3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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渡邉恒雄氏の「わが体験的靖国神社論」

今月発売の文藝春秋9月号に読売新聞主筆渡邉恒雄氏の「安倍首相に伝えたい『わが体験的靖国論』」というタイトルの論文が掲載されている。渡邉氏というとまるで保守派の権化のように信じている人が多いかもしれないが、この論文を読むと彼がまともな言論人の一人であるということがよくわかる。以前、当ブログでも書いたことと重複する面もあるが、ここで渡邉氏の靖国論を要約してみたい。

まず渡邉氏が明らかにしているのは、満州事変から太平洋戦争までの戦争を昭和戦争であると規定し、この戦争がそれ以前に存在していたパリ不戦条約違反の明白な侵略戦争であったという事実である。パリ不戦条約というのは第一次大戦の反省から1928年に63ヶ国の参加を得て成立したのものであり、その第一条には次のように書かれている。

「締結国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各国の人民の名において厳粛に宣言す」と明記されていた。

一読すれば明らかなように、これは戦後の日本国憲法第九条の条文とほとんど同じであるが、実は日本国憲法の戦争放棄の条文はパリ不戦条約の宣言文をそのまま踏襲したものなのである。ちなみにこの条約には当時の日本も加盟していた。

渡邉氏によると、満州事変以後の日本の戦争はこの条約違反であったというのであるが、よく考えると、これは渡邉氏がいうよりもはるかに重大な意味があったといわねばならない。というのは第一次大戦後の戦禍に対する深い反省の中でこの宣言文が生まれたということであり、そして当時の世界では列強といわれる国々も 新たな戦争をさけるための努力を重ねていたということである。その世界中の平和志向の努力を打ち砕いたのは、ヒトラーでもムソリーニでもなく日本の軍閥であった。これは1937年に日本軍が南京へ入城したとき、南京安全区の代表をしていたナチ党員ジョン・ラーベがヒトラーを平和主義者だと信じていたことからもあきらかだ。また日本はこの頃から重慶などの都市を空爆するようになった。これは後にヒトラーのロンドン空襲にも影響をあたえている。つまりこれの意味することは、日本こそが第二次世界大戦の導火線となる戦争をはじめた張本人であったということである。そしてその世界大戦の導火線となったのが満州事変に他ならない。

今日、ある種の人々が日本の戦争を自衛戦争であり正義の戦争でもあったという極論を展開しているが、これはパリ不戦条約に照らしてみても成り立たない話であることがわかる。日本はこの不戦条約に加盟していながら、1931年に満州事変を起こし、明白にパリ不戦条約を踏みにじったのである。この国際条約違反の行動によって、真相を解明すべくリットン調査団が派遣され、日本の行動は世界中から批判され、あげくに国際連盟脱退というひとりよがりの行動にでるしかなくなった。

ところが今日でも渡部昇一氏や中西輝政氏(お二人とも山本七平賞の選考委員ですが)ら「大東亜戦争=自衛戦争」論者は、この満州事変さえも侵略ではなかったというのだからお話にならない。たしかに、それを認めてしまえば、満州事変はパリ不戦条約に明白に違反していたという事実を認めることになり、それ以後の戦争もすべて国際条約違反の侵略戦争であったということになるので論理的に認めることができないのであろう。

だから彼らは満州事変をソ連共産党コミンテルンの陰謀であったという論にすりかえようとしているのであろうが、この論がいかに馬鹿げた暴論であるかということは秦郁彦氏の「陰謀史観」(新潮新書)でも徹底して批判されているので、興味のある方はそちらを参照していただきたい。
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ちなみに、この満州事変の違法性について渡邉恒雄氏は次のように書いている。

「靖国神社が、昭和戦争を聖戦だとし、そこで散った、すなわち聖戦に貢献した英霊を祀る神社であるという認識は歴史認識上、妥当なものであるとは思われない。なぜかといえば、あの戦争が、満州進出以後、盧溝橋事件に始まる軍部の無謀な戦争拡大によって大戦争になり、何百万という犠牲者を出した事実は否定できないからだ。一つ一つの節目をみると、軍の実力をもった将校たちが中国侵略を正当化する理屈を作り出しながら、天皇はじめ中央政府の意思にしばしば反して戦争拡大を図ったもので、そのこと自体が多分に国の規律を逸脱した戦争犯罪とみられても仕方ないのではないか。

