3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

南京事件の真相 その一

「南京事件」「虐殺」というキーワードでヤフー検索をすると、驚いたことに「南京大虐殺は捏造だった」というページがいきなり目に飛び込んでくる。このページがヤフーの検索ワードの上位にひっかかる理由は来訪者が多いからであろうと容易に推測できる。その他にも同じキーワードで上位にでてくるのは、大体、「南京大虐殺はなかった」とするいわゆる「まぼろし派」のページである。東京や大阪の街頭ではネット右翼たちが「中国人と朝鮮人をぶっ殺せ!」というような異常なシュプレヒコールを叫びながらデモを展開しているという。これは由々しき事態である。これを放置すると日本は中国や韓国のみならず世界中から信を受けることは難しいだろう。このような思いもあって、以下に南京事件の研究家として知られる泰郁彦氏の著作「南京事件」(中公新書1986年2月初版)から一部分を引用させていただこうと思った。この書を読めば南京で虐殺があったのかどうかという議論が存在すること自体がバカバカしい気がするであろう

ちなみに泰郁彦氏はいわゆる左巻きの学者ではなく、むしろどちらかといえば保守派の歴史学者である。最近でも韓国の慰安婦問題について、慰安婦の強制連行の証拠となる事実はなかったという見解を表明しており、その立場から橋下発言を産経新聞の「正論」欄で「大筋では(橋下発言は)間違っていない」という文章を寄稿しておられるのをみても、泰氏のイデオロギー的背景がどのようなものかということはおおよそ分かるだろう。ただし、私はなにも保守派だから信用できると言いたいのではない。世の中にはイデオロギーの背景によって、その人が主張する事実をねじ曲げてとられる傾向があるために、あえて泰氏のイデオロギーの背景を説明したまでである。いずれにしても、左翼であろうと右翼であろうと事実は事実であり、その事実をいかに受け取るかということは一人ひとりの判断と責任にゆだねられているのだということは付け加えるまでもないと思う。
hataikuhiko.png

さて、泰郁彦氏の著作「南京事件」に入る前に、最小限の予備知識として知っておいていただきたい南京事件の背景について若干の説明をしておく。日本軍が南京に入城したのは1937年12月13日である。それまでに前にも説明したように、トラウトマン和平工作が行われており、一時停戦の機運もまったくなかったわけではないが、南京攻略の総司令官松井石根が戦後語ったところによると、日本は国民政府の首都南京を攻め落としてから和平案を受諾させたいと考えていたそうである。しかし、これは逆効果であった。蒋介石は一旦和平案を受諾する意志を表明したが、日本軍の進軍が止まないために断念し、これ以降徹底抗戦を決意し、すでに首都も内陸部の重慶に移していたのである。したがって蒋介石は日本軍が南京を攻略する以前に南京防衛を諦め、これより以降、中国奥地の内陸戦へ持ち込もうとしていた。

nankin2.jpg
南京市街の地図(斜線内は安全区)

ただし、蒋介石の意図は中国軍全軍に正しく伝わっていたわけではないようだ。南京防衛を託された中国国民軍の最高司令官唐生智はぎりぎりまで南京死守を誓ってふんばっていたが、その後蒋介石の撤退命令を受け、自らも一部部隊とともに奥地へ逃げ込んだ。ただし指揮命令系統が混乱していたためか、撤退命令を知らずに戦っていた中国軍も多くいたようである。彼らの多くは南京陥落前に日本軍に殺され、また捕虜になった者も大部分は処刑されたと考えられている。12月13日、日本軍が南京に入城する前に勝敗はほぼ決しており、ほとんど無抵抗のうちに日本軍は短時間で南京市街全域を占領することができた。一般にいわれる南京の大虐殺という事件は、この占領後に起こった出来事であると考えられている。

南京市内には元々百万人以上の市民が居住していたが、日本軍が入城するまえにほぼ80%の住民が内陸部へ逃げていた。その前から連日連夜爆撃が続き、そのうえ日本軍が攻め込んでくるという噂もあったからである。その中でも取り残された市民の数が約20万人いたとされる。南京市は中国の首都でもあったので海外の外国人も多数住んでいた。しかし、彼らもほとんど南京陥落前に逃げ出したのであるが、牧師や金稜女子大の学校関係者らごく一部の外国人が残ることを決意していた。彼らは市街地で戦闘にならないように、事前に日本軍に働きかけ安全区を設けることを認めさせ、そこには無辜の一般市民がいるので攻撃しないように約束を取り付けた。ただし、その約束を日本軍は必ず守ると保障したわけではなく、戦闘に支障がないかぎりは尊重するとしていただけである。いずれにせよ南京にいたほとんどの市民はこの安全区に逃げ込んだのであるが、問題は日本軍が南京に入城する前に中国軍が戦意を喪失して一斉に武器を捨て軍服も脱ぎ棄て、安全区の一般市民に紛れ込んでしまったことである。したがって、日本軍が南京に入城したときには武装した中国軍はほとんど一人もおらず、そこらじゅうに脱ぎ捨てた軍服や捨てられた武器が散乱していたのである。日本軍はこのように軍服を脱ぎ捨てた元兵士を「便衣兵」と名づけ、彼らを徹底的に摘発する方針を打ち出した。

南京の大虐殺という異常な事件はここから起こることになる。南京大虐殺は虚構にすぎないという人々によれば、便衣兵を摘発し彼らを処刑したことは認めるが、これは戦時国際法に基づいた不法捕虜に対する正当行為であるから虐殺とはいえないという立場を一貫して主張している。しかし、日本軍は南京の戦争をそもそも「戦争」とはいっておらず、自ら戦時国際法を適用されないと主張しているのだから、この件で戦時国際法を持ち出す資格もない戦争だったといえよう。しかし、問題はそんな法律問題ではなく、そこでいったい何が行われたのかということである。それについて現場を何も知らない人間が漠然と語っても意味がない。実際にそこで行われたことは人道に著しく反する残虐行為であり、近代戦の中でも特筆すべき蛮行があったとされているのである。それが具体的にどのような事実だったのかということを、われわれは詳しく知る必要があると思う。これから引用する文章は、ほとんど当時現場にいた人々の証言である。これらの証言をどのようにみるかは、われわれの判断と責任にすべてゆだねられているのだということをあらためてここに付け加えておく。

以下の文章は12月13日の南京陥落後にしばらく南京城内に滞在していたニューヨーク・タイムズのダーディン記者が12月17日に本国アメリカへ打電した記事である。

「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を逃してしまった・・・・中国政府機構の瓦解と中国軍の解体のため南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともに確立されると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大被害を受けることもなくなったと考えて、中国人民の間に大きな安堵の気持ちが広がった。歓呼の声で先頭の日本兵を迎えた住民もいた。しかし日本軍が占領してから二日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。」P2-3

つづいて彼が目撃した恐怖の光景が、ジャーナリストらしく要領のよい、しかし冷静な筆致で映画フィルムのように生々しく描き出されている。いくつかの実例を要約引用しておこう。

「一般市民の殺害が拡大された。警官と消防夫が特に狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺された」「日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよいほどだった。」「多数の中国人が妻や娘が誘拐されて強姦された、と外国人たちに報告した。」「記者は上海行きの軍艦に乗船する直前、バンド(埠頭)で二百人の男子が処刑されるのを見た。殺害には十分間かかった。男たちは壁の前に一列に並ばされて銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、一軒一軒しらみつぶしの捜索がおこなわれ、集められて処刑された」

このダーディンの報道記事は二日半の見聞に限られた速報ながら、南京アトローシティにおける蛮行のほぼ全類型を網羅していた。三週間後に出た詳しい続報を待たずとも、世界中にセンセーションを巻き起こしても不思議はないスクープであり、少し前に起きたゲルニカ爆撃に匹敵する衝撃波を送り出した(P4-5)


以下の証言は、国際安全区の幹事でYMCAの書記長フィッチの証言である。後日、別の角度から見た証言として国際安全区委員会代表ドイツ人ジョン・ラーゲの日記を紹介する予定であるが、そのときにもフィッチが度々登場するので覚えておいてほしい。

「便衣狩りは十二月十四日、日本軍の大佐が来訪して、六千人の便衣兵を差し出せと要求したことに始まる。断ったが日本兵は勝手に捜索して千三百人をよりだし、ジュズつなぎにして揚子江へつれ出し、処刑したという。十六日にも警察官五十人を含む千人が拉致され、二十四日には、元兵士でも名乗り出れば助命するといつわって、つれ出した二百四十人を処刑。強姦は十五日から一日千件の割で続発し、被害者の年齢は十歳から七十歳にわたり、その後殺された者も少なくなかった。放火と略奪は、フィッチによれば、十二月十九日から大規模にはじまり、彼が働くYMCAの建物も焼かれ、商店の八割、住宅の五割が略奪され、焼き払われたという。」

以下はページが一挙に跳ぶが、主に日本軍兵士の日誌などを中心に集めてまとめた検証ページからの引用である。先のダーディン記者のスクープ記事をあわせてみると、その信用度はますのではないかと思う。

この間に、各所で逃げ遅れた敗残兵が集団で投降してきたが、興奮で殺気立った兵士たちは上官の制止もきかず、片はしから殺害したようだ。佐々木少将は午後二時頃、和平門まで前進したが、「その後俘虜ぞくぞく投降し来り数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ片はしから殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛酸をかえりみれば兵隊ならずとも<皆やってしまえ>と言いたくなる。白米はもはや一粒もなく、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合せは無いはずだった」と書いている。P116

一方、佐々木回想録は、「この日我作戦地域内に遺棄された敵屍1万数千」「江上に撃滅したもの並びに各部隊に俘虜を合算すれば我支隊のみにて2万以上の敵は解決されているはず」と述べ、中島師団長日記(13日)は、「後ニ到リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約15000、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約1300」と記す。問題は捕虜の「処理」だが、中島日記(13日)に「大体、捕虜ハセヌ方は針ナレバ片端ヨリコレヲ片付クルコトトナシ」とある。(P117)

たとえば、児玉義雄大尉は次のように証言している。「彼我入り乱れて混戦していた頃、師団長の声で師団命令として、“支那兵の降伏を受け入れるな。処刑せよ。”と電話で伝えられた。私はこれはとんでもないことだと、大きなショックを受けた……参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用されるところとならず……」(P118)


これらの記述は南京占領前直前の戦闘の報告である。すでに捕虜に対する処刑の方針が定まっていたことがみてとれると思う。

第十六師団による南京城内外の掃討作戦は14日から15日にかけて続行され、13日と同じように敗残兵は投降すると否とを問わず、手当たり次第に処分されたようである。この掃討作戦については、歩兵第30旅団の発した命令が残っているので一部を抜いて示そう。
一、敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意志ヲ有セルモノ散在ス
二、旅団ハ本14日、南京北部城内及ビ城外ヲ徹底的ニ掃討ス
六、各隊ハ師団の指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ(P117-118)

「十一時三十分入城、広場において我小隊は敗残兵370名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。我は敗残兵中よりジャケツをとって着る。面白いことこのうえなし。自動車、オートバイなども多数捕獲す。各自乗りまわせり。八時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室にいれて殺す。」西田上等兵の日記。(P120)


上の記述は南京城占領後の記録である。ダーディン記者が報告していた日本軍の略奪行為を物語っている。敗残兵に対する処理方針は各兵に徹底されていたこともうかがわれる。

「最前線の兵7名で凡そ310名の正規軍を捕虜にしたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取り上げ服装検査、その間に逃亡を図った奴三名は直ちに銃殺。間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し、兵隊200人ばかりで全部突き殺す。…中に女一名おり、殺して陰部に木片を突っ込む。外に2000名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き刺す兵がいた」(小原予備主計少尉日記) 十二月)(P121)

十二月十四日、南京周辺とくに城外東方の日本軍は彷徨する敗残兵の討伐に多忙をきわめた。そのほとんどが指揮者もなく戦意を失った空腹の兵で、日本軍をみかけると小ぜりあいするか、無抵抗で次々に投降し捕虜となった。しかし、どれが敗残兵か捕虜か見分けもつきにくく、情報が渾沌としていた。この日の飯沼参謀日記には、「南京東方地区より約一千宛の捕虜二群下関方向に移動しあり」「三時頃佐々木支隊の一中隊は南京東北方に於て約二万を捕虜とせりと」などの諸情報が記入されている。
(中略)
このときの捕虜百数十人は、軍司令部の命で「掃滅」させられてしまうが、今なお論争の的になっているのは、歩三八の第十中隊が堯化門で捕えた大量捕虜(飯沼日記の二万に相当か)の始末である。
歩三八戦闘詳報第十二号付表は「不慮7200名ハ第十中隊堯化門付近ヲ守備スベキ命ヲ受ケ、同地ニアリシガ、14日午前8時30分頃数千名ノ敵白旗ヲ掲ゲテ前進シ来リ、午後1時武装ヲ解除シ南京ニ護送」と記す。
(中略)
ところでこの7200人の捕虜はどうなったのか。軍司令部に問い合わせると、「直ちに銃殺せよ」と言ってきたが、沢田少尉が拒否すると、「では中山門までつれて来い」と指示が変わり、迎えの部隊と同行して中山門まで連れて行った、と沢田は述べている。
この転送風景を目撃したのが、『野戦郵便旗』の著者佐々木元勝氏で、その十七日の項に「夕露に煙る頃、中山門に入る前、また武装解除された支那兵の大群に偶う。乞食の大行列である。誰一人可哀そうなのはいない。7200名とか」と記し、引率の将校が「一挙に殺す名案を考案中……船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく、警察署に留置し、餓死さすのだとか……」と語ったのを記録している。中島日記にも「此七、八千人之ヲ片付クルニハ相当大ナル濠ヲ要シ中々見当タラズ一案トシテハ百二百ニ分類シタル後適当ノカ所ニ誘キテ処理スル予定ナリ」とあるように、どう始末したらよいか名案が決まらぬままに「10中隊ハ捕虜ヲ南京刑務所ニ護送ス」となる。その後の彼らの運命については、処刑説、上海移送説、釈放説といろいろだが、今のところ確認できない※。※翌年一月上旬南京に出張した参謀本部の稲田中佐が、榊原派遣軍参謀から「収容所の捕虜を上海で労役に使うつもりでいて、数日出張した留守に殺されてしまった」(稲田正純談)と聞いている。(以上、P122-124)


上記、20000人あるいは7000人という捕虜の処分はどうなったのか明らかではないが、ラーベの日記を読むと30000人程の遺体が揚子江岸に放置されていたとあるので、これと関連するのかもしれない。これについては後日あらためて触れたい。

「明ければ十四日難民区へ。今日こそしらみつぶしにやって戦友の恨みを晴らしてやろう、と意気込み、ある大きな建物に入ると、数百人の敗残兵が便衣に着がえつるあるところを見つけた。そばには青竜刀やピストルなど山のようにある。持物検査をしてけったり、ひっぱたたいたあと電線でジュズつなぎにする。三百人はいたが始末に困る。そのうち委員会の腕章をつけた支那人に『いるか』と聞くと、向いの大きな建物を指して『多々有』と言うので、入ると難民が一杯、その中から怪しそうな一千人ばかりを一室に入れ、さらに三百人よりだし、夕方に六百人近くの敗残兵を引き立て玄武門に至り、その近くで一気に銃殺した。」増田六助上等兵の証言「南京城内掃蕩の記」(『支那事変出征戦友の手記』に収録)

十二月十八日付の難民区委員会の文書第七号は「14日日本軍将校1名が司法部へやってきて難民の半数を取り調べ、そのうち2,3百人を元中国兵として逮捕、連行し、350名は一般市民であるとして残した」と述べている。二日後に改めて日本軍が司法部の再検査をやり、委員のリッグスをなぐったうえ、警官百人を含む男子のほとんど全員を連行した。そして2000人ばかりが漢中門外で射殺されたというのが、警官の一人で東京裁判にも出廷した伍長徳の証言で、彼は処刑者を中島部隊と名指したが、第六師団の可能性もあり、特定は困難である。(P127)

「十二月十六日 午前十時から残敵掃蕩にでかける。午後又出かける。若い奴を335名を捕えてくる。……此の中には家族も居るであろう。全く此れを連れ出すのに泣くのが困る。手をすがる、体をすがる、体にすがる。全く困った。……揚子江付近に此の敗残兵を335名を連れて他の兵が射殺に行った。」(井家又一日記)(P131)

「目につくほとんどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四週を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊共何百名も狩り出しているが、1中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立ててくる。その直ぐ後に続いて家族であろう。母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。市民と認められる者はすぐ帰して、36名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方ない。真実は分からないが、哀れな犠牲者が含まれているとしても、致し方のないことだろう」(水谷上等兵の日記)(134)

こうして選りわけた「便衣兵」の始末もまちまちで。今となっては追跡のしようはないが。概していえば少人数の集団は難民区周のあちこちの空地で刺殺するか、射殺され、まとまった集団は他隊に引き渡されて、多くはその夜、下関の波止場周辺で、機関銃隊の手で一挙に射殺されたと推定される。(P135)

十六日夜、下関で1200名を銃殺した第一機関銃中隊も、執行人の方から名乗り出る人がないかわりに、目撃者の記録は意外に多い。その一人である佐々木野戦郵便局長は、夕方、下関へ黙々と護送されて行く便衣兵の大行列をみたあと、部下から彼らが処刑されたと聞き、翌朝現場を目撃した惨烈な印象を次のように記している。「銃殺した俘虜は二千名(余)で……石油をかけられたのでぶすぶす燻って居る。其臭いは秋刀魚を焼いた様である。波打際に血を流し累々横たわって居る。……」(P136)

十二月十七日の朝日新聞は「持て余す捕虜大量、二十二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」の見出しで次のように伝えている。「両角部隊のため鳥龍山、幕府山砲台の山地で捕虜にされた14777名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕えた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先ず銃剣を捨てさせ付近の兵営に押し込んだ。……一番弱ったのは食事で。部隊さへ現地で求めているところへこれだけの人間に食わせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到底食わせることはできなかった」

