3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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利己的本能と利他的本能

人間の中には誰でも利己的人間と同時に利他的人間が住んでいるのではないだろうか?たとえば東日本大震災のとき、多くの人々は自分の生命を守ろうとする利己的本能と同時に他人の生命を助けたいという利他的本能のようなものに憑き動かされていたのではあるまいか。あの地獄のような世界の中で日本人が決して冷静さを失わず、礼儀正しい行動や他人を思いやる行動を積極的にとっていたことは世界中に感銘を与えた。あの哲学者のマイケル・サンデルは「日本の人々が表した美徳や精神が世界にとって、大きな意義をもっていた」と述べている。これは単純に日本人を賞賛しているだけの外交辞令ではなく、サンデル氏にとっては哲学的な意味でも人間という種が必ずしも利己的生物ではないということを日本人が証明してくれたということに大変大きな意義があるということを含意しているのであろう。

生物学者のリチャード・ドーキンスによると、すべての生き物は本来利己的な存在であるということが主張されている。彼によると、すべての生き物は自分の遺伝子をより多く次代に残すことだけが、その生存目的なのである。たとえばあらゆる動物のオスがメスの獲得をめぐって互いに争いを演じるのは、自分の遺伝子を残すことが最高の生存目的であるからに他ならない。ただし、生物の中には例外的に利他的行動を行うようにみえる生物もある。それはアリや蜂などの共同生活を営む生物である。彼らの生態は一見、利他的な行動に満ち満ちている。働きアリとか働き蜂はあたかも自分というものをもたずに女王アリや女王蜂に奉仕しているようにみえる。しかしリチャード・ドーキンスによると、これは彼らが他の生物と異なる本能をもつことを意味しているのではなく、実はそのような生態を通じて、彼らもまた自分の遺伝子を次代に残すという生存目的にしたがっているのだとされる。すなわち彼ら働きアリや働き蜂は共同で女王アリや女王蜂に奉仕することによって、自分たちの遺伝子をより確実に次代に残そうとしているだけなのだと説明されるのである。

かつては生物には個体保存の本能と種族保存の本能があるとされていた。それによると、アリや蜂の生態は個体保存本能よりも種族保存本能が強い生物だと考えられていた。しかしドーキンスによると、生物にあるのは個体保存の本能でも種族保存の本能でもなく、ただ自分の遺伝子を次代に残すという本能があるだけであり、その意味ではすべての生物は同じ本能にしたがって生きているのだといえる。

たしかに、このようなドーキンスの説明は面白く、特に動物一般にみられるメスの獲得をめぐって争うオス同士の生存闘争の激しさを非常にうまく説明できると思う。さらに面白いのは、人間の生態においても同じようなことがいえることである。われわれ人間の社会をみても、その生殖にまつわる生態はサルの社会やあるいはアザラシの社会とあまり変わらないのではないか?現代ではごく一部の社会でのみ一夫多妻制が容認されているが、かつて一夫多妻はあらゆる国々の権力者に共通にみられる現象であった。これは旧約聖書の中にもあたり前のように記されているのをみてもよく分かる。旧約聖書中に記された歴代の権力者の多くは好色であり、イスラエル史上最大の権力を誇ったソロモン王に至っては800人以上の側室がいたとされている。ただし、彼は結局その並はずれた好色によって堕落し、神の怒りを招き統一王国を分裂させるという結果になったと記されている。これは日本の権力者においても同様である。徳川時代のように天下大平の世の中になると世の中は必ず好色一辺倒になり、その頂点に位置する権力者はこの世の春を謳歌するかのように多くの女性を側室としてしたがえることになる。

ひと昔前までは「浮気は男の甲斐性」とかいって、金と権力がある男には正妻以外に複数の女をもつことも許されるという風潮があった。だから昔の力のある政治家には必ずといってよいほど妾の存在がいたりしたものだが、最近では例の小沢氏の醜聞以外にはあまり聞かなくなった。それでも小沢氏の醜聞を醜聞とも思わない日本人もいまだに相当数いることだろう。いずれにせよドーキンスの考え方によれば、要するに生物というのは遺伝子を複製するための生存機械に他ならないのであって、男の甲斐性というのも生物の生存本能そのものだということになるのであり、そういう生物学的本能に対しては道徳や倫理という価値観もあまり説得力をもたないかもしれない。

話を元に戻そう。

東日本大震災で示した日本人の行動に対して、哲学者のマイケル・サンデルが賛辞を述べたのは、決して日本人に対する単純な外交辞令ではなく、そこには歴史的に問われた哲学的テーマがあったのである。それは人間という種がドーキンスのいうごとく、単に遺伝子複製のための生存機械にすぎないのかどうかというテーマである。もし人間が単にそういう存在にすぎないのであれば、なぜ日本人は震災の最中に崇高な犠牲的精神を示すことができたのであろうか(?)という疑問が起こるのである。たとえばアメリカ南部で2005年8月に起こったハリケーン・カトリーナの際、略奪や便乗値上げが頻繁に起こったらしいが、日本ではいっさいそういうことは起こらなかった。それでマイケル・サンデルをはじめとするアメリカ人には日本人の礼儀正しさや思いやりのある行動が信じられないほどの印象を与えたというのも分かるような気がする。アメリカは何よりも隣人愛を説くキリスト教国であるはずだが、非キリスト教国の日本人の方がはるかに隣人愛の精神が身に付いているのではないかという、彼らにとっては忸怩たる思いもあっただろう。しかし、同時に彼らにとっては日本人が示した行動によって、人間が本質的に利己的存在であるとは必ずしもいえないのではないかというある種の希望のようなものも同時に彼らは感じたのかもしれない。

