3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

(1)山本七平が記したトラウトマン和平工作

70年代に「日本人とユダヤ人」に続いて出版された様々なベンダサン名の書の中に「日本人と中国人」という書物がある。最近、この本を取り寄せて読んだばかりなのだが、読む前までは中国批判が書かれているのではなかろうかと半分期待も込めていたのだが、そこにはいっさい中国批判はなく、むしろそこにあるのは日本人の一貫した中国コンプレックスであり、そしてそのコンプレックスの裏返しが明治以降中国を一貫して侮蔑する政策をとってきた原因にもなっているという分析をしており、やや意外な感じがしていた。。※「日本人と中国人」の著者はイザヤベンダサンとなっているが、ここではややこしいので、ベンダサン=山本七平としておきます。ただし、私自身はベンダサンをまったくの虚構の存在であるとは考えていませんが、少なくともこの「日本人と中国人」の著者は山本七平ご本人であったとみてまちがいはないと考えています。

たとえば、今日右翼とか保守とかいわれる人々に共通しているのは、韓国併合や日中戦争の正当化である。韓国を併合したのは韓国のためでもあり、また日中戦争は中国が仕掛けた戦争であり侵略戦争ではなかったというような戦前の日本を正当化(または美化)する歴史観が最近声高に保守とか右翼を自称する陣営から発信されているが、故山本氏の本の中ではいっさいそのような見方はとられていない。故山本氏の言説は、保守陣営が嫌ういわゆる自虐史観そのものではないかとさえ疑われるかもしれない。たとえば日中戦争においてもっとも右翼と左翼の論議が分かれる南京事件の経緯について故山本氏がどのように書いているのかみてみよう。

昭和十年十月、日本政府は、日中提携三原則を中国に提案した。すなわち排日停止・満州国承認・赤化防止の三ケ条である。この一年前、すなわち昭和九年十月十六日、中共軍は大西遷を開始し、十一月十日に国府軍は瑞金を占領し、蒋介石の勢威大いにあがった時であったから、日本もそろそろ「火事泥」(筆者注:これは満州事変のこと)の後始末にかかるのも当然の時期であろう、と蒋介石も世界も考えたのもまた当然である。

蒋介石はもちろんこの「日中提携三原則」を受け入れなかったが、しかし、これは外交交渉という点からみれば当然のことである。彼は何もこの提案をポツダム宣言のごとく受諾せねばならぬ状態にはないし、第一、こんなばかげた提案は、おそらく世界の外交史上類例がないからである。

日本は満州国は独立国であり、民族運動の結果成立した国であると主張している。従って満州国と日本国とは別個の国のはずである。それなら満州国承認は、あくまでも中国政府と満州国政府との間の問題であって、日本国政府は何ら関係がないはずである。従って秘密交渉ならともかく、公然とこの主張をかかげることは、その後も一貫して日本政府は。一心不乱に、「満州国とは日本傀儡政権であります」と、たのまれもしないのに、世界に向かって宣伝していたわけである。

(中略)

いわゆる杭州湾敵前上陸(一九三七年十一月)で上海の中国側防御線が崩壊しはじめたとき、トラウトマン駐支独大使による和平斡旋が始まった。いわゆるトラウトマン和平工作である。当時、日本の軍事行動を内心もっとも苦々しく感じていたのは、実はナチス・ドイツ政府であった。彼らは蒋介石軍の増強により、中ソ国境が現在の如くに緊張することを夢見ていた。皮肉なことに、いま(一九七二年当時)の中ソ関係こそ、ヒトラーの夢であり、ソビエト軍五十個師団のシベリア移駐こそ、彼の望みであった。

従って蒋介石軍に軍事顧問団を派遣し、その関係は一時、ある時期の南ベトナム軍と米軍事顧問団ぐらい密接であった。上海の防衛線は実は彼らの指導で出来たものである。また南京には、当時の上海在住のユダヤ人から「ゲッペルスの腹心」と恐れられたナチス党員の一商人がおり、あらゆる情報は大使館とは別の系統でナチス政府に送られ、またさまざまな指示も来て、蒋介石と密接な連絡をとって情報・宣伝に従事していたらしい。一方、ドイツではその後、日本軍の対支軍事行動に反対する「官製デモ」も行われている。彼らの狙いが「反共日蒋同盟」による中ソ国境の緊張化であり、トラウトマン和平工作が、この考え方を基礎としていることは、次のことから明らかである。すなわち日本政府と交渉の結果、その条件を、(一)満州国承認、(二)日支防共協定の締結、(三)排日行為の停止その他とし、彼はこれを全面的に相手に受け入れさせるため、あらゆる努力をしたわけである。

