3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(6)「純粋人間」とは何か?

ベンダサンによると、5.15事件を起こした青年将校が無罪釈放となったのは、彼らが日本教の「純粋人間」として評価されたからであるとされている。同じように忠臣蔵を日本人がこよなく愛してきたのも、赤穂浪士に日本教の「純粋人間」というイメージが投影されたからであると考えられる。しかし「純粋人間」とはそもそも何なのか?それは果たして少しでも意味のある概念であるといえるのだろうか?この疑問について、前にも紹介したベンダサンの文章に戻って考えてみたい。

日本人は人間を「純粋な人間」と「純粋でない人間」に分けます。もっともこのように大きく二分していると考えては誤りで、この「純粋」という考え方は、やや金属の精製度(もしくは純度)に似たものとお考えください。ある人は純金的(二十四金的)人間であり、純度は高いが実用にはならない、別の人は少しく純度が落ちて十八金えんびn的人間で、結婚指輪にはなるが、普通の万年筆のペンにはならない。もう一人は十四金的人間で実用にはなるが純度は落ちる、といった類別と似た考え方です。

この純度表が何によって決まるかといえば、前述の支点の位置で決まるのです。すなわち支点が「空体語の世界=分銅」に近づけば近づくだけその人は「純粋な人」です。従って「純粋な人」とは非常にわずかの「実体語の世界」と平衡を保つために、実に大きな「空体語の世界=分銅」が必要です。一方、「純粋でない人」は、支点の位置が実体語の世界に非常に近接しているので、ほんのわずかな「空体語の世界=分銅」で、膨大な天秤皿の上のもの、すなわち「実体語の世界」と平衡がとれるわけです。


ここでベンダサンが純粋さの純度が「支点の位置で決まる」と書いていることの意味を少し考えてみたい。ベンダサンがいう「純粋人間」というのは、その支点が限りなく「空体語」の位置に近い人間ということになるわけであるが、これは一体どういう意味であろうか?ベンダサンによると、天秤の世界というのは日本教徒全体の世界であると同時に日本人一人ひとりの中にも存在する世界である。すなわち、われわれは誰でも自己自身の内に天秤の世界をもっているのである。

分かりやすくいえば、人間は誰でも理想と現実の葛藤の中で生きているということになる。この場合、「現実」は「実体語」として一方の皿にあり、もう一方の皿には「理想」が「空体語」として置かれていると考えられる。その支点の中心に立つのが自己自身であり、「純粋人間」というのは、支点の位置が限りなく「空体語」すなわち「理想」に近く寄っている人間だということになる。したがって、純粋人間の「純度」というのは、支点の位置で決まるというわけである。「なんだ、そんなことか…」と思われるかもしれないが、この説明があたっているかどうかは、ベンダサンに聞いてみないと分からない。これはあくまでも私の解釈であることを断わっておきたいが、ただし、この考え方によると、「純粋人間」=「理想主義者」という誤解が生じてしまい、これでは日本教の概念である「純粋人間」の意味がますますぼやけてしまう。当然ながら、日本教の概念である「純粋人間」と、もともと西欧的な概念である「理想主義者」が同じであることはなく、もしそうであるとすれば「純粋人間」の意味はない。

そもそも理想主義というのはギリシャのプラトンに由来する考え方である。プラトンによれば、現実界はすべてイデア界の反映であり、真に実在するのは現実界よりもむしろイデア界であると考えられた。この考え方は西欧人のキリスト教に取り込まれ、キリスト教の一神教に基づく理想主義として発展している。明治以来、日本人はこの西洋的な理想主義を学んできたと思うが、しかし、その根本にあるキリスト教は決して理解できなかった。その原因は日本には元来日本教という、われわれ自身がその存在さえ気づかないほど生活の中に浸透している宗教が存在するからである。

日本教という宗教は厳として存在する。これは世界でもっとも強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。

ベンダサンによると、そもそも日本人は例外なく日本教徒であり、その限りにおいては外来の宗教はすべて廃されるか、または日本教化されるのである。したがって、日本には西欧的な意味のキリスト教徒がいるわけではなく、いるとすれば日本教徒のキリスト派しかいないのである。同様にして、日本教化された独特な仏教は多くあるが、本来の渡来仏教は存在しない。日本には共産主義者のような者も多くいるが、彼らもまた日本教徒の共産派なのである。たとえばスポーツにしても芸事にしても、日本ではすべて日本教の中でなんらかの意味を付与される。柔道、剣道、合気道、弓道、空手道、茶道、華道、書道、…等のように、それらの呼称の後に付けられる「道」という言葉は、すべて日本教を習得するための修行を意味しているのである。

それではいったい、日本教の教義とは何だろうか?残念なことに、ベンダサンは日本教の教義が何であるかということをどこにも書いていない。日本教の教義らしく書かれているのは前にも紹介した次の表現である。

この支点の位置は実は絶えず左右に移動しているのです。日本人全体を見た場合、時代によってこの位置が変わりますし、個々の日本人をみた場合、一人一人で、各々この位置がはじめから違います。また一個人の生涯をみた場合、年齢により境遇により、この位置が変化していきます。そして「人間は支点であって言葉では表現できない」というのが日本教の教義の第一条なら、「人間の価値はこの支点の位置によって決まる」というのが、日本教の教義の第二条ともいうべきものです。

