3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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「南京大虐殺は捏造だ」を批判する その1

南京虐殺はなかったという、いわゆる「まぼろし派」の人々の中には不思議と宗教関係の人々が多い。たとえば参議院選で大量の候補を立てた「幸福の科学」のパンフレットなどを読むと、そこに「南京虐殺はなかった」という見解が堂々と主張されているので、びっくりさせられた。またYAHOOなどの上位検索にでてくる「南京大虐殺は捏造だった」というHPの管理人はキリスト教の牧師である。しかも、そんじょそこらの牧師ではなく、創造論の本を何冊も出版しておられるその筋では有名な牧師さんである。私は彼が書いた創造論の本を何冊か読んだ経験もある。なかなか面白くそれなりの説得力もあるのだが、この宇宙の歴史はたかだか数万年しかないという若い宇宙論を展開していたり、また恐竜と人類は共存していたにちがいないなどという奇想天外な論を展開しているあたりは科学的事実との整合性をまったく無視した極論ではないかといわざるをえない。しかし、聖書に対する信仰のゆえにそのような考え方をする人々が多くいるのは事実であり、それ自体は信仰の自由の範囲であるから、なんら問題はないと思う。

要するにこの牧師にとっては聖書のみが正しく、その記述に矛盾するような事実は存在しないという考え方なのである。一般にこういう考え方をキリスト教原理主義というのだが、なぜそういう人物がよりによって「南京虐殺は捏造だ」などといっているのであろうか?これは奇妙な話である。これをもし本場アメリカのキリスト教原理主義者が知ったら、びっくり仰天して怒りだすだろう。そもそもアメリカが日本の対中戦争にコミットするようになったのは南京虐殺事件が最初であり、それこそがアメリカ人を正義の参戦にふるい立たせたきっかけになった事件であったと(ある程度の知識をもつ)アメリカ人なら誰でも知っているからだ。その虐殺事件がGHQ主導で行われた東京裁判による捏造だったということがもし本当だとすれば、アメリカという国は正義の国であるどころか地球上最大の悪魔の国であったという話になる。そうだとすると本場の原理主義クリスチャンを含めてアメリカ人が信じているすべての信仰は根底から否定されることになる。彼は果たしてそこまでわかってあのようなHPを立ち上げているのであろうか?彼のHPをみると同じページを英語に翻訳して海外にも発信しているようであるが、そのような試みは決してアメリカ人に理解されることはありえないだろうと私は思う(むしろ、この英文のHPを海外の外交官らがみるとどう思うか非常に心配である)。

もっとも彼のようなクリスチャンは日本では必ずしも珍しいというわけではない。というのは故山本七平氏にいわせると、そもそも日本にはクリスチャンという人々は存在せず、存在するのは日本教徒キリスト派でしかないと断言しているぐらいだから、クリスチャンといわれる人々が同時に熱烈な日本教徒であるということになんら矛盾はないのである。日本教徒キリスト派にとっては、日本教の教えと聖書の教えは調和しなければならない。だから彼らにとって靖国参拝も決して聖書が否定する偶像崇拝ではなく、天皇制も決して聖書の教えに矛盾するものではない。戦前のクリスチャンたちは天皇を現人神として奉る国家神道を支持していたし、またほとんどのクリスチャンは戦争を積極的に肯定していたのである。このように考えると、われわれにとって日本教の(目に見えぬ)戒律こそが他のいかなる教えにも優先する戒律であり、その戒律にそむくことこそ日本人にとってはもっとも恥ずべき罪にあたるという故山本七平氏の説明は決して誇張ではなくわれわれの真実に近いのかもしれない。

そういえば、HP「南京虐殺は捏造だ」の管理人である某牧師は日ユ同祖論者としても有名であり、日本人とユダヤ人と同じアブラハムの血を分けた民族であるという説に基づく本も出版しているところから想像すると、彼にとって日本人こそは隠れたユダヤ人であり、日本教はユダヤ教そのものなのだという考え方に立っているのかもしれない。しかし、日本人が隠れたユダヤ人であるとすると、聖書の神が日本人に侵略戦争を許した理由は説明できない。だからあの戦争は侵略戦争ではなく、むしろ逆に欧米列強の侵略と戦うための聖戦であったと解釈されているのであろうか?

事実、彼の別のHPをみると
「あの戦争でアメリカのどこに「正義」があったのでしょうか。一方、日本が戦ったのは自衛のためでした。そして欧米列強によるアジアの全植民地化を防ぎ、アジア諸国を独立させるという「正義」がありました。」と記されているのである。

これは東條内閣が大東亜戦争を始めるにあたって唱えた聖戦論とまったく同じである。これについてはいずれ稿をあらためて書くつもりであるが、日本はアジアの独立のために戦ったなどという大義名分はウソ八百である。もしそれが本当なら中国の蒋介石が孫文の意志を受け継いで近代民主国家を建設しようとしていたのを、なぜ妨げたのか?結果的に中国は毛沢東の共産主義者に支配されたわけであるが、これは一貫して反共の立場を貫いた蒋介石の国民党軍が日本との戦争によって弱体化されたためであった。しかも、戦後のアジア諸国は日本の戦争によって独立したのではなく、中国の共産化の影響によるドミノ現象によって解放(独立)されていったのである。ベトナムがそうであり、カンボジアやラオスもそうであった。この結果、新たな悲劇がアジア諸国を巻き込んだことは説明するまでもないことであろう。

