3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

誇りの正体と靖国問題

人間にとって何が一番大事なものなのだろうか?という質問をすると、おそらく人によってはさまざまな違った答えがあるだろう。すぐに浮かんでくるのは「家族」「愛人」「友人」「仕事」「健康」「財産」「お金」「地位」「名誉」…などなど、その人の境遇によってはおそらく違った答えが返ってくるのではないだろうか?しかし、いかなる境遇にあろうと、すべての人が共通して大事だと思っているものが一つある。それは「誇り」という言葉である。やや難しい類義語に「矜持」という言葉もあるが、ここでは「誇り」というわれわれが普通に使っている言葉の意味について少し考えてみたい。

いかなる人にも必ず「誇り」があると思う。しかもそれは決して個人だけではない。人はしばしば「家族に誇りをもっている」とか、「国に誇りをもっている」とか、「地域に誇りをもっている」とか、「会社に誇りをもっている」とかいう言葉を口にすることがある。野球やサッカーの選手が「このチームに誇りをもっている」というような言葉をしばしば口にするのを聞くこともあるだろう。あるいはいろんな場面でいろんな人々が「日本人としての誇りを感じる」という言葉を聞くこともある。しかし、いったい「誇り」とは何なのだろうか?人はその意味をよく分かって使用しているのだろうか?

辞書で調べると「誇り」とは「誇ること。名誉に感じること。またその心」とある。この説明は同語反復であり「誇り」という言葉の意味を説明したことにはならない。この辞書の説明でもいえるとおり、われわれはなんとなくその意味をわかっているようでいて実は案外分かっていないのではないだろうか?

にもかかわらず、すべての人間にとって一番大事なものは「誇り」であるのだとすれば、これほど不思議な言葉もないといってもよいかもしれない。おそらく「誇り」という言葉は定義しづらいので、その言葉は人によって別々の意味に使われているケースも多いだろう。辞書にもあるように「誇り」というと「名誉」と同じ意味だと考えている人も多いのではないだろうか?では「名誉」とは何だろうか?辞書を引くと、これには様々な具体的説明があるので、そのまま引用しておこう。

名誉の意味
1 能力や行為について、すぐれた評価を得ていること。また、そのさま。「―ある地位」「―な賞」
2 社会的に認められている、その個人または集団の人格的価値。体面。面目。「―を回復する」「―を傷つける」
3 身分や職名を表す語に付けて、その人の功労をたたえて贈る称号とするもの。「―会長」
4 有名であること。評判が高いこと。また、そのさま。よいことにも悪いことにもいう。
5 珍しいこと。また、そのさま。不思議。

「誇り」という言葉は果たしてこの「名誉」と同じ意味なのであろうか?だとすると「誇り」はすべての人が抱いているものではなく、一部のすぐれた人だけが抱くことのできるものだということになりはしないか?たしかに「誇り」という言葉には、「他人よりもすぐれている」という意味合いがあることをわれわれはなんとなく感じている。われわれが「日本人としての誇りを感じる」という場合、それは日本人の歴史や伝統、あるいは礼儀正しい民族性とかすぐれた忍耐力や創造性など、世界の中でも誇れるさまざまなすぐれた美質と能力が日本人にあるということに誇りを感じるというような意味合いがあるのではないだろうか。

それはたしかにその通りかもしれないが「誇り」=「すぐれている」という意味では必ずしもないと思う。特に「民族の誇り」とか「国家の誇り」という場合、おそらく日本人だけではなくすべての民族、すべての国民に「誇り」はあり、それは本来優劣の問題ではないと思われる。中国人には中国人の誇りがあり、チベット人にはチベット人の誇りがあり、韓国人には韓国人の誇りがあり、北朝鮮人にも北朝鮮人の誇りがあるだろう。その誇りは経済が発展しているとか、歴史があるとか、文化的にすぐれているとか、その他さまざまな意味合いの誇りがあるのだろうと思うが、それは必ずしも民族的優越感だけを意味しているだけではなく、むしろ民族としての一つの「核」ともいうべきものではないだろうか?すなわち「誇り」というのは、人間の生命の根幹にあるものであり、それがなければ生きられないものということさえいえるのではないかと思う。

すなわち「誇りがない人間」は存在しないのと同様、「誇りのない民族」や「誇りのない国家」も存在しないのではないかと思う。ではいったい「誇り」とな何なのか?

ここで私の結論をいわしてもらおう。「誇り」というのは「人が天の下(または神の下)で自らを正しいと信じる根拠である」といえるのではないかと考える。この世の中、どんな人も自分が「悪」であると信じて生きている人はいないと思う。たとえ犯罪者といえどもそうである。自分が「悪」だと信じることは生きることが許されないということを意味している。だから人は必ず自分を正しい者だと信じなければ生きることはできないはずだ。もちろんその正しさの根拠となるのは人さまざまである。

ある人は自分の知識の豊かさを正しさの根拠とするかもしれないし、また他の人は自分の判断力や行動力を正しさの根拠とするかもしれないし、また他の多くの人は普通の常識を正しさの根拠とするかもしれない。おそらく人間はどんなことでも誇りにすることは可能なのである。強い人はその強さを誇りにすることができるし、また弱い人であってもその弱さを誇りにすることさえできる。たとえば新約聖書の中でパウロが次のような言葉を残しているのである。

「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。」(コリントⅡ12・5)


いずれにしても天の下(または神の下)で正しいと思わなければ人は生きられないのであり、すべての人は自分を「悪」であると信じながら生きることはできないはずなのである。だからすべての人は自分を正当化するためにさまざまな誇り抱きながら生きているのではないだろうか?それこそが人間の「誇り」の正体ではないかと思う。

したがって、いかなる人間も生きている限り「誇り」を失うことはない。これは戦争という極限状況の中においてもいえることである。戦争というのは人間と人間の殺し合いであるが、その最中であっても人間は誇りを失うことはないのである。むしろ敵を殺すということは当然に何らかの正しさの根拠を必要としている。「人殺しは悪だ」と信じていては敵を殺すことはできない。この人殺しは正当な行いであると信じればこそ、人は戦争で多くの敵を何の後ろめたさを感じることもなく殺せるのではないであろうか?また人はしばしば戦場での命を惜しまない勇敢さや自己犠牲の精神を「誇り」として強く感じる。これは自分の「誇り」のために命を賭けることこそが、自己の「正しさ」の証明であると感じるからだろう。


日中戦争が泥沼状態になった頃、アメリカのハル国務長官から日本軍の中国戦線の全部隊を撤退すべし等の条件を突きつけられ、さもなければ石油の禁輸を含む一切の貿易上の制裁を解除することはできないと通告された。これは日本にとっては事実上の最後通告であり、この厳しすぎる条件を日本側が飲めない以上、日本は自らの生存権のためにアメリカを相手に戦争を仕掛けるしかないと東條内閣が判断した。

そこでこの戦争を大東亜解放戦争であると名づけ、この戦争は欧米によって植民地化されたアジアをアジア人自身の手で解放するための聖戦であると大見えをきった。今日の目で見れば、こんなものは追い込まれた東條内閣がとってつけた大義名分に他ならないことは自明のはずだが、驚くべきことに、最近になって、「自虐史観と戦おう!」という一部の勇ましい人々が、そのようなかつての大義名分をあらためて再評価し直し大東亜戦争を肯定しようとしているというのだから、(アメリカ人にとって)日本人というのは本当に懲りない民族だと思われよう。いっておくが、これは決して皮肉でいっているのではない。あとで紹介するように、いまアメリカでは本当にそのような懸念が広がっている。

いずれにせよ、当時の多くの日本兵がその東條の大見えを信じ、来るべき東亜の正しい秩序のためを思って散って行ったのであり、その彼らの純朴な姿にはたとえ無益な人殺しのための戦争だったとはいえ、日本民族の生存と誇りをかけた戦いだったのだといえなくはないだろう。あの戦争が侵略戦争だったのかどうかという問いとは別に、そのような戦地で散ったわれわれの誇り高い先祖に対する思いがあるからこそ、靖国神社に参拝して彼らの霊を慰めるという儀式は日本人として当然なされるべきことだといえるかもしれない。

しかしながら、そのような日本人の尊い気持ちとはまったく裏腹に感じざるをえないもう一方の戦争の被害者側の民族がいることを忘れてはなるまい。

その被害者は主に中国人と韓国人であり、彼らは日本人の靖国に対する思いよりもはるかに大きな屈辱と恨みの思いを抱きつつ、いまなおその思いを子々孫々に伝えながら生きざるをえない人々である。そんな恨みはもう70年以上も昔のことだからもうそろそろ「水」に流してほしいとわれわれは考えるかもしれないが、もしそう彼らに考えてほしいというのであれば、日本人が自らの靖国参拝をいまなお続けることの正当性自体が成り立たなくなるだろう。逆にいえば、日本人が今なお靖国の霊を慰めるという思いをもつことが正しいことであるとするならば、同じように中国人や韓国人が彼らの先祖たちの過去の屈辱や恨みに対する思いを募らせるのも、当然無理もないことだということがいえるのである。

では、どうすればよいのであろうか?これは確かになかなか難しい複雑な問題であろう。なぜならば人間の命をかけた「誇り」というものを、そう簡単に否定できるものではないからであり、しかも加害者側と被害者側の「誇り」がまったく裏腹になってつながっているからである。相手側の誇りを立てれば自分たちの誇りが立たず、そして自分たちの誇りを立てようとすれば、相手側の誇りを否定することになるからである。しかし、少なくともその両者の「誇り」の質を比べたとき、われわれ日本人の側はあくまでも加害者の側であり、一方、中国人や韓国人は被害者の側であるということに思いを馳せると、当然な結論は導き出されるであろう。それは加害者側が自らの罪を認め、被害者側に対して謝罪し続けることをまず優先しなければならないということである。

もし謝罪し続ける必要はないというのなら、当然中韓との国交断絶まで覚悟しなければならないと思う。なぜならそれは彼らの誇りを否定することであり、彼らにとってはその誇りこそが自分の命よりも重いものだからである。

最近、渡部昇一らの極右グループが、もはや日韓は国交断絶をすべきだなどといっているらしいが、現実はそのように日本人が強がる前に彼らの方から国交断絶状態を強いられている状況であることを日本人は気付かなければならない。彼らが自虐史観云々と言い続け、過去の日本軍が犯してきた悪をすべて正当化しようとしている事実は、中韓米の間ではほとんど筒抜けだといってもよいだろう。だからこそ橋下発言がアメリカのいくつかの州議会で非難決議がでるほど集中砲火をあびているのだということに気付かなければならない。

事実、安部総理発足後、中韓のみならずアメリカからもほとんどまともな扱いをされていない。これは決して理由のないことではなく、安部総理が発足後すぐに発信した歴史認識(村山談話)の見直しとか慰安婦問題(河野談話)の見直しなど、いままで歴代自民党のどの総理もやらなかったほど大胆な発言を繰り返したために、アメリカのさまざまなメディアから懸念の声があがっているのである。

たとえば1月3日付けのニューヨーク・タイムズ社説では以下のように書かれている
「自民党のリーダーである安部氏がどのようにこれらの謝罪を修正するのかは明らかになっていないが、彼はこれまで日本の戦後史を書き換えることを望んでいることを秘密にはしてこなかった。こういった犯罪を否定し、謝罪を薄めるようなどのような試みも、日本の戦時中の残忍な支配に被害を受けた韓国、そして中国やフィリピンをも激怒させることであろう。安部氏の恥ずべき行動は北朝鮮の核兵器プログラム等の諸問題において、地域における大切な協力関係を脅かすことになりかねない。このような修正主義は歴史を歪曲することよりも、長い経済不況からの回復に集中しなければいけないこの国にとって、気恥ずかしいことである」。

当然ながらこの社説をオバマ大統領も目にしているし、それどころか現アメリカ政府内の安部総理に対する評価というのは、ほぼこの社説に近いものとみて間違いないだろう。したがって安部総理が訪米した時のオバマ大統領の冷淡な対応と対照的なほど韓国朴槿恵大統領に対する親密な対応、そればかりか先の米中会談、中韓会談などの互いの親密さをみると、日本の安部総理がいまこれらの主要国との関係の中で完全に孤立を強いられていることが分かる。

これは一時的なものにすぎないのか、それともこれ以上の関係悪化の可能性があるのか、今のところ分らないが、少なくとも安部政権が続いている限りはこの関係悪化はどんどん進む一方であろうと思う。安部総理の任期期間はあと3年以上ある。だとすると、これから少なくとも3年以上中韓米はより密接な関係となり、そして日本だけは孤立化の道を歩まざるをえないであろう。しかし、これは安部総理が自らこのような結果を予期して選択したわけであろうから、このような外交上の逆風は当然覚悟のうえであったと思いたい。そうでなければ、安部総理は本当にうかつな失敗をしたのだとしかいえないのである。

「誇り」というのはそれが過剰になると、いとも容易に「驕り」に転化する。安部総理および保守派の人々が日本人の「誇り」をなによりも大切に思う気持ちはよく分かる。しかし、中国や韓国にも「誇り」があることを忘れてはならない。「誇り」の正体が「正しさの根拠」であるとすれば、今それぞれの国で過去の歴史認識をめぐる「誇り」すなわち「正しさの根拠」が衝突しあっているのだということに、我々は一刻も早く気付くべきではないかと思う。