陸軍は日本人居留民保護の目的で、1927年以後「山東出兵」を敢行、1928年には陸軍のエリート将校たちが作戦をねりはじめていた。結果、関東軍参謀の河本大作大佐が張作霖爆殺事件(28年6月)を起こしたが、満州事変から日中戦争に至る全体の構想は、参謀本部の東条英機、武藤章、関東軍参謀の石原莞爾、板垣征四郎らの佐官級がひそかに計画していた。

石原、板垣らの謀議の結果、31年9月18日、奉天北方の柳条湖で鉄道爆破事件を起こし、これが満州事変の発火点となる。事件を拡大したのは林銑十郎朝鮮軍司令官の満州への独断の越境進軍で、本庄繁関東軍司令官がこれに同調した。

秦郁彦氏は「石原、板垣、本庄、林は陸軍刑法違反で死刑相当」と語っているが、当時彼らは軍法会議に呼ばれるどころか、軍の出世街道を驀進するのみであった。(中央公論新社『検証 戦争責任Ⅱ』より)

こうして政府と国民を「戦果」を使ってだましながら、あの昭和大戦争は1945年まで暴走を続ける。そうした個々の政治責任については、起訴された28人のA級戦犯以外に、裁かれることのなかった人物も少なくない。ただし、極東裁判の結果として、A級戦犯28人うち、病死者などを除く25人が有罪判決を受けた事実は、サンフランシスコ平和条約調印の際、日本政府として承認している。いまや「戦争責任の象徴」となっていて、変更作業は困難である。それより、政府は「国民」の名において、全面的、大局的な歴史認識として、昭和戦争の非を認めたうえで、『加害者』と『被害者』の分別を概念的に確定し、歴史認識に関する道徳的基準を義務教育課程の教科書に記述し、国際政治的にこの問題に終止符を打つべきである。
「文芸春秋9月号」より


しかしながら靖国神社はこのようなまっとうな歴史認識を拒絶しており、それどころかいまだに遊就館などの施設で「大東亜戦争=聖戦」論を展開しているのであり、しかも安倍首相以下の閣僚の中にもそのような歴史観を捨てがたくもつ者がいる。これは思想の自由という問題ではなく、間違った歴史認識をもって国を誤った方向へ指導してゆくことの問題として問われるべきものである。

そもそも戦争責任を引き受けたはずのA級戦犯がなぜ合祀されたのか?これについては、以前にも秦郁彦氏の見解を紹介しながら当ブログでも書いたが、渡邉氏はさらに踏み込んだ次のような指摘をしている。

靖国神社は当初は兵部省、のちに陸、海軍省の共同管理になった。そして1945年の終戦後、12月15日にGHQ(連合国軍総司令部)の国家神道排除という方針により、いわゆる「神道指令」が公布され、一時存在理由が不明確になった後、1946年9月に東京都知事の認証による宗教法人として発足した。この靖国神社は単立宗教で、神社本庁に属せず、宮司以下の神職は神社本庁の神職資格が必要なく、特にA級戦犯合祀を敢行した第六代宮司の松平永芳氏は旧軍人で自衛官出身だったが神職資格をもっていなかった。しかし、この松平宮司のほぼ独断で、A級戦犯を含む大規模合祀が1978年10月17日に行われた。A級戦犯の合祀に関しては、松平宮司の先代の第五代・筑波藤麿宮司は「B,C級戦犯は被害者なのでまつるが、A級は戦争責任者」(2006年7月20日付け日本経済新聞)といって合祀をためらっていたにもかかわらず、松平宮司がほぼ強引にA級戦犯14人を合祀した。A級戦犯の合祀が、靖国問題が政治問題化し国際的に拡大する原因になった。ただA級戦犯の合祀は、なぜか公表されず、1979年4月に報道されるまでは表ざたにならなかった。
昭和天皇・皇后両陛下は靖国神社が宗教法人となって以後、1952年10月16日に初参拝され、1975年11月12日まで7回参拝された。しかし、天皇陛下は松平宮司によるA級戦犯合祀を非常に不快視され、A級戦犯合祀が明らかになって以後は、天皇陛下ご夫妻は参拝されていないし、現天皇も昭和天皇の意を汲み今日まで参拝されていない。この昭和天皇のご意思については、いくつかの文書で明白になっている。
「文芸春秋9月号」より


