3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(1)菅降ろしのはじまり

(1)菅降ろしのはじまり
3.11後、私が故山本七平の「空気の研究」をふと思い出したのは、実は「放射能汚染に対する過剰な反応」としての異様な「空気」に触発されたのではなく、それよりもある意味ではもっとどす黒い人間の野心や陰謀が渦巻く永田町という世界の異様な「空気」に触発されたからである。今ではもうすっかりと忘れ去られた感もあるが、そもそも「菅降ろし」というのは昨年(2010年)以来、民主党内で燻っていた権力闘争がその発端にあることを思い出してほしい。この国では1年半も前のことなど誰も思い出せないかもしれない。それほど日本人という国民は忘れっぽい性格の民族ではないかと思うことがしばしばある。故山本七平氏もしばしばそのようなことをおっしゃっていた。そこでこの機会に菅降ろしに到る経緯を時系列で整理してみたい。

菅前総理の前に2009年に初代民主党総理として鳩山政権が誕生したことは誰しも記憶にあることだろう。彼は大胆なマニュフェストを掲げつつ、官僚主導から官邸主導の政治改革を謳いあげ、それに基づいて国家戦略室と行政刷新会議を設置し、政権発足後すぐに事業仕訳という前代未聞の荒業で徹底的に無駄な財政支出の洗い出しをしようとした。政権発足当時はそのような意欲的手法が国民の支持を集め一時は80%という高支持率を叩き出している。ところが発足後まもなく鳩山総理自身の親からの多額の献金疑惑が発覚したり、同時に小沢幹事長(当時)の政治資金虚偽記載の疑惑などで、途端に支持率を落とすことになる。そしてなんといってもマニュフェストに掲げていた普天間移転の公約がにっちもさっちも交渉が進まないという事態になって、政権発足後わずか266日で、突然、自らの口から辞任しますと言い出した。面白いことにその辞任の決意というのが、ハトならぬヒヨドリの招きだというから笑わせる。2010年5月29日の日韓中首脳会談の際に宿泊した韓国・済州島のホテルに飛来した一羽のヒヨドリをみて、「我が家から飛んできたヒヨドリかな。そろそろ自宅に戻ってこいよと招いているのかな。そう感じた」と記者団に語ったそうである。

鳩山さんが辞任すると同時に同じく政治資金の問題で疑惑を受けていた小沢幹事長を道連れにして二人揃って退くという表明をして、小沢さんは苦虫をかみつぶしたような顔をしながらも自らの幹事長職辞任を受け入れた。この結果、圧倒的多数の支持(樽床氏が対抗場に立ったが)で総理の座を引き継いだのが副総理格の菅直人であった。ただし、この後、菅内閣の脱小沢路線を鮮明にした組閣が以後の民主党内に波紋をもたらすことになる。仙石氏(官房長官)や枝野氏(幹事長)ら反小沢の急先鋒が要職につくことによって菅vs小沢という民主党内の確執が以後表面化してゆくことになる。一方、小沢氏は陸山会の政治資金虚偽記載の疑惑が検察の取り調べで不起訴となったにもかかわらず、誕生したばかりの検察審査会によって差し戻され、またしても疑惑の決着がつけられないことで政治家としての政治生命そのものが危惧されていくことになる。そんな中で誰もが驚いたのは菅内閣誕生後わずか3か月の民主党代表選で小沢氏が菅総理に対抗して代表選に打って出るという挙にでたことである。当然ながらそれは菅総理を引きずりおろして自らが総理の座につくことを目指したものであった。自らの疑惑が晴れない中であえて権力の座を求める強引な出馬は、当然ながら厳しい批判にさらされることになった。9月○日の朝日新聞の社説には以下のように指弾されている。

どうしてここまで民意とかけはなれたことができるのか。多くの国民が、あぜんとしているに違いない。 民主党の小沢一郎前幹事長が、党代表選に立候補する意向を表明した。 政治とカネの問題で「責任を痛感した」と、幹事長を辞して3カ月もたっていない。この間、小沢氏は問題にけじめをつけたのか。答えは否である。いまだ国会で説明もせず、検察審査会で起訴相当の議決を受け、2度目の議決を待つ立場にある。鳩山由紀夫前首相にも、あきれる。小沢氏率いる自由党との合併の経緯から、この代表選で小沢氏を支持することが「大義だ」と語った。「互いに責めを果たす」とダブル辞任したことを、もう忘れたのか。二人のこのありさまは非常識を通り越して、こっけいですらある。
 民主党代表はすなわち首相である。党内の多数派工作に成功し、「小沢政権」が誕生しても、世論の支持のない政権運営は困難を極めるだろう。党内でさえ視線は厳しい。憲法の規定で、国務大臣は在任中、首相が同意しない限り訴追されない。このため「起訴逃れ」を狙った立候補ではないかという批判が出るほどだ。政治とカネの問題をあいまいにしたままでは、国会運営も行き詰まるに違いない。より重大な問題も指摘しなければならない。 自民党は小泉政権後、総選挙を経ずに1年交代で首相を3人も取りかえた。それを厳しく批判して政権交代に結びつけたのは、民主党である。今回、もし小沢首相が誕生すれば、わずか約1年で3人目の首相となる。「政権たらい回し」批判はいよいよ民主党に跳ね返ってくるだろう。より悪質なのはどちらか。有権者にどう申し開きをするのか。



