3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

日韓の歴史問題その3 日清戦争の真実及び朝鮮王妃(閔妃)惨殺事件

日韓(朝)の歴史認識問題は現在大きな政治問題となっているが、果たしてこの問題を理解している日本人はどれだけいるのであろうか?私自身、つい最近までこの問題にほとんど関心がなかったために、通常の歴史教科書に記されている内容以上のことはあまり知らない(恐らく)ごく平均的な日本人であった。しかし、最近いくつかの本を読む中でいままで知らなかった実に多くの重大な事実があることを知るに至り、これを知らないことは日本人としてあまりに恥ずかしいことだと痛感するに到った者である。

過去多くの被害を与えた隣国との歴史問題に対して無知であることは日本人としてもはや許されないことである。日韓サッカーの試合で「歴史を知らない民族には未来がない」と韓国サポーターから突き付けられる以前に、われわれはその言葉の重みを十分に理解すべきであったが、残念ながら日本人の歴史認識は彼らからそのようにいわれても何の反論もできないほどお粗末でいい加減で無責任なものであった。しかし、これは日本人個々人の責任というよりも、おそらく歴代の日本政府と明治以来の代々の官僚の国策として行われてきたものであり、日本人は過去隣国に対して何を行ってきたのかという事実を意図的に国民に対して教えてこなかったのである。この意味で日本の歴史教科書は終始一貫「自虐史観」ではなく、「非自虐史観」に立脚していたのだということがいえる。

その証拠にどの歴史教科書にも韓国や朝鮮についての記述は小さく扱われ、あたかも隣国の問題はささいなことであるかのような印象を与えているのである。たとえば私自身最近までまったく知らなかったことであるが、日清戦争が終わった1895年(明治28年)10月に朝鮮王朝の王妃明成皇后(日本では一般に「閔妃(ミンぴ)」と呼ばれる)の惨殺事件が起こっているが、この重大な史実について日本のどの教科書にも触れられていない。仮にこの事件が逆の出来事(すなわち日本の皇后が韓国人に惨殺されたとすれば)であれば、これはおそらく日本史の中でも最大級の悲劇として扱われて当然のことであろう。ちなみにこの惨殺事件がどのようなものであったのかということを、呉善花さんの著書から引用しておこう。

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朝鮮王朝最後の王妃「明成皇后」(閔妃)

1895年10月8日未明、日本軍守備隊(後備歩兵第18大隊)450名、朝鮮訓練隊兵士、日本人壮士たち(領事館員、居留日本人など)が合流して景福宮に侵入した。彼らは王宮を警備していた第一訓練隊と銃撃戦を交えて敗退させ、さらに近衛の待衛隊を打ち破って王宮を占領した。その間に日本人壮士ちは閔妃を探し回り、常殿にいた閔妃を刺殺すると遺体を王宮の外に運び出して焼き捨ててしまった。これを乙未事件という。

日本人としては何としても王妃を中心とした外威勢動政治の悪弊を排除したかったのである。これによって閔妃一族が国政に優先的に参与しうる道が断たれたことはたしかだった。こうして彼らは漢城(現ソウル)郊外の孔徳里に隠棲していた太院君を連れ出して再び執政として擁立し、親露派の排除と新たな改革派の任命をもって第四次金弘集内閣を成立させたのである。李完用、李範普、李ユン用、沈相薫ら新露派・閔氏派は排除され、魚ユン中、徐行範、愈吉藩、趙義淵、鄭ビョン夏らが新たに入閣した。そして留任が金ユン植。このように開化派中心の内閣であった。こうして武人公使着任後、即座に武断をもってその改革推進内閣が成立した。しかしながら、この政変は三浦公使が主導して日本人によって敢行されたものであることは、あまりにも明白であった。(呉善花著「韓国併合への道」文春新書P172-173 )


前にも紹介したように呉善花さんは韓国政府から売国奴として入国を拒否されているいわくつきの女性であるが、この書に書かれてあることは、ほぼ史実を忠実に再現しており、必ずしも売国的であるとは思えない。私はこの書と岩波新書版「韓国併合」(海野福寿著)を比較しながら、何回も(少なくとも3回以上)読み返したが、両者の視点の相違は相当あるものの、歴史的史実に関しては両者ともほぼ忠実に描いており、その意味では信頼のできる書物であると考えている。

