3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(5)忠臣蔵と5.15事件の奇妙な類似性

話を少し転じるが、「日本教について」のもっとも重要な核心的概念である「純粋人間」という概念について述べてみたい。ベンダサンによると、日本人には「純粋人間」という概念があるらしいのである。たとえば、日本人がもっとも好きな時代劇というと、おそらく「忠臣蔵」であろう。これは江戸時代から歌舞伎の定番として演じられ、昭和、平成の世になっても多くの劇や映画が作られている。毎年末になるとテレビで必ずといってよいほど再放送され、まさに世代を超え時代を超えて語り継がれる物語であり、これほど時を越えて多くの日本人に愛されてきた物語もないであろう。(以下の忠臣蔵に関する文章はベンダサン式思考を応用した筆者の独創である)

冷静にみれば、この伝説上の美談は実際には陰惨で血なまぐさい惨劇であった。しかも、これは水戸黄門のような勧善懲悪の話では必ずしもない。確かに、劇で演じられる吉良上野介は悪役のようにみえるが、よく調べればそんなに彼は悪人とも思えない。今でも吉良上野介の地元では彼は名君であったという評価が高く、悪人イメージはあくまでも劇や映画で作られたイメージにすぎない。普通に考えれば、むしろ悪いのは吉良上野介に突然刃物で襲い掛かった浅野内匠頭の方であろう。いかなる理由があろうと刃物で襲いかかるというのは尋常ではない。しかも場所は江戸城内である。これは国会議事堂内で議員が刺傷事件を起こしたようなトンデモナイ事件である。さいわい事件は未遂に終わったが、責任を取らされたのは当然であろう。あのような事件を江戸城内で起こした浅野が切腹を命じられたのも、当時では妥当な処分であり、むしろ打ち首処分でなかったのは浅野内匠頭の名誉を重んじたがゆえの処分であった。これに対して赤穂藩士が主君の切腹処分が喧嘩両成敗に反する不当処分であると受け取ったのは、まったくの言いがかりである。暴力沙汰を起こしたのは浅野側であり、吉良側には暴力沙汰の罪はないので喧嘩両成敗は成立しないのがあたりまえである。

吉良側からすると、こんな不条理な話はないだろう。そもそも浅野に切腹を命じたのは喧嘩相手とされた吉良ではないのだから、その裁定に不満があるなら裁定者である幕府に対して向けるべきだろう。いずれにしても、この事件は仇打ちとしての要件が揃っているとは到底いえないので、むしろこれは集団謀議による暗殺事件という方がふさわしい事件である。仮に吉良が浅野に対して卑劣な嫌がらせを働いたことが事実であったとしても、そのために刃物で切り付けられたうえに、四十七人もの武装兵から夜陰を襲われ、まったくの無防備の中で武装集団に囲まれて殺されたというのは、いやしくも仇討の名には値しないあまりにも卑劣このうえないやり方である。しかも、こんなに卑劣な惨劇であったにもかかわらず、あろうことかこの事件の最大の被害者を悪役に仕立てて、一方の暗殺団の一味を英雄に祭り上げているというわけだから、これは驚くべき倒錯的な心理であるとしかいいようがない。

このようにみてみると忠臣蔵を愛する日本人の心理というものが実に奇妙にみえてくるのは仕方がない。しかしながら、この忠臣蔵と非常によく似た事件が約230年後にも起こっており、その事件に対する国民の反応もよく似た反応であることを知ると、そのような日本人の心理的反応には何らかの普遍性(あるいは法則性)があるらしいということが否定しえなくなる。その事件というのは1932年5月15日に起こった、世にいう5.15事件である。

私はベンダサンの「日本教について」を読むまでは、歴史の授業で習ったこの事件がこれほど異様な事件であるということを知らなかった。もちろんどのような事件だったのかということは、高校歴史の教科書にもほぼ正確に描かれていると思う。しかし、問題はこの事件に対する日本人一般の反応である。その前に5,15事件の背景から少し説明しておこう、

5,15事件で暗殺された被害者の犬飼首相は、当時、満州国の独立に対して中国の宋主権を認めようとしていた国際感覚のある政治家であった。しかし、軍部は犬飼が満州国独立の件で軍の統帥権に干渉しているとして反発を強めていた。事件が起こったのは昭和7年5月15日のことである。青年将校たちは小銃を携帯しながら官邸を訪れ面会を果たしたうえで、応接間において「問答無用」という一言によって総理を射殺した。ちなみに、当時映画俳優のチャップリンが来日していて事件当日に犬飼首相と面会の約束までしていたが、その前に相撲観戦をしていたために危うく難を逃れたそうである。

この事件の異様さは、そのやり方の非道さだけではない。歴史の教科書には決して記されることはないが、この事件のあと軍事裁判が行われて、彼ら犯人たちは無罪釈放となっているのである。なぜ彼らは許されたのか?現代では到底考えられないかもしれないが、この裁判を日本教という特異な宗教裁判であると考えれば説明がつくとベンダサンは述べているのである。以下、ベンダサンの説明を聞いてみよう。

彼らは天皇に対して狂信的なほど忠誠な軍人であったはずです。それならばこれは、いわゆる「王様クーデター」であったのでしょうか?犬飼老首相は、国会の信任を盾に天皇と対立したのでしょうか?それならば、彼らの行動は、是非は別にして、論理的に理解できます。ところがそうではないのです。当時の憲法では首相の任命権は天皇にありました。従って首相を罷免できるのは天皇だけです。

