3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

(1)故山本七平氏の不思議

故山本七平氏(及びイザヤ・ベンダサン氏)の類まれなる日本人論は今もなお奥深い謎に包まれており、誰にとってもその真意を知ることは決して容易ではない。というよりも、おそらく故山本七平氏の真意を本当に理解できた者は、この世に実際何人もいないのではないかと思うほど、その膨大かつ神秘的ともいえる日本人論の遺産はわれわれの前に今でも高く聳える人跡未踏の山々のように思えてならない。

山本氏の日本人論の核になっているのは、おそらくベンダサン著「日本人とユダヤ人」以来の独特な観察眼であり、それはわれわれが日本人であるかぎり決して見えてはこないユダヤ人の眼から見た独特な日本人論である。といっても、もちろんイザヤ・ベンダサンが実在の人物であるとは到底思えないので、その観察眼はあくまでも日本人である山本氏の観察眼と同じものであるといってもほぼ間違いないだろう。

問題は山本氏が何故にユダヤ人の眼から日本人を見る必要があったのか?あるいはまた何故に山本氏はそのような眼をもつことができたのか?ということではないかと思う。一応、山本氏は熱心なクリスチャンであったといわれている。ただし、その熱心さは通常の意味ではないだろう。なぜなら山本氏が熱心なクリスチャンであると同時にユダヤ人の眼をもちえたということは決して普通ではないからである。ユダヤ人の眼からみるとキリスト教徒というのは現在でも異端者としてしか映らない存在であるはずだ。その逆はキリスト教徒にとってもおそらく同じだろう。しかるに、同じ人間がキリスト教徒であると同時にユダヤ教徒でもあるということはできない。少なくとも既成のキリスト教の教義や組織を重んじる者であれば、必然そのようになるだろう。

非常に面白いことに「日本人とユダヤ人」という書物をひも解くと、いたるところにユダヤ人独特の反キリスト教の立場が記されている。たとえば次のような辛辣なキリスト教批判が書かれている。

キリスト教徒の云う「三位一体」などは新約聖書のどこを開いてもでてこない。第一、人間が神を十字架につけて処刑するなどという思想は、モーセ以来の超越神の下に生きていた当時のユダヤ人の思想の中にあるわけがない。ニケーア会議までのキリスト教内の、現代人には全くわけのわからぬような論争は、イエスは神であるという思想を何とかこじつけて新約聖書に結び付けようとしたことにある。キリスト教は確かに聖書に依拠している、だが、聖書はキリスト教にその存立を依存しているわけではない。いわばキリスト教の一方的な片思いだから、たとえキリスト教は消えても聖書は残る。この関係はあくまでも明確にしておかねばならない。(「日本人とユダヤ人」P134)

イザヤ・ベンダサン=山本七平氏であるとすれば、少なくとも山本氏が普通のクリスチャンではないということが、この一言でもいえるような気がする。もちろん三位一体論を実際に信じているクリスチャンは決して多くはなく、おそらくローマ法王でさえそれを疑っているかもしれないので、山本七平がクリスチャンでありながら、そのような反キリスト教的な書き方をしたとしても別段怪しむべきことではないかもしれない。しかし、問題はそのような記述だけではなく、そもそもこの日本には本当の意味でキリスト教徒さえも存在していないというベンダサンの決め付けである。なぜなら日本人は全員日本教徒なので、キリスト教徒というのも、本当のところは日本教徒キリスト派にすぎないのだとされているのである。

この決めつけは、もし山本氏が本当のクリスチャンであれば自己矛盾の表明に他ならない。あるいは少なくとも山本氏は自分をクリスチャンであるとは思っていない証拠だと思われる。もともと山本氏は戦前から親子三代のクリスチャンであったことは確かであるらしい。しかし、フィリピンの戦争に従軍したあとアメリカの捕虜となって、戦後は帰還したものの重い病気を患い、自分の青春をほとんど台無しにすごしてきたあまりにも深刻な人生を歩んできた人だから、40代頃になってようやく軌道に乗り始めた出版業の仕事が多忙になった頃には、自らの人生観や信仰観にも常人には計り知れない内面的葛藤を経験したのだろうと思われる。

戦後、山本氏が始めた出版業の中心は何といっても聖書関係の良書を翻訳して、日本人に紹介することであった。1970年に300万部の大ベストセラー「日本人とユダヤ人」を出版した際にも、本当は聖書のギリシャ語辞典の出版費用をねん出するために、少しでも手助けになればと思って、仕事の合間に某ユダヤ人(実在の人物)との会話を通じて構想されたものであるというのが真相らしい。その本のアイデアや文章がどこまで、その会話相手のものだったのかどうかという話は別にして、少なくとも「日本人とユダヤ人」の出版が山本氏個人の売名的野心からでたものでないことは確かであると思われる。実際上、ベンダサンと山本七平の思想性はかぎりなく近くみられることは否定できない以上、おそらく「日本人とユダヤ人」を直接書いたのは山本氏自身ではないかとするのは妥当であると思われるが、しかし、だからといって「日本人とユダヤ人」が山本氏個人の作であるとはいえないのである。それは聖書のヨハネ福音書がそれを実際に記した2世紀の長老ヨハネ(イエスの弟子ヨハネとは別人物)の作品ではあっても、その内容の多くがイエスの愛した直弟子(誰かは不明)由来のもであるとも考えられるのと同様である。つまり「日本人とユダヤ人」の編集者兼筆者は山本七平氏に違いないと思われるが、そもそもの考案者やいくつもの文章のアイデアを提供したのは実在するユダヤ人だったのではないかと考えられる。