この大量の捕虜はどこからやってきたのか。朝日新聞は教導総隊所属と伝えているが、紫金山で敗れた総体の全員が逃げ込んでも、これほどの数にはならないはずで……。ともあれ大量の捕虜をかかえこんだ山田支隊長と両角連隊長は困惑し、まず江北を前進中の師団司令部へ、ついで軍司令部へどうすべきか問い合わせた。山田メモは次のように記す。「十五日、捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ「始末せよ」との命を受く。各隊食糧なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食糧ありときき運ぶ。捕虜に食わせろとは大変なり。」(P141-142)

一つは松井大将の専属副官だった角良晴少佐で、『偕行』シリーズ(14)で大要次のように証言している。「十二月十八日朝、第六師団から軍の情報課に電話があった。『下関に支那人約十二、三万人居るがどうしますか』情報課長、長中少佐は極めて簡単に『ヤッテマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い、松井司令官に報告した。松井は長中佐を呼んで強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事した。ところが約一時間ぐらい経って再び問い合わせがあり、長は再び『ヤッテマエ』と命じた」span>

もうひとつは、昭和十三年春、長が田中隆吉に語った次のような告白である。「鎮江付近に進出すると……退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた……(自分は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した
自分はこの命令を軍司令部の名を利用して無線電話に依り伝達した。命令の原文は直ちに焼却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しという訳にはいかなかった」(田中隆吉『裁かれる歴史』)

この二つの証言は、前者が九十一歳の老人の記録、後者は十年後の回想という性格から。事実誤認と思われる要素を含むが、総合すると山田支隊の捕虜問題を指しているように思える。幕僚が上官の意図に反する指示(指導)をすることは、軍隊の性格上本来はありえないはずだが、下剋上、幕僚専制の風習が横溢していたこの時期には必ずしも珍しくなかった。長はその中でも別格の暴れ者で、南京戦線でも粗暴、奇矯の振舞いが目立った。…命令違反や捕虜虐殺も彼を知る人の間では「長ならやりかねない」とうなずく人が多い。
(P143-144)

そこへ山田支隊は十九日に浦口へ移動せよ、との命令が届く。支隊長もかばいきれず捕虜たちの運命は決まった。山田メモには「十八日 捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。十九日 捕虜の件で出発は延期、午前総出で始末せしむ。軍から補給あり、日本米を食す。 二十日 下関より浦口に向かう。途中死体累々たり。十時浦口に至り国東支隊長と会見」と簡潔にしか記されていないので、捕虜の「始末」が実行された日時ははっきりしないが、十七日夕方に補充兵として着隊した大寺隆上等兵の次のような日記から判断すると、十七日夕方から夜にかけてだったと思われる。「十八日 今朝は昨日に変る寒さ、風は吹く、小雪は降る。整列は〇八〇三。後藤大隊長、矢本中隊長の訓示の後、各分隊に分かれる。午後は皆捕虜兵の片付けにいったが、オレは指揮班のために行かず昨夜までに殺した捕虜は約2万、揚子江岸に山のように重なっているそうだ七時だがまだ片付け隊は来ない。十九日 午前七時半、整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の遺体に驚く。今日の使役兵師団全部。石油をかけて焼いたため悪臭甚だし。午後二時までかかり作業を終わる。」(P145-146)

捕虜の大群は田山大隊の兵士たち(百数十人)に護送され、上元門付近の仮釈放所から四列縦隊で長蛇の列を作って江岸まで5キロ以上の道のりを歩いた。数時間かかって江岸に到着したときは日も暮れかかっていた。柳の木が点々としている川原で、少し沖に大きな中州が見え、小型の舟も二隻ほどいた、と栗原利一伍長は回想する。捕虜たちは対岸または中州に舟で運び、釈放すると聞かされて、おとなしく行軍してきたのだが、ここに至って異様な空気に感づいたと思われる。一人の捕虜が監視役の少尉の軍刀を奪ったのがきっかけとなってか、連隊史が記すように渡江中に対岸の中国軍に撃たれたせいか、大混乱となり、機関銃と小銃が火を吐いた。集団脱走とも暴動ともつかぬ殺戮は一時間以上つづき、夜が明けたあとには二千~三千の捕虜の死体がころがり、「
処刑」した方の日本軍も将校一、兵八人が混乱に巻き込まれて死んだ。(P146)

個々の実態については、創価学会青年部反戦出版委員会が編集した『揚子江が哭いている』が、実名、仮名をとりまぜた第六師団兵士の告白的証言を収録している。捕虜の殺害も各所で起きたらしいが、十六日、蕪湖へ向かう途中の歩一三連隊が捕えた「一千名以上の敗残兵」(荻平昌之大尉手記)を中華門外で集団射殺したシーンについては、児玉房弘上等兵の次のような証言がある。「山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数えきれないほどの中国兵捕虜の姿、そこに突然『撃て』の命令。……『まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分りました』」(P151-152)

別の例では、水西門付近に宿営していた歩二三連隊宇和田弥市上等兵の日記(十二月十五日)にある、「今日逃場を失ったチャンコロ約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会う。老若取り混ぜ、服装万別、武器もなにも捨ててしまって大道にヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも言え様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。」とか、「二百人近い敗残兵が投稿してきたのを、二十五人で引きつれて歩兵に渡すと“捕虜をつれて戦ができるか”と一喝され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた。その前日にも三百人近い敗残兵や住民を機銃で射殺したという。…」『揚子江が哭いている』という野砲六連隊分隊長の回想は、下関の釈放捕虜の運命に関わる見聞だった可能性が高い。((p155)

便衣兵と判定された中国人たちは、下関などで処刑されたが、この時期の処刑風景を何回か目撃した一人に、飛行第八大隊付の井出純二軍曹がいる。その手記の一部を紹介しよう。「さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、 死体を水面にけり落しているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落していた。傍まで行くと四十歳前後のヒゲの応召兵が『戦友○○のカタキ討ちだ。思い知れ』と大声で怒鳴りながらダンベラをふるっている。私に気づくと『航空隊の人よ、少し手伝ってくださいよ。手首も腕も疲れた。頼みますよ』と言われたが、30分近く見物した後で胸が悪くなっていた私は……手を振って早々にその場を離れ去った。」(井出「私が目撃した南京の惨劇」)P167-168


以上で捕虜虐殺の真相に関する秦郁彦著「南京事件」からの引用を終わる。他にも引用したい個所は多々あるが、特に印象に残った部分をピックアップしておいた(もっと詳しく知りたい方はぜひ本書を手にとっていただきたい)。もちろんこれらの記述がすべて真実だとはいいきれないだろうが、重要なことは、これらの記述はその当時に現場で虐殺事件に直接関与した者(あるいはその目撃者)が記した第一次史料だということである。これらの史料以上に信用性のあるものを探すことは難しいだろう。ただし、いうまでもないが、これらの史料には重複があり、同じ事件を複数の他者が別々に証言したものも含まれている。それにしても、これらの捕虜虐殺事件の総数を計上するとすれば、それは1万とか2万では済まないのではないかという気がする。その当時南京市街周辺にいて捕虜になった中国兵の数は正確に把握しきれないと思うが、当時の日本兵の総数7万人を上まわる数であったとしてもおかしくない(笠原氏の研究では10万以上の中国兵が残っていたとされている)。もし中国兵捕虜がすべて殺されたのだとすると、その虐殺数は想像を絶するものがある。しかもその中には便衣兵の摘発の際に間違って連行された一般市民も大勢いたはずなのである。

いまだに大虐殺はまぼろしにすぎないと主張する論者がしばしばいうのは、南京市内の人口が事件前と事件後も約20万人だったということである。しかし、この数字には中国兵の数は含まれていないので、そんな数字の魔術はまったく意味がないことになる。たしかに日本軍が南京の一般市民を無差別に殺戮したというような事実はない。したがって中国政府がいうような30万人とか40万人の虐殺数は誇張があるだろう。しかし、捕虜の虐殺だけでも相当な数になることは容易に想像できるのではないかと思う。捕虜になった中国兵が何万人もいたことはまちがいのないことであり、そして彼らはほとんどすべて殺された可能性があるのである。まぼろし論者がいうには便衣兵の処刑は虐殺とはいえないという。なぜなら彼らは国際法に則った捕虜とはみなされないので、殺されても仕方がない立場であったというのである。これはとんでもない詭弁である。そもそも日本政府は盧溝橋事件以来の戦争を国際法に基づく「戦争」とは規定せず、戦争よりもはるかに規模の小さな「事変」という言葉でごまかしてきた。したがって国際法に基づく「戦争」を名乗ることを拒否した側が、国際法の適用を云々する資格もないのは当然である※。

※ちなみに日本国政府は次のような声明を発しているのである。【帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約 其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体事項ヲ悉 ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ】と

しかも、秦氏の資料を読めば明らかなように、日本軍は終始一貫「捕虜を処刑すべし」という方針であり、その証拠に便衣兵ではない国際法でいう正式の捕虜(投降兵)に対しても同様の虐殺を行ってきたのである。したがって便衣兵だから殺されても仕方はなかったという彼らの論理はまったく成り立たないだけでなく、そもそも戦時国際法(ハーグ条約)の精神にもまったく反する行為である。

ちなみに秦氏と同じく南京事件の研究家として知られる笠原十九司氏の著書(「南京事件」岩波文庫)中にハーグ条約の規定について触れた個所があるので引用しておこう。


日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外におかれたものの苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民およ び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道法的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善をいっそう明確化した「捕虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)が1929年に締結されて、戦時国際法として存在した(日本は締結したが批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明している)。
ハーグ陸戦条約は「第二十三条[害敵手段、攻囲及砲撃の禁止事項] ロ、敵国又は敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること ハ兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」と、「害敵手段」を規制していた。これは直接の戦闘外におかれた兵士を保護するための規定である。十二月十三日早朝に南京城は陥落し、南京攻略戦の直接の戦闘は決着がつき、南京防衛軍も完全に崩壊してしまっていた。したがってその後の中国兵は、戦闘員を人道的に保護するために、投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在だったのである。日本軍が徹底した殲滅戦を強行したために、投降兵、敗残兵を殺戮したのは、同条約に違反する不法行為であり、虐殺行為であった。(笠原十九司著「南京事件」P221-222)


私の考えでは大量の捕虜を処刑した理由は一に食糧の問題、二に捕虜を収容する施設がなかったこと、三に敵地の中であるため捕虜が奪還されるのを恐れたこと、四に中国人に対する侮蔑があったと思う。このうち四は別にして、要するに物理的にのみ考えてみても、当時の日本軍は中国兵捕虜を正当に扱う余裕はなかったということになるであろう。そんなことをしていれば戦争にならないし、自分たちの命が逆に危機にさらされるということを彼らは分かっていただろう。しかし、だからといって捕虜を大量に虐殺してもよいという理屈にはならない。それこそが捕虜の生命を保護すべしという国際法の精神に背く行為なのである。したがって東京裁判で日本軍のこれらの行為が人道の罪に背くという罪状で裁かれたのはやむをえなかったといわざるをえない。もちろんその裁いた方のアメリカも原爆投下や東京大空襲で無辜の市民を大量に虐殺したではないかという問題があることはいうまでもない。だからあの裁判は勝者の裁判であったという側面があることも事実である。しかし、それは別の問題として訴えてゆくべき問題であろう。その前に自らが行った南京での戦争犯罪を根本から悔い改める必要があるのではないかと思う。

最後に、本書(泰郁彦著「南京事件」)のあとがきの言葉を紹介しておこう。一部の自民党などの保守政治家を気取る議員にはぜひとも噛みしめてもらいたい言葉である。

日本が満州事変いらい十数年にわたって中国を侵略し、南京事件をふくめ中国国民に多大の苦痛と損害を与えたのは、厳たる歴史的事実である。それにもかかわらず、中国は第二次世界大戦終結後、百万を超える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引き上げを許した。昭和四十七年の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も請求しなかった。当時を知る日本人ならこの二つの負い目を決して忘れていないはずである。

それを失念してか、第一次史料を改竄してまで、「南京“大虐殺”はなかった」と言い張り、中国政府が堅持する「三十万」や「四十万」という象徴的数字をあげつらう心ない人々がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書にでている原爆の死者数(実数は今でも不明だが)が多すぎるとか、「まぼろし」とかキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。そして、この認識なしに今後の日中友好はありえない、と確信する。
(泰郁彦著「南京事件」P244)


補足1
泰氏の研究では虐殺数は四、五万人とされているらしいが、読後に少し気になったのは南京市郊外の主に農民に対する虐殺数である。これについて泰氏の書ではほとんど触れられていない。笠原十九司氏の研究によると、日本軍が南京を目指して進軍してゆく過程で、大規模な虐殺があったらしいということである。その虐殺数は信頼できる記録がないので、どこまで信用できるのか疑義が残るが、しかし、総勢二十万を超える日本兵が上海や杭州から四方八方の農道を利用して南京を目指して進軍していったときに、大規模な虐殺があったということは十分に推定されることである。それらの地域の農民はラジオも新聞も何もない環境の中で、日中間で戦争が起こっているということすら知らない人々が多くいた。ましてや日本軍が大挙攻め上がってくるという情報を知らなかった人々が多く、気がついたときには時すでにおそく逃げようとしても逃げられず、また逃げようとすれば兵隊と間違えられて射殺されるということもしばしばあった。それを物語る笠原氏の史料を一部引用しておこう。


11月22日 道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子でのびていたのも可哀想である。橋の付近には5,6個の支那軍の死体が焼かれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。
11月26日 午後4時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往しているのもまったく可哀想だがしかたない。午後六時、完全に占領する。七時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討がおこなわれた。自分たちが休憩している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕えようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと3名は捕らえた。兵隊たちは早速エンビ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。
11月28日 午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃をもち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来た時、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準をつけ一名を射殺。このときから掃討は始まっていたのである。自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのか分からないが、逃げる者は怪しいとみて射殺する。部落の12,3家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。老人が2、3人いて可哀相だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ5,6名を射殺する。意気揚揚あがる。


補足2
笠原氏の著書(「南京事件」岩波書店)の中で長江に筏などで逃げようとした膨大な数の中国兵士たちに対して軍艦上から射殺したという次のような記録がみられる。


日本軍の捕虜になるよりは長江の中で一緒に死のうと8人が板に乗り。長江にのりだした。夕方の5時ころだった。そのころ日本軍の軍艦が長江にやってきて、巡視しながら、長江上の敗残兵を掃射しはじめた。さまざまな器材に乗り、あるいはつかまって長江の流れにただよう中国軍将校が日本軍の機関銃の餌食となった。また日本軍艦にぶつけられて漂流道具もろともにひっくりかえされて溺死させられた人たちも多かった。戦友たちの無数の死体がたえず近くを流れてゆく。長江の水は血で染まり、凄惨な光景は見るに耐えなかった。軍艦上の日本兵たちが、長江を漂流する無力の戦友たちを殺戮しては拍手し、喜ぶ姿も見えたこのときの怒りは、生涯忘れることができない。(これは九死に一生を得た中国軍将校陳氏の話)

これに関する証言を海軍軍医泰山弘道が「上海線従軍日誌」に次のように書き残している。「下関に追い詰められ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗りて逃げんとする敵を、第十一艦隊の砲撃により撃滅したるもの約一万人に達せり(南京戦史資料集)
さきの陳氏も、葦の筏に乗った教導総隊の上等看護長に救いあげられて八卦洲に流れ着くことができた。陳氏は岸辺一帯に漂着したおびただしい死体と、さらに長江を流れてゆく無数の死体をみている。八卦洲には文字通り九死に一生を得てたどりついた軍民が何千人と避難していた。しかし、日本の軍艦がそれを発見して周囲を監視し、中洲から脱出できないようにした。陳氏はすぐに流木を集めて筏を作り、夜明けの濃霧を利用して北岸に無事脱出したが、包囲された何千人の軍民は、岸辺に集められ集団殺戮され、死体を長江に流された。陳氏はこのことを後に聞き、「こんな残虐な事件は世界史上にもあまり例がない」と悲憤の思いにかられた。(P159-162

補足3
先に紹介したYMCAのフィッチ氏の話によると、「強姦は十五日から一日千件の割で続発し、被害者の年齢は十歳から七十歳にわたり、その後殺された者も少なくなかった」とされている。この問題については、日本軍の兵士たちの日誌に具体的に記されているわけではないが、中国人の証言や国際安全区委員会代表ラーベ氏の日記にも克明に記されているので、後日あらためて紹介したいと思う。要は南京陥落後に日本軍が徹底した敗残兵狩りを行った過程で、それらの蛮行が起こるべきして起こったということである。その恐るべき蛮行の真相を知ると慰安婦問題を軽々しくいうことは到底許されないだろう。

スポンサーサイト

PageTop

南京事件の真相 その二

「南京の虐殺事件はまぼろしにすぎない」という論者がしばしば例にあげることで、日本側の従軍記者やジャーナリストたちの証言で南京城内には死体はほとんどなかったというような複数の証言があるというのであるが、このような証言は状況的に考えて大虐殺事件と決して矛盾するものではない。

思えば私は阪神大震災時に震度7の体験をした者であるが、あの日1995年1月17日早朝、地震が発生してから約1時間後、周囲の状況を確認したいと思いまだ夜の帳があけたばかりの町にでてみた。すると多くの人々が毛布などにくるまってぞろぞろと歩いている異様な光景に出くわした。もちろん自分もその一員であったのだが、意外なことに周囲の人の表情をみると、どの人も笑顔を浮かべており冗談を言い合ったりして笑っている人もいるのである。なぜこんな時に笑えるのだろうかと思うかもしれないが、自分も含めて彼らは皆とりあえず「命拾い」をした人ばかりなのである。自分は幸運にも助かったんだという思いがあふれて、つい笑顔がこぼれてしまうのではないかと思う。

