FC2ブログ

3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

序論「安倍自民党政権は感情人間の集まり」

序論
第二次安倍政権が発足してからもう5年になる。この政権について論じるべきことは多々あると思うが、私がもっとも印象的に思うのは、この安倍政権の閣僚や側近たちの多くがまるでヤクザの親分のような感情的言葉をしばしば発することであった。その最も代表的な人物は安倍政権の実質ナンバー2ともいうべき菅官房長官である。彼はすでに官房長官としての在任期間で最長記録を作っているが、何が彼をそこまで押し上げているのであろうか?これは考えれば不思議な事実である。なぜかといえば彼の発言にはしばしば間違いがあり、極めて問題とすべき発言が数多くみられたからだ。しかし、彼はそれでも長年、官房長官の役職に居続けた。一体、その秘密は何であろうか?

菅氏の定例記者会見で記者の質問に対してしばしば繰り返されるのは「そのような指摘は全くあたらない」とか「全く問題ない」という常套句だ。この言葉を聞くだけで、記者の鋭い質問がまるで柔らかいカーテンに当たった声のように勢いを止められる。映画監督の想田正弘さんによれば彼の発言には次のような問題があるという。

菅氏の言葉は、相手の質問や意見に対して、正面から向き合わないことに特徴があります。『その批判は当たらない』など、木で鼻をくくったような定型句を繰り出すことで、コミュニケーションを遮断する。実質的には何も答えない。したがってボロを出さないので無敵に見えるのです。つまり、相撲にたとえると「土俵に上がらないから負けない」論法だ。
たとえば東京都議選の際の秋葉原の演説で安倍総理の目の前につめかけた多くの聴衆が反安倍政治の横断幕を掲げながら「安倍帰れ」と大声で抗議していた事に対して、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と安倍総理が壇上から大声でスピーカーを通して発言したことに対して、翌日、選挙民を愚弄しているのではないかというような批判があがった。この首相の問題発言を記者が菅官房長官に問いただしたところ、菅氏は「問題ない」と答えた。これに対して記者がなぜ「問題ないのか」と正したところ菅官房長官はなんと「問題ないから問題ないんだ」と答えている。


このような意味不明な問答を聞いている国民の中にはなんて傲慢なんだと感じる人もいるかもしれないが、おそらく多数派の人々は菅氏のこの種の迷言ぶりを問題だとは思っていないのだろう。だからこそ彼は安倍長期政権の中で最長の官房長官の役職にあり続けているのではなかろうか。

なぜ菅氏がそういった発言を繰り返しながら大多数の国民から非難されないのかというと、その大多数の国民も菅氏と同じような精神構造をしているからに他ならないと思う。すなわち論理もへちまもなく自分が好きなことを適当に言いながらピンチを切り抜けていく人生こそは大衆の生き方でもあるからだ。

同じような不規則発言は二階俊博自民党幹事長においても通例だ。二階氏もまた都議選の応援演説で、差別的表現を使ったためにマスコミから批判を受けたが、それに対して次のように答えた。「言葉ひとつ間違えたらすぐ話になる。私らを落とすなら落としてみろ。マスコミの人だけが選挙を左右するなんて思ったら大間違いだ・・・マスコミは偉いには違いないが、偉いと言っても限度がある。あんたらどういうつもりで書いているのか知らんが、我々はお金を払って(新聞を)買ってんだよ。買ってもらっていることを、やっぱり忘れちゃダメじゃないか」。

菅氏にしろ二階氏にしろ、こういった調子の発言はまいどのことなのでなんら驚きもないほど国民はなれているのだが、確かにこの二階氏が言うように「落とすなら落としてみよ」と意味不明な威嚇で脅されても、一般大衆はこの二階氏の言動を問題にすることもないのは、今回の衆院解散総選挙の結果をみても分かる通りだ。自民党や与党を支持する多数派の国民はそのような政権幹部の発言にほとんど問題を感じていないという事はまちがいないだろう。