補足1 最近、元外交官で京都産業大学教授の東郷和彦著「歴史認識を問い直す」(角川新書)を読んだ。東郷氏はなんとあの東条英機内閣の外相をつとめた東郷外相のお孫さんである。東郷外相はA級戦犯であったが、さいわいにも絞首刑は免れ20年間の入獄の刑を言い渡され、その後、獄中で亡くなられた方で、彼の霊も(A級戦犯にもかかわらず)靖国に祭られている。

当然ながら東郷氏は靖国参拝を大事なわれわれのつとめだという立場を理解しているが、しかし、一方靖国参拝が中韓との間で深刻な外交問題になっている以上、われわれは真の国益の観点から、この参拝という儀式を一時停止し、われわれ自身の中で議論を尽くすべきだという靖国議論のための<モラトリアム(猶予)期間>を提唱している。

これによって、なぜわれわれが尊いと思う行為が隣国の人々の心を傷つけることになるのか、またどうすればわれわれは彼らの理解を得て、靖国参拝を続けることができるのかという問題を真剣に考えようというのである。ここで具体的に問題となるのが日本人の歴史認識の問題であり、そしてその際に先鋭的な問題として浮かび上がるのがA級戦犯の合祀問題であり、またもう一つは靖国神社の付属施設「遊就館」で過去の戦争を正当化しているという問題があげられる。靖国神社はこの二つの問題を抱えているために世界の基準では理解されえない施設になっているのであり、この問題をわれわれが切り離して、純粋な戦没者の慰霊施設として靖国を再興できるのかどうかという問題を考えるべきだと東郷氏は提唱しているのである。


東郷氏こそ真の良識人であると思う。しかし、ある意味戦前よりも極右の思想に染まってしまった一部の異常な世論の中で東郷氏のような真の良識人の言葉はいやみに聞こえるかまたはよくても利敵行為、悪くすると「非国民」「国賊」というレッテルが貼られかねない情勢である。実は、このような状況は5.15事件前の日本とあまり変わらない。

ちなみに、5.15事件で暗殺された犬飼首相は平和を希求する国際的視野のある人物であった。彼は満州国の独立を認めたが、しかしその地は本来中国政府に宗主権があるという立場を変えなかった。この結果、彼は「国益に反する」人物としてナショナリストから断罪されるようになり暗殺されたのである。このとき暗殺者たちの行為は当時の国民世論によって共感され、なんと30万通を超える恩赦請願書が裁判所へ届き、犯人たちは処罰もされずに釈放されたのである。このとき以降「国益」=「正義」となって日中戦争から大東亜戦争へと突っ走っていったのだ。この事件が起こる以前は現在の日本とあまり変わらないほど自由で平和な国であったということを忘れてはならないと思う。

ここで東郷氏の痛切な言葉を一部紹介したい。

安部内閣は「村山談話の継続を確認しつつも、未来志向の安部談話をだす」という意向を表明してきた。この原稿をかいている時点で、時期は白紙ということであるので、今すぐという意向ではないようだが、私は今の日本の状況で、歴史認識問題を中心に据えた「未来志向の談話」を出すということには、強い違和感を感ずる。

何よりもまず、どこに理非曲直があるにせよ、中国と韓国との関係で日本は今和解に達していない。中国との関係では尖閣問題の歴史問題化という新しい要因が加わったことにより、歴史認識問題は、当面新たなる先鋭化を迎えている。韓国との関係も慰安婦問題の再燃によって、歴史認識問題は今激しい緊張下にある。

歴史認識問題との関連で「未来志向」ということを日本側から言い出すことは、禁句だと私は考える。被害者の立場に立てば、「未来志向」と加害者が言えば、それは「過去を忘れましょう」と言っているのに等しく聞こえる。これこそ被害者がもっとも聞きたくない言葉である。この単純な心理に思い至らないほど、今の日本人の心は弱まり、自己中心主義的な民族になり果てたのであろうか。歴史認識に関して言えば、「未来志向の未来」とは、中国や韓国が日本に向けて送るべき言葉なのである。両国がそういう対日関係を作ろうと思うために、日本ができることはなにかと考えることこそ、肝要なのではないか。自らそれを世界に向けて言い出すことは、恥ずかしいことだと私は思う。(p146-148)



補足2 新聞を読んでいると公明党の機関誌(?)「潮8月号」に「アメリカが注視する日本の歴史認識」というタイトルの目次が目についたので、早速、本屋で購入して読んでみた。この記事を書いたのは米パシフィック・リサーチ・インスティテュート所長という肩書をもつ高濱賛氏である。公明党の機関誌だから与党総裁の批判は慎むべきはずだが、この記事は誠に辛辣な安部総理の外交批判が展開されている。これは先の東郷氏の危機感とほぼ共通するものであるが、著者は今現在のアメリカ政界の状況をリアルタイムで知りうる立場にいる方なので、より説得力をもっているように思える。その一部を引用しておこう。

ワシントンの政策立案者や世論形成に影響を及ぼすアメリカ人には、安部氏に対するある種の先入観がある。読者諸兄から「影響を及ぼすアメリカ人とは誰だ」と聞かれそうだが、これらアメリカ人とは、学者、大学教授、新聞社の論説委員、国務省、国防総省担当記者、コラムニスト、東京特派員、さらにはハリウッドの映画製作者や作家たち、と申し上げておこう。

そもそもそれは安部首相が2006年の第一次安部内閣の組閣後、07年3月1日に、「従軍慰安婦に関する旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言したことに端を発している。安部首相はその一方で、「斡旋業者が事実上強制していたケースもあり、広義の解釈では強制性があった」とも述べている。安部首相はその後「村山談話」「河野談話」の継承を認めたため、その時はワシントンの危惧の念は一時的には解消した。否、解消する前に安部首相は政権の座を降りていた、といったほうが正確かもしれない。完全に払拭しないまま、6年が経過した。

(中略)

ところが安部首相は12年の自民党総裁選時、再び「河野談話」や「村山談話」の見直しを提唱、政権の座についた後も衆院予算委員会で「侵略の定義は国際的にも学術的にも定まっていない」(4月29日)と答弁した。
ワシントンポストは、この発言を即座に取り上げ、「日本が韓国や中国を侵略したのは事実だ。安部氏は歴史を直視していない。これは自己破壊的修正主義だ。戦前の帝国主義への郷愁に浸っているようでは国内改革を進めたり、正当な主張である防衛予算の増額を隣国に納得させることは困難だ」と厳しく批判した。

同紙の論説委員長はフレッド・ハイアット元東京支局長。これまでにも日本の歴史認識については鋭い論陣をはってきている。だが、いろいろ調べてみると、この社説はなにも彼の個人的見解だけではないことが分かる。国務省当局者らオバマ政権対日政策担当者たちの見解を色濃く反映しているとみるべきだろう。

(中略)

ワシントン・ポストの社説と前後して、共和党親日派のトーマス・シーファー前駐日大使が「もし安部首相が河野談話を修正したりすることになれば、日米関係にネガティブなインパクトを与えることになるだろう」と指摘している。安部首相の言動に対する危機感は、民主、共和を超えて超党派で広がっている証左といえる。








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ハルノートの誤解及び靖国問題の本質

自虐史観という言葉はいったい誰が言い出したのだろうかと疑問に思い、ネットで検索してみた。便利なものである。十秒でその答えが返ってきた。教えてGooによると、この用語の考案者は「新しい歴史教科書を作る会」の創立者の一人でもある藤岡信勝氏であったという。なるほどと、すぐに私は合点した。「新しい歴史教科書を作る会」が藤原信勝氏らによって作られたのは1996年であり、同じ年に藤原氏が「自虐史観」という言葉を言い出したのだそうである。その「こころ」はというと、要するに戦後の教科書は東京裁判以来の「日本=悪者」イメージによって塗り固められたものであり、それは日本人の誇りを否定する間違った歴史観であるので、これを正さなければならないというものである。

彼らがいうには、自分の国を悪くいうような自虐史観は世界中のどの国でも教えられていないという。どの国の歴史教育も自分の民族を誇りとする教育を行うのがあたりまえであり自らの歴史を悪く書きたて自己反省を強いるような教育は不必要であるばかりか、民族の誇りを著しく汚す有害なものであるというのである。

確かにわれわれ戦後世代は日教組教育の洗礼を受けて育った世代であり、それらの教科書には左翼的な色彩が強くあったのかもしれない。しかしながら、私自身の実感をいえば日本人は果たして自虐史観なるものを本当に教えられてきたのだろうか?という素朴な疑問がある。われわれの学校時代の歴史授業では、そもそも近現代史についてはほとんどまともに教えられた記憶がないからである。学校の歴史授業で詳しく習ったのは、大体、大正デモクラシーぐらいまでで、その後に5.15事件や2.26事件があったということを授業で習った覚えはあるが、それらがどのような意味があるのか当時の私には皆目わからなかった。

ましてや満州事変や盧溝橋事件などの意味については、ほとんど正しく(?)教えられた記憶はない。ここで「正しく」という意味はすなわち「自虐史観という歴史観に基づいて正しく」という意味なのであるが、そのような意味において、私は「自虐史観」の教育を受けたという明確な記憶がない。もし「自虐史観」に基づく教育が正しく行われていたのだとすれば、われわれは満州事変や日中戦争についてもっと時間をかけて「侵略戦争を反省するための教育」を受けているはずだが、実際には歴史の授業で戦前の侵略戦争についての反省どころか、ある程度の時間をかけて授業を受けた記憶さえもないのである。これはおそらく現在の学校教育でも同じではないであろうか?

日本の学校での歴史授業というのは、そもそも目的というものがなく、ただ単に受験対策としての歴史を教えているだけであり、それを教える方も教えられる方も意味のない断片的知識のやり取りをしているだけではないのかとつくづく思う。そのような受験一辺倒の授業の中では、現代史は受験でもほとんど出ることがない分野なので勉強する必要性もなく、したがって授業を与える先生方もそれを教える必要がないということになる。結果として、日本人は自虐史観どころか、そもそも70年前には日本が戦争をしていたという事実さえ知らない若者が多く、ましてや満州事変や盧溝橋事件や南京事件の意味を知る人は少なく、これは若い人だけではなく、おそらく70歳以下の全世代(すなわち戦後世代)についてもそういえるのではないかと思う。だから最近の日中間、日韓間の歴史認識問題がなぜ問題になるのかということについて、その理由が分からない日本人がほとんどではないだろうか?

もし仮に日本の歴史教科書が自虐史観を教えているということが本当であれば、なぜ日本の教科書には韓国の王妃を暗殺したという重大な歴史的事実が抜け落ちているのであろうか?あるいはまた日清戦争の経過で韓国の農民を数万人も殺したという事実がないのであろうか?日清戦争は朝鮮の支配権をめる日清間の戦争(というよりも事実上は日本が朝鮮の支配権を清国から奪い取る戦争であった)が、この戦争で日本が清国に勝利したあと反日に立ち上がった韓国の農民を数多く殺している。その犠牲者数は日清両国の犠牲者数をも上回っているといわれているが、日本の歴史教科書にはどこにもその記載はない。また韓国を保護国から併合化する過程でも日本は併合に反対する数万人の韓国人義兵を殺しているが、そのような事実も書かれていない。

一方、中国人や韓国人が過去の歴史認識問題について、日本人よりもはるかに過敏なわけは、彼らが一方的に被害者であったという徹底した歴史教育を受けているせいであろう。それに対して戦争について何も知らないわれわれは彼らを正しく批判できるのであろうか?少なくとも自虐史観という名の教育をわれわれが「正しく」受けているならば、中国や韓国がなぜあのように過敏な反応をするのかということを理解しうるはずである。しかし、そもそも何の教育も受けていないわれわれには何が問題なのかさえも分からないのである。これは非常に問題ではないかと思う。

「自虐史観」という言葉はそもそもGHQに押し付けられたいわゆる東京裁判史観を意味していた言葉である。私は「自虐史観」を東京裁判史観という意味に限定して言えば確かに少しは意味のある言葉だと思っている。なぜならアメリカは、原爆投下や東京大空襲などで史上最悪の虐殺行為を自ら行いながら、東京裁判ではすべての戦争犯罪を日本側に押し付けたやり方には釈然と認めがたいものがあり、そのような意味での「自虐史観」をわれわれは必ずしも受け入れるべきではないと思うからだ。したがって「自虐史観」云々というなら、それはアメリカに対していうべきではないかと思う。にもかかわらず、多くの保守派を自称する日本人は、中国や韓国に対して謝るのは「自虐史観」だからよくないというのは論理の飛躍であり、これは侵略戦争の加害国としての立場を忘却しようとするものであり、被害国からみれば許せないのは当然である。

「自虐史観は間違っている」という人々の多くは「自虐史観」という言葉を拡張解釈し、「日中戦争は侵略戦争ではなかった」とか「大東亜戦争は自衛戦争であった」とか「韓国併合は韓国のためになった」とか、・・・云々、要するに日本人は過去間違ったことを行っていなかったというように自国の歴史を全面的に正当化する意味にまで拡張解釈されている。ここまで来ると、これはまことに恐ろしい言葉であり、都合良く歴史を捻じ曲げるための万能語にもなっているというべきだろう。