歩きながら周囲の家々を見渡すと、木造建築はほとんど崩壊していてぺしゃんこにつぶされている家も多くあるのだが、だれもその下にいる人を助け出そうとはしない。もちろん実際はそんなわけはなく、家族や友人、縁者が下敷きになった人を助けだそうとしている光景もあったはずだが、少なくともその時は自分と関係のない他人の家には誰もかまっていられなかったのである。なぜならそこらじゅうの家がほとんど崩壊しているので、仮に他人を助けたいという崇高な思いがあったとしても、どこから手をつけていいのかもわからないし、それに一人の人間の力だけでは崩壊した家の下敷きになっている人を救い出すのはまず無理であっただろう。歩きながら、人間はこれほど他人の生命に対して無関心になれるものかと(ぼんやりと)思いながらも、今はとにかく自分自身と家族のことが第一であり、当面の水と食料と電池を探して回ることを優先して歩いていたのである。

このときのことを思い返すと、私はあるおそろしいことに気がついた。実は、私は震災後誰一人死人をみたこともないし、怪我人さえ一度も見ていなかったのである。この地震でおそらく数千人の死者がでているだろうという確かな実感はあったが、しかし、実際にこの目で死んでいる人をみたわけではない。地震後に街を歩き回っていたとき、そこらじゅうに崩壊した家々の下には当然多くの瀕死者がいたはずだが、私は彼らを救出する作業に加わらなかったために、一人の死者も見ることはなかったのである。これはおそらく私だけではなく、多くの市民もそうだったのではないか?六千人以上の人が周りで亡くなっていたにもかかわらず、実際には一人の死者も見ていない!いま考えれば、この奇妙な事実と南京事件での一部のまぼろし派の証言には似た部分があるのではないかと思った。

私が現在まで知り得た秦郁彦氏や笠原十九司氏らの資料をみるかぎり、南京事件で異常な虐殺があったという事実は到底否定することはできない。それらの資料は主に日本軍の下級士官が残した日誌類であり、その記録が現在も残っているということは非常に稀なケースであるということを我々は認めなければならない。なぜなら戦前から南京虐殺を証拠立てる兵士の記録類は没収され処分されたケースが多いからである。したがって、それらの記録は実際の出来事の全貌ではなく、あくまでも氷山の一角としてとらえなければならないのはいうまでもないことだと思うが、だからといって南京事件の虐殺がだれの目にもとまるほど明々白々な事件であったというわけでは必ずしもないということに我々は注意する必要がある。

中国政府は南京虐殺の数を三十万人から四十万人だとしているが、まぼろし派によるとどこにそんな死体を見たという人の証言があるのかとあざ笑う人が多い。もちろん私もその数字は誇張ではないかと思っているが、しかし日本軍が南京陥落を目指して四方八方から三百キロを超える道のりを進軍していった過程で、どこでどんな残虐なことが行われたのかということはほとんど資料としても残っていないので、その進軍の中で行われた虐殺もいれると中国政府の言い分が必ずしも不当な数であるとはいえないと思う。いずれにしても、その全貌を知ることは今日ではほぼ不可能にちかいことであるが、少なくともいえるのはごく一部残された資料から見ても相当な数の虐殺があったという事実は否定できない。

その前に「虐殺」とは何かという言葉の定義をしておきたい。戦時における「虐殺」というのは通常の正当な戦闘行為以外による方法または非戦闘状況下で殺害することを意味している。したがって兵士ではない一般市民に対する虐殺は当然のこと、たとえ相手が兵士であっても投降兵または武装解除して抗戦意志をもたない敗残兵などに対する殺害も虐殺として認められる。これにはまぼろし論者から反論もあるかもしれないが、以前にも述べたようにハーグ国際条約には明確にそのような規定がなされているのであり、それでも分からない人はハーグ陸戦条約(wiki)をよく読んでいただきたい。

南京事件の場合問題となるのは便衣兵の扱いであったが、彼らの多くは揚子江沿いの下関などへ連れていかれて集団で殺された。これらの行為は明らかに「虐殺」にあたるということはいうまでもないだろう。まぼろし派の一部はそれをさえ虐殺とはみていないようだが、そんな理論は世界中どこにも通用しないであろう。通用するというなら、国際連合へ行ってでも堂々と主張なされよといいたい

ところで、そのようにして虐殺された便衣兵や武装解除した中国の敗残兵の数だけでも一万や二万どころではないと考えられるのである。これは前に紹介した秦氏の史料によってもほぼ裏づけられている(ただし笠原氏の史料ではその数はさらに膨大になるとしている)。
ここで注意すべきことは、だからといってそれらの虐殺死体が誰の目にもとまるものであったというわけではないことである。彼らの死体の多くは南京市街の外にある揚子江沿いの下関に置かれていたといわれ、その遺体の数だけでも三万ほどあったとされているが、そればかりではなく揚子江に流された死体も多くあるし、また各地の沼や側溝などに投げ入れられた死体も数多くあったと考えられるので、虐殺死体そのものは一般の人々の目にふれるような場所に放置されていたわけではないのである。

したがって、多くの従軍記者やジャーナリストが虐殺死体など見たこともないと証言しているのは、決して不思議なことではなく、その状況の中では十分にありえたことだろう。また虐殺とはいっても、すべての兵士が虐殺に関与したというわけではなく、おそらく南京陥落後七万人いたとされる日本兵の中で虐殺に直接関与したものは少数であろう。したがって日本軍の兵士の中にもそんなことがあったのかと、戦後になってそのような事実を知らされて不思議に思う者がいたとしてもおかしくはない。南京市街はもともと百万を超える大都市であった。その中で何が起こっているかということを完全に把握できる人間は一人もいない。したがって、「南京の虐殺はまぼろしにすぎない」という人々の誤りは、「木を見て森を見ず」という最も初歩的な「帰納法の誤用」またはそれよりもっと悪質な「牽強付会」の類ともいうべきものである。なお「まぼろし派」の誤りについては、いずれ稿をあらためて書いてみたい。

さて、前置きが長くなったが、これから紹介する「ラーベの日記」(ジョン・ラーベ著「南京の真実」講談社1997年刊)は、南京事件の全貌を知る上でおそらくもっとも重要な史料ではないかと思う。しかし、残念ながらこの史料が公刊されたのは1997年である。なぜ、そんなに重要な史料が戦後47年以上も世にでなかったのかというと、実にそこには複雑な人間ドラマがあったのであるが、その理由についてはあとで述べることにする。ラーベ氏はドイツ人であり戦前はナチの党員であった。ナチドイツと蒋介石の国民党政府はもともと結びつきが強く、反共反ソ政策で蒋介石に相当強く肩入れをしていた。ただしラーベ氏はナチドイツの役人ではなく、民間会社(主に発電所や電話の設置会社)ジーメンスという中国支社の代表をしていた。「ラーベの日記」が南京事件を語るうえで重要な第一級の史料である理由は、彼が南京国際安全区の代表として、南京市民と日本軍の間でさまざまな交渉役をやっただけではなく、自らの広大な敷地(500平方メートルもあった)を難民の避難所として提供し、多くの難民の苦境を救うために命がけで動き回ったことなどで、普通の人には容易に知り得ない情報に直接間接に接する機会があったことがあげられる。この日記を読むと、当時の南京でどういうことが起こっていたのかということが、かなり正確に分かるのではないかと思う。

ちなみに、この「ラーベの日記」は2009年にドイツ・フランス・中華人民共和国の合作映画として映画化されており、中国版「シンドラーのリスト」として大絶賛を浴び第59回ドイツ映画賞で作品賞、主演男優賞、美術賞、衣装賞の4部門で賞に輝いた。アメリカでも20世紀フォックス社が配給しており、ニューヨーク・タイムズなどでも絶賛されたようである。しかしながら、日本の配給会社は試写さえ行わずに公開を拒否したといわれる。また日本兵役で香川照之や柄本明らがでているが、彼らは「非国民」「売国奴」として一部のまぼろし派から口汚く非難されているのだ!なんという国なのだろうか?これではわれわれ日本人の側から歴史認識問題を云々する資格はないだろう。


映画「John Rabe」予告編

能書きばかり長くなってしまったので、ここらで本篇に入ることにする。引用文はあまりにも長くなりそうなので2回に分けて紹介することにした。最初は上海事変の終わりごろから南京市上空にやってくるようになった日本の爆撃機の空襲が始まったころ(十月十四日)から南京陥落後数日(十二月十七日)までの日記である。(以下に紹介する文章はジョン・ラーベ著「南京の真実」講談社からごく一部を引用したものです。前後の省略部分は「……」で記しておきます)

anzenku1.jpg
南京市街と国際安全区(斜線部)の地図 ラーベ邸の位置も分かる。


十月十四日
……日本人が毒ガスを使っているという噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、すでにここの病院に毒ガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。みな毒ガスをひどく怖がっている。南京の一般市民はガスマスクをもっていないからだ。マスクに酢などの液体を染み込ませるよう指示されたが、これはしょせん一時しのぎにすぎず、いざというときにはまったく役に立たない。……

十月十七日
……映画館はすべて営業を停止した。ホテルや店、薬局も大半はしまっている。市内はびっくりするほど落ち着いている。軍人、警官、民団(民兵)もきちんとつとめを果たしている。外国人は誰も(もうあまりたくさんは残っていない。ドイツ人についていえば、女性が12人、男性が6人)不愉快な目にはあっていない。逆だ!異国でがんばっているというので、中国人は驚きながらも好意をもってわれわれをみているのだ。……

誰もかれもが先を争ってわが家の防空壕に入りたがる!なぜだか分からない。うちのはおそろしく頑丈だと噂が立っているらしい。これを作ったとき、せいぜい12人とふんでいた。ところがいざ入る段になってみると、ひどい計算違いをしていたことが分かった。総勢30人すし詰めだ。……
不安を感じたことはないといったら嘘になる。防空壕が激しく揺れ始めたとき、私もひそかにこんな気持ちに襲われた。「どうか爆弾が落ちませんように」だが、不安なんか吹き飛ばすんだ。他愛ない軽口。いかがわしい冗談。するとみな、にやりとする。これで爆弾への恐怖がいくらかなりとも和らいだ。
防空壕の中では赤ちゃんを抱いた女の人を優先すること。彼女たちが真中で次にそれより大きい子供をつれた女の人。最後が男性。男たちの驚きをよそに、私はくりかえしこういってゆずらなかった。
すぐ近くでたてつづけに爆弾が落ちる。みんな口をぽかんとあけ、ものもいわずに座っている。子供や女の人には脱脂綿で耳栓をした。ところが少しでも静かになると、待ってましたとばかり、ひとり、またひとりと勇士がでていってあたりを見回す。敵の爆撃機が撃たれて、きれいな弧を描いて燃えながら落ちてくるようなら大変だ。みな大喜びで、拍手大かっさい。なかでひとり、この変てこなご主人だけは何を考えているのか分からない。彼は黙って帽子をとり、そしてつぶやく。「静かに!3人も人が死んだんだ」……

十月十九日 
今日はまたずいぶんと丁寧なご挨拶じゃないか!夜中の2時に空襲警報と来た。ようやくブーツをはき終えたとき、爆弾が落ちて家中が揺れた。ところがかのリーベだけは爆弾などどこ吹く風で、ぐうぐう眠っている。「リーベさん。2回目のサイレンだよ!」そのとたん何度か爆音がした。……

十月二十一日
……車で発電所へ向かう途中、空襲警報が鳴った。命からがら家へ帰ると、みなすごく興奮している。ドイツ語ができる上海商業備蓄銀行の職員が、上海から南京へ向かう道に日本軍が毒ガスを落としたという知らせを受け取ったのだ。……

十月二十四日
晩のラジオのニュースによると、日本は大場で上海の前線を突破した模様。こんなことはあってほしくないが、もし本当だとすると、もうすぐわれわれは上海から切り離されるかもしれない。

十一月六日
今日出張先であれこれ、いやなニュースを耳にした。中国人の間ではだんだんと「もうどうでもいいや・ムード」が広がっているように思える。リーベもこの間、こんなことをいっていた。発電所で働く労働者たちに「いっそ共産主義者になったほうがましなのではないか」と聞かれたというのだ。……
いや驚いた。新聞によると、中国軍(傭兵部隊だということを忘れてはならない。南京は指令を出したものの、むろんのこと徴兵令はでなかったからだ)が、強力な日本軍と上海で戦っているという。ドイツ人の軍事顧問が鍛え上げたえりすぐりの南京部隊が上海に派遣されていたのだが、すでに3分の2が戦死したらしい。いくら精鋭部隊といえども、武装が十分でなければどうしようもない。日本の近代的な軍隊は巨大な大砲や無数の戦車、爆撃機を備えている。中国のとは比べものにならない。

十一月十日
爆撃機が9機ほど上空を飛びかっている。中国側はもうれつに砲撃しているが、当たらない。高射砲のかけらがすきまなく降ってくる。近所の屋根がガタガタ音をたてはじめたので、リーベを除く全員を避難させた。……

十一月十一日
爆撃が雨あられのように降ってくる。だしぬけに表で歓声があがった。高射砲がひとつ命中したのだ。あっという間に防空壕はもぬけの殻。こんな見物は見逃す手はないというわけだ。まっぷたつになった爆撃機が炎に包まれ、もうもうたる煙をあげて落ちてくる。5人から7人乗っているはずだが、中から2人、炎と煙の中を飛び降りた、パラシュートもつけずに。……

十一月十五日
政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行鞄と荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。それから鉄道部へ行った。そこのボーイからこっそり聞き出したのだが、ここも明日荷造りするらしい。
ドイツ大使夫妻のところにお茶に呼ばれ、シュぺーマン将軍を紹介される。大原府から来たそうだ。クトゥー号はまず女性と貴重品を漢口から運んでから、大使館の人間と残りのドイツ人を運ぶ予定になっているという。……

十一月十七日
メインストリートは一晩中騒々しかった。乗用車、トラック、なんと戦車まで、どれもがのろのろ通っていた。政府のおおがかりな移転が始まったのだ。国民政府主席の林森氏はすでに発ったという話だ。韓の家族のことが心配だ。早くしなくては…。
今聞いたのだが、蘇州付近で張学良の指揮下のおおよそ5千人の兵士たちが蒋介石に対する服従を拒んだのだそうだ。それでようやく日本軍があんなにやすやすと侵攻できたのか分かった。なんでも、蒋介石委員長がみずから蘇州に赴き、精鋭部隊に命じて反抗的な一団から武器を取り上げさせたという。委員長も楽ではない。その精力に脱帽!その結果、蘇州の前線部隊は再び踏みとどまったとの話だ。……

十一月十八日
今日は「中華新聞」の南京版もでなかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラックが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうず高く荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士はぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな裸足で、黙々と行進している。果てしなく続く疲れ切った無言の行列。……

十一月十九日
……国際委員会が発足した。主要メンバーは鼓楼病院のアメリカ人医師、それから金稜大学の教授たち。全員宣教師だ。難民区を作ろうというのがその目的だ。つまり、城壁の中、あるいは外に中立地帯を作り、万が一砲撃されたとき、非戦闘員の避難所にしようというのである。いっしょにやらないかといわれた。私がここに残るというのはすでに噂になっていたのだ。私は承諾し、スマイス教授の家で開かれた夕食会で、アメリカ人の参加者全員に紹介された。……

十一月二十日
18時に号外がでた。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから南京は死守されそうだとも。

十一月二十三日
……韓が耳寄りな話をもってきてくれた。友人の中国人が、なんとトラック二台、ガソリン百缶、小麦粉二百袋を私に贈ってくれるというのだ。ありがたい。誕生日プレゼントだと思って、好意を受けることにした。大いに役に立つ。食糧と車はぜひとも必要だから本当に助かる。ぬかに釘でなければよいが。……

十一月二十四日
ロイター通信社が早くも国際委員会の計画について報じた。すでに昨日の昼、ローゼンもラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館宛にこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。

当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーベを代表に、イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。……

十一月二十五日
……昨日ラジオで聞いた上海からのニュースによると、日本軍司令部が南京に非戦闘員用中立区をつくりたいというわれわれの申し出を好意的に受け入れたとのこと。だが公式の回答はまだだ。……たったいま杭立武さんが、安全区の件で中国政府から了解を得る必要はないと教えてくれた。蒋介石が個人的に承認してくれたというのだ。渉外担当が決まった。南京YMCAのフィッチ。あとは日本側の賛意を待つのみ。……

十一月二十八日
昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。「防衛はこの町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合に備えている」という答えが返ってきた。次に、「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石、もしくは唐の返事は「その時は日本人がやればよい」というものだった。言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のためにだれも身をささげないとは…。さすが、賢明な御考えだ!……

十一月二十九日
……ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」であるあの方は、自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。ヒトラーの一言だけが、彼の言葉だけが日本政府にこのうえない大きな影響力をもつこと、安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人の中にもいない。総統は必ずそのお言葉を発してくださるだろう!……

十二月二日
フランス人神父ジャキノを通じ我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。

電報1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
11月30日の貴殿の電報の件
以下は南京の安全区委員会にあてられたものです  ジャキノ
「日本政府は安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重十するよう、努力する所存です」……

トラウトマン大使とラウテンシュラーガー書記官が漢口から戻ってきたのはちょっとしたセンセーションだった。ローゼンに事情を聞くと、これは委員会とは無関係だとのこと。こっそり教えてくれたのだが、大使は私が総統とクリーベルに電報を打ったことに必ずしも賛成ではないらしい。あれは必要なかったと考えているのだ!今日は時間がないので、あした大使を訪ねよう。思うに、彼が戻ってきたのはドイツによる和平工作の件だろう。……

十二月三日
 ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関の艀でこちらに来たのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。思ったとおり大使は和平案を伝えに蒋介石のところへ行ったのだ。私がそういうと何度かためらったあと、ローゼンも認めた。細かい内容については何も聞き出せなかったが、こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。うまくいくといいが!……

