3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

第一章 怒りを抑える者は城を攻め取る者に勝る

戦後の日本を代表する知識人というと、すぐに司馬遼太郎や丸山眞男、小林秀雄、あるいは吉本隆明などの名前があがるが山本七平という名前があがることはめったにない。その証拠に山本七平の研究書はほとんど存在しない※。しかし、にもかかわらず山本七平を戦後の代表的知識人として評価する人は一定程度存在している。彼が世を去ってからもう26年になるが、いまだに山本七平の本は数多く出版され、雑誌に寄稿した古い評論を集めた復刊書も時折出版されている。山本七平の言説がいまだに忘れられてはいない証拠である。

※山本七平の研究書がまったくないというわけではないがよき研究書は少ないという意味。唯一、推奨できるのは高澤秀次著「戦後日本の論点 山本七平の見た日本」(ちくま新書2003年)であろうか。これは秀逸な作品である。

山本七平というと肩書があいまいで一般には「評論家」とされているが、時には「随筆家」と紹介されることもあり、社会的にもその業績はあいまいにしか評価されていない。にもかかわらず山本七平には独特な世界観があり、「山本学」とも称されるほど奥深い不思議な魅力をもっているが、その魅力について正確に語りえた人物を私は知らない。

山本七平という知識人は、一体、何を残した人物なのかと言うと、簡単に言えば独特な日本人論である。そもそも日本人論という分野はルースベネディクトの「菊と刀」に代表されているように海外の人々の目からみた日本人論しか存在していなかった。これは日本人が自分自身を客観的に見つめるという作業をしてこなかったからである。

山本七平はそこに違和感を持っていた。日本人は自分自身を客観的にみる能力が欠如した民族であるというのが、おそらく山本七平が生涯抱き続けてきた違和感である。彼がイザヤ・ベンダサンという実在しないペンネームを使って書いた「日本人とユダヤ人」が三百万部という記録的なベストセラーになったとき、それはある種の衝撃を多くの人に与えた。こんなふうに日本人の問題性をこともあろうにユダヤ人から指摘されるとは思いもよらなかったからでもある。もちろんすぐにその著者は実は本物のユダヤ人ではなく、本を出した山本書店主の山本七平ではないかという噂が流れることになったが、山本七平はその異常な反響に対してなんら慌てることもなく、同じペンネームを使って続々と本を公刊していき、やがて70年代中頃から山本七平自身の名前で新たな執筆活動を開始することになる。

※イザヤ・ベンダサンという名のユダヤ人は実在しないことは事実であるが、「日本人とユダヤ人」は山本七平の独創ではなく、当時彼と交流をもっていた実在のユダヤ人との対話の中から生まれたものであったということは事実であったらしい。その証拠に「日本人とユダヤ人」の版権は山本七平には属していないと山本自身が明かしている。

いずれにしても「日本人とユダヤ人」という書物は新鮮な日本人論として読まれたわけだが、それはかつて日本人が接したこともなかったような日本人論だったのである。いまでこそ日本人論というのは一つの出版分野になっているといってもよいだろうが、当時の世の中では日本人論という出版分野は存在していなかった。そういう意味ではこの分野のパイオニアといってもよいかもしれないが、いまだかつて山本七平を超える日本人論を著しえた人物がいたとは信じられない。というより、そもそも山本七平の日本人論は最近流行している「日本人は凄い!」というような凡百の出版物とは次元の違うものであり、およそ比較の対象にもならない。

山本七平がイザヤ・ベンダサン名でデビューした70年代初頭に日本人論が存在しなかった理由は、それ以前の日本の知識層は丸山眞男や吉本隆明を含めてほとんどが西洋の受け売りに終始していたからである。とにかく西洋の膨大な知識を学び、それを日本人的に消化して紹介することが知識人の主な役割であった。しかも、その当時の主流はマルクス主義という階級闘争史観である。丸山にしても吉本にしても、そこから始まっているわけで、当時の知識人というとほとんどがマルクス主義の亜流であったといっても過言ではなかった(もちろん当時から三島由紀夫や石原慎太郎、林房雄、江藤淳など右寄りの知識層もあったが、彼らは言論界において強い影響力をもっていなかった)。