彼は十一月六日、行政院長孔祥煕と会見し、多少の曲折はあっても、ほぼこの線で事実は終息するという確信をもった。ここであくまで明記しておかねばならなぬことは、いずれにせよ、これを提案したのは日本政府だったということである。これは、相手がこの条件を呑みさえすれば、日本軍は平和裏に撤退することを、第三国という保証人を立てて、相手に申し入れたということである。日本人が過去の経験において絶対に忘れるべきでないことがあるとすれば、このことである。これが、誰からも強要されたのではない「自らの提案」だったという事実である。自らの提案を自ら破棄した者は、もはやだれも信用しない。確かにナチス・ドイツの斡旋はそれなりの計算があったであろう。しかしそのことは、現在でも釈明の理由にはならない。

中国政府は協議の末、十二月二日。トラウトマン大使に「日本案受諾」「同条件を基とした和平会談の開催」を申し入れてきた。と同時に、その後情勢は変化しているが日本側の提案に変更はないか、と念を押してきた。
これは当時の中国政府にとっては「ポツダム宣言」の受諾に等しかった。すなわち「無条件提案受諾」であり、その意味では、この条件への「無条件降伏」である。

これに対して日本側は条件に変化なしと通告した。戦争は終わった。だれが考えても、これで戦争は終わったのである。従ってそれ以後もなお軍事行動をつづけるなら。それは「狂人だいこ」の踊りであって「戦争」ではない。
ここまでの日本の行動は一応だれにでも理解できる。もちろん理解できるということは、その行動を是認できるということではない。簡単にいえば、泥棒が押し入って来て、金を出せといった。金を出したらそれを受け取って泥棒は去って行ったのなら、この行動は一応理解できる。同じように日本軍が押し入って来て「満州国承認を出せ」といった、そこで中国政府がそれを出したら、日本軍はそれを受け取って去って行った、というのなら、その行動は一応理解できるという意味である。

ところが。金を出せというから金を出したところが、相手はいきなりその金を払いのけておどりかかってきたら、この行為はもう「泥棒」とはいえない。さらにそこで坐りこんで動かなかったら、これはもう「泥棒」という概念では律しきれない行為で「狂人」とでも規定する以外にない。従って彼の行動を泥棒と規定しうるのは、相手が金を差し出した時までである。ここで泥棒という行為は終わったはずである。私が「だれが考えても、これで戦争は終わった」というのはその意味である。従ってここまでは「戦争」として理解できる、というのはその意味である。

日本は百パーセント目的を達した。一番の難問題はどうやら片付きそうであった。中国が満州国を承認すれば、全世界の国々の「満州国承認のなだれ現象」が期待できるであろう。事実、中国政府が承認したのに、非承認を固辞することは意味がない。「シンジア領有権確認戦争と同じように、これで「満州領有確認戦争」は日本の一方的な勝利で終わったわけであった。何よりも満足したのはナチス・ドイツ政府であったろう。これで蒋介石軍の崩壊は防がれ、日蒋同盟が中ソ国境の脅威となり、ドイツの東方政策はやりやすくなる。(中略)

だがここに、まったく想像に絶する事件が起こった。「ポツダム宣言」を受諾するといったところが、その途端に九十九里浜に米軍の大軍が上陸して東京になだれ込んだといった事件である。一体全体、これをどう解釈すればよいのであろうか。(中略)この驚くべき背信行為の複雑怪奇さは「独ソ不可侵条約」の比ではない。「独ソ不可侵条約」を複雑怪奇というなら、これは何と表現したらよいのであろうか。狂気であろうか。

さまざまな解釈はすべて私に納得できない。十二月八日に日本は中国が日本の提案を受諾したことを確認した。しかし日本側は軍事行動を止めない。それのみか十二月十日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?通常こういう場合の解釈は二つしかない。一つは日本政府が何らかの必要から、中国政府をも、トラウトマン大使をも欺いたという解釈である。これは大体、当時の世界の印象で、これがいわゆる「南京事件報道」の心理的背景であり、また確かにそういう印象を受けても不思議ではない(というのは他に解釈の方法がないから)が。どう考えてもこの解釈は成り立たないのである。

もし「欺かねばならぬ側」があるとすれば、それはむしろ中国政府で、「日本の提案を受諾します」といって相手の進撃をとどめ、その間に軍の再建整備を計った上で、相手に反対提案をし、それを受け付けねば反撃に出る、というのなら、これも一応理解できる。

