3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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先の戦争は侵略戦争であったか その1

日本が明治維新後行ったアジアでの侵略行為はその規模において、有史以来、モンゴル帝国に匹敵するものであり、その壮大な領土的野心でいえばむしろモンゴル帝国のそれをも凌ぐものである。満州事変を起こした石原莞爾によれば、まさに世界最終戦争は日本とアメリカまたは日本とソ連の間で行われるべしという壮大な構想を抱いていたのである。アメリカはその日本の野心を知っていたためにモンロー主義から脱却して日本との戦争に受けて立つことになった。

私は小学校か中学校の時代にアジア全域が赤く塗りつぶされた大日本帝国最大領土の図をみたときに日本人としての誇りを強く感じたのを記憶している。われわれの時代はいわゆる日教組教育の弊害が叫ばれ、自虐史観に染まった左翼的な教科書を使用していたなどと、後に藤岡信勝や渡部昇一らに散々こきおろされたものだが、自分自身の記憶を振り返れば、日本が侵略戦争をおこなったという贖罪意識よりも、はるかに強烈な世界に冠たる強国としての誇りを植え付けられたのを自覚せざるをえない。

日本が行った戦争は悪い戦争であったという意識さえほとんどもったことはなく、なぜ日本はミッドウェーの海戦で負けてしまったのか?その戦いで勝利していればアメリカをも征服できたのではないかなどと、途方もない夢を抱いていたことを記憶している。このような夢はおそらく戦前の軍国少年が等しく思い描いた夢でもあったのではあるまいか。日本は神の国であるからそれまで戦争に負けたことはなかったのだ。元寇のときも神風が吹いて日本を助けたではないか。超大国の清国にもロシアにも勝ったのだからアメリカにも負けるはずはない。現にわれわれはすでに中国のほとんどの領土を手に入れているではないか。そのような神国神話の信仰心のようなものに当時のほとんどの日本人は支えられて、アメリカをも征服しうるのだという信念を抱いていたとしても不思議ではない。

もし日本人が聖書というものを知っていれば、こんなに途方もない夢を描いたことは、まさに神ならぬ悪魔のささやきであったということに早くから気が付いていただろう。聖書に描かれた神は決して戦争に強い神ではないし、もちろん軍神ではありえない。確かに聖書の神はモーセを助け、彼らが奴隷として虐げられたエジプトから解放されて約束の地カナンへ入る時、多くの奇跡を起こして彼らを助けたことが記述されている。しかし聖書の神は決してユダヤ人たちに世界を征服しなさいなどとは命じなかった。反対にユダヤ人たちはバビロンやアッシリア、ギリシャ、ローマという帝国主義者に囲まれて、常に侵略をされ続けた歴史上でも最も悲惨な経験を味わった民族である。しかし聖書の神(すなわちユダヤ人の神)が他の神々と違うのは力に勝る国々に味方をする神ではなく、むしろ虐げられた民族の解放のためにこそ神が味方をしているということ、すなわち神は常に正義の味方であり、弱い者の味方でもあるということをうかがわせる脈々とした記述が聖書の中にはちりばめられている。だからこそイエス・キリストは十字架というものを背負い、それは人類の罪の象徴として、その贖いの為に十字架の死を選ばれたのだとクリスチャンたちは信じたのである。

だからクリスチャンはたとえ迫害にあってもそれは神に見放された証拠だとは考えなかった。むしろ迫害が強くなり敗北感を味わえば味わうほど、神が助けてくれるのだという信念を強くするのである。東大元総長で内村鑑三の弟子であった矢内原忠雄が言っている。「神が好むのは打ち砕かれた魂である」と。すなわち神は自分には欠点がないと自惚れているごう慢な人間ではなく、自分は弱く罪深い人間であると自覚した人間を好むというのである。

戦前の日本人は神の前に自分達は罪深い人間であるという事を考えもしなかった。その反対に自分達は神に選ばれた民族であると自惚れ、自分達が進める戦争には常に神が味方しているのだと錯覚してきた。しかしこの日本人が信じた軍神は「この世の神々」すなわちサタンという名の悪魔の神であるということを日本人は知らなかった。

一方、当時のもっとも純粋なクリスチャンの国アメリカの人々はヒトラーが悪魔の化身であるのと同じく日本の軍国主義者も悪魔に突き動かされた勢力であるということを見抜いていた。それでも日本の中国侵略とヒトラーの欧州侵略がひいてはアメリカにも脅威を与えるようになることを知りながらも、彼らはあくまでもモンロー主義という名の一国平和主義を守ろうとしていた。アメリカに参戦の決意をさせたのは日本による無謀な真珠湾攻撃があったからこそである。これはアメリカの思うつぼであったという人もいるが、必ずしもそうとはいえない。確かにアメリカはヒトラーの脅威にさらされている同盟国のイギリスを助けたいと思っていたので、戦争参加を拒むアメリカ国民を説得してまでもヨーロッパの戦いに参戦しようとはおもっていたかもしれない。しかし、同時に日本を相手にして、大西洋と太平洋の両方向で戦争をするようになるとは夢にも思っていなかったのである。

これに関して山本七平が「日本人とアメリカ人」の中で昭和天皇が初訪米した際にアメリカの一ジャーナリストと交わした話として次のように話を紹介している。
「太平洋戦争について日本人は故意に忘れようとしている点がある。あなたがたはナチスドイツの同盟者であり、東南アジア進攻も、ヒトラーとの了解のもとに行われたはずである。アメリカが孤立した日本を攻撃したのではなく、日独伊という枢軸側の攻撃と三国共同の宣戦布告に対して戦ったのである。真珠湾の恐怖とはいうまでもなく東西から挟撃される恐怖であった。ナチスドイツは既にミサイルV2を実践に使い、原爆の開発に着手していた。一方、理解しがたい勇気を持つ日本軍は不意に真珠湾に殺到し、太平洋艦隊の主力は瞬時に全滅し、西部海岸は無防備にさらされた。彼が口にしたのは、その時の悪夢のような恐怖の率直な表白であり、非常識な言葉ではないと」(山本七平著『日本人とアメリカ人』祥伝社P15-16)

いずれにしても当時の世界の中でも圧倒的な戦力をもっていたアメリカが参戦すると日本にもドイツにも物量的に勝ち目はなかったという計算は可能かもしれないが、それよりも正義と不義の戦いという、これほど鮮明な戦争も珍しいだろう。侵略を行ったのは日本でありドイツであった。だからアメリカは正々堂々と正当防衛を唱え正義の戦争を実行できたのである。彼らアメリカ人はまさに正義の神が味方をしてくれるはずだということを信じたのである。そして歴史はまさにその通りとなった。

日本は敗戦後に後悔の念を余儀なくされた。負けて始めて間違った戦争であったということにほとんどの日本人が気づいた。その日本人の変化はまるで憑きものが落ちたかのようであった。日本人はアメリカ軍を平和の神が派遣した天使軍のように恭しく歓迎した。戦後の日本はこのすさまじい経験によってアメリカによってもたらされた平和憲法と共に、戦前の価値観を捨てアメリカ的価値観を受け入れてゆく過程であったといえるだろう。戦後すぐに朝鮮戦争においてもアメリカが新たな共産主義という名の悪魔との戦いに邁進するのを全面的に支援したのも当然であった。その後、冷戦時代に入り、日米安保条約下の占領体制の中で日本は目覚ましく経済発展を遂げ、アメリカナイズされた民主主義国として模範国家のようにふるまってきた。

