3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

ハルノートの誤解及び靖国問題の本質

自虐史観という言葉はいったい誰が言い出したのだろうかと疑問に思い、ネットで検索してみた。便利なものである。十秒でその答えが返ってきた。教えてGooによると、この用語の考案者は「新しい歴史教科書を作る会」の創立者の一人でもある藤岡信勝氏であったという。なるほどと、すぐに私は合点した。「新しい歴史教科書を作る会」が藤原信勝氏らによって作られたのは1996年であり、同じ年に藤原氏が「自虐史観」という言葉を言い出したのだそうである。その「こころ」はというと、要するに戦後の教科書は東京裁判以来の「日本=悪者」イメージによって塗り固められたものであり、それは日本人の誇りを否定する間違った歴史観であるので、これを正さなければならないというものである。

彼らがいうには、自分の国を悪くいうような自虐史観は世界中のどの国でも教えられていないという。どの国の歴史教育も自分の民族を誇りとする教育を行うのがあたりまえであり自らの歴史を悪く書きたて自己反省を強いるような教育は不必要であるばかりか、民族の誇りを著しく汚す有害なものであるというのである。

確かにわれわれ戦後世代は日教組教育の洗礼を受けて育った世代であり、それらの教科書には左翼的な色彩が強くあったのかもしれない。しかしながら、私自身の実感をいえば日本人は果たして自虐史観なるものを本当に教えられてきたのだろうか?という素朴な疑問がある。われわれの学校時代の歴史授業では、そもそも近現代史についてはほとんどまともに教えられた記憶がないからである。学校の歴史授業で詳しく習ったのは、大体、大正デモクラシーぐらいまでで、その後に5.15事件や2.26事件があったということを授業で習った覚えはあるが、それらがどのような意味があるのか当時の私には皆目わからなかった。

ましてや満州事変や盧溝橋事件などの意味については、ほとんど正しく(?)教えられた記憶はない。ここで「正しく」という意味はすなわち「自虐史観という歴史観に基づいて正しく」という意味なのであるが、そのような意味において、私は「自虐史観」の教育を受けたという明確な記憶がない。もし「自虐史観」に基づく教育が正しく行われていたのだとすれば、われわれは満州事変や日中戦争についてもっと時間をかけて「侵略戦争を反省するための教育」を受けているはずだが、実際には歴史の授業で戦前の侵略戦争についての反省どころか、ある程度の時間をかけて授業を受けた記憶さえもないのである。これはおそらく現在の学校教育でも同じではないであろうか?

日本の学校での歴史授業というのは、そもそも目的というものがなく、ただ単に受験対策としての歴史を教えているだけであり、それを教える方も教えられる方も意味のない断片的知識のやり取りをしているだけではないのかとつくづく思う。そのような受験一辺倒の授業の中では、現代史は受験でもほとんど出ることがない分野なので勉強する必要性もなく、したがって授業を与える先生方もそれを教える必要がないということになる。結果として、日本人は自虐史観どころか、そもそも70年前には日本が戦争をしていたという事実さえ知らない若者が多く、ましてや満州事変や盧溝橋事件や南京事件の意味を知る人は少なく、これは若い人だけではなく、おそらく70歳以下の全世代(すなわち戦後世代)についてもそういえるのではないかと思う。だから最近の日中間、日韓間の歴史認識問題がなぜ問題になるのかということについて、その理由が分からない日本人がほとんどではないだろうか?

もし仮に日本の歴史教科書が自虐史観を教えているということが本当であれば、なぜ日本の教科書には韓国の王妃を暗殺したという重大な歴史的事実が抜け落ちているのであろうか?あるいはまた日清戦争の経過で韓国の農民を数万人も殺したという事実がないのであろうか?日清戦争は朝鮮の支配権をめる日清間の戦争(というよりも事実上は日本が朝鮮の支配権を清国から奪い取る戦争であった)が、この戦争で日本が清国に勝利したあと反日に立ち上がった韓国の農民を数多く殺している。その犠牲者数は日清両国の犠牲者数をも上回っているといわれているが、日本の歴史教科書にはどこにもその記載はない。また韓国を保護国から併合化する過程でも日本は併合に反対する数万人の韓国人義兵を殺しているが、そのような事実も書かれていない。

