3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

日韓の歴史問題 その1竹島問題

今年7月28日韓国ソウルで行われた日韓サッカーで韓国側のサポーターから「歴史を忘れた民族に未来はない」と書かれた巨大な横断幕が掲げられ波紋を呼んだ。大方の日本人の反応はスポーツに政治を持ち込むことに対する嫌悪感から猛反発したことは記憶に新しい。ただし、韓国側の言い分によると、先に挑発したのは旭日旗を掲げた日本側サポーターの方であったという指摘があって、その後、この論争はやや白けた感で尻すぼみになったようである。

そもそもこの横断幕は韓国人以外には読めないハングル文字で書かれており、普通の日本人にはまったく理解できない文字なので、これは日本に対する政治的挑発であったというよりもむしろ韓国人の間の団結心を呼びかける意味があったのではないかともとれるし、またその後に掲げられた安重根を描いた巨大な垂れ幕にしても、おそらくその場の日本人には誰の絵なのか理解する者はいなかったので、これも単純に日本に対する挑発行為だとも決めつけられない。

ただし、その意図がどうあれ、スポーツの場に日韓の歴史問題が持ち出されることは、スポーツマンシップを損ねる行為であり、またそのような行為を禁じたサッカー協会の規約にも反しているので、その点では韓国サポーターの行為が批判されたのは当然といえば当然であろうが、問題はこのような行為にまでエスカレートしている日韓関係の根深い歴史問題が厳として存在するということであり、これについては日本人も少しは真面目に考える必要があろう。

よく考えると日本人が「歴史を忘れた民族に未来はない」という言葉を挑発だと受け止めること自体が本当は情けない話ではないかと思う。なぜなら、その言葉が他ならぬ日本人に対して向けられた言葉であると日本人自身が受け取るということは、日本人がその言葉に一定の真実があることを認めていることに他ならないからである。でなければ、その言葉は挑発の意味をなさないであろう。

面白いことに、もうずいぶんまえから日本サッカー協会の川淵会長が日韓の歴史問題とサッカー交流に関して、今回のような騒動を予想してか、次のような発言をしていたそうである。

「私が敢えて言いたいことは、若い人達が歴史の責任を引きずる必要はないということです。しかし、それは日本と韓国の歴史をじゅうぶん理解した上でというのが前提です。……スポーツに政治や過去の歴史を持ちこんではいけません。しかし、歴史を知ることは絶対必要です」

これは非常に見識の高い言葉ではないかと思う。今現在、テレビなどの媒体で活躍する自称評論家とか自称ジャーナリストというコメンテータに対してこれだけの見識を期待することは難しいのではあるまいか。

調べてみると川淵会長は1936年生まれであり戦中派とまではいえないが、少なくとも戦時中の悲惨な光景を鮮やかに覚えておられるにちがいないし、戦後の荒廃の中から経済成長に至った過程についてもはっきりと記憶されておられるであろう。特に川淵会長が生まれ育った大阪では在日朝鮮人や在日韓国人が多く、彼らに対するあからさまな差別があったということは自らの体験の中で身にしみて知っていることであろう。だからこそ、そのような見識のある言葉を語ることもできるのではないかと思う。

しかし、Jリーグのサッカー選手はもとより、サポーターも含めて、「私が敢えて言いたいことは、若い人達が歴史の責任を引きずる必要はないということです。しかし、それは日本と韓国の歴史をじゅうぶん理解した上でというのが前提です」という言葉の意味を十分に理解できる若者が果たしてどれだけいるのであろうか?もちろん、その言葉はサッカーの選手やサポーターだけにとって意味のある言葉ではなく、すべての日本人にとっても意味のある言葉であり、その意味は韓国のサポーターから横断幕で突き付けられる以前に、われわれ自身の常識としていなければならないことであるはずである。しかしながら、現在の日本人にとって、その言葉は皮肉としてしか聞こえないほど、われわれは日韓の歴史問題に対してあまりに無知ではないかと自ら認めざるをえないではないか?

いわゆる自虐史観として批判されている歴史教科書の中でも日韓の歴史問題はほとんどまともに紹介されていないし、最近では新聞やテレビでもほとんど紹介されることもなくなった。要するに日韓の歴史問題に目を向けること自体が国策として避けられているのであり、そして民間のマスコミもそれにならっているというのが実情ではないか。もっといえばナショナリズムという誰にも抵抗し難い「生物的感情」から自国に都合よく歴史を解釈することがまかり通っているのが現実ではないかと思う。

たとえば竹島問題にしても日本では決して韓国側の視点が紹介されることはない。「竹島は日本固有の領土である」という日本政府の発表だけを鵜呑みにし、この問題を韓国側の視点も取り入れて比較対照しながら客観的に検証するという作業はいかなるメディアによっても行われていない。ところが韓国側の立場に理解を示す一部の学者によると、実は江戸時代には竹島(当時は松島と呼ばれていた)は日本領ではないと幕府が認めていた確実な史料があり、このため山陰地方一帯で竹島(松島)には近づかないようにというお札が立てられていたという証拠もあるとされているが、このような事実は決して日本のマスコミで紹介されることもない。

この問題は日韓両国の専門家の間ではよく知られた争点であるらしいが、一般の日本人にはほとんど知られていないので、ここにその要点だけを紹介しておこう。

17世紀末の竹島一件の事実関係はあまりにも広く知られているのでここでは詳説しない。要するに、1625年(外務省は1618年説)鳥取藩(当時は因幡・伯耆と呼ばれた)の町人が幕府の許可を得て、爾後毎年一回竹島(鬱稜島)へ行って漁獲、木材などの収穫をあげていたところ、1692年及び1693年朝鮮人民漁民と競合、訴えを受けた幕府は、朝鮮人の竹島渡海禁止を求める交渉を始めるが、紆余曲折を経て、1696年1月28日、逆に竹島渡海を禁止する法令を出したということである。

外務省はこの禁止令が松島(今の竹島)には適用されないとして、「当時からわが国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らか」(外務省「竹島問題を理解するための10のポイント」)としている。

しかし、これに対しては無視できない反論が提起されている。この決定をだすにあたり、時の老中阿倍豊後守は鳥取藩に対し、2回質問している。第一回(1695年12月24日)は「竹島がいつから鳥取領となったか。竹島のほか鳥取藩に属する島はあるか」と。これに対して12月25日鳥取藩は「竹島は鳥取藩には属さない。竹島・松島そのほか両国に属する島はない」との回答をした(内藤正中『竹島(松島)をめぐる日朝関係歴史』ほか多数)。阿倍老中はいまいちど新たに登場した松島問題について照会し、鳥取藩は「松島は鳥取藩に属さない。竹島渡海にある島である」と回答した(1696年1月23日)(宋柄基『竹島(松島)鬱稜島研究』池内敏『竹島・独島論争とは何か』。松島すなわち、今日の竹島である。少なくとも鳥取藩は松島を日本領とは認識していなかったのである。(東郷和彦・保坂正康著「日本の領土問題」角川新書)P100-101


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鬱稜島(旧竹島)と竹島(旧松島)の位置関係

日本が竹島を自国の領土として正式に領有したのは1905年のことであり、これは日露戦争で敵の艦隊を監視するための重要な軍事拠点となったからであった。この年に韓国を保護国化し1910年には韓国併合によって事実上朝鮮半島全体が日本の領土とされたので、1945年の敗戦までは確かに日本の領土とされていたが、しかしポツダム宣言の受諾で日本の領土は「本州、九州、北海道、四国の四島ならびに吾等の決定する諸小島」と限定され、日本が日清戦争以来獲得した、台湾、朝鮮半島、満州国は当然のこと琉球諸島や千島、カラフトを含む多くの旧大日本帝国の領土の領有権を放棄させられている。このとき竹島の領有権も放棄したのかどうかということが、この問題の焦点であろう。

このポツダム宣言の条文の中で特に重要なのは「吾等の決定する諸小島」とされている箇所であるが、ここで「吾等の決定する」という表現の中にはいうまでもなく当時の日本の主張はまったく除外されており、これはポツダム宣言の作成に直接関わったアメリカ、イギリス、中国(中華民国)及びソ連(作成に関わっていないが後に追認したとされる)の4カ国のことである。

もしも竹島が日露戦争の軍事拠点として領有されたという歴史的経緯が証明されるならば、それは日本の日清戦争以来の侵略戦争の一環として領有された不法な領土であったとみなされうる。もちろん日清戦争や日露戦争が侵略戦争であったかどうかという点は議論があるだろうが、ポツダム宣言で朝鮮半島や台湾、カラフトなど、日本が日清日露後に獲得した領土の返還をポツダム宣言で命じられたということは、それらはもともと日本固有の領土ではなく武威によって奪い取った不法な領土であるという戦勝国の一致した認識があったからである。そして敗戦国の日本はこれを無条件で受け入れたのである。このように考えると、竹島が日本固有の領土であるとあくまでも主張するのはそれほど説得力のあるものではないことが分かる。

日本政府は1905年に竹島を領有したのは日露戦争の軍事拠点にするためではなく、たまたま、その当時(1905年)一人の島根県隠岐の島島民(中井義三郎)のあしか漁に関する訴えを聞き入れて領土に編入したというのであるが、日本の頭の良い官僚たちがこのような話をまともに信じているとは到底思えない。つまりこの話は竹島を軍事拠点として領有したと自ら認めると論理的にもこれは不法な領土であったと認めることになるので、そのような話を無理やりこじつけたのではないか。しかし、たとえ作り話にせよ、一民間人のあしか漁のために政府が領有したという話が成り立つためには、そこがもともとどの国籍にも入らない無主の地であったという証明がされなければならない。

ところが韓国側からすると、独島(竹島)はもともと日本が領有する以前(1900年)に大韓帝国勅令四十一号で鬱稜島と独島を含めた管轄区域として「鬱稜全島と竹島石島」としており、この「竹島石島」こそ「独島(竹島)」に他ならないと主張しているので、日本が1905年にあしか漁のために領有宣言をする以前から韓国が自国の領土として管轄していたとしているのである。これに対して日本政府はその名称が「独島」ではないという理由で、韓国側が管轄していたと主張する「竹島石島」が「独島(竹島)」であるという明確な証明にはならないと反発している。

しかし、そもそも江戸時代以来、日本側に使用された「竹島」という名称自体が実際には現在の竹島(独島)を指していたのではなく、それは元々朝鮮領の鬱稜島(ウルルン島)を指していた(これは現在の日本政府も認めている)のであり、その後、誤りを認めて「松島」という名称に変更されたという経緯をみても、「竹島」が日本固有の領土であったというその根拠は実に頼りのないものである。

いずれにしても竹島が日本固有の領土であるという日本政府の主張自体その歴史的根拠ははなはだ怪しげなものであり、たとえ韓国側の主張がそれ以上に根拠が乏しいものだとしても、それでもって竹島が日本固有の領土だということにはならないであろう。これでは「目くそが鼻くそを笑っている」ようなものではないかといわざるをえない。

ただし、韓国側がなぜ独島(竹島)の領有権を強硬に主張し、事実上、自国の領土として支配しているのかというと、やはり独島(竹島)が1905年の韓国保護国化から韓国併合へと至る過程で彼らが日帝に国を奪われたその第一歩が独島(竹島)に他ならないという象徴的意味合いをもつからであろう。これは論理的な解釈というよりは民族感情的な解釈であることはいうまでもないが、その彼らの民族感情に対して日本政府があたかも「冷静な議論を」という形式論で応じても、これは現実的な解決にならないだけではなく、むしろその関係はますます険悪なものにならざるをえないであろう。

竹島問題にもし現実的な解決法があるとするなら、それは日本が戦前の朝鮮半島に対して行ったすべての罪を反省し彼らに謝罪を続けることしかないと(私は)思う。ただし、この謝罪は政府間の一片の文書の交換で済むようなものではなく、またなんらかの金銭的な見返りで終了できるものでもない。確かに1965年の日韓基本条約によって、韓国への植民地支配に対する賠償は終わった(一部の請求権を除いて)ものと法的には考えられるが、しかし韓国(朝鮮)人が受けた深い傷跡は70年後の現在でも世代を超えて大きな口を開けたままであるということを認識すべきである。それに対する申し訳ないという気持ちをわれわれがもたなければ、決してこの問題は解決しないということを知らなければならない。

「70年も前のことを謝罪しなければならないなんて・・・」と多くの日本人はあきれてしまうかもしれないが、しかし北朝鮮の拉致事件が発生してから、もうすでにその半分程の年月(36年)が経っているが、われわれ日本人の北朝鮮に対する憤慨の気持ちは以前よりもまして強くなっている。だとすれば韓国人の日本に対する恨みが70年そこそこで消えるようなものではありえないことが分かるはずである。