参考のため岩波新書版「韓国併合」ではこの事件をどのように記しているかも紹介しておこう。

三浦公使の着任は1895年9月1日。彼が親露米派を排除するため、国王高宗の妃(閔妃)の殺害計画を公使館一等書記官、杉村溶、朝鮮政府軍部兼宮内府顧問岡本柳之助らと練ったのは、それかまもなくである。計画は王妃と敵対していた太院君をかつぎだし、かねてから解散が取り沙汰されていた日本人教官指導の洋式軍隊である訓練隊をそそのかして、太院君とともに王宮の景福宮へ侵入させるというものでる。ただし、実行主力は漢城駐在の日本軍守備隊、領事館員および警察、居留日本人の壮士たちだった。

10月8日未明、計画は実行に移された。漢城郊外の孔徳里に隠棲していた太院君の連れ出しには岡本ら30数人の日本人があたり、後備歩兵独立第18大隊の450人と菟藩善指揮の第二訓練隊が景福宮を占拠する。光化門から侵入した第一中隊は王宮を警備していた第一訓練隊と銃撃戦をまじえ、指揮していた洪啓薫を戦死させ、待衛隊の抵抗を排除して王宮を制圧した。壮士の一群は王妃を求めて探し回り、常殿で王妃を刺殺し、領事館警部荻原秀次郎の指示で遺体を松林に運び、焼き捨てた。乙未事件という。

三浦公使は事件は解散命令を受けた訓練隊が太院君と結託して行っクーデターであるとし、国王の依頼で出動した日本軍は、訓練隊と待衛隊との衝突を鎮圧したが、事件そのものには日本人は無関係であるという筋書きで押しとうそうとした。現場で成行きを目撃していたアメリカ人待衛隊教官のゼネラル・ダイとロシア人電気技師サバチンの証言から、事実の隠ぺい工作が破産してもなお、太院君の要請で参加したと強弁した。

国際的に苦境に立たされた日本政府は、三浦公使の解任召喚と関係日本人の退去を決定し、帰国した軍人8人を第五師団の軍法会議に、48人を広島地裁の予審に付した。翌年1月14日の軍法会議は、太院君の依頼を受けた三浦公使の命令に従った日本軍の行動を無罪とした。20日の広島地裁の予審終結決定もまた、王妃殺害状況の証拠不十分として三浦以下全員を免訴とした。(海野福寿著「韓国併合」岩波新書P100-101)


このおぞましい事件がなぜ起きたのかということはいずれ後で述べることにするが、この陰惨な事件のある意味での成功が、結局、以後の日本の大陸進出を加速させていったとみなすことはできるであろう。おそらく満州事変の際の清王朝最後の皇帝溥儀を誘拐して満州国の王に擁立しようとした石原莞爾らの計画立案にも、この事件は影を落としていたであろうし、また南京事件後、反日的な蒋介石政権に代わって親日派の汪兆銘を正当南京政府として擁立していった過程でも、同じ成功体験が影を落としていたのではないかと考える。この事件を契機として、日本政府は(時に)隣国の内政に力づくで介入し、気に入らない反日分子を排除して親日派を樹立するという政策が一貫してとられてきたのであった。このやり方は最終的にはどうみても「侵略」としかいえない植民地化へと発展してゆくのである。その原点は先に紹介した明治8年の「江華島事件」にあったともいえるが、その粗暴なやり方の決定的成功体験は明成皇后(閔妃)惨殺によって得た結果があったのではないかと思われる。なぜならこの事件以降、日本は朝鮮の内政を完全にコントロール下に置くことに成功したからである。

この事件の前に起こった日清戦争についてはもちろん教科書にも記述されているが、しかし、日清戦争の原因について正しく知っている日本人ははたしてどれほどいるのであろうか?ちなみに教科書には以下のように紹介されている。