なぜそうなったのかというと、やはり戦前のファシズム体制によって自由な言論が弾圧され、社会主義思想や共産主義思想が否定されたその反動であろう。戦後の世界は米ソ冷戦構造になったが朝鮮やインドシナでは共産主義化の流れによる民族解放戦争という名の内戦が続いていた。60年代は特にベトナム戦争が泥沼化し、アメリカの介入によってむごたらしい殺りくが繰り返されていた。その中からベトナム反戦運動が世界的に湧きおこり、日本でも小田実や鶴見俊輔らによってべ平連が結成された。

そのような左翼的風潮の強い世の中で「日本人とユダヤ人」という書物が著され、これがなんと三百万部を超えるベストセラーになったのである。したがって、この書物は当時の日本人にとって虚を突かれたような衝撃があったといってもよいだろう。この書物が主に言いたいのは「水と安全はただ」というような言葉をささやきながら、その本音は日本の憲法を改正し再軍備が必要だということではないかと解釈されたのも無理からぬことであった。

このような登場の仕方をみて山本七平こそ右翼の元祖であると決めつける者もいる。とりわけ当時の反戦運動のスター的存在であった朝日新聞記者本多勝一との「百人斬り」論争は今でも語り草になるほど有名であるが、この論争によって山本七平を右翼的論陣の代表と考える人々がでてきたのは、ある意味世の趨勢であった。

しかし、その論争で山本七平が誤解を与える論陣を張ったのは事実としては否定しきれない面もあるが、彼がいわんとしたことは南京虐殺の否定や侵略戦争の正当化ではまったくなかったということは論争を全文読むとよくわかる。意外な事に本多は自分は幼少で戦争に参加していないので自分には戦争責任はないはずだと言い張ったが、山本の方はドイツのブラント氏の例を持ち出して、戦後の人間が日本人としての恩寵を受けているとすれば、その前の世代の責任も同時に引き受けなければならないはずだという説明をしている※。

※この論争については別ページに書きましたので、興味がある方は参照してください。
http://iwanoaho.blog.fc2.com/blog-date-201303.html

このような山本七平の戦争責任に対する深刻な贖罪意識は二年後に再びイザヤ・ベンダサン名で出版された「日本人と中国人」でも明らかであった。この本の前半部では南京事件の本質が見事に描かれている。これはそれまで左翼ジャーナリストも書き得なかったほどの衝撃的な内容であり、そもそも南京虐殺があったのかなかったのかという以前の問題として、この戦争が「狂人だいこの踊り」と山本が名付けたほど戦争という形容も出来ないひどいものであったということを山本は書いているのである。その部分をあらためてここに紹介したい。

昭和十年十月、日本政府は、日中提携三原則を中国に提案した。すなわち排日停止・満州国承認・赤化防止の三ケ条である。この一年前、すなわち昭和九年十月十六日、中共軍は大西遷を開始し、十一月十日に国府軍は瑞金を占領し、蒋介石の勢威大いにあがった時であったから、日本もそろそろ「火事泥」(筆者注:これは満州事変のこと)の後始末にかかるのも当然の時期であろう、と蒋介石も世界も考えたのもまた当然である。

蒋介石はもちろんこの「日中提携三原則」を受け入れなかったが、しかし、これは外交交渉という点からみれば当然のことである。彼は何もこの提案をポツダム宣言のごとく受諾せねばならぬ状態にはないし、第一、こんなばかげた提案は、おそらく世界の外交史上類例がないからである。

日本は満州国は独立国であり、民族運動の結果成立した国であると主張している。従って満州国と日本国とは別個の国のはずである。それなら満州国承認は、あくまでも中国政府と満州国政府との間の問題であって、日本国政府は何ら関係がないはずである。従って秘密交渉ならともかく、公然とこの主張をかかげることは、その後も一貫して日本政府は。一心不乱に、「満州国とは日本傀儡政権であります」と、たのまれもしないのに、世界に向かって宣伝していたわけである。

