3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

(4)空体語としての原発再稼働反対

ベンダサンが考案した「空体語」という概念は、「日本教」すなわち「天秤の世界」の中で分銅の役割をしていると考えられている。分銅がなければ皿の平衡は保たれないので、天秤の世界には必ず分銅が置かれている。なぜそれは分銅なのかというと、それはもともと実体語と平衡をとるための言葉でもあるからだと考えられる。実体語というのは現実に必要な考え方を指す言葉であるが、それだけでは天秤の世界の平衡が保たれないので、一方の皿には分銅としての空体語が置かれるというわけである。

ではなぜ平衡が保たれなければならないのかというと、いつの世も人間社会の中には理想と現実の葛藤が生じるからだと考えられる。実体語というのは現実的な諸条件の中で必要だと思われる考え方である。しかし、それだけでは理想とのバランスが取れないので、現実にはあまり必要がなくても、分銅の役割を果たすために、一方の皿に空体語がのせられる。ただし、だからといって空体語は本来不必要なものであるかというと、必ずしもそうとはいえない。それは神や仏の存在が(日本人にとっては)空体語にすぎないからといって、それが不必要だとはいえないことと同じである※。

※いずれ機会があれば詳しく説明したいと思うが、ベンダサンによると日本教徒にとって神や仏の存在は空体語に他ならないのであるが、だからといって日本人が神や仏の存在を決して否定しないのは、それらが天秤の世界の中で必要とされているからなのである。

たとえば自衛隊というのは現実的に必要な存在であるという意見があるが、一方では自衛隊は憲法違反だから廃止すべきだという意見がある。必要性という観点からみれば、自衛隊の合憲論は実体語であり、自衛隊の違憲論は空体語である。もし空体語が必要ないというのであれば、自衛隊の違憲論は無くなってもよいはずであるが、そういうことにならないのは、やはり日本人は両方の考え方を必要だと認めている証拠なのである。ただし、空体語は本来現実的必要性の要求からではなく、別の観点から必要だと考えられているのである。それは一国平和主義とか理想主義という、現実的な根拠ならぬ根拠に基づくものである。ここで空体語が分銅の役目をしているというのは、自衛隊違憲論が存在してはいても、決してそれが採用されるということはないことで分かる。つまり自衛隊違憲論というのは「日本教」すなわち「天秤の世界」のバランスをとるために必要だとされている分銅にすぎないわけである。

ここでちょっと、われわれの現実に戻って考えてみたい。現在、原発再稼働の是非について国論が二分されている。この状況はかつて60年安保条約改定の際に国論が二分されていた状況と非常によく似ている。このところ毎週金曜日に繰り広げられる国会周辺での原発再稼働反対デモは、60年の安保反対デモにしばしば比較される。それは今のところ60年安保ほどの盛り上がりは欠いているが、当時も今も国論を二分しているという点ではよく似ている。しかし、いずれにしても「安保反対とか「原発再稼働反対」というスローガンは、いつの時代にも叫ばれる「空体語=分銅」にすぎないのである。それらが「空体語」であるという理由は、仮にそれらのスローガンがもし現実になると、たちまち国家が成り立たなくなるのは自明だからであり、それゆえそれは分銅としての役割しか果たしていないことが分かるのである。

実際、60年安保当時、仮に日米安保体制を破棄していれば日本はどうなっていたであろうか?いうまでもなく、日本は早晩ソ連の餌食になっていたであろう。当時の日本を取り巻く国際情勢は米国とソ連による綱引きの、そのもっとも緊張した綱糸の一端に位置していた。その証拠に昭和20年8月10日のポツダム宣言受諾後にもかかわらず、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して当時の日本領だった樺太や千島を占領し、さらに北海道内へと侵略を窺っていた。彼らの狙いは明らかに終戦後の日本の分割統治であった。最悪の場合、日本は東西ドイツや朝鮮半島のように分割統治される可能性があった。その後、米ソ間で冷戦がはじまり、日本は駐留米軍の抑止力により、なんとかソ連の餌食となることを防止できたのである。そのようなパワーバランスの中で仮に日本政府が安保を破棄しても、到底、日本の独立は守れなかったであろう。ましてや、当時、自衛隊は十分に整備されておらず、しかもその自衛隊でさえも憲法違反だという世論の反対があった中で安保条約を破棄すると、日本は完全に丸裸同然となり、ソ連の物理的影響下に入ることは避けられなかったであろう。したがって当時の安保反対というスローガンは、幕末の「攘夷運動」と同様、ほとんど現実的な裏付けのない空念仏、すなわち「空体語」にすぎなかったのである。