 防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに安全区の三か所に新たに塹壕や高射砲台を配置する場を設けてられている。私は唐の使者に「もしただちに中止しなければ、私は辞任し委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望通りすべて撤退させると文書でいってきたが、実行には少々時間がかかるという。……

十二月四日
 どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係者の電話を引いている有様だ。今日、米を運ぶことになっていた8台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルぐらいしか離れていないところに、いくつも爆弾が落ちたのだ。……

十二月五日
  よく晴れた日曜日だというのに朝っぱらから腹がたってしかたがない。運転手が迎えに来なかったのだ。思えばこれで25回目だ。というわけで、やっとのことで車に乗り込んだとたん今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。だが今は許可証をもっているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。それにあまりやることが多くて爆弾などにかまっていられない。こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。
 アメリカ大使館の仲介で、ついに安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日送られてきたものと大筋は変わらない。つまり、日本政府はまた拒否してきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。……

十二月六日
 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗り込んだ。残りの人々もいつでも乗り込めるよう準備している。われわれの仲間だけが拒否した。これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。
 黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら軍紀が乱れるというのだ。「日本に征服された土地はその土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げ込もうとしている連中をわが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつけない。しかもこいつは蒋介石委員長の側近ときている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!なぜ金持ちを80万人という恵まれた市民を逃したんだ?首に縄をつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ。……

十二月七日
上海放送はトラウトマン大使が今日漢口に到着したと伝えていた。彼の和平案が蒋介石に拒否されたといっている。ローゼンからの極秘情報によれば(すでに書いたが)、もうそれは蒋介石に受け入れられたということだが、その一方で目下最後の戦闘準備がすすめられている。最後の一兵が倒れるまで戦う。兵士たちは口々にこういい続けている。……

十二月八日
何千人もの難民が安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和なときよりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子をみていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていく中、この寒空に家の陰や路上で横になっている。……
外国人のなかにはこういうことをいう人もいる。中国人の抵抗はどうせ只のポーズだ。メンツを失わないよう、形ばかり戦うだけだろう、と。だが、私はそうは思わない。南京防衛軍をひきいる唐が無分別にも、兵士はおろか一般市民をも犠牲にするのではないかと不安で仕方がない。……


十二月九日
……さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、歩哨はだめだといったが結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。
 午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町の一帯が見える。作戦上火をつけたのだ。町中が煙の帯に取り巻かれている。……燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の七時にたどりつき、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まで来ているとのことだ。あるいはその手前に。中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区中に響いている。……

十二月十日
不穏な夜だった。きのうの夜8時から明け方の4時頃まで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。きのう朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊にいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで、交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。……

正午 
朝からひっきりなしの攻撃だ。窓ガラスがガタガタいいっぱなしだ。紫金山では家が燃えている。城壁の外の町も燃え続けている。安全区にいる人たちは安心しているのか、あまり爆撃機を気にしていない。日本のラジオが、南京は24時間以内に陥落するだろうと伝えている。中国軍はすでにいいかげん士気を阻喪している。……

十二月十一日
水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおりいくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの「ベータ」のお気に召したらしい。さっきから声を限りにして合奏している。からすよりカナリアの方が神経が太いようだ。
 爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区」を信頼しているのだ。ここはとっくにセーフでもなんでもないのだが、いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから、いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくてもできないじゃないか。

九時
ついに安全区に爆弾が落ちた。福昌飯店の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者。……さらにもう一発(今度は中学校)。死者13人。軍隊が出ていかないという苦情があとをたたない。……

十八時
記者会見。出席者は報道陣の他は委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦バナイで発ったのだ。スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、「こそ泥」を捕まえ、その処分について聞いてきたという。この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることになるとは。私もそこまで考えていなかった。われわれはます死刑を宣告し、恩赦により、と24時間の拘置にし、留置場の不足によりやむをえず、ふたたび自由の身にしてやった。……

十二月十二日
日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃、ピストル、手榴弾、完全装備だ。警官も規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の8時に、再び砲撃が始まった。
11時に唐将軍の代理だといって、龍上校と周上校がやってきた。3日間の休戦協定を結びたい。ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。
休戦協定の内容は―この3日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。われわれはまずアメリカ大使あての電報、次に調停を依頼する唐将軍の手紙(大使に電報を打つ前に唐がこれをわれわれにださねなければならない)、最後に軍使に関する取り決めを、まとめあげた。軍使は白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。……だが私はショックを受けなかった。こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆は分かっている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。だから日本軍あての公式書状で「降伏」という言葉を使われては具合が悪いのだろう。なにがなんでも休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だとみせかけなければならないというわけだ。……

二十時
南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は避難してきた人たちでふたつともあふれそうになっている。ふたつの門の両方でノックの音がする。なかにいれてもらおうと、女の人や子供たちがひしめいている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げ込んできた男たちもいる。これいじょう聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんをもってきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが一番安全だと思っているのだ。……クリスチャンの話だと、メインストリートには軍服や手榴弾、そのほかありとあらゆる兵隊の持物がばらまかれているという。中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。……夜の9時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜9時から10時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は8時には自分の部隊を置いて船で漢口に逃げたという。……


十二月十三日
日本軍は昨夜いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んではいない。……委員会のメンバー3人で野戦病院へ行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部の中につくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよく分かった。砲撃が激しくなったとき、医者も看護人も患者を放り出して逃げてしまったのだ。我々はその人たちをおおぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院にはやめくのをみて、みな再び勇気を取り戻した。
 外交部へ行く道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。 我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後ふっとんでしまう。上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方をみると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に日本人司令官は2日後に来るといった。日本軍は北へ向かうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の3部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で6百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士たちもいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々はこれらの部隊を外交部と最高法院へ収容した。……我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。……本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたにちがいない。我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。……町を見まわってはじめて被害の大きさがよく分かった。百から二百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると 市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから撃たれたのだろう。
 日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったらとうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第に盗んだ。食糧が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また福昌飯店もこじ開けられた。中山路と大平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。……二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々が何をいってもしょせんむだなのだ。元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百人ないし五百人が連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。……日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人大急ぎで空き家にかくまった。韓は近所の家から、十四歳と十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。ベイツは安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出て行った。……

十二月十五日
朝の十時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。……
昨日、十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。

  南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国兵の悲運を知り、大きな衝撃を受けております。本委員会は、この地区から中国軍を退去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち12月13日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めてきたのです。
  我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本から寛大な処置を期待できるだろう、と。捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。  
                                 敬具
           ジョン・ラーベ、代表


……残念ながら午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げ込んできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器をとることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえられたというのだ。スマイスとミルズと私の三人でなんとか助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。


十二月十六日
朝、8時45分、菊地氏から手紙。菊地氏は控え目で感じのよい通訳だ。今日の9時から「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
 いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんでいる。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。……

ドイツ人軍事顧問の家は片端から日本兵によって荒された。中国人はだれ一人家から出ようとしない!私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れていたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子供が押し合いへし合いしていた。ひざまづいて頭を地面にすりつけ、どうか庭にいれてください、とせがんでいる。この悲惨な光景は想像を絶する。…… たったいま聞いたところによると、武装解除した中国兵がまた数百人、安全区から連れ出され銃殺されたという。そのうち50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区へ入れたというかどで処刑されたという。
 下関へいく道は一面が死体置場と化し、そこらじゅうに武器の断片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼き払われていた。
把江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字通り死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片付かない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。

 銃殺する前に、中国人兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。…… いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。女の人や子供たちがおおぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして互いに寄りそって体を温めたり、はげましあったりしている。この人たちの最大の希望は、私が「外国の悪魔」日本兵という悪霊を追い払うことなのだ。

十二月十七日
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと、「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえした。

 塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運よく救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約二百人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人の誰かがこんなふうにいった。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」

あたらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金稜女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。……

軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部まではすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げ込まれた。……

PageTop

南京事件の真相 その三

前回のラーベの日記の最後の日付(十二月十七日)に次のように書いていたことを思い出してほしい。

アメリカ人の誰かがこんなふうにいった。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」

あたらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金稜女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。……


これは決して誇張ではなく、ラーベ氏の直感だったのだと思う。日本軍が南京に入城したのは十二月十四日のことである。そのわずか3日後にこのような危惧をいだかざるをえない異常な状況がラーベ氏の身の回りに次々と起こっていたからである。

実際、南京事件での強姦の数の異常さは近代戦の中でも他に類がないほどの規模のものであり、これはナチドイツの蛮行においてもみられなかったものであると秦郁彦氏は書いている。秦氏によると、ナチドイツは優生思想が強くみだりに強姦することは許されていなかったので、戦地での強姦事件というのはあまりなかったとされている。しかし、日本軍の場合は強姦に対して軍の規律はきわめて緩かった。しかも、南京事件の場合は兵士たちが強姦行為を働くための、あらゆる好条件が偶然にも揃っていたのである。

およそ七万の兵士たちが南京に入城してから始めたことは便衣兵の摘発であった。彼らはすべての南京城内にある家に土足で入ることを許され、その内部を徹底的に調べていった。国際安全区外の家はほとんど空き家であったが、それらの空き家が調べ終わった後は次から次へと放火されていった。おそらく便衣兵が隠れることがないようにするためであろう。次に日本兵たちは国際安全区に逃げ込んだ便衣兵をしらみつぶしに摘発していった。この過程で兵士たちは同時に家の中にいる中国人女性を強姦していったのである。これはほとんど合法的行為であった。むしろ兵士たちにとってはまたとない役得であり、戦地での唯一といってもよい享楽の時間でもあったであろう。彼らの多くは国内に妻子をもつ良き夫良き父であったはずだが、この異常な環境下ではだれの束縛もなくしたい放題のことができたのであり、まさに彼らは自由の野に放たれた野獣と化したのである。したがって、ラーベ氏の日記に「安全区は日本兵用の売春宿と化した」と書いたのは、まさにそれは起こるべくしてそうなったのだというべきであろう。しかも、当時の南京の現場には軍紀を取り締まるべき憲兵隊がほとんどいなかったので、兵士たちはしたい放題だったのである。

いわゆる従軍慰安婦という制度が組織化されるのはこの異常な経験からであったともいわれる。南京でのあまりの日本軍の惨状をみるにみかねた上層部が慰安所の設置を決めることになった経緯がこのラーベの日記後半部でもふれられている。このような事実を知ると、維新の会代表・橋下氏が沖縄での米軍の強姦事件を例にあげて風俗の活用をというような発言をしていたのは、まったくはなはだしい認識違いであることが分かるであろう。

以下は前回の続きであるが、読まれる前に読者に注意を喚起したい。前回の日記もそうであるが、これらのラーベ氏が見聞きした事実は氷山の一角にすぎないということである。実際にはこの日記には書かれていない何倍、何十倍(あるいは何百倍)もの闇に眠る悲劇があったとみなければならないだろう。しかしながら、これらの記述からわれわれは南京事件の真相についてのかなり正確な全体像を思い描くことができるのではないか。

十二月十八日
最高司令官がくれば治安はよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを片っ端から追い払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。

私が家にいるかぎりは、問題なかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、本部に呼び出しがあった。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。……家に着くとちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆け込んできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。……

危機一髪。日本兵が塀を乗り越えて入り込んでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て銃剣を放り出し、難民の少女に襲いかかった。
私はこいつをただちにつまみだした。もう一人は逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。

夜八時にハッツが来た。日本の警部といっしょだ。かなりの数の警部をトラックに乗せてつれてきている。金陵大学にある難民収容所を夜間見張るためだという。日本大使館での抗議が早速いくらか役に立ったようだ。寧海路5号にある委員会本部の門を開けて、大ぜいの女の人や子供を庭に入れた。この人たちの泣き叫ぶ声がその後何時間も耳について離れない。わが家のたった500平方メートルほどの庭や裏庭にも難民は増えるいっぽうだ。300人くらいいるだろうか。私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいるかぎり、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。……

十二月十九日
わが家では静かに夜が更けていった。寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、20人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。広州路83~85号の難民収容所からは助けを求める請願書が来た。

南京安全区国際委員会 御中
ここに署名しました540人の難民は、広州路83~85号の建物の中にぎゅうぎゅうに押し込まれて収容されています。今月の13日から14日にかけて、この建物は3人から5人の日本兵グループに何度も押し入られ、略奪されました。今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。トラックに乗せられ、翌朝になってようやく帰されるのです。これまでに30人が暴行されました女性や子供たちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!どうかわれわれをお助けください!
南京にて 1937年 12月18日  難民一同……

十八時
日本兵が6人、塀を乗り越えて庭に入ってきた。門扉を内側から開けようとしている。なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻って行くことになった。おまえらにはそれでじゅうぶんだ。なにも門を開けてやることはない。……

十二月二十日
……午後6時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手馴れている。私は思ったままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏はいった。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」
いまこうしているうちにも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。そのなかにはYMCA会館も入っている。これは故意の、というよりむしろ当局の命令による放火ではないだろうか。……

十二月二十一日
日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は市中の6カ所で火が出た。……
昨日、スマイスはこんなことをいっていた。いったいいつまで、ハッタリをきかせていられるだろうか。その気持ちはよく分かる。われわれの収容所にいる中国人のだれかが、妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。安全区は血の海になるだろう。つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否されたという知らせが入った。そんなことだろうと思っていた。……
午前2時、ドイツ人やアメリカ人全員…つまり外国人全員が鼓楼病院に集結して、日本大使館へデモを行った。アメリカ人14人、ドイツ人5人、白系ロシア人2人、オーストリア人1人、日本大使館宛の手紙一通を手渡し、その中で人道的立場から以下の3点を要求した。

一、 街をこれ以上焼かないこと
二、 統制を失った日本軍の行動をただちに中止させること
三、 食糧や石炭の補給のため、ふたたび平穏と秩序が戻るよう、必要な措置をとること。

デモ参加者は全員署名した。

われわれは日本軍の松井石根司令官と会談し、全員が彼と握手した。大使館では私が代表して意見を言い、田中正一副領事に日本軍は街を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。領事は微笑みながら否定したが、書簡のはじめの二点については軍当局と話し合うと約束してくれた。だが、第三点に関しては耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、われわれのことなど知ったことではないというのだろう。……

十二月二十二日
憲兵本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。
その間も軍の放火はやまない。火事が上海商業儲備蓄銀行のそばの家、つまりメインストリートの西側まで拡がったら、とはらはらしどうしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片付けていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのをみつけた(たった一つの沼だけで30体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。……
私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が54人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。ところがなんとそのうちの43人が処刑されていたのだ!それは3,4日前のことで、しばられて河岸へ連れて行かれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、同じく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、その下敷きになったまま河に落ちて、助かったということだった。……

十二月二十三日
……昼食のとき、兵隊が3人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、どやしつけて追い払った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。おまえらに扉なんかあけてやるものか。クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。私が本部にもどる直前、またまた日本兵が塀を乗り越えようとしていた。今度は6人。今回もやはり塀越しにご退場願った。思えば、こういう目にあうのもそろそろ20回ちかくになる。……
今日、シンバーグが棲霞山から持って来てくれた手紙には(彼は江南セメント工場~南京間をふつう1時間で往復する)。棲霞山の一万七千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽しているのだ

十二月二十四日
昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、シーメンスのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。女性たちへのクリスマスプレゼントだ。ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産したものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口が聞けるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。
地下の遺体安置所にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。七歳ぐらいの男の子のもあった。銃剣の傷が四つ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから二日後に死んだという。……
この一週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。だから、こういうむごたらしい姿をみても、もはや目をそむけはしない。クリスマス気分どころではないが、この残酷さをぜひこの目で確かめておきたいのだ。いつの日か目撃者として語ることができるように。これほどの残忍な行為をこのまま闇に葬ってなるものか!
私が病院に出かけているあいだ、フィッチがわが家の見張りをしてくれた。まだ当分は兵隊たちにおそわれる心配があるので、難民だけにしておくわけにはいかない。うちの難民は350人から400人ぐらいだとばかりと思っていた。だが今では602人。なんとこれだけの人間が庭(たった500平方メートル)と事務所に寝泊まりしているのだ。韓によると、男302人、女300人とのこと。そのうち十歳以下の子供が126人。ひとりはやっと2か月になったばかりだ。これにはジーメンスの従業員やわが家の使用人、またその一族は入っていないので、全部入れると650人くらいになるのではないだろうか。……

十二月二十五日
……ミルズがきて、見張りを交代してくれたので、私はアメリカ人の家へと車を走らせた。果てしない間、死体だらけの道を、もう十二日間ものざらしになっている。
仲間たちはひっそりと座っていた。みな物思いに沈んでいる。ツリーはない。ただ暖炉の赤い小さな旗に使用人たちのせめてもの心づかいが感じられた。私たちは難民登録というさしせまった問題について話し合った。心配でたまらない。難民は一人残らず登録して「良民証」を受けとらなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。早くも悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいよりわけられたのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。兵隊用のおおがかりな売春宿をつくろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分など吹きとんでしまう。……

十二月二十六日
 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!なんたって、600人をこす人々の命なのだから。新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。元中国兵という疑いで処刑されるのだという。わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。……
昨日は日本兵が押し入ってこなかった。この二週間ではじめてのことだ。やっといくらか落ちついてきたのではないだろうか。ここの登録は終わった。しかも後からこっそりもぐりこませた二十人の新入りにも気前よく良民証が与えられた。……
安全区本部でも登録が行われた。担当は菊地氏だ。この人は寛容なので我々一同とても好意をもっている。安全区の他の区域から、何百人かずつ、追い立てられるようにして登録所へ連れて来られた。今までにすでに二万人が連行されたという。一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。なんというむごいことを…。我々はただだまって肩をすくめるしかない。くやしいが、しょせん無力なのだ。……

さて日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。そこへ唖然とするようなことが起きた。我々がよく知っている、上品な紅卍会のメンバーが(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いもよらなかったが)、なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。

十二月二十七日
……鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五か所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは。射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下、この方法が取られている。さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、なにがあったのか、とうるさいからだ

十二月二十八日
……。今日、ほうぼうから新たな情報が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。ある所では、五十人ぐらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。生き延びた人の話によると、空き家に連れて行かれ、貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。それから日本兵は中庭で大きな庭に火をつけ一組ずつ引きずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げ込んだというのだ。そのうちの十人が逃げ延びて、塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服を呉れたという。これと同じ内容の報告が三方面からあった。もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。ベイツはいまこれについて詳しく調べている。ただ、いざ報告するときは誰から聞いたか分らないよう、よくよく気をつけなければならない。知らせて来た人にもしものことがあったら大変だ。……

宣教師のフォスターからジョージ・フィッチにあてた手紙
ジョージへ
鳴羊街十七号付近の謝公嗣、この大きな寺院の近くに中国人の死体がおよそ五十体ある。元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが。日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなあ?もしそうなら許可を取ってもらえないだろうか?よろしく!

フィッチにあてたフォスターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発で分かる。この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗がすすんでいる。
スマイスと私は日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。岡少佐はトラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。今南京にいるドイツ人は全部で五人だが、いっしょに暮してもらえないか。そうすればこちらとしても保護しやすい。もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。私はきっぱりと言った。「身の安全ということなら、中国人とおなじでけっこうですよ。日本軍は中国人を保護すると約束しているんですからね。もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、トラウトマン大使や他のドイツ人といっしょにさっさとクトゥー号で逃げていましたよ。」
岡少佐はいった。「私はあなたがたの命を守るように頼まれているんです。それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします」それについては、ただ次のように答えるしかなかった。「南京陥落後の十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、ドイツ人の家も持ち物も無事でした。略奪や放火、強姦、撲殺、こういうことが始まったのは日本軍がやってきてからです。誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。舞い戻ってきた中国人によって略奪された家はもともと多くありませんでしたし、みんな太平路にありました。太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」……

南京のことはどうか上海には黙っていてください、と福井氏から頼みこまれた。つまり日本大使館にとって具合の悪いことは知らせないでくれということなのだ。私は請け合った。そうするほかないじゃないか?日本大使館を通さなければ手紙が出せないのだから。だが、いつの日かきっと、真実が白日の下にさらされる日が来る!……

十二月三十一日
今日、うちの難民がふたり、外をぶらついていたところを日本兵に連れていかれて、略奪品を運ばせられた。昼、家に戻ると、かみさんのひとりがひざまづいて訴えた。「お願いです!うちの人を連れ戻して下さい。でないと、殺されてしまいます!」みるも哀れな姿だった。しかたなく私はそのかみさんを車に乗せて、中山路でようやく連中を見つけた。
武装した兵隊二十人と向き合う。案の定二人を引き渡そうとはしない。私の立場はちょっと具合の悪いものだった。なんとか連れ戻すことができたときには心底ほっとした。家に戻ってから難民を集めて、この二人のおろか者をみなの前で叱りとばした。ばかなことをして捕まっても知らんからな。630人もいる人間のあとをそのたびに追いかけちゃいられない。いったい、何のためにここに逃げて来たんだ?また私が助けに行くと思ったら大間違いだ。……

一月二日
本部の隣の家に日本兵が押し入り、女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げて来た。クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀を飛び越えた。塀は非常に高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、私もあとを追おうとした。ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。さいわいかなり太い竹のうえだったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。やつらはあわてふためいて逃げて行った。……
我々がひそかにおそれていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。といったからといって、決して友人としてではない。敵としてだ!かつての日本軍のように、時間どおりに爆撃を落としていく。だが、今のところ、幸いなことにたいていは同じ場所、つまり南の飛行場かその近くに限られている。日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。……

一月五日
……。またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに、クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。機関銃で殺された市民たちだ。日本軍は城壁の外に出したがらない。南京の実態がばらされたら困るからな。
一月六日
……。午後五時。福田氏来訪。軍当局の決定によれば、我々の委員会を解散して、その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。資産を引き渡す?冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。「仕事を譲ることに関しては異存ありませんが、これだけはいっておきます。治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。難民のすまいの大半は壊され、略奪されている。焼き払われてしまった家もあるのだ。……

一月七日
……。南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。……
リッグスが今日の視察の報告書をもってきた。うつろな目をした女性がひとり、通りをふらふらさまよっていたという。この人は病院に運ばれ、身の上を話した。十八人家族だったが、生き残ったのはこの人ひとりだという。残りの十七人は射殺されるか、銃剣で突き刺されるかして死んだ。家は中華門の近くだそうだ。わが家の収容所にやはり近くに住んでいた女性がいる。弟が一緒だが、こちらは両親と三人の子供を亡くした。全員日本兵に射殺されてしまったのだ。せめて父親だけでも埋葬したいと、なけなしの金で棺桶を買ったところ、これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、亡骸を放り出したという。中国人なんかその辺に転がしておけばよいのだというのが、彼らの言い分だった。

一月八日
……
十一時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった「小規模」の死刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池の中に中国人(民間人)を追い込んだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士の一人が近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝ころび、男が水中に沈むまで発砲し続けたというのだ。

一月十二日
南京が日本人の手に渡って今日で一か月、私の家から約五十メートルほど離れた道路には、竹の担架に縛り付けられた中国兵の死体がいまだに転がっている。……
日本人と友好的にやっていくにはどうするかとあれこれ考えた末、あることを思いついた。南京安全区国際委員会を解体して、国際救済委員会を設立し、日本人にも出席してもらうのだ。やってみよう。これがうまくいくかどうかはやってみなければわからない。まずはじめに仲間と各国大使館の人たちに相談しなくてはならない。


一月十七日
……昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破滅の仕方をしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路はあとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。……

一月十八日
ほうぼうで煙が立ち昇っている。あいかわらず景気よく放火が続いているのだ。

一月二十二日
竹の担架にしばりつけられた中国人の死体については、これまでも幾度か書いてきた。十二月十三日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議し、請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。……今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関へ向かっていった。どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。……

一月十九日
……
マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。近所の人々に助け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。
二月二日
韓の調べによると、うちの難民は総勢六百人、百三十五家族だという。そのうち二十四家族は家を焼かれ、帰るところがない。昨日、泣きながら出て行った人もいた。だれも日本軍を信頼していない。あたりまえだ。……
今日、上海日本大使館の日高六郎参事官と、ローゼン宅で昼食。我々が記録した日本兵の強姦をはじめとする暴行はこの三日間だけでもなんと八十八件もある。報告書を渡すと、日高氏はまったく困ったものだとつぶやいて、部隊が交代するときは往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけした。……


二月三日
収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うちの庭でも。七十人もの女の人がひざまずいて、頭を地面にこすりつけながら泣き叫んでいる。なんという哀れな姿だろう…胸がふさがる。みな、ここから出て行きたくないのだ。日本兵がこわいのだ。強姦されるはしないかとおびえている。しごくもっともな話だ。私は繰り返し訴えられた。「あなたは私たちの父であり、母です。これまで私たちを守ってくださいました。お願いです。どうか見捨てないで!最後まで守ってください。辱められ、死ななくてはならないというのなら、ここで死なせてください!」……

今しがた張から聞いたのだが、私たちがかつて住んでいた家の近く、通りを入ったすぐのところの小さな家で人が殺されたそうだ。十七人の家族のうち、六人が殺されたという。娘たちをかばって家の前で日本兵にすがりついたからだ。年寄りが撃ち殺されたあと、娘たちは連れ去れれて強姦された。結局、女の子ひとりだけ残され、みかねた近所の人が引き取った。局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうでみかける。吐き気がして息苦しくなる。七十を超えた人さえ何度も暴行されたのだ。……江南セメント工場のシンパーダさんが、ギュンターさんの報告を届けてくれた。これをみると南京だけが日本兵に苦しめられているのではないことが分かる。強姦、殺人、撲殺、同じような報告が四方八方から入ってくる。日本中の犯罪者が軍服を着て南京に勢ぞろいしたのかといいたくなる。……

二月五日
強姦などの暴行は二月一日から二月三日までのたった三日間でまたもや九十八件もあった。さいわいわが家の収容所では、今日も問題は起こらなかった。けれども南京全体の実態はとてもそんな甘いものではない。そのことはこの中国人の手紙が雄弁に物語っている。収容所の責任者であるこの人がいうには、そこの中国では五千人だった難民が八千人に増えたそうだ。

金陵大学付属中学からの手紙 一九三八年二月五日 於南京
拝啓 ラーベ様
書面をもって報告させていただきます。保護を求めて戻ってくる難民は増える一方です。そして家に長くはいられないと口々に訴えております。といいますのも、日本兵に絶え間なくひどい目にあわされたからです。娘を出せと言われ、言うことをきかなければ殺すと脅迫されるのです。
ラーベ様 あなたやあなたのご友人たちのほか、私どもはだれ一人頼れる人はありません。なにとぞ、ドイツ、アメリカ、日本の大使館と話し合ってくださるようお願いいたします。難民たちは、私たちのところに助けを求めてやってくるのですが、助けてやりたくとも私にはどうすることもできないのです。……

二月七日
……
紅卍会の使用人二人に案内されて、午前中ソーンといっしょに西康路の近くの寂しい野原にいった。ここは二つの沼から中国人の死体が百二十四体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げ込まれたのだ。近くのもう一つの沼には二十三体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。……

二月十日
昨日の夕方、福井氏が訪ねてきた。昨日、日本大使館で会うことになっていたのだが、うまくいかなかったのだ。なんと氏は脅かしをかけてきた。
「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵に回すことになりますよ」
クレーガーは思った通りをいった。つまり日本軍に具合の悪い証言をしたのだ。ロンドンからの長い電報、といっても実は香港からで、クレーガーが書いたということになっているのだが、福井氏はそれを例に出して、クレーガーは日本に悪意を抱いているといった。
「それならどう言えばいいんですか」私が聞くと福井氏は言った。「ラーベさんの良識にまかせます。」「つまり報道陣にこう言えばいいんですね。南京の状況は日に日に良くなっています。ですから、日本軍兵士の恥ずべき残酷な行為についてこれ以上報道しないでください。そんなことをすると日本人と欧米人の不協和音が、あすます大きくなってしまうだけですから、と」

二月十五日
……
委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。……

二月十七日
ヴォートリンさんのお別れパーティーはとてもいい雰囲気だった。ベイツとフィッチの他、李奇、アリソン、ローゼンが招かれていた。ごちそうがたくさんあったが、いざ帰るときになってつらい思いをした。この大学にいる難民は女性ばかりで、今ではおよそ三千人ほどになっていた。その人たちが戸口に群がって、わたしたちを見殺しにしないでください。南京を離れないと約束して下さいと口々に訴えたのだ。帰ろうとするといっせいにひざまずき、泣き、文字通り私の服にしがみついて離れなかった。
ようやくのことで門までたどりついたが、外に出た途端に門が閉められてしまったため、車を置いていかざるをえず、歩いて帰らなければならなかった。こんなふうにいうと、ずいぶん大げさに聞こえるかもしれない。だが、ここでともにあの悲惨な状況を見た人なら、我々がこの人たちに与えたものがどれほど大きな意味をもつかが分かるだろう。これらはみなあたりまえのことであって、英雄的な行為などではない。

二月二十二日
羅福祥氏は空軍将校だ。本名を汪漢萬といい、軍官道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。汪氏は韓の力添えで、上海行き旅券を手に入れることができたので、私の使用人だといってピー号に乗せるつもりだ。南京陥落以来、わが家にかくれていたが、これでやっと安泰だ。日本機を何機も撃ち落としたが、南京が日本軍に占領されたときは体の具合を悪くしていた。もはや揚子江を渡ることができず、逃げられなかった。支流を泳いでいくとき、友人をひとり失い、やっとのことで城壁をよじのぼって安全区に入ることができたのだ。
午前中、私は荷造りにかかりきりだった。「老百姓」たちはあれからまたいくども板を運んできてくれた。きっとどこからかくすねてきたのだろう。建設現場から直接もってきたものもあり、セメントがついていた。日本大使館から、万通号で荷物を上海へ送る許可がでた。あとは積み込むだけだ。これは韓やアメリカの友人たちに頼まなければならない。万通号が日本に着くころには、私はもういないからだ。……

夜十時のラジオニュース。ドイツは満州国を承認した。したがって、トラウトマン大使は国民政府に対して難しい立場に立たされることになった。ラジオではまだそれについてなにもいっていなかったが、大使は辞任するのではないかと心配だ(注・事実トラウトマンはその後しばらくして解任された)。ここにいて本国の事情をうかがい知るのはとても難しい。だが、正しかろうが、間違っていようが、祖国は祖国だ!


この日記の後、ラーベ氏は1938年4月15日に本国ドイツベルリンへ帰国した。帰国後、ラーベ氏はジーメンス本社での講演を皮切りに幾度か講演し、マギー牧師が撮影したフィルムも上映して南京の惨状を伝えようとしたが、それはナチの政策を支持する人々の心には届かず、逆にラーベ氏は同盟国日本を貶める者としてゲシュタポに密告され逮捕されることになった。その後、すぐに釈放されたが、以後は彼が信じていたナチドイツが戦争を拡大してゆく祖国の惨状をみながら、南京については沈黙を守り続け、戦後1950年に脳卒中の発作で亡くなっている。ちなみにラーベ氏は東京裁判の証人として出廷を要請されたが、断っている。その理由は次のようなことであったと紹介されている。「私は彼らが死刑になるのをみたくはない…それは償いであり、ふさわしい刑罰にはちがいない。だが、裁きはその国民みずからによって下されるべきだと思うのだ」と。尚、このラーベ氏の日記が発見されたのは、それから46年後の1996年のことであったという。この日記の発見によって、南京事件の真相はかなり明らかになったはずだが、残念なことにこの日記の事実すら知ることなく「南京の虐殺はまぼろしにすぎない」と断言する輩が多いというのはいったいどういうことなのであろうか?そして2009年にドイツ、フランス、中国の合作でドイツのアカデミー賞といわれるドイツ映画賞の作品賞他7部門で賞を受賞した作品であるにもかかわらず、なにゆえに日本では試写会さえできなかったのか?これは同じ日本人としてまったく情けない話ではないか?

 

PageTop

「南京大虐殺は捏造だ」を批判する その1

南京虐殺はなかったという、いわゆる「まぼろし派」の人々の中には不思議と宗教関係の人々が多い。たとえば参議院選で大量の候補を立てた「幸福の科学」のパンフレットなどを読むと、そこに「南京虐殺はなかった」という見解が堂々と主張されているので、びっくりさせられた。またYAHOOなどの上位検索にでてくる「南京大虐殺は捏造だった」というHPの管理人はキリスト教の牧師である。しかも、そんじょそこらの牧師ではなく、創造論の本を何冊も出版しておられるその筋では有名な牧師さんである。私は彼が書いた創造論の本を何冊か読んだ経験もある。なかなか面白くそれなりの説得力もあるのだが、この宇宙の歴史はたかだか数万年しかないという若い宇宙論を展開していたり、また恐竜と人類は共存していたにちがいないなどという奇想天外な論を展開しているあたりは科学的事実との整合性をまったく無視した極論ではないかといわざるをえない。しかし、聖書に対する信仰のゆえにそのような考え方をする人々が多くいるのは事実であり、それ自体は信仰の自由の範囲であるから、なんら問題はないと思う。

要するにこの牧師にとっては聖書のみが正しく、その記述に矛盾するような事実は存在しないという考え方なのである。一般にこういう考え方をキリスト教原理主義というのだが、なぜそういう人物がよりによって「南京虐殺は捏造だ」などといっているのであろうか?これは奇妙な話である。これをもし本場アメリカのキリスト教原理主義者が知ったら、びっくり仰天して怒りだすだろう。そもそもアメリカが日本の対中戦争にコミットするようになったのは南京虐殺事件が最初であり、それこそがアメリカ人を正義の参戦にふるい立たせたきっかけになった事件であったと(ある程度の知識をもつ)アメリカ人なら誰でも知っているからだ。その虐殺事件がGHQ主導で行われた東京裁判による捏造だったということがもし本当だとすれば、アメリカという国は正義の国であるどころか地球上最大の悪魔の国であったという話になる。そうだとすると本場の原理主義クリスチャンを含めてアメリカ人が信じているすべての信仰は根底から否定されることになる。彼は果たしてそこまでわかってあのようなHPを立ち上げているのであろうか?彼のHPをみると同じページを英語に翻訳して海外にも発信しているようであるが、そのような試みは決してアメリカ人に理解されることはありえないだろうと私は思う(むしろ、この英文のHPを海外の外交官らがみるとどう思うか非常に心配である)。

もっとも彼のようなクリスチャンは日本では必ずしも珍しいというわけではない。というのは故山本七平氏にいわせると、そもそも日本にはクリスチャンという人々は存在せず、存在するのは日本教徒キリスト派でしかないと断言しているぐらいだから、クリスチャンといわれる人々が同時に熱烈な日本教徒であるということになんら矛盾はないのである。日本教徒キリスト派にとっては、日本教の教えと聖書の教えは調和しなければならない。だから彼らにとって靖国参拝も決して聖書が否定する偶像崇拝ではなく、天皇制も決して聖書の教えに矛盾するものではない。戦前のクリスチャンたちは天皇を現人神として奉る国家神道を支持していたし、またほとんどのクリスチャンは戦争を積極的に肯定していたのである。このように考えると、われわれにとって日本教の(目に見えぬ)戒律こそが他のいかなる教えにも優先する戒律であり、その戒律にそむくことこそ日本人にとってはもっとも恥ずべき罪にあたるという故山本七平氏の説明は決して誇張ではなくわれわれの真実に近いのかもしれない。

そういえば、HP「南京虐殺は捏造だ」の管理人である某牧師は日ユ同祖論者としても有名であり、日本人とユダヤ人と同じアブラハムの血を分けた民族であるという説に基づく本も出版しているところから想像すると、彼にとって日本人こそは隠れたユダヤ人であり、日本教はユダヤ教そのものなのだという考え方に立っているのかもしれない。しかし、日本人が隠れたユダヤ人であるとすると、聖書の神が日本人に侵略戦争を許した理由は説明できない。だからあの戦争は侵略戦争ではなく、むしろ逆に欧米列強の侵略と戦うための聖戦であったと解釈されているのであろうか?