当初、小沢氏は鳩山氏の支持を取り付けることによって、民主党国会議員の数では互角の戦いとみられていたが、しかし投票権を有する地方議員と全民主党員の票が圧倒的に菅支持に傾いたために小沢の乱は不発に終わった。この後、菅総理は第一次改造内閣で、ますます脱小沢路線を明確にした組閣をする。このとき小沢氏の敗北の弁は「初心に帰り、一兵卒で民主党政権が国民の皆さんの期待に応えられるよう、みんなと手をつないで協力していきたい」と表向き殊勝なものであったが、小沢氏のその後の行動をみると誰の目にも一平卒に戻ったとはみえない。それどころか代表選の敗北後、ほとんど間髪もいれずに小沢氏の行動はますます政局一辺倒へと先鋭化してゆく。「みんなと手をつないで協力していきたい」という言葉はあくまでも小沢グループ内の協力という意味でしかなかったことがこの後はっきりとするわけだ。

小沢氏が自らの復権を大胆に志向したのは、一度差し戻された検察審査会の起訴相当の議決が検察によって再度不起訴相当になったという朗報のせいでもあるのかもしれないが、しかし彼の淡い期待をあざ笑うかのように10月4日、検察審査会は小沢氏の起訴相当の議決を再度発表した。これによって小沢氏の強制起訴は確定となり、もはや議員としての活動さえ制限されざるをえなくなる。国会では野党による証人喚問(または政倫審への出席)の要求がますます強くなる。菅総理は少なくとも小沢氏に政倫審への出席に応じるよう求めたが小沢氏は頑として受け付けなかった。一方、起訴が決まった以上、小沢氏は犯罪容疑者という身であり民主党は党としての処分もせざるをえなくなる。岡田幹事長によれば、やむなくもっとも緩やかな処分として「党員資格一時停止」という処分を課したとするが、小沢グループはこの処分に対しても一斉に反発する。

民主党政権樹立の最大の貢献者を処分すること自体が許せないというのだ。ここへきて小沢氏は再び一平卒から多数の部下をかかえるグループの将としての行動を迫られることになる。小沢グループが再度の反乱を起こす大義名分は次のようなものである。いまや菅内閣は先の衆院選で確約した民主党のマニュフェストをかなぐり捨て、大増税を指向する官僚主導内閣になり下がってしまった。しかも7月の菅内閣下での参院選挙で大敗し、その責任もとっていないというものである。したがって菅内閣は民意にそむいた非民主的政権であるというのである。ただし、小沢氏は強制起訴となった身であるから再度総理の座を目指すことは並大抵のことではなく、この時点で具体的な展望が拓けていたわけではない。ただ小沢氏にとって、菅内閣は打倒の対象でしかなくなったというのはもはや打ち消しのできない事実であり、目指すべきは政界再編という道しかなかったであろう。格好よくいえば、この時の小沢氏はまるで主流派から追い出された西郷隆盛の心境であったとみえなくもない。しかし、後々の彼の打算的行動をみると小沢と西郷を比較することは誤謬の極みであることはいうまでもない。以後、小沢氏及び小沢グループは展望なき展望の下に菅内閣打倒へと闇雲に突き進んでいく。

まず菅内閣打倒の一の矢として、2011年2月17日、小沢氏の処分に反対する議員渡辺浩一郎氏他16人の衆院議員が一致して民主党会派を離脱するという行動にでた。当グループ代表の渡辺氏は記者会見で次のように離脱理由を説明している。「菅政権は国民と約束したマニフェストを守っていない。国民との約束を果たす本来の民主党政権ではないため」。彼らはいずれも比例候補であったが、民主党を離党したわけではなく、あくまでも会派離脱という行為によって内閣が提出した法案などに今後は党議拘束から離れて行動する宣言をしたということになる。次に第二の矢としてその一週間後の2月23日、小沢一の子分で当時農水政務次官をしていた松木謙公氏が辞表を叩きつける。そして第三の矢として、さらにそれから10日後の3月3日に民主党の佐藤ゆうこ衆院議員が離党届を出して愛知の減税日本に入党するという意志表明をして、当時人気の河村愛知県知事と小沢派が連携して政界再編に動き出すのではないかという観測まででていた。当然ながら、このような民主党内の動きに野党が黙っているはずはなかった。政界は再編ムード一色となり、週刊誌はこれを煽るように連日、ありもしない組み合わせでポスト菅政権の予想記事が踊っていた。このような異常な政局の中で3月11日、東日本大震災が発生したということを、われわれは忘れてはならないだろう。

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(2)大震災後の政局

(2)大震災後の政局
大震災は明らかにわれわれの社会の空気を変えた。3.11は今後もその社会の前後が明確に区分される日として記憶されることになるだろう。それは1923年の9月1日に起こった関東大震災と同様、あるいはアメリカの9.11と同じように、われわれの社会のあり方や考え方を根本的に変えた日として、以後長く語り継がれることになるのだろう。

われわれ人間はこれほどの災害に遭遇すると、一個人としての考え方よりも共同体としての考え方がより強固になることは、ある種のDNAとして組み込まれているのかもしれない。その意味では人間という生き物は単なる個体ではなく、むしろ有機的共同体の一部としての存在に他ならないかのようにみえる。3.11の震災で首都が震度5強の大きな揺れに動揺していたとき、人々はわれ先に自分の身を守ることではなく、同じ運命共同体の一部としての冷静な行動を取るようにと、誰に教わらなくともそのようなある種のDNAの命令に従ってわれわれは行動していたのではないであろうか。それが世界の他国の人々からみると日本人の賞賛すべき性質なのかどうかは別にして、少なくともわれわれ人間はリチャード・ドーキンスのいうような利己的存在であるという単純な割り切り方はできない、ある意味で不思議な利他的性質をもった生物である。この震災後、多くの人々が助け合う精神をもって事にあたろうとしたことは、われわれの記憶の中でも大事にしておきたい希望のひとつである。もちろん、それは日本人だけがそうだったわけではなく、世界中から多くの支援があったことも同時に忘れてはならない。しかしながら、そのように人々の心が助け合いの精神に満ちているときに、永田町の汚泥の中にいる人々にとっては、まるで住んでいる世界が違うかのように異なった空気が充満していたことは驚きに堪えない。彼らは果たして正常な人間であろうかと疑ってみたくもなるほど、その精神は旧態依然としてグロテスクであった。