この問題についてドーキンス風に答えるとすれば、日本人の社会はアリや蜂の社会と同じように、遺伝的に同質性が強く、その結果、本能的に利他的な行動がとれるのではないかという説明が一応できる。それに対してアメリカ人の社会は遺伝的な異質性が強いため、利己的遺伝子(すなわち自分)を守ろうとする行動が優先されるのではないかという解釈ができる。しかしながら、アメリカ人は元来決して利己的な民族というわけではなく、それはあの震災後、「トモダチ作戦」として最大の援助をしてくれたのが他ならぬアメリカであるということを思い起こせば十分であろう。アメリカ人はときに人の命をなんとも思わない無慈悲な残酷さをいろいろな戦争の場で示すこともあるが、しかし彼らは世界の警察官として自らの命を惜しまない勇敢な人々であるということも忘れてはなるまい。彼らのように力づくで平和を守ろうという意識は、幸か不幸か日本人にはまったくといってよいほどもちあわせない。

アメリカ人が他国との戦争で命を惜しまないのは、自国の権益を維持したいがためであるという解釈はむろんあるだろう。しかし、真珠湾の奇襲攻撃に対して対日戦に立ち上がったときも、ヒトラーの横暴に対して対独参戦を決意したのも、決して自国の権益という観点だけでは説明できないだろう。また第二次大戦後の冷戦体制の中で生じた朝鮮戦争やベトナム戦争などの対共産圏の戦争においても、決して自国の権益を拡大するためとはいえないだろう。あのときアメリカの力がなければ朝鮮半島は完全に共産化されていたし、また日本にもその共産化の流れは波及していたであろうし、もちろん東南アジアはドミノ現象で次々と共産化されたであろう。そうなればこの世界はどうなっていたであろうか?そう考えると、日本人がアメリカ人に比べてより利他的であるとは到底いえないと思う。

はっきりといえることは、日本人は同じ自国民の生命については非常にシンパシーが強く、たとえば海外で日本人の生命が人質にとられて危機に瀕したりすると、マスコミが異様な反応を示すことがあることでも分かる。

かつて南米ペルーのフジモリ政権時、1996年12月17日に反政府革命軍部隊(MRTA)が日本大使館に入り、日本人を中心に人質にとるというテロ事件が発生したのを覚えている方も多いだろう。この事件はしばらくの間、革命部隊(MRTA)とペルー政府の間で人質解放の交渉が続けられていた。しかし、事件発生後半年近くも経過した翌年4月22日(日本時間4月23日)に特殊部隊が秘密裏に掘っていたトンネルから公邸内に突入し電撃的に事件を解決した。この際、人質になっていた72人のうち71人が無事解放され、そのうち日本人は全員無事に解放された。この救出作戦は4月23日の早朝、通常であれば芸能情報ばかり流される朝のワイドショーで異例の生中継がされていた。実はこのときの生中継を中島みゆきが「4.2.3」というタイトルで歌にしているのである。

この歌についてはファンの方ならご存知であろうが、一般にはあまり知られていないと思うので少し説明しておきたい。この「4.2.3」という歌はメロディーのない、ほとんど詩の朗読だけの作品である。この歌は、いろんな意味でとにかく異色の作品である。彼女の怒りを押し殺したような歌いっぷりもそうであるが、そもそも中島みゆきはこの作品で何を語ろうとしているのかということも非常に分かりづらい作品である。そのさわりの部分を引用しておきたい。

この国は危ない
何度でも同じあやまちを繰り返すだろう 平和を望むと言いながらも
日本と名の付いていないものにならば
いくらだって冷たくなれるのだろう
慌てた時に 人は正体を顕すね

あの国の中で事件は終わり
私の中ではこの国への怖れが 黒い炎を吹きはじめた

4.2.3....,,,, 4.2.3.......

※全詩について興味のある人はgooの歌詞を検索してみてください

今思えば、この作品で中島みゆきがいわんとしたのは、次のようなことではなかろうかと思う。すなわち日本人が同じ日本人の命に対してシンパシーを感じること、そのシンパシー自体はもちろん非常に尊いものであろうが、しかし、一方で日本人でない者に対しては極端に無関心になれるわれわれの非常に偏った「隣人愛」というのは、いったい、その本質(正体)はいかなるものなのか?日本人が日本人同士で互いに感じるシンパシーというのは、団結力とか協調性とか思いやりという日本人特有の行動の源泉になっているのだろうと思うが、それは同時にかつての部落差別とか朝鮮人差別のような差別と排除の論理にもなりうる。シンパシーを感じない相手に対しては、いくらでも日本人は冷たくなれるのではないか?中島みゆきが「この国は危ない。何度でも同じあやまちを繰り返すだろう」というのは、そのような意味合いがあるのではなかろうか。

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