川淵会長が「私が敢えて言いたいことは、若い人達が歴史の責任を引きずる必要はないということです。しかし、それは日本と韓国の歴史をじゅうぶんな理解した上でというのが前提です。……スポーツに政治や過去の歴史を持ちこんではいけません。しかし、歴史を知ることは絶対必要です」としているのは、おそらくそのような意味であると思う。

竹島の問題に限らず日韓の問題は日本国民一人ひとりが歴史を正しく知り、それにきちんと向き合うということでしか解決できないのではないかと思う。逆にいうと、それができれば竹島の領土問題はちっぽけな問題にすぎないということが互いの国民によって了解されるであろう。韓国の人々にとっても、日本人が過去の過ちを本当に認めてくれるのなら、そんなちっぽけな島にこだわる必要もないと思うであろう。

最近の日本人は韓国に対して過去の日本が何をしたのかということをほとんど知らずに、なぜそんなに日本を憎んでいるのか分からないという人が大半であろう。これはなんとかしなければならない。そこで次回からは日韓の歴史問題を考えてみたいと思う。


参考資料:東郷和彦 保坂正康共著「日本の領土問題」角川新書

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日韓の歴史問題 その2 秀吉の朝鮮出兵から征韓論、江華島事件まで

明治16年に日本で初めて作られた紙幣に使用された肖像画の人物を知っている人はおそらくあまりいないであろう。その肖像画はもちろん聖徳太子ではないし明治天皇でもない。ひとつヒントをいうと、その人物は伝説上の人物であり必ずしも実在の人物であったとはいえない。しかもその人物は男性ではなく女性である。ここまでいうと多くの人は天照大御神とか卑弥呼を思い浮かべるかもしれないが、残念ながらいずれも正解ではない。正解は神功皇后という今日ではあまりなじみのない古事記や日本書紀に記された女性である。なぜその女性が、よりによって日本で発行された第一号の紙幣の肖像として使われたのかというと、そこには根深い日韓の歴史問題があったのである。

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日本最初の紙幣 神功皇后の紙幣

実は神功皇后というのは、伝説ではその昔神のお告げで新羅や百済そして高句麗を攻め落とし朝鮮を征服した立役者だったといわれる人物である。それが本当の話なのかどうかという話とは別に、なぜそういう人物が最初の紙幣の肖像として使われたのかというと、当時の明治政府の最重要な国策が背景にあったということが自然に浮かび上がってくる。明治16年というと、日清戦争以前であるが、すでにそれ以前から明治政府は朝鮮半島を征服の対象と考えていたのであり、その象徴として神代の伝説にある神功皇后の肖像が使われたわけである。

神功皇后の伝説は別にして、現実の歴史の中でも日本が朝鮮を征服しようとした時代があったことは誰もが知るところであろう。いうまでもなく秀吉の時代の朝鮮出兵である。日韓の歴史を通観してみると両国は古くは良好な関係のときもあったが、秀吉の朝鮮出兵を契機にして両国の関係が冷え込んで以来、良い関係を築くことは非常に難しくなった。このときの侵略によって韓国人に植え付けた不信感は現在の韓国人にも深い傷跡となって残っていることを、まずわれわれは知らなければならない。

歴史の教科書には秀吉の朝鮮出兵の実際の被害については詳しく紹介されていない。しかし、現在京都の東山区にある耳塚という小高い墓のような土地の成り立ちを知ると、そのときの朝鮮人の被害がどれほどのものであったのかということが分かる。秀吉は当時の武士たちにどれだけの数の朝鮮人を殺したのかということを知りたいがために、斬り捨てた朝鮮人の鼻を持って帰るように命じたのである。斬りとった鼻は塩漬けにされ、具体的戦果の証拠品として持ち帰らせた。このとき武士たちは鼻だけではなく耳も持ち帰ったので、耳塚と名付けられることになった。その証拠品となった鼻や耳の数はどのくらいの数があったのかというと、その数はなんと10万以上はあったと研究者はみている(中塚明著「日本と韓国・朝鮮の歴史」高文研P49)。

秀吉の次に天下人となった家康のときには通信使という朝鮮の使節を呼び寄せるのが習わしになった。徳川家が代替わりするたびに朝鮮から500人もの使節が大阪に船を着けて淀川を上り京都から江戸までの東海道を参勤交代の大名のように行列を組んで参上させられたのである。もちろんその逆の交流はなかったので、事実上、朝鮮は日本の属国扱いになっていたといえる。このような日朝間の歪な交流は秀吉による朝鮮侵略のトラウマが朝鮮王朝にいつまでも残っていた証拠であろう。その延長の中で明治政府の征韓論があったことを知らなければならない。

どの教科書にも書かれているように明治時代になると突然「征韓論」という勇ましい言葉がでてくる。しかし、なぜそうなったのかということを教科書は書いていない。簡単にいうと、征韓論のきっかけは明治新政府が朝鮮王朝に対して送った王政復古を通告する国書に対して返事もせずに送り返してきたという事件に端を発している。

なぜ送り返してきたのかというと、その文面に「皇」と「勅」という文字があったからであるといわれる。当時の朝鮮王朝にとって「皇」と「勅」という文字の使用を許容できるのは清王朝だけだったので、日本の新政府がそのような文字を使った書状を送り付けたことに対して、これを受け付けることはできなかったのである。それと儒教的伝統と古来の儀式を重んじる朝鮮王朝にとっては、チョンマゲを切り洋服を羽織って現れた明治新政府のあまりの変身ぶりが理解できなかったのである。明治政府は国交を結ぶための儀式を洋装で行うことを求めたが、これについても朝鮮王朝は伝統的衣裳でなければ応じられないと断固拒否をしていた。

これに対して明治新政府は侮辱であると受け取り、一挙に征韓論が台頭してくるのである。ところがこのとき明治新政府の中で意見が二つに分かれ、これがやがて抜き差しならない大きな政治的対立を生むことになる。よく知られているように、このとき征韓論を唱えた西郷隆盛らの意見は岩倉具視や大久保利通ら主流派の意見と折り合うことができず、その結果、西郷らは下野して、やがて新政府に対する不信感をもった部下たちを集めて反乱を企てるようになったといわれる。しかしながら、歴史教科書などでも征韓論者といわれた西郷隆盛が本当に征韓論を唱えていたのかどうかという問題については、今日の研究者の間でも別の解釈があるようである。

というのは、西郷が主張していたのは実際は征韓論というものではなく、朝鮮との正式な国交を結ぶために自ら使節になりたいというものであり、その際には武器をいっさい持たず、しかも伝統の衣裳を身につけて礼を尽くせば、彼らも受け入れるはずだと考え、その役割を自ら果たしたいという申し出だったのである。しかしながら、岩倉らは貴下のような大物がもし殺されでもしたら戦争になるではないかといって、この提案を受け入れなかったといわれる。

ところが西郷らが下野してからわずか2年後(明治8年)に明治新政府は本物の征韓論ともいうべき強引な朝鮮侵略政策を実行に移すことになるのである。韓国の人々の誰もが知る日帝による最初の侵略事件、すなわち江華島事件が起こる。これは首都開城(ソウル)を流れる漢江の河口に面した要塞の島(江華島)へ測量のためと称して日本の軍艦が無断で入り、そのとき要塞から攻撃があったため、これを鎮圧するために反撃しさらに陸地へ上がって要塞の兵士数十人を殺害したという事件である。この事件の詳細については、先ごろ売国的発言などで韓国政府から入国拒否を言い渡された呉善花さんの著書から引用しておこう。

1875年(明治8年)5月、日本政府は雲揚(245トン)と第二丁卯(125トン)の小砲艦を釜山に派遣して、一方的な発砲演習を行わせる示威行動をとった。続いて9月20日、日本政府は沿海測量の名目で雲揚を朝鮮半島の江華島へ向かわせる。雲揚は江華島と半島との間の江華水道の河口付近で停泊し、その先は兵士らがボートに乗って江華水道を遡行した。水道の幅は200~300メートルと狭く、北は漢江、南は黄海に通じる要所で、沿岸各所に要塞があり砲台が設けられている。飲料水を求めたためとされるが、この内国河川への無断侵入は明らかな挑発行為である。
要塞の一つ、草芝鎮台から砲撃が開始されると、雲揚も水道に入り応戦する。砲台からの弾丸は船に届かず、草芝鎮台は雲揚の砲撃を受けて甚大な被害を受けた。しかし、退潮時のために雲揚は兵員たちを上陸させることができなかった。雲揚は次に江華島のすぐ南にある永宗鎮台を急襲した。次から次へと砲撃を受けて永宗鎮台は陥落、600名の守備兵はほとんど戦うことなく逃走してしまった。上陸した日本の将兵たちは城内と付近の民家を焼き払い、大砲38門をはじめ、残された兵器類を押収して帰船した。李朝側の死者36名、捕虜16名、日本側の死者1名、負傷者1名だったといわれる。(呉善花著「韓国併合への道」文春文庫P54)


この事件後、日本は朝鮮の開国を無理やり迫り、さらに不平等条約を結ばせることに成功することになる。これは明らかにペリーの艦隊の威嚇によって結ばされた日米不平等条約の締結という自らの苦い経験をまねた行動であった。

面白いことに、このあからさまな侵略的行動に対して下野した西郷隆盛は次のように政府を批判したといわれる。

「譬、此の戦端を開くにもせよ、最初測量の儀を相断り、彼方承諾の上、[それでも]発砲に及び候えば、我国へ敵するものと見做し申すべく候えども、左もこれなく候はば、発砲に及び候とも一往は談判いたし、何等の趣意にて此の如く此時期に至り候や、是非相糺すべき事に御座候。一向彼を蔑視し、発砲致し候故応砲に及び候と申すものにては、是迄の友誼上実に天理に於いて恥ずべき所為び御座候。」(板野潤治著「西郷隆盛と明治維新」講談社現代新書P180)

これを口語でいうと、およそ次のような意味である。「たとえ戦闘を始めるにしても、測量のことは無断でやるのではなく相手に断りを入れてからやるべきであり、それでもなお相手が攻撃してきたならば応戦するというなら分かるが、そうではなく相手に無断で測量をやっていながら、発砲されたからといってこれに応戦するのは、長い付き合いのある隣国に対して、いかにも道理に反する恥ずべき行動ではないか」

西郷隆盛は必ずしも平和主義者だったとはいえないであろうが、彼は少なくとも道理を大切にする人物だったということがよく分かる。もし西郷があのとき下野せずに以後も明治政府の中心にいたならば、以後の朝鮮政策も異なっていたのではないかと思われる。

江華島事件後、明治新政府と朝鮮王朝の正式な交流が始まることにはなったが、しかしこれは明らかに武力の威嚇を背景とした砲艦外交の所産であり、この結果、両国の関係は対等の関係というものではなく、著しく日本側にとって有利な条件下による交流が始まったのである。ただし、朝鮮王朝内ではこれをきっかけにあくまでも儒教文化を中心とした旧体制を守ろうとする守旧派と日本の欧米化を見習って改革を目指すべきであるとする開化派に分かれて相争うようになる。

つづく


参考文献:中塚明著「日本と韓国・朝鮮の歴史」高文研
    :呉善花著「韓国併合への道」完全版 文春新書
    ;海野福寿著「韓国併合」岩波新書
    :板野潤治著「西郷隆盛と明治維新」講談社現代新書

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日韓の歴史問題その3 日清戦争の真実及び朝鮮王妃(閔妃)惨殺事件

日韓(朝)の歴史認識問題は現在大きな政治問題となっているが、果たしてこの問題を理解している日本人はどれだけいるのであろうか?私自身、つい最近までこの問題にほとんど関心がなかったために、通常の歴史教科書に記されている内容以上のことはあまり知らない(恐らく)ごく平均的な日本人であった。しかし、最近いくつかの本を読む中でいままで知らなかった実に多くの重大な事実があることを知るに至り、これを知らないことは日本人としてあまりに恥ずかしいことだと痛感するに到った者である。

過去多くの被害を与えた隣国との歴史問題に対して無知であることは日本人としてもはや許されないことである。日韓サッカーの試合で「歴史を知らない民族には未来がない」と韓国サポーターから突き付けられる以前に、われわれはその言葉の重みを十分に理解すべきであったが、残念ながら日本人の歴史認識は彼らからそのようにいわれても何の反論もできないほどお粗末でいい加減で無責任なものであった。しかし、これは日本人個々人の責任というよりも、おそらく歴代の日本政府と明治以来の代々の官僚の国策として行われてきたものであり、日本人は過去隣国に対して何を行ってきたのかという事実を意図的に国民に対して教えてこなかったのである。この意味で日本の歴史教科書は終始一貫「自虐史観」ではなく、「非自虐史観」に立脚していたのだということがいえる。