話を元に戻すと、山本七平氏の日本人論の最大の核はユダヤ人ベンダサンの眼を通した日本人論であり、それは必ずしも嘘でも偽装でもなく、実際に山本氏が某ユダヤ人との会話の中で教えられたものがあるはずであり、その会話を通じて山本氏自身の思想がより深められたと考えるのはごく自然である。その話がどこまで真実であるかどうかはともかくも、山本七平氏がクリスチャンでありながらユダヤ人的な視点を持ちえた非常に稀なる人格であるということも事実であり、そのような山本氏の特異な人格から以後の「作家=山本七平」本名の筆による類まれなる日本人論が生まれてきたのだろうと想像する。実際、山本氏の書をいくつか読むと、ユダヤ人以上にユダヤ通といってもよいほど聖書のみならずあらゆるユダヤ文化とユダヤの歴史に通じた人であったということは真に驚嘆に値する。おそらく過去の日本人の中で山本七平氏ほどユダヤ人をよく知っていた人物もいないのではないだろうか?私がもっとも驚かされたのは、イスラエルの死海南端にあるマサダの砦に彼が十回ほど訪れたというのである。この回数が意味することは半端ではない。

マサダの砦というのは一世紀の第一次ユダヤ戦争でユダヤ人たちが最後に立てこもってローマ軍に抵抗したユダヤ最強の砦である。ユダヤ戦争は西暦66年にエルサレムで反乱が始まり、それを鎮圧するためにローマからウェスバシアヌス将軍とその息子ティトス率いる大軍が押し寄せた。ユダヤ人は勇敢に戦ったが、やがてエルサレムの城壁は70年に陥落して神殿は破壊された。しかし、1000人程のユダヤ人がその後もマサダの砦に立てこもってその後3年間も抵抗を続けたのであるが、最後は集団自決という悲惨な結末で終わっている。その戦争の経緯を詳細に記したのが、当時ユダヤ人の司令官として戦いながらウェスバシアヌスの軍に捕まり、後にローマ市民となって「ユダヤ戦記」や「ユダヤ古代誌」を著したフラウィウス・ヨセフスであった。

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「マサダの砦」


「ユダヤ戦記」と「ユダヤ古代誌」は現在、筑摩書房の文庫版で出されているが、実はこの二書を初めて日本語に訳して出版したのが山本書店である。この二書は世界中のキリスト教徒の間で聖書の副読本として歴史を超えて読まれ続けた古典中の古典であるが、日本では山本書店から出版されるまでほとんど知られていなかったのである。これだけをとっても山本氏が遺した仕事の偉大さが分かる。

それにしても荒涼とした死海南端のマサドの砦へ10回も訪れた日本人が山本七平氏以外にいるであろうか?大体、中東戦争が延々と続いているイスラエルを10回以上も訪れるということ自体が、危険な旅でもあり、さらにその中心地から遠く離れたマサダの砦となると、いかに観光好きな日本人でも敬遠されるであろう。実際、山本氏はマサダの砦へ行って日本人をみかけたことはないと証言している。2000年前のイエスの十字架の足跡を追ってみたいという日本人のキリスト教徒は多くいると思が、彼らの中でイエスの運動とはほとんど何の関係もないマサダの砦をみてみたいと思う者はまずいないだろう。ただし、ユダヤ人にとってはマサダの砦は彼らの民族の誇りの土地でもあり、それはおそらく日本人にとっての硫黄島に相当するのかもしれない(ただし、硫黄島を訪れたいという日本人はまずいないだろうが)。

いずれにしても故山本七平氏ははなはだ不思議な日本人であると思う。彼の中にはユダヤ人の血が本当に流れているのではないかと思うぐらいユダヤ的な思想を身につけた不思議な日本人である。だからこそ故山本七平氏の日本人論は特異であり、普通の日本人には誰にも気づかないさまざまな問題を露見させてくれるのであろう。次回からそのような故山本七平氏の日本人論(特に日本教徒論)をもう少し考察してみたいと思う。ただし、どこまで続くかは分かりませんので、あらかじめお断りしておきます。

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(2)日本人とユダヤ人

山本七平(又はイザヤ・ベンダサン)によると日本人というのはすべて日本教徒であるとされている。これはユダヤ人がほとんど例外なくユダヤ教徒であるというのと同じ理屈である。もちろんユダヤ人であってもキリスト教徒もいれば無神論者もいるので、実際はユダヤ人=ユダヤ教徒ではありえない。私はあるセミナーで神戸のユダヤ教会に所属するラビの講演を聞く機会があったのだが、講演後に質問をしてみた。「ユダヤ教を信じた日本人はユダヤ人になれるのでしょうか?」と。彼は何の躊躇もなく「はい、なれます」と答えていた。

最近、日本文学研究家のドナルド・キーン博士が震災後に日本にやってきて、日本国籍を取得して日本に永住することを決めたというニュースがあった。してみると、ドナルド・キーン博士はもはやアメリカ人ではなく日本人になったということである。アメリカの市民権を取得すれば、だれでもアメリカ国民になれるように、法律的に日本国籍を取得した人物はだれでも日本人になれるのである。同じように日本人であってもユダヤ教を信じ、ユダヤ教徒になりたいと思った人物は、ユダヤ人になることも可能なのである。そのような人物が過去にいたのかどうかは知らないが、たとえば山本七平という人物は日本人でありながら、あれだけユダヤ教に通じていたわけであるから、ある意味で彼の人格の半分以上はユダヤ人だったといってもおかしくないだろう。

体は男性でありながら心は女性であるという性同一性障害者がいるように、血縁上は日本人でありながら心はユダヤ人だという人がいてもおかしくない。実際、ドナルド・キーン氏のようにもともとはアメリカ人であったが、日本に長年住んでいて心が日本人に染まってしまい、正式に日本人になりたいと思う人々もいるわけである。たとえば明治時代の作家小泉八雲ことラフカディオ・ハーンもそうであった。そういえばテレビの政治トークショー等で活躍している金美齢氏ももともとは台湾出身であるが、日本国籍を取得して日本人に帰化されている。彼女の場合は本当に日本を心から愛していて、日本の国土を守るためには命まで捧げる覚悟があるというほど愛国心もある方なので、日本人以上に日本人だといってもよいだろう。