つまりベンダサンによると、日本教の教義というのは「言葉では表現できない」のであり、そして「人間の価値は支点の位置で決まる」という教義でしかそれは表せないと定義されているのである。では「純粋人間」の純度は支点の位置で決まるといい、そして人間の価値も支点の位置によって決まる、とすれば、いったいその「支点」とは何であろうか?この解答は前にも引用した次の言葉に要約されている。

従って私は、日本という世界は、一種の天秤の世界(もしくは竿秤の世界)であると考えています。そしてこれの支点となっているのが「人間」という概念で、天秤(もしくは竿秤)の皿の方にあるのが「実体語で組み立てられた」世界で、分銅になっている方が「空体語で組み立てられた」もうひとつの世界です、(P26)

つまりベンダサンによれば、支点とは「人間」に他ならないわけである。ただし、この人間の価値は支点の位置によって測られ、そして「純粋人間」の純度も支点の位置によって決まるとされているので、結局。ベンダサンの表現を借りるとつじつまがあわず、自家撞着になってしまいそうにみえるのだが、私なりに解釈すると、要するにこういうことではないかと考える。

前にも紹介したように、ベンダサンは、維新の時も終戦時も同じように支点は微動だにしていないと述べている。つまり、その支点というのは天皇の存在に他ならないということが分かる。とすれば、日本教の支点にあるのは天皇に他ならず、そして「純粋人間」はその天皇の位置に限りなく近い人間だということになる。ということはつまり純粋人間というのは天皇主義者ということになるが果たしてその解釈でよいのだろうか?確かに5.15事件の青年将校たちは天皇主義者だったというのは間違いないだろう。しかし、赤穂浪士についてはどうだろうか?いうまでもなく赤穂浪士の時代は天皇という存在がきわめて希薄な時代であった。彼らにとって唯一の主君は藩の大名である浅野内匠頭でしかない。しやがって彼らは決して天皇主義者だとはいえない。

また「日本教について」の中でベンダサンがあげている「純粋人間」の例は、他にも何通りも異なったイデオロギーの人々がいる。後に詳しく紹介するつもりであるが、たとえば70年代に圧倒的な庶民人気を保持していた美濃部都知事が、まさに「純粋人間」の見本であるとされている。美濃部氏はどちらかというと左翼思想の持ち主であったが、巧妙にも「純粋人間」のイメージを都民に植え付けることに成功し、人気を確保したのだと思われる(同じようなことは現下の橋本大阪市長についてもいえるのだが、それについてはいずれ詳しく書くことにする)。他にもベンダサンによれば、三島由紀夫や学生運動家なども「純粋人間」の例としてあげられている。

さて、これ以上例をあげてゆくと話が長くなるので、ここらで「純粋人間」とは何かという問いについての私の結論を簡単に述べておきたい。日本教徒にとって「純粋人間」の「純度」というのは特定のイデオロギーには関係なく、「私心のなさ」という基準によって測られるのではないかと私は考えている。たとえば「天皇」は何故に「純粋人間」なのかというと、まさに「私心のない人」の最たる存在だからである。なぜなら天皇は自分の意志で天皇になることはできず、もちろん職業選択の自由も結婚の自由も移動の自由も何一つ存在しない。天皇はその生活のすべてを公人として生きることを強いられた存在であり、だからこそ天皇は日本教すなわち天秤の世界の中心、すなわちその支点に位置しているのである。

そのように考えれば、5.15事件の青年将校や忠臣蔵の赤穂浪士が多くの日本人に評価されるのも納得ができるのではないだろうか。彼らの行為は、いずれも客観的にみると非道で残虐な行為であった。しかし、にもかかわらず、彼らの行為は日本教徒の模範とする「私心のなさ」を体現する行為であると評価されたのではないだろうか?

したがって日本教の教義というのは、その支点に近づくこと、すなわち「私心のない」生活を送ることが日本教徒の模範であるとされるのである。先に述べたスポーツや芸事で「・・・道」と名付けられるのは、それらの業を通じて、「私心のなさ」すなわち「無私」の人間へと近づくためである。それこそがあらゆる日本人すなわち日本教徒の教義の中心になっているのである。

ただし、「私心のなさ」というのは、あくまでも日本教の教義の中での「私心のなさ」であるということを、念のために断わっておきたい。日本教の教義からはずれた「私心のなさ」は、逆にもっとも反日本教徒のそれと判断されるのである。その例は、たとえばかつての連合赤軍やオウム教徒たちの、ある意味での「私心のなさ」に対する反応をみればわかるであろう、彼ら行動はある意味で日本教をはずれた特殊なイデオロギーに殉じた行動であったと判断されるが、それらの行動の純度はそのイデオロギーの信奉者以外には評価されないものであり、逆に日本教徒の基準では日本教を破壊するもっとも悪質なものとして評価されるのである。これについては、また機会があれば考えてみたい。

つづく

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