一方、中国人や韓国人が過去の歴史認識問題について、日本人よりもはるかに過敏なわけは、彼らが一方的に被害者であったという徹底した歴史教育を受けているせいであろう。それに対して戦争について何も知らないわれわれは彼らを正しく批判できるのであろうか?少なくとも自虐史観という名の教育をわれわれが「正しく」受けているならば、中国や韓国がなぜあのように過敏な反応をするのかということを理解しうるはずである。しかし、そもそも何の教育も受けていないわれわれには何が問題なのかさえも分からないのである。これは非常に問題ではないかと思う。

「自虐史観」という言葉はそもそもGHQに押し付けられたいわゆる東京裁判史観を意味していた言葉である。私は「自虐史観」を東京裁判史観という意味に限定して言えば確かに少しは意味のある言葉だと思っている。なぜならアメリカは、原爆投下や東京大空襲などで史上最悪の虐殺行為を自ら行いながら、東京裁判ではすべての戦争犯罪を日本側に押し付けたやり方には釈然と認めがたいものがあり、そのような意味での「自虐史観」をわれわれは必ずしも受け入れるべきではないと思うからだ。したがって「自虐史観」云々というなら、それはアメリカに対していうべきではないかと思う。にもかかわらず、多くの保守派を自称する日本人は、中国や韓国に対して謝るのは「自虐史観」だからよくないというのは論理の飛躍であり、これは侵略戦争の加害国としての立場を忘却しようとするものであり、被害国からみれば許せないのは当然である。

「自虐史観は間違っている」という人々の多くは「自虐史観」という言葉を拡張解釈し、「日中戦争は侵略戦争ではなかった」とか「大東亜戦争は自衛戦争であった」とか「韓国併合は韓国のためになった」とか、・・・云々、要するに日本人は過去間違ったことを行っていなかったというように自国の歴史を全面的に正当化する意味にまで拡張解釈されている。ここまで来ると、これはまことに恐ろしい言葉であり、都合良く歴史を捻じ曲げるための万能語にもなっているというべきだろう。

最近のネット右翼の異常繁殖にしても、この「自虐史観」という万能語の独り歩きによって触発されているのではないかと思われる。きちんとした歴史を学校で教えられることがなかった若者たちが、とりあえず手軽に入手できる知識というのがネットのブログなどで仕入れた知識である。これは無料で入手できる知識ではあるが、それらの多くが「南京の虐殺はなかった」とかあるいは「大東亜戦争は自衛戦争であった」というような非常に偏った知識で占められており、よく調べると、これらのブログの知識もお手軽な知識の相互受け売りにすぎないものである。要するに、異常なウイルスがネットの宿主の間で大量に繁殖していくのと同じ理屈なのである。「脱・自虐史観」という鋳型をネット上でどんどん複製してゆくこと、これがネット右翼の正体といってもよいだろう。

このようなネット右翼の異常繁殖に対して本来の民族派右翼である「一水会」代表・木村三浩氏は次のように述べている。

和をもって貴しとなす。これこそが日本の伝統であり、私たち右翼が目指してきた日本のあるべき姿です。国や民族や文化や考えが違っても、相手を尊重するのが「大和」の国、日本です。しかし、どうですか、いまの日本は。嫌韓国、嫌中国を語ることで日本人の劣化から目を背け、みせかけの自信を得ようとしています。お手軽で、非歴史的で検証に耐えない。日本は右傾化したといわれていますが、民族派右翼である私はむしろ、暗然たる気持ちでこの社会をみています。(朝日新聞 2013年7月17日朝刊)

ところで少し前のことになるが、安部内閣で自民党政調会長をつとめていた高市早苗議員が四月の靖国参拝の後、次のような驚くべき発言をしていたのを覚えている方もいるだろう。

当時、日本が資源封鎖されてもまったく抵抗せずに植民地となる道を選ぶのがベストだったのか

これは明らかに東条内閣の大東亜戦争への決断が間違ってはいなかったという表明だと受け取れる。彼女は大東亜戦争を始めなければ日本はアメリカの植民地になっていたにちがいないとでも思っているのであろうか?アメリカ側が日本に突きつけたハルノートは確かに当時の日本の「政治的空気」の中では厳しいものがあったのかもしれないが、今の視点でみれば、それらの条件は日本軍が中国大陸での侵略行為を反省して撤退しろというまっとうな要求であり、この条件にはなんら道義上の問題はない。