(中略)

戦争は通常だれでもある程度は理解できる理由がある。もちろんその理由は「泥棒にも三分の理」に等しい理由で、理由がわかったからといってその行動を是認できるというものではないが、少なくとも理由が分かれば、たとえその理由がその場限りの理由にせよ、その理由を除く方法を相互に探索できる。だが理由がまったく分らないと、「彼らは戦争が好きだから戦争をやっているのだ」としか考え得なくなるのである。したがって、これへの反論では、まず南京総攻撃、およびそれ以後の戦闘の理由を説明しなければならない。それができないのならば、「戦争が好きで、これを道楽としてたしなんでいたのだ」という批評は、甘受せねばならない。・・・・


恥ずかしながら、私はこの文章を読むまでは、「トラウトマン和平工作」なる言葉自体も知らず、ましてやそれがかくも重大な時の転換点であるということは知るよしもなかった。今まで私が少しばかり聞きかじってきた南京事件についての(どちらかというと保守派の)見解を読むと、おおむね日本側に同情的な論調に終始しているものばかりであり、そのような見解に対して私は(若干の違和感をもちながらも)ほとんど無批判に受け入れていたのであった。そもそも満州国は立派な独立国であったというのが彼らの一致した見解であり、日中戦争の発端になった盧溝橋事件についても、中国側からの発砲がきっかけであり、戦争の火ぶたが切られた後も日本側は終始戦線の不拡大方針を取っていたとされている。にもかかわらず、中国側からの度重なる挑発行動があったので、日本軍はやむをえず南京まで攻めのぼらざるをえなかったのだろうというのが彼らの一貫した主張であり、私自身もそのような主張に説得力を感じていた。

このベンダサンの書物を読んだあと、ベンダサン(すなわち山本七平)とは近しい関係にある(?)渡部昇一氏の近著(「日本は中国にどう向き合うか」2013,2 ワックス株式会社)を取り寄せて読んでみた。渡部氏の本を読むのはこれが初めてだが、世間では保守派の重鎮としてみられ、しかもPHP社が主催する「山本七平賞」の選考委員の一人でもあり、おそらく故山本七平とは思想的にも近いのではないかと思ってきたので、彼の書物の中でどのようにこのトラウトマン和平工作の経緯が描かれているのかということに興味があったのである。その部分を抜粋しておこう。


シナ事変がはじまってからも日本は和平の努力を止めなかった。たとえば、「トラウトマン和平工作」と呼ばれるものがある。これはドイツに仲介を頼んだ和平工作で、昭和十二年(1937年)十一月二日「我国は正式に日本の和平条件七項目をディルクセン駐日ドイツ大使に通知」、これを駐華ドイツ大使のトラウトマンが蒋介石に伝えた。しかし蒋介石は国際連盟に訴えて開かれることになったブリュッセルでの九国条約国会議に期待し、日本の提案に乗ってこなかった。そうしているうちに日本軍が南京を占領したため、状況が変わったのだが、シナ側は回答期限を延ばし続け、催促に対してきちんとした対応を示さなかった。ここで日本側は諦めた。(「日本は中国にどう向き合うか」P267-268 ワックス株式会社)


これが保守派の重鎮といわれる人物の歴史観なのか?これがあの山本七平賞の選考委員をしておられる大先生が長年培った思想なのか??…と、正直疑問をもたざるをえなかった。ただし、この書は渡部氏自身が自ら戦前の資料にあたって辿り着いた独自の研究書ではなく、いわば一般向けに「非自虐史観」をやさしく説いただけのお手軽な啓蒙書である(これは渡部氏自身認めるだろう)。ただ驚くのは、この本は「大東亜戦争への道」(中村粲氏著)という一人の専門家の研究書を唯一の資料としており、その他の資料はまったく比較検討されていないばかりか引用もされていないということである。学者であれば、通常いろいろな資料を引用して比較するのが学者の良心というものだろうと思うが、渡部氏の場合は(その筋では「碩学の大家」ともいわれるらしいが)そんな通り一遍の形式はとらずに、手っ取り早く自らの信念に合致した立派な専門家の研究を多くの読者に紹介したいという素朴な動機によってしたためたということなのだろう(これはもちろん最大限好意的に解釈した場合である)。

