3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

第一章 怒りを抑える者は城を攻め取る者に勝る

戦後の日本を代表する知識人というと、すぐに司馬遼太郎や丸山眞男、小林秀雄、あるいは吉本隆明などの名前があがるが山本七平という名前があがることはめったにない。その証拠に山本七平の研究書はほとんど存在しない※。しかし、にもかかわらず山本七平を戦後の代表的知識人として評価する人は一定程度存在している。彼が世を去ってからもう26年になるが、いまだに山本七平の本は数多く出版され、雑誌に寄稿した古い評論を集めた復刊書も時折出版されている。山本七平の言説がいまだに忘れられてはいない証拠である。

※山本七平の研究書がまったくないというわけではないがよき研究書は少ないという意味。唯一、推奨できるのは高澤秀次著「戦後日本の論点 山本七平の見た日本」(ちくま新書2003年)であろうか。これは秀逸な作品である。

山本七平というと肩書があいまいで一般には「評論家」とされているが、時には「随筆家」と紹介されることもあり、社会的にもその業績はあいまいにしか評価されていない。にもかかわらず山本七平には独特な世界観があり、「山本学」とも称されるほど奥深い不思議な魅力をもっているが、その魅力について正確に語りえた人物を私は知らない。

山本七平という知識人は、一体、何を残した人物なのかと言うと、簡単に言えば独特な日本人論である。そもそも日本人論という分野はルースベネディクトの「菊と刀」に代表されているように海外の人々の目からみた日本人論しか存在していなかった。これは日本人が自分自身を客観的に見つめるという作業をしてこなかったからである。

山本七平はそこに違和感を持っていた。日本人は自分自身を客観的にみる能力が欠如した民族であるというのが、おそらく山本七平が生涯抱き続けてきた違和感である。彼がイザヤ・ベンダサンという実在しないペンネームを使って書いた「日本人とユダヤ人」が三百万部という記録的なベストセラーになったとき、それはある種の衝撃を多くの人に与えた。こんなふうに日本人の問題性をこともあろうにユダヤ人から指摘されるとは思いもよらなかったからでもある。もちろんすぐにその著者は実は本物のユダヤ人ではなく、本を出した山本書店主の山本七平ではないかという噂が流れることになったが、山本七平はその異常な反響に対してなんら慌てることもなく、同じペンネームを使って続々と本を公刊していき、やがて70年代中頃から山本七平自身の名前で新たな執筆活動を開始することになる。

※イザヤ・ベンダサンという名のユダヤ人は実在しないことは事実であるが、「日本人とユダヤ人」は山本七平の独創ではなく、当時彼と交流をもっていた実在のユダヤ人との対話の中から生まれたものであったということは事実であったらしい。その証拠に「日本人とユダヤ人」の版権は山本七平には属していないと山本自身が明かしている。

いずれにしても「日本人とユダヤ人」という書物は新鮮な日本人論として読まれたわけだが、それはかつて日本人が接したこともなかったような日本人論だったのである。いまでこそ日本人論というのは一つの出版分野になっているといってもよいだろうが、当時の世の中では日本人論という出版分野は存在していなかった。そういう意味ではこの分野のパイオニアといってもよいかもしれないが、いまだかつて山本七平を超える日本人論を著しえた人物がいたとは信じられない。というより、そもそも山本七平の日本人論は最近流行している「日本人は凄い!」というような凡百の出版物とは次元の違うものであり、およそ比較の対象にもならない。

山本七平がイザヤ・ベンダサン名でデビューした70年代初頭に日本人論が存在しなかった理由は、それ以前の日本の知識層は丸山眞男や吉本隆明を含めてほとんどが西洋の受け売りに終始していたからである。とにかく西洋の膨大な知識を学び、それを日本人的に消化して紹介することが知識人の主な役割であった。しかも、その当時の主流はマルクス主義という階級闘争史観である。丸山にしても吉本にしても、そこから始まっているわけで、当時の知識人というとほとんどがマルクス主義の亜流であったといっても過言ではなかった(もちろん当時から三島由紀夫や石原慎太郎、林房雄、江藤淳など右寄りの知識層もあったが、彼らは言論界において強い影響力をもっていなかった)。

なぜそうなったのかというと、やはり戦前のファシズム体制によって自由な言論が弾圧され、社会主義思想や共産主義思想が否定されたその反動であろう。戦後の世界は米ソ冷戦構造になったが朝鮮やインドシナでは共産主義化の流れによる民族解放戦争という名の内戦が続いていた。60年代は特にベトナム戦争が泥沼化し、アメリカの介入によってむごたらしい殺りくが繰り返されていた。その中からベトナム反戦運動が世界的に湧きおこり、日本でも小田実や鶴見俊輔らによってべ平連が結成された。

そのような左翼的風潮の強い世の中で「日本人とユダヤ人」という書物が著され、これがなんと三百万部を超えるベストセラーになったのである。したがって、この書物は当時の日本人にとって虚を突かれたような衝撃があったといってもよいだろう。この書物が主に言いたいのは「水と安全はただ」というような言葉をささやきながら、その本音は日本の憲法を改正し再軍備が必要だということではないかと解釈されたのも無理からぬことであった。

このような登場の仕方をみて山本七平こそ右翼の元祖であると決めつける者もいる。とりわけ当時の反戦運動のスター的存在であった朝日新聞記者本多勝一との「百人斬り」論争は今でも語り草になるほど有名であるが、この論争によって山本七平を右翼的論陣の代表と考える人々がでてきたのは、ある意味世の趨勢であった。

しかし、その論争で山本七平が誤解を与える論陣を張ったのは事実としては否定しきれない面もあるが、彼がいわんとしたことは南京虐殺の否定や侵略戦争の正当化ではまったくなかったということは論争を全文読むとよくわかる。意外な事に本多は自分は幼少で戦争に参加していないので自分には戦争責任はないはずだと言い張ったが、山本の方はドイツのブラント氏の例を持ち出して、戦後の人間が日本人としての恩寵を受けているとすれば、その前の世代の責任も同時に引き受けなければならないはずだという説明をしている※。

※この論争については別ページに書きましたので、興味がある方は参照してください。
http://iwanoaho.blog.fc2.com/blog-date-201303.html

このような山本七平の戦争責任に対する深刻な贖罪意識は二年後に再びイザヤ・ベンダサン名で出版された「日本人と中国人」でも明らかであった。この本の前半部では南京事件の本質が見事に描かれている。これはそれまで左翼ジャーナリストも書き得なかったほどの衝撃的な内容であり、そもそも南京虐殺があったのかなかったのかという以前の問題として、この戦争が「狂人だいこの踊り」と山本が名付けたほど戦争という形容も出来ないひどいものであったということを山本は書いているのである。その部分をあらためてここに紹介したい。

昭和十年十月、日本政府は、日中提携三原則を中国に提案した。すなわち排日停止・満州国承認・赤化防止の三ケ条である。この一年前、すなわち昭和九年十月十六日、中共軍は大西遷を開始し、十一月十日に国府軍は瑞金を占領し、蒋介石の勢威大いにあがった時であったから、日本もそろそろ「火事泥」(筆者注:これは満州事変のこと)の後始末にかかるのも当然の時期であろう、と蒋介石も世界も考えたのもまた当然である。

蒋介石はもちろんこの「日中提携三原則」を受け入れなかったが、しかし、これは外交交渉という点からみれば当然のことである。彼は何もこの提案をポツダム宣言のごとく受諾せねばならぬ状態にはないし、第一、こんなばかげた提案は、おそらく世界の外交史上類例がないからである。

日本は満州国は独立国であり、民族運動の結果成立した国であると主張している。従って満州国と日本国とは別個の国のはずである。それなら満州国承認は、あくまでも中国政府と満州国政府との間の問題であって、日本国政府は何ら関係がないはずである。従って秘密交渉ならともかく、公然とこの主張をかかげることは、その後も一貫して日本政府は。一心不乱に、「満州国とは日本傀儡政権であります」と、たのまれもしないのに、世界に向かって宣伝していたわけである。

(中略)

いわゆる杭州湾敵前上陸(一九三七年十一月)で上海の中国側防御線が崩壊しはじめたとき、トラウトマン駐支独大使による和平斡旋が始まった。いわゆるトラウトマン和平工作である。当時、日本の軍事行動を内心もっとも苦々しく感じていたのは、実はナチス・ドイツ政府であった。彼らは蒋介石軍の増強により、中ソ国境が現在の如くに緊張することを夢見ていた。皮肉なことに、いま(一九七二年当時)の中ソ関係こそ、ヒトラーの夢であり、ソビエト軍五十個師団のシベリア移駐こそ、彼の望みであった。

従って蒋介石軍に軍事顧問団を派遣し、その関係は一時、ある時期の南ベトナム軍と米軍事顧問団ぐらい密接であった。上海の防衛線は実は彼らの指導で出来たものである。また南京には、当時の上海在住のユダヤ人から「ゲッペルスの腹心」と恐れられたナチス党員の一商人がおり、あらゆる情報は大使館とは別の系統でナチス政府に送られ、またさまざまな指示も来て、蒋介石と密接な連絡をとって情報・宣伝に従事していたらしい。一方、ドイツではその後、日本軍の対支軍事行動に反対する「官製デモ」も行われている。彼らの狙いが「反共日蒋同盟」による中ソ国境の緊張化であり、トラウトマン和平工作が、この考え方を基礎としていることは、次のことから明らかである。すなわち日本政府と交渉の結果、その条件を、(一)満州国承認、(二)日支防共協定の締結、(三)排日行為の停止その他とし、彼はこれを全面的に相手に受け入れさせるため、あらゆる努力をしたわけである。