それどころかアメリカは、もし日本がこの条件を飲めば、最恵国待遇を約束するとまで付け加えていた。当時、日本は日中戦争の泥沼状態の中にいた。蒋介石の抵抗は衰えることはなく、日本軍はまったく勝利の見通しもなかったのである。だから、考えようによれば、このハルノートは日本にとっては「渡りに船」ともいうべきものであったはずだ。アメリカにとっても日本がこの条件を受け入れて、無益な戦争を始めなくても済むことを願っていたはずである。非自虐史観の立場に立つ人々がしばしばいうように、日本はアメリカに戦争を選択するしかないように仕掛けられたのでは決してないだろう。

ちなみにハルノートとはどういう条件だったのか次に引用しておこう。

1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
4.日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党政府)以外のいかなる政府を認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄 - 日独伊三国軍事同盟の実質廃棄を含意する、と日本側は捉えていたようである。
10.本協定内容の両国による推進

以上wikipedeaより

この条件の中で日本側が受け入れられないとしたのは3と4であるが、これは侵略を止めよという国際世論のあたりまえの要求であり、これを不当だというのは、今の世の中でいえば北朝鮮に核兵器を放棄せよという要求が(北朝鮮政府にとって)不当な政治干渉だというよりも、はるかに非常識なことであろう。この条件でアメリカは日本の仏印(フランス領インドシナ)と中国からの撤退を要求しているが、満州国からの撤退まで要求しているわけではなく、また朝鮮半島や台湾の権益も否定していないので、「国益」という観点に立っても日本にとって決して受け入れがたい条件ではなかったのである。

よく注意して読めば、このハルノートでアメリカが日本に対して要求しているのはただ一つのことであり、それは4の蒋介石政権を認めよということであることが分かる。つまりアメリカは日本を全否定しているわけではなく、ただ蒋介石政権が唯一の中国の正当政府であるということを日本に認めさせることに他ならなかったのである。そして日本にとってこれを認めることは、決して国益の大いなる損失ではなく、むしろ日中戦争以前の権益を国際的に認めさせ、さらに同時にアメリカから最恵国待遇をも得る大きなチャンスであったというべきであろう。ちなみに条件2と3で、仏印の領土主権を認めるとか仏印から撤退すべしというのも、要は蒋介石の重慶政府を背後から攻撃することを止めよという要求に他ならなかった。

それと注目すべきことは、この条件5で謳われている「英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力」という項目である。これは欧州列強の中国分割統治の非を日米が中心になって改めさせようとしたものであり、これはわざわざ日本に配慮して、欧州列強の権益を排除しようとしたものとみることができる。

このハルノートの経緯に関して、Yahoo知恵袋に、ある方が実にわかりやすい正論を述べておられるので紹介をさせていただきたい。この筆者によると、そもそもハルノートが突き付けらる前に真珠湾を目指した連合艦隊は航行を始めていたので、ハルノートの条件がどうのとかいう筋合いはまったくなく、それどころかハルノートは日本を最恵国待遇するというアメリカの約束を謡っており、最後通告どころではなく中国大陸で泥沼にはまっていた当時の日本にとっては、むしろ国益にかなうものであったとみることができる。

山本五十六はアメリカとの戦争について「負けるに決まった戦争するバカがいるか!」といっていたそうですが、その「負けるに決まった」戦争を日本が始めたのは、ハルノートを受けて、これでは戦争しかない、と日本が立ち上がらざるをえなかったという説があります。しかしこれは根拠がない、というより、間違いです。

日本政府がハルノートを受け取ったのは昭和16年11月27日。しかし日本海軍機動部隊は既にその前日に真珠湾に向けて出撃していました。また、マレー半島奇襲上陸を目指した陸軍の大部隊を乗せた輸送船団も南方に向けて航行中でした。つまり和平交渉中に強大な攻撃部隊を送り出していたのです。

当時ワシントンで日米和平交渉が進められていましたが、日本の計画は昭和16年10月上旬までに日本の要求が受け入れられなければ米英蘭と戦争を行う、と9月6日の御前会議で決められました。ハルノートの二ヶ月以上も前の事です。和平交渉の継続を主張する外務大臣を東條英機陸軍大臣が怒鳴りつけ、日本の要求が必ず通るというのでなければそんな外交はやめてしまえ!と。

