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3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

自己責任論とは何か? 日米の思想的バックボーンの違い 

シリアで3年4ヶ月の間囚われの身となっていた安田純平さんが解放されたにも拘らず、またまた持ち出された自己責任論というバッシングはいったい何かを考えてみた。この言葉はよくいわれるように、2004年のイラク人質事件で噴出したのが初めであって、それ以前にはあまり聞くこともなかった言葉である。

但し自己責任という概念自体はそれまで全くなかったのかというとそうではないと思う。戦後日本の価値観の多くはアメリカ由来であることはいうまでもないが、広い意味で自己責任という概念はアメリカ産であると考えられる。特に往年の西部劇などの映画で描かれるのは常に拳銃を腰にまとった保安官であったりカーボーイであったりするのを我々は小さい頃からテレビや映画で見てきた。彼らはなぜ拳銃を腰にまとっているのか?それは無法者やインディアンからいつ襲われるかもしれないからだ。

つまり自分の命は自分で守るということ。

これがアメリカ人の西部開拓史以来の基本的な考え方であり、この考え方は現在のアメリカ人にも浸透しており、民主党の前オバマ大統領が銃規制法案を提出しようとしても中々実現できなかったように、アメリカでは「自分の命は自分で守る」という考え方がいまだに根強く残っている。

若い頃からジョン・フォード監督らの西部劇に強く影響を受けていたといわれる黒澤明監督は「用心棒」や「七人の侍」などで、まさに日本版西部劇のような映画を作った。これらの作品はアメリカ人にも非常に共感できる要素が多く、これがアメリカ映画に逆に影響を与えて、たとえば「荒野の七人」やクリント・イーストウッドの一連の用心棒シリーズ、あるいはジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」シリーズにも影響を与えているというから面白い。

要するに自己責任論という考え方は、無法地帯の中でいかに生きてゆくのかという問いから生まれてきたものであり、究極的には「自分の命は自分で守る」という考え方しかないというのがアメリカ人のほぼ共通した考え方であり、この考え方が日本人にも一定の影響を与えてきたという事は確かだろう。

但し、日本人が考える自己責任論はアメリカ人のそれとは決定的に違う部分がある。というよりも両者は似て非なるものというべきだろう。

これはイラク人質事件の時の反応をみても分かる。日本政府は当時アメリカ・ブッシュ政権の強引なイラク・ファルージャ攻撃で反米運動も過激化していた中でイラクは危険だから民間人は入らないように勧告していた。にもかかわらず民間の日本人3人が人質になり、その釈放の条件として自衛隊の撤去を求められた。これに対して時の小泉政権は断固拒否した訳であるが、釈放の為にいろいろな裏工作をやっていた。それが功を奏して人質3人は無事解放されたわけだが、この解放にあたって日本政府が夜通しの努力をした成果だったという事を強調し、人質たちにが政府の勧告を聞き入れずにイラクに入った事に対して一斉に「自己責任だ」というバッシングが起こったのである。当時の自民党幹事長だった安倍晋三は彼らに対して「山の遭難では救出費用を遭難者に請求する時もある」などと発言し、帰国の飛行機代まで請求すべきだというような意見も飛び出した。

ところが当時の米国のパウエル国務長官は日本政府や日本人の異様なバッシングに対して人質たちをかばうだけでなく、日本人は彼らが命をかけて危険地帯で活動していたことを誇りとすべきだと発言し、日本人の自己責任論を厳しく批判した。

この日米の自己責任論の違いは一体なんだろうか?