森友・加計疑惑についても多くの国民が関心はあるけれども、菅氏や二階氏、そして安倍総理自身が「全く問題ない」といえば、その通りに多数派の国民は受け入れて許してしまう。これらの疑惑についてはいくつもの証拠が上がっているし、関係者が逮捕されても仕方がないほど重大な疑惑を孕んでいても、それを捜査すべき国家権力自体が政権の圧力の為に動かない以上は国民も疑惑について、それ以上ひつこく追求しようとも思わない。検事や裁判官以上に国民が正義や真実を求めているという事実はありそうにないわけで、したがってこの国では様々な疑惑が権力によって握りつぶされていても、大部分の国民はそんなものさとあきらめている。

このような日本人の在り方というのは実は今に始まったわけではなく、戦前から連綿と受け継がれている日本人自身の体質であり、その結果が原爆を2発も落とされるという悲劇を招いてしまった原因でもあるということについて誰も知らない。

「えっ?」と思うでしょう。一体、菅氏や二階氏の話と原爆がなぜ繋がるのか?

世界の中での日本人のユニークな特性の一つに「感情が第一」という我々の共通する人生観がある。日本という国は地理的にも歴史的にもエジプトやインド、中国から発した古代文明の影響を間接的にしか受けることなく、その結果、宗教的支配から比較的に自由な国であった。仏教や儒教は中国と朝鮮経由で伝わったが、それらは中国や朝鮮ほど国民に支配力をもつことはなかった。さらに列強によるキリスト教の伝播においても日本は鎖国政策を続けたためにキリスト教化されなかった。その結果、日本人は無宗教者が一般的で素朴な人間的感情をそのまま肯定する生き方が何のためらいもなく残り続けた。これが山本七平いうところの「日本教」の由来であり、それは畢竟「人間教」に他ならない。したがって日本人は「感情こそ第一」という教えに誰もが共感する珍しい民族性をもつようになった。そのもっとも特徴的な教えは「義理」や「人情」を代表とする「人間教」の価値観である。

卑近な例をあげるとヤクザというのは非常に日本的な現象であって他国に同類のものは存在しない。ヤクザの価値観はまさに義理と人情であるが、これは人間の感情こそすべてだという価値観に他ならない。彼らは反社会的集団とか暴力団であるとかいわれて久しいが、その組織は決して壊滅させられることはない。なぜならヤクザ社会は日本社会の本質に根差した裏組織であって、それを潰滅する事は日本自身の表社会をも否定する事に他ならないからだ。

一方、現代文明は17世紀に西洋で起こった近代化の流れの中で合理主義と客観主義による科学的合理主義が主流になっている。文明が科学的合理主義に傾いていったのは物質的裏付けと同時に知性主義的生き方が西洋の人々の模範になったからである。知性主義的生き方とは我々の判断基準を知性に置くべきだという考え方であり、それは不条理な差別や搾取、圧政、独裁、など科学的根拠を持たない伝統的制度や考え方を警戒する多くの中間知識層をもたらした。

最近になって知性主義と反知性主義という見方が出版界を賑わすようになったのは、特に我々日本人が陥りやすい保守思想の盲点を厳しく指摘できた点にある。保守思想は伝統的価値を重んじるあまりに客観的事実を軽視しがちである。特に我々日本人が陥りやすいのは自らの歴史を肯定的に評価したいがために客観的事実を無視して自分に都合の良い事実だけを取り上げ、日本の過去の戦争を肯定するばかりか、日本民族は世界に冠たる民族だという思いあがった愛国主義にまで昇華させている多くの反知性主義者を輩出させてきた。この人々は主に90年代後半に生まれた新しい教科書運動又は自虐史観批判を梃子にして、国民的な運動を始めていった。これが安倍政権の中核をなす日本会議の由来である。

しかしながら一方で多くの良識派知識人による反知性主義批判の良書が生まれたにもかかわらず、日本人の反知性主義的傾向は一向に収まる気配はない。それは日本人が反知性主義とは何かという以前にすべての日本人の生き方の中に日本人特有の「感情こそ第一」という考え方がしみついているからであり、この考え方の危険を自ら察知しない限り反知性主義的傾向が収まることはありえないのである。なぜなら反知性主義者は単に知性主義に反対しているわけではなく、感情こそすべてだと信じる人々の住処にもなっているからである。

2017年11月5日
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する