3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

「水」の文化と「恨」の文化

故山本七平によると、日本は「空気」の国であると同時に「水」の国でもあるとされている。「日本人とユダヤ人」の第一章では、「安全と自由と水のコスト」というテーマがかかげられていて、ユダヤではそれらはいずれも非常に高価なものと考えられているが、日本では「水」と「安全」のコストがほとんどただであると思われている珍しい国だとされている。確かに「水」はともかく、「安全」のコストが日本ほどただ同然に思われていた国は世界を見渡しても、そうはないだろう。

もちろんその意味は日本が過去からずーっと平和な国であったという意味ではない。日本でも武士階級の間でしばしば内戦が繰り広げられた。ただし、一般の民衆は戦争に駆り出されるという事はほとんどなかった(少なくとも明治時代以降までは)。

日本は大陸から十分に離れた島国であり、しかもそれなりの豊かな資源を持ち、特にふんだんにある水のおかげで植物が繁茂し、農業や漁業、畜産業にはうってつけの環境である。しかも他国が攻めてくるという脅威をほとんど感じることもなく、武士以外の平民は平和に暮らす事ができた。そのような意味では確かに日本では「水」と「安全」がただ同然と考えられてきたという山本七平氏の指摘はあたっている。

それに対して、ユダヤ人にとって「平和」というものは、自然に与えられてそこに「在る」ものではなく、自ら常に戦って勝ち取り守らなければ、その「平和」は維持できなかった。彼らにはそもそも平和な時代というものはほとんど長続きしなかった。ダビデやソロモン王の時代に周囲を圧倒する王国に成長したが、その後はアッシリア、バビロン、ギリシャ、ローマなどの大帝国によって王国は崩壊させられ、その奴隷となって連れていかれたり、また長く傀儡政権の身分に甘んじなければならなかった。

一方、日本では過去太平洋戦争時の本土空襲と沖縄戦以外には歴史上外敵に攻められるという経験がほとんどなかった。幕末にはじめてその脅威を感じることがあったが、薩摩藩や長州藩が小規模の戦争をしただけで終わった。近代の航空兵器や海洋兵器が飛躍的な発展を遂げるまでは、日本という国はまさに自然の海に守られて独立と平和を維持することができたのである。

それに対して中国や朝鮮半島では常に平和は脅かされていた。だからこそ漢民族は周辺の民族を夷敵として警戒し、万里の長城という壮大な防壁を築かなければ、その平和は維持できなかったのである。ただし中華民族は必ずしも侵略的な民族であったわけではなく、彼らは周辺諸国との武力衝突をできるだけ少なくするために、ある種の安全保障秩序を形成した。それこそが中華秩序というものである。中華秩序の中心はもちろん漢民族を中心とする中国人であるが、周囲の国々とは定期的に貢物をおさめさせるという上下関係を築きながらも、決して侵略はせず平和的な秩序を維持してきた。このために朝鮮半島もかつては中国や蒙古の侵略を受けたことが何度もあるが、中華秩序に属することでその平和と独立は保たれてきた。沖縄の琉球王国もその中華秩序の中にあって長く平和が保たれてきた。したがって東洋では中世以降、中東や欧州であったような大戦争は起こっていない。

ところが東洋の中でも日本という国だけは中華秩序に属すこともなく平和をたもつことができた。それは海に囲まれていたので、他国に攻められるという危機意識を持つ必要がなかったからである。逆に日本は近代化に成功すると、俄かに中華秩序を壊しに行った。まず手始めにやったのが琉球を中華秩序から切り離し日本の領土に併合する事であった。当時の琉球の王は日本は野蛮な東夷の国でこれに支配されるよりは中華秩序に残ることを望み中国に救いを求めたが、中国の方は日本と戦争してまで琉球を守ろうとはしなかった。

これに味をしめたせいか、日本は本願だった朝鮮半島に手を出してゆく。当時の朝鮮はあきらかに中華秩序の一部であり、彼らの宗主国は清王朝である。したがってこれを取りに行くためには清国との戦争もやむをえない。これは早くから日本も清国も気づいていた事実である。清国にとっても明治政府軍は恐ろしい敵であった。日本は小さな島国であるということは知っていたが、中華秩序に属さなかったために独自に発展を遂げ、西欧の技術支援を受けて近代化に成功している。だから清国はできるだけ日本とは摩擦を起こさないように考えていた。それでなくとも清国は内政の統治が崩壊しており、欧州列強によって分割統治を許さざるを得ないほど疲弊していた。

