3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

山本七平が預言した「日本会議」という謎の組織

人間にとって「宗教とは何か」という定義づけを考えるとすると、それは平凡な言い方だが「こころの拠りどころ」ということが言えるのではないだろうか。すなわち人間はどうしても孤独の中では生きてゆけないので、何かに頼らざるを得ないのである。漢字の「人」という文字をよくみると、二人の人が互いにもたれかかっているような意味に読める。つまり人間は必ず何かにもたれかからなければ生きてゆけない存在だということを意味しているのではないだろうか。

小さい子供の時は親にもたれかかって人は生きている。しかしある年齢に達すると自立して生きてゆかなければならないが、その中で人はさまざまなグループや組織に出会い、新たな人間関係のもたれあいの中で生きる。しかも、ある程度の年齢に達した人間は将来に対してさまざまな不安を覚えるようになる。中でも病気と老いと死に対する不安は何人といえどもこれを取り除くことはできない。したがって人はそれらの問題を解決してくれる宗教的教えに惹かれるようになる。これは当然のことであり、人類の歴史と共に宗教が栄えてきたのはそのような人間の根源的不安があるからだろう。

多くの民族は生まれながらに宗教と共に生きており、クリスチャンはクリスチャンとして、イスラム教徒はイスラム教徒として、仏教徒は仏教徒として、生まれながらに自分の選択の余地もなく、なんらかの宗教に属している。

ところが日本という国はそういう意味では珍しい国で、生まれた時から「○×教」という特定の宗教に属している人はむしろ珍しい。そういえば山本七平は大正10年生まれであるが、彼は生まれた時にすぐクリスチャンとしての洗礼を受け、産湯につかった場所も教会の中であったというので、非常にめずらしい例であるが、これは日本だから珍しいだけのことであって、ユダヤ人やキリスト教徒やイスラム教徒の世界ではそれがあたりまえなのである。

つまりそれらの国々でははじめから宗教が生活と溶け合って存在しており、人の生き死にの問題は生まれた時からその解決策は与えられている。しかしながらガリレオやデカルトによってもたらされた近代合理主義思想の発展と共に神の存在や来世の存在は否定的にみるのが普通になってきた。特にダーヴィニズムによって、人間はサルの子孫だという見方が一般的になってしまった為にバイブルの教えが揺らぎ、人間は実存的な不安を抱える存在になり、その結果として共産主義という究極の無神論思想もうまれてきた。

しかし、そうでありながらも人間は何かにもたれなければ生きられない存在であることに変わりなく、人はたとえ○×教という名はなくとも何かにもたれながら生きざるをえないのである。私は無神論者だと仮に言っている人がいるとしても、実際のところはただ無神論を信じているということであって無神論という思想に「こころの拠りどころ」を見出しているだけかもしれないのである。あるいは無神論かどうかは分からないけど、世間でいう「常識」」という価値観にもたれていればそれでいいじゃないかと考える人も多いだろう。

日本人は外国人からみると仏教徒であるとみられることが多く、事実、どの家にも仏壇があり位牌を祀っていたりするので、日本人=仏教徒というのはそれなりに説得力がある。しかし同時に日本は儒教国家であるともいわれているし、あるいは神道こそ日本人のこころの宗教だと主張する人も多いだろう。しかし日本人にあなたは仏教徒ですかと尋ねると、創価学会員でも立正佼成会でもない普通の人は返答に困るだろう。かといって無神論ですかというと、「めっそうもない」と言う人が多いのではないだろうか?

同じアジアでもこの問いをすると中国や韓国ではかなり異なってくるだろう。中国と韓国は伝統的に儒教社会である。一部には仏教も存在するが、儒教が国家宗教として長い間定着したために彼らの生き方は多分に儒教的であり、少なくとも日本のような多神教的社会ではない。ただし、韓国は日帝支配によってその儒教的伝統の多くを失い、逆にキリスト教が繁栄するようになった。現在の韓国のキリスト教人口は実に国民の三分の一であり、日本のそれ(百分の一)とは比べ物にならない。