事実、彼の別のHPをみると
「あの戦争でアメリカのどこに「正義」があったのでしょうか。一方、日本が戦ったのは自衛のためでした。そして欧米列強によるアジアの全植民地化を防ぎ、アジア諸国を独立させるという「正義」がありました。」と記されているのである。

これは東條内閣が大東亜戦争を始めるにあたって唱えた聖戦論とまったく同じである。これについてはいずれ稿をあらためて書くつもりであるが、日本はアジアの独立のために戦ったなどという大義名分はウソ八百である。もしそれが本当なら中国の蒋介石が孫文の意志を受け継いで近代民主国家を建設しようとしていたのを、なぜ妨げたのか?結果的に中国は毛沢東の共産主義者に支配されたわけであるが、これは一貫して反共の立場を貫いた蒋介石の国民党軍が日本との戦争によって弱体化されたためであった。しかも、戦後のアジア諸国は日本の戦争によって独立したのではなく、中国の共産化の影響によるドミノ現象によって解放(独立)されていったのである。ベトナムがそうであり、カンボジアやラオスもそうであった。この結果、新たな悲劇がアジア諸国を巻き込んだことは説明するまでもないことであろう。

それにアジア諸国が植民地から解放され独立していったのは日本の戦争とは何の関係もなく、それぞれの国に新たなリーダーが出現し近代的意識が高まった結果である。中国に孫文が現れ、インドにガンジーが現れ、ベトナムにホーチミンが現れたのは日本が進めた戦争とは何の関係もない。また欧米列強も日本が戦争を始める以前の第一次大戦後から植民地主義を反省し、国際協調と平和主義を基調とした流れが生まれていた。その新しい時代の流れを知らずに、列強の植民地獲得競争に立ち遅れた日本やドイツが強引にその競争に加わろうとしたことが世界戦争に発展したのである。したがって日本の戦争にははじめから大義も正義も何もなかった。ただ欧米列強にならって植民地を広げたいという自らの野望だけであった。

このような歴史の流れをみれば日本が戦争に敗れたのは必然の結果だということが分かる。日本やドイツは無理矢理に歴史を後戻りさせようとしたために敗れたのである。それに対してイギリスやアメリカが戦争に勝利したのは民主主義という新しい価値を信じたからであった。あえていえば、それこそが真の神の導きであったと私はおもう。したがって某牧師の頭に取り憑いた大東亜戦争肯定論というのは歴史の流れだけではなく、神の導きにも無知な考え方であり、彼が信じている神はおそらく日本教徒キリスト派にしか分からない奇妙な神様であろう。

さてHP「南京大虐殺は捏造だった」というページをみると、まさにその論自体が某牧師の「創造論」ならぬ「想像論」になっているので、これは苦笑せざるをえないのであるが、しかし、このHPは彼の「創造論」のように信仰の自由だから許されるというものではない。これはすべての日本人と中国人(およびアメリカを始めとする関係諸国人も含め)にとっての歴史認識問題に深くかかわる問題であり、見過ごすわけにはいかないのである。

もちろん個人のブログであれば別段難事立てることでもないが、彼のHPが今日「南京の虐殺は捏造だった」という嘘説を信じる人々の異常繁殖に十分な貢献をしているという点ではその影響を見過ごすことができない。彼らは経済的に貧しいために本を買えない人なのか、またはそもそも本を読む根気がないためなのか、あるいは本を読んでいたとしても良い書物に接する機会がなかったのであろう。いずれにしても彼らの知識というのは南京事件についての一次資料を記した専門家の研究書によるものではなく、安直にもネットで粗製乱造された無責任な情報に頼っている人々である(多少は本を読んでいたとしても、おそらく一次資料とは無関係の書物であろう)。いずれにしても、その種の情報というのはウイルスの異常繁殖と同じ理屈で、なんらかの鋳型からコピーされてネズミ算的に殖え広がっているものであろう。そのような無責任情報の鋳型の一つに彼のHPがなっているとすれば、その影響はやはり無視できない。ましてや牧師という崇高な職責にある人物がそのような情報を広めているとすれば、これは大きな問題であるといわねばならない。

彼の誤りは「創造論」においてもそうであるが、事実を丹念に積み重ねた結果から帰納的に導き出された理論ではなく、初めから正しいとされる理論が存在し、その理論に合致しそうな事実だけを恣意的に選びだし、それによってあたかも理論が正しいと他人を錯覚させる手法に(本人自身も含めて)ハマってしまっているということである。ただし、これは某牧師だけではなく誰もがハマる詭弁術であり、このような手法によるといくらでも誤った結論に導くことが可能となり、この世は危険な思想で一杯になる。

科学というのは事実を丹念に調べていく地道な作業によってしかありえない。この考え方を最初に普及させたのは帰納法の発見者フランシス・ベーコンであり、爾来、この考え方が近代科学の方法論になった。この世にはあらかじめ正しい理論はあるはずはなく、すべての理論は事実によって検証されなければならない。これが科学の精神であり、そして近代人が獲得したもっとも重要な指針である。したがって何が正しいのかという場合、われわれは常にこの精神に立ち返り、何よりもまず事実に対して謙虚でなければならない。これはいかなる議論においても守られなければならない第一の約束事であり、この約束事は科学の分野ばかりではなく、政治の場でも法廷の場でもジャーナリズムの場においても、そしてもちろんネット社会の場の中でおいても、第一に守られなければならないものである。

ところが某牧師のHPをみるとそのような事実に対する謙虚な姿勢はみじんも感じられない。彼にとって事実はただ持説を正当化するためにのみ存在し、それ以外の事実は必要とされず、都合の悪い事実がある場合には、その意味を都合のよいように加工する。これが彼の一貫したやり方である。このようなことを良心の呵責もなく平然と行えるという、その異常なほどの詭弁術にはただただ舌を巻かざるをえない。

少し例をあげてみよう。たとえば南京陥落当時、しばらく間南京城内にいたニューヨークタイムズのダーディン記者がつぎのような報告をしているという。

「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」

この行動をもって彼は中国軍の方こそ放火や略奪をやった証拠であるとしているらしいのだが、この行動は南京に迫る日本軍の徴発行動(食糧等の不足を現地で補うこと)を防ぐための作戦であり、日本の侵略に対する正当な自衛行動であった。つまり南京城での長期持久線を想定して敵の補給を困難ならしめるために徴発行為の元を断つという作戦である。これは首都防衛の作戦上やむをえなかったのではないかと思われる。まず非難すべきは20万以上の大軍を送り込んで他国の首都を陥落させようと他国の領土内に攻め込んできた無謀な日本軍の侵略行為ではないのであろうか?

HPの中には他にもダーディン記者の言葉を2,3紹介していて、何も知らない人にはあたかもダーディン記者が中国人の行動の悪質さを訴えていたように映るのであるが、実はダーディン記者こそ南京大虐殺事件を世界に伝えた最初の証言者であったという事実を彼は故意に無視しているのである。

南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を逃してしまった・・・・中国政府機構の瓦解と中国軍の解体のため南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともに確立されると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大被害を受けることもなくなったと考えて、中国人民の間に大きな安堵の気持ちが広がった。歓呼の声で先頭の日本兵を迎えた住民もいた。しかし日本軍が占領してから二日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。一般市民の殺害が拡大された。警官と消防夫が特に狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺された」「日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよいほどだった。」「多数の中国人が妻や娘が誘拐されて強姦された、と外国人たちに報告した。」「記者は上海行きの軍艦に乗船する直前、バンド(埠頭)で二百人の男子が処刑されるのを見た。殺害には十分間かかった。男たちは壁の前に一列に並ばされて銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、一軒一軒しらみつぶしの捜索がおこなわれ、集められて処刑された。」(秦郁彦著「南京事件」中公新書P3-4)

この記事はダーディンが十二月十三日の南京陥落後、数日間に目撃したものを同月十七日に上海に停泊していたオアフ号上から本国へ打電したものである。先のダーディン記者の農村焼き払いの報告よりもこの報告の方がはるかに重要な報告ではないか?秦郁彦氏によると、「このダーディンの報告記事はわずか二日半の見聞にかぎられた速報ながら、南京アトローシティーにおけるほぼ全類型を網羅していた」と書かれている。もしかすると某牧師はこの報告を知らないのであろうか?というのは彼のHPの中には秦郁彦氏の資料がほとんどみあたらないからである。察するに彼の資料は数冊の「まぼろし派」の孫引き資料の中から都合のいい部分だけを引用しているだけのことなのかもしれない。ただし、これは彼に対して好意的に解釈した場合である。もし彼が秦郁彦氏の資料を知りながら、故意にその資料を隠しているのだとすると、よりいっそう悪質だということになる。

このような資料の恣意的利用は他にもいくらでもあり、ほぼ全編をとおしてみられる彼の一貫した手法なのである。たとえば彼は次のような資料を紹介している。

一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」
しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。


この聴取の対象となった人物、すなわち岡村寧次大将は当時南京にいなかったので、これはすべて伝聞であり、したがってすべてが事実ではなく間違ったうわさにすぎないとしている。確かにこれだけで捕虜の虐殺や強姦が事実であったという証拠にはならないが、だからといってこれを「事実ではありませんでした」と、その当時に生きてもいないわれわれがいかなる理由で断言できるのか?少なくとも大将の発言であるとすれば、それなりの重みのある発言であることは間違いあるまい。

ただし、当時その場にいなかった人物の資料はたとえ大将の発言であっても、少なくとも第一次資料とはいえないので、その資料価値は第一次資料に比べて低くなるのは当然である。彼がこの資料をわざわざ紹介した理由は判然としないが、こんな中途半端な資料だけで大虐殺があったなどと誰も決めつけることはできないのは当然であり、また誰もそんなことはしていない。そんな中身のない資料よりも、虐殺を裏付ける一次資料はいくらでもある。私がここで「一次資料」というのは具体的に南京で事件を起こした兵士たちの戦中日誌などであり、これは秦郁彦氏や笠原十九司氏の研究書の中に数多く紹介されている。これを読めば何人も大虐殺があったことを否定することはできないはずである。

特に秦郁彦氏の研究書では第一次史料と第二史料を厳密に峻別し、その中でもいくつかの分類をしながら資料価値に等級をつけているのは参考になるだろう。第一級の資料である公文書や作戦命令書などの文書は戦後すべて焼却処分にされており、また戦犯に問われるおそれのあった将校の日誌類なども大部分消滅しているので、その意味では残されている資料は非常にわずかではあるが、それでもなお下級兵士の戦中日誌などに残された数多くの資料から南京大虐殺事件の全体像をかなり正確に描くことができる。また90年代中頃に発見されたラーベの日記によって、より一層南京事件の全体像は明らかになっているといってもよいだろう。この「ラーベの日記」の発見はいわゆる「まぼろし派」の筆頭格である東中野氏や田中正明氏に相当強く衝撃を与えたようであり、これは彼らのほとんど自己弁護にさえならない苦しまぎれの反論にも表れている(これについてはいずれ機会があれば書いてみたい)。

某牧師はラーベの日記を読んでいるのかどうかしらないが、若干部分引用しているところをみると、これをまったく無視するわけにはいかなかったのであろうが、彼の説によるとラーベの日記はほぼすべて伝聞にもとづくものであったと強弁し、またラーベの動機についても次のように書いている。

ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。

ドイツと中国国民党が深い関係にあったことは事実であるが、同時に日本とドイツもそれ以前から深い関係にあったことを捨象されるのはいかがなものか?日独防共協定が結ばれたのは南京事件以前の1936年であり、その後に1937年12月日独伊の防共協定が結ばれたのである。ラーベはナチスの党員であり、その頃、ナチスと日本の軍部は良い関係にあった。だからこそ、ラーベは毎日のように塀を乗り越えてはいってくる日本の兵士たちにハーケンクロイツをみせるとたちまち立ち去ったということを何度も書いている。それほど日本軍とナチスの同盟関係は強かったことが分かる。またラーベは決して日本の悪口ばかりを書いているわけではなく、時には中国に対しても非難めいたことを書いている。彼は中国国民党の顧問であったというのは意味がよく分からないが、主に発電所関係の事業をしていたジーメンス社の商人であったことは確かである。ただしラーベ氏が武器商人であったなどと書いているが、これは「まぼろし派」の田中正明氏らが勝手に憶測しているだけで、その事実は証明されているわけではない。いずれにしても、「南京の真実」の編者エルヴィン・ヴィッケルト氏によれば、ラーベ氏はナチスの党員ではあったが立派なヒューマニストでもあったと証言している。

ラーベ氏の動機が純粋なヒューマニズムであったことは彼が連日の爆撃の中でも決して南京を脱出しなかった一事をみればわかる。彼は逃げたかったが、多くの知人や縁者を捨てて南京を離れることができなかったのである。南京の爆撃が始まった十月ころから当時130万人以上いた南京の市民は大陸の奥地へ次々と去り、また南京に在住していた外国人も次々と去って行った。その中で残ったのは逃げるお金のない貧しい人々と、そして一部の牧師や金陵大学の教授たちであった。ラーベ氏もその一人であったが、そこに残った理由は自分の身を守ることよりも多くの残された人々を助けんがためであった。牧師でもなかった人が、このような自分の命をかけた選択はなかなかできるものではない。その動機は人間としての純粋なヒューマニズムであったとしか考えられない。彼は南京のシンドラーとも呼ばれるが、ヴィッケルト氏によると、「オスカー・シンドラーの場合は、どこまで商業上の利益がからんでいたのか判然としないところがあった。だがジョン・ラーベの動機は間違いなく純粋だ」と述べている(wikipedea参照)。ちなみに、ラーベの日記(「南京の真実」)の終りにある「ヒトラーへの上申書」の中で自らが南京に残った理由について次のようにラーベ氏は述べている。

私が南京にとどまるという気になった背景には、先に挙げたのとは別の重大な理由があったのはいうまでもありません。ジーメンス社の業務という、私にとって大切な問題がありました。けれども会社から南京にとどまれといわれたのではありません。その逆です。南京のドイツ人はチャーターしたイギリスの蒸気船クトゥー号で漢口に避難することになっており、ジーメンス社は私になんとしても身の危険を避け、ほかのドイツ人や大使館の人たちに加わってクトゥー号に乗るようにと強く勧めてくらたのです。南京電力会社のタービンはわが社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央政府の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警備装置もこれらを管理していたのはわが社の中国人技術者でしたので、かれらはおいそれとは避難できませんでした。この人たちをはじめ、事務所の従業員、何十年も私の家で働いている使用人、それから中国人マネージャーなどが、家族をおおぜいひきつれて私のまわりに集まっておりました。

もし自分が見捨てたら、この人たちはみな殺されたり、ひどい目にあわされたりするのではないか…私にはそんな予感がありました。事実、それは正しかったのです。というわけで、まもなく私の家と事務所は、自分も会社の関係者だと思っている関係者でいっぱいになりました。……(「南京の真実」講談社P293)


南京陥落後、ラーベ氏は自分の庭に600人以上の市民を避難させ、彼らの安全のために命がけで戦った人物である。彼はその人々のために食料を与え(といっても一日1コップの生米しか与えられなかったという)、また彼らにいろいろな問題が生じたときにはその仲裁役をしたりしている。某牧師がいうように、もしも南京市内が安全なら、なぜそれほどの数の市民がわずか500平方メートルの庭に集まったまま去らなかったのであろうか?そこには屋根もなく、真冬の冷たい風も吹きさらしであり、食べ物もわずかしかなかったので、とても快適な場所ではなかったであろう。日記には次のように書かれている。

二月三日
収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うちの庭でも。七十人もの女の人がひざまずいて、頭を地面にこすりつけながら泣き叫んでいる。なんという哀れな姿だろう…胸がふさがる。みな、ここから出て行きたくないのだ。日本兵がこわいのだ。強姦されはしないかとおびえている。しごくもっともな話だ。私は繰り返し訴えられた。「あなたは私たちの父であり、母です。これまで私たちを守ってくださいました。お願いです。どうか見捨てないで!最後まで守ってください。辱められ、死ななくてはならないというのなら、ここで死なせてください!」……

また同じ安全区内にあった金陵大学には3000人の難民(しかも女性ばかり)が収容されており、彼女たちがラーベ氏に必死になって南京を見捨てないで下さいとすがってきたことを記している。

ヴォートリンさんのお別れパーティーはとてもいい雰囲気だった。ベイツとフィッチの他、李奇、アリソン、ローゼンが招かれていた。ごちそうがたくさんあったが、いざ帰るときになってつらい思いをした。この大学にいる難民は女性ばかりで、今ではおよそ三千人ほどになっていた。その人たちが戸口に群がって、わたしたちを見殺しにしないでください。南京を離れないと約束して下さいと口々に訴えたのだ。帰ろうとするといっせいにひざまずき、泣き、文字通り私の服にしがみついて離れなかった。

この日記は南京の安全区が解散させられ、代わりに日本軍主導による自治委員会が誕生したあとの2月17日の記録である。もしも本当に某牧師のいうごとく次のような安全な状況であったなら、彼女らはなにゆえに必死でラーベ氏にすがってきたのであろうか?

