3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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日本人は感情民族か?

人間に限らずすべての動物には知性と感情が備わっている。知性というのは自分を取り巻く周囲をできるかぎり客観的に観察しようとする能力であり、一方、感情というのは自己保存本能から由来する必然的な防御反応である。たとえば他人に足を踏まれた時に痛みを伴う痛覚が刺激され、その痛みを起こした他人に対して感情が発作的に湧きあがる。但し、その時同時に知性が働くから、自分の足を踏んだ他人に対して、どう反応すべきかを咄嗟に計算して自らが取るべき行動を判断させる。

たとえば、もしその時、自分の足を踏んだ相手が職場の上司であった場合、彼はその相手に対する怒りを咄嗟の判断で保留しようとするだろう。しかしその相手が見ず知らずの他人であり、しかも弱そうな相手の場合は自分の感情を爆発させるかもしれない。彼は自分が感じた同じ痛みを相手にも感じさせるために当然の仕返しをしようとするだろう。このような行為は一般に感情的とみなされ、その行為を統制するべき知性の働きはほとんど停止状態になる。

いわゆるヤクザと称されるタイプの人はこの種の感情的反応を当然のこととして行動する人々であり、彼らは他人から不利益を被った場合に必ずそれと等価又はそれ以上の報復行動を取ろうとする傾向の強い人々である。彼らは肉体的又は精神的に強者であるという自覚を持っているがゆえに自分に不利益を与えた他人に対して知性の判断を留意せずに、感情を優先させようとする。但し、そのような行動様式が個人の場合はまだよいが、組織的になされるようになると、その集団は時に危険な集団となる。人間の社会で殺し合いや戦争が繰り返されてきたのは、このような傾向の強い人々が自らの感情を爆発させてきた結果に他ならないといえる。

時間がないので、少し結論を急ぐことにする。

国家と国家の争いは基本的にはその構成員の感情と知性のせめぎあいであって、知性よりも感情が優先するようになると、必ず戦争が起こるようになっている。

たとえば戦前の大日本帝国が行った複雑な経緯の戦争も、結局の所、感情を優先させた結果に他ならないということをごく一例だけでも証明してみることができる。明治政府が最初に戦争を始めたきっかけになったのは韓国に対する威圧的な外交であった。当初は王政復古により新しく明治政府が政権を司る事になった為に朝鮮の李王朝に対してその通告をするつもりであった。ところが明治政府側がそれまでの日朝の伝統的関係とは著しく異なる書状を李朝側に突き付けた為に李朝は硬化した。その文言の中で特に問題になったのは「皇」とか「勅」という漢字であった。当時の李朝にとって「皇」と「勅」は彼らが宗主国として認めている中国の清王朝のみに許される文字であった。彼らは明治政府が新たな従属関係を求めているのではないかと「誤解」し、この書状に返事もせずに送り返してきた。

皮肉なことに、その時の李朝側の対応があくまでも「誤解」であったとしても、結果的には「誤解」どころではなく、それは彼らが危惧していた通りの「事実」に発展してゆく。

明治政府は書状が返還されたことに対して感情が爆発し一気に征韓論が高まることになる。但し、歴史の教科書に書かれているように、当時、征韓論を主張したのは西郷隆盛や板垣退助らごく一部のグループだけではなかった。実験を握っていた大久保利通や木戸孝允、岩倉具視らも朝鮮王朝の無礼な対応に対する反韓感情においては同意していたが、但し、征韓論者のように直ちに行動を起こすことには同意してなかった。即ち彼らは感情にまかせて行動する事を慎むべきだと考えていたのだと思われる。

ところがわずかその2年後に明治政府は事実上の征韓論を行動に移している。すなわち江華島事件という、きわめて乱暴な侵略行為をやっているのである。この事件については韓国の人なら誰でも知っているが日本史の教科書ではほとんど紹介もされていない。この事件について韓国で売国奴として入国拒否されている呉善花さんの著書(「韓国併合への道」)から引用しておこう。