さらに諸外国では靖国神社のような特定の宗教施設で戦没者を追悼するという例はどこにもなく、通常、戦没者の慰霊はたとえばアメリカのアーリントン墓地やドイツのベルリンのノイエ・バッフェ、フランスのパリ凱旋門など、いずれも特定の宗派に属さない施設であると渡邉恒雄氏は指摘する。

ドイツのベルリンのノイエ・バッフェの例
元は国王の衛兵所であったものが第二次大戦で破壊されたあとに再建。「ファシズムと軍国主義の犠牲者」の為の「永遠の炎」が真ん中に作られ、1993年以来、ドイツ連邦共和国の中心的追悼の場となった。「戦争と暴力支配のすべての罪なくして犠牲になった者」が追悼対象になり、霊の実体としては、1969年に無名戦士1名と強制収容所犠牲者1名の亡骸の二体だけが象徴として埋葬されている。無宗教で政府主催の「国民哀悼の日」が、毎年11月中旬、クリスマスから逆算して6週前の日曜日に開かれる。

フランス・パリ凱旋門の例
1920年、国民議会で凱旋門を追悼所とすることを議決した。第一次大戦以降のフランス国際戦没将兵を対象とする無宗教の施設。門の床下の墓には、無名戦士1名の遺体のみが埋葬されている。国防省主催で、大統領、各国大使らが出席して行われ、第二次大戦戦勝記念日と第一次大戦休戦記念日に式が施行される。

その他、各国ごとに、追悼碑のみであったり、一部の無名戦士の遺体を埋葬したりしている。カナダでは国会議事堂内の「平和の塔」に戦没者の名を記した6冊の「追悼の書」がおかれ、そこにはカナダ建国以来の海外での戦没者11万人を超える名が記されている。各国の追悼施設はほとんど宗教性がなく、政府、国会、軍などが管理している。

米アーリントン墓地の例
諸外国の例で典型的なものとして挙げることができるのは、アーリントンの「無名戦士の墓」である。アーリントン墓地は、アメリカの南北戦争後に戦死者を弔う目的で作られたが、それぞれの家族等が主に墓碑を建設し、戦没者を慰めたものである。初期は北軍戦没者が多かったが、やがて南軍兵士も埋葬された。諸外国の元首、首相等を含めた首脳がお参りするのは、その中の「無名戦士の墓」である。この「無名戦士の墓」は、陸軍省管理のもと、軽武装した米軍兵士が常時守っていることが、墓地の尊厳性の象徴と認識されている。ただここに祀られている兵士は、第一次世界大戦、朝鮮戦争の死者、戦争ごとに1名ずつの遺体だけである。かつてはベトナム戦争の無名戦没者を含めた4体が葬られていたが、ベトナム戦争の死者はDNA鑑定の結果、名前が判明し、「無名」でなくなったので、遺族、関係者に引き取られ、郷里に葬られることになったため、3体のみとなった。

それに比べ、千鳥ケ淵戦没者墓苑は30万柱を超える無名戦没者の遺骨がある。これは世界最多の数であろう。このように祭神の名儀や特定宗教と無関係な通常の諸外国の追悼施設と靖国神社とは性格が著しく異なっている。

したがって、戦没者を追悼するあり方としては、国の行事は武道館における8月15日の天皇・皇后両陛下がご出席される全国戦没者追悼式で完結するとし、一方で千鳥ケ淵戦没者墓苑の運営母体を透明化したうえで、国会の議決によって無名戦没者の墓として認証し、これを靖国神社に代わる国民的な慰霊碑とするのも一つの方法だと思う。
「文芸春秋9月号」より