その証拠にどの歴史教科書にも韓国や朝鮮についての記述は小さく扱われ、あたかも隣国の問題はささいなことであるかのような印象を与えているのである。たとえば私自身最近までまったく知らなかったことであるが、日清戦争が終わった1895年(明治28年)10月に朝鮮王朝の王妃明成皇后(日本では一般に「閔妃(ミンぴ)」と呼ばれる)の惨殺事件が起こっているが、この重大な史実について日本のどの教科書にも触れられていない。仮にこの事件が逆の出来事(すなわち日本の皇后が韓国人に惨殺されたとすれば)であれば、これはおそらく日本史の中でも最大級の悲劇として扱われて当然のことであろう。ちなみにこの惨殺事件がどのようなものであったのかということを、呉善花さんの著書から引用しておこう。

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朝鮮王朝最後の王妃「明成皇后」(閔妃)

1895年10月8日未明、日本軍守備隊(後備歩兵第18大隊)450名、朝鮮訓練隊兵士、日本人壮士たち(領事館員、居留日本人など)が合流して景福宮に侵入した。彼らは王宮を警備していた第一訓練隊と銃撃戦を交えて敗退させ、さらに近衛の待衛隊を打ち破って王宮を占領した。その間に日本人壮士ちは閔妃を探し回り、常殿にいた閔妃を刺殺すると遺体を王宮の外に運び出して焼き捨ててしまった。これを乙未事件という。

日本人としては何としても王妃を中心とした外威勢動政治の悪弊を排除したかったのである。これによって閔妃一族が国政に優先的に参与しうる道が断たれたことはたしかだった。こうして彼らは漢城(現ソウル)郊外の孔徳里に隠棲していた太院君を連れ出して再び執政として擁立し、親露派の排除と新たな改革派の任命をもって第四次金弘集内閣を成立させたのである。李完用、李範普、李ユン用、沈相薫ら新露派・閔氏派は排除され、魚ユン中、徐行範、愈吉藩、趙義淵、鄭ビョン夏らが新たに入閣した。そして留任が金ユン植。このように開化派中心の内閣であった。こうして武人公使着任後、即座に武断をもってその改革推進内閣が成立した。しかしながら、この政変は三浦公使が主導して日本人によって敢行されたものであることは、あまりにも明白であった。(呉善花著「韓国併合への道」文春新書P172-173 )


前にも紹介したように呉善花さんは韓国政府から売国奴として入国を拒否されているいわくつきの女性であるが、この書に書かれてあることは、ほぼ史実を忠実に再現しており、必ずしも売国的であるとは思えない。私はこの書と岩波新書版「韓国併合」(海野福寿著)を比較しながら、何回も(少なくとも3回以上)読み返したが、両者の視点の相違は相当あるものの、歴史的史実に関しては両者ともほぼ忠実に描いており、その意味では信頼のできる書物であると考えている。

参考のため岩波新書版「韓国併合」ではこの事件をどのように記しているかも紹介しておこう。

三浦公使の着任は1895年9月1日。彼が親露米派を排除するため、国王高宗の妃(閔妃)の殺害計画を公使館一等書記官、杉村溶、朝鮮政府軍部兼宮内府顧問岡本柳之助らと練ったのは、それかまもなくである。計画は王妃と敵対していた太院君をかつぎだし、かねてから解散が取り沙汰されていた日本人教官指導の洋式軍隊である訓練隊をそそのかして、太院君とともに王宮の景福宮へ侵入させるというものでる。ただし、実行主力は漢城駐在の日本軍守備隊、領事館員および警察、居留日本人の壮士たちだった。

10月8日未明、計画は実行に移された。漢城郊外の孔徳里に隠棲していた太院君の連れ出しには岡本ら30数人の日本人があたり、後備歩兵独立第18大隊の450人と菟藩善指揮の第二訓練隊が景福宮を占拠する。光化門から侵入した第一中隊は王宮を警備していた第一訓練隊と銃撃戦をまじえ、指揮していた洪啓薫を戦死させ、待衛隊の抵抗を排除して王宮を制圧した。壮士の一群は王妃を求めて探し回り、常殿で王妃を刺殺し、領事館警部荻原秀次郎の指示で遺体を松林に運び、焼き捨てた。乙未事件という。

三浦公使は事件は解散命令を受けた訓練隊が太院君と結託して行っクーデターであるとし、国王の依頼で出動した日本軍は、訓練隊と待衛隊との衝突を鎮圧したが、事件そのものには日本人は無関係であるという筋書きで押しとうそうとした。現場で成行きを目撃していたアメリカ人待衛隊教官のゼネラル・ダイとロシア人電気技師サバチンの証言から、事実の隠ぺい工作が破産してもなお、太院君の要請で参加したと強弁した。

国際的に苦境に立たされた日本政府は、三浦公使の解任召喚と関係日本人の退去を決定し、帰国した軍人8人を第五師団の軍法会議に、48人を広島地裁の予審に付した。翌年1月14日の軍法会議は、太院君の依頼を受けた三浦公使の命令に従った日本軍の行動を無罪とした。20日の広島地裁の予審終結決定もまた、王妃殺害状況の証拠不十分として三浦以下全員を免訴とした。(海野福寿著「韓国併合」岩波新書P100-101)


このおぞましい事件がなぜ起きたのかということはいずれ後で述べることにするが、この陰惨な事件のある意味での成功が、結局、以後の日本の大陸進出を加速させていったとみなすことはできるであろう。おそらく満州事変の際の清王朝最後の皇帝溥儀を誘拐して満州国の王に擁立しようとした石原莞爾らの計画立案にも、この事件は影を落としていたであろうし、また南京事件後、反日的な蒋介石政権に代わって親日派の汪兆銘を正当南京政府として擁立していった過程でも、同じ成功体験が影を落としていたのではないかと考える。この事件を契機として、日本政府は(時に)隣国の内政に力づくで介入し、気に入らない反日分子を排除して親日派を樹立するという政策が一貫してとられてきたのであった。このやり方は最終的にはどうみても「侵略」としかいえない植民地化へと発展してゆくのである。その原点は先に紹介した明治8年の「江華島事件」にあったともいえるが、その粗暴なやり方の決定的成功体験は明成皇后(閔妃)惨殺によって得た結果があったのではないかと思われる。なぜならこの事件以降、日本は朝鮮の内政を完全にコントロール下に置くことに成功したからである。

この事件の前に起こった日清戦争についてはもちろん教科書にも記述されているが、しかし、日清戦争の原因について正しく知っている日本人ははたしてどれほどいるのであろうか?ちなみに教科書には以下のように紹介されている。

1894年(明治27年)、朝鮮で政府の専制政治に反対する大規模な農民の反乱(甲午農民戦争 東学党の乱)が起こると清国は朝鮮戦争の要請でその鎮圧を理由に出兵した。第二次伊藤内閣はこれに対抗してただちに朝鮮に軍隊を派遣した。ちょうどこの頃、外務大臣陸奥宗光のもとで、ロンドンでは駐英公使青木周蔵がイギリスとの条約改正交渉をすすめ、領事裁判制度の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした日英通商航海条約が調印された。これに力を得た日本政府は清国に対して強い姿勢をゆるめず、同年7月末ついに日清両軍は衝突し、8月、日本は清国に宣戦を布告し、日清戦争がはじまった。(「もう一度読む 山川日本史」山川出版社P245-246)

この説明で日清戦争勃発の原因が分かる人はいないであろう。もちろん教科書というのは事実の断片だけをつなぎ合わせたものであり、その断片は不完全なジグゾーパズルの断片と同じで全体像を構成するものではないので、このわずかな断片から全体像が分かることはありえない。しかし、だからといって戦争の原因は書かなくてもよいというのかというと、そうではあるまい。おそらくこの教科書の作者は読者にそれについてできれば説明したいのかもしれないが、それを説明するには少なくとも何倍もの文章を必要とするので、たまたまそれができなかったのか、あるいはその説明を始めると不必要な政治的問題が生じるのであえてこのような焦点をぼかした書き方をしているのではないかとも思われる。

早い話、日清戦争というのは実質的には日本と清国の間の戦争というよりもむしろ日本の朝鮮に対する侵略戦争であったといった方が正確であるが、しかしそんなことは日本の教科書の中にはもちろん一言も書かれていない。せいぜい日本の教科書に書かれているのは清国の属国の立場に置かれていた朝鮮国が日清戦争後、その立場から解放されたという肯定的評価である。この戦争の結果(というよりも戦果)を教科書は次のように記している。

この条約によって、清国は日本に(1)朝鮮の独立、(2)遼東半島・台湾・膨湖諸島の割譲、(3)賠償金2億両(当時の邦貨で約3億1000万円)(4)杭州、蘇州、重慶、沙市の開港を認めた。この結果、日本は海外に植民地をもち、大陸進出に足場を築くことになったが、満州(現中国の東北部)に深い利害関係をもつロシアは、日本の進出に警戒し、ドイツ、フランスと共に、日本に遼東半島を清国に返還するよう勧告した(三国干渉)。3国を相手に戦う力がなかった日本政府は、やむなくこの勧告を受け入れたが、日本国内ではど「臥薪嘗胆」を合言葉に、3国、特にロシアに対する反感が強まった。「もういちど読む山川日本史」)(山川出版社P246)

驚くべきことに、ここには朝鮮については一言も触れられていないのである。そもそも日清戦争の最初の舞台になったのは朝鮮であり、そしてその戦争の犠牲者がもっとも多く出たのも朝鮮人であったが、そんなことにはまったくふれていない。

では日清戦争とは本当はどうして起こったのか?まず、この戦争は決して偶発戦争ではないことを知らなければならない。教科書が記すように、日清戦争勃発の原因は朝鮮で農民の反乱(東学党の乱)が起こったからだとされている。しかし、なぜそれが日清戦争に飛び火したのかということを教科書は何の説明もしていないので、これ読む者はなぜ日清戦争が起こったのか分からないのである。

この原因を知るためには、それ以前の朝鮮をめぐる日清間の駆け引きがあったことを説明しなければならないが、それを書くと長くなるので大体の要約に留めたい。前回に紹介した江華島事件から後、日本は朝鮮半島の内政に力づくで関与していった。具体的には条約で日本の関税自主権を認めさせ治外法権のようなものも認めさせている。当時の朝鮮には軍事力というものをほとんどもたない国だったので、明治新政府の富国強兵策で力の差をつけた日本はまるで赤子の手をひねるように隣国に不平等条約を押し付けることができたのである。

しかしながら、朝鮮は長年中国(清国)の属国という立場であり、清国の干渉を完全に外さないかぎり、朝鮮を日本の植民地とすることはできない。そこで日本はさまざまな工作をおこなってきたが、結局、清国と戦争をする以外に朝鮮を我が物とする道はないということがますます明らかとなってゆくのである。

そこで日清戦争の原因として起こった朝鮮内部の農民の反乱は日本にとってはまたとない戦争を起こす機会になった。それまで日本は富国強兵策で着々と力を付けていたので、清国を相手に戦っても負けることはないと考えていた。一方、清国の方は日本の軍事力を恐れていて、できるだけ衝突を避けようとしていた。日清戦争の直接の原因となった農民反乱(東学党の乱ともいう)に対して鎮圧する力をもたなかった朝鮮王朝(彼らの兵力はわずか500人ほどだったという)はなすすべもなく、やむをえず清国政府に鎮圧を依頼したのである。ところがそれ以前から清国と日本との協定で、朝鮮に派兵するときは互いに連絡し合い、いずれかの国が先に派兵したときは必ずもう一つの国も派兵する権利を有するという協定(この協定はその前の甲申政変がきっかけに両国の合意でできた「天津条約」に規定されている)ができあがっていたので、日本はこれ幸いとばかりに派兵を決定したのである。

これは考えれば奇妙な協定である。当事国の朝鮮人の意志ははじめからまったく無視されているのであるが、これは彼らが農民の反乱を鎮圧する武力を十分にもっていなかったので、何か事が起こった時にはその派兵は当然とされたのであろう。しかし、普通に考えれば朝鮮の宗主国であるはずの清国の方が派兵するのがあたりまえのはずだが、すでにその当時には日本の武力が清国にとっても恐怖と感じるほどのものに成長していたので、清国側が折れてそのような奇妙な協定に至ったのであろう。つまりこれは一見、日清間の紳士協定のようなものであったが、実質的には清国はすでに日本と戦争になれば負けるに決まっているから、そのような卑屈な協定に妥協せざるをえなかったのであろう。