それにアジア諸国が植民地から解放され独立していったのは日本の戦争とは何の関係もなく、それぞれの国に新たなリーダーが出現し近代的意識が高まった結果である。中国に孫文が現れ、インドにガンジーが現れ、ベトナムにホーチミンが現れたのは日本が進めた戦争とは何の関係もない。また欧米列強も日本が戦争を始める以前の第一次大戦後から植民地主義を反省し、国際協調と平和主義を基調とした流れが生まれていた。その新しい時代の流れを知らずに、列強の植民地獲得競争に立ち遅れた日本やドイツが強引にその競争に加わろうとしたことが世界戦争に発展したのである。したがって日本の戦争にははじめから大義も正義も何もなかった。ただ欧米列強にならって植民地を広げたいという自らの野望だけであった。

このような歴史の流れをみれば日本が戦争に敗れたのは必然の結果だということが分かる。日本やドイツは無理矢理に歴史を後戻りさせようとしたために敗れたのである。それに対してイギリスやアメリカが戦争に勝利したのは民主主義という新しい価値を信じたからであった。あえていえば、それこそが真の神の導きであったと私はおもう。したがって某牧師の頭に取り憑いた大東亜戦争肯定論というのは歴史の流れだけではなく、神の導きにも無知な考え方であり、彼が信じている神はおそらく日本教徒キリスト派にしか分からない奇妙な神様であろう。

さてHP「南京大虐殺は捏造だった」というページをみると、まさにその論自体が某牧師の「創造論」ならぬ「想像論」になっているので、これは苦笑せざるをえないのであるが、しかし、このHPは彼の「創造論」のように信仰の自由だから許されるというものではない。これはすべての日本人と中国人(およびアメリカを始めとする関係諸国人も含め)にとっての歴史認識問題に深くかかわる問題であり、見過ごすわけにはいかないのである。

もちろん個人のブログであれば別段難事立てることでもないが、彼のHPが今日「南京の虐殺は捏造だった」という嘘説を信じる人々の異常繁殖に十分な貢献をしているという点ではその影響を見過ごすことができない。彼らは経済的に貧しいために本を買えない人なのか、またはそもそも本を読む根気がないためなのか、あるいは本を読んでいたとしても良い書物に接する機会がなかったのであろう。いずれにしても彼らの知識というのは南京事件についての一次資料を記した専門家の研究書によるものではなく、安直にもネットで粗製乱造された無責任な情報に頼っている人々である(多少は本を読んでいたとしても、おそらく一次資料とは無関係の書物であろう)。いずれにしても、その種の情報というのはウイルスの異常繁殖と同じ理屈で、なんらかの鋳型からコピーされてネズミ算的に殖え広がっているものであろう。そのような無責任情報の鋳型の一つに彼のHPがなっているとすれば、その影響はやはり無視できない。ましてや牧師という崇高な職責にある人物がそのような情報を広めているとすれば、これは大きな問題であるといわねばならない。

彼の誤りは「創造論」においてもそうであるが、事実を丹念に積み重ねた結果から帰納的に導き出された理論ではなく、初めから正しいとされる理論が存在し、その理論に合致しそうな事実だけを恣意的に選びだし、それによってあたかも理論が正しいと他人を錯覚させる手法に(本人自身も含めて)ハマってしまっているということである。ただし、これは某牧師だけではなく誰もがハマる詭弁術であり、このような手法によるといくらでも誤った結論に導くことが可能となり、この世は危険な思想で一杯になる。

科学というのは事実を丹念に調べていく地道な作業によってしかありえない。この考え方を最初に普及させたのは帰納法の発見者フランシス・ベーコンであり、爾来、この考え方が近代科学の方法論になった。この世にはあらかじめ正しい理論はあるはずはなく、すべての理論は事実によって検証されなければならない。これが科学の精神であり、そして近代人が獲得したもっとも重要な指針である。したがって何が正しいのかという場合、われわれは常にこの精神に立ち返り、何よりもまず事実に対して謙虚でなければならない。これはいかなる議論においても守られなければならない第一の約束事であり、この約束事は科学の分野ばかりではなく、政治の場でも法廷の場でもジャーナリズムの場においても、そしてもちろんネット社会の場の中でおいても、第一に守られなければならないものである。

ところが某牧師のHPをみるとそのような事実に対する謙虚な姿勢はみじんも感じられない。彼にとって事実はただ持説を正当化するためにのみ存在し、それ以外の事実は必要とされず、都合の悪い事実がある場合には、その意味を都合のよいように加工する。これが彼の一貫したやり方である。このようなことを良心の呵責もなく平然と行えるという、その異常なほどの詭弁術にはただただ舌を巻かざるをえない。

少し例をあげてみよう。たとえば南京陥落当時、しばらく間南京城内にいたニューヨークタイムズのダーディン記者がつぎのような報告をしているという。

「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」

この行動をもって彼は中国軍の方こそ放火や略奪をやった証拠であるとしているらしいのだが、この行動は南京に迫る日本軍の徴発行動(食糧等の不足を現地で補うこと)を防ぐための作戦であり、日本の侵略に対する正当な自衛行動であった。つまり南京城での長期持久線を想定して敵の補給を困難ならしめるために徴発行為の元を断つという作戦である。これは首都防衛の作戦上やむをえなかったのではないかと思われる。まず非難すべきは20万以上の大軍を送り込んで他国の首都を陥落させようと他国の領土内に攻め込んできた無謀な日本軍の侵略行為ではないのであろうか?

