3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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明治維新という過ち-歴史の新たな見直しが始まる

すべての戦争は自衛戦争だという論があるが、少なくとも日本が明治維新後に行った戦争にはすべて自衛戦争という大義をかかげられていた。だが、その実態はいうまでもなく自衛という名で行われた侵略戦争であった。もちろん、かつて秀吉が明を征服するという意図をもって始められた朝鮮侵略には自衛戦争などと言う大義さえもみあたらなかったが、これは法治主義という人類の野蛮を抑えるための手段を知らなかった時代の話である。

日本が明治維新後はじめた戦争はすべてその実態は侵略戦争であるが、法治主義の世の中では戦争をはじめるにあたってもなんらかの法的正当性がなければならない。したがって明治以降の戦争はすべて法的には自衛戦争であるという外見上の手続きがとられている。自らの自作自演で傍観者の目をごまかして自国の3倍もの領土をあっという間に占領した満州事変にしても敵が列車を爆破したという嘘をでっちあげたのであった。このような卑劣なやり方は満州事変に限ったことではなく、日清戦争以来日本のお家芸といってもよかった。その具体例はまた次の機会に述べるとして、今日は近代の法治主義以前の時代に遡って少し考えてみたい。

法治主義という概念は古くはギリシャやローマで認められていたし、それよりはるかに古い歴史をもつユダヤでは神から直接付与されたとする十戒から発展して多くの律法が定められていた。しかし、侵略戦争を行ってはならないという法律はどこの国にもなかったし、国際法という概念も存在しなかった。だから他国を侵略するという蛮行はごく最近になるまで世界中でおこなわれていた。イスラム教国が急速に版図を広げた中世には布教を目的として侵略が行われたし、近世になるとキリスト教国も布教と植民地獲得を目的に新大陸とアジアに新しい版図を求めてでていった。

まるで地球を分割し棲み分けでもするかのように彼らは植民地獲得に狂奔し、その争いの過程でスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、アメリカ、ロシア、などの新旧列強の間で局地戦も行われた。この時代にはまだ国際法もなかったので強い者が勝ち残るという時代である。

幕末にペリーの黒船が到来したのはまさにそのような植民地獲得競争の終盤戦の時代である。東南アジアはすでに大部分分割統治されており、中国も分割されようとしていた。ただし、日本と朝鮮半島は鎖国をしていたのと列強からすると地政学的にも遠距離にあったためにいまだ手つかずの状況に置かれていた。

当時、雄藩の幕末志士たちは攘夷を叫んでいたが、これは決して見通しがあったわけではない。一方、幕府は国力の差が歴然としている以上、開国のほかにはないと考えていた。明治維新という雄藩の下級武士による革命政権が立てられ、幕藩体制が打ち砕かれると、明治政府は幕府側が想定していたのとほぼ同じ開国を方針とせざるをえない状況であることを悟った。

ここで彼らが目指したのは西洋列強を追い出すことではなく日本自身が列強に肩を並べようという構想である。なぜそれが可能となったのかは諸説あるが、一つは日本という社会がアジアの中では飛びぬけて武力に秀でていたからである。日本は万世一系の天皇制国家だといわれるが、その実態は武家が支配する武人国家であった。源頼朝以来、武士が権力を握り強い者が弱い者を征するという武力至上主義が定着していたのである。

山本七平もいうように、日本という社会は時として強烈な下剋上社会になる。それが幕末になって一挙に噴き出したのである。雄藩の下級武士たちが今こそチャンスだと思い、天下国家を転覆させようと試みた。それこそ維新という名の武力革命の真相である。もちろん彼らにも憂国の情はあったし、日本を列強から守らなければならないという構想もあっただろうが、その本質は下剋上の内戦であった。面白いのは西国武士と東国武士の間で争われた戊辰戦争はまさにその270年ほど前に行われた天下分け目の戦い、すなわち関ヶ原の報復戦であったとさえ思えるのである。さらにさかのぼればそれは南北朝をめぐる東西の合戦や源平合戦が影を落とす、日本史の中で時をこえて争われた西国と東国との度重なる内戦の記憶が武士たちを無意識にかりたててきたともいえる。