3.11前まで永田町では菅降ろしの計画がさまざまな陣営からだされていた。小沢グループは具体的な菅降ろしの計画として、5月頃に参院で多数を獲得できる見込みのある野党の問責決議案に相乗りするという案を固めていた。もちろん彼らが同調することで問責決議案が可決することは野党と裏取引をするまでもなく予想されることであった。野党の自民党や公明党は、もともとやむなく選挙に敗退して下野した立場であるから、当然のことながら自らの政権奪還のためにも菅降ろしの計画に加わるべき正当な動機があった。

しかし、あたりまえの話ではあるが政治家といえども人間である。一般国民と同様、震災のショックで永田町の空気は一時的にもせよ変化したことは事実である。最初の数週間に限っていえば国難に対処するために政治休戦すべきであるという考え方が与野党間に広がっていた。当初、挙国一致体制を築くべきであるという考え方は小沢氏に近い輿石氏からもでていたのである。そのような空気の中で、3月19日に菅総理が谷垣自民党総裁に電話で連立内閣の副総理として入閣の打診をしたが、谷垣総裁は「入閣すれば自民党が反対してきた子供手当法案など新年度関連法案の成立に協力せざるをえなくなる」(朝日新聞)という党内の反発を理由に断っている。ただし、谷垣総裁の弁護のためにいうと、氏は菅内閣の連立打診に相当悩んだらしい。後日、谷垣総裁は自民党の元総理のお歴々に伺いをたて連立内閣について助言を求めている。たとえば中曽根氏からは「一時的に連立を組んだらどうか」という助言がだされ、小泉氏からは「健全な野党としてやればよい」という助言がだされた。結局、谷垣氏は小泉元総理の助言を取り入れたということになるが、果たして自民党は以後健全な野党としてありつづけたのかというとはなはだ疑問であろう。

しかしながら驚くべきはその後の展開である。震災後わずか一カ月という短さで永田町の空気は一変して政治休戦の呪縛が解かれることになる。小沢氏がまたぞろ政局へと動き出したのである。菅降ろしが再度本格化するきっかけとなったのは震災からちょうど一カ月後(4月10日)の統一地方選(前半戦)の結果がでた後であった。この選挙で民主党は予想通りの敗北を喫するわけだが、この結果を招来した菅総理は政治責任をとって辞めるべきだという論がでてきたのである。めちゃくちゃといえば、めちゃくちゃな論法である。そもそも地方選挙で敗北したために総理が責任をとって辞任するという例は憲政史上にもない話だ。ましてや震災復興の最中でしかも福島原発の事故は依然として予断が許されない状況が続いており、ひとつ対応を間違えば日本国が滅びてしまうという瀬戸際に立たされている中である。しかし小沢氏によると、菅内閣の原発事故対応そのものが失政であり、日本を救うためにも菅内閣をこのまま続けさせることは許されないという判断だったという。ちなみに3月17日付産経新聞には以下のように記されている。


意地でも辞めようとしない菅直人首相を何としても引きずり降ろす-。そんな気持ちに駆られてか、民主党の小沢一郎元代表を支持する勢力が、ここにきて一斉に動き出した。小沢氏は12、13両日夜、東京都世田谷区の私邸に子飼いの議員を招き、首相批判を展開した。それは「菅降ろし」のゴーサインでもあった。グループ「一新会」の面々だ。結束を誓い合う場にしたかったのか、一新会所属議員であっても首相に比較的近いと判断された議員には実は声はかかっていない。当時の状況を出席者の証言をもとに再現すると、2日間とも小沢氏は酒が入る前に、「君たちに話がある」と切り出し、出席者を身構えさせるという役者顔負けの演出をしている。内容は2日間ともほぼ同じ。小沢氏の頭の中は福島第1原子力発電所事故のことでいっぱいで、なかなか収束しない事態に「失政の部分が大きい。これを許していたら後世、『あの政治家は何をやっていたんだ』といわれる。菅さんに働き掛けをするが、それでもダメなら(われわれは)覚悟して行動しなければならない」と語った。だが、小沢氏は内閣不信任案に同調することは示唆したものの、具体的な指示を出すことはなかった。しびれを切らした出席者が「われわれは何をしたらいいのですか」と聞くと、小沢氏は「まずは一致結束してわれわれで動く姿勢を示すことだ」と答えるのみ。

この記事をみると、なんともはやという感想をもたざるをえない。確かに、菅内閣の震災原発対応には不手際という他にない部分はあったかもしれない。それは週刊誌やテレビの報道で扇情的に報道されたために誇張され、あたかも菅内閣が震災被害を拡大させている張本人であるかのような印象を持つ方もいるだろう。しかし、それらはほとんど検証にたえられない2chレベルのデマゴーグに等しいものである。この記事の小沢氏の発言をみても、まさにデマゴーグに他ならないことが分かる。いや、そうではないと小沢氏を弁護したい人もいるかと思うので、この際、少し冷静になって考えてみよう。