逆に日本に永住していながら、決して日本国籍を取得しない外国人も多くいる。特に在日といわれる韓国人や朝鮮人は、もともとは戦前の植民地政策によって日本に住み着くようになったという経緯があるために、本人は身も心も日本人であると自覚しながらも親や親族の関係で日本国籍を取得するわけにはいかないというケースもある。特に北朝鮮籍の方々は本国の政策によって日本国籍を取得することは厳しく制限されているので、本人が日本人になりたいと思っても、政治的な壁があってどうにもならないというケースもあるだろう。もちろん、もともとは在日の韓国人、朝鮮人でありながら、日本国籍を取得し日本人になられている方も数多くおり、芸能人やスポーツ選手として活躍されている方もあげればきりがないほどいる。

このようにみると日本人というのは必ずしも血縁上の概念ではないことがわかる。同様にユダヤ人というのも、必ずしも血縁上の概念ではないのである。実際、血縁上のユダヤ人は全世界に散らばっており、その子孫の数は膨大なものになるはずなので、おそらくユダヤ人の血は地球上全土に広がっているはずである。たとえばイスラエルとパレスチナの間で度重なる戦争が繰り返されているが、血族的にはイスラエル=ユダヤ人でパレスチナ=アラブ人という区別は決して正しくない。パレスチナ人は遠い過去に遡ると、ユダヤ人あるいはイスラエルの失われた10支族の末裔である可能性が高いからである。

※イスラエルの10支族というのはユダヤ人と兄弟関係にあったヤコブの12氏族のうちのユダ族とレビ族を除く10氏族からなった民族を指す。彼らはソロモンの統一王国以後にユダ族を中心とした南朝と決別して北朝イスラエルを形成したが、その後、紀元前8世紀にアッシリアに滅ぼされて各地へ離散していった民であり、民族としての痕跡を失ったために、しばしば「イスラエルの失われた10支族」などと呼ばれる。

もしかすると血縁の純度からいうと、パレスチナ人の方がよりユダヤ人本来の血縁に近いという可能性もある。なぜなら現在のイスラエル人というのは、もともと海外に移り住んだデアスポラのユダヤ人であり、彼らの血はほとんどが西洋人(白人)との混血であり、その血にどれほどユダヤ人としての純粋性があるのかは分らない。一方、パレスチナ人というのは、遡れば過去ユダヤ人が居留していた地域に代々定着していた人々であり、彼らの由来はユダヤ人とサマリア人(サマリア人はもともとイスラエル10支族の末裔であるとされる)の混血であると思われている。したがってユダヤ人対パレスチナ人の戦争というのは、もともとは同じユダヤ人同士の戦争であるといった方が正しいかもしれない。

ユダヤ人とは何かというと、これは決してやさしい概念ではないのである。ユダヤ文化研究家の内田樹氏によると、ユダヤ人という人種は実は存在しないと書いている(「私家版ユダヤ文化論」文春新書)が、これはある意味で正しい指摘である。極論すると、ユダヤ人というのは自分がユダヤ人だと考えている人々、またはそのように考えている人々の子孫のことを指しているだけであり、実際にユダヤ人という明確な人種が存在するわけではない。もちろん何千年も前には確かに現在のイスラエルの辺りに彼らが国を作っていたことは確かである。しかし、彼らは紀元一世紀と二世紀の二度のユダヤ戦争によって、完全に祖国を失い流浪の民となって世界中に散らばっていった。その中で多くの異人種との混血をくりかえしているはずなので、ユダヤ人という純粋人種は本当のところは存在しないのかもしれない。

しかし約2千年前に祖国を失い全世界に離散したユダヤ人が自らのアイデンテティーを失わずに、異国の土地にありながら民族の血縁を絶やさなかったのは事実であり、これは歴史の奇跡といってもよいほどの極めて稀なる民族の由来であるといえる。彼らのアイデンテティーをつなげていたのは、いうまでもなくバイブルに記された民族の出立に関する信仰であり、その信仰に基づいて彼らは一致団結して自らの民族の血を後世に伝えて残そうとしたのだろう。したがって彼らを一つにつなげていたのは、まさしくユダヤ教そのものに他ならない。神戸のユダヤ教会のラビも言っていたように、ユダヤ人というのはユダヤ教を信じる民のことであり、決して血縁上の概念ではないのである。

一方、ユダヤ教という信仰上の結束をもたずに各地へ散らばった(信仰なき)ユダヤ人たちは、それぞれの土地で異民族に同化し、その痕跡を消失することになったのであろう。もしかすると彼らの血は中国人にも流れているし、おそらくは朝鮮人や日本人の中にも流れているかもしれない。日ユ同祖説によると、日本人にはユダヤ人の血が流れているとされているが、これは当然ありうることであり、日本の建国神話あるいは伊勢神宮や諏訪大社などの起源にユダヤ教やユダヤ文化の影響が色濃く認められるのは、間違いなく過去に何らかのつながりがあった証拠であると思われるが、だからといって日本人とユダヤ人は血縁的に強いつながりがあるということにならないのは、アフガニスタンや中国に流れたユダヤ人たちが多くいたからといって、彼らがユダヤ人と強いつながりがあるとはいえないのと同じである。ただし、日本人の考え方や独特な文化の中にユダヤの影響があることは事実であり、それについてはいずれ稿をあらためて書いてみたいと思っている。

補足
そういえばパウロの書簡にも次のように書かれている。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(「ローマの信徒への手紙」2章27-28)