彼は十一月六日、行政院長孔祥煕と会見し、多少の曲折はあっても、ほぼこの線で事実は終息するという確信をもった。ここであくまで明記しておかねばならなぬことは、いずれにせよ、これを提案したのは日本政府だったということである。これは、相手がこの条件を呑みさえすれば、日本軍は平和裏に撤退することを、第三国という保証人を立てて、相手に申し入れたということである。日本人が過去の経験において絶対に忘れるべきでないことがあるとすれば、このことである。これが、誰からも強要されたのではない「自らの提案」だったという事実である。自らの提案を自ら破棄した者は、もはやだれも信用しない。確かにナチス・ドイツの斡旋はそれなりの計算があったであろう。しかしそのことは、現在でも釈明の理由にはならない。

中国政府は協議の末、十二月二日。トラウトマン大使に「日本案受諾」「同条件を基とした和平会談の開催」を申し入れてきた。と同時に、その後情勢は変化しているが日本側の提案に変更はないか、と念を押してきた。
これは当時の中国政府にとっては「ポツダム宣言」の受諾に等しかった。すなわち「無条件提案受諾」であり、その意味では、この条件への「無条件降伏」である。

これに対して日本側は条件に変化なしと通告した。戦争は終わった。だれが考えても、これで戦争は終わったのである。従ってそれ以後もなお軍事行動をつづけるなら。それは「狂人だいこ」の踊りであって「戦争」ではない。

ここまでの日本の行動は一応だれにでも理解できる。もちろん理解できるということは、その行動を是認できるということではない。簡単にいえば、泥棒が押し入って来て、金を出せといった。金を出したらそれを受け取って泥棒は去って行ったのなら、この行動は一応理解できる。同じように日本軍が押し入って来て「満州国承認を出せ」といった、そこで中国政府がそれを出したら、日本軍はそれを受け取って去って行った、というのなら、その行動は一応理解できるという意味である。

ところが。金を出せというから金を出したところが、相手はいきなりその金を払いのけておどりかかってきたら、この行為はもう「泥棒」とはいえない。さらにそこで坐りこんで動かなかったら、これはもう「泥棒」という概念では律しきれない行為で「狂人」とでも規定する以外にない。従って彼の行動を泥棒と規定しうるのは、相手が金を差し出した時までである。ここで泥棒という行為は終わったはずである。私が「だれが考えても、これで戦争は終わった」というのはその意味である。従ってここまでは「戦争」として理解できる、というのはその意味である。

日本は百パーセント目的を達した。一番の難問題はどうやら片付きそうであった。中国が満州国を承認すれば、全世界の国々の「満州国承認のなだれ現象」が期待できるであろう。事実、中国政府が承認したのに、非承認を固辞することは意味がない。「シンジア領有権確認戦争と同じように、これで「満州領有確認戦争」は日本の一方的な勝利で終わったわけであった。何よりも満足したのはナチス・ドイツ政府であったろう。これで蒋介石軍の崩壊は防がれ、日蒋同盟が中ソ国境の脅威となり、ドイツの東方政策はやりやすくなる。

(中略)

だがここに、まったく想像に絶する事件が起こった。「ポツダム宣言」を受諾するといったところが、その途端に九十九里浜に米軍の大軍が上陸して東京になだれ込んだといった事件である。一体全体、これをどう解釈すればよいのであろうか。(中略)この驚くべき背信行為の複雑怪奇さは「独ソ不可侵条約」の比ではない。「独ソ不可侵条約」を複雑怪奇というなら、これは何と表現したらよいのであろうか。狂気であろうか。

さまざまな解釈はすべて私に納得できない。十二月八日に日本は中国が日本の提案を受諾したことを確認した。しかし日本側は軍事行動を止めない。それのみか十二月十日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?通常こういう場合の解釈は二つしかない。一つは日本政府が何らかの必要から、中国政府をも、トラウトマン大使をも欺いたという解釈である。これは大体、当時の世界の印象で、これがいわゆる「南京事件報道」の心理的背景であり、また確かにそういう印象を受けても不思議ではない(というのは他に解釈の方法がないから)が。どう考えてもこの解釈は成り立たないのである。

もし「欺かねばならぬ側」があるとすれば、それはむしろ中国政府で、「日本の提案を受諾します」といって相手の進撃をとどめ、その間に軍の再建整備を計った上で、相手に反対提案をし、それを受け付けねば反撃に出る、というのなら、これも一応理解できる。

(中略)

戦争は通常だれでもある程度は理解できる理由がある。もちろんその理由は「泥棒にも三分の理」に等しい理由で、理由がわかったからといってその行動を是認できるというものではないが、少なくとも理由が分かれば、たとえその理由がその場限りの理由にせよ、その理由を除く方法を相互に探索できる。だが理由がまったく分らないと、「彼らは戦争が好きだから戦争をやっているのだ」としか考え得なくなるのである。したがって、これへの反論では、まず南京総攻撃、およびそれ以後の戦闘の理由を説明しなければならない。それができないのならば、「戦争が好きで、これを道楽としてたしなんでいたのだ」という批評は、甘受せねばならない。


今日、山本七平の業績を認めない知識層は右左関係なくほとんどいないだろう。だからこそPHP社は山本七平の死後すぐにその業績をたたえて1992年に山本七平賞を創設した。過去この賞を受賞した人材は多様であるが、近年では非常に偏った選考がなされているという憂うべき現状がある。それはこの賞の選考委員の中に渡部昇一とか中西輝政という極右と言ってもよい人々に牛耳られているからである。なぜそうなったのか経緯はさだかではないが、山本七平が「日本人とユダヤ人」でデビューした当時から右寄りの論者と見間違われ、その当時の評価が現在に至っても尚修正されていないからではないかと思われる。

しかし、山本七平がいっていることはおそらく彼らが期待するものとは真逆の世界である。山本は彼らのような歴史修正主義者ではまったくない。山本は日本の戦争を自衛戦争だったなどと歴史を捻じ曲げるようなことは一言もいっていない。彼らがいうように日本が世界に冠たる歴史文化と伝統をもった民族だなどと自惚れてもいない。万世一系の天皇制を硬く信じ靖国神社を国家が護持すべきだというような主張は一度もしていない。むしろ山本七平の主張はそれらとは真逆である。驚くのは山本七平の言論の中では日本及び日本人に対する批判は溢れていても、その反対はほとんどないという事である。中国や韓国に対しても敬意を払う書き方をすることはあっても、彼らを侮蔑したり悪しざまにいう言論はどこにも見当たらない。これは山本七平が自らの体験の中で中国や韓国に対して酷い事をしたという自覚があるからだろう。

山本七平が「日本人とユダヤ人」でデビュー以来、一貫して追求してきたのは日本教の由来であった。「日本教」というのは「日本人とユダヤ人」の中でも取り上げられた山本七平の造語であるが、そこに込められているのは大東亜戦争という狂気を国民全体に信じ込ませたその教えの由来である。これこそ山本七平が生涯において追及しようとしたテーマであった。その最も見事な結晶は「現人神の創作者たち」という80年代に発表された書物であるが、これについてはできれば機会をあらためて紹介したいと思うが、この本の「あとがき」をみればその真意がうなづけるであろう。

戦後二十余年私は沈黙していた。もちろん一生沈黙していても私は一向にかまわぬ。ただ、その間に何をしていたかと問われれば、「現人神の創作者たち」を捜索していたと言ってもよい。私は別に「創作者」を戦犯とは思わないが、もし本当に戦犯なるものがあり得るとすれば、その人のはずである。(中略)また「なぜ、そのように現人神にこだわり、二十余年もそれを探し、命がもたないよといわれるまでそれを続けようとされるのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前、戦中と、もの心ついて以来、内心においても、また外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決しなければならなかったという単純な事実に基づく。したがって私は。「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できれば、それでよかったまでで、著作として世に問おうという気があったわけではない。

この文章を読むと、まるでこれは共産主義者の文章ではないかと思われる人もいるかもしれないが、山本七平はある意味で共産主義者よりも徹底した反天皇制論者であったということは本当かもしれない。ただし、山本は決して公には反天皇制的な言論活動をしていたわけではない。彼がなそうとしたことは、天皇制を頂点とする日本教の由来を捜索する事であった。それは山本自身がいうように、誰のためでもなくただ自分が納得したいためなのである。自分の青春の一切を狂気の戦争に駆り立てられた天皇を中心とする日本教の由来を捕まえなければ死んでも死にきれない。これが山本七平を文筆活動に駆り立てた情熱の正体であった。

ついでながら補足すると、山本七平のルーツは和歌山県新宮市近辺にあり、明治初期(明治16年)に日本にキリスト教伝道に来たカンパーランド長老教会の宣教師アレクサンダー・ヘールから洗礼を受けて以来、三代続いたクリスチャンの家系であった。当時では新島襄に匹敵する古さであり、また山本の両親は後に内村鑑三の弟子になっている。しかも山本七平の新宮一族の中には、あの幸徳秋水の大逆事件で死刑になった大石誠之助が含まれている。大石もまた新島襄の同志社で学んだクリスチャンであったが後に社会主義者になって、密かに天皇制の打倒を計画していたとされている。但し、大逆事件には捏造の部分が多いので真相は明らかではない。(以上の資料は高澤秀次著「戦後日本の論点 山本七平の見た日本」に詳しい)

このような山本七平の知られざる系譜をみると、山本七平の執筆活動の中に大石誠之助の無念さのようなものも背負っているように思えてならない。しかし山本七平の執筆活動はあくまでも冷静であり、内心の煮えたぎる情念の類のようなものをみせることは想像もできなかった。それもそのはず。彼が若き日に大石誠之助の兄から直接に聞いた次の言葉を彼は肝に銘じていたのである。

「怒りを抑える者は、城を攻め取る者に勝る」

山本七平和は後に青山学院に進むが、昭和18年の学徒動員で砲兵隊の下級将校としてフィリピンの戦地へ派遣される。その後、捕虜となり、昭和22年まで帰国できなかった。現地でマラリアを患い、復員後もその闘病生活で十年近く苦しんでいる。そのような山本七平が「現人神の創作者」の捜索に執念を燃やしたのは、理由のない事ではなかったということが分かるのである。