小沢氏が「失政の部分が大きい」というのは、そもそも何を指していたのであろうか?先の記事をみるかぎり、福島原発の事故が一向に収束しないのは菅総理の「失政」であると(小沢氏は)いっているようだが、あれだけの原発事故がわずか一カ月そこそこで収束に向かうのがあたりまえだと考えているとすれば、それは原発事故の恐ろしさというものがどのようなものかという基本的認識すらないことを証明している。今現在(10月16日)においては、ようやく原発事故は100℃以下の冷温停止に向かって収束しつつあるが、事故後1か月の段階では収束どころか、何が起こってもおかしくない状況であった。さいわい、3月15日から始まった消防隊の決死の放水作業が功を奏して原子炉内の温度が下がり、最悪の事態は避けられるという楽観的見通しがあるにはあったが、まだまだ4月12日前後の段階では事態は収束どころではなかったのである。そもそも放射能とは何か?ウランやプルトニウムはなぜ巨大なエネルギーを生み出すのか?原子力エネルギーはいかにして安全が保たれるのか?今回の事故はいかなる事態を招来しているのか?仮に対応が間違っていなかったとしても、炉心溶融を引き起こした原子炉が冷温停止に至るまでにどれほどの時間が必要とされるのか?それらに関する基本的で正確な知識がなければ、菅総理が原発対応において「失政」をしたということは軽々にはいえないはずだ。ただ誰かががそう言っているからそうだと思うというのではデマゴーグ以外の何ものでもないだろう。

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(3)ヘリ視察の問題

(3)菅総理ヘリ視察の問題
3.11の震災発生当初、週刊誌やTVワイドショー等で菅総理の対応に逐一非難が浴びせられたことは記憶に新しい。たとえば菅さんは震災翌日(3月12日)の早朝、自衛隊ヘリに乗って上空から被害の状況を視察に行っている。このときカメラマン付き添いでカメラを回しながら視察の状況を記録していた。この行動が後日、なぜか非難の対象となったのである。誰が口火を切ったのか分らないがTBSの情報7デイズという報道番組(?)で、タレントのビートたけし(北野武)が次のようなことを口走っていたのを覚えている。

「だいたいだね、菅さんはカメラマンを同行させてさ。何がしたかったんだろうって思うよね。あれってさ、要するにスタンドプレーでさ・・・」

このたけしの発言に触発されたのかどうかしらないが、後日、似たような非難が次々と沸き起こってくる。小泉総理の秘書官として名を馳せた飯島勲氏がブログにも次のようなことが書かれている。

3月11日、この日ほど、自分が官邸にいたらと悔しい思いをしたことはない。マグニチュード9.0で東日本を襲った大震災。発生から日を追うごとに犠牲者の数が増えている。(西暦)869年に同地域で発生した「貞観地震」(マグニチュード8.3)以来、1000年に一度といわれる自然災害は、史上まれにみる無能な政府が引き起こす二次災害によって、さらに被害が拡大している。「政治休戦」もあって、無意味なパフォーマンスに走る総理大臣を止める人もいない。最悪の事態が最悪の政権で起きてしまった。 (中略) 地震発生翌日の12日早朝、菅総理は突然現場を視察したいと言い出して、自衛隊のヘリを使って、福島第一原発に出かけた。ちょうど、1号機、3号機の問題が判明した後で、現場は対応に追われていたが、突然の視察により、責任者が総理に応対しなければならなくなった。その後の原発の状況の悪化とは直接の因果関係はわからない。しかし、東京電力側は後に会見で「もう少し早く蒸気を抜いていたら」「もう少し早く注水を始めていたら」と語っている。後に起きた原発事故に鑑みても、現場の作業を中断させた菅総理の責任は、万死に値する。

飯島氏は「因果関係は分からない」としながらも、菅総理のヘリ視察がベントの作業を遅らせた原因ではないかという先入観をもって、これこそが「万死に値する」菅総理の大罪だと決めつけているわけだ。この非難は論理的にはおかしな非難である。因果関係が分からないのに、あたかも因果関係があると決めつけて「万死に値する」という結論に飛躍させているのである。もしもヘリ視察とベントの遅れの因果関係がはっきりしていれば確かに飯島氏の非難は正しかったということになるだろうが、そうでもなければ、これはただの言いがかりにすぎない。ことによると、飯島氏は菅総理が自らのパフォーマンスを優先したということに噛みついているだけのことかもしれないが、それにしても、なぜ菅総理のヘリ視察がパフォーマンスであるという単純な結論になるのであろうか?飯島氏というと、それこそ小泉時代に総理としてのパフォーマンスを影で演出していた名演出家である。タレントのビートたけしにしてもそうであるが、当代一流の役者(演出家)でもある彼らの眼には権力者の行動というのはすべて演技にみえてしまうのであろうか?

もちろん人間の行動には必ず裏があり、その行動がどんなに利他的にみえようとも、なんらかの打算や計算が働いていることは当然のことである。ましてや政治権力者であればなおさらのことであろう。殊にこの震災によってはっきりしたことは、政治家の行動というのは100のうち90以上は打算からでているということである。もしそうではないという人がいれば、逆にその証拠を教えてほしいと私は思う。彼らにわざわざ指摘されなくとも大部分の国民は政治家の行動というものを純粋であるとは信じていない。むしろ国民はそのことを十分に分かったうえで政治家の行動の良し悪しをみているのではなかろうか。でなければパフォーマンスの達人であった小泉総理があれほど人気を集めることもなかったであろう。田中角栄のときもそうであるが、国民に人気のある総理というのは誠実な人柄ではなく、むしろハッタリで演技をするほど役者っぽい総理が受けるのである。そのような基準に照らせば、菅総理は役者としては二流かもしれないが、その分、人柄の誠実さという点では評価できる人物ではないかと思う。私自身の菅総理に対する評価は別の章で詳しく述べるつもりであるが、菅総理はある意味で日本の政治家にいままでなかったタイプであるということは確かである。彼の行動は100%「純粋」であるとはいえないが(それは原理的にありえない)、ある程度「純粋」に近い資質をもった稀な政治家である。だからこそ、彼は誤解を受けやすい人物でもあるということがいえるのであるが、それについてはいずれ述べることにしよう。