つまりパウロにとってユダヤ人という言葉は肉のつながりではなく、信仰のつながりによって神の民となった者という意味があったのだということが分かる。

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(3)踏み絵社会の異常性

日本人はしばしば多神教徒であるといわれる。しかし、この言葉は決して褒め言葉でないということに大半の日本人は気づいていない。聖書の世界では多神教徒というのは野蛮な人種であるとされている。日本教徒にはユダヤ教徒やキリスト教徒、イスラム教徒が信じているような神の存在をどうしても理解できない。つまるところ日本人にとって聖書の神は人間の思考が作り出した想像の産物にすぎないのではないかと考えている。

多くの日本人はそんなことあたりまえじゃないかというかもしれない。しかし、そのような日本人の常識は決して世界の常識ではない。日本人はまずそのことが分かっていない。前にも書いたように世界の圧倒的多数は一神教徒である。では一神教徒とは何か?一神教徒というのは「旧約聖書で啓示された神が唯一の神だ」ということを信仰する人々のことなのである。

しかし日本人には「啓示」という言葉がまず何を意味しているのか分からない。確かに聖書は日本書記や古事記に比べて非常によくできた物語になってはいるが、しかし、いずれにしてもそれは古代人が残した神話にすぎないものであり、そんなものを大真面目に信じる方がどうかしているのではないかと、われわれ(日本人)は考える。もちろん、このような考え方は必ずしも日本人特有のものではない。

あのマルクスに強い影響を与えたフォイエルバッハというドイツの哲学者がいる。彼は当時のドイツで流行していたヘーゲル哲学のエッセンスを自己流に解釈し直し、ヘーゲル左派というグループを形成した。フォイエルバッハによると、そもそも神というのは人間の頭で作り出した虚構の存在であり、したがって人間が神によって創造されたのではなく、逆に神こそ人間によって創造されたのである。この考え方に強く影響を受けた青年マルクスは、後に無神論に基づいた人間中心主義の世界、すなわちいかなる宗教も存在しない世界こそが理想の世界であると考えて、共産主義というイデオロギーを構築した。

マルクスの思想はあっという間に世界中に広まった。彼らは宗教を民衆のアヘンであると規定し、宗教の撲滅を究極の目標に置き、事実、ソ連や中国、北朝鮮などの共産主義国家では宗教家はことごとく粛清の対象になった。ところが皮肉にも彼らの社会は理想の社会であるどころか地獄の世界を現出する結果となり、マルクスのイデオロギーの呪縛から解放された人々は、再び宗教の価値を取り戻そうとして現在に至っている。今現在、無神論の共産党に支配された中国でさえ宗教勢力が大きくなっており、特にキリスト教徒は1億人を超える信徒がいると考えられている(但し、彼らは公然と布教することは許されておらず、そのほとんどは地下教会である)。

ご存知のとおり、かつては日本でもキリスト教が一躍ブームになっている時代があった。キリスト教が1549年にフランシスコ・ザビエルによって初めて日本に伝来して以来、わずか数十年の間に日本人は驚くべき早さでキリスト教に帰依していった。当初は新しもの好きの織田信長による天下統一の時期にも重なり、先進的な西欧文明を吸収するためにも信長はキリスト教の布教を歓迎していた。その結果、あっという間にキリスト教は西国大名たちの所領の間で広まった。

ところが秀吉、家康の時代になると、このままキリスト教の布教を放置していると天下国家にとって脅威であるとみなされるようになり、やがて禁教令が発布されてキリシタンに対する厳しい弾圧が始まった。世界史の中でキリスト教徒が徹底的に弾圧された例は過去ローマ時代にもあったが、秀吉と家康の時代からその後約250年間にわたり続いた日本でのキリシタンに対する徹底した弾圧は、世界史のなかでも他に類のないほど残忍で異常なものであった。

たとえばローマの皇帝ネロの時代に、捕えられたキリスト教徒が大衆注視の闘技場でライオンの餌食にされたという話は有名であるが、日本に於いてはそれに勝るとも劣らない残忍な手段による弾圧は枚挙にいとまがない。たとえば1597年の1月に秀吉の禁令発布によって京都で囚われの身となったペテロ・バプティスタ神父他、26名(このうち日本人は20人で、最年少は12歳の少年であった)のキリシタンは即刻死刑を言い渡されただけではなく、その刑の執行前に全員耳を削がれた上で厳しい真冬の中を大阪から長崎まで大衆の見せしめのために歩かされたのである。27日間かけてようやく長崎に着くと、そこで準備されていた十字架に磔にされて彼らは祈りながら死んでいった。驚くべきは、この間、だれ一人として死の歩行から脱落しなかったという事実である。この26人の殉教死は世界史の中でも稀なほど残酷無比なものでありながら、それによく耐えて十字架刑に服した姿が世界中のクリスチャンに感動を与え、彼らはカトリック教徒から26聖人として崇められているのである(「日本史の中のキリスト教」長嶋総一郎著 PHP新書 参考)。

江戸時代の日本でのキリシタン弾圧の異常性は特に「踏絵」という行為によってその信仰を無理やり捨てさせようとしたやり方において認められる。このようなやり方は他国ではまったく考えられないからである。これについてはイザヤ・ベンダサンが面白い分析をしているので紹介しておこう。

「踏絵」というものを御存知ですか。これは300年ほど前、時の政府がキリスト教を禁止したとき、ある者が、キリスト教徒であるか否かを弁別するために用いた方法です。すなわち聖母子像を土の上に置き、容疑者に踏ませるのです。踏めばその者はキリスト教徒ではないとみなされて赦され、踏むことを拒否すれば、その人はキリスト教と見なされて拷問され、処刑されました。

 ところで、もし仮に私かあなたのようなユダヤ教徒がその場に居合わせたら、どういうことになったでしょう。御想像ください。容貌からいっても、服装からいっても、言葉・態度・物腰からいっても、私たちは当然容疑者です。もちろん私たちは、懸命にキリスト教徒でないことを証言するでしょうが、おそらくだれもそれを信用してくれず、踏絵を踏めと命じられるでしょう。どうします?言うまでもありません。われわれは踏みます。われわれユダヤ教徒が、偶像礼拝を拒否して殺されるならともかく、偶像を土足にかけることを拒否して殺されたなら、世にこれほど無意味なことはありますまい。これは、われわれにとって、議論の余地のないことです。だが、次の瞬間、一体、どういうことが起るか分かりますか?

