3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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大根役者安倍晋三首相の三文芝居

安倍総理の言動をみていると、どこか既視感があるなと思って、過去の総理大臣を思い浮かべてみたが、似ている人物がまったく思いつかない。私の記憶の範囲でいうと佐藤総理、田中総理、三木総理、福田総理、大平総理、中曽根総理、鈴木総理、竹下総理、橋本総理、・・・等と振り返って考えてみても、安倍総理に似た人物は思い当たらない。強いて言えば、小泉総理に似ている部分があるかもしれないかなと考えたが、やはり全然違う。安倍総理の祖父岸総理については子供の頃なので記憶がほとんどないが、映像などの記録をみるかぎり、やはり全然違っている感じがする。安倍総理の父安倍晋太郎は総理大臣になることができなかったが、性格的にも現在の安倍総理とはおよそ似ていない。安倍晋太郎は寡黙で控えめな感じの人で目立つ行動を取る人ではなかったが、息子の安倍総理はその正反対だし・・・、とあれこれ考えているとき、熊本地震の被災地見舞いの写真をみて合点した。

abemimai.jpg


これはなんという写真だろうか?よくみると奇妙な写真である。被災地で一人の被災者と握手しながら、総理の視線はカメラ目線で横を向いている。明らかにカメラの位置を意識した写真である。思えば、いままで被災地を見舞う総理の写真でこのような写真はみたことがない。これは決して単なるハプニングではないだろう。明らかに安倍総理の演技的性格を物語る写真である。もしかすると事前に被災者との握手の打ち合わせが行われ、そのシーンを撮る写真の位置もあらかじめ決められていたのではないだろうか?そのように疑わざるを得ないほど、不自然な感じがする。もちろんそういった打ち合わせがあったとして、だからどうだというつもりはないが、この写真に安倍総理の演技的性格が表れているとみてまちがいないだろう。しかもその演技がいかにも空々しく、まるで大根役者の三流芝居を見ているようであほらしくなる。

演技的性格の総理というと小泉総理もそうであったが、小泉総理の場合はもっと凄みがあり、それが演技であると分かっていても見るものをうならせる迫真の演技力を感じさせられた。たとえばブッシュ大統領の別荘地でプレスリーの物真似をした時の大胆さは他の総理にはまねできないものである。同じ演技にしても相手に馬鹿にされないほどの真剣味があれば見る人は納得する。たとえば中曽根総理や田中総理のように、大向こうに受ける政治家というのはそういった良い意味での演技力を身につけていた。

要するに私の安倍総理に対する既視感は大根役者が主役気取りで三流映画を演じている感覚と似たような感じといえば分ってもらえるだろうか?

問題はなぜこんな大根役者が主役を気取っていられるのか?ということである。

政治が劣化したといえばそれまでであるが、なぜこんな大根役者が日本の政治のリーダーになれたのか?それはいうまでもなく、彼の血筋の中に一流のサラブレッドの種があると思われているからであろう。すなわち彼の祖父岸総理と大叔父佐藤総理という二人の大物総理を血筋にもっているという決定的要因が彼のカリスマ性に影響を与えているということはまちがいない。

だとすると安倍晋三というのは要するに金正恩と同じではないか?

そう、ここにきて、私が安倍総理に抱いた既視感とはまさに北朝鮮の金正恩のことだったということに気付いたのである。

それはあんまりじゃないかという人もいるだろう。しかし、金正恩のカリスマ性と安倍晋三のカリスマ性は実はよく似ているのだ。二人とも三代目であり、その血筋だけでリーダーになれた点は同じだ。歴代の日本の総理の中で自らのカリスマ性ではなく、父祖のカリスマ性によって総理になりえた人物はおそらく安倍総理に麻生元総理、それに鳩山由紀夫ぐらいのものであろうが、鳩山由紀夫の場合は自民党を出て菅直人と共に民主党を結党するという反党行動を起こした人物であるから、必ずしも父祖のカリスマ性だけを頼りにしたわけではない。また麻生氏の場合は長らく派閥の長をしながらも少数派だったために総理への道は遠かったが、彼の場合は派閥の長としてのそれなりの実績もあって総理の道にたどり着いたといえるだろう。それに比べると安倍晋三の場合は自民党の中でぬくぬくとお殿様のように育てられてきたので、ほとんど百パーセント父祖のカリスマ性を借りてまるでエスカレーターにでも乗るように難なく総理にまでなった。