また中国ではこの70年間共産党の無神論教育が徹底してはいるが、彼らの多くはそれを信じているわけではなく、むしろ儒教やキリスト教、あるいはイスラム教の方がはるかに勢力は大きい。もちろん大部分のキリスト教は政府に公認されているわけではないが、その人口は実に一億人に迫るという、いまや世界でも有数のキリスト教国になろうとさえしている。一方、インドネシアは国民の圧倒的多数がイスラム教で、インドはご存じのとおりヒンズー教であるが、その間に挟まれたタイやミャンマーは日本とは全然異なった仏教が定着している。

こうみると日本を代表する宗教はアジアの中でも珍しく、いわゆる一神教徒ではなく、さりとて仏教徒ともいえない、少なくとも宗教に特別に熱心な国であるとはいえないことだけは確かなようであるが、山本七平が目を付けたのはまさにこのような地政学的にも特殊な日本民族が身につけた不思議な宗教性である。

以前にも詳しく述べたとおり、山本七平によると日本人は実は「日本教」という名の宗教信者なのである。だがこれはほとんど誰にも認識されていない。逆に言うと、それが認識されないほど、この宗教は日本人の間に無意識に定着しているというのだ。山本七平(又はイザヤ・ベンダサン)は「日本人とユダヤ人」の中で次のように書いている。

すでにふれたが、あらゆる宗教にはさまざまな教派があるように、ユダヤ教にもさまざまな分派があった。サドカイ、パリサイ、エッセネ、ガリラヤ、ナザレ、サマリア等の諸派があり、大体主流とされるパリサイ派の中にも洗礼パリサイ派という別派がまたあった。日本教も同じでさまざまな分派がある。私の知っている範囲でも、キリスト派、創価学会派、マルクス派、進歩的文化派、PHP派等々から、ちょうど二千年前のユダヤ教のゼロテース(右翼国粋派)から、もっと極端なシカリーまでいる。日本教の進歩的文化派の浅沼氏を刺したのはまさに日本教シカリー派の一員であった。シカとは短剣のことで、短剣をふるって、意見を異にする左派的分派を暗殺するので、この名があったわけである。だがこれらはいずれも分派であって、ユダヤ教徒であれ日本教徒であれ、その大部分を包含する本流は、特にこれといった自覚もなく、伝統の宗教的信仰と宗教的戒律の中にごく普通に生きてきたのである。ユダヤ人が庶民一人ひとりにいたるまで、はっきりユダヤ教徒という自覚をもつに至ったのは祖国喪失の後である。事実、旧約聖書が最終的に編纂されたのは紀元100年のヤハヴェの会議においてであり、タルムドの編纂はそれ以降である。
 日本人はそういう不幸にあっていないから、日本教徒などという自覚は全くもっていないし、日本教という宗教が存在するとも思っていない。その必要がないからである。しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他教徒に改宗さすことが可能だなどと考えている人がいたら、まさに正気の沙汰ではない。


私はこの箇所を何度か読み返してみたが、これは要するにベンダサン一流の毒舌のようなものであり、たぶんに皮肉が込められているのであろうかと思っていた。しかしながら最近の世相をみていると、これはやはり皮肉ではすまされないなと思うようになった。

特に最近の安倍政治をみていると、このベンダサンの45年前の皮肉めいた話が実は皮肉どころではなかったと感じざるを得ないのである。現在の安倍政権の閣僚をみると、ほとんどが日本会議というわけのわからない組織に属していることがwikipedea等を調べればすぐに分かる。この中にはカトリックの麻生太郎氏やプロテスタントの石破茂氏もいる。クリスチャンの政治家というと民主党の中にも何人かいるが、自民党の中にも結構多い。ちなみに日本会議に属する政治家は民主党の中にも何人かいる。

麻生氏はともかくも石破氏がなぜ日本会議に属しているのか不思議でならない。彼は自民党の中ではどちらかというとリベラル派であり、マスコミの受けも非常に良い人物だ。しかも彼は靖国にはクリスチャンだからという理由で参拝しない。先の戦争についても侵略した事実や加害国であるという事実をきちんと認めて反省しなければならないという考え方をとっている。一方、カトリックの麻生氏の場合は靖国参拝をしている方なので石破氏とは同じクリスチャンでもやや趣が違うようにみえるが、いずれにせよ彼らはクリスチャンでありながら日本会議に属している事実に変わりない。