 日本人はこういう場合、一方的にわれわれを日本教徒の中に組み入れてしまうのです。おそらく奉行からは、異国人の鑑として、金一封と賞状が下されるかもしれません。同時に、もしそこに、踏絵を踏むことを拒否して処刑を待っている日本人キリスト教徒がいたら、その人々は私たちを裏切りものか背教者を見るような、さげすみの目で眺めるでしょう。その際、私たちが踏み絵を踏んだのは、日本人が踏み絵を踏んだのと全くちがうことなのだ、といくら抗弁しても、だれも耳を傾けてくれないでしょう。
(中略)
ローマ政府がキリスト教徒迫害のとき用いた方法は焚香でした。これは踏み絵とは正反対の発想です。すなわちその人がどんな宗教を信じているかは問わない、ただ皇帝の像の前で香を焚けば良いわけです。申すまでもなくローマは、「所かわれば品かわる」を「所かわれば宗教かわる」と言った国です、でまたそれを当然としていましたから、踏み絵は不可能です。これはある点では現在のアメリカに似ております。すなわちキリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、仏教徒であれ、星条旗への忠誠を宣誓すればよいのであって、それをすれば、その人が何教徒であろうと問いません。これは一種の「言葉の焚香」と解することができます。

こうみてきますと、「言葉の踏み絵」が「言葉の焚香」とどのように違うかが、もうお分かりだと蔽います。この踏絵という方式は、一宗教団体が異端者を排除するために用いる方法であって、そこには正統と異端しかないということが前提です。従ってこの前提にあてはまらないものが現れた場合(前記のようにユダヤ教徒に踏み絵を差し出した場合)日本人は、前提にあてはまらないものが現れたとは考えないで、その者を、どちらかに類別せざるをえなくなってしまうのです。


江戸時代の日本人が隠れキリシタンをあぶりだすために踏絵という方法を編み出したのは、確かにきわめて日本人的な発想であるといえる。これは要するに、日本人が無意識に日本教という宗教を奉じているので、隠れキリシタンに踏絵を踏ませることによって自動的に日本教徒であるか否かの判別に使われていたわけである。すなわち踏み絵を踏むことができる者は自動的に日本教徒として認められるのであり、これは宗教的に同質的な人間であるということが認められることに他ならない。

江戸時代の日本人がキリスト教徒に対して、世界史にも例のないほど過酷な迫害をしてきたということは紛れもない事実である。しかし、これは日本人の宗教的感性の欠如に原因があったのではなく、むしろ逆に日本人がきわめて稀な宗教的感性をもつ民族であるということを示している。だからこそ外来の宗教に対して極度に過敏であり、キリスト教というきわめて伝染力の強い新宗教に対して拒否反応を示したのではないであろうか?すなわちキリシタンの迫害というのは起こるべくして起こった出来事であり、それは日本教徒が日本教を守るためにやらざるをえなかったのである。もしそれをしなければ、日本は早晩キリスト教国になっていたのではあるまいか。その可能性はザビエルの次の言葉によっても裏書きされていると思う。

「日本についてこの地で私たちが経験によって知り得たことを、貴方たちにお知らせします。第一に私たちが交際することによって知り得た限りでは、この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人よりすぐれている人々は異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何物よりも名誉を重んじます。」(長嶋総一郎著「日本史の中のキリスト教」PHP新書 P25)

またザビエルの後を継いで信長らに謁見したルイス・フロイスの書簡の中にも次のように書かれている。

「日本の貴人はみな礼儀正しく教育良く、喜んで外国人に会い、外国のことを知らんと望み、きわめて些細なる点まで聞かんとす。彼らは生来、道理に明らかなり。盗みは彼らの最も憎むところにして、ある地方においては盗みをなしたる者は何ら手続きを踏むことなく直ちにこれを殺す。」(山本七平著「危機の日本人」角川新書)

彼らが来日した当時、日本はまさに東洋の理想郷であった。この国の国民は生まれながらに高度な宗教的感性を持ち、キリスト教の道徳や精神を学ばずとも理解できる素質をもった国民なのである。事実、彼らが期待したとおり、当時の日本人はたちまちのうちにキリスト教の真髄を理解し、わずか数十年の間に何十万人という信者が生まれたのである。実は天皇信奉を中心とした日本教の教義が確固とした基盤を築くのは、江戸時代の中期以後のことであり、その教義の確立にはキリシタンの迫害後に日本人のアイデンテティーを確立するべく統一的な国家的宗教が必要になったという政治的背景が存在していた。故山本七平氏が生涯をかけて追いかけたテーマこそが、この問題であった。

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(4)本多vsベンダサンの「百人斬り論争」が提起したもの

われわれの中には誰でも「内なる愛国者」が住んでいると同時に「内なる科学者」が住んでいる。たとえば南京虐殺があったのかどうかという問題は科学的問題であると同時にわれわれの愛国心に関係する問題でもある。われわれの中の「内なる愛国者」はできるだけ虐殺があったという事実には目をそむけようとするであろうし、逆にわれわれの中の「内なる科学者」はそのような感情的判断を排して、できるだけ客観的に事実をみようとするだろう。