但し、この20年ほど前に日本共産党から転向した藤岡信勝という奇矯な人物によって日本の戦後史観は全面的に見直されるべきであるという「新しい歴史教科書」運動が始められた。この運動が目指すのは、あの戦争が必ずしも侵略戦争であったわけではなく、むしろアジア人を白人の支配から解放するための聖戦であったという新たな捉え方である。もちろんそのような捉え方はごく最近になって現れたのではなく、昔から林房雄の「大東亜戦争肯定論」をはじめごく少数ではあるが唱えられており、政治家のなかにも奥田誠亮など一部の自民党政治家の中にそのような理論に基づく発言がなされたこともあり、それが大きな政治問題となったこともあるが、この数年、特に安倍政権誕生後に起こっていることは、そのような脱自虐史観といわれる理論がもはや少数派ではなく、国会の中でも多数派になってきているという現実なのである。

自民党や民主党や野党の一部議員も含めて「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」というグループに属する大量の国会議員がでてきたことはその表れであり、彼らはほとんど全員「日本会議」といわれる97年頃に突如として生まれた復古的組織に属する者たちである。この「日本会議」という組織は靖国史観と軌を一にした歴史観をもつ組織であり、先の戦争をアジア解放の為の聖戦であったとして位置づけ正当化しようとする強い歴史修正主義の流れを受けている。同時に、日本人が日本人としてのアイデンテティーを維持してゆくために、日本の皇室と伝統文化を世界に誇るべきものとして再評価しようとする運動である。その主張の多くは最大公約数的に日本人が受け入れられるような内容になっているが、同時に憲法改正や総理大臣の靖国神社公式参拝や皇統は男系に限るという、極めて制約的な内容にもなっていることに驚く。これは現安倍内閣の政治的主張とほとんど軌を一にしている。その証拠にHPをみると現安倍内閣の安保法案を支持するという明確な主張もなされている。理解に苦しむのは、このような組織に前原議員をはじめ民主党の一部議員が会員の中に含まれることである。逆に自民党議員の中でも女系天皇を容認する小泉元首相のような人々は会員に含まれていない。

この組織の問題は海外のジャーナリズムでも大きく取り上げられている。たとえばフランスの週刊誌L’Obsには「安倍晋三の隠れた素顔」として次のように紹介されている。
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10年前に祖父が亡くなった安倍晋三は1997年に国会議員になる。お友だちと一緒に、直ちに「日本会議」に、次いで日本会議を支持する議員団体に加入する。「当時彼らは、保守の自民党でも周辺的だった」と、中野晃一は言う。「20年近く経った今日、彼らは自民党と内閣を席巻している。そして日本会議は、国会の40%に相当する、289人の議員を集めている…」彼らのスローガンとは?戦後の日本、「アメリカに押し付けられた」制度と生活様式から決別することだ。彼らは、「勝者の正義」、戦争犯罪人を裁いた東京裁判の正当性を認めない。彼らは歴史を自らの味付け、敗者の歴史を書き直したがっている。日本帝国はアジアの民衆を「解放した」と声高らかに断言したい。1938年の日本軍による南京大虐殺は作り事であり、最悪でも、民間人に変装した数百人の中国兵が死亡しただけだ(日本人も含めてまともな歴史家は少なくとも数万人の民間人が拷問された後に殺戮されたと考えているのに)。日本会議の歴史修正主義者らは、「慰安婦」は勇敢な日本兵を慰めて月末に手取りを増やして喜ぶ、単なる自発的な売春婦だったと断言する(この主題に関して帝国軍に反対する証言が圧倒的であるにもかかわらず)。

かつて山本七平がまさしく断言したように、日本人は一人残らず「日本教」という名の信徒なのである。その信仰の濃淡はあるにせよ、日本人が日本人としてのアイデンテティーを求めるときには、漠然としたこの日本教の信仰にすがってゆくしかない。日本の皇室が世界にも類のない万世一系の皇統を保ち続けたことはわれわれの誇りであるに違いないし、日本の文化や伝統に誇りを持つことが悪であるはずはない。しかし、その主張の中に排外的な民族主義や戦前の美化が含まれているとするなら、そこには強い違和感を覚えざるを得ない。ましてやそのような主張を是とする人々が内閣総理大臣及びその閣僚の大半を占め、さらに国会議員の40%を占めるというのは異常だとしか言いようがない。

安倍総理の戦後70年談話が世界中で注目されているのは、まさにこのような異常な内閣の思想背景が世界で危惧されているからである。今後、何回かにわけて戦後70年談話の問題点を整理しながら、明治以降の戦争が侵略戦争以外のなにものでもなかったという事を具体的な事実関係を掘り下げながら述べてゆきたいと思う。


7月19日 本項未定です。

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先の戦争は侵略戦争だったのか その2

本年4月29日に米国合同議会で安倍総理が演説した内容を繰り返し読んでいると、いわゆる歴史修正主義者というマイナスイメージで国際的にも負の評価が定着している安倍総理の本心が分かりにくい内容となっており、あたかも彼は根っからの親米主義者でもあるかのように肯定的に受け取っているアメリカ人も多くいたのではないだろうか?その意味では確かに訪米演説は一定の成功をおさめたということはいえるかもしれない。しかしながら安倍総理が単純な親米主義者でないことは彼のこれまでの発言と総理周辺の側近やお友達をみれば誰にも分かることなのである。

その前に訪米演説の中に意図的に隠された安倍総理の本心のようなものをいくつか指摘しておきたい。訪米演説の中でも先の戦争が日本による侵略戦争であったという歴史事実を安倍総理は決して認めたわけではない。この問題に関しては次のように微妙な表現がなされているだけなのである。

戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません。

この表現によって総理個人の先の戦争に対する反省の気持ちは十分に言い表せており、アメリカ人にとってはこれで納得できる内容であったと評価する人もいるかもしれない。しかし、この表現は戦争の結果責任を負う者としての反省が述べられているにすぎず、侵略戦争の加害国としての責任はあいまいにされている。ちなみに以下の村山談話と比較すれば、その違いは明瞭になると思う。

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

この村山談話がアジア諸国とりわけ中国や韓国の人々に評価されている理由は日本が侵略戦争を行った加害者であるということをはっきりと表明しているからである。ところが安倍総理の訪米演説をみると、侵略を行ったというどころか加害国であったという事実すらあいまいにした表現になっている。したがって安倍総理の「痛切な反省 deep remorce」という言葉の中には、侵略戦争をおこなって大変な被害を与えたという反省なのか、それとも侵略のつもりはなかったが意図せざる結果になってしまったことに対して反省しているのか、いずれなのかよくわからない。

安倍総理の日頃の言動をみていると、おそらくは後者の意味が込められているのだろうと察するが、だとするとやはり侵略された側の国々にとっては、このような表現で責任をあいまいにするやり方は許すべきではないと思うだろう。

ただし米国の場合は侵略戦争の被害国であったと必ずしもいえないので、その受け取り方が違ってくるのはやむをえまい。米国は真珠湾攻撃を受けるまではモンロー主義に立ち日・独・伊の枢軸国がはじめた欧州とアジアの戦争に武力で関与しようとはしなかった。しかし真珠湾における明白な侵略行為を受けて米国民は一丸となって侵略者と戦う決意をした。そのまま黙っていれば米本土まで日本軍の攻撃が及ぶことは必至だからである。その結果、アメリカ人は数十万の尊い人命を犠牲にして日本との戦争を命がけで戦い抜いた。その結果フィリピンをはじめ太平洋の島々の民衆を巻きこむ数百万の犠牲者もだし、また2度の原爆も含めて数百万の無辜の日本人をも殺傷したが、その責任はあくまでも日本側にあることはいうまでもないというのがアメリカ側の言い分である。安倍総理の「痛切な反省」という言葉はそのような文脈の中でアメリカ人は肯定的に捉えていたはずである。