(中略)

いわゆる杭州湾敵前上陸(一九三七年十一月)で上海の中国側防御線が崩壊しはじめたとき、トラウトマン駐支独大使による和平斡旋が始まった。いわゆるトラウトマン和平工作である。当時、日本の軍事行動を内心もっとも苦々しく感じていたのは、実はナチス・ドイツ政府であった。彼らは蒋介石軍の増強により、中ソ国境が現在の如くに緊張することを夢見ていた。皮肉なことに、いま(一九七二年当時)の中ソ関係こそ、ヒトラーの夢であり、ソビエト軍五十個師団のシベリア移駐こそ、彼の望みであった。

従って蒋介石軍に軍事顧問団を派遣し、その関係は一時、ある時期の南ベトナム軍と米軍事顧問団ぐらい密接であった。上海の防衛線は実は彼らの指導で出来たものである。また南京には、当時の上海在住のユダヤ人から「ゲッペルスの腹心」と恐れられたナチス党員の一商人がおり、あらゆる情報は大使館とは別の系統でナチス政府に送られ、またさまざまな指示も来て、蒋介石と密接な連絡をとって情報・宣伝に従事していたらしい。一方、ドイツではその後、日本軍の対支軍事行動に反対する「官製デモ」も行われている。彼らの狙いが「反共日蒋同盟」による中ソ国境の緊張化であり、トラウトマン和平工作が、この考え方を基礎としていることは、次のことから明らかである。すなわち日本政府と交渉の結果、その条件を、(一)満州国承認、(二)日支防共協定の締結、(三)排日行為の停止その他とし、彼はこれを全面的に相手に受け入れさせるため、あらゆる努力をしたわけである。

彼は十一月六日、行政院長孔祥煕と会見し、多少の曲折はあっても、ほぼこの線で事実は終息するという確信をもった。ここであくまで明記しておかねばならなぬことは、いずれにせよ、これを提案したのは日本政府だったということである。これは、相手がこの条件を呑みさえすれば、日本軍は平和裏に撤退することを、第三国という保証人を立てて、相手に申し入れたということである。日本人が過去の経験において絶対に忘れるべきでないことがあるとすれば、このことである。これが、誰からも強要されたのではない「自らの提案」だったという事実である。自らの提案を自ら破棄した者は、もはやだれも信用しない。確かにナチス・ドイツの斡旋はそれなりの計算があったであろう。しかしそのことは、現在でも釈明の理由にはならない。

中国政府は協議の末、十二月二日。トラウトマン大使に「日本案受諾」「同条件を基とした和平会談の開催」を申し入れてきた。と同時に、その後情勢は変化しているが日本側の提案に変更はないか、と念を押してきた。
これは当時の中国政府にとっては「ポツダム宣言」の受諾に等しかった。すなわち「無条件提案受諾」であり、その意味では、この条件への「無条件降伏」である。

これに対して日本側は条件に変化なしと通告した。戦争は終わった。だれが考えても、これで戦争は終わったのである。従ってそれ以後もなお軍事行動をつづけるなら。それは「狂人だいこ」の踊りであって「戦争」ではない。

ここまでの日本の行動は一応だれにでも理解できる。もちろん理解できるということは、その行動を是認できるということではない。簡単にいえば、泥棒が押し入って来て、金を出せといった。金を出したらそれを受け取って泥棒は去って行ったのなら、この行動は一応理解できる。同じように日本軍が押し入って来て「満州国承認を出せ」といった、そこで中国政府がそれを出したら、日本軍はそれを受け取って去って行った、というのなら、その行動は一応理解できるという意味である。

ところが。金を出せというから金を出したところが、相手はいきなりその金を払いのけておどりかかってきたら、この行為はもう「泥棒」とはいえない。さらにそこで坐りこんで動かなかったら、これはもう「泥棒」という概念では律しきれない行為で「狂人」とでも規定する以外にない。従って彼の行動を泥棒と規定しうるのは、相手が金を差し出した時までである。ここで泥棒という行為は終わったはずである。私が「だれが考えても、これで戦争は終わった」というのはその意味である。従ってここまでは「戦争」として理解できる、というのはその意味である。