1月24日 本項未定です。

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山本七平が預言した「日本会議」という謎の組織

人間にとって「宗教とは何か」という定義づけを考えるとすると、それは平凡な言い方だが「こころの拠りどころ」ということが言えるのではないだろうか。すなわち人間はどうしても孤独の中では生きてゆけないので、何かに頼らざるを得ないのである。漢字の「人」という文字をよくみると、二人の人が互いにもたれかかっているような意味に読める。つまり人間は必ず何かにもたれかからなければ生きてゆけない存在だということを意味しているのではないだろうか。

小さい子供の時は親にもたれかかって人は生きている。しかしある年齢に達すると自立して生きてゆかなければならないが、その中で人はさまざまなグループや組織に出会い、新たな人間関係のもたれあいの中で生きる。しかも、ある程度の年齢に達した人間は将来に対してさまざまな不安を覚えるようになる。中でも病気と老いと死に対する不安は何人といえどもこれを取り除くことはできない。したがって人はそれらの問題を解決してくれる宗教的教えに惹かれるようになる。これは当然のことであり、人類の歴史と共に宗教が栄えてきたのはそのような人間の根源的不安があるからだろう。

多くの民族は生まれながらに宗教と共に生きており、クリスチャンはクリスチャンとして、イスラム教徒はイスラム教徒として、仏教徒は仏教徒として、生まれながらに自分の選択の余地もなく、なんらかの宗教に属している。

ところが日本という国はそういう意味では珍しい国で、生まれた時から「○×教」という特定の宗教に属している人はむしろ珍しい。そういえば山本七平は大正10年生まれであるが、彼は生まれた時にすぐクリスチャンとしての洗礼を受け、産湯につかった場所も教会の中であったというので、非常にめずらしい例であるが、これは日本だから珍しいだけのことであって、ユダヤ人やキリスト教徒やイスラム教徒の世界ではそれがあたりまえなのである。

つまりそれらの国々でははじめから宗教が生活と溶け合って存在しており、人の生き死にの問題は生まれた時からその解決策は与えられている。しかしながらガリレオやデカルトによってもたらされた近代合理主義思想の発展と共に神の存在や来世の存在は否定的にみるのが普通になってきた。特にダーヴィニズムによって、人間はサルの子孫だという見方が一般的になってしまった為にバイブルの教えが揺らぎ、人間は実存的な不安を抱える存在になり、その結果として共産主義という究極の無神論思想もうまれてきた。

しかし、そうでありながらも人間は何かにもたれなければ生きられない存在であることに変わりなく、人はたとえ○×教という名はなくとも何かにもたれながら生きざるをえないのである。私は無神論者だと仮に言っている人がいるとしても、実際のところはただ無神論を信じているということであって無神論という思想に「こころの拠りどころ」を見出しているだけかもしれないのである。あるいは無神論かどうかは分からないけど、世間でいう「常識」」という価値観にもたれていればそれでいいじゃないかと考える人も多いだろう。

日本人は外国人からみると仏教徒であるとみられることが多く、事実、どの家にも仏壇があり位牌を祀っていたりするので、日本人=仏教徒というのはそれなりに説得力がある。しかし同時に日本は儒教国家であるともいわれているし、あるいは神道こそ日本人のこころの宗教だと主張する人も多いだろう。しかし日本人にあなたは仏教徒ですかと尋ねると、創価学会員でも立正佼成会でもない普通の人は返答に困るだろう。かといって無神論ですかというと、「めっそうもない」と言う人が多いのではないだろうか?

同じアジアでもこの問いをすると中国や韓国ではかなり異なってくるだろう。中国と韓国は伝統的に儒教社会である。一部には仏教も存在するが、儒教が国家宗教として長い間定着したために彼らの生き方は多分に儒教的であり、少なくとも日本のような多神教的社会ではない。ただし、韓国は日帝支配によってその儒教的伝統の多くを失い、逆にキリスト教が繁栄するようになった。現在の韓国のキリスト教人口は実に国民の三分の一であり、日本のそれ(百分の一)とは比べ物にならない。

また中国ではこの70年間共産党の無神論教育が徹底してはいるが、彼らの多くはそれを信じているわけではなく、むしろ儒教やキリスト教、あるいはイスラム教の方がはるかに勢力は大きい。もちろん大部分のキリスト教は政府に公認されているわけではないが、その人口は実に一億人に迫るという、いまや世界でも有数のキリスト教国になろうとさえしている。一方、インドネシアは国民の圧倒的多数がイスラム教で、インドはご存じのとおりヒンズー教であるが、その間に挟まれたタイやミャンマーは日本とは全然異なった仏教が定着している。

こうみると日本を代表する宗教はアジアの中でも珍しく、いわゆる一神教徒ではなく、さりとて仏教徒ともいえない、少なくとも宗教に特別に熱心な国であるとはいえないことだけは確かなようであるが、山本七平が目を付けたのはまさにこのような地政学的にも特殊な日本民族が身につけた不思議な宗教性である。

以前にも詳しく述べたとおり、山本七平によると日本人は実は「日本教」という名の宗教信者なのである。だがこれはほとんど誰にも認識されていない。逆に言うと、それが認識されないほど、この宗教は日本人の間に無意識に定着しているというのだ。山本七平(又はイザヤ・ベンダサン)は「日本人とユダヤ人」の中で次のように書いている。

すでにふれたが、あらゆる宗教にはさまざまな教派があるように、ユダヤ教にもさまざまな分派があった。サドカイ、パリサイ、エッセネ、ガリラヤ、ナザレ、サマリア等の諸派があり、大体主流とされるパリサイ派の中にも洗礼パリサイ派という別派がまたあった。日本教も同じでさまざまな分派がある。私の知っている範囲でも、キリスト派、創価学会派、マルクス派、進歩的文化派、PHP派等々から、ちょうど二千年前のユダヤ教のゼロテース(右翼国粋派)から、もっと極端なシカリーまでいる。日本教の進歩的文化派の浅沼氏を刺したのはまさに日本教シカリー派の一員であった。シカとは短剣のことで、短剣をふるって、意見を異にする左派的分派を暗殺するので、この名があったわけである。だがこれらはいずれも分派であって、ユダヤ教徒であれ日本教徒であれ、その大部分を包含する本流は、特にこれといった自覚もなく、伝統の宗教的信仰と宗教的戒律の中にごく普通に生きてきたのである。ユダヤ人が庶民一人ひとりにいたるまで、はっきりユダヤ教徒という自覚をもつに至ったのは祖国喪失の後である。事実、旧約聖書が最終的に編纂されたのは紀元100年のヤハヴェの会議においてであり、タルムドの編纂はそれ以降である。
 日本人はそういう不幸にあっていないから、日本教徒などという自覚は全くもっていないし、日本教という宗教が存在するとも思っていない。その必要がないからである。しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他教徒に改宗さすことが可能だなどと考えている人がいたら、まさに正気の沙汰ではない。


私はこの箇所を何度か読み返してみたが、これは要するにベンダサン一流の毒舌のようなものであり、たぶんに皮肉が込められているのであろうかと思っていた。しかしながら最近の世相をみていると、これはやはり皮肉ではすまされないなと思うようになった。

特に最近の安倍政治をみていると、このベンダサンの45年前の皮肉めいた話が実は皮肉どころではなかったと感じざるを得ないのである。現在の安倍政権の閣僚をみると、ほとんどが日本会議というわけのわからない組織に属していることがwikipedea等を調べればすぐに分かる。この中にはカトリックの麻生太郎氏やプロテスタントの石破茂氏もいる。クリスチャンの政治家というと民主党の中にも何人かいるが、自民党の中にも結構多い。ちなみに日本会議に属する政治家は民主党の中にも何人かいる。

麻生氏はともかくも石破氏がなぜ日本会議に属しているのか不思議でならない。彼は自民党の中ではどちらかというとリベラル派であり、マスコミの受けも非常に良い人物だ。しかも彼は靖国にはクリスチャンだからという理由で参拝しない。先の戦争についても侵略した事実や加害国であるという事実をきちんと認めて反省しなければならないという考え方をとっている。一方、カトリックの麻生氏の場合は靖国参拝をしている方なので石破氏とは同じクリスチャンでもやや趣が違うようにみえるが、いずれにせよ彼らはクリスチャンでありながら日本会議に属している事実に変わりない。

では一体「日本会議」とはなんぞやと調べてみると、これはまさに日本教という宗教の総本山のような組織になっているので驚きである。といっても、これは通常の宗教施設のように伽藍があったり本堂があったりするわけではない。これはあくまでも政治的あるいは思想的な組織であって、いわば日本版フリーメイソンのような組織といえば分かりやすいのかもしれない。フリーメイソンというと、鳩山元総理もクリスチャンであると同時にフリーメイソンでもあったということが思い出されるが、鳩山氏自身は日本会議には属していないらしい。

フリーメイソンと同様、日本会議の設立趣旨がよく分からないが、この組織はフリーメイソンのように何世紀もの歴史のある伝統的組織ではなく、ごく最近(1997年)になって設立されたばかりのまだ赤子のような組織である。しかし、にもかかわらずこの組織に入らなければ日本人にあらずというほど、日本の保守派を自認する政治家にとっては一種の踏み絵のような組織になっている。おそらく自民党の政治家の中では出世にも大きく影響するのであろうと思われる。

いまやこの日本会議は世界のジャーナリストにもよく知られた組織になっている。しかも、その評判というと、すこぶる悪い。日本の最極右組織というのが世界のジャーナリストの評価である。ルモンド紙には次のように書かれた。