しかし厄介なのは次のような場合である。もし、われわれの「内なる科学者」が南京虐殺はなかったという判断を下した場合、その判断にはわれわれの中の「内なる愛国者」の判断がまったく入っていないのかどうかという疑念を残す。この問題に関する論争が現在でも非常に複雑な様相を呈しているのは、その論争がわれわれの「内なる愛国者」と「内なる科学者」の間の葛藤に起因する問題でもあるからではないかと思われる。

もうかれこれ40年も前の話であるが、70年代の初頭、「日本人とユダヤ人」で華々しくデビューしたイザヤ・ベンダサンと当時を代表する人気ジャーナリスト・本多勝一氏との間で公開論争が雑誌「諸君」誌上で繰り広げられた。いわゆる「百人斬り論争」といわれるものである。「百人斬り」というのは、昭和12年11月末から12月12日まで続いた南京城攻略戦において、その戦場のさなかN少尉とM少尉との間で南京侵攻途上にどちらが先に百人斬りを達成するかという殺人ゲームが行われていたという話である。これは当時の東京日日新聞(毎日新聞の東京版)で派手に報じられ、戦後になって東京裁判でもこの報道を根拠に南京虐殺があった証拠であるとされた。ちなみにN少尉とM少尉はGHQに逮捕され蒋介石の国民党に引き渡されたあげく処刑されている。

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本多氏はこの話を「中国への旅」という自著の中で、現実にその話を語ってみせた中国人の姜さんという方の話(その話は東京日日新聞の報道が中国でも広まっていたという話にすぎないものだが)を紹介しながら、これを南京虐殺の具体的な証拠であるとして書いていたわけだが、ベンダサンはこの話には不自然な点が多く伝説にすぎないものとみなし「諸君」誌上で一刀両断に本多説を批判していた。これに対して、本多氏がいきりたち、「諸君」誌上での公開論争となったわけである。

この論争は後に2003年になって、N少尉とM少尉の遺族が名誉棄損で本多氏と毎日新聞らを告訴したが、地裁、高裁での原告敗訴のあと2006年12月に最高裁において控訴棄却の判決がでており、この話は伝説にすぎないとする遺族の主張は受け入れられなかった。ただし、百人斬りゲームは事実に基づいていると裁判所が判決で認定したわけではなく、あくまでも「百人斬りゲームを行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」としているだけなので、この件の真相は依然として闇の中であることに変わりはない。ただし、ここでその真相について論じるつもりはない。ことの真相はどうなのかということについては、いくつもの本もでているし、HPで詳しく論じておられる方が何人もいるので、関心のある方はぜひそちらを参照してほしい。

そもそもこの論争の最初の火付け役となったのが先の「諸君」誌上での本多・ベンダサンの公開論争なのであるが、今読み直しても特に印象深く思われるのは、「内なる科学者」としてのベンダサン(または故山本七平氏)の関心の公正さと、洞察力の見事さである。いうまでもなくユダヤ人ベンダサンは日本人ではないのだから日本人的な意味の愛国者とはいえないはずだ。もちろんベンダサンとは山本七平氏の別名に他ならず、それは建前にすぎないのだとしても、しかしベンダサン(または山本七平氏)の論法は日本人的な愛国者のそれとはやはり決定的に相違しているように思える。むしろベンダサン(または山本七平)はあくまでも客観的事実にのみ関心のある科学者のようにみえ、その結果、本多氏が一方的に挑んだ公開論争は(本多氏にとって)大きく目論見はずれとなっているようにみえるのである。

というのは本多氏にとってはベンダサンとは山本七平氏の偽装に他ならないので、ベンダサンの化けの皮をはがせば、その本質は右翼的な愛国者と同じようなものであろうと勝手にきめつけていた節があるのだが、そのような本多氏の思い込みが的外れであることは論争が発展するにつれて明らかになる。むしろ本多勝一氏の論法は「内なる科学者」としても(ベンダサンに対して)著しく劣った存在であり、論争が発展すればするほど彼の思考の貧弱さがみえてくるのである。

この論争がたけなわの頃、本多氏を始めとする左翼系知識人が全盛期の時代であった。今では考えられないかもしれないが、当時の新聞やテレビはこぞってソ連や中国、北朝鮮を礼賛していた時代である。毛沢東の文化大革命を素晴らしい社会実験だと称え、社会主義には大いなる未来があると多くの知識人が無邪気に信じていた時代であった。その証拠に本多氏は論争の中で次のように書いている。

私は毛沢東の「盲従分子」では全くないけれど、学生時代から彼の著作を読んだり行動を伝聞して感心するのは、あのイデオロギーとしてのマルクス・レーニンを、完全に「中国の論理」の中へ組み込んで生かしている点です。彼の真の強さは、ここにあると思っています。(「日本教について」p379)

ついでながら本多氏がベンダサン(または山本七平)に食ってかかった理由をつぎのように記しているので紹介しておこう。

ではA章でのベンダサン氏を選んだ理由のうち、書かなかった第二の理由をここで申し上げます。それは、すでにベンダサン氏がみずから明らかにしてくれた通り、天皇制を擁護し、侵略軍の論理を擁護する反動だから、お相手をいたしました。(「日本教について」p378)

これらの文章をみると、要するに本多氏の頭の構造は革新勢力対保守反動勢力という単純な図式に従って物事をみるイデオロギー過剰人間であり、その立ち位置からベンダサンの仮面(ついでに山本七平の仮面も)をはがしてやりたいと考えているにすぎなかったことがみてとれる。すなわち本多氏はベンダサンの本質が天皇制を擁護する保守反動にすぎないものであり、その立場から南京の虐殺を認めまいとしているのだと勝手に考えていたのであろう。

しかしながら、ベンダサン(または山本七平)は本多氏が期待したような単純な保守反動ではなかったのである。前にも述べたように彼はおそらく愛国者であるともいえないであろう。なぜならベンダサン(または山本七平)は南京の虐殺を否定しているわけでもないからである。後に書かれた「日本人と中国人」(祥伝社)などを読むと、ベンダサンが日本軍の南京侵攻の愚劣さを徹底的に批判解剖しているのをみても、本多氏の批判はまったく的外れなものであったということが分るのだが、それについてはいずれ稿をあらためて書きたいと思う。

