3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

(1)橋本徹に対する否定的評価

今われわれの社会で橋本徹という一人の人物をめぐって賛否両論かあり、その評価は真っ二つに割れている。政治家としてはまだ青年といってもよい一人の人物がこのような異常な関心を惹くことはいままでなかったことではないだろうか?前にも述べたように、橋本氏は空気に従うのではなく逆に自ら空気を作って世の中の空気を変えていこうとするタイプの政治家である。しかも、彼はただ空気を変えるだけではなく、周囲の空気をかく乱しつつ自らの気流に巻き込んでゆく台風の目のような存在になっている。だからこそ、世の論客が知らんふりを決め込むわけにもいかず、橋本氏をどう評価するかというテーマがジャーナリズムの特集記事にもなるのだろう。

たとえば今月号の文藝春秋に「橋下徹12人の公開質問状」というテーマでいくつかの賛否両論の評価が寄せられている。橋下氏についての肯定的な評価はあとで書くとして、まず否定的な評価を紹介しながら、私見を述べてみたい。今のところ橋下氏についての否定的な評価の大半は「独裁的」であるとか「ポピュリズム」であるとか「ヒトラー」を想起させるというようなものである。中でも東大教授姜尚中氏の評価はきわめて辛辣なものである。彼は「ナチス独裁を想起」という激しいタイトルで橋下氏の危険性を以下のように指摘している。

「あなたが大阪府知事になって以来、ずっと心にひっかかっていることがありました。それは、民意についてあなたがどう考えているのかということです。率直に言って、あなたは民意あるいは有権者や国民の意志を「物神化」し、それを代表する首長や最高権力者は、全権を委任されたとみなし、それこそオールマイティな権限を行使してもいいと考えているのではありませんか。だが選挙を通じて国民の意志を代表しているとみなされれば、自動的に誰もが服従すべき命令の権利が代表者に与えられたと考えてもよいのでしょうか。名著「アメリカのデモクラシー」で有名なフランスの歴史家トクヴィルは「国民の意志という言葉はあらゆる時代の陰謀家や専制君主が最大限に乱用したもののひとつである」と述べています。国民の意志や民意ほど乱用され、悲惨な結果を招いた言葉はありません。もちろんあなたは陰謀家でもなければ、専制君主でもありません。・・・(中略)・・・聡明なあなたのことですから、そうした考えが、かつてナチス独裁に合法性を与えることになった授権法(全権委任法、1933年)に繋がりかねないことをあなたはご存知のはずです。もしあなたの唱える首相公選制も、国民の意志を直接代表する強力な執権者に全権委任法にも近い権限を与えることを目指しているすれば、やはり一抹の不安を感じざるをえません。確かに現在の日本の政党政治が機能不全に陥り、重要なことを何も決められずにいるという危機意識は、私にも十分に理解できます。ただし、危機を突破するために、全権委任のもとに決断をする最高執権者が必要であるという考えには同調できません。それは歴史の轍を踏むことになりかねないからです。」
この文章はおそらく橋本氏に対する否定的評価を代表するものであろう。昨年秋、元大阪市長の平松氏が大阪市長選挙戦の最中で橋下氏のファシストとしての危険性に何度も言及していた。それは必ずしも対立候補をこき下ろすための誇張的表現であったとはかぎらない。誰が考えたのかファシズムにかけた「ハシズム」という言葉が流行語になり、選挙戦の最中もその言葉が多用されたが、結果は橋下ブームに歯止めをかけることはできなかった。平松氏は団塊の世代であり、学生時代は全共闘の世代でもあり、まさに反ファシズムという掛け声をあげて連日デモを繰り広げていた世代である。しかし、橋本氏を支える世代は比較的若い世代であり、おそらく彼らにそのような言葉で危機感を煽ってもいまいちピンとこなかったのではないだろうか?

元々、ファシズム(ファッショ)というのはイタリア語で団結するという意味があり、ムッソリーニがその言葉を使い「国家ファシスト党」という政党を創始したことがはじまりである。当時のイタリアは少数政党が乱立して議会政治が機能しなくなり、何事も決まらないという今の日本の政治状況に似たような状況に陥っていた。その状況を一変させるためにムッソリーニは画期的な法案を提出している。それは選挙で25%以上の票を獲得した政党が議会で3分の2を占めることができるという法案である。当時のイタリア国民は機能不全に陥っていた議会主義に辟易としていたので、彼らはこの法案を歓迎しムッソリーニに独裁権を与えることになった。

ムッソリーニが首相に選出されると次々と瞠目すべき仕事をなしとげていった。中でも注目すべきことはマフィアを厳しく取り締まり、ほぼ壊滅状態に追い込んだことである。その他、沈滞していた経済が活性化し失業者も減少していった。またムッソリーニが政権についてから怠惰なイタリア人も俄然やる気になり、社会の風潮が変わったといわれる。たとえば塩野七生氏が記していることだが、あるお婆さんがムッソリーニの時代を懐かしんで次のように言っていたと紹介されている。「そりゃあおまえ、自由はなくなるだろうよ。だけど郵便はちゃんと届くし、汽車も遅れないし、役所は親切だし、その辺の店の店員までが、ごまかさないようになったんだから」(『イタリア便り』より)