そして更に11月5日の御前会議で、最終的に11月末までに日本の要求が通らなければ12月上旬に真珠湾攻撃、英領マレー半島上陸に始まって対米英戦争を開始、と「具体的に」決められました、「帝國は迅速なる武力戦を遂行し、東亜及び西南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域並びに主要交通線を確保して長期自給自足の態勢を整う。あらゆる手段を尽くして適時米海軍主力を誘致しこれを撃滅するに勉む」、と。ハルノートはまったく関係ありません(ハルノートを日本が受けとったのはもっと後の11月27日)

陸軍では、陸軍大臣や参謀総長に対して強烈な影響力を持った佐官クラスの中堅層を中心に戦争気分濃厚で、外交交渉が失敗して開戦になる事を期待していました。日本政府のいわゆる「乙案」にしても、外務省の折衷案、妥協案に陸軍が強烈な横槍を入れ、「妥協」から程遠いものになってしまった。「大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌」という資料がありますが、「外交交渉が失敗する事を熱望する」などと、ものすごい内容です。陸軍は戦争がしたくて仕方がなかったのです。

ハルノートは当時のアメリカの意見をまとめた外交文書に過ぎません。宣戦布告はもちろん、最後通牒からも程遠いものでした。冒頭に「暫定的」「拘束力のない」「提案」「草案」と書かれています。そんな最後通牒はありません。それを日本語に翻訳する時に消してしまった。誰がやったかは謎ですが、日本は戦争やる気満々だったのです。

ハルノートの中でアメリカの唯一の「要求」は中国・仏領インドシナから軍隊・警察力を引き揚げる事だけです。これは当然ですね、日本がパリ不戦条約、九ヶ国条約を破って満州侵略に始まって中国侵略を拡大し、フランスがナチ・ドイツに負けたどさくさに仏印を侵略していたのですから。ただし「いつ」「どんな方法で」などは書いていない(「即時撤退」と書いてあるという人もいますがそんな事はどこにも書いていない)日中戦争は既に泥沼化して日本経済に深刻な悪影響を与えており、陸軍部内ですら撤退の意見がありましたが、東條英機は陸軍次官、陸軍大臣、総理大臣と一貫して絶対にそれを許さなかった。

ハルノートはあの当時としては穏健でむしろ日本の顔を立てたものでした。「日米政府が音頭を取って関係各国に働きかけて不戦条約を結びましょう」とか、「日米政府がお互いに最恵国待遇を基本として通商を行い、貿易上の障害を取り除く為の協議を始めましょう」とまで提案している。 中国大陸における日本の権益や満州についてもまったく書いていない。三国同盟のサの字も出てこない。話し合い次第では中国からの撤退の条件として相当の権益は確保出来たと思います。にも拘わらず日本は質問も交渉も一切しないでいきなり戦争を始めました。というか、日本はハルノートを受け取る前に既に攻撃部隊を出撃させていた。それが以前からの国策だったのです。

アメリカは日本との戦争を「決意」していたと言う人がいますが、決意するのと実際に攻撃を仕掛けるのとでは雲泥の差があります。アメリカとソ連(ロシア)の「冷戦」では両国とも戦争を「決意」しながら、にらみ合いはスターリン死後の「雪解け」から数えても30年の長きに及び、一発のタマを撃つ事もなくソ連の敗北に終わりました。

世界史上、国同士が戦争を「決意」して長い間にらみ合っている事はいくらでもあります。太平洋戦争はアメリカが攻めてきたので日本が反撃して始まった戦争ではない。日本の国策は南方侵略、そしてその邪魔になりそうな米英を叩こう、と当時の政府の資料に明確に書かれています。

日本が太平洋戦争を起こした主因の一つとしてアメリカによる対日石油禁輸が言われます。当時の日本の国策は南方を侵略して資源を奪う事でした(この計画を聞いて、東條英機ですら「泥棒をしろと言うんだな」と笑ったそうです)対日石油禁輸でそのタイミングが早まったとは言えますが、それまでは石油を始め重要戦略物資も欲しいだけ獲得出来ていた。日本の中国侵略がピークに達した1940年度ですら、日本の石油需要量の86%をアメリカが供給した。このどこが「アメリカによる経済圧迫」でしょうか??