なにはともあれ、日本はこの朝鮮の農民の反乱をきっかけに大量の軍隊を派兵するのであるが、その目的ははじめから清国と戦乱を開くためであった。清国の側はそれを感づいてか、はじめから及び腰であり、清国総指揮官の袁世凱は戦争が始まる前に逃げてしまったことからも、その形勢は明らかであった。つまりこの戦争は日本側が一方的に清国に対して仕掛けた戦争であり、その目的は朝鮮から清国の影響を完全に排除し、そして朝鮮を最終的に日本が支配し自国の領土として乗っ取るためであった。しかしながら、たしかに朝鮮は武力では赤子のような国であったが、彼らの自尊心や愛国心は決してあなどれるものではなかった。日本は日清戦争で清国には圧倒的に勝利したが、その後、朝鮮の農民が反日に立ち上がり、この農民たちを鎮圧するためにさらなる戦争を余儀なくされたのである。この結果、朝鮮人農民の犠牲者数は日清両国の犠牲者数をも上回るほどのものになったのであるが、このようなことはもちろん日本の教科書には一行も書かれていない。

以下、日清戦争の原因とその経過及びその後の弾圧について岩波新書版「韓国併合」から引用しておこう。

農民戦争の全州占領にあわてた朝鮮政府は1894年(明治27年)6月1日、袁世凱に非公式に清国軍の出動を要請、3日には公式に出兵を要請した。これ受けて漢城駐在の清国軍は即日出動し、8日からは清国派遣隊が忠清道牙山湾に上陸、忠清道一帯に駐屯した。

清国出兵の知らせは、同時出兵の機をうかがっていた日本政府に迅速な対応をうながした。駐日清国公使汪鳳藻からの正式出兵通告があったのは7日であるが、すでに2日の臨時閣議は混成一個旅団の朝鮮派遣を決定していた。さらに5日には大本営を設置し、広島の第五師団に内命を下して兵員7000人~8000人の混成旅団の編成に着手していたのである。そして出兵通告を受けた7日には、日本政府も85年の「天津条約」第三款の「行文知照」の規定に基づいて、清国政府に出兵を通告した。

急遽、軍艦「八重山」に搭乗して帰任し大島圭介公使が、回航した「松島」「千代田」の海軍陸戦隊420人と仁川に上陸したのは10日早朝である。大島公使と日本軍は朝鮮側の制止を振り切って、その日の内に漢城へ入京した。派遣旅団の仁川上陸完了は16日である。

しかし11日には「全州和約」が成立し、日清両軍は朝鮮派兵の理由を失っていた。「天津条約」には変乱などが解決したら、ただちに兵を撤回し、ふたたび「留防せず」という規定がある。大島公使と袁世凱とのあいだで12日から始められた共同撤兵交渉では、15日の時点で日本軍四分の三、清国軍五分の四は即時撤兵、民乱静穏化ののち全部撤兵で意見が一致した。だが、日本政府は駐在と兵員増派計画をかえようとしなかった。

6月15日の閣議は、朝鮮駐在の口実づくりに腐心し、農民軍の日清両軍による鎮圧と朝鮮内政の日清共同改革を清国に申し入れる案をこねあげた。どちらも、駐兵の理由として陸奥外相が決定をためらうほど薄弱である。大島公使からの報告も牙山の清国軍は動かず、農民軍は平静で漢城付近も静穏であると伝えていた。清国に提案した共同改革案は、朝鮮の内政干渉になるという理由で清国から拒否された。

そのうえ朝鮮政府およびロシア・イギリスをはじめとする各国公使から日清同時撤兵の要求あるいは勧告が出され、清国側は徹兵に応じる意向を示していた。しかし、日本側はこれを拒否、またしても同時撤兵の機は失われる。このとき日清両国の撤兵が実現していたら、日清戦争は起こらなかったはずである。

だが賽は投げられた。のちに陸奥が書いた「謇謇録」には「何とか一種の外交攻略を施し、時局の一転を講ずるの外、策なき場合となりぬ」とある。大量出兵した以上、無成果のまま撤兵することは国内世論の点からもできなかった。

6月27日、陸奥は大島公使に開戦の口実作成を命じる指示を与えた。大島は清国勢力を排除した後でなければ内政改革の実行は不可能であるが、日清軍の衝突はそう簡単には起きえないから、「内政改革を先にし、若しこれが為め日清の衝突を促せば僥倖なり」と考えていた。

大島は7月3日、外務督弁に改革綱領を提示したのについで、10日は内政改革案を朝鮮政府に手渡した。このとき大島は改革勧告を朝鮮政府が拒絶した場合には、「兵威をもって」漢城の城門および王宮諸門を占拠してはどうかと、陸奥外相に指示を仰いでいる。16日、朝鮮政府は日本側提案の改革案に対し、日本軍の撤兵が実施の条件であると回答した。

朝鮮政府の拒否回答は予想されていた。これに対する処置についての大島公使の指示要請に対して、7月19日陸奥外相はつぎのように回答した。「公使が自ら正当と認むる手段を執られるべし」と。ただし、「我兵をもって王宮及び漢城を囲むるは得策にあらずと思われば、之を実行せざることを望む」とも書き添えた。

しかし22日を回答期限とした日本側公文による要求(清国軍の撤兵、清朝宗属関係を反映する清朝間諸条約の廃棄など)にたいし、朝鮮政府が回答を渋るとみるや、大島公使は混成第九旅団長大島義昌少将とはかって、軍事行動にうつった。漢城郊外の竜山に駐屯していた歩兵一連隊などを入京させ、王宮の景福宮などを占領したのである。

この王宮占領事件は参謀本部の公式戦史「明治廿七八年日清戦史」などでは、先に発砲した王宮守備兵との偶発的衝突から日本軍が応戦、王宮に進入した、とされている。しかし近年、中塚明氏による福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の同書草案の発見(「日清戦史から消えた朝鮮王宮占領事件」)や「日本外務省特殊調査文書」60の刊行などにより、実態が明  らかにされつつある。すなわち、あらかじめ計画された筋書き通りに、7月23日早朝3時ごろ、日本軍が城内に入って諸門を固め、市内を巡視する一方、歩兵第二一連隊第二大隊を中心とする「核心部隊」が迎秋門(西門)を打ち破って景福宮に侵入、国王を虜にし、王宮内の武器を押収、制圧したのだった。

この事件は8月20日調印の「暫定合同条款」で「両国兵員偶爾(偶然)衝突事件は彼此共に之を追求せざる可し」として封印してしまったが、平時、外国軍隊が王宮に侵入し、国王を捉えるということは空前の暴挙というほかない。そのうえ清国から送還されて蟄居中の太院君をまたまた執政に任じて政務を統轄させることにした。閔氏政権の追放をはかったのである(甲午政変)。

中略

周到な計画のもとに実行された王宮占領は開戦の狼煙だった。漢城の大島旅団長が参謀総長あてに事件発生の第一報を送ったのは7月23日午前8時。11時には連合艦隊の先発隊として第一遊撃隊が佐世保を発進よう「吉野」「浪速」「秋津洲」は、翌朝清国軍艦「済園」「広乙」と遭遇し、交戦した。豊島沖海戦という。「済園」は敗走し、「広乙」は座礁した。

この海戦中、「浪速」艦長東郷平八郎大佐は清国砲艦「操江」に護衛され、イギリス国旗を掲げた輸送船「高陞」をとらえた。捕獲宣言に対して「操江」は降伏したが、清国将兵1000人を乗せた「高陞」は降伏を拒否、「浪速」はこれを撃沈した。「浪速」は救命ボートで船長ら四人の西洋人を救助したが、清国兵を見捨て、銃撃を加えて現場を去った。国際法違反の疑いがある「高陞」撃沈はイギリスの世論を刺激した。

一方、26日(25日ともいう)に漢城駐屯の日本軍は朝鮮政府から清国軍駆逐の委任を引き出し、南進を開始した。清国軍は牙山の東北20キロの成歓に布陣して日本軍を迎撃したが、
「高陞」増援部隊の潰滅で意気消沈した清国軍は、29日兵力でまさる日本国軍との交戦で敗北した。翌30日、日本軍は牙山を制圧する。

豊島沖海戦の25日、大島公使は朝鮮政府から「清国商民水陸貿易章程」「奉天貿易章程」「吉林貿易章程」廃棄を唐紹儀(帰国した袁世凱に代わる代理交渉通商事宣)に通告したむね、報告を受けた。これは20日以来、大島公使が属邦条項をふくむ清朝条約は「貴国自主独立の権利を侵害」するとして、廃棄すべきことを朝鮮政府に強要していたものである。

8月1日、天皇は戦争の詔勅を渙発した。詔勅は、朝鮮を属邦として内政に干渉し、内乱にかこつけて出兵した清国の不当性を指摘し、これとは対照的に「日朝修好条約」以来、朝鮮の「独立国の権義」を尊重してきた日本の正当性を強調して、開戦のやむなき理由とした。戦争遂行の名分としての朝鮮の「独立自主」扶助は、日清戦争の全段階でくり返し叫ばれる。ただしそれは親日独立であって、反日独立であってはならないのである。

対清宣戦布告から12日後の8月13日、陸奥外相は大島公使に訓令し、朝鮮が清国に宣戦布告するか、さもなければ宣戦にかわるべき日本との同盟を公表するよう、朝鮮政府と交渉することを命じた。陸奥は戦争が日清間の交戦にとどまり、朝鮮が「中立国のごとき有様」になれば、「第一には他国の干渉を招く恐れあり、第二には日本政府が大兵を同国内に派遣するの名義なく、遂に他の非難を愛くるの虞れなき能わず」と考えていたからである。

清国の勝利を信じて疑わぬ太院君らが反発したことは想像に難くないが、それから一週間後の8月20日には「暫定合同条款」は、次のような内容からなる。(1)朝鮮内政改革の施行(2)漢城―釜山、漢城―仁川間鉄道の早期敷設(3)漢城―釜山、漢城―仁川間の軍用電信(開戦前の無断架設)の条約化、(4)全羅道内に貿易港開港(5)王宮占領事件の不問(6)朝鮮「独立自主」のための日朝委員会による合同会議開催、(7)王宮警備の日本軍の撤収、である。侵略の事実を覆い隠すかのように、その前文には「朝鮮の自由独立を強固にし」、両国間の貿易振興、国交親密のためこの条約を結ぶ、と記されている。

ついで六日後の8日26日、「大日本大朝鮮両国盟約」が調印された。それは第二条で「日本国は清国に対し攻守の戦争に任じ、朝鮮国は日兵の進退及び其糧食準備の為め、及ぶ丈け便宜を与うべし」と規定した、れっきとした攻守同盟条約である。大島公使・金允植外相ともに正式の全権委員の資格で調印した。

日清戦争の「戦場若しくは戦場に達すべき通路」である朝鮮における日本軍の軍事行動を、「朝鮮政府の同意を得たるか、若しくは朝鮮政府と一体の運動を為すかの実を挙ぐる事肝要」とみる日本政府は、23日大島公使や朝鮮軍司令官あてに、「第三国をして容易に容喙干渉の端」を与えるような行動をつつしむよう訓令した。朝鮮を日本の同盟国に擬して、国際的批判の目をそらさせようという狙いである。

攻守同盟により日本軍は朝鮮で思いのままの人馬・糧食の挑発をおこない、朝鮮民衆の反発をかったが、そのような条約をむすび徴発の下請け機関となった金弘集政権にたいする人びとの不信感をかきたてることにもなった。

日清開戦による日本の朝鮮侵略に憤激した農民軍は、ふたたび決起した。1894年10月、全琫準・孫和中が10万といわれる全州・光州の農民軍を全羅道参礼に集結させると、それまで蜂起に消極的だった忠清道の東学組織もこれに呼応し、孫秉煕の率いる農民軍が全羅道農民軍と忠清道論山で合流した。

農民軍は南下した朝鮮政府軍・日本軍と忠清道各地で交戦したが、近代的兵器による集中射撃と包囲戦で敗退せざるをえなかった。決戦を公州入城にかけた農民軍が公州南方の牛金時で政府軍・日本軍と対決したのは12月4日から7日間である。50回にも及ぶ攻防戦がくり返されたが、兵器に劣る農民軍は大敗を喫し、後退した論山・全州の戦闘にも敗れて分散した。