1894年(明治27年)、朝鮮で政府の専制政治に反対する大規模な農民の反乱(甲午農民戦争 東学党の乱)が起こると清国は朝鮮戦争の要請でその鎮圧を理由に出兵した。第二次伊藤内閣はこれに対抗してただちに朝鮮に軍隊を派遣した。ちょうどこの頃、外務大臣陸奥宗光のもとで、ロンドンでは駐英公使青木周蔵がイギリスとの条約改正交渉をすすめ、領事裁判制度の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした日英通商航海条約が調印された。これに力を得た日本政府は清国に対して強い姿勢をゆるめず、同年7月末ついに日清両軍は衝突し、8月、日本は清国に宣戦を布告し、日清戦争がはじまった。(「もう一度読む 山川日本史」山川出版社P245-246)

この説明で日清戦争勃発の原因が分かる人はいないであろう。もちろん教科書というのは事実の断片だけをつなぎ合わせたものであり、その断片は不完全なジグゾーパズルの断片と同じで全体像を構成するものではないので、このわずかな断片から全体像が分かることはありえない。しかし、だからといって戦争の原因は書かなくてもよいというのかというと、そうではあるまい。おそらくこの教科書の作者は読者にそれについてできれば説明したいのかもしれないが、それを説明するには少なくとも何倍もの文章を必要とするので、たまたまそれができなかったのか、あるいはその説明を始めると不必要な政治的問題が生じるのであえてこのような焦点をぼかした書き方をしているのではないかとも思われる。

早い話、日清戦争というのは実質的には日本と清国の間の戦争というよりもむしろ日本の朝鮮に対する侵略戦争であったといった方が正確であるが、しかしそんなことは日本の教科書の中にはもちろん一言も書かれていない。せいぜい日本の教科書に書かれているのは清国の属国の立場に置かれていた朝鮮国が日清戦争後、その立場から解放されたという肯定的評価である。この戦争の結果(というよりも戦果)を教科書は次のように記している。

この条約によって、清国は日本に(1)朝鮮の独立、(2)遼東半島・台湾・膨湖諸島の割譲、(3)賠償金2億両(当時の邦貨で約3億1000万円)(4)杭州、蘇州、重慶、沙市の開港を認めた。この結果、日本は海外に植民地をもち、大陸進出に足場を築くことになったが、満州(現中国の東北部)に深い利害関係をもつロシアは、日本の進出に警戒し、ドイツ、フランスと共に、日本に遼東半島を清国に返還するよう勧告した(三国干渉)。3国を相手に戦う力がなかった日本政府は、やむなくこの勧告を受け入れたが、日本国内ではど「臥薪嘗胆」を合言葉に、3国、特にロシアに対する反感が強まった。「もういちど読む山川日本史」)(山川出版社P246)

驚くべきことに、ここには朝鮮については一言も触れられていないのである。そもそも日清戦争の最初の舞台になったのは朝鮮であり、そしてその戦争の犠牲者がもっとも多く出たのも朝鮮人であったが、そんなことにはまったくふれていない。

では日清戦争とは本当はどうして起こったのか?まず、この戦争は決して偶発戦争ではないことを知らなければならない。教科書が記すように、日清戦争勃発の原因は朝鮮で農民の反乱(東学党の乱)が起こったからだとされている。しかし、なぜそれが日清戦争に飛び火したのかということを教科書は何の説明もしていないので、これ読む者はなぜ日清戦争が起こったのか分からないのである。

この原因を知るためには、それ以前の朝鮮をめぐる日清間の駆け引きがあったことを説明しなければならないが、それを書くと長くなるので大体の要約に留めたい。前回に紹介した江華島事件から後、日本は朝鮮半島の内政に力づくで関与していった。具体的には条約で日本の関税自主権を認めさせ治外法権のようなものも認めさせている。当時の朝鮮には軍事力というものをほとんどもたない国だったので、明治新政府の富国強兵策で力の差をつけた日本はまるで赤子の手をひねるように隣国に不平等条約を押し付けることができたのである。

しかしながら、朝鮮は長年中国(清国)の属国という立場であり、清国の干渉を完全に外さないかぎり、朝鮮を日本の植民地とすることはできない。そこで日本はさまざまな工作をおこなってきたが、結局、清国と戦争をする以外に朝鮮を我が物とする道はないということがますます明らかとなってゆくのである。