信じられないかもしれないが、ムッソリーニは当時、先進国のアメリカやイギリスでも評価が高く、一時期、世界でもっとも多くの人に敬愛された政治指導者の一人であった。彼は元々アヴァンティという新聞の天才的主筆として知られ、その文筆や演説の能力に加え芸術や哲学に対する傾倒も深くカリスマ政治家としてイタリア国内だけでなく世界中に多くのファンがいた。実際、日本でも、ムッソリーニは国民がもっとも敬愛する政治家として数多くの伝記が出版されたりもしていた。

よく誤解されていることだがファシズムとナチズムはまったく別個の運動である。ナチズムはヒトラーの運動であるが、その特異性は民族浄化という名の強烈なユダヤ人差別を含んでいたことにある。しかしムッソリーニの場合はヒトラーのような民族差別はなく、そもそもムッソリーニはヒトラーを酷く軽蔑していたといわれる。しかし、結局、後世の評価では、ムッソリーニの運動もヒトラーの運動も同種のものであり、ファシズムという名で一括りにされるようになった。

姜尚中氏がいうように、橋下氏の運動がこのような戦前のファシズムに通じる部分があるということは確かに事実であろうが、彼の運動はヒトラーよりもむしろムッソリーニに通じる部分があるのではないかと思う。

姜氏が指摘しているとおり、橋下氏の発言を聞いていると、民意というものに異常に敏感であり、まるで直接民主主義的な政治を目指しているのではないかとさえ感じられる。すなわち橋本氏の政治的思想には民意に対する絶対的な信奉があるようにみえる。姜氏が「民意を物神化している」と批判しているのは、そのあたりの危険性にあるのだろう。

民意を物神化するということがなぜ危険なのかというと、民意というものが必ずしも正しい物差しだとはいえないからである。たとえば今、橋下氏が大飯原発の再稼働問題について「原発再稼働は嫌だという民意を尊重しろ」と政府に迫っている。確かに世論調査をすれば、大体50%以上の人が再稼働反対という結果になっているが、だからといってその民意は正しいといえるだろうか?民衆は正確な科学的知識をもっているわけではなく、現下の電力危機に関して確かな資料をもっているわけでもない。その判断には高度な専門知識がいるだけではなく、膨大な資料にも目を通さなければならない。だとすればそのような民意のどこに正しさの根拠があるのか?

孔子の言葉で「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という有名な言葉がある。その意味は「民衆を治めることは容易ではあるが、民衆に理解させることはむずかしい」というような意味だそうである。この言葉は民主主義という制度を考える上で非常に意味深い言葉である。

たとえば消費税増税の問題に関しても、これを民衆に対して納得してもらえるように説明することは、ほぼ不可能に近い。確かに国家財政が破綻しており、近い将来の超高年齢化に備えて社会保障費が増大することが避けられないという現実を突きつけられると、誰しも増税はやむをえないのかなと思うが、しかし、一方で増税反対派が今増税をすると景気がさらに落ち込んで、税収は逆に減ってしまうのだと主張しているのを聞くと、いったいどちらを信じればいいのか分からない。にもかかわらず最終的には主人公である民衆の皆さんに決めてもらいましょうといわれると、いったい愚かな民衆は何を基準にして考えればよいのであろうか?

このような難しい問題に関して民衆は理解できないので、そもそも民衆に説明しても無駄であると孔子は説いていたのであろう。したがって政治を行う者は民衆に理解してもらおうなどと思わずに自らの信じる政治を存分に行うがよい、と説いていたのではないか。

民主主義というのは、その言葉のとおり「民を主とする政治」である。しかし、それはあくまでも努力目標にすぎず、実際には民衆が政治に参加できるわけではない。議会制民主主義というのは民衆が選んだ選良によって間接的にその意志を反映しようとする制度であって、逆に言うと民衆の意志の反映にあらかじめ一定の制限が加えられた制度である。米国の大統領選においても、民衆が大統領を直接的に選べるわけではなく、大統領を選ぶ選挙民の選出という間接的な選挙に制限されている。このように民主主義国において民衆の意志の反映に一定の制限が加えられているのは、民衆の判断が常に正しいものとはかぎらないという歴史の教訓と先人の知恵に拠っているのである。

もちろん橋本氏がこのような間接民主主義の在り方に異議を唱えているわけでないのはいうまでもないが、彼の政治スタイルが間接民主主義の在り方に対して理解が十分ではなく、民衆に直接的に語りかけるような、いわゆるポピュリズムといわれる政治手法に近いのではないかという危惧と警戒の念があることは否定できないのである。

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