最近のネット右翼の異常繁殖にしても、この「自虐史観」という万能語の独り歩きによって触発されているのではないかと思われる。きちんとした歴史を学校で教えられることがなかった若者たちが、とりあえず手軽に入手できる知識というのがネットのブログなどで仕入れた知識である。これは無料で入手できる知識ではあるが、それらの多くが「南京の虐殺はなかった」とかあるいは「大東亜戦争は自衛戦争であった」というような非常に偏った知識で占められており、よく調べると、これらのブログの知識もお手軽な知識の相互受け売りにすぎないものである。要するに、異常なウイルスがネットの宿主の間で大量に繁殖していくのと同じ理屈なのである。「脱・自虐史観」という鋳型をネット上でどんどん複製してゆくこと、これがネット右翼の正体といってもよいだろう。

このようなネット右翼の異常繁殖に対して本来の民族派右翼である「一水会」代表・木村三浩氏は次のように述べている。

和をもって貴しとなす。これこそが日本の伝統であり、私たち右翼が目指してきた日本のあるべき姿です。国や民族や文化や考えが違っても、相手を尊重するのが「大和」の国、日本です。しかし、どうですか、いまの日本は。嫌韓国、嫌中国を語ることで日本人の劣化から目を背け、みせかけの自信を得ようとしています。お手軽で、非歴史的で検証に耐えない。日本は右傾化したといわれていますが、民族派右翼である私はむしろ、暗然たる気持ちでこの社会をみています。(朝日新聞 2013年7月17日朝刊)

ところで少し前のことになるが、安部内閣で自民党政調会長をつとめていた高市早苗議員が四月の靖国参拝の後、次のような驚くべき発言をしていたのを覚えている方もいるだろう。

当時、日本が資源封鎖されてもまったく抵抗せずに植民地となる道を選ぶのがベストだったのか

これは明らかに東条内閣の大東亜戦争への決断が間違ってはいなかったという表明だと受け取れる。彼女は大東亜戦争を始めなければ日本はアメリカの植民地になっていたにちがいないとでも思っているのであろうか?アメリカ側が日本に突きつけたハルノートは確かに当時の日本の「政治的空気」の中では厳しいものがあったのかもしれないが、今の視点でみれば、それらの条件は日本軍が中国大陸での侵略行為を反省して撤退しろというまっとうな要求であり、この条件にはなんら道義上の問題はない。

それどころかアメリカは、もし日本がこの条件を飲めば、最恵国待遇を約束するとまで付け加えていた。当時、日本は日中戦争の泥沼状態の中にいた。蒋介石の抵抗は衰えることはなく、日本軍はまったく勝利の見通しもなかったのである。だから、考えようによれば、このハルノートは日本にとっては「渡りに船」ともいうべきものであったはずだ。アメリカにとっても日本がこの条件を受け入れて、無益な戦争を始めなくても済むことを願っていたはずである。非自虐史観の立場に立つ人々がしばしばいうように、日本はアメリカに戦争を選択するしかないように仕掛けられたのでは決してないだろう。

ちなみにハルノートとはどういう条件だったのか次に引用しておこう。

1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
4.日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党政府)以外のいかなる政府を認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄 - 日独伊三国軍事同盟の実質廃棄を含意する、と日本側は捉えていたようである。
10.本協定内容の両国による推進

以上wikipedeaより

この条件の中で日本側が受け入れられないとしたのは3と4であるが、これは侵略を止めよという国際世論のあたりまえの要求であり、これを不当だというのは、今の世の中でいえば北朝鮮に核兵器を放棄せよという要求が(北朝鮮政府にとって)不当な政治干渉だというよりも、はるかに非常識なことであろう。この条件でアメリカは日本の仏印(フランス領インドシナ)と中国からの撤退を要求しているが、満州国からの撤退まで要求しているわけではなく、また朝鮮半島や台湾の権益も否定していないので、「国益」という観点に立っても日本にとって決して受け入れがたい条件ではなかったのである。

よく注意して読めば、このハルノートでアメリカが日本に対して要求しているのはただ一つのことであり、それは4の蒋介石政権を認めよということであることが分かる。つまりアメリカは日本を全否定しているわけではなく、ただ蒋介石政権が唯一の中国の正当政府であるということを日本に認めさせることに他ならなかったのである。そして日本にとってこれを認めることは、決して国益の大いなる損失ではなく、むしろ日中戦争以前の権益を国際的に認めさせ、さらに同時にアメリカから最恵国待遇をも得る大きなチャンスであったというべきであろう。ちなみに条件2と3で、仏印の領土主権を認めるとか仏印から撤退すべしというのも、要は蒋介石の重慶政府を背後から攻撃することを止めよという要求に他ならなかった。

それと注目すべきことは、この条件5で謳われている「英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力」という項目である。これは欧州列強の中国分割統治の非を日米が中心になって改めさせようとしたものであり、これはわざわざ日本に配慮して、欧州列強の権益を排除しようとしたものとみることができる。

このハルノートの経緯に関して、Yahoo知恵袋に、ある方が実にわかりやすい正論を述べておられるので紹介をさせていただきたい。この筆者によると、そもそもハルノートが突き付けらる前に真珠湾を目指した連合艦隊は航行を始めていたので、ハルノートの条件がどうのとかいう筋合いはまったくなく、それどころかハルノートは日本を最恵国待遇するというアメリカの約束を謡っており、最後通告どころではなく中国大陸で泥沼にはまっていた当時の日本にとっては、むしろ国益にかなうものであったとみることができる。

山本五十六はアメリカとの戦争について「負けるに決まった戦争するバカがいるか!」といっていたそうですが、その「負けるに決まった」戦争を日本が始めたのは、ハルノートを受けて、これでは戦争しかない、と日本が立ち上がらざるをえなかったという説があります。しかしこれは根拠がない、というより、間違いです。

日本政府がハルノートを受け取ったのは昭和16年11月27日。しかし日本海軍機動部隊は既にその前日に真珠湾に向けて出撃していました。また、マレー半島奇襲上陸を目指した陸軍の大部隊を乗せた輸送船団も南方に向けて航行中でした。つまり和平交渉中に強大な攻撃部隊を送り出していたのです。

当時ワシントンで日米和平交渉が進められていましたが、日本の計画は昭和16年10月上旬までに日本の要求が受け入れられなければ米英蘭と戦争を行う、と9月6日の御前会議で決められました。ハルノートの二ヶ月以上も前の事です。和平交渉の継続を主張する外務大臣を東條英機陸軍大臣が怒鳴りつけ、日本の要求が必ず通るというのでなければそんな外交はやめてしまえ!と。

そして更に11月5日の御前会議で、最終的に11月末までに日本の要求が通らなければ12月上旬に真珠湾攻撃、英領マレー半島上陸に始まって対米英戦争を開始、と「具体的に」決められました、「帝國は迅速なる武力戦を遂行し、東亜及び西南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域並びに主要交通線を確保して長期自給自足の態勢を整う。あらゆる手段を尽くして適時米海軍主力を誘致しこれを撃滅するに勉む」、と。ハルノートはまったく関係ありません(ハルノートを日本が受けとったのはもっと後の11月27日)

陸軍では、陸軍大臣や参謀総長に対して強烈な影響力を持った佐官クラスの中堅層を中心に戦争気分濃厚で、外交交渉が失敗して開戦になる事を期待していました。日本政府のいわゆる「乙案」にしても、外務省の折衷案、妥協案に陸軍が強烈な横槍を入れ、「妥協」から程遠いものになってしまった。「大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌」という資料がありますが、「外交交渉が失敗する事を熱望する」などと、ものすごい内容です。陸軍は戦争がしたくて仕方がなかったのです。

ハルノートは当時のアメリカの意見をまとめた外交文書に過ぎません。宣戦布告はもちろん、最後通牒からも程遠いものでした。冒頭に「暫定的」「拘束力のない」「提案」「草案」と書かれています。そんな最後通牒はありません。それを日本語に翻訳する時に消してしまった。誰がやったかは謎ですが、日本は戦争やる気満々だったのです。

ハルノートの中でアメリカの唯一の「要求」は中国・仏領インドシナから軍隊・警察力を引き揚げる事だけです。これは当然ですね、日本がパリ不戦条約、九ヶ国条約を破って満州侵略に始まって中国侵略を拡大し、フランスがナチ・ドイツに負けたどさくさに仏印を侵略していたのですから。ただし「いつ」「どんな方法で」などは書いていない(「即時撤退」と書いてあるという人もいますがそんな事はどこにも書いていない)日中戦争は既に泥沼化して日本経済に深刻な悪影響を与えており、陸軍部内ですら撤退の意見がありましたが、東條英機は陸軍次官、陸軍大臣、総理大臣と一貫して絶対にそれを許さなかった。

ハルノートはあの当時としては穏健でむしろ日本の顔を立てたものでした。「日米政府が音頭を取って関係各国に働きかけて不戦条約を結びましょう」とか、「日米政府がお互いに最恵国待遇を基本として通商を行い、貿易上の障害を取り除く為の協議を始めましょう」とまで提案している。 中国大陸における日本の権益や満州についてもまったく書いていない。三国同盟のサの字も出てこない。話し合い次第では中国からの撤退の条件として相当の権益は確保出来たと思います。にも拘わらず日本は質問も交渉も一切しないでいきなり戦争を始めました。というか、日本はハルノートを受け取る前に既に攻撃部隊を出撃させていた。それが以前からの国策だったのです。

アメリカは日本との戦争を「決意」していたと言う人がいますが、決意するのと実際に攻撃を仕掛けるのとでは雲泥の差があります。アメリカとソ連(ロシア)の「冷戦」では両国とも戦争を「決意」しながら、にらみ合いはスターリン死後の「雪解け」から数えても30年の長きに及び、一発のタマを撃つ事もなくソ連の敗北に終わりました。

世界史上、国同士が戦争を「決意」して長い間にらみ合っている事はいくらでもあります。太平洋戦争はアメリカが攻めてきたので日本が反撃して始まった戦争ではない。日本の国策は南方侵略、そしてその邪魔になりそうな米英を叩こう、と当時の政府の資料に明確に書かれています。

日本が太平洋戦争を起こした主因の一つとしてアメリカによる対日石油禁輸が言われます。当時の日本の国策は南方を侵略して資源を奪う事でした(この計画を聞いて、東條英機ですら「泥棒をしろと言うんだな」と笑ったそうです)対日石油禁輸でそのタイミングが早まったとは言えますが、それまでは石油を始め重要戦略物資も欲しいだけ獲得出来ていた。日本の中国侵略がピークに達した1940年度ですら、日本の石油需要量の86%をアメリカが供給した。このどこが「アメリカによる経済圧迫」でしょうか??

そしてその対日石油禁輸も日本の侵略拡大に対する「警告」で、日本が侵略政策を改めていたら再び石油も重要資源も入ってきたのですが、日本は戦争を選びました。それが石油禁輸やハルノートなどのかなり前からの日本の国策だったからです。

日米交渉での日本の要求は「侵略はやめない、口を出すな、しかし石油はよこせ」というものでした。 どんな内容の要求でも相手が受け入れないのは相手が悪い、と。 そんな事が通るわけがありません。当時、山本五十六はのちの海軍大臣・嶋田繁太郎にこう書き送っています、「現政府のやり方はすべて前後不順なり。今更米国の圧迫に驚き、憤慨し困難するなどは、小学生が刹那主義にてウカウカと行動するにも似たり」、と。

そして小学生並みの刹那主義でウカウカと行動した当時の日本政府・軍部は世界史上最強の軍事超大国アメリカに戦争を仕掛け、明治の先達が営々と築きあげた日本をつぶしてしまいました。

ハルノートを受け入れていたら日本はアメリカの奴隷になっていたと言う人がいますが、とんでもない勘違いですね。こちらから仕掛けた戦争に完敗し、連合国の降伏条件をすべて受け入れて降伏したあとですらアメリカの奴隷にならなかったじゃないですか。

連合国としては天皇も戦犯として死刑にし、日本を米、英、中、ソで分割支配する事は可能だった。ドイツは四分割占領され、完全に再独立するまでにはソ連の為に45年もかかっています。しかし日本の場合はたった6年のアメリカによる寛容な占領ののち、植民地化されるどころか再独立し民主国として世界トップクラスの先進大国に成長しました。アメリカの奴隷、属国から程遠いですね。

ハルノートを受け入れ、中国、仏印にいた百万の大軍隊を日本に戻し、海軍は引き続き世界第三位(あるいは第二位)の精強な大艦隊、そしてアメリカとは最恵国待遇の交易関係を結ぶ。日本経済に深刻な悪影響を与えていた日中戦争が終わって日本の景気は活性化し、更に大国になる、、、そんな日本が外国の植民地になるわけがありません。

更には、昭和16年11月末の時点ではドイツの敗勢はそろそろ明らかでした。その様な世界情勢の中で軍事大国・日本が中立を保っておれば国際社会における発言力、影響力は相当なものになっていたでしょうね。国際連盟に常任理事国として復帰、米英ソなどと対等に付き合っていく、と。しかし経済や国際情勢が理解出来ず、好戦主義、侵略主義で暴走した東條に付き合わされた日本人は地獄を見ました。(引用終わり)


これはまことに正論ではないかと思う。こういうあたりまえの国益の判断ができなかった戦前の軍部や政治指導者の責任が問われるのは当然のことであると思うが、あろうことか高市早苗氏のように現在の日本の(一部?)政治家の中にも、その当時の判断をやむをえないものであったと考えられているのだとすると栗然とせざるをえない。

そういえば、昨日も靖国神社秋の例大祭のために超党派の国会議員で構成された「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の157人もの議員(これは過去最多!)が、集団で参拝していたことが報じられていたが、一体、彼らの歴史認識というのはどういうものなのか、きわめて疑問とせざるをえない。先の春の例大祭で高市早苗氏がついうっかりと本音を漏らした(?)ように、靖国に参拝した他の国会議員も似たような考え方をもっているのだとすると空恐ろしくなる。