そこで日清戦争の原因として起こった朝鮮内部の農民の反乱は日本にとってはまたとない戦争を起こす機会になった。それまで日本は富国強兵策で着々と力を付けていたので、清国を相手に戦っても負けることはないと考えていた。一方、清国の方は日本の軍事力を恐れていて、できるだけ衝突を避けようとしていた。日清戦争の直接の原因となった農民反乱(東学党の乱ともいう)に対して鎮圧する力をもたなかった朝鮮王朝(彼らの兵力はわずか500人ほどだったという)はなすすべもなく、やむをえず清国政府に鎮圧を依頼したのである。ところがそれ以前から清国と日本との協定で、朝鮮に派兵するときは互いに連絡し合い、いずれかの国が先に派兵したときは必ずもう一つの国も派兵する権利を有するという協定(この協定はその前の甲申政変がきっかけに両国の合意でできた「天津条約」に規定されている)ができあがっていたので、日本はこれ幸いとばかりに派兵を決定したのである。

これは考えれば奇妙な協定である。当事国の朝鮮人の意志ははじめからまったく無視されているのであるが、これは彼らが農民の反乱を鎮圧する武力を十分にもっていなかったので、何か事が起こった時にはその派兵は当然とされたのであろう。しかし、普通に考えれば朝鮮の宗主国であるはずの清国の方が派兵するのがあたりまえのはずだが、すでにその当時には日本の武力が清国にとっても恐怖と感じるほどのものに成長していたので、清国側が折れてそのような奇妙な協定に至ったのであろう。つまりこれは一見、日清間の紳士協定のようなものであったが、実質的には清国はすでに日本と戦争になれば負けるに決まっているから、そのような卑屈な協定に妥協せざるをえなかったのであろう。

なにはともあれ、日本はこの朝鮮の農民の反乱をきっかけに大量の軍隊を派兵するのであるが、その目的ははじめから清国と戦乱を開くためであった。清国の側はそれを感づいてか、はじめから及び腰であり、清国総指揮官の袁世凱は戦争が始まる前に逃げてしまったことからも、その形勢は明らかであった。つまりこの戦争は日本側が一方的に清国に対して仕掛けた戦争であり、その目的は朝鮮から清国の影響を完全に排除し、そして朝鮮を最終的に日本が支配し自国の領土として乗っ取るためであった。しかしながら、たしかに朝鮮は武力では赤子のような国であったが、彼らの自尊心や愛国心は決してあなどれるものではなかった。日本は日清戦争で清国には圧倒的に勝利したが、その後、朝鮮の農民が反日に立ち上がり、この農民たちを鎮圧するためにさらなる戦争を余儀なくされたのである。この結果、朝鮮人農民の犠牲者数は日清両国の犠牲者数をも上回るほどのものになったのであるが、このようなことはもちろん日本の教科書には一行も書かれていない。

以下、日清戦争の原因とその経過及びその後の弾圧について岩波新書版「韓国併合」から引用しておこう。

農民戦争の全州占領にあわてた朝鮮政府は1894年(明治27年)6月1日、袁世凱に非公式に清国軍の出動を要請、3日には公式に出兵を要請した。これ受けて漢城駐在の清国軍は即日出動し、8日からは清国派遣隊が忠清道牙山湾に上陸、忠清道一帯に駐屯した。

清国出兵の知らせは、同時出兵の機をうかがっていた日本政府に迅速な対応をうながした。駐日清国公使汪鳳藻からの正式出兵通告があったのは7日であるが、すでに2日の臨時閣議は混成一個旅団の朝鮮派遣を決定していた。さらに5日には大本営を設置し、広島の第五師団に内命を下して兵員7000人~8000人の混成旅団の編成に着手していたのである。そして出兵通告を受けた7日には、日本政府も85年の「天津条約」第三款の「行文知照」の規定に基づいて、清国政府に出兵を通告した。

急遽、軍艦「八重山」に搭乗して帰任し大島圭介公使が、回航した「松島」「千代田」の海軍陸戦隊420人と仁川に上陸したのは10日早朝である。大島公使と日本軍は朝鮮側の制止を振り切って、その日の内に漢城へ入京した。派遣旅団の仁川上陸完了は16日である。