この清国の弱体化に目をつけて日本は一挙に朝鮮半島を中華秩序から無理矢理切り離すという強引な行動にでた。日本は朝鮮は独立国であるという大義をうたい清国に宣戦布告をした。その目的はもちろん朝鮮半島を琉球と同じように日本に併合することであった。ただし、日本は戦争に勝利し、その目的を半ば遂げることには成功したが、今度は清国よりもっと大きいロシアと戦わなければ自らの目的は達成できないという事が分かった。この後に続く日露戦争、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと至る道は、すべて清国との戦争からの必然的路程であったということが分かる。

まるでホップステップジャンプという風に、日本軍の足は気が付いたら大陸奥深くにまで着地していた。やがてその侵略欲は際限もなく広がり、東南アジアからインドやオーストラリアを目指し、そして米国本土をも目指そうという世界征服の野心へと限りなく広がってゆく。

日本という国は確かに江戸時代まではこじんまりとした平和の中に閉じこもる小国であった。しかし、本当の侵略という被害経験がないために、逆に加害者の側に立つととめどもなくその野心は広がってゆく。中国や朝鮮では侵略に対する歴史的な免疫力があったが、日本人にはそれもない。だから侵略の加害国となっても侵略しているという意識さえなかったのである。逆に日本はアジアの解放者なのだという大義を掲げた。このような大義はローマ帝国の時代から軍事進出のためにつけられる大義と同じものである。幕末の戊辰戦争の時も賊軍を滅ぼして日本を統一しなければならないというプロパガンダが掲げられたが、それも同じだ。

このようにみると明治以降日本が始めた戦争というのは、中華秩序の外側で純粋培養のように育ったうぶな子供が、突然、邪気を起こして気宇壮大な野心に取りつかれたというふうにみえる。ただし、日本は秀吉の時も似たような野心を抱いて明を攻めようとしたし、もっと古い伝説では日本の国王が朝鮮の三韓を征服したという話もあるので、そのような野心は突如として起こったものではなく、潜在的に日本人の種の中に埋め込まれていたのであろう。したがって日本という国は、外敵の侵略からは安全地帯であったが、逆に周辺国を侵略して自らの領土を広げたいという野望は常にあった。

その点では中国とは大きく異なる。中国はすでに十分な土地を大陸の中心に所有しているので、無暗に領土を広げたいという野望はない。むしろ周辺国から侵略されないための自己防衛に専念する。それが万里の長城を作らせたのであろう。しかし日本は海に囲まれているために万里の長城は必要なかったが、逆に自らが小さな島国にすぎないことに劣等感を持ち続け、いずれは大陸へ進出したいという侵略願望のようなものを潜在的に持ち続けたのではないか?その爆発こそが明治以降の戦争の本質ではないかという気がする。

さて、ここからが本題の「水と恨」の話に移ろう。この二、三日の間に安倍政権が突然、慰安婦問題の解決の為に具体的な交渉を始めたいというニュースが流れている。新聞によると、日韓両政府間での具体的な解決に向けての下交渉が進んでいるようである。この慌ただしい年末の中で、突然ふって湧いたこのニュースに新聞各紙はその成り行きに注目している。

しかし、私はこのニュースをみてまた安倍総理の悪い癖が始まったなと思った。何かと言うと、それは要するに「解決病」ともいうべき病気である。政治家として外交上の成果を出すことは得点として後々評価されるだけに、慰安婦問題の解決を急ぐ理由があるのは分かる。この問題では韓国の朴大統領も「早く解決しなければ」と常に言っている。しかし、安倍総理と朴大統領の「解決」はどう考えても同じではない。朴大統領が求める解決は日本政府がこの問題に誠実に向き合って、慰安婦に対する明確な国家賠償に応じさせることであった。しかし、日本政府は1965年の日韓協約で一切の請求権は解決済みであるというう立場をとっているので、慰安婦に対する国家賠償も法的には認められないという立場であった。

しかしながらここへきて、安倍総理がなんとか外交的成果をだしたいという焦りからか、大幅に妥協した提案がなされる可能性があるような話が漏れ伝わっている。それがどれほど大幅な妥協なのか分からないが、あくまでも国家賠償に応じるという形では無理であるとしても、安倍個人の気持ちをしたためた手紙を慰安婦に送るというような話が伝わっている。まあ、それはそれで成果をだせればよいことだと思うが、問題は安倍総理が考える「解決」が「最終的」かつ「不可逆的」なものであるというような脅迫めいた言葉まででていることである。つまり安倍総理の考える「解決」は最終的な「解決」であって、もはや後戻りもできないほどの「解決」なのだという。現に日本の新聞はこぞってそのような見出しをつけている。

ここで私が気になるのは8月に出された安倍談話である。安倍談話の中で先の戦争に対する謝罪めいた言葉があったが、驚いたのは次の一節である。

あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません

この言葉と同じように、安倍総理のいう「解決」の中には、もう二度と謝罪の必要もない解決を目指したいという願望が含まれているのではなかろうか?だとしたら、これを韓国の人々は受け入れるはずはないと思う。