この戦争から70年を経た現代人から振り返ってみた時、アメリカが栄光の20世紀を主導するようになったきっかけが真珠湾に他ならなかったということをアメリカ人はよく分かっている。この戦争を勇敢に戦う事によって、アメリカは戦後の世界秩序を主導する役割を自ら担うようになったのである。したがってアメリカ人には日本がはじめた侵略戦争の被害国であったという自覚はあまりない。むしろアメリカ人は太平洋戦争の勝利によって誇りを植え付けられたのである。安倍総理の訪米演説にはそのようなアメリカ人の誇りをくすぐるかのようにアメリカ人の勇気を賞賛する内容(たとえば硫黄島の戦いなどの例をあげている)になっているために、アメリカ議会人の拍手も初めから計算済みであった※。
※なんと訪米演説のカンペにはアメリカ議会人の反応を予想して、「顔をあげて拍手を促す」という文章まで大書されていた!
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一方、安倍総理の本心はどうなのかというと、決して先の戦争を侵略戦争だったなどと単純に決めつけることはできないと信じているはずだ。そうでなければ靖国神社に参拝することの理由づけができない。前にも述べたように靖国神社には靖国史観というものがあり、それは先の戦争はやむにやまざる自衛戦争であったというものである。日本が真珠湾を攻撃したのは、それまで90%以上の石油の輸入を頼っていたアメリカによって資源が封鎖されたからである。これは日本にとっては国家の「存立危機事態」に相当し、したがって対米戦争は避けられなかったというのである。

しかし、そもそもなぜ日本に貿易制裁が科されたのかという理由について彼らは故意に言及しない。いわゆるABCD包囲網といわれる貿易制裁が科されたのは日本軍の中国侵略が目に余るほどひどかったからである。米国は重慶に追い詰められた蒋介石政府を助けるために日本に対して貿易制裁を科したのである。貿易制裁の理由づけとその解除の条件を記したいわゆるハルノートによれば、その目的ははっきりしている。要するに日本が中国から軍を撤退し蒋介石政権を中国の唯一の正当政府であることを認めよという要求であった。この要求を日本が受け入れたならば、アメリカは日本を最恵国待遇するという約束までつけられていたので、ハルノートは自衛戦争論者がいうようにいわゆる最後通牒という性格のものではなかった(その条件の中には満州国の支配については言及されていないので、事実上日本の中国権益を否定するものでもなかった)。ましてや日本がその当たり前の条件を突き返して真珠湾を攻めてくるなどとはまったく予想もできないことであっただろう。

貿易制裁を科された北朝鮮がアメリカに対して本気で長距離ミサイルを発射することなどありえないと誰しも思うのと同じく、当時の日本の数倍から数十倍の物量で勝るアメリカに戦争を挑むなどというバカげたことをやることが信じられなかったのは当然である。冷静に計算をすればアメリカに勝てるはずがないのは日本にも分かっていたのである。しかし、ハルノートを受け入れることは為政者と軍部にとって屈辱に他ならない。だから一切の計算を無視して無謀にも戦争に突き進んだのである。そのような戦争がなぜ自衛戦争にあたるであろうか?ありえないことである。そのような無理筋の論理を展開しているのが安倍総理とそのお友達の正体である。彼らはその当時の「空気」というものが、到底、戦争を回避できる空気ではなかったというようなことを考え、戦争に突き進まざるを得なかった当時の指導者をかばおうとする。仮に自分がその時代に生きていれば、同じような選択をせざるをえなかったのではないかなどと考え正当化する。

面白いことに安倍総理の母方の祖父である岸信介と同じ年代で父方の祖父に安倍寛という人物がいて、彼は珍しくも戦時中に非翼賛議員として選ばれ東條内閣の戦争政策に対して異を唱えていたという。今からみると実に立派な人物ではないかと思うが何故か安倍総理はその祖父の存在については一切ふれることをしない。まるでそんな祖父はいなかったことにしましょうというほど関心の外に置かれている。思うに、安倍総理にとってはまるで非国民のように戦争に反対していた当時の祖父は恥ずかしい存在だったのではあるまいか。その一方で岸信介は東條内閣の重要閣僚として対米戦争を支持していたのをやむをえないことであり、むしろサイパン島の玉砕でもはや誰がみても敗戦しかないという時になって早期講和を東條内閣内で訴えたという岸信介の勇気の方を誇らしく思っているのではないだろうか。自分は同じ孫であったとしても、あくまでも岸信介の孫であり安倍寛の孫ではありたくない。これは単なる憶測にすぎないが、そのように思っているのではないかとさえ想像せざるを得ない。

しかし安倍寛のような反戦議員もありえたということは、当時の状況が必ずしも戦争が不可避であったとはいえない証拠である。彼のような議員が発言力をもてば戦争は避けられた可能性もあったのである。アメリカからハルノートをつきつけられた当時の状況では戦争が不可避であったという現代の自衛論者は、ただその時代の「空気」を変えることが難しかったといっているにすぎないのではなかろうか。戦艦大和の出撃命令が下った時も、誰もその作戦に意味があるとは思っていなかった。しかし、作戦参謀たちの誰一人その決定に対して異議を唱えなかったのは、まさにその場の空気に有無をいわさず支配されたからである。同じように対米戦争の決定もその時代の空気に支配されていただけではないのか。

そもそも日本は満州事変以来、中国で非道な侵略戦争をやっていた。満州を侵略したのは、多くの資源があると考えたからだ。自衛論者によると、この戦争もロシアの脅威を断つためであったなどという者がいる。盧溝橋事件から中国国民党軍との本格的な戦争になったのも、相手側が発砲したからだという。しかし日本がすでに満州を植民地化し、満州を取り巻く地域では反日運動が起こっていた。当然の結果である。自国の何倍もの領土を植民地化しているのだから、そこは元々中国の領土であると考えていた中国人が反発するのは当然の結果である。盧溝橋の発砲事件から戦線が拡大したが、これも自衛論者にいわせると日本は不拡大方針をとっていたというのである。ではなぜ発砲事件のあと数日で北京一帯を占領するという暴挙をやったのか?

戦争が上海に飛び火した時、日本軍にも数万を超える死傷者が出たが、中国人の犠牲者は20万人をこえると言われるほどの大規模な戦争になった。この結果、中国国民党の蒋介石が日本側が提案していた和平条件を受け入れるという返事をドイツ大使トラウトマン氏を通じて日本側に打診してきた。その和平条件と言うのは、満州が日本の植民地ではなく立派な独立国であると認めるという、中国側が到底受け入れられないほど屈辱的な条件であったが、これ以上戦争をやれば中国の首都南京も陥れられるという心配もあったために、あえて和平条件を受け入れることにしたのである。

しかしながら当時の日本の近衛首相は、この返事を受け入れず、さらに高い条件、すなわち満州に隣接する華北一帯の地域の自主独立を認めよという相手が到底受け入れられないような条件を突きつけたのである。これは事実上、中国の北半分は日本の支配権があることを認めとよ言うのと同じであった。これに対して、ついに蒋介石は徹底抗戦を決意するのである。その2週間もしないうちに日本軍は首都南京を陥れた。この事件はまさに南京アトロシティーといわれるおぞましい戦争犯罪の見本市のような結果をもたらし、世界中に日本が非道な侵略者であるというイメージを与える結果になった。

その当時、世界でこれだけの戦争をやっていたのは日本だけである。ヒトラーはまだその侵略者としての正体を表すことなく、自国の経済復興の仕事のみに邁進していたので必ずしも脅威であるとはおもわれていなかった。当時ヒトラーは日本と同盟関係を結んでいたが、中国にも利権があったので、日中戦争については賛成していなかったはずである。したがって満州事変後の日本が中国でやっていた戦争は世界の中では極めて憂慮すべき戦争であった。現在のイスラム国の台頭と同じようなものと思えばよいだろう。当時の世界は第一次世界大戦の後に国際連盟が生まれパリ不戦条約が各国の間で交わされて、2度と前の戦争のような愚かなことはしてはならないという国際合意ができていた。ところが日本は満州事変を起こして国連から脱退するはめになった。その後は現在のイスラム国と同じようにやりたい放題の好戦国家となった。そしてその日本の傍若無人ぶりが間接的にヒトラーを刺激して第二次世界大戦という結果につながっていった。したがって日本は第二次世界大戦を招いた張本人であったといえるだろう。