しかし11日には「全州和約」が成立し、日清両軍は朝鮮派兵の理由を失っていた。「天津条約」には変乱などが解決したら、ただちに兵を撤回し、ふたたび「留防せず」という規定がある。大島公使と袁世凱とのあいだで12日から始められた共同撤兵交渉では、15日の時点で日本軍四分の三、清国軍五分の四は即時撤兵、民乱静穏化ののち全部撤兵で意見が一致した。だが、日本政府は駐在と兵員増派計画をかえようとしなかった。

6月15日の閣議は、朝鮮駐在の口実づくりに腐心し、農民軍の日清両軍による鎮圧と朝鮮内政の日清共同改革を清国に申し入れる案をこねあげた。どちらも、駐兵の理由として陸奥外相が決定をためらうほど薄弱である。大島公使からの報告も牙山の清国軍は動かず、農民軍は平静で漢城付近も静穏であると伝えていた。清国に提案した共同改革案は、朝鮮の内政干渉になるという理由で清国から拒否された。

そのうえ朝鮮政府およびロシア・イギリスをはじめとする各国公使から日清同時撤兵の要求あるいは勧告が出され、清国側は徹兵に応じる意向を示していた。しかし、日本側はこれを拒否、またしても同時撤兵の機は失われる。このとき日清両国の撤兵が実現していたら、日清戦争は起こらなかったはずである。

だが賽は投げられた。のちに陸奥が書いた「謇謇録」には「何とか一種の外交攻略を施し、時局の一転を講ずるの外、策なき場合となりぬ」とある。大量出兵した以上、無成果のまま撤兵することは国内世論の点からもできなかった。

6月27日、陸奥は大島公使に開戦の口実作成を命じる指示を与えた。大島は清国勢力を排除した後でなければ内政改革の実行は不可能であるが、日清軍の衝突はそう簡単には起きえないから、「内政改革を先にし、若しこれが為め日清の衝突を促せば僥倖なり」と考えていた。

大島は7月3日、外務督弁に改革綱領を提示したのについで、10日は内政改革案を朝鮮政府に手渡した。このとき大島は改革勧告を朝鮮政府が拒絶した場合には、「兵威をもって」漢城の城門および王宮諸門を占拠してはどうかと、陸奥外相に指示を仰いでいる。16日、朝鮮政府は日本側提案の改革案に対し、日本軍の撤兵が実施の条件であると回答した。

朝鮮政府の拒否回答は予想されていた。これに対する処置についての大島公使の指示要請に対して、7月19日陸奥外相はつぎのように回答した。「公使が自ら正当と認むる手段を執られるべし」と。ただし、「我兵をもって王宮及び漢城を囲むるは得策にあらずと思われば、之を実行せざることを望む」とも書き添えた。

しかし22日を回答期限とした日本側公文による要求(清国軍の撤兵、清朝宗属関係を反映する清朝間諸条約の廃棄など)にたいし、朝鮮政府が回答を渋るとみるや、大島公使は混成第九旅団長大島義昌少将とはかって、軍事行動にうつった。漢城郊外の竜山に駐屯していた歩兵一連隊などを入京させ、王宮の景福宮などを占領したのである。

この王宮占領事件は参謀本部の公式戦史「明治廿七八年日清戦史」などでは、先に発砲した王宮守備兵との偶発的衝突から日本軍が応戦、王宮に進入した、とされている。しかし近年、中塚明氏による福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の同書草案の発見(「日清戦史から消えた朝鮮王宮占領事件」)や「日本外務省特殊調査文書」60の刊行などにより、実態が明  らかにされつつある。すなわち、あらかじめ計画された筋書き通りに、7月23日早朝3時ごろ、日本軍が城内に入って諸門を固め、市内を巡視する一方、歩兵第二一連隊第二大隊を中心とする「核心部隊」が迎秋門(西門)を打ち破って景福宮に侵入、国王を虜にし、王宮内の武器を押収、制圧したのだった。

この事件は8月20日調印の「暫定合同条款」で「両国兵員偶爾(偶然)衝突事件は彼此共に之を追求せざる可し」として封印してしまったが、平時、外国軍隊が王宮に侵入し、国王を捉えるということは空前の暴挙というほかない。そのうえ清国から送還されて蟄居中の太院君をまたまた執政に任じて政務を統轄させることにした。閔氏政権の追放をはかったのである(甲午政変)。