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10年前に祖父が亡くなった安倍晋三は1997年に国会議員になる。お友だちと一緒に、直ちに「日本会議」に、次いで日本会議を支持する議員団体に加入する。「当時彼らは、保守の自民党でも周辺的だった」と、中野晃一は言う。「20年近く経った今日、彼らは自民党と内閣を席巻している。そして日本会議は、国会の40%に相当する、289人の議員を集めている…」彼らのスローガンとは?戦後の日本、「アメリカに押し付けられた」制度と生活様式から決別することだ。彼らは、「勝者の正義」、戦争犯罪人を裁いた東京裁判の正当性を認めない。彼らは歴史を自らの味付け、敗者の歴史を書き直したがっている。日本帝国はアジアの民衆を「解放した」と声高らかに断言したい。1938年の日本軍による南京大虐殺は作り事であり、最悪でも、民間人に変装した数百人の中国兵が死亡しただけだ(日本人も含めてまともな歴史家は少なくとも数万人の民間人が拷問された後に殺戮されたと考えているのに)。日本会議の歴史修正主義者らは、「慰安婦」は勇敢な日本兵を慰めて月末に手取りを増やして喜ぶ、単なる自発的な売春婦だったと断言する(この主題に関して帝国軍に反対する証言が圧倒的であるにもかかわらず)。

実際、このルモンド紙の記事に誇張はない。それどころか日本会議の主張は戦前の価値観をそのまま礼賛するものだといってもよいであろう。先の戦争は自衛のための聖戦であり、したがってその戦争でなくなった英霊を祀る靖国に国会議員が参拝するのは当然の勤めだとされている。奇妙なのは彼らは村山談話や河野談話を激しく批判しながら、昨年八月に出された安倍談話にはほぼ満点の評価を与えている。それまで慰安婦問題は捏造だと言いながら、昨年暮れの日韓合意については韓国側が折れたのだとして評価をしている。とにかく矛盾がありすぎるのだが、不思議なことに主張が違いすぎる国会議員が数多く所属しているという事実である。石破氏もそうだが民主党の前原議員もそうだ。面白いのは45年前にベンダサンがいっていたPHP派の流れを汲む旧リベラル保守派の松下政経塾出身議員の多くがこれに参加していることである。但し、同じ松下政経塾出身の民主党原口議員は最近になって日本会議に嫌気がさしてか脱退したと公言している。

いずれにせよ日本会議という組織はまさにベンダサンのいう日本教の存在が表面化した組織だといえるのではないか?その存在に誰も気づかないほどすべての日本人に浸透している日本教が戦後になって初めてその姿を現し政治的な一大勢力にまでなったというべきなのかもしれない。

前回にも述べたように山本七平は戦後以来ずっと現人神の創造者を探していた。これはベンダサン(又は山本七平)のデビュー作「日本人とユダヤ人」の中に記された日本教の存在を明らかにする試みをみても分かる。この「日本人とユダヤ人」の次に記された書が「日本教について」(文藝春秋)というタイトルの書であったという事実をみても、このテーマに山本七平がこだわった理由がうなずける(この書については別のページで紹介しております)。

では日本教とはどういう宗教なのか?ここでもう一度、先ほどのベンダサン(又は山本七平)の皮肉たっぷりな話の続きをみてみよう。

この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮き彫りにしてくれるのが、「日本人キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まずこの両者に焦点をあててみよう。宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもしなければ出来ない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである。だから私は宣教師に言う。日本に宣教しようと思うなら、日本人の「ヨハネ福音書」と「ロマ書」はお読みなさい。そしてそれがすんだら日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて「創世記」と「第二イザヤ」ぐらいは読まねばいけません、と。彼らは驚いていう。そんな本がありますか、と。ありますかには恐れ入る。そしてさらに日本教を研究したければ日本教の殉教者を研究しなさい、というと目を丸くする。殉教者がいますか?あたりまえです。殉教者のいない宗教はありません。西郷隆盛という人、あの人は日本教の聖者であり殉教者ですというと、もう全くわけがわからないという自信喪失の顔付きになってくる。そこで私は言う。いや何のご心配もいりませんよ。何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない。人間味あふれる立派な人だ云々・・・」。何十年かたったら思い出してください。この「人間味あふれる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲がキリスト教徒になったのではないということを。
私は冗談をいっているのではない。日本教の中心にあるのは、前章でも述べたように神概念ではなく「人間」という概念なのだ。したがって日本教の創世記の現代的表白に次のように書かれていても不思議ではない。「人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。それは向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人がつくった世界が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。・・・」


ちなみにここで漱石の「草枕」を日本版創世記と見たてているわけだが、山本七平の別の書では漱石の「こころ」を百ページ近くかけて解剖した書もあり、これはまさに日本版「ヨハネ福音書」だというのが山本七平の見方である(これについてはまたいずれ触れる機会があれば触れることにしたいと思う)。

山本七平(又はベンダサン)の言葉は確かに痛烈な皮肉を含んだ毒気があって、読む者をあっとおもわせるような話術で包み込む。その一例がここに紹介した部分であるが、これも只の皮肉で終わらないところに含蓄の深さがある。

実際にそのような宣教師が果たしていたのだろうかと疑問に思いながら、この部分を読んでいたのだがハタと思い当たるふしがあった。それはここ最近、日本教の伝道師になった感さえあるケント・ギルバート氏である。彼は元々モルモン教の宣教師として来日したという事はよく知られているが、いつのまにか彼自身が日本教に染まってしまい、いまや日本教の伝道師といっても差支えないだろう。但し、ギルバート氏が信じる日本教はまさに日本会議と同じく国粋主義的な日本教であり、それは一般の日本人が漠然と信じているものとは色合いがちがうかもしれないが、いずれにしてもベンダサン(又は山本七平)が45年前に記したことは単なる皮肉ではなく、それなりに根拠がある話だということになる。

戦前のキリスト教徒というと、前にも紹介した山本七平の親族でもあった大石誠之助や堺利彦等は社会主義者であり日露戦争に反対し大逆事件として逮捕されたが、同じクリスチャンでもたとえば新島襄の弟子だった徳富蘇峰のような人物は日清戦争後に好戦主義者となり、太平洋戦争のときは東条英機の開戦の詔まで添削してやったというほどのいれこみようであった。

クリスチャンだけではない。戦前は共産党員もその多くが転向して、後に右翼の大物になった人物が何人もいる。戦後は右翼から革新派になった人物は数多いが、その逆もまた数多い。60年安保闘争で指導的役割を演じていた西部邁や清水幾太郎なども転向して後に保守派の大御所になった。比較的最近では50歳まで日本共産党員だった藤岡信勝が転向して自虐史観という新語を作り出し、先の戦争を肯定的に捉えるという、まさに180度の転向を表明し、それまでは南京で40万人虐殺説を信じていた人物が転向後は虐殺ゼロだとまでいう極端な変貌ぶりである。

このような戦前から戦後の日本をみてきた山本七平が日本には日本教という宗教しかなく、キリスト者も共産主義者も創価学会もPHP派もそれぞれ日本教の一つの派にすぎないのだとみたのも、只の皮肉ではすまされないように思うのである。

本項未定です。2月14日

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日本はなぜ負けるのか バシー海峡の悲劇

故山本七平氏は1921年(大正10年)生まれで、対米戦争が始まった翌年の1942年21歳の若さで徴兵され、フィリピンの戦争で砲兵隊将校として戦闘に参加、終戦後は現地で米軍の捕虜となり、収容所の中で持ち前の語学力を見出されて通訳などをしていたが、現地で重い病を患い、昭和22年に復員後も長い間闘病生活を続けていた。その後、30代中頃になって自宅で出版社山本書店を立ち上げ、当初は主に聖書関係の翻訳を中心に本を出していたが、その合間に「日本人とユダヤ人」というエッセイ書を書き著し、これが一世を風靡することになった。この本は1970年の出版であるから、山本七平49歳のときである。

その後70歳の歳でガンで亡くなるまで、わずか20年位の間におよそ200冊もの本を書き残した(雑誌などに連載されたものが後に書籍化されたものを含む)。したがって彼が活躍したのは70年代と80年代である。当初はイザヤベンダさんという名のペンネームを使っていたが、70年代中頃から山本七平の本名で書籍を出版し、またテレビなどにもしばしば登場して、お茶の間でもなじみの評論家として活躍していたのを記憶されている方も多いだろう。

しかしながら現代人にとって山本七平とはどういう人物だったのかとなると、おそらく分からない人がほとんどであろう。山本七平の本を何冊か読んでいる人でも、この人物はなぜこういう話をしているのかということに疑問を感じたり、あるいは何か得体のしれない違和感を覚える者も多くいるにちがいない。

いうまでもなく山本七平は在野の人物であり、どこかの大学の教員をやっていたわけではないので、系統的な専門知識があったわけではない。彼が学んだのは主に小さいころから馴染んでいた聖書と、そして復員後に闘病生活を続けながら読んだ多くの江戸期の文献であった。当時は江戸期の文献が神田の古書店などでただ同然のような価格で売られていたので、山本はいつしか文語調や漢文の古文書を難なく読みこなせるほどのレベルに達していた。

なぜ一素人がそんな難解な本にのめりこんでいったのかというと、前にも紹介した通り、山本七平が終生追い求め続けた「現人神」の由来を知るためであった。但し、山本七平が現代人にとって極めてユニークである点は、彼自身が意図したものよりもおそらくはるかに重要な「或る仕事」をなそうとしたことにあると思えてならない。その「或る仕事」とは戦前と戦後を通観して日本人の思想や行動パターンを明らかにしようとしたことだ。

山本七平は「日本人とユダヤ人」以来、一貫してその仕事を意識的になそうとしてきた。なぜなら彼がはじめて世に知られたのは戦後30年後のことであり、すでに当時は戦争体験さえない者が半数以上を占めており、世の中の空気はその30年前の戦争とは無縁に進行していた時代である。日本は高度経済成長の真っただ中にあり戦後の平和主義や民主主義をあたりまえのように日本人は享受していた。当時の若者、いわゆる戦後世代は戦争体験そのものがないだけでなく、かつての戦争について思いをめぐらすこともほとんどなかった。

