3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(9)ハシズムの正体とは

橋下旋風とかハシズムといわれる異常なそのブームを作りだしたのは、決して橋下氏本人ではない。むしろ橋下氏をそのようなブームの主役に駆り出したのは、われわれ国民の方であり、それはわれわれ自身の願望でもあったのではないか?橋下氏はそのわけのわからない国民の願望に乗せられて、まるで時代の革命児でもあるかのように錯覚させられ、ついつい周囲のおだてに本気になってしまい、気がつくとのっぴきならない権力争いの舞台へと登壇してしまったのだろう。それははじめから計算づくであったわけではなく、あくまでもなりゆきにすぎないのであろう。しかし、ここまで来てしまった以上はやるしかないし、いまさら弱気になるわけにもいかない。それが橋下氏の偽らざる胸中ではないかと想像する。

さて、すでにみたとおり橋下氏の異常人気の秘密は小泉人気やあるいはかつての美濃部都知事の人気にも通じる部分があるので、ここで少し三者の共通点を整理しておこう。

1.三人とも大胆な政策を掲げ、既成政党ときっぱりと関係を絶っている。
2.三人とも私心のなさを国民に強く印象付けることに成功している。
3.三人とも国民との間に二人称的関係を築き、小天皇のようにふるまっている。

この三点の他に、特に重要なのは天皇制イデオロギーとの関係である。美濃部氏の場合は左翼的な思想の持ち主ではあったが、彼の実父は戦前に天皇機関説を唱えた美濃部達吉であり、その意味で天皇制護持に重要な貢献を成した人物の嫡男であるという自らの出自が何らかの影響を与えていたことは疑えない。

一方、小泉氏の場合は思想的には親米保守派であるが、靖国参拝の強行によって自らの天皇制イデオロギーに対する立場を鮮明にしている。ただし、彼の思想的立場は女性天皇を認めるという皇室典範の改正を企てたことをみても分かる通り、国粋主義的な右翼とはまったく異質なものであった。

では橋下氏の場合はどうであろうか?彼は決して右翼的人物でもなく保守派であるともいえない。彼の政策をみていると、既成の社会構造を変えようとするいくつかの大胆な革命的政策を掲げているので、むしろ彼は革新派というべきだろう。首相公選制を唱えているのをみても、彼の中に天皇制イデオロギーに対する十分な理解があるとは思えない。なぜなら首相公選制になると天皇を元首と戴く我が国の国体に悖るものであると危惧するのが普通だからである。

にもかかわらず彼が保守派であるとみなされているのは誤解にすぎないのだろうが、それはたとえば日教組や公務員組合に対する厳しい締め付けをしたからだろう。教師が国歌を斉唱する際には起立しなければならないというだけでなく、口パクも許さないという厳しい条例を決めたことで、彼は一部のジャーナリストから思想信条の自由に抵触するとして批判された。しかし、そもそもいかなる国の公務員も国歌と国旗に対して最大限の敬意を払うのが当然だとされているので、橋下氏の条例案はまったくの非常識であるともいいきれない。しかるに、この前代未聞の条例によって一部ジャーナリストの批判は逆に封じ込められ、橋下氏は天皇制イデオロギーを擁護する保守派の政治家として、多くの保守派人士からも評価されるようになった。問題は彼が保守派か革新派かということではなく、一連の日教組バッシングによって、彼は日本教の「純粋人間」としてのイメージを与えることに成功したということであろう。

故山本七平氏が述べているように、「日本教」すなわち「天秤の世界」の中心とその左右に配置する天秤皿は時代とともにその位置が微妙に変わる。日本教の中心すなわち天秤の世界の中心には常に天皇が存在することは変わらないが、しかし左右の天秤皿の位置は時代によって微妙に異なるので、天皇制イデオロギーに対する人々の意識も時代によって異なるのである。美濃部都知事の時代は左翼的イデオロギーが強く、天皇制イデオロギーも希薄になっていたが、しかし、それがまったく無くなることは日本教がなくなることと同じでありえないことである。したがって、美濃部都知事の時代でも日本教徒(すなわち一般の日本人)は美濃部氏に対して天皇制イデオロギーに対するある程度の忠誠を求めていたのである。それがすなわち彼の氏素性がもつ意味でもあった。

一方、小泉氏や橋下氏の時代は左翼イデオロギーが衰退した時代であり、その結果、日本教徒(すなわち一般の日本人)は政治家に対して天皇制イデオロギーに忠誠であることをより強く要求するようになった。もちろん、それは個々の日本人が右傾化したということを単純に意味するものではなく、全体としての日本人の意識が少しずつ変わったということ(すなわち空気の変化)を意味している。したがって小泉氏が靖国参拝を強行したり、橋下氏が国歌斉唱の際に口パクを許さないという条例を通そうとしたのも、そのような日本人の意識の変化に応じた政治家の一つのパフォーマンスだといえる。少なくとも、小泉氏や橋下氏はそれらの行為によって日本教の「純粋人間」としての評価を得たことは確かなのである(その評価が計算づくのものであろうとなかろうと)。

橋下氏が特に優れているのは、日本教のそうした目に見えない「教義」(あるいは「空気」と言い変えてもよい)に対して敏感な感受性をもっているということではないかと思う。彼はもともとTVの人気タレントとしても成功した弁護士であったが、政治家になるにあたって、事あるごとに「私心がない」ということを印象付けることに努力してきた。たとえば彼は大阪府知事になるにあたって、自らのTVタレント時代の3億を超える年収から2000万ぐらいの年収に落ち込んだという。しかも彼は政治家になってから、ほとんど寝る間もなく働いてきたという。弁護士やTVタレントを続けている方がどれほど楽かということは、彼自身がもっともよく分かっているだろう。そのうえ彼は7人の子沢山であり、政治家になることで家庭生活も犠牲にしなければならなかった。にもかかわらず、彼が政治家になろうとしたのは、この国の腐敗したシステムを変えたいという一心であったのだという。