いずれにしても、ビートたけしや飯島氏の目には二流役者のパフォーマンスにみえたかもしれないが、私には菅総理があの深刻な国家的危機の最中で「パフォーマンス」を考えるほど計算高い人物だとは到底思えない。国家の運命を預かる総理が震災の被害状況を直接にヘリで視察したいと発想することは、むしろ当然であり、それはある意味では凡人的(大根役者的)な発想である。換言すれば、それは普通の人間の責任感から発せられた純粋に利他的な行動の一種である。もちろん、だからといってそれは100%純粋であるというわけではない。その行動を選択した動機の中には当然ながら利己的な目的も含まれている。すなわちその行動の中に幾分かは国民の評価や賞賛を期待した不純な動機が含まれていることも確かである。ただし100%純粋でないからといって、その行為をただちにスタンドプレーだと決めつけることはできない。もしそうなれば、いかなる政治家の行為も等しくスタンドプレーとして批判されなければならなくなるだろう。

結局、ビートたけしや飯島氏が語っているのは、菅総理の行動があたかも純粋にみえることに対して異議を唱えていることでしかないのである。すなわち、菅総理がまるで野心のない人間であるかのようにみえたことに対して、そんなことはありえないよというあたりまえのことを語っているにすぎない。しかし問題の本質は菅総理が純粋であるか不純であるかということではない。結果として、その行動がいかなる果実をもたらしたのかということによって、その行動の良し悪しが評価されなくてはならない。政治家の行動というのは常にその基準によってのみ評価されるべきであることは当然である。

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(4)ベントが遅れた真相

(4)ベントが遅れた真相
ここで3月12日前後の事態をあらためて振り返って検証してみよう。ベント作業の遅れと菅総理の視察の因果関係は果たしてあったのであろうか?飯島氏がブログでも認めていたように、果たして因果関係があるのかどうかということは、しばらくの間何の検証もなされていなかったので一切分からなかった。ベント作業実施の遅れについて、東電から事実関係の検証資料が明らかにされたのは震災から3か月以上も経た6月19日のことである。その資料は関係者の証言を基に地震発生から1~3号機が次々と水素爆発を起こした3月11日~15日の事実関係を時系列で述べられたものであり、A4用紙で41ページに相当する詳細な資料である。その中でベント作業の遅れについて関係する箇所がマスコミによって次のように要約され(きわめて簡略化され)紹介されている。

 資料によると、1~3号機では地震発生から約50分後の3月11日午後3時35分に津波の第2波が到達、その2~6分後に全ての電源が失われた。中央制御室は停電し、原子炉水位などの状況把握ができなくなった。午後5時12分に吉田所長が「過酷事故」と判断し、消防車など非常用の注水方法検討を指示。作業員は構内からバッテリーを集めるなど、電源確保に奔走した。1号機では12日午前1時半にベント実施について菅直人首相らの了解が得られたにもかかわらず、1時間半後に予定されていた経済産業相らの発表後に実施するよう本店から情報がもたらされたことや、12日午後3時36分には、電源車による電源が復旧し注水準備が完了したと同時に建屋が水素爆発したことなどが、新たに判明した。また1号機のベント実施をめぐっては12日午前8時半前に一部の周辺住民が避難できていないことが分かったため、避難後に実施するよう調整していた。吉田所長はその後、2、3号機のベントも指示するが、作業が手間取ったこともうかがえる。所長の指示から各種作業の実施まで大幅に時間がかかった詳細な理由は記されていない。津波によるがれきが構内に散乱し、消防車などが通行できなかったり、電源喪失によって暗闇の中を現場確認するのに時間がかかったりしたことが、対応遅れにつながっていたことも、あらためてうかがえる内容になっている。1号機への海水注入をめぐっては、当初、官邸の指示で中断したとする話が出るなど情報が錯綜(さくそう)したが、資料には実際に何があったかのやりとりは記されていなかった。 (6月19日付 産経新聞)

記事の中では詳細な事実関係は省略されているが、少なくともこの報告資料をみれば、東電のベント作業が遅れた原因は菅総理のヘリ視察とは何の関係もないことが分かる。飯島氏らの先入観によれば、菅総理が12日早朝に視察ヘリに出たために東電関係者は菅総理の対応がベント作業を遅らせたのではないかと疑っているが、そもそもベントの作業が遅れたのは周辺の住民の避難が先であると躊躇した(1号機の場合)ことと、ベント作業にかかわる具体的な障害が数多くあったからであり、菅総理のヘリ視察とは何の関係もなかったとされているわけである。非常に穿った見方によると、ベント作業の遅れは同じ時間帯に上空を飛んでいた菅総理のヘリコプターを気遣ったせいではないかともいわれていたが、そのような関係者の証言はあげられていない。なのに、なぜそのような憶測が流れたのであろうか?この話の出所を調べると、どうやら民主党議員からでたらしい。誰かは分からないが、その話の出所からして永田町に飛び交うガセネタの類といってもよいだろう。その出所を確かめもせずに、これは菅降ろしに使えるという考えで安易に飛びついたとすれば、彼らの知的レベルが疑われてもやむをえないだろう。

日本のマスコミは、この問題の事実関係について、なぜかあまり詳しく国民に知らせようとしていないが、皮肉なことに、アメリカのウォール・ストリート・ジャーナルが、日本のマスコミよりもはるかに詳しく事実関係について綿密な検証を発表しているので、少し長くなるが引用しておこう。これを読むと、そのとき福島原発内で何が起こっていたのかということがあらためてよく分かる迫真の報告である。以下、菅総理の視察とベントの因果関係に関する部分のみ引用する。