一般に「右翼」とか「愛国者」といわれる人々は南京の虐殺はなかったと強硬に主張しているが、しかし、その主張の根拠はいったい何だろうか?この百人斬りゲームの話し自体がまったくのでっちあげだったとは、裁判所もいうとおり安易には断定することはできない。この点に関しては、たしかにベンダサンが「百人斬りゲームは伝説にすぎない」とした本多批判は勇み足ではないかという見方もできるのだが、しかしベンダサンは決して「内なる愛国者」として、南京虐殺を否定したいがためにそのような事実はなかったと主張しているのではない。ベンダサンの主張は、百人斬りゲームという話が前後のつじつまがあわない話であり、それが事実であるとすると不自然な点が多いということを具体的事実に基づいて指摘いるにすぎない。すなわちベンダサンは純粋に「内なる科学者」としての立場から、そんないい加減な「戦意の高揚を煽る」式の古い新聞記事を鵜呑みにするのはおかしいではないかと指摘しているだけであり、その報道に何らかの「事実の核」はあるということは認めても(ベンダサンもその「事実の核」は認めている)、それを事実そのものだと決め付けるのはジャーナリストとしてもいかがなものかと端的に批判しているだけなのである。だから、ベンダサンの論点はあくまでも南京虐殺があったかどうかという論争をしているのではまったくなく、単に南京事件の中で生じたごく一部の風評に関する論争にすぎないものであるのだが、本多氏はそれをはじめから取り違えているので、二人の論争がどうしても噛み合わないのである。

しかし、この論争が発展するにつれ、「百人斬りゲーム」が事実か否かという問題よりもはるかに大きな問題がベンダサンの方から提示されており、それに対して本多氏の浅薄さがますます際立ってくるのである。その問題というのは日本人一般の戦争責任の問題である。面白いことに本多氏の立場は今日の一般の日本人の考え方ともある意味通低する考え方であり、要するに現代の日本人は当時の戦争に参加したわけではないので、中国人に謝る必要はないという考え方なのである。本多氏によれば、南京事件の頃自分は幼児だったので、その事件に何のかかわりもなく責任もないという。さらに(本多氏にいわせると)多くの日本の一般国民はむしろ中国人民と同じく被害者であり、悪いのは当時の支配者であった軍部であり、そしてその最高責任者でもあった天皇自身であるという見方をしているのである。

これについては、本多氏が中国人に対して語った言葉を自ら記しているので、その部分を紹介しておこう。

「南京虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに一般人民としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。」

この見方はマルクス・レーニン主義の階級史観から当然に導かれる考え方(すなわち被抑圧階級である人民は常に被害者の側であるという考え方)であることはいうまでもないが、ベンダサンはそのような考え方の中にこそ、われわれの「悪」そのものがあるのだということを聖書の教えに照らして次のように明らかにしている。


ここでまず教会闘争の人々およびブラント氏の「自明」からはじめましょう。両者の背後には聖書の世界の「贖罪」という伝統的考え方があります。これは本多様の謝罪とはまったく意味が違う考え方です。この贖罪という思想は非常に古く、おそらくは旧約聖書の最古の資料にまでさかのぼりますが、これを一つの思想として明確にしたのは第二イザヤでしょう。ヘブル思想の最高峰といわれる彼の思想、ヘブル文学の精華といわれるその詩、特に「苦難の僕」は、さまざまな面で聖書の民に決定的な影響を与えており、簡単には要約できませんが、その中の特徴的な考え方の一つは「他人の責任を負うことができる」という考え方です。

一見、奇妙な考え方と思われるかもしれません。しかし、この罪責を栄誉と置き換えてみれば、人はみな当然のことのように他人(先人も含めて)の栄誉を担い、本多様とて例外ではないことはお気づきでしょう。本多様は砂漠にただひとり自生されたわけではありますまい。二十世紀の日本という社会に生まれ、何の権利もないのに、その社会の恵沢と栄誉を、当然のこととして負うておられます。従って本多様が「幼児であったから」「責任がない」といわれるなら、日本の伝統的文化、それにつづく現代社会の恵沢と栄誉を受ける資格も放棄されたことになります。責任を拒否した者に権利はありますまい。人間は生まれる場所も生まれる時も選ぶことができない故に歴史に対して責任がある、と考えるとき初めて人間は「人間」になるのであって、「おれは生まれた場所も時も自分で選んだのではないから責任はない」といえば、これは獣に等しいはずですが、そう考えうること自体が実は恵沢を受けている証拠なのですから、この態度は栄誉と恵沢は当然のこととして受けるが、罪責を負うことは拒否する」ということになります。

少なくとも聖書の世界では、これを最も恥ずべき態度と考えますので、ブラント氏がもしワルシャワで本多式のあいさつをしたら、すべての人が彼に背を向けたでしょう。なぜならこれは「財産は相続するが負債はおれには関係がない。なぜならその借金は、おのれの幼児のときのもので、当時何も知らなかったからだ」というに等しいからです。ブラント氏がドイツ人であるならば、その伝統という遺産とともに罪悪という負債をも継承するのが当然であり、またドイツ人を同胞すなわち兄弟と呼ぶなら、同胞の罪責は負うことができるし、負うのが当然(自明)のことだからであります。

罪なき者が他人の罪を負って砕かれる。この時はじめて、負った人は負わせた人々を同胞と呼びうる。すでに他人ではない。従って同胞としてその罪を糾弾する権利があると同時に、その罪科で苦しめられた人々に謝罪する権利も生ずる。そしてそれをすることによって和解が成立する・・・。(「日本教について」P224-226)