ここで戦後世代のその子供の世代の方に知っておいていただきたいのは、いわゆる戦後世代といわれる世代は戦争体験がなかっただけではなく、戦争そのものにも関心がなく知識もなかった世代という事実である。最近はこのような事実さえも歪められ、あたかも戦後世代は戦後民主主義に洗脳され自虐史観に染まってしまった世代であるなどという見方が広まっているが、これは事実に反している。

この「自虐史観」という語は90年代の終わりころに転向表明した元共産党員藤岡信勝が提唱した造語であり、これに西尾幹二らが共感をして「新しい教科書を作る会」という右派組織を作っていった。最近おびただしく話題になっている「日本会議」にしても、この頃に結成されたのであり、この人々の考え方がネットなどを通じて広まったのが、いわゆるネットウヨであり、また安倍政権の主たる閣僚たちもほとんどがその影響を受けたメンバーなのである。

つまり私が言いたいのは、そもそも自虐史観という思考法を戦後世代が教え込まれていたわけではなく、実際に「作る会」がいうように戦後世代が使用した歴史教科書に自虐史観が盛り込まれていたわけでもない。

たしかに戦後世代(特に団塊の世代)はベトナム戦争に反対したり、安保条約反対というプラカードを掲げたりしていた。しかしその実体は、かつての戦争については何の知識もなく、再びあのような戦争を繰り返してはならないという意味での戦争反対ではなかったのである。当時の戦後世代はベトナム戦争で多くの血が流されていることに対して単純なヒューマニズムという見地から反対している者が多かったし、またそうではなくより強固な左翼イデオローグの人々は米国を敵視していたのは事実だが、戦前の軍国主義の復活のようなことを危惧する人々はまずいなかった。

そもそも「米国=悪の帝国」という彼らの図式からして、かつての戦争とは無縁のイデオロギーの所産だったということは自明である。なぜならかつての戦争を自虐的にいけないという教えを一途に信じ込んでいたら、日本の軍国主義と戦ったアメリカに対しては、もう少し好意的な見方があってもよかったであろう。

結局、戦後世代が学んだ民主主義教育というのは戦前とは何の関係もなく、「自虐」という意識がまったく入り込む余地さえない徹底した「戦争の忘却のための教育」であり、それ以上でもそれ以下でもなかったということははっきりしていると思う。(ちなみに同じ左翼でも歴史音痴なのは反日共系であり日本共産党の人々は戦前の歴史について分かっている人々が多かったと思う。)

ではなぜそういう「忘却の教育」がなされたのかというと、それは米占領軍の押し付け憲法によるわけではなく、むしろ戦前の戦争を知っている者たちが自らの醜さを覆い隠すために戦後の世代にそうした事実を教えなかったのではあるまいか。最近になって私はそう解釈した方が正しいと思うようになった。

なぜかというと当時は戦争を体験したはずの大人たちや学校の先生から戦争について詳しく聞いたことはまったくといってなかったからだ。戦争について聞かされたのはせいぜい空襲のことや疎開のことや食べるものが少なかったという程度で、なぜ戦争になったのかとか、戦地で日本軍がどんな酷いことをやっていたのかとかを詳しく語る人はいなかった。なぜなら彼らの多くは戦争の加害者側の人間である以上、それを語ることは自分の恥を語ることと同じだからだ。

だからわれわれが教え込まれた教科書には戦争の原因を深く掘り下げ、なぜそんな無謀な戦争をやったのかということは一切書かれていない。そもそも日本の教科書には日清日露の戦争についてもなぜ戦争になったのかという記載はなく、韓国がなぜ日本に併合されたのか、その過程で韓国王妃が日本軍によって虐殺された事実も書かれていない。私自身大学受験で歴史を専攻していたが韓国の閔妃虐殺事件を学んだ覚えがなく唖然とする他なかった。特に韓国、朝鮮に対して日本が酷いことをしたという事実は戦前の人々は分かっているはずだが、戦後の人間にそれを語り継ごうとした日本人はほとんどいない。司馬遼太郎のような知識人でさえ、長らくその事実に無関心であったことを恥じているぐらいだから、一般の日本人及び教育者にもそのような自省意識は皆無に近かったのだろう。

また日韓併合後、なぜ日本軍は満州に進出するようになったのかという説明がない。満州事変が当時日本も加盟していたパリ不戦条約に明白に違反する不法行為であったという記載もない。だから満州事変で日本がなぜ国連を脱退せざるを得なくなったのかという最も肝心な国際法違反の背景説明がない。南京事件についてもある程度の虐殺行為があったことは認めても、それ以前に日本側が提案していたトラウトマン和平条約について蒋介石が受諾意思を示していたという決定的に重要な事実が書かれていない。したがって教科書をなぞるだけでは日本の戦争はやむを得ない諸事情が積み重なった結果ではないかという解釈もできるようになっている。このような教科書のどこが自虐史観なのかといわざるをえない。

山本七平の言説がユニークなのは、およそ山本七平ほど日本を悪しざまに書いている人物はいないと思われるにもかかわらず、彼がどちらかというと左翼から毛嫌いされ、逆に保守派といわれる人々から歓迎されていたことである。これは山本が日本を悪しざまに書きながら同時に左翼的な論陣に対しても容赦はなかったからであろう。しかしそれは山本がイデオロギーに偏っていたからではなく、逆にイデオロギーの枠を超えて日本人が本質的にもつ問題性を感じていたからであり、それについては彼を歓迎した保守派の人々も実は何もわかっていないのである。最近の自称保守派が山本七平を読むと、彼らのいう自虐史観の最たる見本がまさに描かれていることに気づくだろう。

今日はこれについて最も分かりやすい山本七平の本を一冊紹介したい。76年に書かれた「日本はなぜ敗れるのか 敗因21か条」という本である。この本は山本七平と同じくフィリピン戦線へ従軍し後に米軍の捕虜となった小松真一が捕虜収容所内で記した「虜人日記」を基本資料として紐解きながら「日本はなぜ負けるのか」というテーマを解く手掛かりにしようとした本である。山本七平によれば、小松真一氏の「虜人日記」は戦後平和主義という名の着色のない時期に記された貴重な記録であり、こういう資料はめったにないという。したがってこれを読み解くことは、戦前、戦後を通じてもつ日本人の本質的問題を明らかにすることなのだとされる。
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そもそも小松真一が記した「虜人日記」は出版という目的や読者を想定するということさえ意図されなかった可能性もあり、その動機は当初あくまでも自分自身に向けて書かれたものであるという。ここで小松氏は日本が敗戦に至った原因について考察し、箇条書きにして以下の21か条にまとめている。ちなみに小松氏は生物学の研究者であり石油枯渇に代わるブタノールの開発のために台湾やフィリピンで徴用されていた。

1、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、   総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた
2、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
3、日本の不合理性、米国の合理性
4、将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
5、精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱリ威力なし)
6、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
7、基礎科学の研究をしなかった事
8、電波兵器の劣等(物理学貧弱)
9、克己心の欠如
10、反省力なき事
11、個人としての修養をしていない事
12、陸海軍の不協カ
13、一人よがりで同情心が無い事
14、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
15、バシー海峡の損害と、戦意喪失
16、思想的に徹底したものがなかった事
17、国民が戦いに厭きていた
18、日本文化の確立なき為
19、日本は人命を粗末にし、米国は犬切にした
20、日本文化に普遍性なき為
21、指導者に生物学的常識がなかった事


これらの戦争の敗因について山本七平が小松氏の緻密な文章を紐解きながら、山本自身の感想も交えて類まれなる日本人論を展開しているのが本書の特徴である。ここで注意してもらいたいのは山本七平著の本は「日本はなぜ負けるのか 21か条」であり、一方、小松真一氏の「虜人日記」には「日本の敗因21か条」と記されている。すなわち山本七平は明らかにこの小松氏が記した21か条を単に日本が戦争に負けた敗因としているだけではなく将来の日本にも適用できるとしていることである。このような時代を超えた分析こそが山本七平のユニークさであり魅力である(ちなみにこの書は山本七平の数ある書の中でも名著といわれるほどの一級作品であり、トヨタ社長がこれを社員に読むことを勧めたという話は有名だ)。

詳しくは本書を手に取って読んでいただきたいが、ここではこの書物全体の白眉といってもよい21か条の中で15番目に記された「バシー海峡の損害と戦意喪失」について取り上げたい。このバシー海峡の悲劇については最近NHKの特番でも放送されたことがあり知っている方も多いと思うが、以下ごく簡単に紹介しておく。

ミッドウェーの敗北で一挙に形勢の悪くなった日本はガダルカナル島、ソロモン島、ニューギニア、サイパンなどを失い、米軍の攻撃は徐々に本土に向けて北上していた。その途上で大激戦を繰り広げるのがフィリピン諸島であった。バシー海峡というのは台湾とフィリピンの間にある役150キロの海峡であるが、この海峡を航海する日本の輸送船がアメリカ潜水艦にことごとく沈められたという悲劇である。沈没した船は200隻以上、その為になくなった日本人は10万人以上と見積もられている。

小松真一氏はこのバシー海峡の悲劇を日本の敗因の一つとみなしているわけだが、それはミッドウェーの敗北が敗因であったという分析とは意味の違う分析である。このバシー海峡の悲劇が意味しているのは、作戦がそもそもなく、潜水艦に狙われているということが明白であるにもかかわらず、明けても暮れても作戦の変更もできない大本営とその部下たちの無策、無能、無謀さにある。この戦いが象徴しているのは、まさに戦争に突っ込んだ日本人の無謀さであり、無計画さである。