もちろんあの戦争で散っていったわれわれの先祖の霊に対して尊崇の念をもって靖国を参拝すること自体は悪いことではない。しかし、靖国神社は多くの兵士を戦争に積極的に駆り立てる役割を果たしたばかりか戦後はA級戦犯を合祀したために、昭和天皇の反発を買い、その結果、天皇家が靖国を参拝するということは一切なくなった。だとすれば、国会議員という地位にある者がそのような天皇の意思を尊重せずに軽々しく靖国を参拝することはかえって不敬な行為にあたるのではないか。

昭和天皇は終戦時自らの戦争責任を深く自覚されマッカーサーにもそれを告げ、自らの処分も含めた一切の進退をマッカーサーにゆだねられたが、マッカーサーはその天皇の勇気に感動されて天皇の責任は一切問わないという占領軍の方針が定まり、天皇制が維持されたという経緯がある。このような経緯の中で昭和天皇が戦前の軍国主義の象徴であった靖国神社を疎ましく思っていたのは想像に難くない。

故山本七平氏の「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)によると、戦前昭和天皇に対してもっとも不敬な行為を働いていたのは当時の軍部や政治家であった。昭和天皇は自らが一貫して立憲君主制という限定された立場であるという自己規定の下に生きていたので、議会や政府の決定に対しては反対できなかったのである。なぜなら天皇という制度は国の機関の一部であり(いわゆる天皇機関説)、天皇には国の政治を決定する権利を与えられていなかったからである。昭和天皇の意向は終始一貫戦争の遂行に批判的ではあったが、近衛総理のときに翼賛会が誕生してからは、事実上、天皇の意思をまったく無視した軍部の一党独裁体制になってしまった。

この経緯について山本七平氏は次のように語っている。

簡単にいえば、彼らは2.26事件でなしえなかったことを別の方法で進めようとしていた。彼らは天皇機関説を非難攻撃しつつ、これを逆用した。というのは天皇は機関説通り、『立憲君主』の道から踏み出そうとしない。そして一木・美濃部説によれば、『天皇と議会とは同質の機関とみなされ、一応、天皇は議会の制限を受ける』『議会は天皇に対し独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない』のであるから、軍部が翼賛会を通じて議会を乗っ取ればよい。

2.26事件について、少し補足すると、戦前の一時期、青年将校たちによって天皇機関説が批判された。その青年将校たちが天皇のご親政(天皇による直接政治)を求めて2,26事件を起こしたわけであるが、その時、皮肉にも天皇は自らの権威をあらわして直接に彼らの鎮圧を求めたのである。山本七平氏によると、天皇が立憲君主制の自己規定を離れて、直接行動を起こしたのはこの時と終戦時のご聖断の2度しかなかった。ちなみに終戦時のご聖断時にはその天皇の意志に逆らって一部の軍が2,26の時と同じようなクーデターを起こそうとしたが未遂に終わっている。

戦後の天皇は象徴天皇制という極めて制限されたお立場にはなったが、そのお立場は戦前の立憲君主制とそんなに変わったわけではない。、変わったのは国の基本となる憲法が変わったのである。戦後の憲法は軍隊の保持と戦争の遂行を禁じる平和憲法となり、主権も国民に存するということが明確にされた。天皇については国民統合の象徴であるという規定がなされたが、これは必ずしも戦前の天皇制とまったく異なるものではない。戦前の天皇制も事実上は象徴天皇制にすぎなかったのである。ただ戦前と戦後の大きな違いは天皇の政治利用が戦後になって少なくなったということである。いずれにしても天皇は国民の象徴であるとされながらも、政治家たちはその天皇の意向というものをほとんど気にもかけなかった。戦後になっても昭和天皇は平和の象徴となられたが、靖国参拝を挙行する政治家たちは、それに嫌悪感をもつ天皇のご意向にはまったく無関心であった。

靖国神社が天皇の意向を無視してA級戦犯を合祀したということだけが問題なのではなく、そもそも靖国神社側が戦争を正当化する皇国史観を捨てていないという歴史認識の問題があり、これは天皇のご意向とは明らかに反するものであり、戦後憲法の考え方とも根本的に相容れないものである。それゆえ天皇は靖国神社に参拝なさることがなくなったのだと思う。

にもかかわらず、「みんなで靖国神社を参拝する国会議員」の157名もの議員たちが、靖国参拝を挙行することは中国や韓国に対する配慮だけではなく天皇に対する配慮も無視した行動であるといわざるをえないのではないか。昭和天皇ご健在の時代では、このような大量の国会議員が靖国参拝を挙行するということは考えられなかった。靖国神社に不快感をもつ昭和天皇が崩御されて以降、政治家の靖国参拝がやり易くなったというのであれば何をか況やである。もちろん裕仁天皇と明仁天皇のお考えは同じではないとしても、明仁天皇も裕仁天皇と同じく戦争を正当化する靖国神社の考え方をそのままお認めになることはできないであろう。靖国参拝の重要性は天皇のご意向とは無関係であるというのであれば、そもそも天皇はいかなる意味において国民統合の象徴なのかという理由を明らかにしなければならないのではないか。


靖国問題の本質は単に政教分離の原則に反するとか、それによる周辺諸国との政治的摩擦が国益を損ねるという問題にあるだけではなく、より本質的には戦後憲法の精神とそれに規定された象徴天皇制との調和が損なわれているという根深い問題がある。天皇と同じく公的に選ばれた政治家も憲法に規定された存在でなければならないとすれば、彼らの靖国参拝はその使命とすべき公的役職の範囲を逸脱しているのではないかという惧れを抱くのは政治家としては当然の感覚であるはずである。にもかかわらず、それらの批判や惧れをものともせず参拝を優先すべしという強い信念があるのだとすれば、それはいかなる信念なのか疑問とせざるをえない。それらの信念は単純に敬虔なる宗教的真情からでたものであるとも安易には考えられない。敢えて言えば、彼らの信念は靖国参拝によって自らが日本教に殉ずる「純粋人間」であるということを証明したいがためのポーズではないかと思われる。少なくとも日本の政治家は日本教徒であらねばならないし、その純度が直接に国民の評価にもつながってくるからである。尚、「日本人=日本教徒論」については別の章で考察しておりますので、興味のある方は参照してください。


補足;靖国でA級戦犯が合祀されたのは1978年であるが、その合祀は昭和天皇にも遺族の会にも相談せず靖国の松平宮司によって独断できめられた。なんと、この宮司は元海軍少佐であり終戦時に天皇のご聖断に反対しクーデターを起こそうとした平泉東大教授直系の弟子である。この宮司によると、天皇制は守らなければならないが個々の天皇には良い天皇もいればできの悪い天皇もいるので、彼らに従う必要はないという考えだったそうである。つまりこの宮司にとって昭和天皇はできの悪い天皇であるというわけだが、それはなぜかというと昭和天皇が東京裁判史観を受け入れたためであるというのである。秦郁彦氏はBSフジで次のように説明している。

「松平さんもそうだし、他にもそういう人がいるんですけれども、有名だった航空士官の平泉澄さんという東大の教授がいましたね。この平泉さんの直系の弟子です。終戦の反乱も平泉さんの弟子の陸軍将校達が企てたわけなんですけれど、平泉さんの哲学はどうかといいますと、大事なのは天皇制である。個々の天皇はまた別だと。ダメな天皇もいるという考えです。ですから、松平さんにしてみると、昭和天皇は気に入らないわけですね。なぜ気に入らないかというと、東京裁判史観にどっぷり浸かっているという見方をしているわけです。ですから、天皇が内々で、A級合祀という声が牛にちらちら聞こえていた時に反対だという内意は伝わっていたんです。だけれど、敢えてやってのけたと。だから、松平さんは亡くなる前も、自分はあれを後悔していないと。私は天皇が反対であることを百も承知でやったんだと。ちゃんと言っているんですね。だから、確信犯なんですよ。」

「みんなで靖国神社を参拝する国会議員」の人たちはこのような松平宮司の考え方をご存知なのであろうか?ご存知であるとすれば昭和天皇のご意思に明白にそむいた現在の靖国の在り方に対してどう考えているのか、ぜひ聞きたいものである。


補足2
今をときめく(?)というと失礼かもしれないが、このところ硬軟とりまぜた話題でマスコミをにぎわしている、明治天皇の玄孫にして気鋭の評論家(?)竹田恒泰氏が自らアップされている靖国問題に関するYOUTUBE画像を紹介しておきましょう。これについてはあれこれと感想を書きたくもないのですが(見れば分かることですから)、少しだけ言っておきましょう。要するに竹田氏の説によると、先の戦争は自衛戦争だったということになり、また韓国併合は韓国人にむしろ感謝されるべきであるなどと語っているのであります。これは一人の狂人の説であるというなら、別にこんなところで紹介する価値もなかろうと思いますが、これは先にあげた高市早苗氏の言葉にも親和性があり、あるいはもしかすると安倍氏の「侵略戦争の定義・・・云々」の話にも関係するかもしれませんので、ここに紹介する者です。これをみると、つい先日新聞でも報道された竹田氏のテレビ番組(「たかじんのそこまで言って委員会」)中での問題発言が、彼としてはむしろ控えめな表現にすぎなかったということが分かるでしょう。しかし畏れ多くも元皇室という方がこのような発言を平気でなさるとはまさに世も末ですね。マッカーサーに対して戦争の全責任を負おうとした昭和天皇の尊い御心をこれほど無残に否定なさるとは・・・もはや言うべき言葉もありません。ついでながら、この方の本がかつて山本七平賞を受賞しているのだそうです。まあ、選考委員の中にも同類(というより親分というべきか?)のような方がいますので、納得することではありますが。





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昭和天皇の御心とA級戦犯合祀問題

故山本七平氏は49歳で発表した「日本人とユダヤ人」以後、わずか20年ほどの間に200冊を超える著作を残している。その膨大な著作の中でも重要なものの一つに前にも紹介した「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)がある。これは山本七平氏が亡くなる2年前の作品であり、事実上の遺作といってもよいのではないかと思う。

この書の中で故山本氏が展開しているのは昭和天皇の戦争責任問題なのであるが、それを肯定するか否定するかという以前に、昭和天皇の「自己規定」という観点からこの問題をみたらどうなるのかというユニークな問題を提起した作品である。われわれはややもすると天皇には自由意志というものがないのではないかと思いがちであるが、これは誤解であって、実際は天皇というのは事実上憲法に規定された存在なので、憲法に逸脱した行為をすることができないのである。つまり天皇に自由意志というものはあってもそれを行使することは憲法上制約されているのである。明治以来の天皇制というのは天皇の独裁権力を認めているわけではなく、あくまでも憲法に規定された制約的存在としてその権力が認められているにすぎない。すなわち、これが立憲君主制というものの天皇のお立場である。

したがって天皇というのはそのようなお立場であることを幼少の時から教育され、自らが憲法に規定された存在であるという徹底した自己規定を自らに課して生きておられる。だから天皇には実質的な権力というものはない。これは戦前も戦後も同じことである。ただし戦前の天皇には名目上「統帥権」というものが与えられていたのだが、これも実質的には機能したことはなく、事実上は軍部が統帥権をもつようになっていた。

このようにみると天皇に戦争責任があったのかどうかという問題は生易しい問題ではないことが分かる。明治の日清戦争以来、天皇がいくつもの戦争に関与されたことは間違いのない事実であるが、それらの戦争においてどの程度天皇に責任があったのかとなるときわめて難しい問題になる。戦争を始めるにあたっていわゆる御前会議というものが招集され、最終的には天皇によって裁可が下される。しかし、天皇は戦争をせよという命令を下しているわけではなく、ただ招集された重臣たちの決定をよしとみなし裁可を下すだけである。事実上、天皇はそれらの決定を断ることは非常に難しい立場に置かれていると考えた方がよいだろう。

特に昭和天皇の場合は若くして即位したために、周囲の年寄り連中のお歴々に逆らうことは余程の経験と知識、判断力に自信がなければできなかったであろう。しかしながら、その昭和天皇が珍しく自らのお立場を逸脱して天皇としての権力を振りかざしたことが、少なくとも2度あったとされる。その一つは2,26事件のときであり、もう一つは世に言う終戦時のご聖断である。

2,26事件というのは天皇に心酔した青年将校たちが天皇に実質的な統帥権を与え、天皇のご親政(天皇による直接統治)を実現しようと図ったクーデターであったが、非常に皮肉なことに、この時天皇は残虐なテロ行為に怒り、自らの命令で近衛軍を動かし、彼らを鎮圧させたのであった。彼らにしてみればまさに自ら望んでいた天皇の統帥権の遂行によって彼ら自身の望みが断たれたのである。

もう一つの終戦時のご聖断というのは、これはあまり知られてはいないが、ポツダム宣言を受諾するときに御前会議で紛糾したために、天皇自身の決断でポツダム宣言を受諾させたという話である。このときのことを昭和天皇自身が次のように回想しておられる。

「だが戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしもないので、鈴木(貫太郎 当時の首相)が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。……この場合に私が裁決しなければ、事の結末はつかない。それで私はこの上、戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった。」(「裕仁天皇の昭和史」P23)