大東亜戦争というのは自衛戦争論者もそう告白しているように、アメリカから石油資源を断ち切られたために自衛処置として東南アジアの資源に活路を求めようとして始められた戦争である。したがって大東亜戦争はアジア解放の為の戦争であるというのは嘘であり、あとからつけられた大義名分にすぎない。にもかかわらず自衛論者はその大義が決して嘘ではなかったなどと放言する。日本軍は中国でやったことと同じように残酷なことを東南アジアでもやっている。たとえばシンガポールを陥落させた後、共産主義者の疑いがある者や中国人華僑を引っ張っていき集団で撃ち殺すというような酷い虐殺事件も起こっている。フィリッピンでも百万人以上も一般市民が戦争の犠牲になったといわれている。

アメリカが日本軍をやっつけた後、フィリッピン人はアメリカ人を解放軍として喜んで迎えた。当時、フィリピン戦線で砲兵部隊の少尉として戦役にあった山本七平は、この時のフィリッピン人のあからさまなアメリカ人に対する態度と日本人に対する態度の違いについて述べている。日本人はアジア解放といいながら実際は現地の人間に嫌われていたが逆に日本軍によって追われたはずのアメリカ人は歓迎されたのである。山本七平によると、日本人は「石もて追われた」いうほどみじめだったという。


つづく

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明治維新という過ち-歴史の新たな見直しが始まる

すべての戦争は自衛戦争だという論があるが、少なくとも日本が明治維新後に行った戦争にはすべて自衛戦争という大義をかかげられていた。だが、その実態はいうまでもなく自衛という名で行われた侵略戦争であった。もちろん、かつて秀吉が明を征服するという意図をもって始められた朝鮮侵略には自衛戦争などと言う大義さえもみあたらなかったが、これは法治主義という人類の野蛮を抑えるための手段を知らなかった時代の話である。

日本が明治維新後はじめた戦争はすべてその実態は侵略戦争であるが、法治主義の世の中では戦争をはじめるにあたってもなんらかの法的正当性がなければならない。したがって明治以降の戦争はすべて法的には自衛戦争であるという外見上の手続きがとられている。自らの自作自演で傍観者の目をごまかして自国の3倍もの領土をあっという間に占領した満州事変にしても敵が列車を爆破したという嘘をでっちあげたのであった。このような卑劣なやり方は満州事変に限ったことではなく、日清戦争以来日本のお家芸といってもよかった。その具体例はまた次の機会に述べるとして、今日は近代の法治主義以前の時代に遡って少し考えてみたい。

法治主義という概念は古くはギリシャやローマで認められていたし、それよりはるかに古い歴史をもつユダヤでは神から直接付与されたとする十戒から発展して多くの律法が定められていた。しかし、侵略戦争を行ってはならないという法律はどこの国にもなかったし、国際法という概念も存在しなかった。だから他国を侵略するという蛮行はごく最近になるまで世界中でおこなわれていた。イスラム教国が急速に版図を広げた中世には布教を目的として侵略が行われたし、近世になるとキリスト教国も布教と植民地獲得を目的に新大陸とアジアに新しい版図を求めてでていった。

まるで地球を分割し棲み分けでもするかのように彼らは植民地獲得に狂奔し、その争いの過程でスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、アメリカ、ロシア、などの新旧列強の間で局地戦も行われた。この時代にはまだ国際法もなかったので強い者が勝ち残るという時代である。

幕末にペリーの黒船が到来したのはまさにそのような植民地獲得競争の終盤戦の時代である。東南アジアはすでに大部分分割統治されており、中国も分割されようとしていた。ただし、日本と朝鮮半島は鎖国をしていたのと列強からすると地政学的にも遠距離にあったためにいまだ手つかずの状況に置かれていた。

当時、雄藩の幕末志士たちは攘夷を叫んでいたが、これは決して見通しがあったわけではない。一方、幕府は国力の差が歴然としている以上、開国のほかにはないと考えていた。明治維新という雄藩の下級武士による革命政権が立てられ、幕藩体制が打ち砕かれると、明治政府は幕府側が想定していたのとほぼ同じ開国を方針とせざるをえない状況であることを悟った。

ここで彼らが目指したのは西洋列強を追い出すことではなく日本自身が列強に肩を並べようという構想である。なぜそれが可能となったのかは諸説あるが、一つは日本という社会がアジアの中では飛びぬけて武力に秀でていたからである。日本は万世一系の天皇制国家だといわれるが、その実態は武家が支配する武人国家であった。源頼朝以来、武士が権力を握り強い者が弱い者を征するという武力至上主義が定着していたのである。

山本七平もいうように、日本という社会は時として強烈な下剋上社会になる。それが幕末になって一挙に噴き出したのである。雄藩の下級武士たちが今こそチャンスだと思い、天下国家を転覆させようと試みた。それこそ維新という名の武力革命の真相である。もちろん彼らにも憂国の情はあったし、日本を列強から守らなければならないという構想もあっただろうが、その本質は下剋上の内戦であった。面白いのは西国武士と東国武士の間で争われた戊辰戦争はまさにその270年ほど前に行われた天下分け目の戦い、すなわち関ヶ原の報復戦であったとさえ思えるのである。さらにさかのぼればそれは南北朝をめぐる東西の合戦や源平合戦が影を落とす、日本史の中で時をこえて争われた西国と東国との度重なる内戦の記憶が武士たちを無意識にかりたててきたともいえる。

戊辰戦争の官軍派(すなわち西軍)の中心はかつての関ヶ原で豊臣側についた島津と毛利の武士であった。一方、幕府側を支えようとしたのは会津や関東・東北の武士たちである。しかしこの内戦の裏側ではイギリスやフランス、アメリカなどの列強が近代兵器を提供して、終結後の覇権争いを同時に演じていた。結局、勝利したのは薩英戦争や馬関戦争などの経験で近代兵器のすさまじさを知り尽くし、それらの兵器を先に手に入れた薩摩や長州が内戦を征するという結果になったのは、自然の勢いであったといえるだろう。

日本が列強の植民地にならずにすんだのは列強もおそれ慄くほど日本の武人たちの強靭さを知っていたからであろう。と同時に、日本人が考えるほど列強は強欲でもなかったということである。彼らの考えはささやかでも貿易上の独占権益を得たいというものであり、その点では資源の少ない日本や朝鮮半島は中国などに比べると元々魅力はなかった。だから朝鮮半島もひ弱い武力でも植民地になることは免れている。

明治になって日本が変身しようとしたのは物質文明で西洋に後れを取っていることの焦りからであった。その点は朝鮮とは全然異なっている。朝鮮人は李朝の儒教体制をあくまでも守ろうとし物質文明の遅れにはまったく気にも留めなかった。彼らにとって重要なのは儒教文化であって近代の物質文明ではなかった。ところが日本人にはそのような確固とした宗教心がなく、物質的な関心の方がより強かったのである。

ただし、日本人は西洋に互するためにはキリスト教に匹敵するような国家的宗教も必要であると悟り古代から伝わる神道を国教化するということを考えるようになった。これが国家神道のはじまりであり、廃仏毀釈という強引な手段で仏教施設を破壊し神道の国教化がすすめられた。これはタリバンやイスラム国が偶像崇拝の宗教的シンボルを破壊しているのと似ている。なぜそんなことをしたのかというと、仏教は元々インド伝来の宗教であり、日本固有の宗教ではないという理由からである。