戊辰戦争の官軍派(すなわち西軍)の中心はかつての関ヶ原で豊臣側についた島津と毛利の武士であった。一方、幕府側を支えようとしたのは会津や関東・東北の武士たちである。しかしこの内戦の裏側ではイギリスやフランス、アメリカなどの列強が近代兵器を提供して、終結後の覇権争いを同時に演じていた。結局、勝利したのは薩英戦争や馬関戦争などの経験で近代兵器のすさまじさを知り尽くし、それらの兵器を先に手に入れた薩摩や長州が内戦を征するという結果になったのは、自然の勢いであったといえるだろう。

日本が列強の植民地にならずにすんだのは列強もおそれ慄くほど日本の武人たちの強靭さを知っていたからであろう。と同時に、日本人が考えるほど列強は強欲でもなかったということである。彼らの考えはささやかでも貿易上の独占権益を得たいというものであり、その点では資源の少ない日本や朝鮮半島は中国などに比べると元々魅力はなかった。だから朝鮮半島もひ弱い武力でも植民地になることは免れている。

明治になって日本が変身しようとしたのは物質文明で西洋に後れを取っていることの焦りからであった。その点は朝鮮とは全然異なっている。朝鮮人は李朝の儒教体制をあくまでも守ろうとし物質文明の遅れにはまったく気にも留めなかった。彼らにとって重要なのは儒教文化であって近代の物質文明ではなかった。ところが日本人にはそのような確固とした宗教心がなく、物質的な関心の方がより強かったのである。

ただし、日本人は西洋に互するためにはキリスト教に匹敵するような国家的宗教も必要であると悟り古代から伝わる神道を国教化するということを考えるようになった。これが国家神道のはじまりであり、廃仏毀釈という強引な手段で仏教施設を破壊し神道の国教化がすすめられた。これはタリバンやイスラム国が偶像崇拝の宗教的シンボルを破壊しているのと似ている。なぜそんなことをしたのかというと、仏教は元々インド伝来の宗教であり、日本固有の宗教ではないという理由からである。

最近非常に面白い本を読んだので紹介したい。「明治維新という過ち」(原田伊織著 毎日ワンズ)という本である。この本だけではなく、最近は同様の視点で描かれた明治維新の見直し史観ともいえるようなものが世に出ている。それによると、われわれの戦前から戦後を通じた価値観が明治以降に人為的に作られた価値に由来しており、それは端的にいうと戊辰戦争の結果勝利した長州藩を中心とした偽官軍政治を積極的に肯定するために作られたプロパガンタに由来するものだということである。
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たとえば戦後になってしばらくの間、五百円紙幣が使われていたのをご記憶の方もいると思うが、この肖像画は明治維新の立役者の一人である岩倉具視であった。この岩倉具視という人物は下級公家であったが当時の幕府に強い敵愾心を持ち、薩長の武力に信頼して政治的クーデターを起こそうと企てた中心人物である。そのために彼は何をしたかというと当時の討幕運動の最大の障害であった孝明天皇を毒殺し、その代わりに弱冠14歳の明治天皇を押し立てて王政復古の号令をださせ、さらに戊辰戦争がはじまると錦の御旗を偽造して薩長軍をまんまと官軍にしてしまったというのである。
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もちろん孝明天皇の毒殺は証明されているわけではないが、少なくとも近年まではそのような噂がありながらも孝明天皇研究は政治的タブーになっていた。これは仮にその真実が暴かれると明治維新の正当性が崩れ去ってしまうからである。

ちなみに幕末から明治にかけて活躍した外交官アーネスト・サトウによると、次のように書かれている。
「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」(岩波文庫「一外交官のみた明治維新」より)

