にこれらのことによって健康影響がでているということはありません。くり返しますが、核分裂による放射性同位元素の世界規模での汚染は、福島第一原発事故以前の通常検知されていた量の1,000 倍程度の放射性セシウムによる汚染を10 年間、すでに経験ずみなのです。勿論、このことが安全性を確約するものではありませんが、もし、影響があったとしても、そのリスクは非常に少ないと思われます。どのくらい少ないのかを正確に理解するためには低線量放射線の生体影響研究の今後の進展を待たなければなりません。 (日本放射線影響学会 掲載日:平成23 年3 月27 日、平成23年4 月3 日)

50年代、60年代といえば、確かに放射能という言葉がよく飛びかっていた時代であった。しかし、3.11後のようにそれは具体的な脅威であるとは誰にも思われていなかった。当時の子供たちは最近の子供のように部屋に閉じこもってパソコンやゲーム機に熱中することはなく、ほとんどの子供が校庭や屋外で遊びころげでいた時代である。しかも当時はエアコンもサッシ窓もない時代であり、夏になるとどの家も窓を開けっ放しにしていた時代である。当然のことながら、当時の子供は今よりもはるかに多くの放射線量を浴びていたことになるが、しかしその世代の子供たちが特にガンの発生率が高くなっているという事実は報告されていない。専門家によると、3.11後では空中の放射線量よりも内部被ばく率が高いので、そのような比較は適切ではないという意見も出されているが、しかし、50年代、60年代は内部被ばくという点でも現在よりはるかに無防備であったということは確かである。そもそもいかなる食物も出荷制限されることもなく市場に出され、地表部分はほとんど舗装もされていないので放射性物質が蓄積されやすく、ましてや下水設備も整備されていないため放射性物質は時が経てばたつほど濃密に蓄積されていたはずなのだ。もちろん、当時は安価な携帯用ガイガーカウンターもなかったので、どこそこで異常な値のホットスポットが観測されましたなどという懇切丁寧な情報提供もなかった時代である。

つまり当時の日本社会の現実の空気は今よりもはるかに放射能汚染が高かったにもかかわらず、その当時の世論という名の別の「空気」はそんなことをまるで意にも介していなかった。そんなことよりも、当時の社会の「空気」というのは対立する政治的イデオロギーの抜き差しならない修羅場であって、なによりも「安保」という二文字が多くの国民の関心事になっていた。資本主義と社会主義のどちらがより人間を幸せにする社会であるのか、あるいはどちらがより善なる社会であるのかという、きわめて抽象的な命題が多くのインテリ層の関心事であり、その命題によって国論も二分されていた。したがって政治家の関心もジャーナリストの関心も現実の空気の汚染については、まるで関心がなかったのである。現実の空気の汚染について日本人が真剣に関心をもちはじめたのは、おそらくは山本七平の「空気の研究」で取り上げられた日本版マスキー法以来のことなのかもしれない。

当時、水俣病に端を発した公害問題が政治的イデオロギーと一体化して大きな社会問題になりはじめていた。共産党や旧社会党が公害問題こそ資本主義社会の矛盾に他ならないということに気づいたからである。その結果、さまざまな公害問題がアンチ資本主義派の関心事となっていった。もちろん公害問題が資本主義社会の重大な矛盾であり、この問題はイデオロギーの枠を超える大きな課題であったことは確かな事実ではあったが、70年代はそれよりもまだイデオロギーの対決図式の方が根強く、公害問題は当初その対決図式の中で意図的に醸成された「空気」の色彩があった。すなわち資本主義の矛盾が公害問題に凝縮されているのであり、社会主義をよりよい社会だと信じる人々が、その問題を大々的に取り上げることによって公害反対という誰にとっても抗らえない「空気」が意図的に醸成されていったのである。したがって山本七平が「空気の研究」の中で、日本版マスキー法をめぐる「空気」の人工的醸成が「空気」の研究にとって大事な資料になるとしたのは、そういう経緯からであったと思われる。

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