最近非常に面白い本を読んだので紹介したい。「明治維新という過ち」(原田伊織著 毎日ワンズ)という本である。この本だけではなく、最近は同様の視点で描かれた明治維新の見直し史観ともいえるようなものが世に出ている。それによると、われわれの戦前から戦後を通じた価値観が明治以降に人為的に作られた価値に由来しており、それは端的にいうと戊辰戦争の結果勝利した長州藩を中心とした偽官軍政治を積極的に肯定するために作られたプロパガンタに由来するものだということである。
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たとえば戦後になってしばらくの間、五百円紙幣が使われていたのをご記憶の方もいると思うが、この肖像画は明治維新の立役者の一人である岩倉具視であった。この岩倉具視という人物は下級公家であったが当時の幕府に強い敵愾心を持ち、薩長の武力に信頼して政治的クーデターを起こそうと企てた中心人物である。そのために彼は何をしたかというと当時の討幕運動の最大の障害であった孝明天皇を毒殺し、その代わりに弱冠14歳の明治天皇を押し立てて王政復古の号令をださせ、さらに戊辰戦争がはじまると錦の御旗を偽造して薩長軍をまんまと官軍にしてしまったというのである。
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もちろん孝明天皇の毒殺は証明されているわけではないが、少なくとも近年まではそのような噂がありながらも孝明天皇研究は政治的タブーになっていた。これは仮にその真実が暴かれると明治維新の正当性が崩れ去ってしまうからである。

ちなみに幕末から明治にかけて活躍した外交官アーネスト・サトウによると、次のように書かれている。
「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」(岩波文庫「一外交官のみた明治維新」より)

この毒殺説の容疑者は岩倉具視と大久保利通であるというのが定説である。そのような噂は幕末当時から事実存在していたが、長州閥が政治の実権を握って以降は政治的タブーとなった。もちろんそれは当然のことであろうが、驚くのは戦後の世の中になっても五百円札の肖像画になるほど、そのタブーは根強く残っていたという事である。思えば戦後の政治家や官僚たちの多くが戦前の藩閥政治の生き残りか又はその子孫たちなので、これまた当然と言えば当然なのかもしれないが、歴史の真相がいつまでも闇に葬られたままであるというのは、余りにも異常である。

実際、長州藩を中心とした藩閥政治は昭和の戦争にまで影を落としているし、戦後も岸信介や佐藤総理、そして現在の安倍総理も含めて長州閥の影響が依然として消えていない。というのも考えてみれば明治維新以降まだ150年にもならないのであるから、それよりもはるかに長い江戸の影響圏内にあった時代に比べると、現在まで長州藩閥政治の時代が続いてきたとみても必ずしも不思議ではない。

明治維新というのは尊王攘夷に立ち上がった幕末の志士たちが天皇ご親政のために始めた運動であったと、われわれは教えられてきた。しかしもし彼らがその天皇を毒殺していたのだとすると評価は180度逆転せざるをえない。彼らは天皇ご親政といいながら、実際は天皇の地位を利用して討幕を果たそうとしただけであったといわねばならない。しかも明治以降の政治にしても、天皇のご親政というのは只のお題目にすぎず、その実態は天皇を利用した長州閥による独裁的軍事政権にすぎなかった。

長州政治は富国強兵に力を入れてきた結果、最終的にはアジア全体を巻き込む世界戦争にまで発展した。靖国神社を創建したのも長州藩を中心とした官軍の犠牲者を慰霊するためであった。西郷の反乱軍も含め賊軍とされた戦死者は靖国神社に祀られていない。そのような官軍の慰霊施設に現代の政治家がこぞって参拝するというのも時代の連続性を物語っている。

歴史に「もし…」はありえないが、もし戊辰戦争が逆の結果になっていれば、明治維新という事件は起こらず、それ以降の日本の政治はまったく異なったものになっていただろうことは間違いない。「明治維新という過ち」の著者原田氏によると、幕府の政権を続行していたとすると、日本はより穏健な政治を続けていたであろうと想定されている。少なくとも明治政府のような好戦国家ではなく、むしろスイスとかバルト三国のような国家になっていたかもしれないと述べられている。

当時の幕府を支えた勝海舟の考え方などをみると、確かにそうともいえるかもしれない。勝海舟は列強の植民地獲得競争に対して、日本は、清国、朝鮮と連携して対抗し、そのための海軍力を整備しなければならないと考えていた。彼の中ではアジアの他国を征服するなどとは微塵も考えていなかった。日清戦争が起こった時も戦争に反対していたのが勝海舟である。

もし勝海舟が明治政府のリーダーになっていれば、日清戦争も日露戦争も起こっていなかったはずであり、もちろん韓国併合などという日本史に汚点を残す暴挙は想像もできないことである。あるいは勝海舟の考えに近い西郷隆盛がリーダーであったとしても、征韓論の結実としての韓国併合は想像もできぬことであろう。彼は征韓論争で下野したあと、2、3年後に江華島事件という朝鮮に対する侵略行為を行った政府に激しく憤っている。そんな西郷が朝鮮への侵略に他ならない日清戦争を行うとも考えられないのである。

一方、明治新政府を構成していた人物はその多くが長州のテロリストであった。彼らは今で言えばイスラム国のように過激なテロで政権を奪取しようともくろんでいた過激派集団であった。その長州藩の過激思想を説いていた人物こそ吉田松陰に他ならない。

吉田松陰は次のように言い残している。

「神宮皇后の三韓を征し、時宗(北条時宗)の蒙古を殲し、秀吉の挑戦を伐つ如き、豪傑というべし」「朝鮮を攻めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし」(中塚明著「日本と韓国・朝鮮の歴史」より)

松陰は維新の前に処刑されたが、まさに松陰が維新の前に思い描いた海外侵略の構想を実行に移したのが松陰の遺志を受け継いだ長州の政治家だったのだ。征韓論というと教科書では西郷隆盛こそがその主唱者であるようにされているが、これも長い間の偽官軍史観による作為があったとみるべきではないか。征韓論の最初の主唱者は吉田松陰であり、そしてそれを実行に移したのは松陰と同じ長州の仲間たちである。

明治維新の立役者の一人で元長州藩の木戸孝允が明治元年12月14日岩倉具視にあてたつぎのような記録が残されている。「すみやかに国の方針をしっかり定め、使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問い、彼もし不服の時は罪をいいたて、その国土を攻撃し、大いに「神州日本」の威勢を伸ばすことを」(木戸孝允日記)と記されている。

歴史の教科書ではあたかも木戸孝允は征韓論者の西郷隆盛らと対立していたという解説がなされているが、実際にはこの木戸孝允をはじめ明治政府発足とほぼ同時に征韓論が政治的日程にのぼっていたことは明らかである。ただし、武力によって朝鮮を攻撃すべきであるかどうかについては、当然政府内でも議論は分かれていた。

原田氏の本の最大の勘所は、司馬史観批判である。今NHKで放映されている「花燃ゆ」もそうだが、ここのところ隔年のようにNHK大河ドラマの定番となっているのが司馬史観に基づく幕末から明治を題材にした番組である。すなわち幕末から明治に起こった様々な出来事を異なった角度からドラマ化したものであり、その一貫したテーマはいずれにしろ明治維新を国民的物語として語り継ごうという司馬史観の精神である。その司馬史観の欠陥を原田氏は見事に指摘している。」

実は私はNHKの「知の巨人たち」というタイトルのシリーズものの特集番組の中で司馬遼太郎と長年の交流があった上田正昭京大教授との間で晩年に司馬史観についての長い時間をかけた論争があり、その論争で司馬遼太郎は上田教授に徹底的に説得された結果、司馬史観そのものの誤りについて自ら認めたという迫真の経緯が紹介されたのを記憶している。司馬史観では明治時代が美化されているが、実際は侵略された側の韓国の人々の側に立つととんでもなくひどいことをやった時代であったということを司馬遼太郎自身も認めざるを得なくなったのである。韓国の人々にとっては「千年たってもその恨みは消えないだろう」とまで司馬は言っている(ちなみに、この言葉の発信者が朴槿恵大統領ではない事は確かだ)。