この毒殺説の容疑者は岩倉具視と大久保利通であるというのが定説である。そのような噂は幕末当時から事実存在していたが、長州閥が政治の実権を握って以降は政治的タブーとなった。もちろんそれは当然のことであろうが、驚くのは戦後の世の中になっても五百円札の肖像画になるほど、そのタブーは根強く残っていたという事である。思えば戦後の政治家や官僚たちの多くが戦前の藩閥政治の生き残りか又はその子孫たちなので、これまた当然と言えば当然なのかもしれないが、歴史の真相がいつまでも闇に葬られたままであるというのは、余りにも異常である。

実際、長州藩を中心とした藩閥政治は昭和の戦争にまで影を落としているし、戦後も岸信介や佐藤総理、そして現在の安倍総理も含めて長州閥の影響が依然として消えていない。というのも考えてみれば明治維新以降まだ150年にもならないのであるから、それよりもはるかに長い江戸の影響圏内にあった時代に比べると、現在まで長州藩閥政治の時代が続いてきたとみても必ずしも不思議ではない。

明治維新というのは尊王攘夷に立ち上がった幕末の志士たちが天皇ご親政のために始めた運動であったと、われわれは教えられてきた。しかしもし彼らがその天皇を毒殺していたのだとすると評価は180度逆転せざるをえない。彼らは天皇ご親政といいながら、実際は天皇の地位を利用して討幕を果たそうとしただけであったといわねばならない。しかも明治以降の政治にしても、天皇のご親政というのは只のお題目にすぎず、その実態は天皇を利用した長州閥による独裁的軍事政権にすぎなかった。

長州政治は富国強兵に力を入れてきた結果、最終的にはアジア全体を巻き込む世界戦争にまで発展した。靖国神社を創建したのも長州藩を中心とした官軍の犠牲者を慰霊するためであった。西郷の反乱軍も含め賊軍とされた戦死者は靖国神社に祀られていない。そのような官軍の慰霊施設に現代の政治家がこぞって参拝するというのも時代の連続性を物語っている。

歴史に「もし…」はありえないが、もし戊辰戦争が逆の結果になっていれば、明治維新という事件は起こらず、それ以降の日本の政治はまったく異なったものになっていただろうことは間違いない。「明治維新という過ち」の著者原田氏によると、幕府の政権を続行していたとすると、日本はより穏健な政治を続けていたであろうと想定されている。少なくとも明治政府のような好戦国家ではなく、むしろスイスとかバルト三国のような国家になっていたかもしれないと述べられている。

当時の幕府を支えた勝海舟の考え方などをみると、確かにそうともいえるかもしれない。勝海舟は列強の植民地獲得競争に対して、日本は、清国、朝鮮と連携して対抗し、そのための海軍力を整備しなければならないと考えていた。彼の中ではアジアの他国を征服するなどとは微塵も考えていなかった。日清戦争が起こった時も戦争に反対していたのが勝海舟である。

もし勝海舟が明治政府のリーダーになっていれば、日清戦争も日露戦争も起こっていなかったはずであり、もちろん韓国併合などという日本史に汚点を残す暴挙は想像もできないことである。あるいは勝海舟の考えに近い西郷隆盛がリーダーであったとしても、征韓論の結実としての韓国併合は想像もできぬことであろう。彼は征韓論争で下野したあと、2、3年後に江華島事件という朝鮮に対する侵略行為を行った政府に激しく憤っている。そんな西郷が朝鮮への侵略に他ならない日清戦争を行うとも考えられないのである。

一方、明治新政府を構成していた人物はその多くが長州のテロリストであった。彼らは今で言えばイスラム国のように過激なテロで政権を奪取しようともくろんでいた過激派集団であった。その長州藩の過激思想を説いていた人物こそ吉田松陰に他ならない。

吉田松陰は次のように言い残している。

「神宮皇后の三韓を征し、時宗(北条時宗)の蒙古を殲し、秀吉の挑戦を伐つ如き、豪傑というべし」「朝鮮を攻めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし」(中塚明著「日本と韓国・朝鮮の歴史」より)