東電が今週公表したところによると、3月12日朝のこの時点では、1号機の核燃料はすでに溶け落ち、容器の底に積み重なっていたと思われるという。政府関係者らはいま明かす。東電で蒸気放出を決定するのに長い時間がかかったのは、放射性物質を放出すれば事故の重大さが急激に高まると考えられたからだと。東電はなお、蒸気放出をせずに事故を収束させたいと考えていた。なぜなら、大気中に放射性物質を放出すれば、福島の事故は世界最悪のものとなり、チェルノブイリと並んでしまうためだ。これに続く記者会見と国会証言で、東京電力の清水社長は、時間がかかったのは周辺住民の避難への懸念と技術的な問題のためだと述べた。この件に関して、清水社長からはコメントは得られなかった。

3月12日の朝が近づくと、東電の役員を自ら説得するために、菅首相は福島第1原発に飛んだ。午前7時頃、10人乗りの自衛隊ヘリコプター、スーパーピューマは、菅首相と複数の補佐官を乗せ、発電所に到着した。 一行が緊急の対策本部に入ると、東電の職員が放射線レベルをガイガーカウンターで確認した。同行した補佐官は振り返る。同時に入った発電作業員の放射線量が非常に高く、測定した職員はこう叫んだ。『あー、結構高いな、ここは』 グレーの会議用テーブルが二列に並んだ小さな部屋では、東電の原子力事業を率いる武藤栄副社長と発電所長の吉田昌郎氏の正面に菅首相が座った。同席した人々によると、菅首相は、白髪長身の原子力技術者、武藤副社長と衝突した。武藤副社長は、発電所の電力の問題があるため、あと4時間蒸気放出はできないと言った。作業員を送り込んで、蒸気排出弁を手動で開けることを検討しているが、原子炉付近の放射線レベルが非常に高いため、そうすべきかどうか確定できない。一時間ほどで決定すると、武藤副社長は言った。 菅首相の補佐官によると、『人ぐりが悪い』と武藤副社長は言った。

同席していた人にようると、菅首相は『悠長なことを言っている場合じゃない、出来ることは何でもやって、早くしろ』と怒鳴った。この件に関して、武藤副社長、吉田所長からのコメントは得られなかった。東電の広報担当者は、武藤副社長の発言を確認することはできないと言った。東電は常に、事態収束のために、政府などからの支援を進んで受けてきたと広報担当者は語った。 菅首相は、このミーティングの後すぐに福島第1原発を離れた。午前8時18分、発電所の技術者が最初に菅首相らに、1号機から蒸気を排出したいと伝えてから7時間後、東電は首相官邸にあと1時間ほどでバルブを開けると伝えた。 かなり遅れたものの、安全弁はまだ開放が可能だった。

問題はこうだ。通常、それは制御室で電動か圧縮空気で開閉するが、いずれのシステムも機能していなかった。 その結果、高い放射線量の建屋内で作業員が安全弁を手動で開放しなければならなかった。福島第1原発のシフト・マネジャーは、最初にバルブに挑戦するのは自分の責任だと考えた。関係者によると、彼は『俺が行く』と言った。彼は完全防護服を着用し、マスクと酸素ボンベも身につけた。そうまでしても、彼が戻ったときには放射線レベルは106.3ミリシーベルトに達していたという。この数値は、日本で放射線を扱う職場で、1年間に認められている値の2倍だった。1年間で一般の人が浴びる量と比較すると、100倍以上だった。
 記者: Yuka Hayashi and Phred Dvorak
(以上は菅視察とベントにかかわる部分引用です。)

この文章を読むと、先の東電の検証では隠されていた重大な問題が指摘されていることが分かる。すなわち東電のベント作業が遅れた原因はベントによって事故がより拡大化することを怖れたためでもあったとされているのである(赤字部分)。なぜならベントの実施は未曾有の原発事故を招いたことを自ら認めたことと同じであり、それによって放射性物質の拡散が一般人にも具体的な被害を及ぼすことになるからである。すなわち彼ら(東電関係者)はできることならベントを実施せずに、より穏便な方法で事故を収束させたかったのではないかと(ウォール・ストリート・ジャーナルの記者は)みているわけである。しかしながら、菅総理は彼らのそのようなたくらみを見抜いていたのであろうか、自ら自衛隊ヘリで原発に乗り込みベントの実施を迫ったのである。この行為は当然賞賛されるべきものであり決して非難されるべきものではない。にもかかわらず、こともあろうに日本の政治家及びマスコミやジャーナリストたちは、この菅総理の行動をめちゃくちゃな論法で切り捨てた。先の飯島氏の発言を今一度あげてみよう。

地震発生翌日の12日早朝、菅総理は突然現場を視察したいと言い出して、自衛隊のヘリを使って、福島第一原発に出かけた。ちょうど、1号機、3号機の問題が判明した後で、現場は対応に追われていたが、突然の視察により、責任者が総理に応対しなければならなくなった。その後の原発の状況の悪化とは直接の因果関係はわからない。しかし、東京電力側は後に会見で「もう少し早く蒸気を抜いていたら」「もう少し早く注水を始めていたら」と語っている。後に起きた原発事故に鑑みても、現場の作業を中断させた菅総理の責任は、万死に値する。

この論が根拠なき曲解であったことは自明であろう。ウォール・ストリート・ジャーナルの記者によれば、菅総理は東電にベントの実施を迫るために原発にでかけたのである。それは先に述べたように、東電がベント実施を渋る理由があったからだ。飯島氏はその切迫した状況を何一つ調べもせずに、東電の誰かが「もう少し早く蒸気を抜いていたら」という意味のない関係者の述懐を紹介して、あたかも菅総理がベント実施を遅らせた張本人であるかのような印象を与えているのである。