日本人が考える自己責任論というのは非常にネガティブなイメージがあり、一方、アメリカ人の自己責任論にはポジティブなイメージがある。分かりやすく言うと、いかなる人道的な動機であれ危険地帯に入る事は自己責任であるから、それによって母国に迷惑がかかることがあるとすれば、それは入った人間の責任であるから迷惑をかけた事に対しても謝罪をしなければならないというのが日本人の自己責任論なのであるが、米国の自己責任論では母国に迷惑がかかるという概念は初めから存在しない。むしろ人道目的であれば迷惑がかかろうが、その行為は賞賛すべき行為なのだという考え方である。

ここに日米の決定的な相違があるといわなければならない。

この相違にはしかし文化的歴史的な背景があることを見過ごしてはならない。アメリカ人の自己責任論の考え方はそもそも彼らの多くが信じる聖書に由来するものであり、それに対して日本人の自己責任論には思想的なバックボーンがなく、強いてあげれば戦前と同じ儒教的な匂いのする滅私奉公という考え方に通じている。だからこれはまったく本質的に異なった自己責任論なのだ。

聖書(特に旧約聖書)の中ではいかなる登場人物も自己責任という考え方を基本的に前提とされており、神と人間の関係においても人間に課された責任分野があることで一貫している。たとえばユダヤ民族の最大の英雄として描かれるダビデにしても、彼の行動は決して神が常に認めるほど立派なものではなかった。あるとき彼は部下の妻である美しい女性に見とれて自分の女にしたいと考え、部下を最前線へ行くように命じてそこで死なせてしまい、その結果、女を自分の第二の妻にするという、ユダヤ人としても最も恥ずべき罪を犯している。その行為を預言者に暴露されてダビデは自分の行為を神の前に恥じ神に懺悔をして許しをこうという物語になっている。

旧約聖書というのは彼らの民族の英雄であるダビデのスキャンダルをそのまま書いているところが凄い所である。彼らにとって神の前に正しい人は一人もいないのである。聖書の神は決して人間の行動に直接的に干渉しない。しかし善行と悪行は神によって記憶されており、いかなる行為もその責任は自分でとらなければならない。これが旧約聖書の基本的な思想である。

聖書とは中東の厳しい荒野の中で書かれたものであり、生きる事は即ち自己責任であった。だから彼らにとっては自己責任があるとかないとかいう話は存在しない。あたゆる人間は自己責任によって成功しまた自己責任によって失敗する。もちろん何が成功であり何が失敗であるかということは単にみかけではないが、少なくとも成功する為には自分がその努力をしなければならないという考え方はある。その人間の自己責任に基づく行為に応じて神が祝福(又は罰)を与えるという考え方になっている。

このような考え方がキリスト教清教徒の入植によって生まれたアメリカ合衆国の考え方の思想的バックボーンとしてあり、それがアメリカ人の自由主義思想の背骨としてある。だから彼らは基本的に自分の運命は自分で切り開くものであり、他人の力ではどうすることもできないのだという考え方がある。

一方、日本人にはそもそもこのような意味における自己責任論はなかった。むしろ日本人の考え方はアメリカ人とは真逆である。そもそも日本では「自分」という概念がはっきりしない。「自分」とは家族やなんらかの組織、そして国家の一部としての「自分」であって、そこでは独立した自我というものは否定されるものとなり、むしろ自分が属する家族や組織、国家の為に尽くす事が常に求められる。これは忠孝の尊さを説く儒教的な考え方から来ており、その最高の表れが滅私奉公という思想である。自分というものを捨てて国家の為に自分の命を捨てる事、これこそが最高の模範とされる社会なのである。だから日本の国に迷惑をかける行為は決して賞賛されることはない。

したがって日本人が考える自己責任論というのは迷惑をかけるなという考え方とリンクし、いかなる動機であれ国家が警告する危険地帯に入って国歌に迷惑をかける事は決して賞賛されることはありえないのだ。

今回の安田さんの人質事件で高須克弥や橋下徹がいうのは「国の為に働く軍人ならば英雄にとして迎えるのは当然だが、安田氏は国の為ではなく自分の仕事の為であり、しかも失敗した奴だ」という非難である。

看過できないのは彼らはジャーナリストの仕事を国の為でも何でもないと元々見なしている訳であり、これは戦前の発想となんら変わらないのである。真実の報道の為に危険地帯へ行くことが国の為にはならずということであれば、もはや民主主義も国の為にならずといっているようなものであろう。


2018.11.4 記  本項未定です。
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