日本は百パーセント目的を達した。一番の難問題はどうやら片付きそうであった。中国が満州国を承認すれば、全世界の国々の「満州国承認のなだれ現象」が期待できるであろう。事実、中国政府が承認したのに、非承認を固辞することは意味がない。「シンジア領有権確認戦争と同じように、これで「満州領有確認戦争」は日本の一方的な勝利で終わったわけであった。何よりも満足したのはナチス・ドイツ政府であったろう。これで蒋介石軍の崩壊は防がれ、日蒋同盟が中ソ国境の脅威となり、ドイツの東方政策はやりやすくなる。

(中略)

だがここに、まったく想像に絶する事件が起こった。「ポツダム宣言」を受諾するといったところが、その途端に九十九里浜に米軍の大軍が上陸して東京になだれ込んだといった事件である。一体全体、これをどう解釈すればよいのであろうか。(中略)この驚くべき背信行為の複雑怪奇さは「独ソ不可侵条約」の比ではない。「独ソ不可侵条約」を複雑怪奇というなら、これは何と表現したらよいのであろうか。狂気であろうか。

さまざまな解釈はすべて私に納得できない。十二月八日に日本は中国が日本の提案を受諾したことを確認した。しかし日本側は軍事行動を止めない。それのみか十二月十日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?通常こういう場合の解釈は二つしかない。一つは日本政府が何らかの必要から、中国政府をも、トラウトマン大使をも欺いたという解釈である。これは大体、当時の世界の印象で、これがいわゆる「南京事件報道」の心理的背景であり、また確かにそういう印象を受けても不思議ではない(というのは他に解釈の方法がないから)が。どう考えてもこの解釈は成り立たないのである。

もし「欺かねばならぬ側」があるとすれば、それはむしろ中国政府で、「日本の提案を受諾します」といって相手の進撃をとどめ、その間に軍の再建整備を計った上で、相手に反対提案をし、それを受け付けねば反撃に出る、というのなら、これも一応理解できる。

(中略)

戦争は通常だれでもある程度は理解できる理由がある。もちろんその理由は「泥棒にも三分の理」に等しい理由で、理由がわかったからといってその行動を是認できるというものではないが、少なくとも理由が分かれば、たとえその理由がその場限りの理由にせよ、その理由を除く方法を相互に探索できる。だが理由がまったく分らないと、「彼らは戦争が好きだから戦争をやっているのだ」としか考え得なくなるのである。したがって、これへの反論では、まず南京総攻撃、およびそれ以後の戦闘の理由を説明しなければならない。それができないのならば、「戦争が好きで、これを道楽としてたしなんでいたのだ」という批評は、甘受せねばならない。


今日、山本七平の業績を認めない知識層は右左関係なくほとんどいないだろう。だからこそPHP社は山本七平の死後すぐにその業績をたたえて1992年に山本七平賞を創設した。過去この賞を受賞した人材は多様であるが、近年では非常に偏った選考がなされているという憂うべき現状がある。それはこの賞の選考委員の中に渡部昇一とか中西輝政という極右と言ってもよい人々に牛耳られているからである。なぜそうなったのか経緯はさだかではないが、山本七平が「日本人とユダヤ人」でデビューした当時から右寄りの論者と見間違われ、その当時の評価が現在に至っても尚修正されていないからではないかと思われる。

しかし、山本七平がいっていることはおそらく彼らが期待するものとは真逆の世界である。山本は彼らのような歴史修正主義者ではまったくない。山本は日本の戦争を自衛戦争だったなどと歴史を捻じ曲げるようなことは一言もいっていない。彼らがいうように日本が世界に冠たる歴史文化と伝統をもった民族だなどと自惚れてもいない。万世一系の天皇制を硬く信じ靖国神社を国家が護持すべきだというような主張は一度もしていない。むしろ山本七平の主張はそれらとは真逆である。驚くのは山本七平の言論の中では日本及び日本人に対する批判は溢れていても、その反対はほとんどないという事である。中国や韓国に対しても敬意を払う書き方をすることはあっても、彼らを侮蔑したり悪しざまにいう言論はどこにも見当たらない。これは山本七平が自らの体験の中で中国や韓国に対して酷い事をしたという自覚があるからだろう。