全羅道・忠清道をはじめ農民軍が蜂起した各地では、政府軍・日本軍による大量殺戮が行われ、財産が没収され、家屋が焼かれた。捕えられた全琫準は漢城で日本領事も加わった審問を受けたすえ、翌年4月死刑に処せられた。金開南も捕えられ、その翌日処刑された。

こうして甲午農民戦争は鎮圧され、農民革命の灯は消されたが、侵略者と封建権力にたいする彼らの怨念は、1898年~99年全羅道でおきた英学党運動や1900~1905年忠清道・京畿道・慶尚道でおきた活貧党の運動にうけつがれた(海野福寿
著「韓国併合」岩波新書P88-97)


ちなみに日清戦争全体の犠牲者数を比較すると、戦死者は日本人約二万人、中国人約三万人とされるが、朝鮮農民の犠牲者数はその両者を上回るものと見積もられている(中塚明他著「東学農民戦争と日本」高文研 参照)。

いずれにしても日本はこの戦争によって、朝鮮から清国の影響を完全に排除することができ、もはやその領土を手中にしたも同然であった。しかしながら、この戦争の後どの教科書にも記載されているように、ロシアとドイツとフランスの三国によって日本が清国から割譲された遼東半島を返還するよう干渉(三国干渉)され、当時の日本の軍事力ではそれらの西洋列強に対抗できなかったため、この大きな戦果を涙ながらに手放さざるをえないという苦汁をなめさせられる。

実は、先に紹介した明成皇后(閔妃)の惨殺というおぞましい事件はこのような情勢の変化の中で起こるべくして起こった事件であった。日清戦争後、長年清国の属国として生きてきた朝鮮王朝はもはや新興の隣国日本に屈服せざるを得ない状況ではあったが、しかし王妃(閔妃)の一族は日本に屈服することを好まずロシアの力を頼みにしながら、次第に親ロシアへと傾き始めたのである。この芽を早く摘まなければ、いずれロシアは朝鮮半島に触手を伸ばしてくるだろうと日本政府は先読みし、今のうちに王妃を排除してしまおうと決めたのである。しかし、この事件のあとも日本が朝鮮を完全に手中にするためには、さらに多くの困難が待ち構えていた。

つづく


参考文献:中塚明著「日本と韓国・朝鮮の歴史」高文研
    :呉善花著「韓国併合への道」完全版 文春新書
    ;海野福寿著「韓国併合」岩波新書

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日清戦争を痛烈に批判した勝海舟

イザヤ・ベンダサン(山本七平)著「日本人とユダヤ人」の中に次のような一節がある。

日本人すなわち日本教徒を手っとり早く理解するにはどうしたら良いか、という相談を受けた場合、私は即座に『氷川清話』を読めということにしている。確かに、記紀万葉より源氏・平家・枕の草子より徒然草、さらに漱石、鑑三、川端康成まで読み、さらに仏典から日暮硯、駿台雑話まで読めば良いのだろうが、外国人には(専門家は別だが)それだけ読破するのは到底不可能だから、私は前記の書をあげる。ただこの書にも難点がある。言うまでもなく『氷川清話』は勝海舟の談話を筆記したものだが、その中で海舟が言及しているさまざまな人物や、その人物が活動した明治維新という背景が分からないと理解できない。しかしそれらについてのある程度の予備知識があれば、これにまさる本はない。

まず第一に勝海舟という人物が、その時代の第一級(もちろん全地球上での)の人物であったことによる。これほどの人物は確かに全世界を通じて一世紀に一人も出まい。彼と比べれば同時代のナポレオン三世などは紙屑のごとく貧弱である。三度の食事も満足にできない貧家に生れ、十二歳にして将軍家慶に見出されて以来、海軍の創設、咸臨丸の渡米は言わずもがな、長州征伐、対外折衝、その他すべての難局には召し出されてその任にあたる。その間、反対派の刺客に常につけねらわれながら一人のボディーガードも置かず、両刀さえもたない。現状を正確に分析し、当面の問題を解決する手腕は文字通り快刀乱麻を断つで常人とは思えないが、一方、遠い将来を正しく予測している、実にすばらしい人物であって、まさに「政治天才」の民族の典型であり超人であるといってよい。事実、彼のことを少しでも知った外国人で、彼に感嘆しない人はいない。私などもイスラエルの歴史にこういう人が一人でもいてくれたらと思う。(『日本人とユダヤ人』山本書店P99-100)


最近この文章を思い出し(イザヤ・ベンダサンこと)故山本七平氏がこれほど褒めちぎっていた勝海舟という人物に興味をもってお正月前に「氷川清話」(講談社学術文庫)を購入して今読んでいるところである。

勝海舟というと一般に幕末の志士の中では3番目か4番目、良くても2番目に語られる人物ではないだろうか?もちろん、では1番目は誰かというと坂本龍馬でありあるいは西郷隆盛である。ところが龍馬にしても西郷にしても勝海舟の影響を抜きには彼らの活躍は考えられない。龍馬は勝海舟の弟子であり、そして西郷は勝海舟によって世界観を変えられた恩師である。事実上、維新の最大の立役者は誰かというと、それは西郷隆盛に違いないが、しかし勝海舟という人物がいなければ西郷の活躍はありえないし、また薩長同盟の役割を果たした龍馬の活躍もありえない。したがって、勝海舟こそが明治維新の影の立役者だったということはだれしも認めるところであろう。これは歴史の常識といってもよいのであろうが、しかし故山本七平氏にいわせると、勝海舟の偉大さはそんな程度ではないのである。

「勝海舟という人物が、その時代の第一級(もちろん全地球上での)の人物であったことによる。これほどの人物は確かに全世界を通じて一世紀に一人も出まい」と山本七平にいわしめたものは、一体何だったのであろうかと思いながら、「氷川清話」を読んでみると、確かにこれはすごい人物であったということがなんとなく分かってきたのである。勝海舟が本当にすごいと思うのは、彼が華々しく活躍していた幕末の時代ではなく、むしろ明治維新後に彼が政治的に引退した後の発言を知れば分かる。

なんと、彼は日清戦争に反対していたのである!それのどこがすごいのかと思う人もいるかもしれない。しかし、当時の政治家や知識人の中で表立って日清戦争に反対した人物はおそらく勝海舟以外には見いだせないであろう。あのクリスチャンで非戦論者の内村鑑三でさえ、後年の日露戦争には反対したが日清戦争には支持していたし、さらに当代最高の知識人夏目漱石でさえ支持者だったというから、勝海舟という人物の非凡さが分かるのではないか。ちなみに昨年のNHK大河ドラマの準主役であったクリスチャンの新島譲は残念ながら日清戦争前に亡くなったので、彼が生きていたらどのようにあの戦争を感じたであろうかということは大いに興味のあるところだが、しかし、彼の第一弟子ともいえる徳富蘇峰が日清戦争を契機に好戦論者となり、自ら新聞社を立ち上げて軍国主義化を推し進める国粋主義右翼の代表的言論人となり、彼のその後の過激な好戦論が太平洋戦争開戦に至るまで国民を扇動していったという事実をみると、新島譲も天国で安らかではなかったであろう。

ちなみに「八重の桜」のラストに近いシーンで綾瀬はるか扮する新島八重が日清戦争後好戦的言論を展開していた徳富蘇峰を叱り飛ばしていたのは、事実であったかどうかはともかく、その後の徳富蘇峰のあまりの愚行に対して新島譲が感じていたことを八重に代弁させたのであろうと思われる。なぜなら新島譲は日清戦争に反対していた勝海舟とも当時非常に近い存在であり、彼の墓碑銘はなんと勝海舟の筆によるものであったというのである。おそらく勝海舟にとっても新島譲の死はこの先の日本にとってあまりにも惜しまれる死だと思われたのではあるまいか。

したがって故山本七平氏があれほどまでに勝海舟を称賛していたのは故なきことではなく、おそらくは勝海舟の維新後の一連の発言がまさに当時の世界でも例をみないほど非凡な人物であったという証拠を発見したからであろうと思われる。ちなみに故山本七平氏は新島譲に並ぶほど日本でももっとも古い明治初期からのクリスチャンの家系であり、彼の両親は日露戦争後に非戦論者になった内村鑑三の弟子だったということを知っていただければ、故山本七平氏が何故に勝海舟を称賛していたのかということの理由の一端が分かるであろう。先の文章の中で特に重要な指摘は次の一文である。

現状を正確に分析し、当面の問題を解決する手腕は文字通り快刀乱麻を断つで常人とは思えないが、一方、遠い将来を正しく予測している、実にすばらしい人物であって、まさに「政治天才」の民族の典型であり超人であるといってよい

この一文に要約されている山本七平氏の洞察力の深さを知っていただきたい。幕末当時、勝海舟が生きていた時代はいまだ日本人が日本人としての意識のない時代であって、そもそも「日本人」とか「日本国民」という言葉さえもなかった時代である。当時の人々は「江戸人」とか「長州人」「薩摩人」というような意識の中に生きていた時代であり、その上に「日本人」という意識を持つ人びとはほとんど皆無といってもよかったのである。しかし、黒船の来航によって日本人の民族意識は急激に変わらざるをえなくなったのであるが、勝海舟はその黒船来航以前から自ら蘭学を学び、洋学の知識を誰よりも先に身につけることによって、近い将来に日本が藩意識から脱皮しなければならないということを感じていた。と同時に、彼は日本が西洋列強の植民地化を防ぐためには海軍を作って黒船に対抗する実力をつけなければならないということを江戸幕府に進言し、それを実現させたのである。

黒船来航で初めて危機感に目覚めた当時の武士たちは攘夷か開国かという両論に分かれるのであるが、勝海舟はそのどちらでもなくもっと先の将来を見据えていたのである。すなわち日本人はもはや藩の意識を脱皮して、藩同士の利害対立を超えた世界の中の日本人としての意識に目覚めなければならないと説いたのである。この勝海舟の考え方に共鳴して弟子入りしたのが坂本龍馬であり、そしてそれまでは薩摩藩の利益だけしか考えていなかった西郷隆盛の意識まで変えてしまうのである。戊辰戦争最大の山場で江戸総攻撃の態勢をとっていた西郷率いる官軍に対して、江戸城の無血開城という画期的提案をもって西郷に面会を求めたのは、それ以前から西郷に対する信頼関係があってのことである。勝海舟は終始一貫平和主義者ではあるが、いざとなれば江戸を火の海にして戦う覚悟もできていた。要するに勝海舟が西郷に説いたのは、日本人が団結しなければならないということであり、そうしなければ列強の植民地にされてしまうということであった。

しかしながら明治新政府樹立後、やがて西郷隆盛と勝海舟は二人とも下野せざるをえなくなり、新政府の要人は主に長州藩閥に占められていくのであるが、彼らは二人とも明治新政府に対して不満を募らせるのである。ただし、西郷隆盛と勝海舟の考え方は明らかに違ったものであった。西郷隆盛は新政府が武士の伝統を否定し一挙に西欧化することに抵抗を感じていたが、勝海舟は新政府が新たな排外主義になってしまったことに対して失望するのである。ただし勝が失望したのは明治新政府に長州藩が占めることに失望したのではなく、もっと大きな世界を見据えてのことである。すなわち明治新政府は維新によって、藩の意識から脱皮し「日本人」という愛国意識を国民に植え付けることには成功したが、勝海舟の目からみればその新しい日本人の意識は以前の江戸時代よりもさらに悪質な排外主義に陥ったとしか見えなかったのである。勝海舟が日清戦争に断固反対したのはそのような理由からであった。

日本は中国を打ち負かしても何の得にもならない。むしろそれによって欧米列強が中国の虚像を見抜いて、ますますアジアの植民地化に拍車がかかるだけであろう。日本がなすべきことはアジアの連帯であって、日中韓が連帯して欧米に対抗していかなければ、日本はかえって国益を損なうだけであるというのである。勝海舟の意識はもはや日本人という枠を超えて、アジア人、さらに世界人という意識にまで達していた。このような国際人としての意識に目覚めた日本人というのは、当時では珍しく、おそらく世界でも珍しいであろう。これこそ山本七平氏がいう「遠い将来を正しく予測している」まさに先覚者の証である。

勝海舟は例のべらんめい調の江戸弁で次のように語っている。

日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないヂゃないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬにかぎる。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりをやるに限るよ。

おれなどは維新前から日清韓三国合縦の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引き受けることを計画したものサ。今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところをなるくらゐのものサ。