いずれにしても、この本を読むと、渡部氏と山本七平の歴史観があまりに真逆なので、ただただ驚くばかりなのであるが、もちろんこれは一人渡部氏にかぎったことではなく、おそらく今日保守派と称する人々に共通した歴史観を渡部氏が代表しているにすぎないのであり、その意味では山本七平の方こそもともと保守思想家ではないのだから、それを驚く方がどうかしているのだと指摘されればまことにその通りであり、反論することはできない。ただ、だとすれば渡部氏のような歴史観に立つ保守人士が長年「山本七平賞」の選考委員をしておられることに対してはいかがなものかといわざるをえない。ちなみにPHP社の山本七平賞のHPにこの賞の趣旨が掲載されているので紹介しておく。

「平成3年12月10日に逝去された、山本七平先生の長年にわたる思索、著作、出版活動の成果は、日本の読書界に燦然たる輝きをもって聳え立っています。今日「山本学」と総称される、先生の多岐多彩な知的営為は、畢竟、日本及び日本人とは何かを探し求める果てしない旅でもありました。PHP研究所はここに、先生の業績を顕彰することを願い、山本七平賞を設置し、その比類なき知的遺産を正しく受け継ぐ新たなる思索家の誕生を期待するものであります。」


当然ながら渡部氏は故山本七平先生という偉大な知性の功績を誰よりもお認めになっているお一人だと思う。したがって私のような名もない者に山本七平先生のことで批判を受ける筋合いはまったくないと思われるだろう。だとすると、渡部氏の言い分はこういうことになるのであろうか?故山本七平先生の功績は当然ながら素晴らしいものであるが、だからといって山本先生の歴史観が常に正しいとも限らないのではないか、と。

それはそのとおりだろうと思う。私も山本七平を神のように無謬の人物だとは当然考えていないので、先にあげたトラウトマン和平工作に関する山本七平の熱弁についても多少は疑問をもって受け取っている。たとえばトラウトマンの和平工作を蒋介石が受け入れたのは事実であったとしても、その時はすでに南京攻略に向けて大規模な行軍準備がされていたので、そこで現場の指揮官に思いとどまらせるということは実際上無理な状況だったのかもしれない。これについては渡部氏と同じく非自虐史観に立つ自由主義史観研究会編「教科書が教えない歴史」(扶桑社)という本の説明をみると参考になる。

日本軍は上海を占領し、早くも十二月には国民党政府の首都・南京攻撃の布陣を布いていました。この武力を背景に、トラウトマン駐華ドイツ大使の仲介で、国民党政府に和平を迫りました。武力は政治の一手段ですから、戦勝している日本としては当然の態度でした。しかも、この時日本が示した和平条件は、これまで日本軍が軍事的に抑えていた華北に国民党政権の行政ができるようにする、協力して中国の共産化を防ぐ、など緩やかなものでした。蒋介石は、和平を基礎としてこの案を受け入れると連絡してきました。しかし、日本側では、軍事と政治の連結・調整がうまくいかず、軍が南京を占領してしまい、交渉は進展しませんでした。その後、戦火は徐州、広東、武漢などの全中国に拡大してゆきました。(「教科書が教えない歴史」P188 藤岡信勝・自由主義歴史観研究会著 扶桑社)

この文章を読むと非常に簡略ながら、トラウトマンの和平工作が実現しなかった背景をきちんと説明しているようにはみえる。少なくとも渡部氏のように事実関係を曖昧にしたまま「そうしているうちに日本軍が南京を占領したため、状況が変わったのだが、シナ側は回答期限を延ばし続け、催促に対してきちんとした対応を示さなかった。ここで日本側は諦めた」と一方的に相手に責任をなすりつけて話を打ち切っているよりは多少はましである。


しかしながら、これをもし山本七平が読むとどう思うであろうか?おそらくその温厚な表情から激しい憤りを隠すことはできないのではないかと思う。なぜならこの件の経緯に関してベンダサンがどのように書いていたのか、もう一度記しておこう。

ここであくまで明記しておかねばならなぬことは、いずれにせよ、これを提案したのは日本政府だったということである。これは、相手がこの条件を呑みさえすれば、日本軍は平和裏に撤退することを、第三国という保証人を立てて、相手に申し入れたということである。日本人が過去の経験において絶対に忘れるべきでないことがあるとすれば、このことである

・・・だが、この話はまだまだ続きそうなので、続きはまた次回にしてみたい。できれば次回は山本七平がなぜそこまでいわずにおれなかったのかということを考えてみたい。そこにあるのは、今を生きるわれわれが気つかなければならない事の重大さである。