日本が始めた侵略戦争というのは、決して満州事変がはじめてではない。その前に日露戦争があり日清戦争があった。いずれの戦争も朝鮮半島の支配権をめぐる戦争であり、その犠牲者の多くは事実朝鮮人であった。しかも彼らは国土を奪われ主権を奪われ伝統宗教も文化も奪われ言語さえも奪われていったのである。このような無茶なことを明治の日本がやっていたということを、われわれ自身が詳しく知る必要があるのではないだろうか。

補足:「千年の恨み」という話に関連する司馬遼太郎自身の文章を見つけましたので、ここに記しておきます。
われわれはいまだに朝鮮半島の友人たちと話をしていて、常に引け目を感じますね。これは堂々たる数千年の文化をもった、そして数千年も独立した国をですね、平然と併合してしまった。併合という形で、相手の国家を奪ってしまった。こういう愚劣なことが日露戦争の後で起こるわけであります。むろん朝鮮半島を手に入れることによって、ロシアの南下をふせぐという防衛的な意味はありました。しかし、日露戦争で勝った以上、もういったんロシアは引っ込んだのですから、それ以上の防衛は過剰意識だと思うのです。おそらく朝鮮半島のひとびとは、あと何千年続いてもこのことは忘れないでしょう。「昭和という国家」NHKBOOKS 1999年3月


9月8日 本項未定
つづく

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安倍総理は反知性主義者と決別せよ!

ここへきて安倍70年談話をめぐる各界の動きが風雲急を告げている。すでに安倍総理は8月14日に談話を出すと発表している。しかも閣議決定をしたうえで出す予定であることも半ば公約した。ところが談話の中身については今のこの時点(8月9日)においても、定まっておらずまるでヨッパライの談話のようにふらふらした状態になっている。というのはかねてから安倍総理は「談話は村山談話と小泉談話を全体として引き継ぐ」としながらも、特定のキーワードの使用を「こまごまとした議論」であるとして切り捨てていた。ところが公明党が反対してそれでは閣議決定もできないという話になっていた。そこで総理個人の談話になる予定だという発表がなされていたが、やっぱりそれではまずいということに気付いたのか閣議決定の方向で調整するという話になった。

そうこうするうちに一昨日(8月6日)ようやく70年談話有識者懇談会の最終結論がまとめられた。この結論では明確に「侵略」という言葉の使用を総理談話に求めた内容になっている。但し、16人の有識者の中で「侵略」という言葉の使用に反対した有識者が一人いて、他の一人もその意見に同調したという。おそらくその反対意見を述べたのは中西輝政氏であり同調者は元外務官僚の宮家邦彦氏であろう。

元々、この懇談会のメンバーは安倍総理が選んだ人々であり、ほとんど全員が政権寄りではないかとみなされていた人々である。にもかかわらず安倍総理の持論を完全に否定するような内容になっているので、安倍総理としてはかなり衝撃ではあっただろう。しかし、4か月も5カ月もかけて議論をした末の結論を安倍総理としてもさすがに無視するわけにはいかないだろうと思っていたが、昨日の新聞を読むと、安倍総理は依然として「侵略」という言葉は使用しない方向で調整する予定だというニュースが流れていた。

ところがここへきて読売新聞が7日の紙面で「侵略」という言葉を明記すべきだという主張を中曽根元総理の寄稿なども含め社説で断固とした調子で訴えている。これによってもはや安倍総理は孤立無援となり追い詰められる形になった。今日のニュースを見ても公明党との調整が依然として難航しているようであるが大勢は決したと言ってもよいのではないだろうか。安倍総理はもはや持論の談話をだすことはできないはずだ。安倍総理は不本意ながらも「侵略」という文言を明確に記した談話をださざるをえないだろう。それをあえて別の言葉で曖昧に表現しようとしても無理な話である。自らの最大の支援者である読売にここまで書かれれば安倍総理も降参するしかないだろう。
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しかし談話をだすためになぜかくも難産しなければならないのか?これは安倍総理一人の問題ではなく、われわれ日本人全体の問題ではなかろうか?そもそも「侵略」という言葉の使用がなぜ問題になるのか?これは他国から見ると笑止千万な話である。日本人は先の戦争をいまだに「侵略」だったと認めていないのか?そう問われれば、われわれはどう答えればよいのか?問題は日本人がこのような問いを自ら真剣に考えたことがなく国民的に共有された反省意識もないことだ。新聞広告をみるとほぼ連日のように「あの戦争は自衛戦争であった」とか「アジアを解放した戦争であった」とか、そういった自己正当化論が溢れているので、そうなのかなと思う人もいるだろう。このような現象が異常であるということに気づかない日本人はやはりおかしいのではないか。

今回の安倍70年談話有識者懇の副座長北岡伸一氏によると、先の戦争が侵略戦争であるというのは99%の歴史学者が認めるところであるとしている。しかしその有識者の中に中西輝政氏のような異端学者が存在しているように、残り1%の人々の影響力も無視できないのである。毎日のように新聞広告にその種の本や雑誌の広告がでるのは、そのようなごく一部の人々によって扇動され、またその扇動に影響されている人々が意外に多いということを意味している。その種の本や雑誌がよく新聞広告にでるのは、そのような類のものが実際に売れるからである。つまり読者の需要があるから本や雑誌が作られ、それによってますます読者も増える。

いわゆるネットウヨクと言われる人々がここ数年で激増しているのはその種の相乗効果もあるだろう。安倍政権になってからそのような広告が氾濫するようになり、同時にネットウヨクが激増した。ネットウヨクというのは、ネットの情報しか知らない無学な人という意味ではなく、むしろその種の本を多読し、しっかりと勉強している人々である。つまり理論武装をしているのである種の確信犯だといってもよいだろう。彼らがネットウヨクなどといわれるのは、その種の本で仕入れた知識をネットで広めて同調者を作ることに熱心だからである。ツイッターなどをみていてもよく分かるが、これらの人々の数は膨大である。少なくとも百万とか二百万という数は想像できる。

もちろん全体の中では一部にすぎないが、この種の人々の行動が世論を動かす大きな力になっていることは無視できない。安倍政権になってから、これらの人々が政権を支える基盤になっているといっても過言ではないだろう。

このようなネットウヨクの理論的指導者と言ってもよいのが、中西輝政や渡部昇一、櫻井よし子、西尾幹二、田母神俊雄、、青山繁晴、竹田恒泰、黄文雄、石平太郎などといった人々である。もちろん他にも書き手はいくらでもいるが、共通しているのはこれらの人々はほとんどが歴史素人だということである。素人だから好きなことが書けるのである。今流行りの「反知性主義」というカテゴリーにあてはまるのがこれらの人々である。

佐藤優氏によると、反知性主義とは「客観性や実証性を軽視し、自分が欲するように世界を理解する態度を指す」としている。また「反知性主義には、知識をエリートが独占していることに対する異議申し立てという民主主義的側面もある」としている。つまり知の素人が自分の欲するように世界を理解しようとする態度を全般的に意味しているといえる。専門家には何かのテーマを論じるときにさまざまな資料を集めることが最低限求められる。その資料の中には自説を否定するような資料もあるかもしれない。しかし、それに対しては自説をあらためるか又は資料の重要性を高く評価しなければならない。専門家がなんらかの学位を与えられるような仕事を残そうとする限り、そういった客観的研究姿勢は不可欠になる。

しかし素人研究者に多い反知性主義者は自説にあわないような資料は必ず無視し自説を曲げることは決してしない。そもそも彼らは自説に反するような資料を調べようともしないし、その種の資料があることさえ知らない場合が多い。実際、南京大虐殺は捏造だという人々は、その事実を物語る資料や証言が無数にあることを知らずにそういっている場合がほとんどである。

張作霖事件をソ連のコミンテルンの陰謀だったという説にこだわる中西輝政、田母神俊雄、櫻井よしこらは、その根拠とされた資料が実際は他人の根拠なき断定にすぎないという事実を知らなかった。これについて渡部昇一や西尾幹二がいっていることは、まさに反知性主義の見本であろう。