HPの中には他にもダーディン記者の言葉を2,3紹介していて、何も知らない人にはあたかもダーディン記者が中国人の行動の悪質さを訴えていたように映るのであるが、実はダーディン記者こそ南京大虐殺事件を世界に伝えた最初の証言者であったという事実を彼は故意に無視しているのである。

南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を逃してしまった・・・・中国政府機構の瓦解と中国軍の解体のため南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともに確立されると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大被害を受けることもなくなったと考えて、中国人民の間に大きな安堵の気持ちが広がった。歓呼の声で先頭の日本兵を迎えた住民もいた。しかし日本軍が占領してから二日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。一般市民の殺害が拡大された。警官と消防夫が特に狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺された」「日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよいほどだった。」「多数の中国人が妻や娘が誘拐されて強姦された、と外国人たちに報告した。」「記者は上海行きの軍艦に乗船する直前、バンド(埠頭)で二百人の男子が処刑されるのを見た。殺害には十分間かかった。男たちは壁の前に一列に並ばされて銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、一軒一軒しらみつぶしの捜索がおこなわれ、集められて処刑された。」(秦郁彦著「南京事件」中公新書P3-4)

この記事はダーディンが十二月十三日の南京陥落後、数日間に目撃したものを同月十七日に上海に停泊していたオアフ号上から本国へ打電したものである。先のダーディン記者の農村焼き払いの報告よりもこの報告の方がはるかに重要な報告ではないか?秦郁彦氏によると、「このダーディンの報告記事はわずか二日半の見聞にかぎられた速報ながら、南京アトローシティーにおけるほぼ全類型を網羅していた」と書かれている。もしかすると某牧師はこの報告を知らないのであろうか?というのは彼のHPの中には秦郁彦氏の資料がほとんどみあたらないからである。察するに彼の資料は数冊の「まぼろし派」の孫引き資料の中から都合のいい部分だけを引用しているだけのことなのかもしれない。ただし、これは彼に対して好意的に解釈した場合である。もし彼が秦郁彦氏の資料を知りながら、故意にその資料を隠しているのだとすると、よりいっそう悪質だということになる。

このような資料の恣意的利用は他にもいくらでもあり、ほぼ全編をとおしてみられる彼の一貫した手法なのである。たとえば彼は次のような資料を紹介している。

一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」
しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。


この聴取の対象となった人物、すなわち岡村寧次大将は当時南京にいなかったので、これはすべて伝聞であり、したがってすべてが事実ではなく間違ったうわさにすぎないとしている。確かにこれだけで捕虜の虐殺や強姦が事実であったという証拠にはならないが、だからといってこれを「事実ではありませんでした」と、その当時に生きてもいないわれわれがいかなる理由で断言できるのか?少なくとも大将の発言であるとすれば、それなりの重みのある発言であることは間違いあるまい。

ただし、当時その場にいなかった人物の資料はたとえ大将の発言であっても、少なくとも第一次資料とはいえないので、その資料価値は第一次資料に比べて低くなるのは当然である。彼がこの資料をわざわざ紹介した理由は判然としないが、こんな中途半端な資料だけで大虐殺があったなどと誰も決めつけることはできないのは当然であり、また誰もそんなことはしていない。そんな中身のない資料よりも、虐殺を裏付ける一次資料はいくらでもある。私がここで「一次資料」というのは具体的に南京で事件を起こした兵士たちの戦中日誌などであり、これは秦郁彦氏や笠原十九司氏の研究書の中に数多く紹介されている。これを読めば何人も大虐殺があったことを否定することはできないはずである。

特に秦郁彦氏の研究書では第一次史料と第二史料を厳密に峻別し、その中でもいくつかの分類をしながら資料価値に等級をつけているのは参考になるだろう。第一級の資料である公文書や作戦命令書などの文書は戦後すべて焼却処分にされており、また戦犯に問われるおそれのあった将校の日誌類なども大部分消滅しているので、その意味では残されている資料は非常にわずかではあるが、それでもなお下級兵士の戦中日誌などに残された数多くの資料から南京大虐殺事件の全体像をかなり正確に描くことができる。また90年代中頃に発見されたラーベの日記によって、より一層南京事件の全体像は明らかになっているといってもよいだろう。この「ラーベの日記」の発見はいわゆる「まぼろし派」の筆頭格である東中野氏や田中正明氏に相当強く衝撃を与えたようであり、これは彼らのほとんど自己弁護にさえならない苦しまぎれの反論にも表れている(これについてはいずれ機会があれば書いてみたい)。

某牧師はラーベの日記を読んでいるのかどうかしらないが、若干部分引用しているところをみると、これをまったく無視するわけにはいかなかったのであろうが、彼の説によるとラーベの日記はほぼすべて伝聞にもとづくものであったと強弁し、またラーベの動機についても次のように書いている。

ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。

ドイツと中国国民党が深い関係にあったことは事実であるが、同時に日本とドイツもそれ以前から深い関係にあったことを捨象されるのはいかがなものか?日独防共協定が結ばれたのは南京事件以前の1936年であり、その後に1937年12月日独伊の防共協定が結ばれたのである。ラーベはナチスの党員であり、その頃、ナチスと日本の軍部は良い関係にあった。だからこそ、ラーベは毎日のように塀を乗り越えてはいってくる日本の兵士たちにハーケンクロイツをみせるとたちまち立ち去ったということを何度も書いている。それほど日本軍とナチスの同盟関係は強かったことが分かる。またラーベは決して日本の悪口ばかりを書いているわけではなく、時には中国に対しても非難めいたことを書いている。彼は中国国民党の顧問であったというのは意味がよく分からないが、主に発電所関係の事業をしていたジーメンス社の商人であったことは確かである。ただしラーベ氏が武器商人であったなどと書いているが、これは「まぼろし派」の田中正明氏らが勝手に憶測しているだけで、その事実は証明されているわけではない。いずれにしても、「南京の真実」の編者エルヴィン・ヴィッケルト氏によれば、ラーベ氏はナチスの党員ではあったが立派なヒューマニストでもあったと証言している。