日清戦争の時、コウいう詩を作った。

隣国交兵日 其軍更無名
可憐鶏林肉 割以与魯英て、

黄村などは「其軍更無名とはあまりにひどい。すでに勅語もでて居ますことだから」といって大層忠告した。それでも「これは別の事だ」といって人にもみせた。○○サンにも書いてあげたはずだ。(氷川清話」講談社学術文庫P269)


この勝海舟の言葉によって感じられるのは、長年の隣国であった中国や韓国に対する友誼心である。彼らは長年の友達であって恩人である。絶対にまちがっても敵国ではない。憎むべきは欧米列強の植民地化政策であり、それに対抗するためには三国が共同しなければならないといっているのである。この時代は欧米列強による植民地分割時代であり、勝海舟の目には日本人がその欧米のものまねをして朝鮮や中国を植民地化する競争に加わるというのはもっての外だと映ったであろう。

もし勝海舟が当時の日本政府首相になっていれば、日清戦争も日露戦争も起こらなかったはずであるし、ましてや古くからお世話になった兄貴分の韓国を奴隷状態にするというような恩知らずなことはやらなかったであろう。残念ながら、伊藤をはじめ当時の長州閥の指導者は愛国心をはきちがえ、排外主義に陥ってしまったのである。自分の国さえよければよい。そうだ、自分たちが植民地になる前に周りを植民地にしてしまおう!彼らにはそのような悪知恵が働いたとしか考えられない。

司馬遼太郎のいわゆる司馬史観によれば、明治時代は多くの夢があり、希望にあふれた時代であり、日清日露の戦争もそれほど悪い戦争ではなかったが、昭和の時代になってから急におかしな時代になって悪い戦争をやるようになったというようなことをいっているが、これはまちがった歴史解釈であろう。むしろ勝海舟がいっていたように、明治は江戸時代よりも悪質化したのであり、そしてその悪質化にますます拍車がかかって最終的に昭和20年の敗戦に至ったのだとみるのが正しいだろう。勝海舟はそのような悲惨な時代がくることを予見していたかのように、次のように書いている。


一消一長は世の常だから、世間は連戦連勝などと狂喜し居れど、しかし、いつかはまた逆運に出会わなければならないから、今からその覚悟が大切だヨ。その場合になってわいわいいっても仕方がないサ。今日の趨勢を察すると、逆運にめぐりあふのもあまり遠くはあるまいヨ。しかし、今の人はたいてい先輩が命がけでやった仕事のおかげで、顕要の地位を占めているのだから、一度は大危難の局にあたって試験を受けるのが順当だろうヨ。(「氷川清話」講談社学術文庫P272)


勝海舟の日清戦争批判は大方の国民にとってはおそらく知る機会がなかったであろう。それどころか知識人も含めてほとんどの国民は日清戦争とはいかなる戦争なのかという事実を知らされていなかったのである。だからこそ夏目漱石のような一流の人物まで戦争を支持してしまったのであろう。

「八重の桜」の最終回で新島八重が好戦論者になった徳富蘇峰を叱り飛ばしたのは、事実かどうか分からないが、それに対して(大河ドラマの中の)徳富蘇峰の答えは次のようなものであった。

「国民は戦争の扇動記事を喜んでいるのです」

これは事実であったと思われる。日本がこれをきっかけにどんどんと戦争をエスカレートしてゆくのはまさしく大部分の国民がそれを欲していたからであった。勝海舟が「連戦連勝で狂喜し居れど」と書いているのも、そのような戦争を後押しする世論の空気があったからである。

徳富蘇峰が始めた新聞社「国民新聞」はこの日清戦争以降、一貫して好戦的な新聞として世論を扇動する役目を果たすのであるが、一方、一部では軍拡に批判的な朝日新聞社のような良識派の新聞社もあったことは事実である。しかしながら、朝日新聞社は満州事変のときにこれを批判したために国民から大バッシングを受けることになり、新聞がさっぱり売れなくなったのである。このために背に腹はかえられないということで、良識を捨てて大政翼賛的な新聞社に変身したのである。

昨今の気配をみると、これは決して過去の出来事としてすますわけにはいかない。今現在の世の中の「空気」をみていると、同じようなことがいえるからである。ここ数年の間に多くの大手の出版社が反中反韓の本を売り出すようになっている。また雑誌や週刊誌もその類のものが急に増えている。夕刊フジに至ってはこの一年間ほぼ毎日といってもよいぐらい、反韓記事がトップを飾っている。これは明らかに売れるからなのであろう。中国や韓国の悪口を書くことが、出版社の儲けに明らかにつながっているのである。

勝海舟が今生きていればこれをどのように思うだろうか?きっとこういうのではないだろうか。

「日本人というのは変わらない民族だヨネエ。アメリカさんに原爆を落とされてもまだ懲りずに、我が国はアジアの盟主であらねばならないなどと無邪気に信じちゃっていてサ。ほんの70年前まで隣国にどんな酷いことをしていたかということもスッカリ忘れちゃってんだから、ホント、おめでたいものサ。」

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日韓の歴史問題 その4 条約で騙し続けた日本 日清戦争から日露戦争まで

一昨年の12月に安倍政権が樹立されてから一年と一か月になるが、その安倍政権よりも一か月余り後に生まれた韓国の朴槿惠政権との間でいまだに首脳会談が実現しないというのは確かに異常なことではあるが、これに対する日本政府と日本人一般の反応をみていると、まるで明治時代初期の征韓論を思わせるように居丈高にみえるのは私だけであろうか?

このような異常事態を招いた経過について、よく考えていただきたい。安倍総理は政権発足後すぐに「河野談話と村山談話の見直し」をほのめかし、従軍慰安婦問題については「強制連行の証拠はない」という発言、さらに「戦後レジームからの脱却」はたまた「侵略という言葉の定義は定まっていない」というような発言を繰り替えして中韓のみならずアメリカからも厳しい批判があった。さらに昨年四月には恒例の靖国神社例大祭に主要閣僚が参拝し、安倍氏は参拝を控えたものの玉串料を奉納して、あくまでも靖国に対する自らの思いが不変であることを内外に印象付けた。

このような安倍総理の(かつての自民党のどの総理にもなかった)極右体質が韓国の人々に歓迎されないのは当然のことであろう。お互い首脳会談をやるからには無表情のまま握手をするなどという不自然な行動はできない。互いに笑みを浮かべて和気あいあいの雰囲気を作り出すのが礼儀というものである。しかし朴槿惠大統領にとって安倍総理と笑みを浮かべながら和気あいあい歓談する気分にはどうしてもなれないのは無理もない話であり、それに対する何の理解も配慮もなく、朴槿惠大統領に対して多くの日本人が傲慢極まりない人物だと一方的に非難をしているのはいかがなものか。

これは明治初期の征韓論とまったく同じ構図である。当時、日本に明治新政府が発足した後、長い付き合いのある隣国に王政復古を通告し新たな国交を結ぶべく、日本は朝鮮王朝に対馬の使節を介して国書を送った。しかしながら、その国書の中に当時の朝鮮王朝が絶対に容認できない二つの言葉があった。それは「皇」と「勅」という言葉である。「皇」というのはローマ皇帝という言葉にも使われるように、帝国主義的野心を秘めた言葉であると解釈され、また「勅」という言葉は日本の皇帝の臣下になれということを意味しているものと解釈された。それまで朝鮮王朝にとってその言葉を使用することが許されるのは、彼らの宗主国である清王朝だけであり、かつて秀吉のときに侵略された憎むべき東夷の国(当時の中華秩序から見て東の果てに位置する蛮族の意味)からそのような言葉をちらつかせて来られるのは、何か魂胆があるにちがいないと思われたのであろう。

彼らがそのように警戒したのは無理もなかった。事実、その約40年後にはまさにその言葉の通り日本国天皇の臣下にされてしまったのであるから、彼らの警戒心は決して理由のないことではなかったといえる。

しかし当時の明治政府は朝鮮王朝が国書に対し受理もせず送り返してきたことに対して、「無礼である」とか「侮辱である」とかいって、いっきょに征韓論が高まっていった。これがきっかけで韓国を討つべしという強硬論が政府内部で勢いをもつようになるのであるが、この後、政権内部の征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助らが敗れ、彼らは下野することになるが、やがてほどなく反征韓論であったはずの岩倉具視や大久保利通、木戸孝允ら政府主流派は江華島事件を起こし、まさに彼らが否定していた武力でもって征韓を実行したのであった※。

※後の時代に西郷隆盛は征韓論者だったというレッテルを貼られるが、彼の主張は武力征伐を意味するものではなく、自らが使節となって国交樹立を実現させたいというものであったとされる(ただし、板垣退助は実際に武力征伐を唱えていたらしい)。また前にも述べたように西郷は下野してから政府の強引な江華島事件を聞きつけ、これに憤慨し批判していたことからもいえるように、西郷が征韓論者であったというのは、明治政府の悪意のレッテルではないかという気がする。

いずれにしても、当時の日本と韓国の関係は現在の両国の険悪な関係に驚くほどよく似ている。明治の政府も現在の日本政府と同様、なぜ韓国(朝鮮)はわれわれと会談しようともしないのかという不信感をもっており、これを「無礼である」とか「侮辱である」という道徳的な非難に直結させていたのであるが、これはよく考えると日本側の物差しを相手側が採用しないことに対して抱く自己中心主義史観の反映であろう。

前にも紹介したが、故山本七平氏の言葉をもう一度かみしめてみたい。

私が会った韓国の人は、現状を肯定するにせよ批判するにせよ、常にそれを、李朝時代、日本統治時代、朝鮮戦争時代といった長い歴史の中の「一つの時期」として考え、その現状を「自民族の歴史の一貫」として、過去との対比と将来への展望の中に位置づけてこれを見ていることを感じざるをえなかった。そしてこの歴史的位置づけの中で日本の統治時代は、もちろん大きな比率を占めている。この点の韓国人の感じ方は、決してわれわれと同じではない。彼らはわれわれのような忘却の民ではなく、過去が流れ去ってしまうわけでもない。(中略)
日本の新聞の「韓国報道」には以上の視点がない。この点西欧よりもむしろアメリカの世論に似た面があるが、調べてみると、少なくとも韓国に関する限りこの傾向は戦後の特徴ではなく、戦前、否、明治以来ほぼ一貫している「日本人の韓国観」だともいえる。その特徴は日韓を区別できず、そのため「韓国の歴史において韓国を見る」ことができず、日本の現状を絶対の尺度として相手を批判し規制しようとするアメリカ的態度である尺度とはいうまでもなく、戦後は「アメリカ輸入・日本型民主主義」であり、戦前は「プロシャ輸入・日本型君主制」であった。そしてこの輸入先に対しては常に従順なのだが、韓国に対して少なくとも日本の新聞は「自己の尺度」を絶対化し、日本というベッドに適合するように体型を変えよと韓国に要求する態度になっても、相手が相手の歴史という自らの尺度で自己を評価する権利を認めようとしなかった。


ついでながら、このあとに続く文章も引用しておく。

アメリカは頑迷に自己の基準を守るからまだよいが、日本は、絶対化して韓国にまで強要する自らの尺度を、何かの拍子に日本自身がパッと捨てて、くるりと百八十度転換し、次の日から全く別の尺度を絶対化し、今度はその尺度を韓国に押し付けてくるという事態が起こらないという保証がどこにもない。そして日本はくるりと変われば前日のことは消えてしまう。「日本人は永遠の裏切り民族だ」と李承晩元大統領は生涯言い続けたそうである。彼は明治以降の日本の対韓政策を永々と説明し、戦後における日本人も「最後には裏切る、絶対信用してはならない」と結論づけ、これを、耳にタコができるほど聞かされたという欧米人記者も少なくないという。

そして韓国人から見れば、日本という「君子国」の豹変は何も40年前の「一夜にして民主主義」だけではなかった。明治以来の対韓外交史は彼らの目から見れば日本豹変史だともいえる。明治維新も彼らの目から見れば開港派と攘夷派の激烈な闘争である。そして攘夷派が勝った。しかし勝った途端に攘夷派は開港派に豹変し、豹変した瞬間に韓国にも開港を迫った。また不平等条約の押付に憤慨していながら、同じ不平等条約を韓国に押しつける。-韓国側からみれば、どうもこの辺からすでにおかしいのである。ついで、日本は一貫して韓国が独立国であることを主張し、日清戦争後には韓国を軍事的に強化して自己の同盟国にするつもりがあったらしく、陸士に1896年(明治29年)から急に留学生を受け入れ、1909年(明治42年)までに合計63名が来日しているが、その翌年には日韓併合を強行してこれを打ち切っているそして一視同仁とは言うものの、韓国人の士官学校入学は45期まで実質的に拒否している。-ほんの小さな一例だがこういった例をあげれば枚挙にいとまなしであろう。従って、今日の新聞の基準が明日にはくるりと変り「善意」をもって新しい基準を日本がまた韓国に押し付けてくるという事態が起こらないという保証はまったくない。そしていや過去はいざ知らず、将来は絶対にそういうことは起こりません」と断言できる日本人も、またいないだろう。(「
洪思翊中将の処刑」山本七平ライブラリー文芸春秋 P56-57)