中略

周到な計画のもとに実行された王宮占領は開戦の狼煙だった。漢城の大島旅団長が参謀総長あてに事件発生の第一報を送ったのは7月23日午前8時。11時には連合艦隊の先発隊として第一遊撃隊が佐世保を発進よう「吉野」「浪速」「秋津洲」は、翌朝清国軍艦「済園」「広乙」と遭遇し、交戦した。豊島沖海戦という。「済園」は敗走し、「広乙」は座礁した。

この海戦中、「浪速」艦長東郷平八郎大佐は清国砲艦「操江」に護衛され、イギリス国旗を掲げた輸送船「高陞」をとらえた。捕獲宣言に対して「操江」は降伏したが、清国将兵1000人を乗せた「高陞」は降伏を拒否、「浪速」はこれを撃沈した。「浪速」は救命ボートで船長ら四人の西洋人を救助したが、清国兵を見捨て、銃撃を加えて現場を去った。国際法違反の疑いがある「高陞」撃沈はイギリスの世論を刺激した。

一方、26日(25日ともいう)に漢城駐屯の日本軍は朝鮮政府から清国軍駆逐の委任を引き出し、南進を開始した。清国軍は牙山の東北20キロの成歓に布陣して日本軍を迎撃したが、
「高陞」増援部隊の潰滅で意気消沈した清国軍は、29日兵力でまさる日本国軍との交戦で敗北した。翌30日、日本軍は牙山を制圧する。

豊島沖海戦の25日、大島公使は朝鮮政府から「清国商民水陸貿易章程」「奉天貿易章程」「吉林貿易章程」廃棄を唐紹儀(帰国した袁世凱に代わる代理交渉通商事宣)に通告したむね、報告を受けた。これは20日以来、大島公使が属邦条項をふくむ清朝条約は「貴国自主独立の権利を侵害」するとして、廃棄すべきことを朝鮮政府に強要していたものである。

8月1日、天皇は戦争の詔勅を渙発した。詔勅は、朝鮮を属邦として内政に干渉し、内乱にかこつけて出兵した清国の不当性を指摘し、これとは対照的に「日朝修好条約」以来、朝鮮の「独立国の権義」を尊重してきた日本の正当性を強調して、開戦のやむなき理由とした。戦争遂行の名分としての朝鮮の「独立自主」扶助は、日清戦争の全段階でくり返し叫ばれる。ただしそれは親日独立であって、反日独立であってはならないのである。

対清宣戦布告から12日後の8月13日、陸奥外相は大島公使に訓令し、朝鮮が清国に宣戦布告するか、さもなければ宣戦にかわるべき日本との同盟を公表するよう、朝鮮政府と交渉することを命じた。陸奥は戦争が日清間の交戦にとどまり、朝鮮が「中立国のごとき有様」になれば、「第一には他国の干渉を招く恐れあり、第二には日本政府が大兵を同国内に派遣するの名義なく、遂に他の非難を愛くるの虞れなき能わず」と考えていたからである。

清国の勝利を信じて疑わぬ太院君らが反発したことは想像に難くないが、それから一週間後の8月20日には「暫定合同条款」は、次のような内容からなる。(1)朝鮮内政改革の施行(2)漢城―釜山、漢城―仁川間鉄道の早期敷設(3)漢城―釜山、漢城―仁川間の軍用電信(開戦前の無断架設)の条約化、(4)全羅道内に貿易港開港(5)王宮占領事件の不問(6)朝鮮「独立自主」のための日朝委員会による合同会議開催、(7)王宮警備の日本軍の撤収、である。侵略の事実を覆い隠すかのように、その前文には「朝鮮の自由独立を強固にし」、両国間の貿易振興、国交親密のためこの条約を結ぶ、と記されている。

ついで六日後の8日26日、「大日本大朝鮮両国盟約」が調印された。それは第二条で「日本国は清国に対し攻守の戦争に任じ、朝鮮国は日兵の進退及び其糧食準備の為め、及ぶ丈け便宜を与うべし」と規定した、れっきとした攻守同盟条約である。大島公使・金允植外相ともに正式の全権委員の資格で調印した。