ラーベ氏の動機が純粋なヒューマニズムであったことは彼が連日の爆撃の中でも決して南京を脱出しなかった一事をみればわかる。彼は逃げたかったが、多くの知人や縁者を捨てて南京を離れることができなかったのである。南京の爆撃が始まった十月ころから当時130万人以上いた南京の市民は大陸の奥地へ次々と去り、また南京に在住していた外国人も次々と去って行った。その中で残ったのは逃げるお金のない貧しい人々と、そして一部の牧師や金陵大学の教授たちであった。ラーベ氏もその一人であったが、そこに残った理由は自分の身を守ることよりも多くの残された人々を助けんがためであった。牧師でもなかった人が、このような自分の命をかけた選択はなかなかできるものではない。その動機は人間としての純粋なヒューマニズムであったとしか考えられない。彼は南京のシンドラーとも呼ばれるが、ヴィッケルト氏によると、「オスカー・シンドラーの場合は、どこまで商業上の利益がからんでいたのか判然としないところがあった。だがジョン・ラーベの動機は間違いなく純粋だ」と述べている(wikipedea参照)。ちなみに、ラーベの日記(「南京の真実」)の終りにある「ヒトラーへの上申書」の中で自らが南京に残った理由について次のようにラーベ氏は述べている。

私が南京にとどまるという気になった背景には、先に挙げたのとは別の重大な理由があったのはいうまでもありません。ジーメンス社の業務という、私にとって大切な問題がありました。けれども会社から南京にとどまれといわれたのではありません。その逆です。南京のドイツ人はチャーターしたイギリスの蒸気船クトゥー号で漢口に避難することになっており、ジーメンス社は私になんとしても身の危険を避け、ほかのドイツ人や大使館の人たちに加わってクトゥー号に乗るようにと強く勧めてくらたのです。南京電力会社のタービンはわが社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央政府の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警備装置もこれらを管理していたのはわが社の中国人技術者でしたので、かれらはおいそれとは避難できませんでした。この人たちをはじめ、事務所の従業員、何十年も私の家で働いている使用人、それから中国人マネージャーなどが、家族をおおぜいひきつれて私のまわりに集まっておりました。

もし自分が見捨てたら、この人たちはみな殺されたり、ひどい目にあわされたりするのではないか…私にはそんな予感がありました。事実、それは正しかったのです。というわけで、まもなく私の家と事務所は、自分も会社の関係者だと思っている関係者でいっぱいになりました。……(「南京の真実」講談社P293)


南京陥落後、ラーベ氏は自分の庭に600人以上の市民を避難させ、彼らの安全のために命がけで戦った人物である。彼はその人々のために食料を与え(といっても一日1コップの生米しか与えられなかったという)、また彼らにいろいろな問題が生じたときにはその仲裁役をしたりしている。某牧師がいうように、もしも南京市内が安全なら、なぜそれほどの数の市民がわずか500平方メートルの庭に集まったまま去らなかったのであろうか?そこには屋根もなく、真冬の冷たい風も吹きさらしであり、食べ物もわずかしかなかったので、とても快適な場所ではなかったであろう。日記には次のように書かれている。

二月三日
収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うちの庭でも。七十人もの女の人がひざまずいて、頭を地面にこすりつけながら泣き叫んでいる。なんという哀れな姿だろう…胸がふさがる。みな、ここから出て行きたくないのだ。日本兵がこわいのだ。強姦されはしないかとおびえている。しごくもっともな話だ。私は繰り返し訴えられた。「あなたは私たちの父であり、母です。これまで私たちを守ってくださいました。お願いです。どうか見捨てないで!最後まで守ってください。辱められ、死ななくてはならないというのなら、ここで死なせてください!」……

また同じ安全区内にあった金陵大学には3000人の難民(しかも女性ばかり)が収容されており、彼女たちがラーベ氏に必死になって南京を見捨てないで下さいとすがってきたことを記している。

ヴォートリンさんのお別れパーティーはとてもいい雰囲気だった。ベイツとフィッチの他、李奇、アリソン、ローゼンが招かれていた。ごちそうがたくさんあったが、いざ帰るときになってつらい思いをした。この大学にいる難民は女性ばかりで、今ではおよそ三千人ほどになっていた。その人たちが戸口に群がって、わたしたちを見殺しにしないでください。南京を離れないと約束して下さいと口々に訴えたのだ。帰ろうとするといっせいにひざまずき、泣き、文字通り私の服にしがみついて離れなかった。

この日記は南京の安全区が解散させられ、代わりに日本軍主導による自治委員会が誕生したあとの2月17日の記録である。もしも本当に某牧師のいうごとく次のような安全な状況であったなら、彼女らはなにゆえに必死でラーベ氏にすがってきたのであろうか?