あらためて断わっておくが、この文章は今から35年も前のものである。この文章をみると、山本七平氏の言葉はまるで預言者のように正確に未来を予測しているのに驚かざるを得ない。

故山本七平氏がいうように、隣国に対する日本の「善意」というものは所詮このようなものでしかなかったということは、今も昔も同じではないかと思われる。最近、「日本は韓国によいことばかりしてきた」というような日本善玉論の本が平気でまかり通っているのをみると、日本人のいう「善意」の意味は昔から全然変わっていないのであろう。というより、最近のネット右翼たちの大量繁殖をみていると、もしかすると日本人は先祖がえりを起こしているのではないかとさえ思う。

ここであらためて、日本がいかにして韓国(朝鮮)に対して「善意」という名の押し付けで騙し、最終的には併合にまでもっていったのかという経緯について少しく検証してみたい。

1875年の江華島事件の後、朝鮮王朝は圧倒的武力の差に恐れをなし開国の要求を飲むことになった。ここで日本は朝鮮に対して(自らがアメリカに強いられたのと同じような)不平等条約(日朝修好条約)を結ばせることに成功している。この条約は治外法権とか関税自主権の放棄という項目を認めさせたものであり、これによって日本はただ単に貿易上の利益を得ただけではなく、将来の朝鮮半島の植民地化という方針の橋頭保となるのである。ただし、当時の朝鮮はこの条約が不平等条約であるということはまったく知らなかった。その彼らの無知につけ込んで、日本がこれは両国の互恵関係にとってよいものだと押し付けるので、それを仕方なく受けたというのが真相だろう。

特に重要なのはこの条約の第一款に記された次の条文である。
「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。」

これのどこが問題なのかと思われるかもしれないが、わざわざこの一文を条約の第一款として書いたのは、朝鮮が清国の属国ではないということを両国の間で認めることを意味しており、これは後々併合にいたる布石としても重要な意味をもつものとなった。

もちろんこの時点では、朝鮮にとってもこの条文は当然のことであり、むしろ日本が朝鮮を対等の国として認めているという風に善意に解釈し悪い気はしなかったであろう。しかしながら、この条文があったために、以後の日清日露の戦争が始まったのだということを、後々彼らは気づくことになる。なぜなら日清日露の戦争は「朝鮮の自主独立のために」という大義名分をうたったものだからである。

どんな戦争でも、それが(真の)自衛戦争でないかぎり戦争を起こすためには必ず大義が必要である。すでに述べたように日清戦争のときは朝鮮の自主独立のためという大義をうたい、これを始めたのである。もちろん朝鮮の人々は決してそれをそのまま信じている者はいなかった。元々は反日的な意図を内包した農民一揆(東学党の乱)を押さえつけるために朝鮮政府が清国に派兵を求めたことがきっかけであり、このとき日清両国の間でいずれか一方が朝鮮に派兵をした場合、もう一方の国も派兵する権利をもつという取り決め(天津条約)を日清両国間で結んでいたために、これさいわいとばかりに日本も派兵を決定したのである。当然、その派兵は清国と戦争を始めることが目的であった。その前に、この天津条約を交わすきっかけとなった甲申事変について少し説明したい。

甲申事変というのは日清戦争より10年前の朝鮮王朝内部で起こった親日開化派によるクーデターのことであるが、この事件は実は日本政府が後ろで糸を引いていた事件であった。事件の首謀者金玉均らが福沢諭吉の招きで来日し、福沢は彼らに文明開化の必要を説いて、彼らを親日開化派に育て上げた。その後、彼らは故郷で同志を増やし、そして日本軍の力を借りてクーデターを起こそうと決意する。

事件の詳細については省く(詳しくはwikipedeaを参照されたい)が、この時、日本は朝鮮王朝内部の矛盾を利用して親日派を背後で操りながら、あわよくば日本にとって好ましい親日政権を樹立させようと企んだのである。もちろん福沢諭吉自身は純粋に朝鮮にも文明開化をもたらしたいと考えたのかもしれないが、中華文明の中でも最も模範的な儒教国家として誇り高い彼らに対して、日本式文明開化を移植しようとする試みは容易ではなかったし、またそれを血なまぐさい殺傷を伴うクーデターで実現させようとしたことには無理があった。

このクーデターは一時的には成功したが、ほどなく清国の軍事介入によってクーデターを実行した一味はことごとく逮捕され処刑された。このときの経験が後々の日本の朝鮮政策を変えたといえるであろう。福沢諭吉はこのクーデターの失敗によって「脱亜入欧」ということを言いはじめ、もはやアジアにはなんら学ぶべきものはないという考え方に変わったといわれる。しかしながら、前にも紹介した勝海舟のようにアジアは団結しなければならないと考える人々もいたが、これについてはまたあとで触れることにする。

いずれにしてもこの事件の失敗によって日本は一つのことを学んだのである。それは朝鮮を支配するためには、どうしても清国の影響を排除しなければならないということであった。すなわち清国と戦争をしてでも、彼らの影響を完全に排除しなければ朝鮮を支配することはできないということである。このとき以来、日本は近い将来清国と一戦を交えることを計画し、着々とそのための軍事力増強に努めたとみてまちがいないだろう。

一方、清国はこの甲申事変のときに日本の近代装備された欧式軍事力に驚嘆したはずである。甲申事変のときは日清両国の軍隊が一時的に対峙することはあったが、全面衝突することはなかった。しかし、いずれは軍事的に衝突する日が来るかもしれないと清国側が危惧していたとしても不思議ではない。この事件がきっかけで交わされた天津条約というのは、そのような清国側の危惧によって結ばれたのではないかと思われる。

先にも述べたように、この条約には両国のいずれかが朝鮮半島に派兵する事態が発生した時には、互いに通告し合い、もう一方の国の軍隊も同時派兵する権利があるという奇妙な約束があった。よく考えれば、これは清国にとって何のメリットもない約束である。なぜなら朝鮮はもともと清国の属国であるから、何か事があったときに清国が派兵する権利を有するのは自明なことであったはずだからある。しかし、この甲申事変のときに日本の近代的軍隊を目の当たりにした清国は将来不測の事態が起こって両国が衝突しないように、今のうちに紳士協定を結んでおいた方が得策だと考えたのかもしれない。

だが、日本側にとってはこの紳士協定を利用しない手はなかった。近い将来、清国を圧倒する軍事力を身につければ、次に何かの事態が生じたときには、合法的に軍を派兵し、(その気になれば)容易に戦争を起こすこともできたからである。

1984年、農民一揆(東学党の乱)が起こったとき、朝鮮政府はこれを鎮圧するために清国に派兵を求めたが、彼らは天津条約については何も知らないために、日本軍が同時にやってきたことに驚いた。ただし、このとき驚いたのは朝鮮政府だけではなく、反乱に立ち上がった農民たちの方も驚いたのである。この結果、日本兵が鎮圧に来たことを知って、彼らは反乱をあきらめ早々と退散してしまったのである。

本来なら、これで両国の派兵の意味がなくなり、互いに兵を引き上げるのが当たり前だが、これさいわいと清国との戦争を覚悟して朝鮮に乗り込んできた日本軍は漢城(ソウル)に居座ったまま帰ろうとしなかった。一方、清国軍の指揮官袁世凱は一人先に帰国してしまい、清国軍は最高指揮官のいない状態で日本軍と対峙しあうことになる。彼らが日本と戦争を望んでいないことはたしかであった。その証拠に清国の方は互いに同時撤兵しようと提案をしてきたが、日本側は一向にそれを受けるつもりはなく居座ったままであった。そこで自然と両軍の間の緊張は高まっていく。

このとき日本は清国と戦争をしたくてうずうずしていたわけだが、しかし、何の大義もなしに戦争を始めると、それは一方的な侵略戦争ということになり国際的な信用を失うことになる。だから日本は清国と戦争するために、「朝鮮は自主独立の国である」という日朝修好条約第一款の条文を利用し、これを名目上の大義として戦争を始めたのである。つまり日本は条約にうたっている朝鮮の自主独立のため清国の朝鮮支配を打ち砕くことが戦争目的であるとしたのである。このため日本が朝鮮派兵後にしたことは朝鮮の王宮を占領し、彼らを無理やりに日本の味方につけることであった。これ自体、明らかに朝鮮に対する侵略行為であったが、巧妙にもその意図を隠し、あくまでも朝鮮政府が日本の味方であるということを海外に印象付ける策略がとられた。

日清戦争の火ぶたが切られたのは、この日本軍による朝鮮王宮占領の成功後であったということをみれば、明らかにその意図が見えてくる。王宮を占領した日にちは1894年7月23日であり、この一週間後8月1日に日本は清国に対して宣戦布告をしている。この間、王宮内では国王高宗が虜にされ、そして失脚していた国王の実父・大院君が施政者として擁立され、日本と同盟を結ぶことを強要されていた。早く言えば王の一族を拉致監禁したうえで、攻守同盟の共同声明をだすように強いたのである。もちろん大院君とて喜んでそれに応じたわけではないが、なんとか日本は8月20日に「暫定合同条款」をださせ、そして26日には「大日本大朝鮮両国盟約」がだされた。

この暫定合同条款及び大日本大朝鮮両国盟約とはどういうものであったのか、海野福寿著「韓国併合」(岩波新書)から引用しておこう。

大島公使と金允植外相が調印した「暫定合同条款」は、つぎのような内容からなる。(1)朝鮮内政改革の施行、(2)漢城―釜山、漢城―仁川間鉄道の早期敷設、(3)漢城―釜山、漢城―仁川間の軍用電信(開戦前に無断架設)の条約化、(4)全羅道内に貿易港開港、(5)王宮占領事件の不問、(6)朝鮮「独立自主」のための日朝委員による合同会議開催、(7)王宮警護の日本軍の撤収、である。侵略の事実を覆い隠すかのように、その前文には「朝鮮国の自主独立を鞏固にし」、両国間の貿易振興、国交親密のためこの条約をむすぶ、と記されている。

ついで6日後の8月26日、「大日本大朝鮮両国盟約」が調印された。それは第二条で「日本国は清国に対し攻守の戦争に任じ、朝鮮国は日兵の進退及び其の糧食準備の為め、及ぶ丈け便宜を与うべし」と規定した、れっきとした攻守同盟条約である。
(海野福寿著「韓国併合」岩波新書P95)


このようにして日本は無理やりに日清戦争の大義を作ったのである。

下の年表をみてもらえば分かるとおり、明治政府は江華島事件で朝鮮に武力で威圧して日朝修好条約を結ばせてから、ほぼ10年単位で大きな事件が起こっていることがわかる。

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江華島事件は1975年であるが、それから約10年後に甲申事変が起こり、それからさらに10年後に日清戦争が起こり、そしてさらに10年後に日露戦争が起こっている。これは必ずしも偶然の結果ではなく、ある意味で計画的に準備されたものとみることもできる。つまり江華島事件後に次のステップとして親日派を育てクーデター(甲申事変)を起こさせたが、この失敗の経験から次は軍隊を増強し清国を排除しなければならないということを学び、また日清戦争の勝利以後は新たな脅威となったロシアの南下政策に対抗するために、さらに軍事力をグレードアップして対ロシアとの戦争準備を着々と始めたのではないかと考えられる。

日露戦争とはロシアの朝鮮半島進出を防ぐための自衛戦争であったという見方をとる者があるが、これは太平洋戦争がABCD包囲網から自己防衛するための防衛戦争であったというのと同じ暴論である。確かに明治政府がそのように考えていたふしはあるが、だからといってロシアが朝鮮半島に侵攻する可能性があったという証拠はあげられないし、仮にその可能性があったとしても、隣国がロシアに侵略されるとやがてはその脅威が直接日本にも及ぶようになるから先手を打ってでようという理論は過剰防衛論であるばかりか、自国の侵略を正当化する都合のよい理論にもなりうる。

ただし、当時ロシアが朝鮮半島ではなく満州及び遼東半島に触手を伸ばしていたということは事実であり、これは日本が日清戦争で獲得した地域の利権を直接に脅かすものであり、見過ごすことができなかったことはたしかである。だが、そうはいっても当時の日本とロシアの国力を比較すれば、誰がみても日本がロシアに勝てると予想をする者はいなかった。当然、日本政府もその国力の違いは承知していたので、日清戦争後の三国干渉に対して屈辱を舐めざるをえなかったのである。