では犬飼老首相は天皇に罷免されながら、なおその職にとどまろうとしたのでしょうか?そうではないのです。戦後に自殺した近衛公の手記によりますと、天皇は首相を任命するとき三か条の指示を与えたということです。第一条が、憲法を重んじ憲法に従って政治をしなければならない。第二条が、諸外国と協調しなければならない。第三条が、財界に急激な変動を与える政策はとってはならない、という三か条であったそうです。日本には宣誓という伝統がありませんし、あるはずもないのですが、新首相が、この三か条を指示されて、その通りにいたしますと応答したことに、一種の宣誓を行ったと考えてもよいと思います。

では犬飼老首相は、天皇の三か条に反する政策をとった―いわば天皇への一種の宣誓違反を犯したため、天皇に忠誠な軍人たちの怒りを買ったのでしょうか?そうではないのです。むしろ逆であって、犬飼老首相の政策は、まことにこの三か条を忠実に守ったものでした。とすると、一体この軍人たちは何を考え、どのような思考(論理)の結論として、このように行動したのでしょうか。実をいうと、以上のような思考は戦前戦後を問わず、日本人はないのです。
(中略)
では一体、何の罪で彼らは起訴されたのでしょうか。反逆罪です。それなら理解できるとあなたはおっしゃるでしょう。今まで何やかやと不思議だったが、結局は反逆罪で起訴されたなら、日本人にもわれわれと同じような論理的思考がある証拠ではないかと、ところが実はこれが証拠にならないどころか、逆の証拠になってしまうのです。反逆を犯したという意識は、反逆罪で起訴された彼らに皆無であり、起訴した検察に皆無であり、裁判官に皆無であり。一般民衆にも皆無だった、といってよいと思います。

戦前の日本では天皇への反逆は極刑だったはずです。反逆罪で起訴されるということが、即座に死刑を意味したはずです。その上彼らは史上で最も卑劣な行動をとったのですから、日本文化が「恥の文化」なら、このような恥ずべき行いをした反逆者に情状酌量の余地などあるはずがありませんし、たとえ軍の上層部が彼らの刑を軽減しようとしても、世論がこれに承服するはずはない―と考えるのがわれわれの常識でしょう。ところがそうではありませんでした。彼らの受けた判決は、一見重いようでしたが、実質的な服役では、その罪状から考えれば無罪に等しいといってもよいでしょう。

また社会も、彼らを糾弾するようにみえながら、実をいうと、彼らが裁判をうけている最中に、何と35万通もの減刑嘆願書が裁判長の手元に送られてきているのです。これは日本裁判史上、最高の数の減刑嘆願書ではないかと思います。したがって戦後一部の日本人が常に主張するように、当時は軍部が横暴で、他の日本人は言いたいことも言えなかったのだ、とはいえません。
(中略)
したがって法の前に教義があります。裁判がどんな形式で行われようと、裁判官は「裁判官である前に人間(日本教徒)であれ」であり、検事も、弁護人も被告も一般大衆もすべてそうですから、まず日本教の教義の「人間規定」が優先するのは当然です。そこでまず教義の第二条「人間の価値は支点の位置によって決まる」が取り上げられ、被告の支点の位置はどこか、すなわちその「純粋度」をどれだけ認定すべきか、二十四金か、十八金か、十四金かが決定した後に、はじめて法が適用されるわけですから、「人間は法の前に平等で、その行為のみが裁かれる」などということはありうるはずがなく、従って法的には天皇への反逆だから、その「反逆」という行為のみが裁かれるべきだとなどという主張は、まったく教義に従わないための屁理屈になってしまうのです。

それ故、私は日本は徹底した差別の国だと思っております。ただその差別は、必ずしも皮膚の色とか人種・民族によるのではなく、日本教の教義に基づく「人間の純度」という不思議な尺度に基づく差別なのです。(中略)それゆえこの「純粋人」と認定された被告に対しては、その行為がどれだけ卑劣であろうと、三十五万通もの減刑嘆願書が寄せられるわけです。この点はもちろん戦後も変わりません。変わったのはただ「純度表」の表現だけです。
以上(「日本教について」P79-83)


5,15事件の異様さは先の忠臣蔵人気の異様さにも通じるだろう。客観的にみると5,15事件は卑劣この上ない凄惨な暗殺事件であった。これは赤穂浪士の討ち入りによく似ている。どちらも相手が無防備であるときに忍び込んで不意打ちを食らわせ、集団で無抵抗の老人を殺傷しているのである。しかも、両事件とも国民の大喝采をあびているというのは奇妙なほどの符号の一致である。伝説によると、赤穂浪士は吉良邸で惨劇を働いた後、堂々と江戸の町を勝利の雄叫びをあげながら闊歩した。すると江戸の町民から一斉に喝さいがあったというのである。一方、5.15事件を起こした青年将校たちも事件を起こしたあと逃げ隠れすることなく、実に堂々としていて自分たちが罪を犯したという意識は微塵もみえなかったそうである。すると彼らの裁判に対して国民から減刑嘆願書がなんと三十五万通も届いたというのである。いったい、この二つの事件で国民が喝采した理由とは何であろうか?そこにはもしかするとベンダサンのいう日本教の奥義に関わる秘密があるのであろうか?

つづく
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