ここで、ベンダサンはわかりやすい例として、70年代当時の西ドイツ首相ブラント氏の話をしている。ブラント氏は第二次大戦の最中、反ナチ闘争に命をかけて戦った人物だったが、戦後はナチの戦争犯罪を自らの責任として全世界に対して謝罪しているのである。もちろん、このような戦争責任の意識はブラント氏一人のことではない。

もうひとつ例をあげます。ナチが降伏した直後、強制収容所から解放されたドイツ人があります。その中に有名な「ドイツ教会闘争」すなわち反ナチ闘争をしてきた人々がおりました。この人々もワルシャワのユダヤ人同様、また多くの他の強制収容所に入れられた人々同様の運命にあったわけですが、この人々が解放されると同時に「本多式」のあいさつをしたでしょうか?(中略)ところが、解放されたこの人々の第一声は「全世界への謝罪」でした。ブラント氏の態度も同じです。本多様は、御自分のあいさつを、この人々の謝罪に比べて、どうお考えになりますか。・・・・(「日本教について」P231-232)

もちろん今日の愛国派の人々にいわせると、当時の日本の軍部とナチズムをいっしょくたにするのは無茶苦茶だという議論はあるだろう。しかし南京事件についてのベンダサンの見解は別稿にゆずるとして、少なくとも日本人の戦争責任についての意識が希薄な理由はただ単に戦争の質の違いという点だけではないように思う。ベンダサンによると、本多氏に限らず日本人一般に欠けているのは、(ごく一部の西洋人にはあるが日本人にはない)聖書的な意味での贖罪意識である。この意識は聖書の知恵を深く知る者でなければ、なかなか分かりにくい。その解説としてベンダサンがあげているのは旧約聖書のイザヤ書の次の言葉である。

「われわれの正しい行いは、ことごとく朽ちた衣のようである」(イザヤ64・6)

ベンダサンによると、この言葉は分かりやすく言うと、「人間の正義は使用済みのアンネナプキンに等しい」という意味であり、要するに人間が正義だと思ってする行為ははじめから神の前に汚れたものだという意識なのである(元々聖書の中では経口の出血は罪の穢れを意味するという解釈がある)。これはどういうことかというと、人間は常に正義を口にしながら「悪」を行う存在だという意味なのである。そのような深い宗教的意識がなければ、決して贖罪意識というものはわからない。それは決して「イエス様の贖罪を信じれば、あなたの罪は許されますよ」というようなお手軽なキリスト教牧師が説く救済意識でもないのである。むしろそれは人間というものは救い難い存在なのだという意識である。

ベンダサンがすごいのは、このたった一言によって本多氏の偽善を完璧に見破っていることである。ベンダサンはいう。

戦争中の日本人も正義を高々と掲げておりました。白人の「東亜侵略百年の野望をここにくつがえす」と国民歌謡は高らかに鳴り響き、「アジアを支配し搾取し略奪する米英の手先、蒋政権に対して」あくまでも「殺される側、支配される側」に立ち「東亜解放の正義の戦い」を進めたわけです。以上のような言葉は当時の新聞をパラパラとめくれば、いくらでも出てきます。当時の日本人は皆が高々と正義=贖れた布を掲げていました。日本軍はその軍帽をおそらくその正義の布で作っていたのでしょう。そしてこの「正義」を頭にいただけばいただくだけ、すべての日本人が贖れていく。そしてその贖れのゆえに、イザヤ書にある通り「正義ではなく叫換」になり、「義ではなく流血」になっていく。義を掲げれば、掲げた者が贖れ、その贖れが南京虐殺という「流血」になっていく。しかしこの恐るべき体験をだれも本当には振りかえようとしない。そこで戦争が終わればすぐさま、すべての人間が平然と再び「正しいこと(正義)」を口にし、われわれが沈黙していたから戦争になったのなら、「みなが手をつないで、常に正しいことをいえば、世の中が正しくなる」などという戦慄すべき投書が新聞を飾る。新聞も大学も文化人も政党人もすべて正義を口にする。まるで全員が「贖れた布」を頭にかぶり、「使用済みのアンネ」を口にくわえて、デモ行進しているようになり、その贖れが各自の全身にまわっていながら、それが世の中を正し、清めることだと少しも疑わない。(「日本教について」P231-232)

ちなみにベンダサンがこの文章を記してからしばらくして連合赤軍のあさま山荘事件が起こり、さらに日本赤軍の岡本公三によるテルアビブの乱射事件が起こっている。またベトナム戦争後、大量の難民がボートピープルとなって祖国を捨てて命からがら海外へ渡り、クメールルージュのカンボジアでは800万人を上回る規模の大量虐殺があったことが発覚する。中国においても本多氏らが称賛していた毛沢東の文化大革命により何千万の犠牲者があったとが分かっている。もちろん「正義という贖れた布」は今現在でも世界中で多くの人々を殺していることはいうまでもないことだろう。中東やアラブの世界で振りかざされている正義もそうであるし、北朝鮮が振りかざしている正義もそうであろう。もちろん、この平和ボケの日本においても正義を振りかざす人々が知らない間に「悪」を行っているという事実もあるはずである。

そしてそのような事実にだれよりも深く気づいている人物こそがベンダサン=山本七平氏だったにちがいない(※)。彼があえて匿名ながらも、さまざまな著書を綴ってきた理由は、そのような深い宗教意識からでたものであり、それらの隠れた真実を教えることこそが自らの使命だと感じたからに他ならないのではないかと思う。そのような意味で彼はまさに現代版の預言者イザヤだったのではあるまいか。

※ベンダサン=山本七平氏説は必ずしも証明されているわけではないが、少なくともベンダサンと山本七平氏が限りなく近い人物であることはまちがいないとおもわれるので、あえて=(イコール)の記号を使いました。

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