昭和天皇はこのあと有名な玉音放送を録音するのであるが、一億玉砕戦を信じていた陸軍の一部にこの情報が伝わり、玉音放送を阻止するべく、あくまでも戦争継続のためにクーデターを挙行すべしとした勢力があったが、この話については後でまた触れることにする。ご存じのように、この話は映画「終戦のエンペラー」でも描かれていたが、映画では最後にマッカーサーとの感動的な会談シーンで終わっている。これは決して作られた美談ではなく事実であった。マッカーサー自身が次のように回想しているのである。

「私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めているのではないかという不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現にこれらの国が提出した最初のリストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私はそのような不公正な行動がいかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分かっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。
ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政を布かねばならなくなり、ゲリラ戦が始まることは、まず間違いないと私はみていた。結局、天皇の名はリストからはずされたのだが、こういったいきさつを天皇は少しも知っていなかったのである。
しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
『私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためおたずねしました』私は大きな感動に揺すぶられた。死をもともなうほどの責任、それを私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(「裕仁天皇の昭和史」P114-115)


この回想録が真実であったとすれば昭和天皇は誰にいわれなくとも自分自身で戦争責任をお認めになっていたということになる。故山本七平氏のように戦争の悲惨さを体験した世代の人々にとっては、天皇の戦争責任というのは誰しも実感として否定できない(これは山本氏自身もそうだということを認めている)というが、しかし、昭和天皇は自らその責任を自覚しマッカーサーに対して全責任が自分にあることを認めたその勇気に対しては何人も文句はいえまい。その天皇の勇気がある意味で日本を救ったのではないかと思う。

もしあの御前会議の中で天皇自身がご聖断を下されなければ、日本はその後も果てしのない泥沼の戦争に突入していた可能性もあったのである。原爆を何発落とされようと、地上戦になれば空爆だけでは勝敗の決着はつかない。そのために一億玉砕で戦う覚悟を決めた兵士も事実数多くいた。

このような終戦時の経緯をみると、昭和天皇にとって靖国神社でA級戦犯が合祀されているという問題がいかなる問題だったのかということが想像できるのではないかと思う。いわゆるA級戦犯の合祀は終戦から33年もの時を経た1978年に突然に表面化した問題であった。これを行ったのは当時の靖国神社宮司松平永芳という人物である。なんと彼はこれを誰にも相談せずに独断で実行したというのである。もちろんこれは宗教的儀式なので、その挙行は宮司としての立場と責任において可能なことではあったが、いやしくも天皇陛下に一言のことわりもいれずにこれを挙行したことで、後々、昭和天皇がこれに対して不快感を表明するという異例の事態に発展する。

当時の宮内庁長官、冨田朝彦氏のメモによれば、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語ったとされている。戦後、昭和天皇がこれほどの言葉を残されているということは他にないことである。したがって、これには昭和天皇もよほど憤慨されたのだろうとみてまちがいない。では何が昭和天皇をそこまで憤慨させたのであろうか?

そのためには昭和天皇にとってA級戦犯とはいかなる存在だったのか、ということを知る必要がある。昭和天皇はマッカーサーに告げられたごとく「私は戦争の全責任は負う者である」ということをお認めになっていた。しかしながら、マッカーサーはその天皇を許し、軍部の指導者たちを戦犯として裁いた。これを普通に考えると、昭和天皇にとってA級戦犯たちは自分の身代りに死刑になった恩人だと思われても当然である。したがって、昭和天皇が彼らを心底憎んでいたとは思えない。そのような憎しみの念ではないとすれば、では何故にA級戦犯合祀に憤慨されたのであろうか?

以下は私の想像である。

昭和天皇がA級戦犯の合祀に憤慨されたのは、昭和天皇自らのご聖断をきっかけに戦後の平和が築かれたのだという自負心があったからではないかと思う。つまり戦後の平和は昭和天皇が誰よりも真っ先に自分の罪を認めたことから由来しているのだということを深くお知りになっていたのだと思う。

一方、昭和天皇にとってA級戦犯たちは憎むべき対象ではなく、むしろ一心同体ともいうべき存在だったはずである。なぜかというと、戦争責任は彼らと同じく御自身に責任があることを認めておられたからである。戦争遂行にあたって過去何度も御前会議が開かれて、天皇はたとえ心中で反対であったとしても、その決定をよしとして裁可したということは、その責任を免れるものではないことを天皇御自身がもっともよく知っておられたにちがいない。したがってA級戦犯に対しては憎しみよりもむしろ彼らに対して自分の身代わりとなってよくぞ死んで呉れたという感謝の念の方が強かったのではないかと思う。

そして戦後の平和はこの二つの事実によって築かれたのだという誰にも分からない昭和天皇の思いがあるのではないか。だとするならば、昭和天皇にとってA級戦犯を合祀するということは決してあってはならないということに気づくはずだ。なぜかというと、A級戦犯を合祀するということは、彼らが天皇の身代わりに引き受けた責任を帳消しにしようとする企てに他ならないからである。

そうすると昭和天皇にとっては、逆に心穏やかでなくなるのはいうまでもない。つまりA級戦犯の責任を帳消しにするということをやれば、同じく天皇の責任も帳消しにするということになるのであり、そうするとマッカーサーに告げた自らの話も嘘八百だったということになってしまうのである。要するにあのマッカーサー回顧録は天皇の一世一代の演技だったということになってしまうのである。

そんな卑怯なことは昭和天皇にとって受け入れられないことである。マッカーサーの前で自分が引き受けようとした責任は真実のものであり、そうであればこそ戦犯たちは自分の身代わりとなって裁かれたのである。そのように解釈しなければ天皇の御心もおさまらないのではないか。A級戦犯合祀に対して「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と憤慨して告げられたのは、そのような誰にも計り知れない天皇の深い御心があったのだと推察される。

これに対して独断でA級戦犯合祀を挙行した松平宮司の動機はどうだったかということを考えてみよう。

前にも述べたように彼は天皇の玉音放送を阻止するべくクーデターを起そうとしたグループに影響を与えていた東大教授平泉氏の弟子ともいえる人物であった。彼は戦時中は靖国神社とは何の関係もない海軍の将校であり、そのような軍人としての経歴のある人物が戦後靖国神社の宮司になることができたということ自体考えれば奇妙な話である。殺傷の罪を行った兵士が坊主頭になって出家するという事例は仏教ではよくある話であるが、軍人が神道の宮司になることがそんなに容易であったとはにわかに信じられない。

ところで松平宮司がA級戦犯の合祀を決めたのは彼らを昭和殉難者として祀るためであった。この昭和殉難者という言葉は実はA級戦犯を合祀するための巧妙な造語である。というのはそもそも靖国神社は戦争で散っていった犠牲者を神として祀るために作られた神社であるから、本来、戦争で亡くなったわけではないA級戦犯たちを靖国に祀るためには相当の無理があったのである。しかし、松平宮司は玉音放送を阻止させようとした平泉氏の教えに近かったので、終戦時の天皇のご聖断をこころよく思っていなかったといわれる。伝えられるところでは彼は昭和20年8月15日の玉音放送でもって終戦が訪れたという考え方を認めていなかったそうである。

彼らにとって本当の終戦日というのは昭和20年8月15日のことではなく、それから6年後の1951年9月のサンフランシスコ講和条約をもって初めて終戦となったと解釈されているので、その理屈によるとそれ以前に戦犯として裁かれて処刑された戦犯も皆戦争の犠牲者であったと考えられ、彼らを「昭和殉難者」として祀ることは靖国神社の本来の役割に沿うものであると解釈されたのである。

つまり松平宮司にとってA級戦犯たちは戦争の犠牲者であり戦争犯罪の責任者ではないとされたのである。この考え方が成り立つためには、先の戦争そのものが戦勝国によって裁かれるべき戦争ではなかったという、彼らの一貫した考え方がある。これは現在の靖国神社の遊就館という施設の展示によっても分かるとおり、日本が過去に行った戦争は侵略戦争ではなく、やむにやまざる自衛戦争であったというのが未だに靖国神社の公式見解となっているのをみても分かる。

このようなA級戦犯合祀の経緯とその思想背景を考えると、自らの戦争責任を認め戦後の平和秩序を築こうとされた昭和天皇の思いとは相容れなかったことが分かる。昭和天皇にとってA級戦犯の裁きは周辺国に多大な迷惑をかけた日本が当然受け入れなければならないこととして、また戦後の平和を生みだすための出発点としてもどうしても必要なことであったのだと思う。したがってその責任を帳消しにしようとする松平宮司の企みはそのような昭和天皇の御心に反するものであり、昭和天皇にとってそれは戦後の平和の基礎を破壊しようとするものとして映ったのではないであろうか。

補足
上記の私の想像はやや単純にすぎるかもしれないと思い直すところもあるので、若干の補足と修正意見を書いておきたい。昭和天皇がA級戦犯を憎んでいたということはないかもしれないが、彼らに対して戦前戦中から不信感をもっていたということは事実であったと思われる。ある意味で昭和天皇は彼らに騙されたという強い被害意識はあったかもしれない。山本七平氏によると、昭和天皇に対してもっとも不敬だったのは実は天皇の重臣たちであったとして次のように指摘している。

「簡単にいえば、彼らは2.26事件でなしえなかったことを別の方法で進めようとしていた。彼らは天皇機関説を非難攻撃しつつ、これを逆用した。というのは天皇は機関説通り、『立憲君主』の道から踏み出そうとしない。そして一木・美濃部説によれば、『天皇と議会とは同質の機関とみなされ、一応、天皇は議会の制限を受ける』『議会は天皇に対し独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない』のであるから、軍部が翼賛会を通じて議会を乗っ取ればよい。(中略)こうなってしまうと、天皇に残された唯一の抵抗手段は上奏されてもなかなか裁可しない一種の「スト」だけになってしまうが、それも限度がある。もし「意に満たぬもの」は裁可を拒否するとなれば、これは立憲君主ではなくなってしまう。」(「裕仁天皇の昭和史」p251-252)

特に昭和天皇が強い不信感をもったのは近衛内閣に対してであった。近衛に対しては彼が日独伊三国同盟を結んだ時点で昭和天皇の不興を買ったといわれる。なぜなら昭和天皇はそれまで英米の文化に親しんでこられたので、それによって英米を敵に回すことになることに非常に危惧されたと伝えられるのである。

山本七平は次のように書いている。

天皇の親英親仏、反独反伊はたとえば「独伊が如き国家とその様な緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか」(昭和15年9月16日『天皇秘録』といった言葉にも表れている。「独伊が如き国家」という言葉は少々「差別的」だが、これがマジノ線(フランス北東国境の要塞線)が突破され、イギリスがダンケルクの総退却となり、フランスが降伏し、イタリア軍がリビアからエジプトへの侵攻を開始したとき、独伊枢軸側がいわば得意の絶頂にあったときの言葉であることを思うとき、そしてその結果、マスコミはもちろん、日本国中が独伊ブームといった現象を呈していたときの発言であることを考えると、天皇の親英米仏感は、決して一朝一夕のものではないことを思わせる(「裕仁天皇の昭和史」P53)※(筆者注)昭和天皇は幼少から英米文化を中心に親しんで育てられてきたので、このような状況の中でも親英米であったと山本七平は解説している。

また近衛が大政翼賛会をつくろうとしたとき天皇は次のように危惧されたという。

天皇は親ファシズム的な近衛文麿の行き方に危惧の念を抱いていたらしい。近衛が大政翼賛会をつくり、日本憲政史上はじめての「無政党時代」に進もうとしたとき、天皇は少々皮肉な言葉でこれを批判している。すなわち結成式の前日に近衛が発足について天皇に報告すると「このような組織をつくってうまくいくのかね。これは、まるでむかしの幕府が出来るようなものではないか」と言われ、近衛も返事ができず絶句した。(「裕仁天皇の昭和史」P39)

近衛総理は本格的な日中戦争を始めた総理であり、また残虐な南京事件を起こして世界中に悪評を広め、そして日独伊三国同盟を締結して米英を敵に回した張本人であった。その近衛内閣のすべての失政の残務処理のために後の内閣は泥沼の戦争に嵌りこんでいったと見るのが正解ではないだろうか。したがって昭和天皇が近衛内閣に対して大変危惧されていたのは正しい予見があったと思われる。しかし近衛総理は国民の間では明治以降の歴代総理の中でもっとも支持率が高く、天皇家に近いその血筋と見栄えのよさで大衆的人気を誇った総理であり、これは現在の安倍総理に対する国民の支持の仕方になんとなくオーバーラップする観もあるのがちょっと怖い気もする。ちなみに最近、東京都知事選に出馬宣言をした細川元総理は近衛文麿の孫にあたるという。


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日本は孤立化しつつあるのか?