日本ではいろんな問題がおこったときに「もう水に流そう」という言葉がしばしば使われる。これはいろんな場面で使われるが、特に罪を犯した相手に対して被害者がそういう時、水に流すことで相手の罪を許すという意味があるだけではなく、一切合財、なかったことにするという意味も含まれている。

日本人がそういう言葉を使用するのは、もちろん法的な意味ではなく、さりとて道義的な意味でもなく、むしろ審美的な意味合いが込められている。つまりそのように相手を許す事が人間として「美しい」という意味なのではないかと思う。たとえば日本はアメリカに二発の原爆を落とされた。それでもアメリカ人を恨まない。なぜなら過去を水に流すことがよいをされるからだ。だから東京大空襲の戦犯カーチス・ルメイに対して日本政府は自衛隊創設に貢献したとして勲章まで与えている。日本人はどんなにひどいことをされても相手を恨まない。そういう優れた感性があるのだと多くの人々が無意識にそう信じているかもしれない。だからこそ逆に過去を根に持って恨み続ける人を日本人は軽蔑する。

だが、この分析は正確ではない。日本人がもっとも好きな劇映画というと「忠臣蔵」である。これはまさに主君浅野内匠頭に対する不義を行った吉良上野介に恨みを抱き、最後に復讐を遂げる物語である。この物語がなぜ江戸から平成の世の中にいたるまで多くの日本人に支持されたのか?それはここにも審美的な美学があるからである。復讐という行為は明治に至るまで立派な行為であるとされてきたのが日本の伝統である。したがって日本の伝統の中では恨みをもつことは決して悪い事ではなく、むしろ賞賛すべきこととされた。

ではなぜ日本人は原爆を落としたアメリカ人を恨まないのか?ただこの設問は間違っている。実際には昭和天皇をはじめ多くの日本人及び日本軍人はアメリカに憤った。だから8月15日の玉音放送では「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻に無辜を 殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る」と原爆を激しく非難した言葉もある。しかし、日本は無条件降伏をしたがゆえに、そのような恨みを言い募る権利さえもなくなった。さらに日本はあくまでも戦争の加害者であって原爆が落とされたのは自らが招いた結果であったという認識を大半の日本人は共有している(実は自民党議員等に共有していない人も多くいるが)。

しかし、いずれにしても日本人は「水に流す」ことがよいことだと考えているふしがある。故山本七平によると、日本人は空気の民であると同時に水の民でもあるというのだ。水というものはすべての汚れを洗い流しきれいにする。さらに水の驚くべき力は加工力である。水はあらゆる物体に働きかけてその原型を破壊するだけではなく、別のものに変える力を持っている。たとえば、さまざまな食事が人体の中に取りこまれると、それは一旦胃や腸の中で解体されたあげくに別のDNAで組み立てられ、髪の毛や爪、骨、肉、血など人体の一部に改造されてゆく。それと同じように外から入ってきたものを日本人は一旦それを解体し、自己流の文化に変えて自分自身の中にとりこんでいく。こういう文化は「水」の文化だというのである。だから日本人ほど入浴好きな民族もなく、また寒中禊のように他国では考えられない風習もある(西洋にも洗礼の儀式があるが、これは人生一回きりの儀式である)。

一方、韓国の文化はどうかというとこれは明らかに「恨」の文化である。「恨」すなわち恨みをもって生きることを宿命づけられた民族、それが韓民族だ。もちろんこれは日帝35年の併合によって祖国のすべてを奪われた、その過去に対する「恨」である。日本人はこの心情をどうしても理解できない。それはいじめっ子がいじめられっ子の気持ちがわからないのと同じである。日本人は民族的に差別された経験がなく、ましてや奴隷になった経験がない。韓国の併合35年間(実際は保護国化から40年間)は韓民族がそれまで経験したいかなる仕打ちにもまして屈辱的なものであった。勝手に日本人が銃をもってやってきて、皇室と政府を乗っ取り保護国にしてしまった。そうして気がつくと韓国は日本に併合されたという話になり、至る所に武装した日本軍人と警察が駐在し、学校へ行くと日本の先生による日本語の授業がはじまり、名前も日本式の創氏改名を強制され、宗教ももはや儒教やキリスト教ではなく日本式神棚に奉る神道が推奨され、実際、壮大な神道の神社も建てられた。

これは韓国民にとってユダヤ人が経験したバビロン捕囚と同じである。すべてのユダヤ人にとってバビロン捕囚とそれからの解放こそが民族の原点であるように、すべての韓国人にとって日帝による40年間の奴隷状態こそが彼らの原点になり、その民族の「恨」から生きるエネルギーがわき上がるというのが韓国民の宿命なのである。韓国にとって日本とはそういう国なのだ。