そしてその対日石油禁輸も日本の侵略拡大に対する「警告」で、日本が侵略政策を改めていたら再び石油も重要資源も入ってきたのですが、日本は戦争を選びました。それが石油禁輸やハルノートなどのかなり前からの日本の国策だったからです。

日米交渉での日本の要求は「侵略はやめない、口を出すな、しかし石油はよこせ」というものでした。 どんな内容の要求でも相手が受け入れないのは相手が悪い、と。 そんな事が通るわけがありません。当時、山本五十六はのちの海軍大臣・嶋田繁太郎にこう書き送っています、「現政府のやり方はすべて前後不順なり。今更米国の圧迫に驚き、憤慨し困難するなどは、小学生が刹那主義にてウカウカと行動するにも似たり」、と。

そして小学生並みの刹那主義でウカウカと行動した当時の日本政府・軍部は世界史上最強の軍事超大国アメリカに戦争を仕掛け、明治の先達が営々と築きあげた日本をつぶしてしまいました。

ハルノートを受け入れていたら日本はアメリカの奴隷になっていたと言う人がいますが、とんでもない勘違いですね。こちらから仕掛けた戦争に完敗し、連合国の降伏条件をすべて受け入れて降伏したあとですらアメリカの奴隷にならなかったじゃないですか。

連合国としては天皇も戦犯として死刑にし、日本を米、英、中、ソで分割支配する事は可能だった。ドイツは四分割占領され、完全に再独立するまでにはソ連の為に45年もかかっています。しかし日本の場合はたった6年のアメリカによる寛容な占領ののち、植民地化されるどころか再独立し民主国として世界トップクラスの先進大国に成長しました。アメリカの奴隷、属国から程遠いですね。

ハルノートを受け入れ、中国、仏印にいた百万の大軍隊を日本に戻し、海軍は引き続き世界第三位(あるいは第二位)の精強な大艦隊、そしてアメリカとは最恵国待遇の交易関係を結ぶ。日本経済に深刻な悪影響を与えていた日中戦争が終わって日本の景気は活性化し、更に大国になる、、、そんな日本が外国の植民地になるわけがありません。

更には、昭和16年11月末の時点ではドイツの敗勢はそろそろ明らかでした。その様な世界情勢の中で軍事大国・日本が中立を保っておれば国際社会における発言力、影響力は相当なものになっていたでしょうね。国際連盟に常任理事国として復帰、米英ソなどと対等に付き合っていく、と。しかし経済や国際情勢が理解出来ず、好戦主義、侵略主義で暴走した東條に付き合わされた日本人は地獄を見ました。(引用終わり)


これはまことに正論ではないかと思う。こういうあたりまえの国益の判断ができなかった戦前の軍部や政治指導者の責任が問われるのは当然のことであると思うが、あろうことか高市早苗氏のように現在の日本の(一部?)政治家の中にも、その当時の判断をやむをえないものであったと考えられているのだとすると栗然とせざるをえない。

そういえば、昨日も靖国神社秋の例大祭のために超党派の国会議員で構成された「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の157人もの議員(これは過去最多!)が、集団で参拝していたことが報じられていたが、一体、彼らの歴史認識というのはどういうものなのか、きわめて疑問とせざるをえない。先の春の例大祭で高市早苗氏がついうっかりと本音を漏らした(?)ように、靖国に参拝した他の国会議員も似たような考え方をもっているのだとすると空恐ろしくなる。

もちろんあの戦争で散っていったわれわれの先祖の霊に対して尊崇の念をもって靖国を参拝すること自体は悪いことではない。しかし、靖国神社は多くの兵士を戦争に積極的に駆り立てる役割を果たしたばかりか戦後はA級戦犯を合祀したために、昭和天皇の反発を買い、その結果、天皇家が靖国を参拝するということは一切なくなった。だとすれば、国会議員という地位にある者がそのような天皇の意思を尊重せずに軽々しく靖国を参拝することはかえって不敬な行為にあたるのではないか。

昭和天皇は終戦時自らの戦争責任を深く自覚されマッカーサーにもそれを告げ、自らの処分も含めた一切の進退をマッカーサーにゆだねられたが、マッカーサーはその天皇の勇気に感動されて天皇の責任は一切問わないという占領軍の方針が定まり、天皇制が維持されたという経緯がある。このような経緯の中で昭和天皇が戦前の軍国主義の象徴であった靖国神社を疎ましく思っていたのは想像に難くない。