安倍総理の靖国参拝が世界中に波紋を広げているが、これは当然予想されていたことである。今回は中国、韓国だけでなく、米国からも「失望した(disappointed)」という過去に使われたことのない強い調子の批判を伝えられたことでショックを感じた人もいるかもしれないが、これも当然予想されてしかるべきであった。なぜなら(以前にも紹介したが)昨年、安倍総理が誕生した時から、「村山談話と河野談話の見直し」とか「戦後レジームの脱却…」などというかつてどの自民党総理も言わなかった歴史修正主義的な発言に対して、アメリカの政界、官界、学界、マスコミから相当厳しい批判があったのであるから、それが分かっていれば、当然そのような厳しい反応は予想されたはずなのである。これを意外だと思う人は要するに海外の情報にうとい不勉強な人たちだろう。

ちなみに元外交官で現在作家として活躍している佐藤優氏が週刊現代に次のような論文を発表されている。

安倍晋三首相が去年12月26日に行った靖国神社参拝については、米国政府も「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」(同日の駐日米国大使館の声明とサキ国務省報道官のコメント)と批判した。外交官の世界でdisappointed(失望した)という言葉が同盟国間で使われることはまずない。外務省条約局長、欧亜局長を歴任した東郷和彦氏も、同29日の朝日新聞朝刊で(同盟国に対して「失望した」と言うことの恐ろしさを知ってほしい。外交の世界でこんなにはっきり言うのは異例です)と述べている。

問題は、このような状況に安倍政権が危機感を抱いていないことだ。自衛隊出身の佐藤正久参議院議員が(disappointedがどれほど強い表現なのか、佐藤にはregretよりは軽い表現に思えるし、文脈そして日本語感覚的には「失望(望みを失う)」ではなく、大切な同盟国(valid ally)の日本のリーダーが取った行動は「残念」に思う、と言った感覚のように思える)と述べているが、英語力、外交感覚の双方に問題があるからこのようなピントの外れたコメントになる。Disappointedとregretoとどちらが重いかという議論に意味はない。同盟関係にある国家に対して用いないdisappointedという言葉を米国政府が用い、日本政府に対して強いシグナルを出したことを正確に受け止めることが必要だ。日本が国際的に孤立し始めていることを等身大で見れず、希望的観測に縋る政府・与党の心理状態が日本国家と日本政府にとって大きなリスクになっている。

米国政府は、日本に対する警告のシグナルを段階的に強めている。特に注目されるのが、1月4日に行われた小野寺五典防衛相とチャック・ヘーゲル国務長官との電話会談だ。(安倍晋三首相の靖国神社参拝が日本外交にも波紋を広げている。小野寺五典防衛相は4日夜、米国のヘーゲル国防長官と電話協議。年末に急きょ中止になっていた協議が年明けに実現したかたちだが、米国防省はヘーゲル長官が近隣諸国との関係改善を求めたことを明らかにした。

防衛相によると、電話協議で小野寺氏は「今後とも不戦を誓う意味で参拝した」などと首相参拝の「本意」を説明した。一方、米国防衛相は「ヘーゲル長官は日本が近隣諸国との関係改善のための一歩を踏み出し、地域の平和と安定のため協力を促進する重要性を強調した」と発表した。電話協議の主な議題は米軍普天間飛行場の移設問題だったが、安倍首相の靖国神社参拝によって日米間の安全保障面での協力が停滞することや、日中の緊張がさらに高まることを懸念する立場から、国防長官としてあえて言及したとみられる)

ヘーゲル国防長官が、日本の東アジア外交について「指南」したこと自体が、「もっと中国と協力しろ」という米国の露骨なシグナルだ。通常、この種の話は表に出さないにもかかわらず、米国側が積極的に発表し、国際世論を通じて日本に影響を与えようとしている。客観的に見て、対日包囲網が構築されつつある
。(週刊現代1月25日-2月1日号

「対日包囲網」という言葉は少々おおげさではないかと見る向きもあるだろうが、現在水面下で進行中の情勢をみると確かにそのようにいえなくもない。

特に今回、多くの人が驚いていたのは、米国だけでなく、EU、ユダヤ団体、ロシア、オーストラリア、台湾、国連…等々、まさに世界中から総スカンを食っていることであるが、これも安倍総理の登場以来の海外のマスコミ情勢をみれば予想できることであった。なぜならドイツをはじめEUのマスコミは右翼的な安倍総理の言動に対しては以前からきわめて批判的だったのである。それを知らなかったとすれば、これもまた不勉強であろう。ただ今回やや意外だったのはユダヤ団体やロシア、台湾、オーストラリアまで含めて批判があったことである。特に台湾の馬総統の批判は以下のようにきわめて辛辣なものである。

台湾の馬英九総統は、安倍総理大臣が先月、靖国神社に参拝したことについて、周辺国の歴史の傷を顧みない行動だとして、「理解しがたく、失望した」とこれまでより表現を強めて批判しました。これは台湾の馬英九総統が、インターネットの交流サイト、フェイスブックのみずからのページに書き込んだものです。 この中で、馬総統は、安倍総理大臣が先月26日に靖国神社に参拝したことについて、「東アジア地域の安全に対する不安定要素を生じさせた」と指摘したうえで、「中華民族の一人として、日本政府が周辺国の歴史の傷を顧みず、こうした行動をとったことは理解しがたく失望した」と批判しています。NHKweb参照サイト http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140112/k10014442511000.html

これまで台湾はもっとも親日的な国(国交はないが)であると考えられてきただけに、これは少々ショッキングではないであろうか?台湾はもともと日本の植民地であった。その意味では韓国と同じ屈辱を味わった被害国である(ただし、台湾の植民地化と韓国の植民地化の過程は全然異なっているので同一視することはできない)。しかしながら、台湾は国共内戦で敗れた蒋介石によって新たに作られた国であり、蒋介石はかつての敵国日本に対して「以徳報怨」という言葉(すなわち徳を以て怨みに報いる)を残して親日派に転向した人物である。それ以来、台湾は親日国家として日本の援助を受けつつ発展してきた。

しかし台湾の人々が韓国や中国の人々のように日本に対して過去の怨みをまったく捨てたのかというと、これはあまりに楽観的にすぎるであろう。彼らは日本に対する怨みを捨てたのではなく、戦後すぐに始まった共産党との戦いのために、(背に腹は変えられず)一時的にそのような屈折した感情をどこかに置いていただけなのだと考えるべきではないかと思う。中国や韓国もそうである。いずれの国も戦後すぐに内戦が始まり、日本に対する怨みどころではなかったので、戦後しばらくの間は日韓日中間の関係には実務的交渉の他には特に感情的なもつれは表面化しなかった。

このところ靖国問題や歴史認識問題が大きな問題になってきたのは、中韓両国共、独立国としての十分な自信を身につけてきたからであり、その中で過去の歴史の見直し作業が行われてきたためである。だから台湾にしても彼らが自らのナショナリズムを自覚するようになれば歴史認識問題は彼らにとって大きな問題となるだろう。なぜなら、いかなる国家も民族の誇りを忘れることはありえないからである。

その意味で馬総統が「中華民族の一人として、日本政府が周辺国の歴史の傷を顧みず、こうした行動をとったことは理解しがたく失望した」としているのは重要な発言としてみなければならないであろう。彼らの中には依然として反日感情の種が残っているということをそれは示すものだからである。

ところで最近の安倍総理の外交をみていると非常に気にかかることがある。安倍総理の外交がもっぱら経済一辺倒の外交にみえることである。平和外交といえば聞こえはよいが、要するに日本の総理大臣が自国の国益ばかりを追求しようとして外遊しているのではないかと海外からみると思われるのではないか。

たとえば昨年の安倍総理の外交はというと、もっぱらオリンピック招致の票につながる諸国を次々と歴訪していたのが記憶に新しい。それらの国々に経済援助をダシにして支持をとりつけようという戦略が露骨にみられた。しかも9月7日アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたプレゼンの日に、安倍総理はG20の会議中(ロシア サンクトペテルブルグ)だったにもかかわらず、そこを途中で抜け出して行ったのであるから、G20諸国の首脳の印象を悪くしたとしてもおかしくない。

その後の安倍総理の外遊をみていても、トップ・セールスマンよろしくただただ日本の商品を売り歩いているという印象しかない。もちろん日本の商品が海外で売れることは、われわれの生活に直結しているわけだから、それを精力的に行っている安倍氏を賞賛する人々もいるだろう。しかし、世界のライバル国からみれば、このような自国の国益だけを追求しようとする外交は当然腹立たしく思われるはずだ。そのライバル国というのは中国や韓国だけではないのである。アメリカももちろんそうであるし、ドイツやイギリス、フランスなどヨーロッパの先進国もそうである。彼らが安倍総理の国益追求一辺倒の外交を好ましく思っていないことはまちがいないであろう。

今の若い人は知らないだろうが、日本はかつて「エコノミックアニマル」という悪名を世界中に轟かし批判されたことがある。これは戦後の日本の驚異的な経済成長に対して強い警戒心と道徳的非難を込めた言葉であった。要するに「日本という国は自国の経済発展しか関心のない動物のようなものである」というのが、その言葉に込められたニュアンスであるが、最近の安倍総理の外交をみていると、再びそのように揶揄されても仕方がないのではないかと思われる。

その結果、日本は孤立化の道を歩むことになりはしないかと懸念せざるをえない。皮肉なことに、当初、安倍総理の外交戦略は中国包囲網を築こうということだとされていたが、先の佐藤優氏の論文にも指摘された通り、このところ海外の靖国参拝批判等によって起こっているのは日本に対する逆包囲網が築かれつつあるのではないかという現実である。これは果たして杞憂にすぎないのであろうか?

そういえば、今からもう40年以上も前にイザヤ・ベンダさん(又は山本七平)が著した「日本人とユダヤ人」の中に、次のような予言的ともいえる不気味な一章がある。その章タイトルは「しのびよる日本人への迫害」というものであった。ベンダサンは次のように書いている。


「われわれは、迫害されたが故に人類に対して何らかの発言権があるとは思ってはならない」。私は絶えず同胞にこのように言う。だがこの言葉はちょうど日本人に「唯一の原爆被爆国なるが故に、世界に向かって何らかの発言権があると思ってはならない」というのと同じであって、中々うけ入れられず、時には強い反発を受ける。もちろんユダヤ人に対してこういう権利があるのはユダヤ人だけであり、また同様に日本人に対して前記の言葉を口にしうる権利があるのは日本人だけであるから、私はその言葉は口にしようとは思わない
……「日本人とユダヤ人」(山本書店P142)

ベンダサンによると、日本人とユダヤ人の共通点は金儲けがうまいと思われていることである。ただし、日本人が裕福になったのはここ数十年のことであるが、ユダヤ人は過去二千年以上前からそのように思われてきた。彼らは特にヨーロッパ各地で金融業などにたずさわり経済的に成功したがゆえに、現地の人々から多くのねたみを買い差別の対象となっていったのである。ユダヤ人というとまず「守銭奴」という言葉が思い浮かぶ。ベンダサンによれば、これはしかし誤解であって、ユダヤ人は決して金を儲けることを唯一の価値観として生きているわけではないのだが、傍から見ていると、そのようにみえるのだという。同じようなことは中国人についてもいえる。

かつて1960年代のスカルノ、スハルト政権時代のインドネシアで成功した中国人の華僑30万人~50万人もの人々が現地のインドネシア人に虐殺されたという事件が起こっている。これもまさにジェノサイドというにふさわしい大虐殺事件であるが、日本ではほとんど知られていない。この事件とユダヤ人の虐殺は非常に類似しているとベンダサンはいう。両者とも金儲けがうまく、それがゆえに現地の人々から妬まれ、あらぬ誤解を受けるのである。現在の中国人が世界中で繰り広げている経済活動には、そのような意味でリスクを内包しているといえるのかもしれない※。

※この事件については「9月30日事件」というタイトルで以下のwikipedeaに紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8830%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6

しかしながら、安倍総理の外交をみていると、その中国の向こうを張って、同じようなことをやろうとしているのではないかといわざるをえない。その意味では韓国もそうであるが、このアジアの三国が今世界中の市場の獲得競争で凌ぎをけずっているようにみえる。

最近の日本の一部週刊誌(特に文春とか新潮)や夕刊フジなどの記事をみると、ほぼ毎回といってもよいぐらい反中、嫌韓の記事がでている。特に夕刊フジの場合はほ連日(!)韓国に対する悪口を手を変え品を変え、なんと「一面のトップ記事」として書きまくっている。その内容をみると慰安婦問題とか靖国問題という政治問題だけでもない。最近の記事をみると、むしろ韓国の株が落ちているとか、サムソンが経営危機に陥っているとか、そういった韓国経済の負の側面をあげつらう記事ばかりが目立つ。仮にそのような記事が本当であったとしても、なぜ日本人は隣国の経済に対してそんなに過敏になっているのであろうか?

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2010年に中国のGDPが日本のGDPを追い越し、最近の調査ではますます水をあけられ、現在では中国と日本のGDPの差は倍ほど広がっている。また、ここ数年の韓国経済の発展にも目を見張るものがあり、いまやスマホやテレビなどの家電市場では世界NO1にのし上がっており、あるイギリス経済紙の予想では、40年後ぐらいには韓国人一人当たりのGNPが日本人のそれの倍になるだろうとまで予想されている。このような隣国の目覚ましい経済の発展に日本人は焦りを感じているのではないか?もしかすると、それこそが反中嫌韓の正体ではないかという気もしてくる。

しかし、よりにもよって人口5000万の極東の小国・韓国の経済がなぜこれほど急速に発展したのであろうか?私の見方ではその原動力になっているのは、まさに「反日」という情念ではないかと思う。オリンピックなどのスポーツ分野でも最近の韓国勢の活躍は目覚ましい。人口は日本の2分の1にすぎないにもかかわらず、このところ韓国勢のメダル数は日本を上回っている(ついでながら中国とはもはや追いつくことが不可能なぐらい引き離されている)。

スポーツの分野でもそうであるように、韓国勢が経済の分野でめざましく発展しているのは日本に追いつけ追い越せという「至上命題」があるからではないかと思う。なぜそれが「至上命題」になるのかというと、韓国人が日本に対する恨みを晴らす道はそれしかないと考えているからではないだろうか?