また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。

某牧師はラーベが日記で記している驚くべき数の強姦もすべて伝聞だから信用できないとしている。しかし伝聞だから信じられないというのは、あまりにも人を馬鹿にした話である。ラーベ氏が日記に記しているのは遠い国の出来事の伝聞ではない。自分の身近に起こっている日々の出来事である。彼はその伝聞に信憑性があるのかどうかをその場で判断できたであろう。その話をしている人物の表情やまたその人々とのつながりや置かれた状況などを知っているからこそ、それらの話を信じられるのではないか?たとえば十二月十三日の日記に次のようにある。

日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。

この韓という人物はジーメンス社の社員でラーベがもっとも信頼するアシスタントである。その人物が嘘をいうはずがないので、その話をそのまま日記に記載しているのである。

また伝聞ではなくラーベ氏が直接目撃した事件も書かれている。

十二月十八日
危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入りこんでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣を放り出し、難民の少女に襲いかかっていた。私はこいつをただちにつまみだした。もう一人は逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。

また次のような話もある。ラーベ氏の部下の妻が襲われたという話である。

一月三日
劉の妻が襲われたのは昨日の朝だった。五人の子供がいる。夫がかけつけ日本兵の横っ面をはって追い払った。午後、朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルをもってやってきて、台所に隠れていた劉をひきずりだした。近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足もとにひれ伏してすがった。だが日本兵は聞き入れなかった。

某牧師によると強姦は大部分中国兵が行ったのだと勝手に断定しているが、中国兵が安全区にいたのは陥落後せいぜい2,3週間である。なぜなら彼らのほとんどはすべて摘発され、下関などへ連れていかれて処刑されたからだ。にもかかわらず、陥落後二カ月近くになっても強姦事件は減らなかったことが二月の日記に記されている。

二月三日
今日上海日本大使館の日高信六郎参事官とローゼン宅で昼食。我々が記録した日本兵の強姦をはじめとする暴行はこの三日間だけでもなんと八十八件もある。これはこの種のものとしてはいままでいちばんひどかった十二月を上回っている。報告書を渡すと、日高氏はまったく困ったものだとつぶいやいて、部隊が交代する時には往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけしていた。

二月五日
強姦などの暴行は二月一日から二月三日までのたった三日間でまたもや九十八件もあった。さいわいわが家の収容所では、今日も問題は起こらなかった。けれども南京全体の実態はとてもそんな甘いものではない。そのことはこの中国人の手紙が雄弁に物語っている。収容所の責任者であるこの人がいうには、そこの中国では五千人だった難民が八千人に増えたそうだ。

いうまでもないことだが、どのような犯罪も人々の伝聞によってのみ、その事実が世間に知られるのである。伝聞によらなければ毎日の新聞もテレビのニュースもありえない。もちろんその犯罪が事実であったかどうかということは最終的には証言の信用性の有無を裁判所で確かめるという手続きが必要になるが、某牧師が誤解しているのは伝聞が直接証拠となりうるのかという一般論に取り違えていることである。伝聞は正確な場合もあれば正確でない場合もあり、またもちろん嘘である可能性もあるが、それが伝聞だからといって証拠にならないということはないのである。でなければいかなる裁判もできなくなるであろう。

少なくともラーベ氏が日記に記している情報は、その多くが伝聞であったとしても、それは貴重な一次資料であり、信憑性の高いものとして扱うのが当然である。それを否定するためにはより強力な反対資料をもって示さなければならないはずである。ところが某牧師がいうには、それは伝聞だから信用できないというだけであり、なんら反対資料を示していない。これではラーベ氏の人格を誹謗中傷しているだけではないか?そればかりではない。同じような証言は当時南京に在住していたマギー牧師やフィッチ牧師らほとんどの外国人が東京裁判で証言している事実がある。これらもすべて信用できないというのであれば、その反対証拠を示さなければならない。某牧師はそこまでして同じ牧師たちを嘘つき呼ばわりするというのはいかがなものであろうか?

某牧師のしていることはただただ真実を認めたくないということではないか?「いやそうではない、私は真実に対しては常に認める用意がある」というならば、某牧師がなすべきことはそれらの資料に対して信じられないと決めつけることではなく、もしかすると本当かもしれないので判断を保留するということでなければならないだろう。にもかかわらず、某牧師によると強姦はあったがそれらは日本兵がやったのではなく、あろうことかその大部分は中国兵がやったのであるとしているのである。そのようにいえる証拠はいったいどこにあるというのか?

補足1

某牧師によると、ラーベ氏は中国人将校をかくまい反日撹乱工作を行っていたと書いている。

実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。

たしかに将校をかくまっていたのは事実である。ただし、それは反日撹乱工作のためではなく、人道的な理由によるものであった。ラーベが南京を離れた日、もはや将校の身分を明かすことが危険ではなくなった日の日記に次のように記されている。これのどこが反日撹乱工作なのか?

二月二十二日
羅福祥氏は空軍将校だ。本名を汪漢萬といい、軍管道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。汪氏は漢の力添えで上海行きの旅券を手に入れることができたので、私の使用人だといってピー号に乗せるつもりだ。南京陥落以来わが家に隠れていたが、これでやっと安泰だ。日本機を何機も撃ち落としたが、南京が日本軍に占領されたときには体のぐあいを悪くしていた。もはや揚子江を渡ることができず、逃げられなかった。支流を泳いで行く時、友人を一人失い、やっとのことで城壁をよじ登って安全区に入ることができたのだ。