では一体「日本会議」とはなんぞやと調べてみると、これはまさに日本教という宗教の総本山のような組織になっているので驚きである。といっても、これは通常の宗教施設のように伽藍があったり本堂があったりするわけではない。これはあくまでも政治的あるいは思想的な組織であって、いわば日本版フリーメイソンのような組織といえば分かりやすいのかもしれない。フリーメイソンというと、鳩山元総理もクリスチャンであると同時にフリーメイソンでもあったということが思い出されるが、鳩山氏自身は日本会議には属していないらしい。

フリーメイソンと同様、日本会議の設立趣旨がよく分からないが、この組織はフリーメイソンのように何世紀もの歴史のある伝統的組織ではなく、ごく最近(1997年)になって設立されたばかりのまだ赤子のような組織である。しかし、にもかかわらずこの組織に入らなければ日本人にあらずというほど、日本の保守派を自認する政治家にとっては一種の踏み絵のような組織になっている。おそらく自民党の政治家の中では出世にも大きく影響するのであろうと思われる。

いまやこの日本会議は世界のジャーナリストにもよく知られた組織になっている。しかも、その評判というと、すこぶる悪い。日本の最極右組織というのが世界のジャーナリストの評価である。ルモンド紙には次のように書かれた。

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10年前に祖父が亡くなった安倍晋三は1997年に国会議員になる。お友だちと一緒に、直ちに「日本会議」に、次いで日本会議を支持する議員団体に加入する。「当時彼らは、保守の自民党でも周辺的だった」と、中野晃一は言う。「20年近く経った今日、彼らは自民党と内閣を席巻している。そして日本会議は、国会の40%に相当する、289人の議員を集めている…」彼らのスローガンとは?戦後の日本、「アメリカに押し付けられた」制度と生活様式から決別することだ。彼らは、「勝者の正義」、戦争犯罪人を裁いた東京裁判の正当性を認めない。彼らは歴史を自らの味付け、敗者の歴史を書き直したがっている。日本帝国はアジアの民衆を「解放した」と声高らかに断言したい。1938年の日本軍による南京大虐殺は作り事であり、最悪でも、民間人に変装した数百人の中国兵が死亡しただけだ(日本人も含めてまともな歴史家は少なくとも数万人の民間人が拷問された後に殺戮されたと考えているのに)。日本会議の歴史修正主義者らは、「慰安婦」は勇敢な日本兵を慰めて月末に手取りを増やして喜ぶ、単なる自発的な売春婦だったと断言する(この主題に関して帝国軍に反対する証言が圧倒的であるにもかかわらず)。

実際、このルモンド紙の記事に誇張はない。それどころか日本会議の主張は戦前の価値観をそのまま礼賛するものだといってもよいであろう。先の戦争は自衛のための聖戦であり、したがってその戦争でなくなった英霊を祀る靖国に国会議員が参拝するのは当然の勤めだとされている。奇妙なのは彼らは村山談話や河野談話を激しく批判しながら、昨年八月に出された安倍談話にはほぼ満点の評価を与えている。それまで慰安婦問題は捏造だと言いながら、昨年暮れの日韓合意については韓国側が折れたのだとして評価をしている。とにかく矛盾がありすぎるのだが、不思議なことに主張が違いすぎる国会議員が数多く所属しているという事実である。石破氏もそうだが民主党の前原議員もそうだ。面白いのは45年前にベンダサンがいっていたPHP派の流れを汲む旧リベラル保守派の松下政経塾出身議員の多くがこれに参加していることである。但し、同じ松下政経塾出身の民主党原口議員は最近になって日本会議に嫌気がさしてか脱退したと公言している。

いずれにせよ日本会議という組織はまさにベンダサンのいう日本教の存在が表面化した組織だといえるのではないか?その存在に誰も気づかないほどすべての日本人に浸透している日本教が戦後になって初めてその姿を現し政治的な一大勢力にまでなったというべきなのかもしれない。

前回にも述べたように山本七平は戦後以来ずっと現人神の創造者を探していた。これはベンダサン(又は山本七平)のデビュー作「日本人とユダヤ人」の中に記された日本教の存在を明らかにする試みをみても分かる。この「日本人とユダヤ人」の次に記された書が「日本教について」(文藝春秋)というタイトルの書であったという事実をみても、このテーマに山本七平がこだわった理由がうなずける(この書については別のページで紹介しております)。