彼らは今まで(経済的にも軍事的にも)弱かったために、江華島事件以来日本から一方的な不平等条約を飲まされ、いつのまにか知らぬうちに日本の保護国とされ、そして(多くの韓国人義兵が命がけの抵抗をしたが)日本の圧倒的武力に屈して併合されてしまった。この結果、400年以上続いた李朝の皇室廃止を含め自らの伝統文化はことごとく否定され、ハングルの使用を禁じられ、その代わりに日本語の使用と創氏改名を強制され、あげくには韓国の伝統宗教を捨てて神社参拝を強要され皇国の臣民となることを強いられた。太平洋戦争末期には多くの韓国人が徴兵されて日本のはじめた戦争にも駆り出されている。また多くの韓国人が「徴発」という名の強制労働に駆り出され、女性の場合は慰安婦という職業に就かされ戦場に連れて行かれた。これらの忌まわしい経験は韓国人にとってまさに民族的ジェノサイドといってもよいであろう。もし1945年8月15日の光復の日が訪れなければ、おそらく朝鮮民族や韓民族は永遠にこの地上から消え去っていたという可能性もあった。

だから韓国人の日本に対する恨みは根深いものがあることを日本人はもっと知るべきだと思う。しかし韓国の人々は元来平和を好む民族であり、歴史上外国を侵略した経験を一度もないきわめて稀なる平和民族である※。

※最近、「悪韓論」(新潮新書)で一躍嫌韓論を普及させた室谷克実氏によると、韓国が他国を侵略したことは一度もないという説は嘘だとして、その証拠に米国と一緒に韓国軍はベトナムを侵略したという強引な論法をとっているらしいが、ベトナム戦争が米国の侵略戦争だったというのは、これまでの左翼陣営の理論であり、歴史家が共通に判定しているものではない。それをいうなら朝鮮戦争は金日成の下に団結しようとした朝鮮民族の民族自決権に対する米国の介入によって起こった戦争であり、これもまた米国の侵略戦争だったといえなくもない)。

以下は補足であるが、故山本七平氏の膨大な著作の中でも異色の作品「洪思翊中将の処刑」というタイトルの本の中から以下の一節を紹介しておきたい(この書については、いずれもし機会があれば詳しく紹介したいと思っている)。

私が会った韓国の人は、現状を肯定するにせよ批判するにせよ、常にそれを、李朝時代、日本統治時代、朝鮮戦争時代といった長い歴史の中の「一つの時期」として考え、その現状を「自民族の歴史の一貫」として、過去との対比と将来への展望の中に位置づけてこれを見ていることを感じざるをえなかった。そしてこの歴史的位置づけの中で日本の統治時代は、もちろん大きな比率を占めている。この点の韓国人の感じ方は、決してわれわれと同じではない。彼らはわれわれのような忘却の民ではなく、過去が流れ去ってしまうわけでもない。
(中略)
日本の新聞の「韓国報道」には以上の視点がない。この点西欧よりもむしろアメリカの世論に似た面があるが、調べてみると、少なくとも韓国に関する限りこの傾向は戦後の特徴ではなく、戦前、否、明治以来ほぼ一貫している「日本人の韓国観」だともいえる。その特徴は日韓を区別できず、そのため「韓国の歴史において韓国を見る」ことができず、日本の現状を絶対の尺度として相手を批判し規制しようとするアメリカ的態度である。尺度とはいうまでもなく、戦後は「アメリカ輸入・日本型民主主義」であり、戦前は「プロシャ輸入・日本型君主制」であった。そしてこの輸入先に対しては常に従順なのだが、韓国に対して少なくとも日本の新聞は「自己の尺度」を絶対化し、日本というベッドに適合するように体型を変えよと韓国に要求する態度になっても、相手が相手の歴史という自らの尺度で自己を評価する権利を認めようとしなかった。

従って韓国の人が日本の新聞の論調を背後に、自己の尺度を絶対化してこれを押し付けることを「善意」と信じて疑わなかった。「創氏改名強制」的な過去の日本人と同じ精神構造をみたとして不思議ではない。日本の統治に対して「善意の悪政」という言葉があると聞いた。これが日本人が口にした「自己弁護的自己批判」なのか、韓国人が生み出した最も痛烈な皮肉なのか私は知らない。皮肉ならば創氏改名、神社への参拝強要、ハングルの禁止といった無用の悪政をあくまでも韓国人の善意の発露と信じて疑わなかった日本人への痛烈な皮肉であろう。そして日本の新聞も、同じような韓国民主化への自己の「善意」を本気で信じているのであろう
。(「洪思翊中将の処刑」山本七平ライブラリー文芸春秋 P54-56)


私はこれらの文章をみて驚いた。この文章はまさに現在の日韓問題にそのままあてはまるではないか(!)と思ったからである。ことわっておくが、この文章は山本七平氏が今から35年も前に書いたもの(「諸君」1979年1月~1981年2月号に掲載)であり、当時は現在のような両国間の歴史認識問題は大きな問題として表面化していなかった。それよりも韓国内で朴政権(現在の朴槿惠大統領の父の政権)の軍事独裁政治に対して主に日本の左派系の新聞社が朴政権の独裁性を批判していた時代である。ここで山本七平氏は当時の日本の新聞社の「日本の尺度を絶対化した」独善性を批判しているのであるが、これはそのまま現在の(主に右派の)論調にあてはまるであろう。過去も今も日本人は自己の現在の尺度のみを絶対化し、韓国人のきわめて特異な歴史を背景とした尺度を理解しようという姿勢をもたなかった。

韓国人からすると歴史的に日本人の「善意」という名の「絶対的尺度」によって騙され続けた経緯があり、現在の日本人の韓国観が昔とまったく変わらず、それゆえ彼ら(すなわち日本人)を説得することは無理であると考えていたとしても当然かもしれない。したがって彼らがその歴史的な恨みを晴らす道は、論争でも説得でもなく、彼ら(日本人)に有無もいわせないほどの力を自らもつ以外にない。これが韓国人の過去現在を通じた情念の原動力になっており、日本人を物心両面で凌駕することが最終的には両国の歴史問題を解決する唯一の道であると信じているのではないであろうか?私にはそのように思えてならない。

補足2
昨年12月に日本の外務省がアメリカ人1200人以上に聞き取り調査を行ったが、皮肉なことに、この調査の結果は安倍政権にとって衝撃的なものであった。なんと日米安保条約を維持すべきだと答えたアメリカ人が前年(すなわち安倍政権以前)に比べて22ポイントも落下したというのである。これはおそらく安倍総理就任以来の右翼的発言に対する批判が一般のアメリカ人にも相当浸透している証拠ではないかと想像する。思えば自民党は鳩山総理の普天間移転問題による失政によって米国の信頼を著しく失墜させたと非難していたわけだが、安倍総理になってその信頼はかつてないほど失墜させてしてしまったのである。なんという皮肉だろうか!以下、昨年12月の朝日新聞を引用しておく。


現在の日米安保条約を「維持すべきだ」と答えた割合
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 外務省は19日、今年の7~8月に米国で実施した日本に関する世論調査の結果を発表した。現在の日米安保条約を「維持すべきだ」と答えた人は67%で、昨年と比べて22ポイント減の急落。この質問が設けられた1996年以降で最低だった。調査は同省が60年から実施している。今年は18歳以上の1千人の「一般の部」と、政財界、宗教界、マスコミの関係者ら201人の「有識者の部」を対象に電話で行った。

「現在の日米安保条約を維持すべきだと考えるか」との質問に「維持すべきだ」と答えた人は一般で67%(昨年比22ポイント減)、有識者で77%(同16ポイント減)と昨年に比べ、ともに急落。外務省は減少の理由について「断定できない」と明言を避けた。日本政府が尖閣諸島を国有化した昨年秋以降、日中の対立は深刻化している。米国内には日中の争いに巻き込まれることを懸念する声があり、今回の減少に影響した可能性もある。また、「アジア地域の中で最も重要パートナー」を選ぶ質問では、日本と答えた人は一般で35%(同15ポイント減)、有識者で39%(同1ポイント減)。一方、中国を選んだ人は一般で昨年と同じ39%、有識者で43%(同1ポイント減)で、一般の部でも日本は中国に逆転された。(朝日新聞デジタル2013年12月20日)


補足3
韓国は元来平和国家であり、日本にとってこれほどありがたい国はなかったというきわめて面白い指摘を、山本七平氏が「洪思翊中将の処刑」の中で語っているので紹介しておこう。最近のネット右翼の連中がこんな話を説いている山本七平という人物ががその昔は右翼的と思われていた方であるということを知れば、びっくり仰天するかもしれないが。(まぁ、せいぜいびっくりしてくれたまえ。君たちがいかにアホかということを自覚する機会にでもなればさいわいである。)

こう見てくるとわれわれもまた、韓民族に対してある種の無自覚の「感覚」をもち、それを無意識の前提としており、それが政府の当局者から庶民まで貫いていることに気づく。われわれは韓民族自体を日本を侵略するかもしれぬ脅威と考えたことはない。日本人は韓国人を平和的な隣人と考えている、といった意識さえももち得ないほど。これはわれわれにとって自明のことらしい。そして過去において脅威を感じたとすれば、半島が強大な大帝国の日本侵攻への陸橋となるのではないかといった脅威である。従って韓国の独立が平和の前提であり、この前提は明治までほぼ六百年間、保たれてきた。鎖国が可能だったのは韓国が強大な軍事国家でなかったことが一つの前提であろうが、このことさえわれわれは鎖国の前提とは考えていない。たとえば日本が島国でも朝鮮半島、韓民族という緩衝地帯が存在せず、大陸の大勢力と直接に接していたら、われわれの意識は今と変わっていたかもしれぬ。

「韓民族は永遠の防衛民族だ」という言葉を聞いたが、確かに彼らはソウルを中心に日中にわたる大帝国をつくりあげたことはない。また満州族や蒙古族のように中原に進出して四百余州を制圧した歴史を持たない。さらに秀吉の軍が敗退してもそれを追撃して日本へ侵攻し、関ヶ原という内乱を利用して日本を制圧しようという気はない。おそらくこういった非膨張の歴史が、「韓民族が軍事的脅威ではない」という感覚、いわば無意識の前提をわれわれにもたせたのであろう。考えてみれば、こんなに有難い隣人はいないわけだが、脅威を感じないことがしばしば軽視、蔑視、無視を誘発することも避け得ない。特に事大主義者にはその傾向が強く、脅威に拝跪する者ほど脅威なきものを無視するのは、当然のことなのかもしれぬ。(「洪思翊中将の処刑」山本七平ライブラリー文芸春秋 P56-57)

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渡邉恒雄氏の「わが体験的靖国神社論」

今月発売の文藝春秋9月号に読売新聞主筆渡邉恒雄氏の「安倍首相に伝えたい『わが体験的靖国論』」というタイトルの論文が掲載されている。渡邉氏というとまるで保守派の権化のように信じている人が多いかもしれないが、この論文を読むと彼がまともな言論人の一人であるということがよくわかる。以前、当ブログでも書いたことと重複する面もあるが、ここで渡邉氏の靖国論を要約してみたい。

まず渡邉氏が明らかにしているのは、満州事変から太平洋戦争までの戦争を昭和戦争であると規定し、この戦争がそれ以前に存在していたパリ不戦条約違反の明白な侵略戦争であったという事実である。パリ不戦条約というのは第一次大戦の反省から1928年に63ヶ国の参加を得て成立したのものであり、その第一条には次のように書かれている。

「締結国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各国の人民の名において厳粛に宣言す」と明記されていた。

一読すれば明らかなように、これは戦後の日本国憲法第九条の条文とほとんど同じであるが、実は日本国憲法の戦争放棄の条文はパリ不戦条約の宣言文をそのまま踏襲したものなのである。ちなみにこの条約には当時の日本も加盟していた。

渡邉氏によると、満州事変以後の日本の戦争はこの条約違反であったというのであるが、よく考えると、これは渡邉氏がいうよりもはるかに重大な意味があったといわねばならない。というのは第一次大戦後の戦禍に対する深い反省の中でこの宣言文が生まれたということであり、そして当時の世界では列強といわれる国々も 新たな戦争をさけるための努力を重ねていたということである。その世界中の平和志向の努力を打ち砕いたのは、ヒトラーでもムソリーニでもなく日本の軍閥であった。これは1937年に日本軍が南京へ入城したとき、南京安全区の代表をしていたナチ党員ジョン・ラーベがヒトラーを平和主義者だと信じていたことからもあきらかだ。また日本はこの頃から重慶などの都市を空爆するようになった。これは後にヒトラーのロンドン空襲にも影響をあたえている。つまりこれの意味することは、日本こそが第二次世界大戦の導火線となる戦争をはじめた張本人であったということである。そしてその世界大戦の導火線となったのが満州事変に他ならない。

今日、ある種の人々が日本の戦争を自衛戦争であり正義の戦争でもあったという極論を展開しているが、これはパリ不戦条約に照らしてみても成り立たない話であることがわかる。日本はこの不戦条約に加盟していながら、1931年に満州事変を起こし、明白にパリ不戦条約を踏みにじったのである。この国際条約違反の行動によって、真相を解明すべくリットン調査団が派遣され、日本の行動は世界中から批判され、あげくに国際連盟脱退というひとりよがりの行動にでるしかなくなった。