同じように、現在の「原発再稼働反対」というスローガンも、仮にその言葉通りの社会になれば、日本はたちまち国家として成り立たなくなるであろう。確かに、橋下大阪市長がいうように大飯原発の再稼働がなくても、この夏の電力需要は乗り切れたのではないかという、それなりの数字的裏付けはあるかもしれない。しかし、仮に乗り切れたとしても、関西電力管内においてのその供給体制は相当な無理があり、余程の節電を実行したとしても停電リスクは常に存在していただろう。問題はしかしそれだけではなく、原発ゼロのままで日本経済が果たして立ち行くのかという深刻な経済問題が厳として存在していることである。ちなみに、つい先日(8月20日)の読売新聞社説に次のようにでている。

政府は2030年の原発比率について「0%」「15%」「20~25%」という三つの選択肢を示している。このうち「0%」が最も非現実的なのは明らかだ。政府の試算によると、国内総生産が約50兆円減少するなど、日本経済への打撃は甚大だ。民間の見通しも厳しい。経団連は、失業者が200万人も増えると警告している。電力多消費産業の鉄鋼業界は電気料金が最大で2倍上がることから、「廃業勧告に等しい」と訴えた。

もちろん、こんな試算は脅しにすぎないという見方はできる。しかし、その種の反論は幕末の攘夷派が「勇敢に応じれば日本の独立は維持できるはずだ」とか、日米開戦前に軍部が「大和魂を発揮すれば個人主義者の多い米国には負けないはずだ」いっていたのと、どこか似てはいないだろうか?いずれ場合も、問題は周囲の状況を客観的かつ詳細に分析し、それに向き合うことをせず情緒的な反応だけで済ましているということである。

たとえば今回の原発再稼働反対デモで音楽家の坂本龍一氏が「たかが電気」などという発言をしたことが物議をかもしている。もちろん坂本氏の発言は政治家の発言ではないので、何を言おうと責任問題にはならない。おそらく坂本氏は芸術家の感性で、そういったにすぎないのであり、その発言を一人の詩人の言葉として受けとめれば別段何の問題もない。おそらく坂本氏自身もそのような発言に政治的効果がないことははじめから分かっているであろう。彼が言いたかったのは、要するに経済よりも命の方が大事なんだという単純な主張にすぎないのだろう。しかし、そのような主張は情緒的なものであり、少なくとも論理的な主張でないことは自明である。なぜなら、論理的に考えれば電力危機は放射能汚染以上に人間を死に追いやるリスクの高いものであることは明白だからである。

坂本氏が言うように(確かに)ほんの150年も前の人々は電気の存在を知らずに生きていたので「人間にとって電気がなくてはならないものではなかった」ことは事実である。しかし、それはもはや過去形でしか言えない。なぜなら「現代の文明人にとって電気はなくてはならないもの」になっているからである。それは現代人にとっては体内を流れる血液であり神経でもある。現に、それがなければたちどころに死を招来する危険が到る所に存在している。たとえば熱中症などという病気は、かつて冷房装置のない時代ではほとんど存在していなかったが、現代ではそれに頼らなければ、たちまち熱中症になって死亡してしまう弱い体質の人が増えている。これは文明病といってしまえばその通りだが、だからといって多くの現代人は昔のような強い体質に戻ることは不可能である。

問題はそれだけではない。われわれの社会の経済は電力に全面的に依存した経済であることを知る必要がある。そもそも生きるということは活動することを意味しており、その活動のためには、どんな生物にもエネルギーが必要である。もちろんあらゆる生物にとってエネルギーの元となっているのは太陽エネルギーである。いわゆる食物連鎖という自然の循環システムは元の太陽エネルギーを再利用しながら、より活動的に生命を多様化(または進化)させようとした自然の仕組みである。ただし、人間だけは例外的に自然エネルギー(再生可能エネルギー)だけでは生きられなくなったのである。近代文明は石炭という化石燃料を活用することから始まった。それ以来、文明社会がもたらした経済は飛躍的に増大し、それとともに新たな帝国主義時代が到来した。江戸時代の日本人が心底恐れたのは黒船(蒸気船)を動かす途方もない石炭のエネルギーであった。そのエネルギーがまたたく間に全世界の人々の生活を変える力となったのである。その後の文明は石炭から石油へ、そして石油から原子力へと主流のエネルギーがシフトしていった。現在のわれわれの生活水準を維持するために原子力がなくてはならないものになっているという状況は一つの現実である。