故山本七平氏の「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)によると、戦前昭和天皇に対してもっとも不敬な行為を働いていたのは当時の軍部や政治家であった。昭和天皇は自らが一貫して立憲君主制という限定された立場であるという自己規定の下に生きていたので、議会や政府の決定に対しては反対できなかったのである。なぜなら天皇という制度は国の機関の一部であり(いわゆる天皇機関説)、天皇には国の政治を決定する権利を与えられていなかったからである。昭和天皇の意向は終始一貫戦争の遂行に批判的ではあったが、近衛総理のときに翼賛会が誕生してからは、事実上、天皇の意思をまったく無視した軍部の一党独裁体制になってしまった。

この経緯について山本七平氏は次のように語っている。

簡単にいえば、彼らは2.26事件でなしえなかったことを別の方法で進めようとしていた。彼らは天皇機関説を非難攻撃しつつ、これを逆用した。というのは天皇は機関説通り、『立憲君主』の道から踏み出そうとしない。そして一木・美濃部説によれば、『天皇と議会とは同質の機関とみなされ、一応、天皇は議会の制限を受ける』『議会は天皇に対し独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない』のであるから、軍部が翼賛会を通じて議会を乗っ取ればよい。

2.26事件について、少し補足すると、戦前の一時期、青年将校たちによって天皇機関説が批判された。その青年将校たちが天皇のご親政(天皇による直接政治)を求めて2,26事件を起こしたわけであるが、その時、皮肉にも天皇は自らの権威をあらわして直接に彼らの鎮圧を求めたのである。山本七平氏によると、天皇が立憲君主制の自己規定を離れて、直接行動を起こしたのはこの時と終戦時のご聖断の2度しかなかった。ちなみに終戦時のご聖断時にはその天皇の意志に逆らって一部の軍が2,26の時と同じようなクーデターを起こそうとしたが未遂に終わっている。

戦後の天皇は象徴天皇制という極めて制限されたお立場にはなったが、そのお立場は戦前の立憲君主制とそんなに変わったわけではない。、変わったのは国の基本となる憲法が変わったのである。戦後の憲法は軍隊の保持と戦争の遂行を禁じる平和憲法となり、主権も国民に存するということが明確にされた。天皇については国民統合の象徴であるという規定がなされたが、これは必ずしも戦前の天皇制とまったく異なるものではない。戦前の天皇制も事実上は象徴天皇制にすぎなかったのである。ただ戦前と戦後の大きな違いは天皇の政治利用が戦後になって少なくなったということである。いずれにしても天皇は国民の象徴であるとされながらも、政治家たちはその天皇の意向というものをほとんど気にもかけなかった。戦後になっても昭和天皇は平和の象徴となられたが、靖国参拝を挙行する政治家たちは、それに嫌悪感をもつ天皇のご意向にはまったく無関心であった。

靖国神社が天皇の意向を無視してA級戦犯を合祀したということだけが問題なのではなく、そもそも靖国神社側が戦争を正当化する皇国史観を捨てていないという歴史認識の問題があり、これは天皇のご意向とは明らかに反するものであり、戦後憲法の考え方とも根本的に相容れないものである。それゆえ天皇は靖国神社に参拝なさることがなくなったのだと思う。

にもかかわらず、「みんなで靖国神社を参拝する国会議員」の157名もの議員たちが、靖国参拝を挙行することは中国や韓国に対する配慮だけではなく天皇に対する配慮も無視した行動であるといわざるをえないのではないか。昭和天皇ご健在の時代では、このような大量の国会議員が靖国参拝を挙行するということは考えられなかった。靖国神社に不快感をもつ昭和天皇が崩御されて以降、政治家の靖国参拝がやり易くなったというのであれば何をか況やである。もちろん裕仁天皇と明仁天皇のお考えは同じではないとしても、明仁天皇も裕仁天皇と同じく戦争を正当化する靖国神社の考え方をそのままお認めになることはできないであろう。靖国参拝の重要性は天皇のご意向とは無関係であるというのであれば、そもそも天皇はいかなる意味において国民統合の象徴なのかという理由を明らかにしなければならないのではないか。


