3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

東京都知事選挙の行方と純粋人間の評価の関係

舛添前東京都知事が公私混同問題で袋叩きにあった一件は、以前にも当ブログで紹介した山本七平の「純粋人間」という概念に照らして考えると、あらためて山本七平の洞察力の凄さがよくわかる。もともと「純粋人間」という概念は日本教の不文律に対する「純粋さ」の基準であって、その基準は憲法にも他のどの文書にも記されてはいない。したがって、その不文律の出処は不明確ではあるが、イギリス人が憲法を必要としないほどの伝統的不文律をもっているのと同じように、日本にもいつごろからか不文律ができたのである。おそらくその起源は山本七平によると、江戸時代初期から中期に至る頃、水戸黄門即ち徳川光圀が始めた大日本史に遡ることができるのかもしれない。

江戸幕府絶頂期の中で一般庶民には忘れられていた南北朝時代の後醍醐天皇下の楠正成の存在を中国明の亡命武将朱舜水が再発見し、この楠正成の忠孝精神を天皇制イデオロギーの核として位置づけようとしたのがその始まりである。ここから日本独自の国学思想が生まれ中国産の儒学に対抗する理論家たちが次々と生まれてくる。これについてはまた機会があれば述べることにするが、要は今日の天皇制及びその教えに基づく日本教の由来というものは、それほど長い歴史があったわけではなく、わずか三、四百年ほど前にできあがっていったものであり、しかもその由来も中国の影響を強く受けていたのだということを予備的に述べるに止めたい。

以前当ブログにも書いたように、この日本教の「純粋人間」という概念に照らすと、たとえば石原慎太郎や安倍晋三や或いは橋下徹という人物が「純粋人間」として評価されている可能性があると予備的に考察した。但し、もちろんこれは私の考えであって、今は亡き山本七平がどう思われるのかは別である。

山本七平氏は1991年に亡くなっているから、橋下や安倍の出現は当然のこと、政治家石原慎太郎の都知事としての活躍もみていなかった。そもそも「日本教」や「純粋人間」という概念を世に出した「日本人とユダヤ人」とその続編「日本教について」や、さらにはその続編として書かれた「日本教徒」という書も、すべて1970年代に書かれたものであり、当時は左派系の革新知事が全盛をきわめた時代であり、東京には美濃部都知事がおり、京都には蜷川知事、横浜には飛鳥田知事、大阪には黒田知事らの社共推薦の革新知事が主流の時代であった(但し、全国区では自民党が農村地方に強く全国選挙では必ず自民党が過半数を握り政権に揺るぎはなかった)。

その70年代に東京都知事をしていた美濃部亮吉氏について、山本七平は「日本教について」の中でかなり詳しくふれており、当時美濃部天皇とまでいわれた彼の人気の秘密が日本教の「純粋人間」という概念を駆使して説明されている。これについては別ページで詳しく書いたので、そちらを参照していただきたいが、今日はその都知事選の日にあたるので、その投票結果も気にしながら、あらためてこの問題を考察してみたいと思う。

自民党議員でありながら小池百合子氏が自民党に反旗を翻す形で知事選に誰よりも先駆けて立候補し、この小池氏が後出しじゃんけん有利と言われる過去の例に反して、今のところ有利な展開を進めているという。この小池氏の出馬の仕方からして、もしかすると45年ほど前の美濃部選挙をまねたのではないかといわざるをえないのである。当時の美濃部氏は社共推薦ではあったが、あえてその推薦を辞退し、どの党派にも属さず、「あえていえば私は都民党である」と存在しない党を名乗って出馬し、それが功を奏して以来、多くの知事選の候補者がこのような手法をまねるようになった。

なぜそれが功を奏したのかというと、そうすることで「潔癖」であるという印象を与え、「純粋人間」としての評価を高めたのだと七平氏は分析した。小池氏が「崖から飛び降りた気持ちだ」とかいって、自分の出馬にはまったく不純な思いがないことを強調したのも、そうした評価を高めることが計算されているとみてよいだろう。いうまでもなくこの手法は橋下徹が大阪府知事に出馬した時にも使われた手法であり、その手垢のついた他人の手法をまねてまでこのやり方で勝てると思わせたのが、小池百合子の出馬表明であった。