われわれが心すべきことは現在の世界で原発が全エネルギーに占める比率は、福島事故以来必ずしも低下してはいないという事実である。確かに福島の事故以後、ドイツとイタリアだけは脱原発に移行した。しかし、それ以外の国々では決して脱原発の流れが起こっているわけではない。むしろ日本を取り巻く周辺国、とりわけ中国や韓国では原発依存がどんどん進行している。現在、中国では40基の原発が建設中であり、さらに将来40基以上の原発が追加で建設計画があるといわれている。ヨーロッパ経済の場合は経済共同体としての性格が強いために、ドイツやイタリアが脱原発に移行しても原発大国のフランスがその不足分を補える体制になっているので、それらの国民は困窮することはないが、極東の場合はまったく性格を異にしている。日本、韓国、中国はなんら協力体制を築こうとはしていないし、逆にこの三つの国は経済的なライバル関係がますます熾烈になっている。そのような中で日本だけが脱原発に移行するということは、自ら競争から脱落すると宣言するに等しい。もちろん、それでも別にいいじゃないかというのんきな人もいるのかもしれない。

しかし問題は経済問題だけではない。日本の競争力が低下すると、何が起こるだろうか?まず考えられるのは企業の倒産や失業者の増大であるが、それはやがてより深刻な政治問題へと発展してくる。日本経済が弱体化すると、おそらく日本は米国にとって現在のように重要なパートナーではなくなるだろう。そうなると逆に中国の力が相対的にますます強くなってくるのが目に見えている。日本経済の中国依存度がますます強くなり、いずれ中国は日本を属国扱いにするようになるだろう。日本が経済的にも軍事的にも政治的にも弱者であることがはっきりすると、中国は日本に対してどのような態度をとるようになるだろうか?おそらくは先の戦争の屈辱に対して、この機会に仕返しをしてやろうという心理的気分の高揚を抑制することはできなくなるであろう。

現在のところ、脱原発という決断はそのような将来をも考えた上での決断でなければならないはずだ。しかし、原発再稼働反対の運動をしている者はいうに及ばす、政治家においてもそこまで考えている人々がどれだけいるのだろうかと思うと、ゾッとするような話である。

もちろん脱原発の選択肢は必ずしもそのようなシミュレーションに直結しているわけではない。瓢箪から駒という言葉もあるように、思いもよらぬ幸運が舞い込むこともありうるだろう。たとえば現在、石油に代わる代替エネルギーとして希望を抱かせているのはシェールガスである。その他にも地熱エネルギーや太陽エネルギーなどの比率が高まれば、今後の産業構造の変化に好影響を期待できるかもしれない。いずれにしても脱原発は今後日本が目指すべき方向性であることはいうまでもないことであるが、それがもたらす様々な悪影響をよく考えもせずに、拙速に脱原発を決定するとすれば、取り返しのつかない問題を将来にもたらす危険もあることを忘れてはなるまい。

明治以来、日本の総理大臣は天皇から総理大臣に任命されるときに、直接以下の三カ条を守るように求められたといわれる。第一は憲法に従うこと。第二は国際協調につとめること。第三には財界に急激な変動を与える政策をとってはならない」という三カ条である。戦前の政府はこの三カ条を全部無視して戦争へと突っ走っていったのである。

いまもし原発再稼働反対派が主張するような政策をとったとすると、財界に急激な変動を与えてはならないという明治以来の教えに背くことになり、その結果は第二の敗戦につながることも覚悟しなければならないのである。しかるに政府はたとえ脱原発を目指すとしても、常に財界との相談によってその進め方を決定してゆかなければならない。このような観点から考えると、急激な脱原発を目指す橋下氏らの維新勢力に迎合しようとする政治がいかに危険であるかということが分かろうというものである。彼らのスローガンは要するに「空体語=分銅」にすぎないことは、いずれ明らかになる日が来るであろう。

追記
誤解がないように付け加えておきたいが、筆者は原発再稼働反対のスローガンは「空体語=分銅」だから意味がないなどとは思っていない。むしろそれは「空体語=分銅」であるがゆえにむしろ必要なものでもあり、その意味ではデモの参加者の人々には敬意を表したいと思う。

追記2
仮に橋下維新の勢力が政権ととったらどうなるであろうか?これは予言ではないが、おそらくは幕末に政権を握った攘夷派と同じように、もともと唱えていた原発再稼働反対というスローガンはどこかへ吹き飛んで、現在の民主党とほとんど変わりのない緩やかな脱原発方針へと転換することになるであろう。なぜなら彼らが政権を握ったときには、それが空体語にすぎなかったという事実に目覚めるはずだからである。このことは自衛隊違憲論のかつての社会党が政権(村山政権時)にありついたとき、あっさりと自衛隊合憲論を認めたことでも証明済みであり、同じく民主党が政権にありつくや消費増税をあっさりと認めたことでも証明済みである。


つづく
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。