安倍晋三の珍しい個性はこの特別なお殿様感覚に由来しているのだろうと思う。確かに自民党議員の多くは二世議員であり、総理経験者の二世も多いが、安倍晋三のように、祖父と大叔父が総理大臣経験者であったというだけではなく、二人とも自民党歴代総理の中でも特別な存在であることから、彼が生まれつきお殿様として周囲から大事にされたのも自然の成り行きであった。よくいわれる安倍晋三の自己愛性人格障害という顕著な病的性格はそのような環境の中で肥大化していったのではないかと思われる。

その点で金正恩と似ている部分があるような気がするのである。自己愛性人格障害というのは自分が愛されるのが当然であり、自分を批判する人間は許されないという極端な性格破綻者を意味する。独裁者は必ずといってよいほどこの性格の持ち主か又はそのような性格になってゆく。これは古今東西の最もありふれた真理(心理)の一つである。

ニーチェもいうように人間の最も強い欲求は権力欲である。権力欲の本質は愛されたいという願望にあり、その願望が満たされるために人は権力を目指す。なぜなら愛の充足こそが最高に魅力的なものだから、その為にはいかなる犠牲も厭わないのが人間の本性なのである。古今東西、権力の座をめぐる様々な殺人劇が延々と繰り返されてきた。権力の頂上にいる者は自分一人が愛を独占する座を永遠に守ろうとする。もちろんそんなことはありえない話だが、いつまでも愛されたいという願望が人間の目を曇らせる。

金正恩も自分が親から相続した座をいつまでも守り続けるために独裁をやめられない。政権や軍の内部に不満が鬱積し、いつ暗殺されるかもしれないほど疑心暗鬼になっていても亡命を求めることをせず、逆に腹心たちを粛清して政権を延命させようとする。金正恩個人の本心は第三者には計り知れないが、おそらくはいつの世も消えては現れる独裁者の典型的パターンに嵌まり込んでいるとみて間違いないだろう。

日本の場合はかつての信長や秀吉の時もそうであったが、徳川時代になってから、幕府の独裁権力を合法化し250年以上もの長年月一統独裁体制を維持してきた。しかし日本の場合は京都の天皇家が武家の支配体制の中でも細々と生き続け、徳川中期になると水戸藩で「大日本史」という書物が著されたのをきっかけに、幕府政権の合法性に対する議論が起こってくる。その議論はやがて維新の志士たちに語り継がれ、天皇こそ真の権威であるという尊王思想に結実してゆく。

山本七平によると、このような尊王思想は日本独自のものではなく、本来中国の伝統であったものを江戸期の儒者山崎闇斎、浅見絅斎、新井白石、国学者の本居宣長、平田篤胤らを経て「日本こそ真の中国である」とする逆説的な教えに発展したのが、その母体になった。幕末の理論的指導者吉田松陰の思想はすべてそこから由来している。

しかし明治以降の体制は新たな幕藩体制ともいうべきものであった。その権力は幕府から天皇家に移されたわけではなく実質的には長州閥を中心とした代々の権力者に受け継がれた。その歪な二重権力構造が戦後になっても残されている。岸信介と佐藤栄作という二人の長州藩閥出身の人物が政権の中枢を占める時代が繰り返され、今日の安倍晋三に繋がっている。

彼の三文役者のような安っぽい演技的素振りは映画などで描かれる徳川期の殿様の行動と同じで、何をしようと自分に刃向かう者は現れないはずだという安心感に由来しているのだろう。安倍晋三が三文芝居をしていても、それをとがめだてする者もいない日本の政治はまさに北朝鮮の金正恩の政治と瓜二つなのである。

5月のG7伊勢志摩サミットで「リーマンショック級の危機」という安倍首相の唐突な発言に対して各国の首脳は違和感を隠さなかった。しかも海外のジャーナリストはこの首相の発言が参院選の争点になる消費増税延期の為の国内向け芝居であったという見方を世界に伝えた。対して日本のマスコミは直接的な批判はせずに海外マスコミの見方を遠慮がちに伝えて間接的な批判しかできない(ちなみにNHKはそれさえも伝えなかった)。

これは安倍首相をお殿様だと認めているからではなかろうか?つまりマスコミが安倍首相を直接的に批判できないのは安倍首相を民衆の選挙で選ばれた民主的なリーダーと考えているからではなく、むしろ彼の家柄に権威があると感じているからではないか?まるで黄門様の家紋をみせられれば、だれも反抗できぬかのように。そう考えると、結局、安倍晋三の個性を作り出したのは、安倍自身ではなく、むしろわれわれ国民のさもしい「お上意識」(それは裏返しの権力意識である)ではないかと思わざるを得ない。彼はまさに我々自身の鏡なのだ。
6月12日記 本稿未定です
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