山本七平は次のように書く。

ドイツ人は明確な意図をもち、その意図を達成するための方法論を探求し、その方法論を現実に移して実行する組織を作り上げた。たとえ、その意図が狂気に等しく、方法論は人間ではなく悪魔が発案した思われるもので、その組織は冷酷、無情な機械に等しかったとはいえ、その意図と方法論とそれに基づく組織があったことは否定できない。

一方日本はどうであったか。当時日本を指導していた軍部が本当は何を意図していたのか。その意図はいったい何だったのか。おそらく誰にも分るまい。というのは日華事変の当初から、明確な意図などはどこにも存在していなかった。ただ常に相手に触発されてヒステリックに反応するという「出たとこ勝負」をくりかえしているにすぎなかった。意図がないから、それを達成するための方法論なぞ、はじめからあるはずもない。従ってそれに応ずる組織ももちろんない。そしてある現象があらわれれば、常にそれに触発され、あわてて対応するだけである。従ってすべてが小松氏の憤慨した状況、「戦争に勝つためにぜひ必要だというから、会社を辞めてきてみれば何のことはない」という状態になる。

そしてこのことを非常におおがかりにやったのはバシー海峡であった。ガソリンがないといえば反射的に技術者を送る。相手がそこへ来るといえば、これまた反射的にそこへ兵力をもってゆく。そして沈められれば沈められるだけ、さらに次々と大量に船と兵隊を投入して、「死へのベルトコンベア」に乗せてしまう。

それはまさに機械的な拡大再生産的繰り返しであり、この際、ひるがえって自らの意図を再確認し、新しい方法論を探求し、それに基づく組織を新たに作り直そうとはしない。むしろ逆になり、そういう弱気は許されず、そういうことを言う者は敗北主義者という形になる。従って相手には日本の出方は手に取るようにわかるから、ただ「バシー海峡」をまっていればよいとうことになってしまう。

一方、私が戦った相手、アメリカ軍は常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と、同じ型の突撃を馬鹿の一つ覚えのように機械的に何回も繰り返して自滅したり、同じ方向に無防備に等しいボロ船船団を同じように繰り返し送り出し自ら「大量死へのベルトコンベア」を作るようなことはしなかった。これはベトナム問題の対処の仕方にも表れているだろう。
あれが日本軍なら50万を送ってだめなら、100万を送り、100万を送ってだめなら200万を送る。そして極限まできて自滅するとき、「やるだけのことはやった。思い残すことはない」と言うのであろう。


私見であるが、ベトナム戦争でのベトコン軍の戦い、あるいは日中戦争での中国国民党軍や共産党八路軍の戦い方をみていると、むしろアメリカ的であり、逃げるときは逃げ、攻撃するときは攻撃するという神出鬼没のゲリラ作戦で対抗してきた。このため日中戦争でも日本軍は南京まで押し寄せたが、そのあとはなんら戦果をあげられなかった。

山本七平はさらに次のようにたたみかける。

われわれがバシー海峡と言った場合、それは単にその海峡で海没した何十万かの同胞を思うだけではなく、このバシー海峡を出現させた一つの行き方が、否応なく頭に浮かんでくるのである。従って小松氏が、敗因の中にこの海峡をあげたのは、当然すぎるほど当然であった。太平洋戦争自体がバシー海峡的行き方、一方法を一方向へ拡大しつつ繰り返し、あらゆる犠牲を無視して極限まできて自ら倒壊したその行き方そのものであった。

だがしかし、わずか30年ですべての人がこの名を忘れてしまった。なぜであろうか。おそらくそれは今でも基本的にまったく同じ行き方を続けているため、その問題に触れることを無意識に避けてきたからであろう。従ってバシー海峡の悲劇はまだ終わっておらず、従って今それを克服しておかなければ、将来、別の形で噴出してくるであろう.。


ここまで山本七平の言葉を聞いているとフト思いあたることがいくつもある。安倍政権の行き方がまさにこれではないかということに気づかざるを得ない。特にアベノミクスという経済政策がまさにこれと同じだ。彼らは日銀にどんどん国債を発行させ、それでもまだ足らないというのでGPIFの年金資金を株式につぎ込んできた。ところがアメリカの機関投資家は安倍政権のやり方を全部わかっているので、徹底的にこの金を掬い取る目的で、まさにバシー海峡の潜水艦のごとき戦術がとられている。

この結果、日本の年金マネーはまるで地引網に吸い上げられるごとくにアメリカ人の機関投資家のふところへと吸い上げられてゆく。安倍氏もGPIF関係者もその辺はわかっていながら株価を下支えしなければならないというさらなる至上命題の為に負けても負けても同じ方法がとられる。彼らは「この道一筋、この道しかない」という標語を作って、敗北主義をいさめ、批判をかわそうとするが、いずれは太平洋戦争と同じ結果をもたらすのではないだろうか?しかし、それがあやまりであったと国民全員が気づいたときはもうすでに遅いのである。


7月3日 本項未定です。

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思想家・内田樹氏の山本七平著「日本人と中国人」没解説の解説

思想家・内田樹氏が自らのツイッターで山本七平の「日本人と中国人」の解説を書いたところが没になったとつぶやいていた。それで早速、内田研究所に行ってみると、その没解説文が紹介されていた。そもそもこの本の解説を書いた理由は文庫化にあたって、出版社(又は著作権継承者)からの依頼があったそうである。ところが「日本人と中国人」の著者は明らかに山本七平であるにもかかわらず、著作権継承者が「(初版時の著者)イザヤ・ベンダサンは山本七平の筆名にすぎないということを認めていない」ので、著者が誰であるかをあいまいにしてほしいといってきたらしい。これに対して内田樹氏が「そんな器用なことはできません」と言って、折角書いた解説文を没にしてしまったということである。

その没解説文を読むと「なんともったいないことを・・・」と言わざるを得ない。私がいままで読んだ山本七平氏に対する評論の中でこれほど山本七平氏の真意に迫った文章はなく、これが没になるのは極めて残念なことであり、これは内田樹氏一人のことではなく、世の損失でもあると思って、あえてこのブログで自分の思いを書いてみようと思った。

私は内田樹氏については2、3の本を読んだだけで(対談本を含む)、あまり詳しくは知らない。ただ彼の新書の辺境論とかユダヤ人論を読むと、なんとなく山本七平に近いものを感じてきた。おそらくそういう評価もあって、この文庫化に際して出版社(又は著作権継承者)が内田樹氏にオファーしたのであろうと思う。

一方、内田樹氏は山本七平についてはほとんど読んでなかったらしい。これは彼の解説文やツイッターをみてもそのように想像できる。これはあくまで私の想像だが、内田樹氏にとっては山本七平は少々不気味な存在であり、できることなら避けて通りたい存在ではなかったのであろうか?というのは山本七平の一般のイメージがあまりにも得体の知れないイメージ(おそらく悪い意味で)があったからだ。

もちろん内田樹氏は自らユダヤ思想の専門家(?)とも称するほどだから、「日本人とユダヤ人」を読んでいないはずはなく、また山本七平やイザヤ・ベンダサンに関心がなかったはずもあるまい。ただ内田氏にとっては山本七平はなんとなく煙たい存在であり、できることなら一生避けて通るつもりじゃなかったのと想像する。

ところが今回、その山本七平の「日本人と中国人」の解説文のお鉢が回ってきて、これを読んだところ、意外や意外、驚き桃の木ぐらいの発見があったのではないだろうか?

いうまでもなく「日本人と中国人」は内田樹氏が「そんな器用なことはできません」という通り、作者が山本七平以外の誰でもないことは明々白々である。但し、著作権継承者という方が誰だか知らないが、その人物(もしかすると山本七平の親族か?)はイザヤ・ベンダサンについてまったく架空の存在ではあるとは考えていないのであろう。だから食い違いがあったのだと思う。

これはWikiにも書かれていて、かなり信ぴょう性があることらしいが、イザヤ・ベンダサンはまったく架空の存在ではなく、山本七平が「日本人とユダヤ人」を出版する前にあるユダヤ人と度々帝国ホテルで会合を重ね、その人物との共同作業のような一面があるらしい。したがって処女作「日本人とユダヤ人」については、山本七平氏の独創ではなく、先のユダヤ人の考え方も入っているのではないかと私は想像している。たとえば「日本人とユダヤ人」の最初の出だしでユダヤ人は自らの身の安全のためにホテル住まいをするという話があるが、これはそのユダヤ人から聞いた話ではないかなどとみることもできる。

但し、「日本人とユダヤ人」以外の本でイザヤ・ベンダサン作とされているものは、すべて山本一個人の作であったということは断言できる。

「日本人と中国人」というはそのイザヤ・ベンダサンが一世を風靡していた当時に文藝春秋に連載された寄稿で、それが後に(平成十七年)祥伝社から一冊の本にまとめられたものである。

この「日本人と中国人」は連載物であるだけに、もともと首尾一貫した流れがあるわけではなく、気の向くまま思いつくままに書かれた断片的な記事の寄せ集めであり、その意味では確かに内田樹氏が言う通り「体系的でなく推敲も十分ではない」のは確かで、全編書下ろしの処女作「日本人とユダヤ人」とはかなり趣も読みごたえも違ったものになっているが、しかし私はこれこそ山本七平の凝縮された世界観であり、後に出された山本七平本名の作品とまったく同じ人物が書いたとしかおもえない、まさに山本七平以外の誰も書きようがない本なのである。

にもかかわらず出版社か著作権継承者が「あいまにしてほしい」というのは、そもそも山本七平の全体像について彼ら自身分かっていないからではないかと思う。

私が最も驚くのは、この「日本人と中国人」の中に後期の最高傑作とされる「現人神の創作者たち」(ちくま文庫)の原型がほぼつまっていることであり、さらに最晩年の作「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)にも繋がる世界観、天皇観が見事に結晶化していることである。したがってこの1冊を読めば山本七平の思想や世界観がかなり把握できるといってもよい。