日清戦争の「戦場若しくは戦場に達すべき通路」である朝鮮における日本軍の軍事行動を、「朝鮮政府の同意を得たるか、若しくは朝鮮政府と一体の運動を為すかの実を挙ぐる事肝要」とみる日本政府は、23日大島公使や朝鮮軍司令官あてに、「第三国をして容易に容喙干渉の端」を与えるような行動をつつしむよう訓令した。朝鮮を日本の同盟国に擬して、国際的批判の目をそらさせようという狙いである。

攻守同盟により日本軍は朝鮮で思いのままの人馬・糧食の挑発をおこない、朝鮮民衆の反発をかったが、そのような条約をむすび徴発の下請け機関となった金弘集政権にたいする人びとの不信感をかきたてることにもなった。

日清開戦による日本の朝鮮侵略に憤激した農民軍は、ふたたび決起した。1894年10月、全琫準・孫和中が10万といわれる全州・光州の農民軍を全羅道参礼に集結させると、それまで蜂起に消極的だった忠清道の東学組織もこれに呼応し、孫秉煕の率いる農民軍が全羅道農民軍と忠清道論山で合流した。

農民軍は南下した朝鮮政府軍・日本軍と忠清道各地で交戦したが、近代的兵器による集中射撃と包囲戦で敗退せざるをえなかった。決戦を公州入城にかけた農民軍が公州南方の牛金時で政府軍・日本軍と対決したのは12月4日から7日間である。50回にも及ぶ攻防戦がくり返されたが、兵器に劣る農民軍は大敗を喫し、後退した論山・全州の戦闘にも敗れて分散した。

全羅道・忠清道をはじめ農民軍が蜂起した各地では、政府軍・日本軍による大量殺戮が行われ、財産が没収され、家屋が焼かれた。捕えられた全琫準は漢城で日本領事も加わった審問を受けたすえ、翌年4月死刑に処せられた。金開南も捕えられ、その翌日処刑された。

こうして甲午農民戦争は鎮圧され、農民革命の灯は消されたが、侵略者と封建権力にたいする彼らの怨念は、1898年~99年全羅道でおきた英学党運動や1900~1905年忠清道・京畿道・慶尚道でおきた活貧党の運動にうけつがれた(海野福寿
著「韓国併合」岩波新書P88-97)


ちなみに日清戦争全体の犠牲者数を比較すると、戦死者は日本人約二万人、中国人約三万人とされるが、朝鮮農民の犠牲者数はその両者を上回るものと見積もられている(中塚明他著「東学農民戦争と日本」高文研 参照)。

いずれにしても日本はこの戦争によって、朝鮮から清国の影響を完全に排除することができ、もはやその領土を手中にしたも同然であった。しかしながら、この戦争の後どの教科書にも記載されているように、ロシアとドイツとフランスの三国によって日本が清国から割譲された遼東半島を返還するよう干渉(三国干渉)され、当時の日本の軍事力ではそれらの西洋列強に対抗できなかったため、この大きな戦果を涙ながらに手放さざるをえないという苦汁をなめさせられる。

実は、先に紹介した明成皇后(閔妃)の惨殺というおぞましい事件はこのような情勢の変化の中で起こるべくして起こった事件であった。日清戦争後、長年清国の属国として生きてきた朝鮮王朝はもはや新興の隣国日本に屈服せざるを得ない状況ではあったが、しかし王妃(閔妃)の一族は日本に屈服することを好まずロシアの力を頼みにしながら、次第に親ロシアへと傾き始めたのである。この芽を早く摘まなければ、いずれロシアは朝鮮半島に触手を伸ばしてくるだろうと日本政府は先読みし、今のうちに王妃を排除してしまおうと決めたのである。しかし、この事件のあとも日本が朝鮮を完全に手中にするためには、さらに多くの困難が待ち構えていた。

つづく


参考文献:中塚明著「日本と韓国・朝鮮の歴史」高文研
    :呉善花著「韓国併合への道」完全版 文春新書
    ;海野福寿著「韓国併合」岩波新書

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