山本七平が「日本人とユダヤ人」でデビュー以来、一貫して追求してきたのは日本教の由来であった。「日本教」というのは「日本人とユダヤ人」の中でも取り上げられた山本七平の造語であるが、そこに込められているのは大東亜戦争という狂気を国民全体に信じ込ませたその教えの由来である。これこそ山本七平が生涯において追及しようとしたテーマであった。その最も見事な結晶は「現人神の創作者たち」という80年代に発表された書物であるが、これについてはできれば機会をあらためて紹介したいと思うが、この本の「あとがき」をみればその真意がうなづけるであろう。

戦後二十余年私は沈黙していた。もちろん一生沈黙していても私は一向にかまわぬ。ただ、その間に何をしていたかと問われれば、「現人神の創作者たち」を捜索していたと言ってもよい。私は別に「創作者」を戦犯とは思わないが、もし本当に戦犯なるものがあり得るとすれば、その人のはずである。(中略)また「なぜ、そのように現人神にこだわり、二十余年もそれを探し、命がもたないよといわれるまでそれを続けようとされるのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前、戦中と、もの心ついて以来、内心においても、また外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決しなければならなかったという単純な事実に基づく。したがって私は。「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できれば、それでよかったまでで、著作として世に問おうという気があったわけではない。

この文章を読むと、まるでこれは共産主義者の文章ではないかと思われる人もいるかもしれないが、山本七平はある意味で共産主義者よりも徹底した反天皇制論者であったということは本当かもしれない。ただし、山本は決して公には反天皇制的な言論活動をしていたわけではない。彼がなそうとしたことは、天皇制を頂点とする日本教の由来を捜索する事であった。それは山本自身がいうように、誰のためでもなくただ自分が納得したいためなのである。自分の青春の一切を狂気の戦争に駆り立てられた天皇を中心とする日本教の由来を捕まえなければ死んでも死にきれない。これが山本七平を文筆活動に駆り立てた情熱の正体であった。

ついでながら補足すると、山本七平のルーツは和歌山県新宮市近辺にあり、明治初期(明治16年)に日本にキリスト教伝道に来たカンパーランド長老教会の宣教師アレクサンダー・ヘールから洗礼を受けて以来、三代続いたクリスチャンの家系であった。当時では新島襄に匹敵する古さであり、また山本の両親は後に内村鑑三の弟子になっている。しかも山本七平の新宮一族の中には、あの幸徳秋水の大逆事件で死刑になった大石誠之助が含まれている。大石もまた新島襄の同志社で学んだクリスチャンであったが後に社会主義者になって、密かに天皇制の打倒を計画していたとされている。但し、大逆事件には捏造の部分が多いので真相は明らかではない。(以上の資料は高澤秀次著「戦後日本の論点 山本七平の見た日本」に詳しい)

このような山本七平の知られざる系譜をみると、山本七平の執筆活動の中に大石誠之助の無念さのようなものも背負っているように思えてならない。しかし山本七平の執筆活動はあくまでも冷静であり、内心の煮えたぎる情念の類のようなものをみせることは想像もできなかった。それもそのはず。彼が若き日に大石誠之助の兄から直接に聞いた次の言葉を彼は肝に銘じていたのである。

「怒りを抑える者は、城を攻め取る者に勝る」

山本七平和は後に青山学院に進むが、昭和18年の学徒動員で砲兵隊の下級将校としてフィリピンの戦地へ派遣される。その後、捕虜となり、昭和22年まで帰国できなかった。現地でマラリアを患い、復員後もその闘病生活で十年近く苦しんでいる。そのような山本七平が「現人神の創作者」の捜索に執念を燃やしたのは、理由のない事ではなかったということが分かるのである。

1月24日 本項未定です。
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。