ところが今日でも渡部昇一氏や中西輝政氏(お二人とも山本七平賞の選考委員ですが)ら「大東亜戦争=自衛戦争」論者は、この満州事変さえも侵略ではなかったというのだからお話にならない。たしかに、それを認めてしまえば、満州事変はパリ不戦条約に明白に違反していたという事実を認めることになり、それ以後の戦争もすべて国際条約違反の侵略戦争であったということになるので論理的に認めることができないのであろう。

だから彼らは満州事変をソ連共産党コミンテルンの陰謀であったという論にすりかえようとしているのであろうが、この論がいかに馬鹿げた暴論であるかということは秦郁彦氏の「陰謀史観」(新潮新書)でも徹底して批判されているので、興味のある方はそちらを参照していただきたい。
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ちなみに、この満州事変の違法性について渡邉恒雄氏は次のように書いている。

「靖国神社が、昭和戦争を聖戦だとし、そこで散った、すなわち聖戦に貢献した英霊を祀る神社であるという認識は歴史認識上、妥当なものであるとは思われない。なぜかといえば、あの戦争が、満州進出以後、盧溝橋事件に始まる軍部の無謀な戦争拡大によって大戦争になり、何百万という犠牲者を出した事実は否定できないからだ。一つ一つの節目をみると、軍の実力をもった将校たちが中国侵略を正当化する理屈を作り出しながら、天皇はじめ中央政府の意思にしばしば反して戦争拡大を図ったもので、そのこと自体が多分に国の規律を逸脱した戦争犯罪とみられても仕方ないのではないか。

陸軍は日本人居留民保護の目的で、1927年以後「山東出兵」を敢行、1928年には陸軍のエリート将校たちが作戦をねりはじめていた。結果、関東軍参謀の河本大作大佐が張作霖爆殺事件(28年6月)を起こしたが、満州事変から日中戦争に至る全体の構想は、参謀本部の東条英機、武藤章、関東軍参謀の石原莞爾、板垣征四郎らの佐官級がひそかに計画していた。

石原、板垣らの謀議の結果、31年9月18日、奉天北方の柳条湖で鉄道爆破事件を起こし、これが満州事変の発火点となる。事件を拡大したのは林銑十郎朝鮮軍司令官の満州への独断の越境進軍で、本庄繁関東軍司令官がこれに同調した。

秦郁彦氏は「石原、板垣、本庄、林は陸軍刑法違反で死刑相当」と語っているが、当時彼らは軍法会議に呼ばれるどころか、軍の出世街道を驀進するのみであった。(中央公論新社『検証 戦争責任Ⅱ』より)

こうして政府と国民を「戦果」を使ってだましながら、あの昭和大戦争は1945年まで暴走を続ける。そうした個々の政治責任については、起訴された28人のA級戦犯以外に、裁かれることのなかった人物も少なくない。ただし、極東裁判の結果として、A級戦犯28人うち、病死者などを除く25人が有罪判決を受けた事実は、サンフランシスコ平和条約調印の際、日本政府として承認している。いまや「戦争責任の象徴」となっていて、変更作業は困難である。それより、政府は「国民」の名において、全面的、大局的な歴史認識として、昭和戦争の非を認めたうえで、『加害者』と『被害者』の分別を概念的に確定し、歴史認識に関する道徳的基準を義務教育課程の教科書に記述し、国際政治的にこの問題に終止符を打つべきである。
「文芸春秋9月号」より


しかしながら靖国神社はこのようなまっとうな歴史認識を拒絶しており、それどころかいまだに遊就館などの施設で「大東亜戦争=聖戦」論を展開しているのであり、しかも安倍首相以下の閣僚の中にもそのような歴史観を捨てがたくもつ者がいる。これは思想の自由という問題ではなく、間違った歴史認識をもって国を誤った方向へ指導してゆくことの問題として問われるべきものである。

そもそも戦争責任を引き受けたはずのA級戦犯がなぜ合祀されたのか?これについては、以前にも秦郁彦氏の見解を紹介しながら当ブログでも書いたが、渡邉氏はさらに踏み込んだ次のような指摘をしている。

靖国神社は当初は兵部省、のちに陸、海軍省の共同管理になった。そして1945年の終戦後、12月15日にGHQ(連合国軍総司令部)の国家神道排除という方針により、いわゆる「神道指令」が公布され、一時存在理由が不明確になった後、1946年9月に東京都知事の認証による宗教法人として発足した。この靖国神社は単立宗教で、神社本庁に属せず、宮司以下の神職は神社本庁の神職資格が必要なく、特にA級戦犯合祀を敢行した第六代宮司の松平永芳氏は旧軍人で自衛官出身だったが神職資格をもっていなかった。しかし、この松平宮司のほぼ独断で、A級戦犯を含む大規模合祀が1978年10月17日に行われた。A級戦犯の合祀に関しては、松平宮司の先代の第五代・筑波藤麿宮司は「B,C級戦犯は被害者なのでまつるが、A級は戦争責任者」(2006年7月20日付け日本経済新聞)といって合祀をためらっていたにもかかわらず、松平宮司がほぼ強引にA級戦犯14人を合祀した。A級戦犯の合祀が、靖国問題が政治問題化し国際的に拡大する原因になった。ただA級戦犯の合祀は、なぜか公表されず、1979年4月に報道されるまでは表ざたにならなかった。
昭和天皇・皇后両陛下は靖国神社が宗教法人となって以後、1952年10月16日に初参拝され、1975年11月12日まで7回参拝された。しかし、天皇陛下は松平宮司によるA級戦犯合祀を非常に不快視され、A級戦犯合祀が明らかになって以後は、天皇陛下ご夫妻は参拝されていないし、現天皇も昭和天皇の意を汲み今日まで参拝されていない。この昭和天皇のご意思については、いくつかの文書で明白になっている。
「文芸春秋9月号」より


さらに諸外国では靖国神社のような特定の宗教施設で戦没者を追悼するという例はどこにもなく、通常、戦没者の慰霊はたとえばアメリカのアーリントン墓地やドイツのベルリンのノイエ・バッフェ、フランスのパリ凱旋門など、いずれも特定の宗派に属さない施設であると渡邉恒雄氏は指摘する。

ドイツのベルリンのノイエ・バッフェの例
元は国王の衛兵所であったものが第二次大戦で破壊されたあとに再建。「ファシズムと軍国主義の犠牲者」の為の「永遠の炎」が真ん中に作られ、1993年以来、ドイツ連邦共和国の中心的追悼の場となった。「戦争と暴力支配のすべての罪なくして犠牲になった者」が追悼対象になり、霊の実体としては、1969年に無名戦士1名と強制収容所犠牲者1名の亡骸の二体だけが象徴として埋葬されている。無宗教で政府主催の「国民哀悼の日」が、毎年11月中旬、クリスマスから逆算して6週前の日曜日に開かれる。

フランス・パリ凱旋門の例
1920年、国民議会で凱旋門を追悼所とすることを議決した。第一次大戦以降のフランス国際戦没将兵を対象とする無宗教の施設。門の床下の墓には、無名戦士1名の遺体のみが埋葬されている。国防省主催で、大統領、各国大使らが出席して行われ、第二次大戦戦勝記念日と第一次大戦休戦記念日に式が施行される。

その他、各国ごとに、追悼碑のみであったり、一部の無名戦士の遺体を埋葬したりしている。カナダでは国会議事堂内の「平和の塔」に戦没者の名を記した6冊の「追悼の書」がおかれ、そこにはカナダ建国以来の海外での戦没者11万人を超える名が記されている。各国の追悼施設はほとんど宗教性がなく、政府、国会、軍などが管理している。

米アーリントン墓地の例
諸外国の例で典型的なものとして挙げることができるのは、アーリントンの「無名戦士の墓」である。アーリントン墓地は、アメリカの南北戦争後に戦死者を弔う目的で作られたが、それぞれの家族等が主に墓碑を建設し、戦没者を慰めたものである。初期は北軍戦没者が多かったが、やがて南軍兵士も埋葬された。諸外国の元首、首相等を含めた首脳がお参りするのは、その中の「無名戦士の墓」である。この「無名戦士の墓」は、陸軍省管理のもと、軽武装した米軍兵士が常時守っていることが、墓地の尊厳性の象徴と認識されている。ただここに祀られている兵士は、第一次世界大戦、朝鮮戦争の死者、戦争ごとに1名ずつの遺体だけである。かつてはベトナム戦争の無名戦没者を含めた4体が葬られていたが、ベトナム戦争の死者はDNA鑑定の結果、名前が判明し、「無名」でなくなったので、遺族、関係者に引き取られ、郷里に葬られることになったため、3体のみとなった。

それに比べ、千鳥ケ淵戦没者墓苑は30万柱を超える無名戦没者の遺骨がある。これは世界最多の数であろう。このように祭神の名儀や特定宗教と無関係な通常の諸外国の追悼施設と靖国神社とは性格が著しく異なっている。

したがって、戦没者を追悼するあり方としては、国の行事は武道館における8月15日の天皇・皇后両陛下がご出席される全国戦没者追悼式で完結するとし、一方で千鳥ケ淵戦没者墓苑の運営母体を透明化したうえで、国会の議決によって無名戦没者の墓として認証し、これを靖国神社に代わる国民的な慰霊碑とするのも一つの方法だと思う。
「文芸春秋9月号」より

と渡邉氏は提言する。そして少なくとも「靖国神社はA級戦犯が分祀されないかぎり、国家を代表する政治権力者は公式参拝すべきでない」と結論する。

この渡邉氏の論は論理的にもまた道徳的にも当然の考え方であると思う。最近では総理の靖国参拝に対して中国や韓国だけでなく、アメリカやEU、オーストラリア、台湾、国連・・・など世界中から批判されているが、これは単なる誤解ではなく、むしろその施設の異様性が世界中で認識されてきたからではないだろうか。今後も諸外国の靖国神社に対する認識がより正確になればなるほど、その反発は増してゆくのではないであろうか。

これに対して、多くの日本人が戦没者の追悼はどこの国でもやっていることであり、そのやりかたについて外国からとやかくいわれるいわれはないと反論するのが通例になっている。しかし、渡邉氏も指摘するように戦没者の追悼施設は千鳥ヶ淵戦没者墓苑があり、また天皇皇后両陛下がご出席されて全国戦没者慰霊祭が毎年行われているので、そのうえになお靖国神社での追悼を重ねる必要があるというのは、逆に両陛下ご出席による追悼方法が不完全なものであるといっているのと同じことではないか?

この渡邉論文では特に指摘されていないが、もうひとつ日本人として忘れてならないことは憲法20条との整合性である。

憲法20条条文
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

総理の公式的な靖国参拝はこの条文3項に明らかに抵触していることがわかる。これは1978年にA級戦犯が合祀される以前から問題とされていたので、政治家は必ず公式の参拝ではなく、私的な参拝であるということを言い訳にしていた。この言い訳をせずに堂々と公式参拝だといって参拝したのは、いわゆるA級戦犯問題が絡まってからは中曽根総理、橋本総理、小泉総理そして安倍総理である。

ところで、この4人の総理に共通しているのは支持率の高さであろう。なぜ靖国参拝を強行した総理の支持率が高いのか?これは前にも考察したとおり、靖国神社を参拝することによって「日本教」の「純粋人間」として評価されるという、きわめて日本的な現象があるからである。したがって、政治家は憲法の政経分離の条文を無視しても、それによって非難を受けることはなく、むしろ「日本教」の「純粋人間」としての評価を高め、それによって支持率アップが期待されるのである。「戦没者の追悼」とか「平和の誓い」とかいうきれいごとは。おそらく彼らの真の動機ではなく、本当の動機は国民的人気を得るための手段になっているとみてもまちがいがない。

しかし、もっとも重要な問題は憲法の精神が権力者によって踏みにじられているということである。なぜ憲法20条の3項がわざわざ明記されたのか?それは戦前の国家神道に対する反省があったからにほかならない。国家神道は明治維新後に西欧列強のキリスト教に対抗する日本の政教一致宗教として人為的に作られたものである。この政策を推し進めるために仏教をはじめ他の宗教は激しく弾圧された。そして日本は「現人神」の国となり、「神州不滅」の神話が形成された。「神国」である以上はどんな戦争でも負けるはずがない。そのような狂気を信じさせたのは、まさに国家神道による政教一致の怖ろしさであった。その深い反省があれば、あの戦争をいまだ「自衛戦争=聖戦」であったと讃える異様な施設を、しかも憲法の精神をまったく無視して日本国総理が参拝するということは許容されるべからざるものであろう。またそのことは官僚たちが一つ覚えのように説く「法の支配」という考え方とも矛盾をきたす国家的自己欺瞞にほかならない

靖国公式参拝をしながら、その後も渡邉恒雄氏とは友人関係を保っている中曽根元総理について次のような裏話をかたっている。

中曽根康弘首相が1983年4月21日に参拝後、諸外国からの反発も起こり始め、反対論は内外相呼応する形になった。そこで、中曽根首相は腹心の瀬島龍三氏に頼み、板垣正参院議員(A級戦犯とされた板垣征四郎の二男)などと協力しA級戦犯遺族を歴訪し、自発的に分祀を認めるよう説得し、ほぼ分祀について合意ができた。だが、最後に東条内閣元首相の遺族の猛反対で、瀬島氏の説得は失敗に終わった。このことは瀬島氏の生前、私が瀬島氏から直接聞いたところである。そこで中曽根氏は日中関係を配慮して公式参拝を中止した。

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