補足2
「南京の真実」の最終章に「ヒトラーへの上申書」と名のつけられたラーベ氏がドイツで講演したコピーがある。この中でラーベ氏は南京陥落前後の市内の状況を克明に伝えている。これを読むと南京市内がどのような状況であったかということが、かなり分かるのではないだろうか。またこれを読むとラーベ氏の情報が伝聞ばかりではなく、多くが直接に見た出来事あるいは被害者から直接に聞いた出来事であったということが分かる。彼の行動範囲は実に広くほとんど毎日のように市内を自動車で回っていた。すると必ず何人もの中国人から車を停められ、被害があったことを教えられ、その被害現場へ一緒に行ったりすることも多々あったと記されている。これをみても某牧師の「ラーベの日記は伝聞ばかりだから信用できない」という論は成り立たないことがわかる。

以下、少し長くなるが、南京陥落後の状況をほぼ全文引用することにする。

ありがたい!最悪の事態はすぎた!私はこう思いながら眠りにつきました。常々、私は周りの中国人たちにも言い聞かせていました。「日本人を恐れることはないんだよ。街を占領してしまえば、じきに落ち着いて混乱もおさまる。上海との交通もすぐに元通りになるだろうし、仕事もこれまでどおりできるさ」

私はひどい思い違いをしていたのです!

十二月十三日朝五時ころ。日本軍のすさまじい空襲で目が覚め、私ははじめひどく驚きました。けれども中国軍の敗残兵がまだ完全には掃討されていないのかもしれないと考えて自分を落ち着かせました。じっさいのところ、毎日の空襲にいい加減になれていて、もうさほど気にもとめなくなっていたのです。私はアメリカ人数人と市の南部にでかけました。日本軍司令部と連絡をとり、また街の被害状況をざっと調べておこうと思ったのです。司令部はみつかりませんでした。自転車に乗った日本軍の前哨によれば、総司令官は三日たたないと到着しないということでした。中国人の民間人の死体がそこここにありました。たぶん逃げようとするところだったのでしょう。中山路と太平路を抜け、夫子廟の手前まできて、太平路にあるアメリカ人伝道団の地所で車を降りました。日本兵が数人で自転車を盗もうとしているのをみつけて追い払いました。我々をみると逃げ出したのです。ちょうど日本のパトロール隊が通りかかったので、事件を報告し、伝道団の建物の入口にはアメリカの国旗がかかっていること、また、これらの家がアメリカ人のものである旨を印刷してある大きな掲示があると教えたのですが、とりあえず笑いながら行ってしまいました。

さらに私たちが回ってみた範囲に限って言えば、街はたいした被害をうけていないということがわかりました。中国軍は撤退するときに、ごくわずかしか損害を与えなかったことになります。私たちは満足し、これをしっかりと心にとめました。帰り道、新街口、通称ポツダム広場の手前で革の上着を着て、戦闘服をかぶっている日本人が数人、ドイツ人が経営するカフェ・キースリングに押し入るのを見つけました。帽子からいって軍人であるのは間違いありません。私はかれらをおしとどめ、店のドイツ国旗が目に入らないのか、とどなりました。かれらは英語を話しましたが、「なんか用かね。俺たちは腹が減っているんだ。文句があるなら日本大使館へ行くんだな。代金を払うだろうよ。」がその返事でした。それから、補給部隊がまだ到着しないので、糧食がもらえるかどうかあてにできないんだ、と弁解がましくつけ加えました。カフェ・キースリングはそのあと徹底的に破壊され、その後火を放たれました。」

ポツダム広場にある交通路の前で一人の日本の民間人によびとめられました。日本大使館書記官の福田です、とその人は自己紹介し、「ご無事でなによりです」といいました。さっそくたったいま見た略奪を福田氏に報告すると、次のような返事が返ってきました。言葉通りに再現するとこうなります。「日本軍はこの街は破壊しようとしています。けれども、私たち、日本大使館の人間はなんとかしてそれを防ぎたいと思っているのです」。福田氏やその同僚の福井氏、田中氏には、その後もしばしば、いやそれどころか、ほぼ毎日、会う機会がありました。みな丁寧で礼儀正しい人たちでしたが、日本軍に対しては残念ながら全くの無力でなんの影響力もありませんでした。その返事、「軍当局に伝えておきます」はいつも口頭であり(文書でくれたことはいちどもありません)、結局それきりでした。

いつのまにか、南からやってきた何千人もの日本兵がポツダム広場のまわりに参列し、市の残りの地域を占領すべく、扇形になって北へとさらに行進しようとしていました。それをみた私はリードに出ました。北から逃げて来るいわゆる敗残兵、揚子江を渡って逃げることができなかった中国首都防衛軍の生き残りに会えるのではないかと思ったからです。それが誤りでなかったことはまもなく分りました。途中で外交部の赤十字病院に寄り道をしましたが、すでに申し上げましたように、医師も看護婦も一人残らず逃げたあとで、病院じゅう中国兵の死体でいっぱいになっていました。

私たちドイツ人がバイエルン広場と呼んでいる山西道路のロータリー、これは安全区の北の角にあたりますが、まず最初にここで完全武装した兵四百人を擁する部隊に出会いました。あくまでも彼らのためを思ってしたこととはいえ、このため、あとになって私は若干良心の呵責を感じることになります。私は兵たちに、機関銃を装備した日本軍が遠くから進軍してくると伝え、危険を知らせました。そして、武器を捨てるよう、私が武装解除するから安全区の収容所にいれてもらうようにとすすめたのです。しばらく考えたあとで、彼らは私の忠告に従いました。あとで私は思いました。果たして自分にそんなことをする権利があったのだろうか?あれでよかったのであろうか?けれどもいまでは、ああするより仕方がなかったのだと思っています。なぜなら安全区との境で市街戦になったら、中国兵はこぞって安全区に逃げ込んだにちがいないからです。そうなれば安全区はもはや非武装ではなくなり、日本軍から猛烈に攻撃されたことでしょう。さらに、当然のことながら、完全に武装解除されていれば、捕虜になることはあっても、それ以上の危険はないだろうという期待もありました。

しかしながら、またしても私は思い違いをしていたのです!