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(2)トラウトマン和平工作失敗の重大性

故山本七平(またはイザヤ・ベンダサン)が「日本人と中国人」の中でトラウトマン和平工作について、あれほど激しく当時の日本側の対応を批判しているのはなぜだろうかと、自分なりに考えてみた。これは私にとってもショッキングだったからである。山本七平はもちろん右翼ではないし、いわゆる保守派でもない。もしそのように思っている人がいれば、それは完全な誤解なので、この際、考え方をあらためて欲しいと思う。では山本七平とはいったい何者なのか(?)というと、私の考えでは「預言者」という言葉がもっともふさわしいのではないかと思っている。ただし、これは私一人の考えではなく、かつて山本七平を人生の師と仰いでいた故小室直樹も「山本七平先生は神から遣わされた預言者であると確信している」という不思議な言葉を残していたらしい。かといって、私は小室直樹の影響を受けてそう思ったというわけではなく、以前からそのように考えていたのである。私の考えでは、戦前から戦後を通じて預言者と形容してもよい人物が少なくとも三人いたと考えている。その三人とは内村鑑三、賀川豊彦、そして山本七平である。ご存じの通り、この三人はいずれもクリスチャンであり聖書の影響を強く受けた人物である。

ただし、上の三人の中で山本七平だけは熱烈なクリスチャンであったという印象は少なく、内村や賀川のようなキリスト教の伝道師でもあったというわけでもないので、激烈な預言者というイメージはない。しかし、イザヤやエレミアのように激烈な預言者だけが預言者というわけではなく、故山本七平のように静かに切々と持説を説きながら、ときには皮肉っぽく憂いを語る預言者がいてもよいのではないかと思う。

山本七平のルーツは和歌山県の新宮市にあり、その実家は三代前からのクリスチャンの家系だったそうである。驚くのは山本七平の叔父さんにあたる和歌山の近親者は幸徳秋水が起こした大逆事件の仲間の一人であったといわれているのである。そのような血筋をみると、故山本七平の思想が保守とか右翼とかいうものとはまったく無縁であったということが分かるのではないだろうか。故山本七平は小さい頃から聖書に傾倒し、その世界観の中で育っていったのだと思われる。しかしながら、彼は青春の真っ盛りにフィリッピン・ルソン島の戦場に徴兵され、不本意にも皇軍の兵士として生き地獄を経験させられたのである。復員してからも、彼はマラリアや結核などの病に苦しみ、ようやく人間としてのまともな生活ができるようになったのは昭和30年代頃からであったと述懐されている。その後に山本氏は出版業を経営する傍ら、自らの青春を捧げた天皇制とは何だったのか、戦争とは何だったのかという問題を生涯のテーマとして追い続けるようになったのだと思われる。

さて前置きが少し長くなったが、そのような故山本七平の人生を懸けた問題意識の中で、先のトラウトマン和平工作に関する激しい言葉が発せられたのだという意味深さを考えなければならないと思う。確かに蒋介石がトラウトマンの和平案を受諾する意思を示したのは南京攻略戦のほんの1週間ほど前であり、もはや南京戦への準備で戦意高揚していた方面の軍隊にとって、いまさら方針転換ということは容易にはできなかったかもしれない。しかし、そんなことは故山本七平にも当然分かっていたはずである。山本七平が問題にしているのは、その和平案が他ならぬ自らが相手(蒋介石)に出した和平案であったという事実であり、その条件を相手側が飲むということは、そもそも戦争目的が完遂したことを意味するということに他ならなかったはずである。すなわち日本側の戦争目的はあくまでも蒋介石率いる国民党政府に満州国を承認させるという1点しかなかったはずなのだ。

ところが日本政府はいつの間にか本来の戦争目的を忘れ果て、中国の首都を落として彼らを完全に屈服させようと目論んだ節がある。その日本政府の戦争目的のあいまいさがわけがわからないというのである。たとえば今現在、北朝鮮がさまざまな挑発行為を起こしながら、わけのわからない政治工作をしている状況がある。しかし、一貫して言えるのは、彼らは要するに自らの延命を図っているだけであり、そのための策動にすぎないということであろう。したがって北朝鮮が本当に戦争を仕掛けてくるというのは考えにくく、だからこそ彼らはまたしても日本政府や中国政府に接近して彼らなりの和平協議を始めようと方針転換(本日5月25日のNEWS)をしてきたのではないか?その意味では北朝鮮のさまざまな動きというのも一つの方針に従っているという見方からすればむしろ分かりやすいのであるが、当時の日本政府の行動は世界中から何を考えているのか、あるいは何を得ようとして戦争しているのか分からない、そのようにみられても仕方がなかったのである。