そのような彼の「私心のなさ」は必ずしもパフォーマンスや演技だけのことではないのだろう。彼は決して抜群に演説上手というわけでもなく、小泉元総理のように美形というわけでもない。さらに政治や政策の知識もほとんどが借り物といってもよいぐらい、いい加減なものであり、豊かな見識のある人物であるとはとても思えない。にもかかわらず、彼が人気を集めるのは、ひとえにその行動力のゆえであろう。政治家になって以来の彼は本当に自分を捨てて、公に捧げているようにみえることもあった。その「私心のない」姿がまさに日本教徒の「純粋人間」そのものにみえたのではないであろうか?

政治家というのは公に奉仕するために国民が選ぶ選良である。国民は決して賢明な存在であるとはいえないが、しかし彼らはわけの分からない政策の是非よりもむしろ日本教の教義にしたがって候補者の品定めをしているのではないだろうか?すなわち、どの候補者がもっとも「私心のない」候補者であるかということが、国民の判定基準の中に無意識に入っているのだといえる。

橋下氏はそのような国民の意識を本能的に見抜いているところがあるようにみえる。その証拠に彼は政治家になってからも決して国民に対してスキをみせようとしない。たとえば「市長を辞めて国政にでたら?」という記者の質問に対して「そんなことをすれば、たちまち国民の審判を受けますよ」みたいなことを言っている。今現在の人気がいつまでも続くわけではないということを彼は誰よりもよく分かっているのだろう。

政治家という職業は俳優や歌手のような人気商売と同じではない。政治家というのは常に日本教の教義によって評価される存在なのであり、単に演説のうまさや知識の豊かさや格好の良さだけで評価されているわけではないのである。だから政治家は自らの野心が決して表にでてはならず、あくまでも国民の奉仕者であるというイメージを与え続けなければならない。これは必ずしも日本だけのことではないかもしれないが、中国やロシアのような独裁国は別にして同じ民主主義国の中でも、日本の政治家というのは特にそのような要素が要求される傾向が強いのではないだろうか?

たとえばイタリアの前首相ベルルスコーニ氏は、総理在任時代に様々な汚職と脱税、マフィアとの癒着などで疑惑をもたれていた。最後にはおまけに少女買春疑惑まででてきて、それこそ疑惑の総合商社のような存在であったが、イタリア人はそれでも彼を9年間もの間首相として容認し続けた。それは国民性の違いと言えばそれまでだが、少なくともイタリアはカトリックの総本山のある国であるということを忘れないでいただきたい。もちろんイギリスやドイツ、アメリカのような非カトリックの先進国では、政治家のレベルは日本よりもはるかに高いのではないかという指摘もあるが、それは確かにそうだと思う。しかし、それらの国々では、日本とは違いそもそも政治家は有能であるかどうかという基準で選ばれるのが普通であり、日本のように「私心のなさ」という評価基準はおそらく皆無といってもよいのではないだろうか?

もちろん、だからといって日本の政治家は道徳的に高いとかいうわけでないことはいうまでもないだろう。そもそも政治家になろうとする者が道徳的に高い人種であるはずはなく、むしろ政治家=野心家といってもよいぐらい彼らは途方もない権力欲をもった人々であるというのが普通である。権力欲というのは他人を支配したいという、どんな人間にもある強い欲望であり、その欲望は他人に奉仕するという欲望とは本来正反対のものである。だから政治家に国民の奉仕者になれというのは一つの矛盾であり、ないものねだりといってもよいのだが、しかし、日本教というのは一つの宗教であり、その教義は「私心のなさ」という不文律であるかぎり、日本の政治家たらんとする者は必ずその不文律を自らに課しながら、国民の審判を仰がなければならない存在でもあるのである。

ここまでみてきて、橋下氏が異常な人気を集めた理由というものはきわめて日本的な現象であるということがいえるのではないかと思う。彼は日本教徒にとってのある種メシヤ(救世主)のような存在にまで偶像化されたわけであるが、これはしかし錯覚にすぎない。国民がそれを錯覚であるということに気付けば、いずれ橋下氏は国民から見離されることになるだろう。

一方、橋下氏にとっては自分がここまで偶像化されるとは思いもよらなかったことであろうが、彼はそれでもそれを錯覚であるとは思わず、それを自らの純粋な理想が国民に受け入れられた証拠だと解釈し、この機会にその理想の実現のためにできるかぎり利用しようと考えたのであろう。すなわち彼は彼で自分の理想が国民に受け入れられたのだと錯覚したのではないか?いずれにしても、そこには両者の思い違いが複雑に交錯しているのであり、その結果として、現在の奇妙な政治情勢が現出したのである。

いずれにしても地方自治体の長という立場にある者がその職にとどまったままで国政政党を結成し、国政そのものを具体的に動かそうとするのは前代未聞の異常な事態である。その異常性はかつてのムソリーニやヒトラーの親衛隊をも想起させる事態である。もちろん、今の日本の社会でこのような異常な事態がそのままエスカレートしてゆくとは思えない。しかし、この事態に対してジャーナリストといわれる方々がなんら適切な批判さえできないのは、それこそ奇妙な事態であるといわねばならない。

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