日本の右翼的人士はいう。韓国は日本に併合されるまでは中国の属国だったじゃないかと。それは正確ではない。韓国は中華秩序の一部ではあったが属国ではなく、独立した国として認められ、事実独立した伝統と文化、言語、宗教、そして皇室をもっていた。しかし日本はそれらをすべて力づくで廃止させ日本に同化させようとしたのである。だからこそ韓国民はこの経験を決して許す事も忘れる事もできないのである。

いわゆる従軍慰安婦問題というのは、すべての韓国民にとってその象徴としての屈辱的経験だったのだと捉えられている。

日本は1965年、朴軍事独裁政権の時に日韓基本条約を結んだ。韓国が日帝の支配から解放後20年目のことである。この時に合意されたのが現在もなお問題になっている請求権の放棄という以下の項目である。

両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する(個別請求権の問題解決)。

一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする(相手国家に対する個別請求権の放棄)。


そもそも過去の韓国併合に対して戦後賠償なるものに日本は積極的ではなかった。なぜなら併合は合法的だったというのが日本政府の一貫した解釈であり、それは現在でも変わっていない。日本が明治以降に行った朝鮮半島への軍事進出とその最終結果としての1905年の日韓併合については、当ブログでもみたとおり「侵略」そのものの不法行為である。これは多くの歴史家が一致している見方と思うが、日本政府はあくまでもこれを合法であったとしている。そうしなければ国家賠償という問題にも跳ね返ってくるからであった。

当時の朴大統領は請求権の放棄という項目を入れる条件で日本政府から三億ドル(約1000億円)の国家賠償及び有償無償含めて八億ドル程度の経済協力金を勝ち取ったが、この総額は当時の韓国の国家予算の3倍ほどに相当する額であった。但し、当時の日本は高度経済成長の真っただ中であり、年間の国家予算は八兆円を超えていたので、この出費は微々たるものであった。

韓国が現在の高度経済成長を果たす最初のきっかけになったのが、この資金であったということも事実であろうが、だからといってこれだけの額で日本が韓国を侵略し支配した罪をすべて償ったのだとは到底言えないであろう。その賠償金支払いの代償に今後一切の請求権の放棄を認めさせたというのは非人道的という一語に尽きる。

但し、1990年を過ぎて従軍慰安婦問題に新たな焦点があてられた時に、この日韓協約が大きな障害になった。それまで慰安婦問題については韓国政府も日本政府もこれを請求権の問題であるとは認識していなかった。しかしその被害者が名乗り出ることによって請求権の問題が新たに浮上したのである。日本政府はあくまでも1965年の協約によって請求権は解決済みであるという解釈にこだわったが、韓国政府はこの問題は1965年に確認されたどの項目にも属さない新たな問題であるとして、日本政府の国家賠償が必要であるという立場にこだわった。その後、民間のアジア女性基金が作られてそれなりの援助をしてきたが、多くの元慰安婦及び韓国政府は日本政府の責任で拠出する国家賠償をあくまでも求めてきた。当然ながら現在の朴大統領もその立場は変わっていない。

しかしここへきて、安倍総理が俄かに動き出したのは韓国の裁判所で1965年の日韓協約自体が憲法違反であるという韓国国内での訴訟に対して、訴えを却下した判決がでるという韓国法曹界の変化があったためである。すなわちこの裁判で韓国政府が1965年の協約を黙認したという解釈をしたのであろう。

しかしながら、安倍総理が短兵急にやろうとしていることは浅知恵であるとしか思えない。安倍総理はこの機会をとらえて一挙にこの問題の「解決」を目指したいと考えているのであろう。その成果によって自分の名前が日韓外交史に刻まれることを夢見ているのではないか。これは他の外交成果がまったくあがっていない状況の中で起こるべきして起こった新たな失政として後の世に位置づけられるのではないかと心配する。特に拉致問題が完全に暗礁に乗り上げ、蓮池透氏が「拉致被害者たち面を見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」(講談社)という本を出版したことは安倍総理にとって脳天をぶんなぐられたようにショックだったに違いない。
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安倍総理の頭の中では拉致問題は当分無理としても、なんとかして慰安婦問題だけでも解決したいと考えているのは分かる。しかし、その方法は唯一日本政府が韓国の主張を完全に受け入れることでしかありえない。すなわちもう20年以上前から言われているように正式な国家賠償を無条件で認める事だ。その姿勢の転換こそが彼らの「恨」の想いに対して報いる唯一の方法なのである。その誠実さがなければこの問題は永遠に水に流すことなどできるはずもないのだ。


12月27日記 本項未定です
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