最終的に日本軍は中国大陸をすべて占領し植民地にしようと考えたのであろうか?しかし、冷静に考えればそんなことはできない相談であるということは蒋介石だけではなく世界中がおそらく分かっていたことだろう。かつてのナポレオンがロシア征服を断念せざるをえなかったように、またナチスがソ連征服を断念せざるをえなかったように、あれだけ広大な領土を征服するというのは土台無理な話なのである。しかし、昭和12年12月13日、日本軍が南京を攻め落とした報道に日本中が歓喜し、東京などで数十万人の大衆が街頭に溢れ戦勝を祝う提灯行列を大々的に行った事実からみても、日本人はこれで戦争に勝ったと思ったのだとみて間違いがない。しかし、現実は蒋介石率いる中国国民党軍は南京を早くから諦め日本軍が侵略してくる以上は内陸に拠を移して徹底抗戦するしかないという方針を固めていた。実際、日本よりもはるかに人員でまさる中国軍は長期の内陸戦になれば負けるはずがないという確信があっただろう。日本が中国に勝つ道は唯一早期講和に持ち込む道だけだったが、その唯一の機会が南京攻略前のトラウトマン和平工作を受諾するという蒋介石の意思表明だったのである。だからこそ、その機会を自ら放棄した日本政府は何を考えているのか分からないということになるのである※。

※この事実を誰よりも正しく予見していたのは、皮肉なことに満州事変を起こした張本人石原莞爾であったが、彼の意見は軍上層部で受け入れられることはなかった。彼は盧溝橋事件後、この戦争を拡大させてはならないとして次のように述べたという。「目下は満州国建設に専念し、対ソ軍備を完成し、これをもって国防の安因を図らねばならぬ時機に、もし支那に手を出してこの計画を支離滅裂にしてはならない。今や支那は昔の支那ではなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形になり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力・軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期することが必要である。」(「軍務局長武藤彰回想録」)


これはアメリカとの戦争においても同じである。アメリカと全面戦争になれば、はじめから日本はアメリカに勝てるはずはなかった。そのことは真珠湾の奇襲攻撃を立案した山本五十六が誰よりも熟知していたが、日本政府は講和の道を先へ先へと引き伸ばし、その結果は原爆投下に至るまで一億玉砕という極限状況まで想定せざるをえなかった。その意味では当時の日本政府は今の北朝鮮政府よりもはるかに愚かな存在であったというしかない。

歴史に「もしも・・・」はありえないが、あのときトラウトマン和平工作が成功していればどうなっていたのであろうか?そうすれば日本は以後の中国内陸戦を戦わずに済んだだけではなく、アメリカとの無謀な戦争もせず済んだはずであった。アメリカが日本との戦争を決意したのは真珠湾が最初ではなく、南京事件であまりにもむごい虐殺があったということを認定したことがきっかけであった。これはすべての日本人が認めなければならない事実である。もちろん日本はそれ以前の満州事変によって、著しく国際的な信用を落としていたが、それでもなお日本は当時アメリカとの友好関係を曲りなりに保っていたし、そのことはたとえば満州事変後にもかかわらず日米親善野球が行われていたことをみても分かる。南京の虐殺報道がなければ、日本はアメリカから過酷な経済制裁を受けることもなかったはずなのである。アメリカが日本に対して石油輸出停止など貿易上の包囲網を作っていくのは、南京の出来事で日本人を懲罰しなければならないと考えたからであった。

そればかりではない。トラウトマン和平工作が成功していれば蒋介石率いる国民党軍は中共軍との内戦に勝利し、孫文の親日思想に基づいた国民党政府が中国全土を掌握しただろう。蒋介石はもともと日本に留学経験のある親日家であり、日本の近代化に習って民主主義的な近代国家を建設しようとした孫文の意志を受け継いだのであった。だから彼は決して日本との戦争を望んでいなかった。蒋介石にとって第一の敵は中共軍であり、日本に対しては満州国の承認はできないものの、できるだけ衝突は避けて平和共存を図ろうとしていたとみることができる。もしもトラウトマン和平工作が成功していれば、おそらく蒋介石は満洲国に対してそれ以上干渉をすることもできなかったであろうし、日本が目指していた満州国の真の独立に一歩近づいていたかもしれないのである。