田母神論文は、秦氏や日本の文科省検定の教科書よりははるかに正しい」(渡部昇一氏)
私は現代史に専門家が存在することを認めていません」(西尾幹二氏)

先の戦争は侵略戦争であったという事実は歴史専門家の99%が認めるところである。それを認めようとしない安倍総理はまさに反知性主義者の一人だという他にないのである。彼自身が信奉してきたこれまでの歴史観が反知性主義者の書物などに影響を受けたものにすぎないのであろう。その方が日本人としての誇りを維持できるためなのだろうが、本物の専門家の研究を無視しているようでは、誤った道に国民を導く危険な指導者だと評価されても仕方がないであろう。安倍総理にはこれを機会に反知性主義者と決別せよと言いたい。

参考:8月7日読売本紙社説
◆過去への反省と謝罪が欠かせぬ◆
戦後日本が過去の誤った戦争への反省に立って再出発したことを、明確なメッセージとして打ち出さねばならない。来週発表される戦後70年談話を巡って議論を重ねてきた21世紀構想懇談会が、安倍首相に報告書を提出した。報告書は、戦前の失敗に学んだ戦後日本の国際協調の歩みを評価し、積極的平和主義を一層具現化していく必要性を指摘した。その中で、日本が1931年の満州事変以後、大陸への「侵略」を拡大したと認定した。的を射た歴史認識と言える。

◆「満州事変」が分岐点だ
一方で報告書は、「侵略」に脚注を付し、一部委員から異議が出たことも示した。国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、歴史的にも満州事変以後を「侵略」と断定するには異論があることなどが理由に挙げられた。だが、歴史学者の間では、軍隊を送り込んで他国の領土や主権を侵害することが「侵略」だと定義されてきた。その意味で、満州事変以後の行為は明らかに侵略である。自衛のためという抗弁は通らない。自衛以外の戦争を禁止した28年の不戦条約にも違反していた。他の欧米諸国も侵略をしたという開き直りは通用しない。日本はアジア解放のために戦争をしたという主張も誤りと言えよう。報告書はまた、日本が「民族自決の大勢に逆行し、特に30年代後半から、植民地支配が過酷化した」との見解を示した。戦後日本の歩みは「30年代から40年代前半の行動に対する全面的な反省の上に成り立っている」と記した。中国や韓国との和解に向けた努力が必要なことにも言及した。いずれも重要な指摘だ。報告書は、謝罪に関しては提言していない。座長代理の北岡伸一国際大学長は記者会見で、「お詫(わ)びするかどうかは首相の判断だ」と述べたが、お詫びの仕方を検討してもよかったのではないか。

◆誤解招けば国益を害す
報告書前文には「戦後70年を機に出される談話の参考となることを期待する」と記されている。安倍首相談話で注目されているのは、戦後50年の村山首相談話と60年の小泉首相談話に盛り込まれたキーワードの扱いだ。これら二つの談話には「植民地支配と侵略」への「痛切な反省」と「心からのお詫び」が明記されていた。過去の首相談話のキーワードの有無だけで、今回の談話の政治的意味を機械的に判断すべきではないだろう。とはいえ、日本の首相がどのような歴史認識を示すのか、国際社会は注視している。安倍首相は「侵略の定義は国際的にも定まっていない」と語り、物議を醸したことがある。中曽根元首相は、本紙への寄稿の中で「現地の人からすれば日本軍が土足で入り込んできたわけで、まぎれもない侵略行為だった」と明言している。

◆心に響くお詫びの意を
談話に「侵略」と書かなければ、首相は侵略の事実を認めたくないと見られても仕方がない。それにより、日本の行動に疑念が持たれたり、対日信頼感が揺らいだりすれば、国益を損なう。日本の戦前の行為により多大な苦痛と犠牲を強いられた人々に対し、何の意思表示もしないことは、「反省なき日本」という誤解を与える恐れが強い。子々孫々の代まで謝罪を続けることに、国民の多くが違和感を抱くのは理解できる。今回限りということで、けじめをつけてはどうか。安倍談話は、村山談話の引用など歴代内閣の見解を踏まえる間接的な表現であっても、「侵略」と「植民地支配」に対する心からのお詫びの気持ちが伝わる言葉を盛り込むべきである。あるいは、戦争で被害を受けた人々の心に響く、首相自身のお詫びの言葉を示すことだ。ナチス時代を率直に反省したドイツの指導者たちは、お詫びを示す直接の言葉でなくても、思いのこもった表現で、フランスなど周辺諸国の信頼を得てきた。そうした例も参考になろう。首相は未来志向の談話を目指したい、と述べている。しかし、過去をきちんと総括した上でこそ、国際貢献も、積極的平和主義も評価されることを銘記すべきだ。

政府・与党内では、70年談話を閣議決定すべきか否かで意見が分かれている。内閣として責任を持つべき談話である以上、やはり閣議決定する必要がある。戦後70年の日本の歩みを堂々と世界に発信すべきだ。


本項未定 8月9日

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安倍70年談話の欺瞞

安倍晋三という人物がここまで悪辣なほど狡猾であるということは正直思っていなかった。8月14日に予定された70年談話の内容が連日、新聞やテレビで報道される中、談話には「侵略」「植民地支配」「お詫び」などのキーワードが明記されるという事が伝えられていた。その数日前に安倍総理が選出した70年談話有識者懇談会の結論をみても、またその翌日にだされた読売新聞の「安倍首相も明確に侵略を認めよ」という断固たる社説をみても、もはやこれで安倍70年談話は土俵際にまで追い詰められ、そのまま押し切られる形で村山談話と小泉談話を踏襲するしかないのではないか。そのように私は信じていたし、おそらくマスコミも政府関係者もそう観測していたはずだ。

しかし発表された安倍談話をみると見事なまでにそのような期待を裏切っていた。確かにマスコミが観測していた通り「侵略」や「植民地支配」という言葉が明記されていたのは事実である。しかし、その意味合いは村山談話や小泉談話と同じものではない。全文を何度読み返してみても日本が侵略戦争を行ったとか植民地支配を行ったという明確な記述はどこにもないことに気づく。むしろ「植民地支配」という言葉は欧米が行ったということに重点が置かれるように書かれており、また「侵略」という言葉は文脈上の主語もなく使われているので、どの国が侵略を行ったのかということも意図的にぼかされている。しかも「お詫び」とか「謝罪」についても自らの言葉ではなく過去形で使用されているだけで、おまけに「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とまで付け加え、謝罪はもうこれ以上するつもりはないという魂胆まで覗かせた。

8月7日の読売新聞社説でいうように安倍談話は「明確に侵略を認めた」談話ではない。にもかかわらず読売新聞は本日(15日)の社説で「『侵略』明確化は妥当だ」として、次のように安倍談話を評価した。

首相談話には、キーワードである「侵略」が明記された。「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」との表現である。「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓った」とも記している。首相が「侵略」を明確に認めたのは重要である。戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話の見解を引き継いだものだ。

読売新聞があらためて安倍政権の御用新聞でしかないことを納得せざるを得ない記述である。要するに現時点で安保法案の成立と原発再稼働を何よりも優先しなければならない読売新聞としては、これ以上安倍政権を批判することによって支持率を落とせば、元も子もないという計算なのだろう。

これに比べるとNHKはまだしも良心的であった。14日夜放送のNHKニュースウォッチ9に招かれた安倍総理に対して河野キャスターがきわどい突っ込みをしている。

河野:侵略という言葉に主語がないが、総理、これは日本が侵略をしたということでよろしいのでしょうか?