それにしてもこの「日本人と中国人」に詰まっている思想が山本七平のその後の著作の原点ともいえるほど首尾一貫しているということは驚きである。戦争に青春のすべてを奪われ、さらに復員後も長い闘病生活を続けながらも、40歳代前に出版社を立ち上げ、今度は出版人として忙しく働いてきた山本七平が50歳代前に処女作「日本人とユダヤ人」を出稿したわずか2年後に世に出したものだとすれば、山本七平は一体いつどこでそのような膨大な知識を蓄えかつ自らの思想をその後においても一生変わらない程の信念にまで深めることができたのかと考えると、これはとても常人の業ではないと思わざるを得ない。

それらの知識は前にも書いたように神田の古本屋でただ同然で売られていた江戸期以前の文献をひたすら読み漁ったことによるものだとはいえ、何のためにそこまで研究したのかというと、後年に山本自身が述べている通り、現人神の創作者をただひたすら捜索するためであって、それによって何かを残したいというよりも、ただ自分の人生がなぜわけのわからない狂気の戦争に巻き込まれたのかという原因を突き止める為であって、その原因が分かりさえすれば自分で納得できるのではないかと思い続けたというのである。前にも紹介したその文章をもう一度引用しておこう。

戦後二十余年私は沈黙していた。もちろん一生沈黙していても私は一向にかまわぬ。ただ、その間に何をしていたかと問われれば、「現人神の創作者たち」を捜索していたと言ってもよい。私は別に「創作者」を戦犯とは思わないが、もし本当に戦犯なるものがあり得るとすれば、その人のはずである。(中略)また「なぜ、そのように現人神にこだわり、二十余年もそれを探し、命がもたないよといわれるまでそれを続けようとされるのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前、戦中と、もの心ついて以来、内心においても、また外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決しなければならなかったという単純な事実に基づく。したがって私は。「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できれば、それでよかったまでで、著作として世に問おうという気があったわけではない。

この山本七平の常人には計り知れない不思議な情熱こそ、彼の得体の知れない数々の作品を作り上げた原動力だったというわけなのである。

今回、思想家・内田樹氏によって描かれた「日本人と中国人」の論評は、おそらく内田氏が深く山本七平の世界を知り尽くした結果のものではなく、あくまでもその依頼された本を真面目に読み解こうとした結果の文章であると思う。

しかし、そうでありながら内田樹氏が決して的を外さず、ほとんど図星といってもよいぐらい山本七平の真意を解説しえたのは、もちろん内田樹氏の能力の高さもあるとはいえ、それと同じくらい山本七平に共通する問題意識をもっていたからだと思う。しかもその問題意識が今現在の日本の差し迫った重大問題に直結しているということは、なんたる僥倖であろうか。

内田樹氏はいう。

中国の文化的支配力に対抗するために日本人が発明したのが「天皇制」であるというのが山本の創見である。こういうふうに天皇制を見立てた人が山本の他にあることを私は知らない。ことの当否は措いて、これまでに誰も言ったことがないアイディアを提出する人のリスクを怖れぬ構えに私はつねに深い敬意を抱く。

この一見大胆ともいえる創見こそ山本七平の真骨頂であり、在野の研究家でありながら専門家を凌ぐ仮説を立てえた洞察力の鋭さなのだと思う。しかも山本七平のすごさはそのように天皇制の神格化を貶めながら当時の保守派の多くを納得させるだけの文献を提供したことにある。これは内田氏が認める通り山本七平以外に誰もなしえなかったことだ。

その文献についてはいずれまた機会があれば紹介したいと思うが、山本七平の仕事の痛快さは日本を代表する保守派でさえ納得するほどの有無を言わさぬ論証のすごみである。但し、同じことを現代でやると山本七平は右翼から袋叩きにあったのかもしれない。なぜなら山本七平は当時の左翼的な反天皇制的言論とはまったく異質なレベルで天皇の神格性を剥ぎ取ろうとしたもので、保守派でさえもこれに賛同し文句をつけようがなかったのである。(というよりも保守派も左翼も山本の問題提起自体を理解しえたのかどうかさえ本当は怪しいと思う)。

さらに内田樹氏はいう。
天皇制とは「中華皇帝に見立てられた天皇」を「雲上に退ける」ことによって中国の支配をも「雲上に退ける」という仕掛けである。いわば藁人形を憎い人間に見立てて、それに釘を打ち付けて呪うという呪術と同質の機制である。

「従って、中国も天皇も、政治から遠いほどよいのであって、天皇は、北京よりもさらに遠い雲上に押し上げられねばならない。
このことは日本の外交文書を調べれば一目瞭然で、国内における天皇の政治的機能を一切認めない人びとが、ひとたび外交文書となれば、やみくもに天皇を前面に押し出し、日本は神国だ神国だと言い出すのである。」(「日本人と中国人」114頁)


だから、日本における天皇制イデオローグたちは天皇その人の政治的信念や人間性には一片の関心も持たない。彼らが服従しているのは「雲上に押し上げられ」て、純粋観念と化したせいで、取り扱いが自由になった「みずからの内なる天皇」であって、現実の天皇ではない。これによって「内なる天皇」を抱え込んだ者は日本社会のみならず、隣国をも含んだ世界秩序の頂点に立つことになる。


この度の天皇陛下の生前退位をにじませたお気持ちの表明に対して、各界からさまざまな動きがでてきた。これを憲法改正に利用しようとする勢力から、逆に護憲運動にとっての強力な味方の出現と捉える向きもある。面白いのは、いわゆる保守派とされる人々(全部ではないが)の多くが天皇の生前退位をこころよく受け入れようとしないことであろう。

彼らにとって天皇とは雲の上に押し上げられた純粋観念であって、天皇個人のお気持ちとは何の関係もない。したがって彼らには天皇にお気持ちがあるということさえ天皇制を守るために考慮されるべきではないと考える。その結果として内田樹氏は山本七平の次の言葉を引用する。

「尊皇思想に基づく『内なる天皇』を抱くその者が、あらゆる権威と権力を超えて、その思想で天皇自身をも規定できる絶対者になってしまう。そしてこの権威を拒否する者がいれば、究極的には、それが天皇自身であっても排除できることになるであろう。」(「日本人と中国人」281頁)

山本七平はまさにこれを言いたかったのだ。この問題は山本七平最晩年の「裕仁天皇の昭和史」において何度も繰り返しでてくる。いわゆる「君側の奸」とされた昭和天皇の取り巻き及び政治家・軍人たちが青年将校の決起によって殺され、彼らが信じた「内なる天皇」の権威を取り戻させようとした2.26事件とは、そもそもの天皇制の矛盾が露わになった出来事であり、そこで機関銃を打ち合った同士が、同じように天皇のお気持ちには何の関心もなく「内なる天皇」の問題でもめていたにすぎなかったのである。

内田樹氏はいう。
「戦前の日本に、はたして軍国主義(ミリタリズム)があったのであろうか。少なくとも軍国主義者は軍事力しか信じないから、彼我の軍事力への冷静な判断と緻密な計算があるはずである。」(「日本人と中国人)39頁)だが、日本の戦争指導部には何の判断も計算もなかった。

「こういう計算は、はじめから全く無いのである。否、南京攻略直後の情勢への見通しすら何一つないのである。否、何のために南京を総攻撃するかという理由すら、だれ一人として、明確に意識していないのである。これが軍国主義(ミリタリズム)といえるであろうか。いえない。それは軍国主義(ミリタリズム)以下だともいいうる何か別のものである。」(「日本人とy中国人」40頁)

ドイツの周旋で日中の停戦合意が成ったあとに、日本軍はそれを守らず、南京を総攻撃した。和平の提案を受諾し、ただちに総攻撃を命令したのである。問題はこれが周到に起案された裏切りではなく、この決定を下した者が、実はどこにもいなかったという「驚くべき事実」の方にある。

日本が受諾した和平の提案を日本が拒絶した。それは政府の停戦決定を国民感情が許さなかったからである。山本はこれを「感情の批准」と呼ぶ。感情という裏付けのない条約や法律は破っても空文化しても構わない。なぜ、それほどまでに国民感情が強大な決定権を持つのか。それは上に述べた通り、日本人においては、敬愛の対象がたやすく憎悪の対象に、嫌悪の対象が一転して崇敬の対象に「転換」することが国民感情の「常態」だからである。ひとたび「排除」に走ったら、ひとたび「拝跪」に走ったら、もう誰も感情を押しとどめることができない。人々は「空気」に流されて、どこまでも暴走する。


怖ろしいのは、日本人の行動は常に空気の中で行われ、しばしば自らの感情だけで行動するという事である。したがって日本にはそもそも軍国主義というものはなかったと山本七平は断言する。南京攻略戦において日本側が対案した和平案を蒋介石が飲むという形でトラウトマン和平工作が受諾されようとしていたにもかかわらず、当時の近衛政府は和平案を成立させないで南京へ攻め込む無謀を選んだ。これについては、「もはやこれは戦争ではない。狂人太鼓のおどりだ」と山本七平が「日本人と中国人」の冒頭部分でこれを徹底的にこきおろしている。

このような行動パターンは南京攻略戦にあてはまるだけではなく、あの戦争全体がそうであり、そして今現在においてもその基本的な行動パターンは変わっていないという怖さがある。たとえば領土問題においても日本人は論理的に考えているとは到底思えない。尖閣問題においても両者の言い分をよく比較対象してみると、論理的なのは中国の方であり、日本の方がむしろ感情的になっているということすら気づいていない。

内田樹氏は最後に次のように締めくくっている。

それが日本人の病態であることを山本七平は対中国外交史と天皇制イデオロギーの形成を素材にして解明してみせた。
決して体系的な記述ではないし、推敲も十分ではなく、完成度の高い書物とは言いがたいが、随所に驚嘆すべき卓見がちりばめられていることは間違いない。何より、ここに書かれている山本の懸念のほとんどすべてが現代日本において現実化していることを知れば、読者はその炯眼に敬意を表する他ないだろう