今日の保守派の見解によると、しばしば日本は満州国の建設で中国の近代化に貢献したとかいうような論がまかり通っているが、そもそも日本が中国の近代化に貢献したかったのであれば、蒋介石と和解し彼の近代化政策を支持すべきであっただろう。それによってこそ満州国の近代化と同時に中国の近代化を成し遂げることができ、必要以上の欧米列強の干渉を防ぐ道も開かれたはずなのである。

またこれに類する話で、たとえば日本は大東亜戦争で欧米に植民地化されたアジアを解放するという歴史的使命を果たしたのだというような見解もあるが、これもまことに手前勝手な話であり、当時の日本は確かにアジアの中で真っ先に近代化に成功して各国のお手本にはなっていたが、南京事件によって中国の近代化はむしろ遅れ、逆に中国共産党が力を強めて結果的に戦後間もなく共産主義の中国を誕生させ、さらにその余波はベトナムやカンボジアなどの各地へドミノ現象となって共産国を次々と誕生させたのであった。もし日本の戦争が何事かに貢献したのだとすれば、それはアジアの共産主義化という流れに貢献したというべきではないであろうか。それらの歴史の流れがすべて南京事件という一点に起因しているということを忘れてはなるまい。(南京事件についてはいずれ稿をあらためて書きたいと思っています)。

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(3)トラウトマン和平工作の真相

ジョン・ラーベ著「南京の真実」(講談社1997年刊)を今読み終わったばかりだが、この本の編者エルヴィン・ヴィッケルト氏自身のあとがきとして記された「ヒトラーとラーベ」という章の中で、「トラウトマン和平工作」についての非常に興味深い事実関係の言及があるので急きょその部分を紹介したい。ちなみに編者エルヴィン・ヴィッケルト氏は元駐華ドイツ大使であり、ラーベ氏とも親交のあった人物である。後に歴史学者・作家としてドイツ作家協会の会長も務めた超一流の人物である。この人物が当時の時代を振り返って、トラウトマン和平工作がいかに重要なターニングポイントであったかということを、あえてこの「ラーベの日記」の最終章に記しているのである。これを読むとやはり故山本七平氏の卓見が間違いなかったということを確信できる。なお、「ラーベの日記」については後日、あらためて別稿にて詳しく紹介するつもりです。

1936年11月ジョン・ラーベ邸を訪ねた後、私(エルヴィン・ヴィッケルト氏)は上海まで足を延ばして、クルーベル総領事宅に客として一週間ほど滞在した。当時、交換留学生はよくこうして世話になっていた。ちょうどベルリンで日独防共協定が締結されたばかりだった。夕食のとき、私はいった。

「防共協定を結ぶなら、蒋介石のほうが良かったのではないでしょうか。蒋介石は共産党の毛沢東と闘わなければならないのですから、領土拡張に躍起になっている日本は問題があるのではないでしょうか?」私はいささか生意気だったのだ。ところが意外なことにクリーベルは同意したのである。私は思わずたたみかけた。「領事は、総統がランツベルク刑務所に勾留されたとき、いっしょに判決を受けた仲ではありませんか。総統に手紙でそのようにお伝えになったらいかがですか」。しかし彼はこういっただけだった。「もう二度手紙を出した。三通目は書かない」

当時はまだ、軍事・外交に関しては保守層が権力を握っており、中国にいたドイツ人たちはみな親日政策に反対であった。日独防共協定はベルリンで調印された。立ち会ったのは、武者小路駐独日本大使と、非常に異例なことに、外務大臣ノイラートではなく、ナチの外交官リベントロップだった。外務省もこの交渉には関与していなかった。中国との友好関係を維持したいと考えたからである。

1937年6月27日、蒋介石は駐華ドイツ大使トラウトマンにいった。ドイツは日本と非常に親密であり、日本と平和的に交渉できる唯一の強国ではないか、と。彼はドイツを仲介役とした和平交渉の希望をにおわせたのである。

いっぽう日本軍は、8月の上海攻撃で中国側の激しい抵抗にあって困惑していた。兵器でははるかに日本に劣ってはいたが、ドイツ人軍事顧問に鍛えられた国民政府軍は予想以上に手強かったのだ。10月21日、日本の広田外務大臣はディリクゼン駐日ドイツ大使にドイツかイタリアのどちらかが南京政府に調停を勧めれば喜んで受け入れようと伝え、日本の提案する和平条約の草案を示した。つまり、日本と中国の両国がドイツ政府に調停を頼んだのである。