また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。

某牧師はラーベが日記で記している驚くべき数の強姦もすべて伝聞だから信用できないとしている。しかし伝聞だから信じられないというのは、あまりにも人を馬鹿にした話である。ラーベ氏が日記に記しているのは遠い国の出来事の伝聞ではない。自分の身近に起こっている日々の出来事である。彼はその伝聞に信憑性があるのかどうかをその場で判断できたであろう。その話をしている人物の表情やまたその人々とのつながりや置かれた状況などを知っているからこそ、それらの話を信じられるのではないか?たとえば十二月十三日の日記に次のようにある。

日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。

この韓という人物はジーメンス社の社員でラーベがもっとも信頼するアシスタントである。その人物が嘘をいうはずがないので、その話をそのまま日記に記載しているのである。

また伝聞ではなくラーベ氏が直接目撃した事件も書かれている。

十二月十八日
危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入りこんでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣を放り出し、難民の少女に襲いかかっていた。私はこいつをただちにつまみだした。もう一人は逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。

また次のような話もある。ラーベ氏の部下の妻が襲われたという話である。

一月三日
劉の妻が襲われたのは昨日の朝だった。五人の子供がいる。夫がかけつけ日本兵の横っ面をはって追い払った。午後、朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルをもってやってきて、台所に隠れていた劉をひきずりだした。近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足もとにひれ伏してすがった。だが日本兵は聞き入れなかった。

某牧師によると強姦は大部分中国兵が行ったのだと勝手に断定しているが、中国兵が安全区にいたのは陥落後せいぜい2,3週間である。なぜなら彼らのほとんどはすべて摘発され、下関などへ連れていかれて処刑されたからだ。にもかかわらず、陥落後二カ月近くになっても強姦事件は減らなかったことが二月の日記に記されている。

二月三日
今日上海日本大使館の日高信六郎参事官とローゼン宅で昼食。我々が記録した日本兵の強姦をはじめとする暴行はこの三日間だけでもなんと八十八件もある。これはこの種のものとしてはいままでいちばんひどかった十二月を上回っている。報告書を渡すと、日高氏はまったく困ったものだとつぶいやいて、部隊が交代する時には往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけしていた。

二月五日
強姦などの暴行は二月一日から二月三日までのたった三日間でまたもや九十八件もあった。さいわいわが家の収容所では、今日も問題は起こらなかった。けれども南京全体の実態はとてもそんな甘いものではない。そのことはこの中国人の手紙が雄弁に物語っている。収容所の責任者であるこの人がいうには、そこの中国では五千人だった難民が八千人に増えたそうだ。

いうまでもないことだが、どのような犯罪も人々の伝聞によってのみ、その事実が世間に知られるのである。伝聞によらなければ毎日の新聞もテレビのニュースもありえない。もちろんその犯罪が事実であったかどうかということは最終的には証言の信用性の有無を裁判所で確かめるという手続きが必要になるが、某牧師が誤解しているのは伝聞が直接証拠となりうるのかという一般論に取り違えていることである。伝聞は正確な場合もあれば正確でない場合もあり、またもちろん嘘である可能性もあるが、それが伝聞だからといって証拠にならないということはないのである。でなければいかなる裁判もできなくなるであろう。

少なくともラーベ氏が日記に記している情報は、その多くが伝聞であったとしても、それは貴重な一次資料であり、信憑性の高いものとして扱うのが当然である。それを否定するためにはより強力な反対資料をもって示さなければならないはずである。ところが某牧師がいうには、それは伝聞だから信用できないというだけであり、なんら反対資料を示していない。これではラーベ氏の人格を誹謗中傷しているだけではないか?そればかりではない。同じような証言は当時南京に在住していたマギー牧師やフィッチ牧師らほとんどの外国人が東京裁判で証言している事実がある。これらもすべて信用できないというのであれば、その反対証拠を示さなければならない。某牧師はそこまでして同じ牧師たちを嘘つき呼ばわりするというのはいかがなものであろうか?

某牧師のしていることはただただ真実を認めたくないということではないか?「いやそうではない、私は真実に対しては常に認める用意がある」というならば、某牧師がなすべきことはそれらの資料に対して信じられないと決めつけることではなく、もしかすると本当かもしれないので判断を保留するということでなければならないだろう。にもかかわらず、某牧師によると強姦はあったがそれらは日本兵がやったのではなく、あろうことかその大部分は中国兵がやったのであるとしているのである。そのようにいえる証拠はいったいどこにあるというのか?

補足1

某牧師によると、ラーベ氏は中国人将校をかくまい反日撹乱工作を行っていたと書いている。

実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。

たしかに将校をかくまっていたのは事実である。ただし、それは反日撹乱工作のためではなく、人道的な理由によるものであった。ラーベが南京を離れた日、もはや将校の身分を明かすことが危険ではなくなった日の日記に次のように記されている。これのどこが反日撹乱工作なのか?

二月二十二日
羅福祥氏は空軍将校だ。本名を汪漢萬といい、軍管道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。汪氏は漢の力添えで上海行きの旅券を手に入れることができたので、私の使用人だといってピー号に乗せるつもりだ。南京陥落以来わが家に隠れていたが、これでやっと安泰だ。日本機を何機も撃ち落としたが、南京が日本軍に占領されたときには体のぐあいを悪くしていた。もはや揚子江を渡ることができず、逃げられなかった。支流を泳いで行く時、友人を一人失い、やっとのことで城壁をよじ登って安全区に入ることができたのだ。

補足2
「南京の真実」の最終章に「ヒトラーへの上申書」と名のつけられたラーベ氏がドイツで講演したコピーがある。この中でラーベ氏は南京陥落前後の市内の状況を克明に伝えている。これを読むと南京市内がどのような状況であったかということが、かなり分かるのではないだろうか。またこれを読むとラーベ氏の情報が伝聞ばかりではなく、多くが直接に見た出来事あるいは被害者から直接に聞いた出来事であったということが分かる。彼の行動範囲は実に広くほとんど毎日のように市内を自動車で回っていた。すると必ず何人もの中国人から車を停められ、被害があったことを教えられ、その被害現場へ一緒に行ったりすることも多々あったと記されている。これをみても某牧師の「ラーベの日記は伝聞ばかりだから信用できない」という論は成り立たないことがわかる。

以下、少し長くなるが、南京陥落後の状況をほぼ全文引用することにする。

ありがたい!最悪の事態はすぎた!私はこう思いながら眠りにつきました。常々、私は周りの中国人たちにも言い聞かせていました。「日本人を恐れることはないんだよ。街を占領してしまえば、じきに落ち着いて混乱もおさまる。上海との交通もすぐに元通りになるだろうし、仕事もこれまでどおりできるさ」

私はひどい思い違いをしていたのです!

十二月十三日朝五時ころ。日本軍のすさまじい空襲で目が覚め、私ははじめひどく驚きました。けれども中国軍の敗残兵がまだ完全には掃討されていないのかもしれないと考えて自分を落ち着かせました。じっさいのところ、毎日の空襲にいい加減になれていて、もうさほど気にもとめなくなっていたのです。私はアメリカ人数人と市の南部にでかけました。日本軍司令部と連絡をとり、また街の被害状況をざっと調べておこうと思ったのです。司令部はみつかりませんでした。自転車に乗った日本軍の前哨によれば、総司令官は三日たたないと到着しないということでした。中国人の民間人の死体がそこここにありました。たぶん逃げようとするところだったのでしょう。中山路と太平路を抜け、夫子廟の手前まできて、太平路にあるアメリカ人伝道団の地所で車を降りました。日本兵が数人で自転車を盗もうとしているのをみつけて追い払いました。我々をみると逃げ出したのです。ちょうど日本のパトロール隊が通りかかったので、事件を報告し、伝道団の建物の入口にはアメリカの国旗がかかっていること、また、これらの家がアメリカ人のものである旨を印刷してある大きな掲示があると教えたのですが、とりあえず笑いながら行ってしまいました。

さらに私たちが回ってみた範囲に限って言えば、街はたいした被害をうけていないということがわかりました。中国軍は撤退するときに、ごくわずかしか損害を与えなかったことになります。私たちは満足し、これをしっかりと心にとめました。帰り道、新街口、通称ポツダム広場の手前で革の上着を着て、戦闘服をかぶっている日本人が数人、ドイツ人が経営するカフェ・キースリングに押し入るのを見つけました。帽子からいって軍人であるのは間違いありません。私はかれらをおしとどめ、店のドイツ国旗が目に入らないのか、とどなりました。かれらは英語を話しましたが、「なんか用かね。俺たちは腹が減っているんだ。文句があるなら日本大使館へ行くんだな。代金を払うだろうよ。」がその返事でした。それから、補給部隊がまだ到着しないので、糧食がもらえるかどうかあてにできないんだ、と弁解がましくつけ加えました。カフェ・キースリングはそのあと徹底的に破壊され、その後火を放たれました。」

ポツダム広場にある交通路の前で一人の日本の民間人によびとめられました。日本大使館書記官の福田です、とその人は自己紹介し、「ご無事でなによりです」といいました。さっそくたったいま見た略奪を福田氏に報告すると、次のような返事が返ってきました。言葉通りに再現するとこうなります。「日本軍はこの街は破壊しようとしています。けれども、私たち、日本大使館の人間はなんとかしてそれを防ぎたいと思っているのです」。福田氏やその同僚の福井氏、田中氏には、その後もしばしば、いやそれどころか、ほぼ毎日、会う機会がありました。みな丁寧で礼儀正しい人たちでしたが、日本軍に対しては残念ながら全くの無力でなんの影響力もありませんでした。その返事、「軍当局に伝えておきます」はいつも口頭であり(文書でくれたことはいちどもありません)、結局それきりでした。

いつのまにか、南からやってきた何千人もの日本兵がポツダム広場のまわりに参列し、市の残りの地域を占領すべく、扇形になって北へとさらに行進しようとしていました。それをみた私はリードに出ました。北から逃げて来るいわゆる敗残兵、揚子江を渡って逃げることができなかった中国首都防衛軍の生き残りに会えるのではないかと思ったからです。それが誤りでなかったことはまもなく分りました。途中で外交部の赤十字病院に寄り道をしましたが、すでに申し上げましたように、医師も看護婦も一人残らず逃げたあとで、病院じゅう中国兵の死体でいっぱいになっていました。

私たちドイツ人がバイエルン広場と呼んでいる山西道路のロータリー、これは安全区の北の角にあたりますが、まず最初にここで完全武装した兵四百人を擁する部隊に出会いました。あくまでも彼らのためを思ってしたこととはいえ、このため、あとになって私は若干良心の呵責を感じることになります。私は兵たちに、機関銃を装備した日本軍が遠くから進軍してくると伝え、危険を知らせました。そして、武器を捨てるよう、私が武装解除するから安全区の収容所にいれてもらうようにとすすめたのです。しばらく考えたあとで、彼らは私の忠告に従いました。あとで私は思いました。果たして自分にそんなことをする権利があったのだろうか?あれでよかったのであろうか?けれどもいまでは、ああするより仕方がなかったのだと思っています。なぜなら安全区との境で市街戦になったら、中国兵はこぞって安全区に逃げ込んだにちがいないからです。そうなれば安全区はもはや非武装ではなくなり、日本軍から猛烈に攻撃されたことでしょう。さらに、当然のことながら、完全に武装解除されていれば、捕虜になることはあっても、それ以上の危険はないだろうという期待もありました。

しかしながら、またしても私は思い違いをしていたのです!

この部隊の兵士全員、それからさらに、この日武器を捨てて安全区に逃げ込んだ数千人の兵たちも、日本軍によって難民のなかからよりわけられたのです。みな、手を出すようにいわれました。銃の台じりを握ったことのある人なら、たこができることをご存じでしょう。そのほか、背嚢を背負った跡が背中に残っていないか、行進による靴ずれができていないか、兵士独特の形に髪が切られていないかなども調べられました。そういうしるしがあった者は、元兵士の疑いをかけられ、縛られ、ひっぱられ処刑されたのです。こうして何千人もの人が機関銃あるいは手りゅう弾で殺されました。そこここでぞっとするような光景がくりひろげられました。そのうえ、全く罪のない民間人まで同時に射殺されたのです。日本軍には元兵士の数が少なすぎるように思われたからです。

残念なことに、この処刑もまた、およそ粗雑なやり方で行われました。死刑の判決を受けた人のなかにはただ負傷して気を失っただけの人もいたのですが、死体と同じようにガソリンをかけられ、生きながら火をつけられたのです。このなかの数人が鼓桜病院へ運ばれ、息を引き取るまぎわにその残酷な処刑の模様を語りました。私もいくどかこの耳でそれを聞きました。私たちはこれらの犠牲者を撮影し、記録として残しました。処刑が行われたのは、揚子江の岸か街の空き地、あるいは南京におよそ三千ある小さな沼のそばでした。これらの沼はみな、程度の差はあっても投げ込まれた死体で汚染されています。国際委員会に属している紅卍会という仏教系の赤十字組織(注・必ずしも仏教系とはかぎらない)を通じて、私たちはひとつの沼から実に百二十四体もの死体を引き上げました。どれもが紐あるいは電線で縛られていたので、一目で処刑されたのだと分りました。

というわけで、先ほどお話ししましたように、武装解除させたことで私は安全区を守りはしたが、それを除けば日本兵の命を救っただけの結果になりました。といいますのは、双方がぶつかれば、日本兵も多数命を落としたことはまちがいないからです。そしてこの処刑を合図のようにして、日本兵の不法行為が至る所で起こり始めたのです。かれらが完全に統制をうしなっているのはあきらかでした。私たちはまるで脱走した囚人の群れを相手にしているような気がしました。

三人から十人くらいずつ徒党を組んだ兵士たちが街や安全区を闊歩しはじめました。そして手当たり次第に略奪し、婦女子を暴行しました。それだけではありません、抵抗する者、逃げ出す者、そのほかなんであろうと、癪にさわった者を片っ端から手にかけたのです。そのさい大人であろうと、子供であろうと、見境ありませんでした。下は八歳から上は七十歳を越える女性が暴行され、多くはむごたらしく殺されました。局部にビール瓶や竹が突き刺されている女性の死体もありました。これらの犠牲者を私はこの目で見たのです。いまわの際のかれらと口もききました。鼓桜病院の遺体安置室で、もう一度遺体の布をとってもらいもしました。届けられた報告が真実に基づいていることを自分の目で確かめるためです。

みなさんは信じられないとお思いでしょうが、婦女子の暴行は安全区にいくつもあった女子収容所のまんなかで行われたのです。そこにはそれぞれ五千人から一万人までの女性が寝泊まりしていました。なにぶん我々外国人の数は限られており、この信じがたい蛮行を防ぐために常にそばにいてやることはできません。刃向う者は手当たり次第殺すこれらの凶暴な人間どもを前に、難民はなすすべもありませんでした。

ただ我々外国人に対してだけは、いくらか遠慮していました。そうはいっても我々はみな、何十回も命の危険にさらされました。これから先、いったいいつまで「はったり」がきかせられるだろうか、とお互い話し合ったものです。私たちの「力」は、まさしくはったり以外の何物でもなかったのですから。外国の国旗が尊重されることは全くありませんでした。たとえあったとしても、ごくまれでした。アメリカの国旗はしばしば引きずり下され、汚されました。このため、アメリカ人は非常に怒ったのです。六十軒あるドイツ人の家のうち、四十軒以上が大なり小なり略奪され、四軒は完全に焼き払われてしまいました。アメリカ人の被害については覚えていません。わが家から、私がこの手で放り出した日本兵も百人は下りません。ときには命の危険もないわけではありませんでした。ナチ党員のバッジとハーケンクロイツの腕章、私には、、これよりほか身を守るすべはなかったのです。わが家に押し入る日本兵があまりに多くなったとき私は日本大使館の役人に次のように申し渡しました。実際、この通りに伝えたのです。

「軍当局に伝えてください。私は祖国の国旗とわが家の名誉とを命がけで守るつもりです。警告しておきますが、どんな結果になろうと、すべての責任はあなた方にあります」

あの十二月の日々(クリスマス前後が一番ひどかったですが)、私たちは文字通り屍を乗り越えて進んで行きました。二月一日まで、埋葬すら禁じられていたからです。家の門から遠くないところに、手足を縛られた中国兵の射殺体がありました。それは竹の担架に縛りつけられ、通りに放り出されていました。十二月三日から一月末まで、遺体を埋葬するか、どこかへ移す許可をくれるように、いくども頼みましたが、だめでした。二月一日に、ようやくなくなりました。このような残虐行為についてお話ししようと思えば、まだ何時間でも続けられますが、このへんでやめておきます。

中国側(筆者注・これは現中国共産党政府ではなく国民党政府のこと)の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万人から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍会によりますと、一日二百体は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。

収容書の難民は総じて従順で手がかかりませんでした。すでにお話ししたように、カップ一杯の生米というわずかな食べ物しか与えることができなかったのですが、わが家の庭のプライべートな小さな収容所は、十二月十二日の爆撃の夜に誕生しました。ジーメンス・キャンプと呼ばれたこの収容所の難民は、いつのまにか六百五十人にふくれあがっていました。そのうち三百人が女性です。子どもは百二十六人いました。かれらは小さな稿小屋でひしめきあって暮らしていました。湿気をふせぐため、小屋を壁用の石で囲っていました。難民たちは本格的な警備、管理体制を整えていました。日本兵が塀を越えてはいってきたとき、警告ですぐに駆け付けられるように、私は何週間もの間、服を着たまま寝ていました。昼間はまあなんとかなり、たいていはすぐに追い出すことができましたが、夜になると事態はいくぶんめんどうで、危険になりました。暗闇の中であちらこちらから同時に塀を越えて入られるときは特に大変でした。この粗末な収容所、泥だらけの庭で、子どもが二人生まれました。体をくるんでくれるものといったら、うすいむしろだけでした。男の子には私の名、女の子には妻の名がつけられました。名親からのプレゼントとして、男の子には10ドル、女の子には9,5ドル贈りました。同額ではだめなのです。中国では女の子は男の子ほど値打ちがないのです。