ついでにウォール・ストリート・ジャーナル誌の検証でもうひとつ明らかなことは、菅総理が自衛隊ヘリでベント実施を迫るために原発へ乗り込んだあと、すぐに同じヘリで東北の津波被害を視察するために被災地に飛んだことは、憶測派がいうように東電が菅総理の乗ったヘリを慮ってベント実施を遅らせたという話とはまったく関係がないということである。なぜなら菅総理が原発の現場で武藤副社長と会見したあと、「武藤副社長は、発電所の電力の問題があるため、あと4時間蒸気放出はできないと言った」という言質をもらって被災地の視察へでかけているのである。つまり菅総理は自らのヘリ視察の間にベントによる蒸気放出の可能性がないこと、すなわち少なくとも4時間の猶予があることを確認したうえで1時間半程の視察を行ったのである。

ただし、このような事実関係が明らかになったあとも、日本のマスコミやジャーナリストはそれを国民に正しく伝えようとはせず、菅総理に対する的外れな非難を続けていた。ウォール・ストリート・ジャーナルの検証をみると、菅総理の一連の行動はパフォーマンスどころか切迫した事態の中で最も正しい決断をしたものと評価できるはずだが、マスコミはこの件に関して一切沈黙を守ったままである。

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(5)海水注入中断の真相

(5)海水注入中断の真相
菅総理の原発事故に対する初期対応の非難はことごとくデマに類するものであったことは次の事例によっても分かる。3月12日、午後2時ころ東電は原子炉の水位が8メートル以上低下している事実を知り、原子炉の空焚き状態になっているという危機感を深めていた。実際、12日午後2時53分には原子炉を冷却するための真水注入が止まっていた。このまま放置すると原子炉の爆発にもつながりかねない。この結果、東電は急きょ海水を注入する他にないという判断を下した。ただし海水を注入するということは廃炉になるリスクがあったことは覚悟であり、さらに予期せぬ問題が生じる恐れもあった。したがって、東電は海水注入の許可をとりあえず官邸に問い合わせる必要があった。当日、午後3時36分に福島原発1号機が水素爆発を起こしたあとすぐに官邸へ海水注入の必要性について連絡をとったが、官邸からの返事がなかなか得られなかった。そのため東電は海水注入をすぐに開始することができず、約50分の遅れが生じてしまったという。5月22日付日経新聞に次のように書かれている。

東京電力は21日の記者会見で、東日本大震災の発生翌日の3月12日に福島第1原子力発電所1号機で進めていた海水の注入を、首相官邸の意向をくんで一時中断したことを明らかにした。官邸側が海水注入による再臨界の危険性を指摘しているとの情報を東電側が聞き、止めたという。細野豪志首相補佐官は記者会見で「官邸は注入の事実を把握しておらず、首相は注入を止めることは指示していない」と述べた。1号機は津波で冷却機能が失われ、核燃料棒の大部分が溶け落ちた炉心溶融(メルトダウン)が起きた。冷却水が中断したのは55分間で、原子炉の冷却が遅れて被害が拡大した可能性もある。東電によると、原子炉への真水注入が12日午後2時53分に停止。午後3時36分に水素爆発が起きた。午後7時4分から海水の注水を始めたが「官邸の方で再臨界の危険性があるような意見があったので、政府の判断を待つ必要があるため、いったん停止した」(東電)という。この情報を福島第1原発の現地に伝え、午後7時25分に注水を停止した。

この記事の中で問題視されたのは、午後7時4分から海水の注水を始めたが、「官邸の方で再臨界の危険性があるような意見があったので、政府の判断を待つ必要があるため、いったん停止した」(東電)というくだりである。なんと東電は官邸の判断で海水注入を中断したというのである。この話題は翌日の国会で大々的に取り上げられることになった。もし菅総理の発言によって海水注入が中断されたということが明らかになれば、菅総理は原発事故の拡大を自ら招いたという可能性もでてくる。したがって、この問題の追及は菅総理に対して不信任を突き付ける格好の材料になると判断されたわけである。

5月23日の衆院予算員会での谷垣総裁と菅総理の間では次のようなやりとりがなされた。

谷垣総裁 3月12日の午後6時に(首相官邸で)何を議論していたのか。

菅総理  再臨界という課題もあったし、議論の中でも出ていた。そういうことも含め、海水注入をするに当たり、どのようにすべきか検討するよう(経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会などの)皆さんにお願いすると(いう議論だった)。

谷垣総裁  班目(春樹原子力安全)委員長が再臨界の可能性を指摘したとの報道があるが、進言したのか。

班目氏   多分、首相から「再臨界は気にしなくていいのか」という発言があったので、「再臨界の可能性はゼロではない」と申し上げた。これは確かだ。

谷垣総裁  東京電力は1号機に海水を注入していたが、官邸で再臨界の議論がされているから中断した。

菅総理   少なくとも私や(首相官邸で議論した)メンバーが止めたことは全くない。(海水注入の中断は)私や(枝野幸男)官房長官に報告が上がってなかった。やめろとか言うはずがない。

谷垣総裁  福島原発の視察が(格納容器から放射性物質を含む蒸気を排出する)「ベント」実施の大きな障害となって遅れを招いた。海水注入を政府内の混乱で中断したのは非常に大きなミスだ。 


しかし、この迫真のやりとりは、後日興ざめの展開になったことは周知の通りである。実は海水注入は中断されてはいなかったということが福島第一原発吉田所長の証言によって明らかになったのである。事実関係はおおよそ次のようなものである。

5月20日、東電本社での会見で次のような事実が明らかにされた。地震発生の翌日12日午後7時4分に海水注入を開始し、同25分に中断、午後8時20分に再開したというのである。誰の指示によってなぜ中断したのかが国会で質疑されわけだが、これについて政府側は細野豪志首相補佐官が中断は東電の独自判断で行われたと会見しているが、一方、東電本社によれば、「(海水注入に)首相の理解が得られていない」との官邸情報を汲んで海水注入を一旦中断したとされていた。しかし、実際は福島原発の吉田所長が冷却を優先すべきだとの考えから注水を継続していたというわけである。