1875年(明治8年)5月、日本政府は雲揚(245トン)と第二丁卯(125トン)の小砲艦を釜山に派遣して、一方的な発砲演習を行わせる示威行動をとった。続いて9月20日、日本政府は沿海測量の名目で雲揚を朝鮮半島の江華島へ向かわせる。雲揚は江華島と半島との間の江華水道の河口付近で停泊し、その先は兵士らがボートに乗って江華水道を遡行した。水道の幅は200~300メートルと狭く、北は漢江、南は黄海に通じる要所で、沿岸各所に要塞があり砲台が設けられている。飲料水を求めたためとされるが、この内国河川への無断侵入は明らかな挑発行為である。

要塞の一つ、草芝鎮台から砲撃が開始されると、雲揚も水道に入り応戦する。砲台からの弾丸は船に届かず、草芝鎮台は雲揚の砲撃を受けて甚大な被害を受けた。しかし、退潮時のために雲揚は兵員たちを上陸させることができなかった。雲揚は次に江華島のすぐ南にある永宗鎮台を急襲した。次から次へと砲撃を受けて永宗鎮台は陥落、600名の守備兵はほとんど戦うことなく逃走してしまった。上陸した日本の将兵たちは城内と付近の民家を焼き払い、大砲38門をはじめ、残された兵器類を押収して帰船した。李朝側の死者36名、捕虜16名、日本側の死者1名、負傷者1名だったといわれる。(呉善花著「韓国併合への道」文春文庫P54)


この事件については当時征韓論争に敗れて下野していた西郷隆盛が実に辛辣な表現で批判をした文書が遺されているので、これも紹介しておこう。

「譬、此の戦端を開くにもせよ、最初測量の儀を相断り、彼方承諾の上、[それでも]発砲に及び候えば、我国へ敵するものと見做し申すべく候えども、左もこれなく候はば、発砲に及び候とも一往は談判いたし、何等の趣意にて此の如く此時期に至り候や、是非相糺すべき事に御座候。一向彼を蔑視し、発砲致し候故応砲に及び候と申すものにては、是迄の友誼上実に天理に於いて恥ずべき所為び御座候。」(板野潤治著「西郷隆盛と明治維新」講談社現代新書P180)

これを口語でいうと、およそ次のような意味である。「たとえ戦闘を始めるにしても、測量のことは無断でやるのではなく相手に断りを入れてからやるべきであり、それでもなお相手が攻撃してきたならば応戦するというなら分かるが、そうではなく相手に無断で測量をやっていながら、発砲されたからといってこれに応戦するのは、長い付き合いのある隣国に対して、いかにも道理に反する恥ずべき行動ではないか」

ご存知のように西郷隆盛は歴史の教科書では征韓論者だとみなされているが、この文書をみるかぎり、そうではなかったのかもしれない。西郷が征韓論者だと決めつけられたのは、後に西南の役で敗北し賊軍の首領として後の世の歴史教科書の中でも評価を貶められた結果という可能性もある。

いずれにせよ明治政府はこの江華島事件をきっかけにやがて朝鮮半島を我が物顔に支配下に収め、さらに満州、北京、上海、南京へとその触手が伸びてゆくのである。いまだに日本の一部右翼層は明治から昭和に至る戦争を侵略ではなかったなどと言い訳するが、これは足を踏まれたのはこっちが先だというヤクザの感情論と同じことであり、だからといって仕返しをするのが当たり前だという事にはならないはずである。

たとえば満州事変の前にも中村大尉虐殺事件というのがあり、また日中戦争前には盧溝橋事件での発砲があった。さらに南京事件の前には北京郊外での通州事件が発生している。これらの事件はその後の事件に比べてはるかに小さな事件であるが、日本政府はそれらの事件の被害者であるという国民感情を最大限に利用(又は悪用)しつつ侵略の正当化をなしていった。この例のようにいつも感情にまかせて甚大な結果を招いてきたのが日本であったという事を、我々は極めて近い歴史的事実から学ばねばならないのではないだろうか。

5月21日 本項未定です。
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