委員会本部に向かう途中で、私の車はきまって停められました。いつもだれかが道に立って、妻や妹、あるいは娘が日本兵に暴行されそうになっている、なんとか助けてくれないか、と必死で訴えるのです。中国人の一団に連れられて現場に行き、まさに行為に及ぼうとしているところを取り押さえたことも多々ありました。こういう思い切った行為が危険だったことはいうまでもありません。日本兵はモーゼル拳銃と銃剣をもっていましたが、先ほども申しあげましたように、私にはナチのバッジとハーケンクロイツの腕章しかなかったのですから、武器がないなら、堂々たる態度と迫力で対抗するしかありません。事実、それは大抵の場合、役に立ちました。

しだいに、食糧が乏しくなっていきました。日本軍から数千袋内緒で米を買うことができましたが、まもなくこれは打ち切られてしまいました。日本軍はもし私たちが委員会を解散し、難民を立ち退かせれば、食糧の支給は自分たちが引き継ぐか、あるいは新たに発足した自治委員会にやらせると約束しました。

私たちが委員会を解散しなかったのはもちろんです。けれども日本軍の意を迎えるため、名称を南京国際救済委員会に変更し、難民には立場上、日本軍が安全区をでるよう要求していると伝えないわけにはいきませんでした。その結果どうなったか。出て行った女性たちの多くが大ぜい新たに暴行され、略奪されて戻ってきたのです。それどころか、かつて住んでいた家の焼け跡で殺された人たちもいました。そのくせ安全区の街角には「わが日本軍を信用しなさい!君たちを保護し、食料を与えるでしょう」と書かれたきれいなポスターが貼ってあったのです。

壊されたり略奪されたりしていない店など、南京には一軒もありませんでした。街の三分の一は日本軍に焼き払われ、太平路も歓楽街の夫子廟も忽然と姿を消しました。個別の私的な略奪グループについてはすでにお話ししましたが、そのあと、みごとに組織された略奪部隊が登場しました。かれらは十ないし十二台のトラックで乗り付け、盗んだ家具を積めるだけ積んだあと、一軒一軒、またはまとめて火をつけました。フィルムの切れ端を詰めた箱を木箱に入れて運びこみ、床にばらまいて火をつけたのです。家が一部ブロック、あっという間に焼けていました。

われわれ数少ないヨーロッパン人やアメリカ人は絶望的な気持になりましたが、そのまま仕事を続けました。仲間のドイツ人とアメリカ人に対し、この場であらためて称賛の言葉を述べずにはいられません。だれもが一度ならず生命の危険にさらされました。けれども、だれ一人としてくじけませんでした。ようやく二月の初め頃でしょうか、事態はいくらか好転しました。部隊が交代したのです。撤退する部隊もあらたに到着した部隊も、あいかわらずいいように略奪してはいたものの、それでも少しずつ統制がとれてきたように見受けられました。今度は憲兵隊がおりましたし、これはいくらかほかの部隊よりはましだったので、安全区で警察の業務を果たしました。

なんとか帰られるおのならもといた家に帰るようにと、私たちはくりかえし難民に言い聞かせました。日本軍は力づくで安全区を空にするとおどし続けたので、そうするより他になかったのです。およそ十万人が、といってもその多くが年寄りの男性と子どもたちでしたが、私の出発前に安全区から出て行きました。なかにはまたもや日本兵にひどい目にあわされて戻って来た人たちもいましたが、大半はそのままとどまりました。そういうわけで、このころ私は―すでに会社から呼び戻されていました―帰国を現実問題として考えられるようになりました。

私が帰国すると聞いた難民ははじめのうち、なんとか引きとめようと列をなして請願に来ましたが、結局は納得してくれました。私はイギリス政府の厚意で砲艦ピーに乗せていただくことになり、二月二十三日に上海に向かって出発しました。






PageTop

「はだしのゲン」の描写は不適切か?

この数日前から松江市教委が「はだしのゲン」を閲覧制限にしたという新聞やテレビのニュースがさまざまな波紋を呼んでいる。「はだしのゲン」というと、広島の原爆被害を非常にリアルに描いた漫画であり、世界各国で愛読されている名作漫画であるといわれている。私は手にとって読んだこともなく、ほとんど何の知識もないので、はじめはなぜこの話題が波紋を呼んでいるのかよく分からなかった。テレビのニュースをみていると、「はだしのゲン」の描写はあまりにリアルで衝撃的であるから、心が傷つきやすい繊細な子供達にはすすめられないという市教委の配慮があったのだろうと私は思っていた。それなら当然ではないかと思っていたのである。しかし、後日同じ話題を伝える新聞をよく読むと、市教委によって問題とされたのは実はそういうことではなく、「はだしのゲン」を子供達にすすめられないのは別の「理由」があると知って唖然とせざるをえなかった。

その「理由」というのは、日本軍が過去中国で行った根拠のない残虐行為をさも事実であるかのように描いているのが問題だというのである。すなわち「はだしのゲン」を子供たちにすすめられない理由は、その描写があまりにリアルであるためではなく、逆に「リアルではない」からだということである。つまり松江市教委の人々にとっては、日本軍が中国で行った残虐行為はリアルではない(すなわちそれは現実ではない)ので、子供たちに誤った歴史観を伝えてしまうことになると考えて、子供たちにはすすめられないというわけなのである。もう少し具体的にいうと、漫画の中で特に問題とされたシーンは日本軍が中国人の首をはねているシーンと中国の女性を日本軍がレイプしているシーンが特に問題となったようである。

もしこれが本当だとすると、このニュースが大問題になるのは致し方あるまい。そもそも漫画の題材が事実に基づいているのかどうかということが問題にされること自体が問題であろう。そんなことをいうと漫画家は好きなように漫画を描けないということになる。これは憲法に保障された表現の自由に抵触する大問題である。しかし、この問題はそういう抽象論だけではなく、そもそも問題とされた描写が事実に基づいていないという教育委員会による安易な決めつけがあったのだとすると、こっちの方がよほど問題である。つまりこの問題は二重の問題を含んでいるのであるが、後者の方がより問題ではないかと思う。「はだしのゲン」の中で日本軍が中国兵の首をはねているシーンとか女性をレイプしているシーンが事実に基づかないと考えられているとすれば、それこそが重大な問題なのである。

「はだしのゲン」の中で「日本軍が中国人の首をはねる」というシーンが決して作り話でもなんでもなく、具体的な日本人の証言に基づいていることを確認しておきたい。そのようなシーンを目撃した人もあれば、自ら誇らしくそのような行為を行ったことを日記に記している兵士たちの資料も残されている。以下、2例のみ紹介しておこう。

便衣兵と判定された中国人たちは、下関などで処刑されたが、この時期の処刑風景を何回か目撃した一人に、飛行第八大隊付の井出純二軍曹がいる。その手記の一部を紹介しよう。「さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、死体を水面にけり落しているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落していた。傍まで行くと四十歳前後のヒゲの応召兵が『戦友○○のカタキ討ちだ。思い知れ』と大声で怒鳴りながらダンベラをふるっている。私に気づくと『航空隊の人よ、少し手伝ってくださいよ。手首も腕も疲れた。頼みますよ』と言われたが、30分近く見物した後で胸が悪くなっていた私は……手を振って早々にその場を離れ去った。」(井出「私が目撃した南京の惨劇」)秦郁彦著「南京事件」P167-168

(以下の資料は南京陥落前に南京を目指して行軍していた日本軍兵士堀越文雄の陣中日記である。)
11月20日
昨夜まで頑強なりし敵も今は退却し、ところどころに敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを斬る。まったく作法通りの斬れぐあいなり。刀少し刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながらおどろかれる心の落ち着きなり。西徐野に一泊す。敵はほとんど退却す、残れるものは使役に服せしめ、又は銃殺、断首等をなす。いかりの心わかず。心きおうことなし。血潮を見ても心平生を失うことなし。これすなわち戦場心理ならんか。(笠原十九司著「南京事件」P98-P99)


松江市教委の先生方はこのような資料があるという事実をご存じなかったのであろうか?

そもそも斬首は昔から日本の武士が伝統的に行ってきたことであり、切腹の際の介錯にしても海外から異様に思われるのは無理のないことであり、日本では人間の命を断つときに斬首という方法が一般的にとられてきたのは明らかな事実ではないか?もちろんそのような殺し方は古くは世界中どこでもあったが、銃殺が一般的になった近代以降の世界では日本以外の国ではあまり行われていない。しかし銃殺が戦場での一般的殺害方法となった中でも、日本人は中国等の戦場でごく普通に行っていたのである。このような殺害を行ったことがリアル(現実)でないとはいえないであろう。もちろん銃殺と斬首のどちらが残酷なのかということは一概にいえない。

日本軍の殺害方法の残酷さというと、もっとひどいものはいくらでもある。たとえば中国人を銃剣で串刺しにしたあと、まだ生きているにもかかわらずガソリンをぶっかけて焼き殺すという方法がかなり一般的に南京城内の至るところで行われていたことが推定される。というのはラーベ氏が報告しているように、銃殺の場合は音が響くために周囲の人間に気づかれるので、民家が集合している南京城内ではできるだけ周りに気づかれないように、そのような方法がとられていたらしいのである。これはたまたまその処刑現場から逃げ出すことに成功した人々の生々しい証言があったとラーベ氏が記しているので事実とみてまちがいないであろう。


十二月二十七日
……鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五か所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは。射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下、この方法が取られている。さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、なにがあったのか、とうるさいからだ。

十二月二十八日
……。今日、ほうぼうから新たな情報が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。ある所では、五十人ぐらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。生き延びた人の話によると、空き家に連れて行かれ、貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。それから日本兵は中庭で大きな庭に火をつけ一組ずつ引きずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げ込んだというのだ。そのうちの十人が逃げ延びて、塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服を呉れたという。これと同じ内容の報告が三方面からあった。もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。ベイツはいまこれについて詳しく調べている。ただ、いざ報告するときは誰から聞いたか分らないよう、よくよく気をつけなければならない。知らせて来た人にもしものことがあったら大変だ。……


しかし、それにしてもなぜこのように日本軍の残酷な処刑方の一次資料がいくらでもあるにもかかわらず、松江市教育委員会の人々はそのごく一部を描いた「はだしのゲン」に対して「根拠がない」といえるのであろうか?彼らはそれらの資料の存在を知らないのであろうか?

20120821_2439930.gif
松江市教委に問題とされたシーン

ちなみに下の2つのシーンは次のような資料に依拠しているものと思われる。

命令の有無はともかく、住民の無差別殺戮は現実に横行した。第十軍に従軍した前記の河野カメラマンは、「川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突き刺したりした。杭州湾から昆山まで道端に延々とそういう死体がころがっていた」(「証言記録三光作戦」46-47P)秦郁彦著「南京事件」P72

中山門外で別の処刑風景を目撃した小原予備主計少尉(第16師団経理部)は次のように記す。
「最前線の兵七名で凡そ三百十名の正規軍を捕虜にしたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取り上げ服装検査、その間に逃亡を図った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す…中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っ込む。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた」(小原立一日記 十二月十四日)秦郁彦著「南京事件」P121



・・・と、ここまで書いていると、喫茶店でたまたま本日の読売新聞の社説を目にした。以下のように書かれているのである。

原爆の悲惨さを描いた漫画家・中沢啓治さんの代表作「はだしのゲン」について、松江市教育委員会が市立小中学校に閲覧の制限を要請したことが波紋を広げている。現在、松江市内の大半の学校図書館では、教師の許可がないと子供が自由にこの作品を読むことができない状態が続いている。市教委は生々しい原爆被害の場面ではなく、旧日本軍にかかわる描写の一部を、過激で不適切と判断した。アジアの人の首を面白半分に切り落とす。妊婦の腹を切り裂いて、中の赤ん坊を引っ張り出す。女性を惨殺する、といった描写についてだ。成長過程の子供が本に親しむ小中学校図書館の性格を考えて、市教委がとった措置と言えよう。憲法は、表現の自由を保障し、検閲を禁じている。市民が広く利用する一般の公立図書館で蔵書の閲覧を制限することは、こうした観点から許されない。ただ、小中学校図書館を一般図書館と同列に論じることは適切ではあるまい。作品が子供に与える影響を考える必要がある。心身の発達段階に応じた細かな対応が求められるケースもあるだろう。下村文部科学相が「市教委の判断は一つの考え方。教育上の配慮はするべきだと思う」と述べたことはもっともである。「はだしのゲン」は、広島での中沢さん自身の被爆体験が基になっている。肉親を失った主人公の少年が困難に直面しながらも、たくましく生き抜く物語だ。1973年に週刊少年ジャンプで連載がスタート、掲載誌を替えながら、10年以上続いた。単行本はベストセラーとなった。約20か国語に翻訳・出版されている。連載当初は、広島の被爆シーンがリアルすぎるとの批判もあったが、そうした描写こそが原爆の惨禍の実相を伝えてきた。被爆者の高齢化が進み、戦争体験の継承が大きな課題になっている中、「はだしのゲン」が貴重な作品であるのは間違いない。その一方で、作品の終盤では、「天皇陛下のためだという名目で日本軍は中国、朝鮮、アジアの各国で約3000万人以上の人を残酷に殺してきた」といった根拠に乏しい、特定の政治的立場にも通じる主張が出てくる。表現の自由を尊重しつつ、同時に教育上の影響にも目配りする。学びの場で児童生徒が様々な作品に接する際、学校側がどこまで配慮すべきかという問題を、松江市のケースは投げかけている。(2013年8月25日01時25分 読売新聞)

この社説の真意をただすために早速読売新聞本社へ電話をしてみた。電話にでられた方は40代の読売新聞の社員(男性)だそうである。以下、どういう会話のやり取りをしたのか簡単に記しておく。

私:今日の社説について納得しかねるので電話をしました。

読売社員:ご意見はどういうことですか?

私;社説というのは記者の名が記されていないので、これは読売社員一同の考えというように理解してよいのでしょうか?

読売社員:はい、そうです。私もその社説を読んで問題はないと感じました。

私:私にはそれが理解できません。一部の方の意見であるなら、しょうがないと思いますが、社員一同がこのような考え方に賛同するというのは、どうも理解し難いです。

読売社員:どこが問題なのでしょうか?

私;この「はだしのゲン」の中で日本人が中国人に対して行った残酷なシーンの描写がなぜ不適切なのか、なぜその部分だけをとりあげて子供たちに悪影響を与えるかもしれないと考えるのか、それが理解できないのです。

読売社員:わたしもそのような描写は不適切ではないかと感じました。

私:なぜですか?

読売社員:それは根拠がないと思うからです。

私:え?・・・それでは聞きますが、貴方は秦郁彦氏を御存じですか?

読売社員:知りません。

私:え?知らない?・・・私にはそのことが信じられません。読売新聞に20年以上在籍されている社員の方が秦氏の名前も知らないとは驚きです。秦氏の本を読んでみてください。「はだしのゲン」に描写されているような残酷なシーンの資料がいくらでも書かれています。それらは勝手な想像でありません。すべて当時の南京の現場にいた人々の目撃証言であったり、あるいはそのような虐殺行為を行った下級兵士の戦中日誌を集めたものです。・・・ついでに、もう一つ聞きますが、「ジョンラーベ」をご存じですか?

読売社員:え?ジョン・・・?

私;「ジョンラーベ」です。当時の南京国際安全区の代表をされていた方です。ちなみに彼はドイツ人でナチの党員でした。その方が日記を残しています.・・・

読売社員:悪いですが、他の電話がありますので、もう切らせてもらいます。

私:え?逃げるんですか?

読売社員:いえ。他の電話もありますので・・・

私:わかりました。最後に秦郁彦氏の本はぜひ読んでください。これは必読書です。中公新書からでている「南京事件」という本です。

読売社員:中公新書というと読売新聞の本ですね!

私:ちがうでしょ。中央公論社の本ですよ。

読売社員:いえ、その中央公論社を読売新聞が買収しました。

私:あ、そうですか。

読売社員;はい。では切ります。


大体、以上のような会話であった。

読売新聞の40代の社員が秦郁彦氏やジョンラーベの名前も知らないとは驚きであり発見でもあった。少なくとも南京事件について何事かを断言するためには最低限彼らの著書には目を通すべきであろう。しかも一度や二度ではなく、何度も目を通してそこに何が書かれているかということを頭に叩き込んでおくべきだと思う。それが新聞記者の務めではないだろうか?

そのような基本的知識のない大手新聞社の社員が「そのシーンには根拠がない」と言い放つのだからおそれいる。マサカだとは思うが、もしかすると社説の主も読んでいないのではあるまいか?もちろんそんな不勉強なことで社説が書けるとは思えないのだが、そうとでも仮定しなければあのような事実誤認の文章を書けるとも思えない。ついでながら、おそらくは下村文部大臣や松江市教育委員会の方々も読んではいないのであろう。何も知らないからこそ、そのような話を作り話であると信じ込んでしまうのであろう。

ちなみに読売新聞社の名誉のために付け加えておくが、1か月ほど前にも従軍慰安婦問題の社説について電話で論じ合ったことがあった。そのときは、おそらく60代以上の年配の記者の方であったと思う。私は「従軍慰安婦制度に強制性があったかどうか疑問」とする社説について、次のようにいった。「そもそも戦地へ強制ではなく自らすすんで身を売りにいく女性がいると思いますか?」と。その記者は次のように答えた。「あなたのような意見を電話でお聞きするのは非常に珍しいのですが、わたしもあなたの意見に同感です。」と答えてくれた。ついでに、その記者に南京虐殺事件についてどう思うかと尋ねると、「虐殺があったのはあたりまえのことです。証拠映像も残っているのですから。…そもそも日本は侵略国家でした」と付け加えた。これはわざわざ紹介するまでもなく新聞記者としてはあたりまえの考えであると思うが、今日の電話で応答してくれた読売社員の方は、たまたま何も知らない社員だったのか。それとも彼のような社員(記者)が普通なのか、どちらかは分からない。ただし、先の年配の社員もラーベの日記については、ほとんど知らなさそうであったので、おそらくはその程度の知識しかないのであろうと思う。これが朝日新聞や毎日新聞となると違うのだろうか?

PageTop