この部隊の兵士全員、それからさらに、この日武器を捨てて安全区に逃げ込んだ数千人の兵たちも、日本軍によって難民のなかからよりわけられたのです。みな、手を出すようにいわれました。銃の台じりを握ったことのある人なら、たこができることをご存じでしょう。そのほか、背嚢を背負った跡が背中に残っていないか、行進による靴ずれができていないか、兵士独特の形に髪が切られていないかなども調べられました。そういうしるしがあった者は、元兵士の疑いをかけられ、縛られ、ひっぱられ処刑されたのです。こうして何千人もの人が機関銃あるいは手りゅう弾で殺されました。そこここでぞっとするような光景がくりひろげられました。そのうえ、全く罪のない民間人まで同時に射殺されたのです。日本軍には元兵士の数が少なすぎるように思われたからです。

残念なことに、この処刑もまた、およそ粗雑なやり方で行われました。死刑の判決を受けた人のなかにはただ負傷して気を失っただけの人もいたのですが、死体と同じようにガソリンをかけられ、生きながら火をつけられたのです。このなかの数人が鼓桜病院へ運ばれ、息を引き取るまぎわにその残酷な処刑の模様を語りました。私もいくどかこの耳でそれを聞きました。私たちはこれらの犠牲者を撮影し、記録として残しました。処刑が行われたのは、揚子江の岸か街の空き地、あるいは南京におよそ三千ある小さな沼のそばでした。これらの沼はみな、程度の差はあっても投げ込まれた死体で汚染されています。国際委員会に属している紅卍会という仏教系の赤十字組織(注・必ずしも仏教系とはかぎらない)を通じて、私たちはひとつの沼から実に百二十四体もの死体を引き上げました。どれもが紐あるいは電線で縛られていたので、一目で処刑されたのだと分りました。

というわけで、先ほどお話ししましたように、武装解除させたことで私は安全区を守りはしたが、それを除けば日本兵の命を救っただけの結果になりました。といいますのは、双方がぶつかれば、日本兵も多数命を落としたことはまちがいないからです。そしてこの処刑を合図のようにして、日本兵の不法行為が至る所で起こり始めたのです。かれらが完全に統制をうしなっているのはあきらかでした。私たちはまるで脱走した囚人の群れを相手にしているような気がしました。

三人から十人くらいずつ徒党を組んだ兵士たちが街や安全区を闊歩しはじめました。そして手当たり次第に略奪し、婦女子を暴行しました。それだけではありません、抵抗する者、逃げ出す者、そのほかなんであろうと、癪にさわった者を片っ端から手にかけたのです。そのさい大人であろうと、子供であろうと、見境ありませんでした。下は八歳から上は七十歳を越える女性が暴行され、多くはむごたらしく殺されました。局部にビール瓶や竹が突き刺されている女性の死体もありました。これらの犠牲者を私はこの目で見たのです。いまわの際のかれらと口もききました。鼓桜病院の遺体安置室で、もう一度遺体の布をとってもらいもしました。届けられた報告が真実に基づいていることを自分の目で確かめるためです。

みなさんは信じられないとお思いでしょうが、婦女子の暴行は安全区にいくつもあった女子収容所のまんなかで行われたのです。そこにはそれぞれ五千人から一万人までの女性が寝泊まりしていました。なにぶん我々外国人の数は限られており、この信じがたい蛮行を防ぐために常にそばにいてやることはできません。刃向う者は手当たり次第殺すこれらの凶暴な人間どもを前に、難民はなすすべもありませんでした。

ただ我々外国人に対してだけは、いくらか遠慮していました。そうはいっても我々はみな、何十回も命の危険にさらされました。これから先、いったいいつまで「はったり」がきかせられるだろうか、とお互い話し合ったものです。私たちの「力」は、まさしくはったり以外の何物でもなかったのですから。外国の国旗が尊重されることは全くありませんでした。たとえあったとしても、ごくまれでした。アメリカの国旗はしばしば引きずり下され、汚されました。このため、アメリカ人は非常に怒ったのです。六十軒あるドイツ人の家のうち、四十軒以上が大なり小なり略奪され、四軒は完全に焼き払われてしまいました。アメリカ人の被害については覚えていません。わが家から、私がこの手で放り出した日本兵も百人は下りません。ときには命の危険もないわけではありませんでした。ナチ党員のバッジとハーケンクロイツの腕章、私には、、これよりほか身を守るすべはなかったのです。わが家に押し入る日本兵があまりに多くなったとき私は日本大使館の役人に次のように申し渡しました。実際、この通りに伝えたのです。

「軍当局に伝えてください。私は祖国の国旗とわが家の名誉とを命がけで守るつもりです。警告しておきますが、どんな結果になろうと、すべての責任はあなた方にあります」

あの十二月の日々(クリスマス前後が一番ひどかったですが)、私たちは文字通り屍を乗り越えて進んで行きました。二月一日まで、埋葬すら禁じられていたからです。家の門から遠くないところに、手足を縛られた中国兵の射殺体がありました。それは竹の担架に縛りつけられ、通りに放り出されていました。十二月三日から一月末まで、遺体を埋葬するか、どこかへ移す許可をくれるように、いくども頼みましたが、だめでした。二月一日に、ようやくなくなりました。このような残虐行為についてお話ししようと思えば、まだ何時間でも続けられますが、このへんでやめておきます。