しかしながら、その前に日本にとって憂慮すべき出来事が起こった。それは朝鮮王妃閔妃の一族が日清戦争後にロシアに接近しはじめたことである。日清戦争でせっかく清の影響力を排除し、もはや日本のなすがままになると思われた朝鮮政府がロシアに頼ろうとしつつあるというのだから、これは日本にとって見過ごすことはできない。閔妃にとってはロシアの力が日本を上回ると思ったのであろう。しかし、日本はこの極めて好ましくない王妃の反日的行動を実力で封じてしまったのである。これが前に紹介した閔妃惨殺事件である。これによって日本はまたしても朝鮮の王宮を占領し、彼らに日本の傀儡となることを強要するようになったが、これがかえって民衆の反発を買い反日運動を激化させ、さらに朝鮮政府内部の権力闘争も過激化し、政権はめまぐるしく変わることになる。

そうこうするうちに朝鮮は国名を大韓民国(以後は「韓国」と呼ぶ)とあらため、初代皇帝となった高宗は中立化に向かって動き始める。これはイギリスによって提唱され、清国、フランス、ドイツ、イタリアなどが次々と賛成したが、日本はこの案には容易に乗れなかった。当然であろう。日本にとって韓国は明治維新以来、いつの日か征服すべき対象であって、政治的干渉のできない中立国となられてはたまったものではないからである。

ところがやがてロシアも韓国の中立化を言い始めたので、日本は非常に困った立場に置かれるのであるが、この状況の打開策として日本は秘密裏にロシアと交渉している。それはなんと「満韓交換論」という世にも醜悪な交渉であった。つまり満州はロシアに支配権があることを認める代わりに、日本の韓国に対する支配権をロシアに認めてもらおうという秘密取引なのである。当然、この交渉の中で韓国や清国の意志は無視されていた。この互いに虫のいい話にロシアも乗ってくる気配をみせたが、ロシアが日本に要求した条件が相当厳しく、ついにこの交渉も断念せざるをえなくなった。この満韓交換交渉が破たんした経緯については、以下のwikipedeaの文章を引用しておこう。

ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

つまり満韓交換論でロシア側がだした提案は、北緯39度以北の領域、すなわち現在の北朝鮮を非武装地帯にしようという提案だったというわけである。これを日本側が飲めないとしたのは、どう考えても強欲すぎるのではないかといわざるをえない。日本の歴史家はこのあたりの日本の強欲さをあまり指摘しないのは、ややえこひいきではないかと思うのだが、どうであろうか?

いずれにしても、この交渉決裂の結果、日本はついにロシアとの開戦やむなきに至ったというわけである。この開戦の決断を促したのは、ちょうど都合よく日英同盟で世界一強い味方をつけることができたこともあるだろう。英国は当時世界最大の植民地をもつ大帝国であり、ロシアの東アジアでの覇権をけん制して日本と同盟を結ぶことになったのである。この結果、日本は多大な戦費を英国などの援助で引き出すことにも成功し、ロシアと開戦しても勝利の見通しがでてきた。この戦争が二国間の戦争で終わり世界大戦に発展しなかったのはむしろ幸運というべきである。なぜなら日英同盟では二国間以上の戦いになった場合には英国も参戦することを定めていたからである。この日露戦争後に欧州で第一次大戦が勃発したのは、決して偶然ではなかった。日露戦争はまさに後の世界大戦の時代の導火線ともなったのである。

思えば、故山本七平氏が「日本人と中国人」という本の中で「『竜の髭を引く抜く』のが趣味の日本人」としていたのは蓋し名言であると思う。秀吉の朝鮮征伐のときから日本人は明、清、ロシア、中華民国そしてアメリカという自らの十倍以上もの国土をもつ超大国を相手に次々と戦争をしかけてきたのだから、これほど向こう見ずな好戦国家もないであろう。

ただし、日清戦争のときの日本は確実に戦争に勝てるという確信があったが、日露戦争のときはおそらくそんな確信はもてなかったではずである。勝敗は一か八かやってみなければわからないという博打根性を発揮してこの戦争に打って出たのではないか。日本にとって幸いしたのは日英同盟だけではなかった。当時、ロシア内部では多くの社会主義者が生まれ、帝政打倒に燃えて革命騒動を起こしていたので、ロシアは内外両面の危機に対応しなければならなくなった。武力では日本にはるかにまさってはいたが、ロシア皇帝が統率する軍の指揮命令系統は必ずしも一枚岩ではなかった。これが日本の勝因の一つでもあったのではないだろうか。

ただこの戦争も日清戦争のときと同様、戦争の主要舞台は朝鮮半島であったということを忘れてはならない。韓国の人々にとってはこの戦争も実質的には日本の侵略戦争であった。日清戦争前から韓国(朝鮮)に当然の如く居座るようになった日本軍に対して、多くの農民が立ち上がりいわゆる義兵闘争を展開している。これは民族感情からいってあたりまえであろう。日米安保条約に基づいて沖縄の米兵が駐留しているのとはわけがちがうのである。韓国(朝鮮)政府は決して日本に駐留を要請しているわけではなく、そのような条約が成立していたわけでもない(駐留のための条約交渉はあったが韓国政府は局外中立化と交換条件にしていたために成立していなかった)。にもかかわらず、あたかもそこを自国の領土のように居座り続けるのは不法な侵略行為以外のなにものでもない。しかも、自国の領土内で他民族同士の戦争を起こされてはたまったものではない。傍若無人とはまさにこのことではないか。日本人には韓国人が迷惑を被っているという意識がはじめから毛頭ないのであるから、彼らからすれば腹が立つのもあたりまえである。

われわれがもし正常な想像力をもつならば、そのように韓国の人々が考えるのは当然なことであると気づかなければならないはずだが、今の日本人はまずそういった想像力をもつどころか迷惑をかけたのかもしれないとさえ思っていないのだから、故山本七平氏がいうように、日本人の韓国に対する物差しというのはよほど勝手な物差しなんだろうというしかない。

たとえば竹田恒康氏(この方はかつて山本七平賞を受賞されている!)という売れっ子評論家(?)によると、「日本は韓国のためによいことばかりしてきたんですョ」とか「日韓併合は韓国が望んだことなんですョ」というようなことを知ったかぶりにYOU TUBEなどで語っておられるのをみると、要するにそういった自分に都合のよい物差しで測る日本人が異常に多くなっているという証拠であろう。でなければ、あのような人物が売れっ子になるはずはないと思うのであるが、いかがなものであろうか?

実際のところどうだったのか?韓国の人々は果たして日清戦争や日露戦争で日本兵が自分たちの国土を守るためにわざわざやってきたんだということを信じているのだろうか?もちろんそんな韓国人は一人もいなかったはずだ。ただし、当時の空気の中では日本の武力に屈伏する他に選択はないとする韓国の政治家は多くいたし、彼らの中には(親露派とか親中派に対して)親日派という見方をされていた人々も多くいたのも事実である。その力関係の中で模索をしながら国の進むべき方向を探っていくというのが、その時代のリーダーたちの宿命であったからだろう。したがって日露戦争前夜になると、親露派と親日派に分かれて政治闘争が繰り広げられるわけだが、だからといって「親日派」=「日本人が好きな韓国人」とかいう意味ではなく、要はどちらについた方が得策かという状況判断によって分かれていたというのが実情であった。そのあたりの経緯について、海野氏の本から少し引用してみよう。

このような日本の軍事的制圧下で、1904年2月13日から林公使と李扯鎔との間に交渉が再開される。李扯鎔は外相を罷免されたが、後任の李斉純駐清公使が着任するまで外相臨時署理(代理)の任にあった。再開といっても継続ではない。開戦前とは日韓の状況がちがう。13日に林が作成した日本案は、形式的には相互援助協定だった前案とは異なり、「大韓民国政府は、全然日本帝国に信頼し、大日本帝国の助言を受け、内治外交の改良を図る可し」(第一条)と、日本が韓国に対し保護、指導の立場にあることを明文化した。

また前案になかった軍事協力事項を新たに設け、「第三国に侵害により、若しくは内乱の為め大韓帝国の皇室安寧或は領土保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、速やかに臨機必要の処置を取る可し。而して大韓帝国政府は、右大日本帝国政府の行動を容易ならしむる為め、十分なる便宜を供すること」(第四条)とした。日本軍の不当な軍事占領を合法化するとともに、以後の戦略展開に対する韓国の協力を義務付ける項目である。(海野福寿著「韓国併合」 岩波新書P129)


ただし、この日韓議定書の調印は決して韓国政府と日本政府の合意で正常に交わされたものではない。この調印に至るまでに韓国政府内で反対する者も多くいたが、彼らは日本の圧力で公職から追放されているのである。

調印に反対した李容翊は、この日の夜、日本軍に拉致され、「遊覧」の名目で日本に移送されて、約10か月の軟禁を強いられる。度支部大臣兼内務院卿等の要職はすべて解任された。この他鎮衛第四連隊長吉永洙、参将李学均、参領玄尚健ら反日派の主な人々も漢城から追放された。(中略)
韓国内では反対の声が高まり、中枢院(内閣諮問機関)副議長李裕寅らは上疏して李扯鎔ら議定書推進者を弾劾した。李扯鎔らの私邸には爆弾が投げ込まれ、漢城の街は騒然とした空気に包まれた。

こうした抵抗を威圧するかのように、3月17日、枢密院議長伊藤博文が特派大使として漢城にのりこんだ。名目は天皇名代の韓国皇室慰問である。18日慶雲宮で皇帝に謁見した伊藤は、「日韓議定書」の履行と、それを妨害する者の排除を強要した。宮内府大臣閔丙夷を通じで奏達した文中には、韓国兵の反抗があれば敵国とみなすとか、韓国の態度が不鮮明であれば兵力を数倍にするとか、威嚇す言辞がある。(同P130‐131)


この日韓議定書によって日本は事実上、韓国の保護国化に成功したわけである。ただし、ここに至るまでには相当な強権と武力を用いたことはいうまでもない。特に韓国の農民たちはこれを簡単に受け入れたわけではなかった。義兵闘争は日露戦争で日本が勝利したあとにも延々と続くことになる。以下に呉善花氏の著書(「韓国併合への道 完全版」文春新書)から日露戦争後の義兵闘争の被害をまとめた文章を引用しておく。

1905年(明治38)に日露戦争で日本が勝利し、第二次日韓協約によって日本が韓国の保護国となって以後、韓国の国権回復あるいは独立・改革を目指すナショナルな活動には、反日義兵運動と愛国啓蒙運動があった。

反日義兵運動は、日清戦争後の1890年代に「衛生斥邪」「反日反露」を掲げて武力蜂起を行った初期義兵運動を継承した反日武装闘争である。1907年(明治40)8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降とくに活発化し、全国各地で徹底した抗日ゲリラ戦を繰り広げた。

義兵闘争はほぼ全土にわたり、1907年8月から1910年末までの間に衝突回数2819、参加した義兵数は次の通りである。

1907年・・・44116名
1908年・・・69832名
1909年・・・25783名
1910年・・・1892名
総計・・・141603名
(朝鮮駐留軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』)

それに対する駐留日本軍は二千数百名、本国から新たに投入された兵士たちを含めても最大時で数千名だったと推測されるが、その組織的な討伐戦の展開で、各地の義兵集団はことごとく撃破され、併合までにほとんど鎮圧されている。

この3年半にわたる戦いで、義兵側の死者は17688、負傷者3800、捕虜1933と右同書に記録されているから、これはまさしく戦争といってよかっただろう。ところが、日本側の損傷はわずかに死者133、負傷者269を数えたに過ぎない。(呉善花著「韓国併合への道」完全版 文春新書 P188-189)


しかし、これらの義兵の反抗はまだ序の口であった。日韓議定書第四条「第三国に侵害により、若しくは内乱の為め大韓帝国の皇室安寧或は領土保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、速やかに臨機必要の処置を取る可し」という約款は、まさに日本軍の駐留こそが「大韓帝国の皇室及び領土保全の危険」そのものなのだという韓国側の真っ当な言い分を逆手にとった偽善(押しつけの「善意」)にすぎないものであった。彼らがそのことを完全に知るようになったのが、この議定書が交わされてから5年後に実行に移された日韓併合である。韓国(朝鮮)はこれに遡る条約で約束された「国の自主と独立を保証する」という文言で騙されていたということに気づくことになるのである。

つづく

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