と渡邉氏は提言する。そして少なくとも「靖国神社はA級戦犯が分祀されないかぎり、国家を代表する政治権力者は公式参拝すべきでない」と結論する。

この渡邉氏の論は論理的にもまた道徳的にも当然の考え方であると思う。最近では総理の靖国参拝に対して中国や韓国だけでなく、アメリカやEU、オーストラリア、台湾、国連・・・など世界中から批判されているが、これは単なる誤解ではなく、むしろその施設の異様性が世界中で認識されてきたからではないだろうか。今後も諸外国の靖国神社に対する認識がより正確になればなるほど、その反発は増してゆくのではないであろうか。

これに対して、多くの日本人が戦没者の追悼はどこの国でもやっていることであり、そのやりかたについて外国からとやかくいわれるいわれはないと反論するのが通例になっている。しかし、渡邉氏も指摘するように戦没者の追悼施設は千鳥ヶ淵戦没者墓苑があり、また天皇皇后両陛下がご出席されて全国戦没者慰霊祭が毎年行われているので、そのうえになお靖国神社での追悼を重ねる必要があるというのは、逆に両陛下ご出席による追悼方法が不完全なものであるといっているのと同じことではないか?

この渡邉論文では特に指摘されていないが、もうひとつ日本人として忘れてならないことは憲法20条との整合性である。

憲法20条条文
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

総理の公式的な靖国参拝はこの条文3項に明らかに抵触していることがわかる。これは1978年にA級戦犯が合祀される以前から問題とされていたので、政治家は必ず公式の参拝ではなく、私的な参拝であるということを言い訳にしていた。この言い訳をせずに堂々と公式参拝だといって参拝したのは、いわゆるA級戦犯問題が絡まってからは中曽根総理、橋本総理、小泉総理そして安倍総理である。

ところで、この4人の総理に共通しているのは支持率の高さであろう。なぜ靖国参拝を強行した総理の支持率が高いのか?これは前にも考察したとおり、靖国神社を参拝することによって「日本教」の「純粋人間」として評価されるという、きわめて日本的な現象があるからである。したがって、政治家は憲法の政経分離の条文を無視しても、それによって非難を受けることはなく、むしろ「日本教」の「純粋人間」としての評価を高め、それによって支持率アップが期待されるのである。「戦没者の追悼」とか「平和の誓い」とかいうきれいごとは。おそらく彼らの真の動機ではなく、本当の動機は国民的人気を得るための手段になっているとみてもまちがいがない。

しかし、もっとも重要な問題は憲法の精神が権力者によって踏みにじられているということである。なぜ憲法20条の3項がわざわざ明記されたのか?それは戦前の国家神道に対する反省があったからにほかならない。国家神道は明治維新後に西欧列強のキリスト教に対抗する日本の政教一致宗教として人為的に作られたものである。この政策を推し進めるために仏教をはじめ他の宗教は激しく弾圧された。そして日本は「現人神」の国となり、「神州不滅」の神話が形成された。「神国」である以上はどんな戦争でも負けるはずがない。そのような狂気を信じさせたのは、まさに国家神道による政教一致の怖ろしさであった。その深い反省があれば、あの戦争をいまだ「自衛戦争=聖戦」であったと讃える異様な施設を、しかも憲法の精神をまったく無視して日本国総理が参拝するということは許容されるべからざるものであろう。またそのことは官僚たちが一つ覚えのように説く「法の支配」という考え方とも矛盾をきたす国家的自己欺瞞にほかならない

靖国公式参拝をしながら、その後も渡邉恒雄氏とは友人関係を保っている中曽根元総理について次のような裏話をかたっている。

中曽根康弘首相が1983年4月21日に参拝後、諸外国からの反発も起こり始め、反対論は内外相呼応する形になった。そこで、中曽根首相は腹心の瀬島龍三氏に頼み、板垣正参院議員(A級戦犯とされた板垣征四郎の二男)などと協力しA級戦犯遺族を歴訪し、自発的に分祀を認めるよう説得し、ほぼ分祀について合意ができた。だが、最後に東条内閣元首相の遺族の猛反対で、瀬島氏の説得は失敗に終わった。このことは瀬島氏の生前、私が瀬島氏から直接聞いたところである。そこで中曽根氏は日中関係を配慮して公式参拝を中止した。

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