事実関係が錯綜しているのは、官邸と東電本社と現場の証言がそれぞれ食い違っているだけではなく、そもそも海水注入に切り替える前に現場の独自判断で試験注入を実施していて、その連絡が官邸に届いていなかったという問題があるようだ。だから菅総理は海水注入を中断させたという意識はまったくなく、先の答弁のように「(海水注入の中断は)私や(枝野幸男)官房長官に報告が上がってなかったので、やめろとか言うはずがない」という話になっているらしいのである。この答弁に対して野党側はその裏に何か隠し事があるに違いないとして、逆に色めきたったわけであるが、そもそも現場が注水を中断していなかったという話になると、結局、自民党がつかんだ情報自体がガセネタではないかということに落着したわけである。

しかしながら、この問題は本来専門家しか分からないような極めて高度な原発の安全技術に関する問題であり、首相の腹一つで左右される類の問題でないことぐらいは分かってもよさそうなものである。菅総理は自らも認めているように海水注入に関して素人としての素朴な疑問を斑目氏に問いただしたのだろう。海水注入はいまだかつて試みたことさえない歴史上初の試みである。もしも海水注入によって再臨界が起こってしまえば最悪の事態どころではなくなる。斑目氏は菅総理の質問に「再臨界の可能性はゼロではない」と返事したそうだが、その斑目発言が東電本社へすぐに伝わって、海水注入の危険性について検討する必要があると(東電本社は)判断したのだろう。すなわち東電本社はそれが官邸の意志であるかどうかに関係なく、あくまでも原子力安全委員会最高責任者の発言に重きを置いたものであると想像される。したがって、この問題は菅総理が何を言ったのかという問題では(初めから)ないのである。技術論として、海水注入が安全であるのかどうかという問題であり、しかも、それはこれまで実験でさえも試みられたこのとのない極めて高度な想像力を要する問題だったはずである。

はたして福島第一原発の吉田所長は海水注入が100%安全であると確信したうえで注入を続けたのかどうかは分からない。ただし、現場では試験注水によって大丈夫だという判断をもちえたのであろう。仮に、海水中の塩分やその他の不純物がなんらかの障害を起こす(たとえばバルブに詰まるとか)としても、現状の危機を打開するためには他に選択肢はないと(現場は)判断したのであろう。一方、菅総理の質問に対して斑目氏はしばらく考えた上で問題ないと判断したからこそ、海水注入にゴーサインを出したのであろう。この一連の官邸の危機対応の中には必ずしも致命的なミスは発見されない。切迫した危機においてあらゆる可能性を考えるという意味では、むしろ賞賛すべき慎重な対応であったというべきではないか。

この問題が国会で取り上げられたのは、菅内閣不信任案が自民党、公明党によって提出された6月1日の約一週間前である。すでにこの時点では不信任案提出は決められており、そのための明確な理由を洗い出す詰めの作業としての一連の質疑であったことはいうまでもない。しかし、この重要な局面での国会質疑の資料がガセネタに他ならなかったというのは不信任案を提出する側にとっては、あまりにも大きな失点だったはずだ。ガセネタというと思い出すのは、小泉総理時代の偽メール事件であろう。あの事件で民主党は国民の信頼を大きく損ない、ガセネタをつかまされた民主党の永田議員は国会議員辞職まで追いやられ遂には自殺して果てるという哀れな結末になっている。それに比べると海水注入問題の追及はたとえガセネタであろうとも、野党側にとっては、ある種の目眩ましのような効果を(菅内閣側に)与えたようである。この問題の追及によって官邸と東電本社と福島原発がそれぞれ異なった情報を語り、三者の間に十分な意志疎通ができていないことが明らかとなったからである。野党側にとっては、それはそれで思わぬ戦果だったといえなくもなかったのである。

ついでながら先の谷垣総裁の質問の中にも「福島原発の視察が(格納容器から放射性物質を含む蒸気を排出する)「ベント」実施の大きな障害となって遅れを招いた」と、飯島氏のブログと同じことが述べられていることに注意してもらいたい。この時点(5月23日)では、飯島氏も認めていたように菅総理のヘリ視察とベントの因果関係は何も分かっていなかった。にもかかわらず、谷垣総裁は国会の場でそれをあたかも事実であるとして菅総理を追及しているわけである。もちろん、それは単なる噂話であることぐらいは(東大卒の秀才)谷垣氏に分からぬはずもないだろうが、しかし、根も葉もない噂ほどライバルを追及しようとする政治家にとってありがたいものはないのだろう。なぜなら、噂というものは誰がそれをどのような意図で流したのかさえ分からないので、それをさも真実らしく扱ったからといって自らの責任はまぬかれるからである。したがって、谷垣総裁にとっては、そのような噂があるというだけで(菅総理を追い詰める)材料としては十分だったのであろう。

結局、菅内閣に対する不信任案というのはかくもいい加減なものであり、要するに、初めに倒閣ありきという既定事実にそって無理矢理に理由づけられたものである。それは永田町の政治風土といってしまえばそれまでだが、戦後最大の国難の中で、日本をリードするべきかつての野党の党首が権謀術数を弄することしかできないというのはゾッとするほど絶望的な絵図である。もはや自民党はかつての何でも反対党の社会党以下の存在に堕ちてしまったのだ。小泉総理が谷垣氏に進言した「健全な野党としてやればいい」という言葉さえすっかり忘れ、国難の最中に無意味で非生産的な政局ゲームへと突っ走ることになったわけである。

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