この質問は今回の安倍談話の肝部分である。安倍総理としてもっとも触れられたくない部分だったのだろうが、おそらく河野キャスターもその答え方に驚いたことだろう。安倍総理はこの質問に対して長々と談話の論旨を繰り返しながらも、侵略という言葉に主語がない理由については一言も説明しない。

ちなみに安倍総理の答えは次のようなものだ。

今回の談話作成にあたっては、百年以上昔に遡って歴史を俯瞰する中で日本はどう行動をとったのか、世界はどういう世界であったのか、今日発表させていただいた談話の中においても、百年前世界には広大な植民地が広がっていた、そしてその波はアジアにも押し寄せていた、という時代だったことを述べました。そしてその後、第一次世界大戦、一千万人以上亡くなったこの大戦の教訓から、戦争を違法行為と定めた、そして植民地をもうこれ以上増やさない、植民地を取り合ったりはしない、現状を固定化してゆく、・・・その中で日本は国際社会と歩調を合わせたんですが、しかし、その後、大恐慌が起こり、ブロック経済が始まり、そしてその中で日本は孤立化していった。外交的、政治的行き詰まりを力によって打開しようとし、そして進路を誤り、戦争に至り、敗戦した。・・・村山談話の中では、たとえば「国策を誤り・・・」、これは非常に抽象的表現でしかなかった。そうではなくて、それはどういう世界の中でどのように進路を誤ったのか、ということを明確にすることによって、はじめて現代にも生きる教訓をくみ取れると考えたわけであります。そこで21世紀構想懇談会、有識者のみなさんに集まってご議論をいただきました。その報告書の中にもあるわけでありますが、・・(河野:その報告書の中には侵略という言葉がありましたよね・・)、ええ、侵略と評価される行為もあった。私もそう思います。だからこそ、ここにあるように「事変 侵略 戦争」という言葉をあげて、いかなる武力の威嚇や行使も国際紛争を解決する手段としては二度と用いてはならない。先の大戦の深い悔悟の念とともに誓った。・・・このように表現したわけであります。

つまり河野キャスターの質問に対して、安倍総理は「『侵略』と評価される行為もあった」と答えているだけであり、明白に侵略戦争であったと認めているわけではないといっているように聞こえる。逆に安倍総理は日本が第一次世界大戦後の世界恐慌と新たな経済ブロックの中で孤立化していったのだということを強調し、そこにはあたかも同情すべき部分もあったと弁護しているようにも聞こえる。つまり「侵略」という文言に主語がないのは、日本が侵略を行ったことを全面的に否定するものではないが、そこに至る経緯の説明の方がより大切だといわんとしているようである。しかし、このような言い訳めいた説明はあの戦争を自衛戦争だったと強弁する「つくる会」等の論理とどう違うのであろうか?

そもそも安倍総理のこの部分の説明は70年談話有識者懇のまとめの中にも紹介されているわけだが、有識者懇の総括では経済的孤立化にふれてはいるものの侵略を正当化しているものではない。

こうして日本は、満州事変以後、大陸への侵略を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。

この有識者懇の説明にある通り、満州事変以降「侵略」は拡大していったのであり、「『侵略』と評価される行為もあった」などと日本の侵略行為を矮小化しているわけではない。満州事変後の日本の行動の中には「侵略」と評価されるような行為もあったという曖昧な表現ですむものではなく、それは侵略そのものであったということである。このような「侵略」という用語に対する認識の根本的間違いを認めずに、安倍談話を評価してしまった読売はその本心が表れたのだといわざるをえない(もちろん安倍談話を絶賛した産経新聞は論外だ)。

かつて「侵略には定義がない」と語った安倍総理だが、有識者懇の座長代理北岡伸一氏によると侵略とは次のような明確な定義があるとしている。

「侵略には定義がない」というのは誤りだ。侵略とは「他国の意思に反して軍隊を送り込み、人を殺傷し、領土を占拠し、財産を奪い、その他多くの主権を制限すること」というのが辞書的な定義であって、政治学、歴史学でもほぼ同様だ。国際法においても、だいたいの定義はある。こういう意味の侵略を、明らかに日本はやってきた。

満州事変後、日本は15年間にもわたり常時数十万から百万を超える大量の軍隊を大陸に送り込み、数百万人の命を奪い、自国の十倍以上もある領土を占拠してきた。これを侵略と言わずに何を侵略と言うのか?しかし安倍総理は「『侵略』と評価される行為もあった」などと事実を矮小化しようとしているのだ。

しかもそれだけではない。安倍談話をみると、「植民地支配」という言葉も村山談話や小泉談話と意味の違った内容にすり替えられている。村山談話で使用された「植民地支配」という言葉はあくまでも日本がアジア諸国に対して行った行為として使われている。もちろん植民地支配という悪は元々欧米列強が行ってきたことであった。しかし少なくとも近世のアジアでは日本だけが行ってきた。日清日露戦争後、日本は列強の仲間入りを果たした。そこで朝鮮半島や台湾、満州を植民地とし、さらにアジア解放等と称して東南アジア諸国へも軍事進出していった。その主たる目的は石油などの資源を確保するためであった。

このような行為についても曖昧な言及しかされず、逆に欧米による植民地主義をあげつらうことで、あたかも日本の行為を正当化しようとしているようにみえる。しかも安倍談話の中には驚くべきゆがんだ歴史認識が公然と表明されている。欧米の植民地支配をあげつらいながら、自国が行った植民地支配そのものであった日露戦争を「アジアやアフリカの人々を勇気づけた」と自慢しているのである。国際紛争を解決する手段としての戦争はしてはならないと表明したその人物が同じ舌で110年前の戦争を賞賛するとは、どういう魂胆があるのか?しかし、この問題はそういうレベルの問題だけではない。安倍総理はそこまで知らないのかもしれないが、日露戦争そのものが他国の領土を奪うための侵略戦争そのものであったという事である。

何故か安倍談話のこの箇所については、どのマスコミも触れていないが、日露戦争が何のための戦争であったかという事を考えれば、そして戦争に至る経緯や結果を考えれば、明らかにそれは朝鮮半島を植民地にするための侵略戦争であったという事は明白なのである。

侵略という忌まわしい行動は決して満州事変後にかぎられるわけではない。むしろ明治政府が誕生した当時から国策としてそれを行ってきたのである。その原点にあるのは前にも紹介した吉田松陰の次の遺稿である。

神宮皇后の三韓を征し、時宗(北条時宗)の蒙古を殲し、秀吉の挑戦を伐つ如き、豪傑というべし」「朝鮮を攻めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし

松陰の影響を受けた長州テロリストたちは、政権をとるや否やこの野望を実行に移そうとした。その表れが征韓論であり、江華島事件であり、日清戦争であり、日露戦争であった。その流れの中でまるでホップステップジャンプというように発展したのが満州事変であった。これを経済的孤立という言葉で説明しようというのは欺瞞である。明治以来の日本人は事実として侵略的人種としての行動をとってきた。そのような明治に遡る歴史的見直しをこれからはじめなければならない。

補足:この談話を何度も読み返すと問題部分があまりにも多いという事にあらためて気づくのだが、最大の問題は次の箇所ではなかろうか。

「満州事変、そして国際連盟からの脱退、日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んでいきました。」

この満州事変後の戦争の総括は談話の中で最も核心的な部分であったはずである。有識者懇談会の総括でも、また読売新聞の社説でも、これ以降の戦争が侵略に他ならなかったと明言している。にもかかわらず、安倍総理は意図的に「侵略」という言葉を使用せず、「挑戦者」という言葉に言い換えた。これによって有識者懇や読売新聞の主張は意図的に曖昧にされ、「満州事変以降の戦争が侵略戦争であった」という核心部分は反故にされた。にもかかわらず読売新聞は「侵略という言葉が明記されたことを評価する」として、これを難じることもなく、また有識者懇の北岡伸一氏も「期待以上の踏み込みがあった」として一定の評価の言葉を読売に掲載している。結局、彼らは真実よりも保守派全体の利益を優先したのだろうとしか考えられない。戦前も戦後も日本人は常にこのようにして自らの主張をコロコロと変え自分を守るために変節していくのである。そしてこのようにして良識は踏みにじられていくのだといわざるをえない。



本項未定です。 8月16日 

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