では日本教とはどういう宗教なのか?ここでもう一度、先ほどのベンダサン(又は山本七平)の皮肉たっぷりな話の続きをみてみよう。

この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮き彫りにしてくれるのが、「日本人キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まずこの両者に焦点をあててみよう。宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもしなければ出来ない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである。だから私は宣教師に言う。日本に宣教しようと思うなら、日本人の「ヨハネ福音書」と「ロマ書」はお読みなさい。そしてそれがすんだら日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて「創世記」と「第二イザヤ」ぐらいは読まねばいけません、と。彼らは驚いていう。そんな本がありますか、と。ありますかには恐れ入る。そしてさらに日本教を研究したければ日本教の殉教者を研究しなさい、というと目を丸くする。殉教者がいますか?あたりまえです。殉教者のいない宗教はありません。西郷隆盛という人、あの人は日本教の聖者であり殉教者ですというと、もう全くわけがわからないという自信喪失の顔付きになってくる。そこで私は言う。いや何のご心配もいりませんよ。何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない。人間味あふれる立派な人だ云々・・・」。何十年かたったら思い出してください。この「人間味あふれる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲がキリスト教徒になったのではないということを。
私は冗談をいっているのではない。日本教の中心にあるのは、前章でも述べたように神概念ではなく「人間」という概念なのだ。したがって日本教の創世記の現代的表白に次のように書かれていても不思議ではない。「人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。それは向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人がつくった世界が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。・・・」


ちなみにここで漱石の「草枕」を日本版創世記と見たてているわけだが、山本七平の別の書では漱石の「こころ」を百ページ近くかけて解剖した書もあり、これはまさに日本版「ヨハネ福音書」だというのが山本七平の見方である(これについてはまたいずれ触れる機会があれば触れることにしたいと思う)。

山本七平(又はベンダサン)の言葉は確かに痛烈な皮肉を含んだ毒気があって、読む者をあっとおもわせるような話術で包み込む。その一例がここに紹介した部分であるが、これも只の皮肉で終わらないところに含蓄の深さがある。

実際にそのような宣教師が果たしていたのだろうかと疑問に思いながら、この部分を読んでいたのだがハタと思い当たるふしがあった。それはここ最近、日本教の伝道師になった感さえあるケント・ギルバート氏である。彼は元々モルモン教の宣教師として来日したという事はよく知られているが、いつのまにか彼自身が日本教に染まってしまい、いまや日本教の伝道師といっても差支えないだろう。但し、ギルバート氏が信じる日本教はまさに日本会議と同じく国粋主義的な日本教であり、それは一般の日本人が漠然と信じているものとは色合いがちがうかもしれないが、いずれにしてもベンダサン(又は山本七平)が45年前に記したことは単なる皮肉ではなく、それなりに根拠がある話だということになる。

戦前のキリスト教徒というと、前にも紹介した山本七平の親族でもあった大石誠之助や堺利彦等は社会主義者であり日露戦争に反対し大逆事件として逮捕されたが、同じクリスチャンでもたとえば新島襄の弟子だった徳富蘇峰のような人物は日清戦争後に好戦主義者となり、太平洋戦争のときは東条英機の開戦の詔まで添削してやったというほどのいれこみようであった。

クリスチャンだけではない。戦前は共産党員もその多くが転向して、後に右翼の大物になった人物が何人もいる。戦後は右翼から革新派になった人物は数多いが、その逆もまた数多い。60年安保闘争で指導的役割を演じていた西部邁や清水幾太郎なども転向して後に保守派の大御所になった。比較的最近では50歳まで日本共産党員だった藤岡信勝が転向して自虐史観という新語を作り出し、先の戦争を肯定的に捉えるという、まさに180度の転向を表明し、それまでは南京で40万人虐殺説を信じていた人物が転向後は虐殺ゼロだとまでいう極端な変貌ぶりである。

このような戦前から戦後の日本をみてきた山本七平が日本には日本教という宗教しかなく、キリスト者も共産主義者も創価学会もPHP派もそれぞれ日本教の一つの派にすぎないのだとみたのも、只の皮肉ではすまされないように思うのである。

本項未定です。2月14日

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