中国側(筆者注・これは現中国共産党政府ではなく国民党政府のこと)の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万人から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍会によりますと、一日二百体は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。

収容書の難民は総じて従順で手がかかりませんでした。すでにお話ししたように、カップ一杯の生米というわずかな食べ物しか与えることができなかったのですが、わが家の庭のプライべートな小さな収容所は、十二月十二日の爆撃の夜に誕生しました。ジーメンス・キャンプと呼ばれたこの収容所の難民は、いつのまにか六百五十人にふくれあがっていました。そのうち三百人が女性です。子どもは百二十六人いました。かれらは小さな稿小屋でひしめきあって暮らしていました。湿気をふせぐため、小屋を壁用の石で囲っていました。難民たちは本格的な警備、管理体制を整えていました。日本兵が塀を越えてはいってきたとき、警告ですぐに駆け付けられるように、私は何週間もの間、服を着たまま寝ていました。昼間はまあなんとかなり、たいていはすぐに追い出すことができましたが、夜になると事態はいくぶんめんどうで、危険になりました。暗闇の中であちらこちらから同時に塀を越えて入られるときは特に大変でした。この粗末な収容所、泥だらけの庭で、子どもが二人生まれました。体をくるんでくれるものといったら、うすいむしろだけでした。男の子には私の名、女の子には妻の名がつけられました。名親からのプレゼントとして、男の子には10ドル、女の子には9,5ドル贈りました。同額ではだめなのです。中国では女の子は男の子ほど値打ちがないのです。

委員会本部に向かう途中で、私の車はきまって停められました。いつもだれかが道に立って、妻や妹、あるいは娘が日本兵に暴行されそうになっている、なんとか助けてくれないか、と必死で訴えるのです。中国人の一団に連れられて現場に行き、まさに行為に及ぼうとしているところを取り押さえたことも多々ありました。こういう思い切った行為が危険だったことはいうまでもありません。日本兵はモーゼル拳銃と銃剣をもっていましたが、先ほども申しあげましたように、私にはナチのバッジとハーケンクロイツの腕章しかなかったのですから、武器がないなら、堂々たる態度と迫力で対抗するしかありません。事実、それは大抵の場合、役に立ちました。

しだいに、食糧が乏しくなっていきました。日本軍から数千袋内緒で米を買うことができましたが、まもなくこれは打ち切られてしまいました。日本軍はもし私たちが委員会を解散し、難民を立ち退かせれば、食糧の支給は自分たちが引き継ぐか、あるいは新たに発足した自治委員会にやらせると約束しました。

私たちが委員会を解散しなかったのはもちろんです。けれども日本軍の意を迎えるため、名称を南京国際救済委員会に変更し、難民には立場上、日本軍が安全区をでるよう要求していると伝えないわけにはいきませんでした。その結果どうなったか。出て行った女性たちの多くが大ぜい新たに暴行され、略奪されて戻ってきたのです。それどころか、かつて住んでいた家の焼け跡で殺された人たちもいました。そのくせ安全区の街角には「わが日本軍を信用しなさい!君たちを保護し、食料を与えるでしょう」と書かれたきれいなポスターが貼ってあったのです。

壊されたり略奪されたりしていない店など、南京には一軒もありませんでした。街の三分の一は日本軍に焼き払われ、太平路も歓楽街の夫子廟も忽然と姿を消しました。個別の私的な略奪グループについてはすでにお話ししましたが、そのあと、みごとに組織された略奪部隊が登場しました。かれらは十ないし十二台のトラックで乗り付け、盗んだ家具を積めるだけ積んだあと、一軒一軒、またはまとめて火をつけました。フィルムの切れ端を詰めた箱を木箱に入れて運びこみ、床にばらまいて火をつけたのです。家が一部ブロック、あっという間に焼けていました。

われわれ数少ないヨーロッパン人やアメリカ人は絶望的な気持になりましたが、そのまま仕事を続けました。仲間のドイツ人とアメリカ人に対し、この場であらためて称賛の言葉を述べずにはいられません。だれもが一度ならず生命の危険にさらされました。けれども、だれ一人としてくじけませんでした。ようやく二月の初め頃でしょうか、事態はいくらか好転しました。部隊が交代したのです。撤退する部隊もあらたに到着した部隊も、あいかわらずいいように略奪してはいたものの、それでも少しずつ統制がとれてきたように見受けられました。今度は憲兵隊がおりましたし、これはいくらかほかの部隊よりはましだったので、安全区で警察の業務を果たしました。

なんとか帰られるおのならもといた家に帰るようにと、私たちはくりかえし難民に言い聞かせました。日本軍は力づくで安全区を空にするとおどし続けたので、そうするより他になかったのです。およそ十万人が、といってもその多くが年寄りの男性と子どもたちでしたが、私の出発前に安全区から出て行きました。なかにはまたもや日本兵にひどい目にあわされて戻って来た人たちもいましたが、大半はそのままとどまりました。そういうわけで、このころ私は―すでに会社から呼び戻されていました―帰国を現実問題として考えられるようになりました。

私が帰国すると聞いた難民ははじめのうち、なんとか引きとめようと列をなして請願に来ましたが、結局は納得してくれました。私はイギリス政府の厚意で砲艦ピーに乗せていただくことになり、二月二十三日に上海に向かって出発しました。






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