補足:南京攻略戦の当時、政府及び軍の方針に一貫して反対していたのは満州事変を起こした石原莞爾であった。彼は盧溝橋から始まった新たな日中戦争に危惧していた。日本は戦争を拡大すると泥沼になるという事を警告していた。皮肉なことに満州侵略を企画した軍国主義者が誰よりも真の軍国主義者だったということになる。なお、山本七平は「日本人と中国人」の中では石原莞爾についてふれていない。

補足2:日本は中国に初めから勝てる見込みはなかったという考え方は山本七平著「ある異常体験者の偏見」という書物の中でも展開されている。これは新井宝雄氏という歴史学者との論争で執拗に繰り返されていて、要するに物量において日本が中国を占領することは不可能であり、そのことは初めから計算すればわかるはず。周恩来や蒋介石はそれがわかっていたから国共合作をやり、持久戦に持ち込んだというわけである。なお周恩来については「日本人と中国人」の中でもべたほめしている。

補足3:この「日本人と中国人」の中で日中間の領土問題についてのグラント仲裁にふれられ箇所がある。この当時は田中・周恩来会談の成果で日中友好条約が結ばれた時であり、今では想像もできない程両国の友好関係が樹立されていた。したがって領土問題は新聞紙上でも取りざたされることはなく、そもそも尖閣などという島があることさえ誰も知らなかったし、仮に領土問題が田中周会談で話し合われたとしても日中間の合意で棚上げにされていたはずである。その当時に山本七平は明治初期のグラント仲裁があったことを指摘し、将来において中国が八重山・宮古両諸島以南(いわゆる先島)を中国領だと主張するようになる可能性を指摘している。但し、その山本七平も尖閣諸島のような無人島の領土問題がヒートアップするとはさすがに想像もしてなかったようだ。
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8月28日 本稿未定です。

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日本人は感情民族か?

人間に限らずすべての動物には知性と感情が備わっている。知性というのは自分を取り巻く周囲をできるかぎり客観的に観察しようとする能力であり、一方、感情というのは自己保存本能から由来する必然的な防御反応である。たとえば他人に足を踏まれた時に痛みを伴う痛覚が刺激され、その痛みを起こした他人に対して感情が発作的に湧きあがる。但し、その時同時に知性が働くから、自分の足を踏んだ他人に対して、どう反応すべきかを咄嗟に計算して自らが取るべき行動を判断させる。

たとえば、もしその時、自分の足を踏んだ相手が職場の上司であった場合、彼はその相手に対する怒りを咄嗟の判断で保留しようとするだろう。しかしその相手が見ず知らずの他人であり、しかも弱そうな相手の場合は自分の感情を爆発させるかもしれない。彼は自分が感じた同じ痛みを相手にも感じさせるために当然の仕返しをしようとするだろう。このような行為は一般に感情的とみなされ、その行為を統制するべき知性の働きはほとんど停止状態になる。

いわゆるヤクザと称されるタイプの人はこの種の感情的反応を当然のこととして行動する人々であり、彼らは他人から不利益を被った場合に必ずそれと等価又はそれ以上の報復行動を取ろうとする傾向の強い人々である。彼らは肉体的又は精神的に強者であるという自覚を持っているがゆえに自分に不利益を与えた他人に対して知性の判断を留意せずに、感情を優先させようとする。但し、そのような行動様式が個人の場合はまだよいが、組織的になされるようになると、その集団は時に危険な集団となる。人間の社会で殺し合いや戦争が繰り返されてきたのは、このような傾向の強い人々が自らの感情を爆発させてきた結果に他ならないといえる。

時間がないので、少し結論を急ぐことにする。

国家と国家の争いは基本的にはその構成員の感情と知性のせめぎあいであって、知性よりも感情が優先するようになると、必ず戦争が起こるようになっている。

たとえば戦前の大日本帝国が行った複雑な経緯の戦争も、結局の所、感情を優先させた結果に他ならないということをごく一例だけでも証明してみることができる。明治政府が最初に戦争を始めたきっかけになったのは韓国に対する威圧的な外交であった。当初は王政復古により新しく明治政府が政権を司る事になった為に朝鮮の李王朝に対してその通告をするつもりであった。ところが明治政府側がそれまでの日朝の伝統的関係とは著しく異なる書状を李朝側に突き付けた為に李朝は硬化した。その文言の中で特に問題になったのは「皇」とか「勅」という漢字であった。当時の李朝にとって「皇」と「勅」は彼らが宗主国として認めている中国の清王朝のみに許される文字であった。彼らは明治政府が新たな従属関係を求めているのではないかと「誤解」し、この書状に返事もせずに送り返してきた。

皮肉なことに、その時の李朝側の対応があくまでも「誤解」であったとしても、結果的には「誤解」どころではなく、それは彼らが危惧していた通りの「事実」に発展してゆく。

明治政府は書状が返還されたことに対して感情が爆発し一気に征韓論が高まることになる。但し、歴史の教科書に書かれているように、当時、征韓論を主張したのは西郷隆盛や板垣退助らごく一部のグループだけではなかった。実験を握っていた大久保利通や木戸孝允、岩倉具視らも朝鮮王朝の無礼な対応に対する反韓感情においては同意していたが、但し、征韓論者のように直ちに行動を起こすことには同意してなかった。即ち彼らは感情にまかせて行動する事を慎むべきだと考えていたのだと思われる。

ところがわずかその2年後に明治政府は事実上の征韓論を行動に移している。すなわち江華島事件という、きわめて乱暴な侵略行為をやっているのである。この事件については韓国の人なら誰でも知っているが日本史の教科書ではほとんど紹介もされていない。この事件について韓国で売国奴として入国拒否されている呉善花さんの著書(「韓国併合への道」)から引用しておこう。

1875年(明治8年)5月、日本政府は雲揚(245トン)と第二丁卯(125トン)の小砲艦を釜山に派遣して、一方的な発砲演習を行わせる示威行動をとった。続いて9月20日、日本政府は沿海測量の名目で雲揚を朝鮮半島の江華島へ向かわせる。雲揚は江華島と半島との間の江華水道の河口付近で停泊し、その先は兵士らがボートに乗って江華水道を遡行した。水道の幅は200~300メートルと狭く、北は漢江、南は黄海に通じる要所で、沿岸各所に要塞があり砲台が設けられている。飲料水を求めたためとされるが、この内国河川への無断侵入は明らかな挑発行為である。

要塞の一つ、草芝鎮台から砲撃が開始されると、雲揚も水道に入り応戦する。砲台からの弾丸は船に届かず、草芝鎮台は雲揚の砲撃を受けて甚大な被害を受けた。しかし、退潮時のために雲揚は兵員たちを上陸させることができなかった。雲揚は次に江華島のすぐ南にある永宗鎮台を急襲した。次から次へと砲撃を受けて永宗鎮台は陥落、600名の守備兵はほとんど戦うことなく逃走してしまった。上陸した日本の将兵たちは城内と付近の民家を焼き払い、大砲38門をはじめ、残された兵器類を押収して帰船した。李朝側の死者36名、捕虜16名、日本側の死者1名、負傷者1名だったといわれる。(呉善花著「韓国併合への道」文春文庫P54)


この事件については当時征韓論争に敗れて下野していた西郷隆盛が実に辛辣な表現で批判をした文書が遺されているので、これも紹介しておこう。

「譬、此の戦端を開くにもせよ、最初測量の儀を相断り、彼方承諾の上、[それでも]発砲に及び候えば、我国へ敵するものと見做し申すべく候えども、左もこれなく候はば、発砲に及び候とも一往は談判いたし、何等の趣意にて此の如く此時期に至り候や、是非相糺すべき事に御座候。一向彼を蔑視し、発砲致し候故応砲に及び候と申すものにては、是迄の友誼上実に天理に於いて恥ずべき所為び御座候。」(板野潤治著「西郷隆盛と明治維新」講談社現代新書P180)

これを口語でいうと、およそ次のような意味である。「たとえ戦闘を始めるにしても、測量のことは無断でやるのではなく相手に断りを入れてからやるべきであり、それでもなお相手が攻撃してきたならば応戦するというなら分かるが、そうではなく相手に無断で測量をやっていながら、発砲されたからといってこれに応戦するのは、長い付き合いのある隣国に対して、いかにも道理に反する恥ずべき行動ではないか」

ご存知のように西郷隆盛は歴史の教科書では征韓論者だとみなされているが、この文書をみるかぎり、そうではなかったのかもしれない。西郷が征韓論者だと決めつけられたのは、後に西南の役で敗北し賊軍の首領として後の世の歴史教科書の中でも評価を貶められた結果という可能性もある。

いずれにせよ明治政府はこの江華島事件をきっかけにやがて朝鮮半島を我が物顔に支配下に収め、さらに満州、北京、上海、南京へとその触手が伸びてゆくのである。いまだに日本の一部右翼層は明治から昭和に至る戦争を侵略ではなかったなどと言い訳するが、これは足を踏まれたのはこっちが先だというヤクザの感情論と同じことであり、だからといって仕返しをするのが当たり前だという事にはならないはずである。

たとえば満州事変の前にも中村大尉虐殺事件というのがあり、また日中戦争前には盧溝橋事件での発砲があった。さらに南京事件の前には北京郊外での通州事件が発生している。これらの事件はその後の事件に比べてはるかに小さな事件であるが、日本政府はそれらの事件の被害者であるという国民感情を最大限に利用(又は悪用)しつつ侵略の正当化をなしていった。この例のようにいつも感情にまかせて甚大な結果を招いてきたのが日本であったという事を、我々は極めて近い歴史的事実から学ばねばならないのではないだろうか。

5月21日 本項未定です。

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