松陰は維新の前に処刑されたが、まさに松陰が維新の前に思い描いた海外侵略の構想を実行に移したのが松陰の遺志を受け継いだ長州の政治家だったのだ。征韓論というと教科書では西郷隆盛こそがその主唱者であるようにされているが、これも長い間の偽官軍史観による作為があったとみるべきではないか。征韓論の最初の主唱者は吉田松陰であり、そしてそれを実行に移したのは松陰と同じ長州の仲間たちである。

明治維新の立役者の一人で元長州藩の木戸孝允が明治元年12月14日岩倉具視にあてたつぎのような記録が残されている。「すみやかに国の方針をしっかり定め、使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問い、彼もし不服の時は罪をいいたて、その国土を攻撃し、大いに「神州日本」の威勢を伸ばすことを」(木戸孝允日記)と記されている。

歴史の教科書ではあたかも木戸孝允は征韓論者の西郷隆盛らと対立していたという解説がなされているが、実際にはこの木戸孝允をはじめ明治政府発足とほぼ同時に征韓論が政治的日程にのぼっていたことは明らかである。ただし、武力によって朝鮮を攻撃すべきであるかどうかについては、当然政府内でも議論は分かれていた。

原田氏の本の最大の勘所は、司馬史観批判である。今NHKで放映されている「花燃ゆ」もそうだが、ここのところ隔年のようにNHK大河ドラマの定番となっているのが司馬史観に基づく幕末から明治を題材にした番組である。すなわち幕末から明治に起こった様々な出来事を異なった角度からドラマ化したものであり、その一貫したテーマはいずれにしろ明治維新を国民的物語として語り継ごうという司馬史観の精神である。その司馬史観の欠陥を原田氏は見事に指摘している。」

実は私はNHKの「知の巨人たち」というタイトルのシリーズものの特集番組の中で司馬遼太郎と長年の交流があった上田正昭京大教授との間で晩年に司馬史観についての長い時間をかけた論争があり、その論争で司馬遼太郎は上田教授に徹底的に説得された結果、司馬史観そのものの誤りについて自ら認めたという迫真の経緯が紹介されたのを記憶している。司馬史観では明治時代が美化されているが、実際は侵略された側の韓国の人々の側に立つととんでもなくひどいことをやった時代であったということを司馬遼太郎自身も認めざるを得なくなったのである。韓国の人々にとっては「千年たってもその恨みは消えないだろう」とまで司馬は言っている(ちなみに、この言葉の発信者が朴槿恵大統領ではない事は確かだ)。

日本が始めた侵略戦争というのは、決して満州事変がはじめてではない。その前に日露戦争があり日清戦争があった。いずれの戦争も朝鮮半島の支配権をめぐる戦争であり、その犠牲者の多くは事実朝鮮人であった。しかも彼らは国土を奪われ主権を奪われ伝統宗教も文化も奪われ言語さえも奪われていったのである。このような無茶なことを明治の日本がやっていたということを、われわれ自身が詳しく知る必要があるのではないだろうか。

補足:「千年の恨み」という話に関連する司馬遼太郎自身の文章を見つけましたので、ここに記しておきます。
われわれはいまだに朝鮮半島の友人たちと話をしていて、常に引け目を感じますね。これは堂々たる数千年の文化をもった、そして数千年も独立した国をですね、平然と併合してしまった。併合という形で、相手の国家を奪ってしまった。こういう愚劣なことが日露戦争の後で起こるわけであります。むろん朝鮮半島を手に入れることによって、ロシアの南下をふせぐという防衛的な意味はありました。しかし、日露戦争で勝った以上、もういったんロシアは引っ込んだのですから、それ以上の防衛は過剰意識だと思うのです。おそらく朝鮮半島のひとびとは、あと何千年続いてもこのことは忘れないでしょう。「昭和という国家」NHKBOOKS 1999年3月


9月8日 本項未定
つづく

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