靖国問題の本質は単に政教分離の原則に反するとか、それによる周辺諸国との政治的摩擦が国益を損ねるという問題にあるだけではなく、より本質的には戦後憲法の精神とそれに規定された象徴天皇制との調和が損なわれているという根深い問題がある。天皇と同じく公的に選ばれた政治家も憲法に規定された存在でなければならないとすれば、彼らの靖国参拝はその使命とすべき公的役職の範囲を逸脱しているのではないかという惧れを抱くのは政治家としては当然の感覚であるはずである。にもかかわらず、それらの批判や惧れをものともせず参拝を優先すべしという強い信念があるのだとすれば、それはいかなる信念なのか疑問とせざるをえない。それらの信念は単純に敬虔なる宗教的真情からでたものであるとも安易には考えられない。敢えて言えば、彼らの信念は靖国参拝によって自らが日本教に殉ずる「純粋人間」であるということを証明したいがためのポーズではないかと思われる。少なくとも日本の政治家は日本教徒であらねばならないし、その純度が直接に国民の評価にもつながってくるからである。尚、「日本人=日本教徒論」については別の章で考察しておりますので、興味のある方は参照してください。


補足;靖国でA級戦犯が合祀されたのは1978年であるが、その合祀は昭和天皇にも遺族の会にも相談せず靖国の松平宮司によって独断できめられた。なんと、この宮司は元海軍少佐であり終戦時に天皇のご聖断に反対しクーデターを起こそうとした平泉東大教授直系の弟子である。この宮司によると、天皇制は守らなければならないが個々の天皇には良い天皇もいればできの悪い天皇もいるので、彼らに従う必要はないという考えだったそうである。つまりこの宮司にとって昭和天皇はできの悪い天皇であるというわけだが、それはなぜかというと昭和天皇が東京裁判史観を受け入れたためであるというのである。秦郁彦氏はBSフジで次のように説明している。

「松平さんもそうだし、他にもそういう人がいるんですけれども、有名だった航空士官の平泉澄さんという東大の教授がいましたね。この平泉さんの直系の弟子です。終戦の反乱も平泉さんの弟子の陸軍将校達が企てたわけなんですけれど、平泉さんの哲学はどうかといいますと、大事なのは天皇制である。個々の天皇はまた別だと。ダメな天皇もいるという考えです。ですから、松平さんにしてみると、昭和天皇は気に入らないわけですね。なぜ気に入らないかというと、東京裁判史観にどっぷり浸かっているという見方をしているわけです。ですから、天皇が内々で、A級合祀という声が牛にちらちら聞こえていた時に反対だという内意は伝わっていたんです。だけれど、敢えてやってのけたと。だから、松平さんは亡くなる前も、自分はあれを後悔していないと。私は天皇が反対であることを百も承知でやったんだと。ちゃんと言っているんですね。だから、確信犯なんですよ。」

「みんなで靖国神社を参拝する国会議員」の人たちはこのような松平宮司の考え方をご存知なのであろうか?ご存知であるとすれば昭和天皇のご意思に明白にそむいた現在の靖国の在り方に対してどう考えているのか、ぜひ聞きたいものである。


補足2
今をときめく(?)というと失礼かもしれないが、このところ硬軟とりまぜた話題でマスコミをにぎわしている、明治天皇の玄孫にして気鋭の評論家(?)竹田恒泰氏が自らアップされている靖国問題に関するYOUTUBE画像を紹介しておきましょう。これについてはあれこれと感想を書きたくもないのですが(見れば分かることですから)、少しだけ言っておきましょう。要するに竹田氏の説によると、先の戦争は自衛戦争だったということになり、また韓国併合は韓国人にむしろ感謝されるべきであるなどと語っているのであります。これは一人の狂人の説であるというなら、別にこんなところで紹介する価値もなかろうと思いますが、これは先にあげた高市早苗氏の言葉にも親和性があり、あるいはもしかすると安倍氏の「侵略戦争の定義・・・云々」の話にも関係するかもしれませんので、ここに紹介する者です。これをみると、つい先日新聞でも報道された竹田氏のテレビ番組(「たかじんのそこまで言って委員会」)中での問題発言が、彼としてはむしろ控えめな表現にすぎなかったということが分かるでしょう。しかし畏れ多くも元皇室という方がこのような発言を平気でなさるとはまさに世も末ですね。マッカーサーに対して戦争の全責任を負おうとした昭和天皇の尊い御心をこれほど無残に否定なさるとは・・・もはや言うべき言葉もありません。ついでながら、この方の本がかつて山本七平賞を受賞しているのだそうです。まあ、選考委員の中にも同類(というより親分というべきか?)のような方がいますので、納得することではありますが。





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