11月5日、トラウトマン大使は和平条約案を読み上げたが、蒋介石はためらった。日本側の条件を厳しすぎると思ったからである。だが数週間後、日本軍は果敢に戦う中国軍を打ち破って南京にむかって進軍した。ここにいたって蒋介石はついに講和を決意した。12月2日、トラウトマン大使は蒋介石に乞われて漢口から南京に戻った。トラウトマンを通じて、一か月前に出された日本側の条件は依然として有効だとの確認をとった後、蒋介石は日本の和平案を受け入れる意向を表明した。その夜ローゼン書記官は、大使の電報を暗号にし、緊急印Cito!を添えて送信した。12月6日、ラーベは日記に記している。「ローゼンは、日本が南京を占領する前に平和が訪れるといいといい、といっている」ドイツ大使館は驚くほど楽観的だったのである。

ところがディルクゼンが蒋介石の意向を伝えると、広田はこの数週間で事態は変わったと告げ、「日本が要求している華北政権は南京の中央政府から独立すべし」といってきた。これは中国側が呑むはずのない要求だった。こうしてトラウトマン和平工作は水泡に帰したのである。(以上、「南京の真実」講談社ジョン・ラーベ著P177-178)


もともと日本側が蒋介石に突きつけた和平案の最大の条件は「満州国承認を認めよ」ということだったはずである。その他の項目、たとえば互いに防共に尽力するとか、反日行動を慎むとかいう点では蒋介石は日本側と一致していた。それまで蒋介石がどうしても呑めなかったのは満州国を承認する条件だけであった。蒋介石としても事実上は満州国を黙認せざるをえない状況であることを認めていたが、しかし「承認」という所まではどうしても譲れなかったのである。しかし、上海事変での多大な損害(中国側は20万人以上の死者がでたとされる)を出し、このうえ南京まで攻めてこられると首都の防衛さえできないという状況に追い込まれて、やむなく「満州国承認」を認めるという決断をしたのであった。これは山本七平がいうように、まさに蒋介石にとっては無条件降伏にも等しい決断だったはずである。

ところが蒋介石がその難しい決断をしたことに対して、日本の広田外相はあたかもそれをあざわらうかのように、さらにハードルをあげて「華北政権は南京の中央政府から独立すべし」という条件まで付け足してきたので、これは蒋介石が到底呑めるはずのない条件だったとヴィッケルト氏が回想しているのである。

この条件はどういう意味なのかというと、そもそも日本は満州事変以来、満州に近い華北周辺で反日テロ事件が頻発していたのでこの地帯に中国人の保安隊(日本の傀儡軍)を置いて警備に当たらよせていたのであるが、そのやり方をさらに周囲に広げていこうという戦略で北京市を中心とする華北政権(実際には政権ではなく地方の軍閥の自治区にすぎなかったが)とさまざまな交渉をしながら、武力の威圧を背景に手なずけていたのである(事実、当時の華北地帯の自治区では人事権にまで日本が干渉していたし、北京大学の学生らの反日デモに対しても日本軍が鎮圧する権利を要求していた)。

ところが盧溝橋事件が勃発したあと、蒋介石の南京政府が乗り出してきたために戦線は拡大の一途となった。したがって日本側の「華北政権を南京中央政府から独立させよ」という要求は、要するに華北地帯は日本の支配地域であることを認めよという要求に他ならなかったわけである。つまり日本側は南京政府の和平案受諾表明に対して、逆に「それならついでに北京を中心とする華北一帯を統治することはあきらめよ」というさらなる条件を突き出したわけである。当時をよく知るヴィッケルト氏はこの条件の変更は蒋介石にとって呑めるはずのものではなかったと証言しているのである。ちなみに前に紹介した渡部昇一氏らの保守派の書の中では、これらの条件はやさしいものであったと書いているものが多いが、これはとんでもなく自分に都合のよい史実を捻じ曲げた歴史解釈にすぎないものであろう。

いずれにしても、当時の蒋介石は中国全土を統一するだけの力をもっていたので、そんな要求は絶対に呑むことはできなかったのである。もちろん日本側も蒋介石がそれを呑めるはずがないということを分かって条件をあげてきたのだろうということは容易に想像できる。この時点では日本側は南京攻略に絶対の自信をもっていたので、それをいまさら思いとどまることは難しかったのだろう。南京は中央政府の首都だったので、これを陥落させれば将棋のたとえでいえば戦争はつむはずだと安易に考えたのかもしれない。しかし、ここに日本側の重大な誤算があったのである。それは石原莞爾が正しく予見していたように、日本軍が南京攻略を果たしたところで将棋はつまないどころか、それから以後の展開は日本軍にとって泥沼以外のなにものでもなくなるということである。

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