なぜこのような手法が毎度まいど通用してしまうのか?それは前にも当ブログで書いたように、日本教の不文律が「私心のなさ」を第一次的教義として要求するからである。たとえば日本教のスポーツ(芸事さえ)は「○○道」と名付けられ、その趣旨はスポーツ(芸事)を通じて「私心のなさ」を学ぶというものであり、この精神は選挙においても例外ではないのである。

確かに選挙というのは利害の絡んだ組織票で決まる仕組みがあるが、不特定多数の不動票の多くは何を基準に決めているかというと、最終的には日本教の抽象概念である「純粋人間」の純度で決まるのである。したがって今回の都知事選でいうと、自公が推薦している元官僚の増田氏が組織票では断然優勢であるはずだが、浮動票は小池氏か鳥越氏へ流れるのが自然である。但し、鳥越氏は後だしじゃんけんであるだけではなく、週刊誌であらぬ噂を流されたために、その「純粋さ」に大きく傷がついた。その噂自体は他愛のないもので根拠もなく悪意に満ちたものであるとはいえ、多くの一般大衆(即ち日本教徒)はそのように受け留ることはなく、日本教の純粋人間としての鳥越氏の評価に影響を及ぼす。

そもそも舛添氏がなぜあのように袋叩きにあったのかというと、彼が日本教の不文律に著しく背反する人物だと大衆の目に映ったからである。つまり公私混同というのは「私心のなさ」を求める日本教の不文律に明白に背くものと映るからである。ではなぜ石原慎太郎の場合は舛添氏とは比べ物にならない公私混同をやっているにもかかわらず容認されたのか?それは前のブログでも述べたように、彼が天皇制イデオロギーを強く訴える右翼リーダーとしての揺るぎない評価があるからなのである。

すなわち日本教の「純粋人間」というのは、本人自身の「私心のなさ」が求められるだけではなく、その教義と一体化した天皇制を支持する人間でもなければならない。だから日本共産党の指導者がどんなに立派で私心のない人物であることが証明されたとしても、天皇制イデオロギーを認めない限り、純粋人間として評価はされない。また天皇制イデオロギーを積極的に支持することのない鳥越氏のようなリベラル派の人物もまた、どんなに潔癖な人物であったとしても純粋人間としては高く評価はされにくい。ましてや天皇制イデオロギーを積極的に擁護しないリベラルな人物がそのうえ潔癖でもないという証明がなされると舛添氏のように袋叩きにあう危険性もある。

逆に天皇制イデオロギーを積極的に肯定する人物は、個人としての「私心のなさ」の評価が低くても容認され、純粋人間として高く評価される可能性がある。石原慎太郎も安倍晋三も、実際には、人間としては私心のない人間どころではなく私心だらけの人間であったとしても、天皇制イデオロギーの積極的リーダーだとみなされるかぎり、彼らは純粋人間として高く評価される。オサマ・ビン・ラディンがどんなに凶悪な人殺しであったとしても、イスラム教徒の間で熱烈に信奉されるのと同じである。

小池氏の場合は無党派として組織に頼らないと言いながらも、自民党を離党したわけではなく党籍を置いたままであることには、実は私心たっぷりな計算が見え隠れする。つまりいまだに自民党員であるということで、天皇制イデオロギーに寄り添う側の人間であるという評価も同時に期待しているわけである。これは巧みな計算であるが、マスコミにはその辺の矛盾を突かれることもなく、一般大衆もそれを矛盾としては受けとめない。

小池氏が仮に勝利した場合はこの党籍かけもち無党派出馬の矛盾点が問われるべきであろう。さらにいうなら小池氏が当選した場合に、安倍自民党総裁が小池氏に対しどういった処遇をするかということである。出馬の際に党から除名処分を言い渡されたと公言していた人間が、またそれを売りにしてイメージ作りをしていた人間が、選挙で当選するや自民党総裁から除名処分を取り消され、あっさり仲直りをしたとなると、選挙民はそれをどう解釈すればよいのだろうか?小池氏は選挙民に潔癖であるというイメージを与えるために演技をしていただけなのかという話にもなる。

ここからは選挙結果判明後にあらためて追加したい。
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