3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

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(1)原発事故と放射能の脅威

(1)原発事故と放射能の脅威
3.11以後、日本の政治の異様な状況を暗く陰鬱な気分でみさせられながら、もし故山本七平が存命なら、この状況をいかに評したであろうかと思い続けてきた。故山本七平の業績の大きさについてはいまさらいうまでもないだろう。戦後の著述家の中で天才という称号を躊躇なく与えうる著述家を一人あげるとすれば、それは故山本七平以外には思いつかない。それほど彼の業績は群を抜いているだけではなく、何よりもその仕事の独創性という点で並ぶ者は他にいない。その彼の独創的な仕事の中でも、とりわけユニークなものに「空気の研究」という著作がある。私が3.11後の異様な状況の中で、故山本七平ならどう評するだろうかと思い続けたのは、その「空気の研究」で明らかにした彼の洞察があまりにも見事に3.11後の日本人の行動にあてはまるからだ。なんだか気持ち悪いと思うぐらい、それは日本人の行動パターンを説明しくれるのである。

たとえば放射能(放射線)の脅威が、今、何よりも重大な問題としてわれわれの関心に否応なしにのしかかっている。それは眼にはみえないが、確かに実在する具体的な脅威である。3月13日の建屋の水素爆発後、福島原発の半径10k圏内が立ち入り禁止区域となり、その後、まるで天気予報のように各地の放射線量を知らせる放射線情報が、連日新聞やテレビで報じられるようになった。枝野官房長官が日に何度も記者会見の中で何マイクロ・シーベルトの放射線量が観測されているというデータを発表しながら、「ただちに健康に影響を与える数値ではない」と念を押す。「ミリ・シーベルト」とか「マイクロ・シーベルト」といわれてもそれまでは誰も聞いたことがないような耳慣れない単位なので、本当にそのとおり、すなわち「健康に影響をおよぼさない」のか、それともそれは「ただちに影響を及ぼさなくとも、長い時間が経つと影響がでてくる」という意味合いなのか、誰も判然と分からないので逆に不安をつのらせる。

原発事故当初、どのテレビ局にも必ず原発や放射線の専門家が司会者の隣に座っていて、枝野長官の発表が意味することを解説していた。放射線の専門家によると、「ただちに健康に影響を与えない」という意味は長い期間においてみれば影響を与えるという時間的な意味合いではなく、影響を与えるか否かが「ただちに」は分らない、すなわちその程度の放 射線量では確率的に健康に影響がでるかどうか「現状でははっきりとはいえない」という意味なのだそうである。実際、チェルノブイリ事故などの統計調査によると、年間100mmシーベルト以内の被ばく量では具体的に健康に影響があるのかどうか判っていないというのが専門家による国際的な共通認識とされているのである。

ところが、皮肉にも専門家が安心ですといえばいうほど、逆にさまざまな不安をあおる結果となっていった。彼らは要するに御用学者であり、原発事故の被害の深刻さを隠すために、故意に事故の被害を過小に見積もっているのではないかと受け取られたのである。おそらくそのような抗議電話が殺到したせいなのであろうか、原発事故発生後見慣れていた安心派の専門家がいつの間にかテレビから姿を消していった。主に日テレの報道番組で安心論を振りまいていた東大病院放射線科准教授・中川恵一氏は養老孟司氏との対談で次のように語っている。

中川 私、地震が起きてからツイッターを始めたんですが、フォロワーが最大で24万人になりました。放射線医師の立場から“放射能に対する過剰な反応は損になる場合もある”と述べた内容なんですが、やたらと「危険」を煽らなかったせいなのでしょうか、「御用学者」というレッテルを貼られてしまい、病院にまで電話がかかってくる始末です(笑)。・・・・確かに確率でいえば一定量の被ばくをするとガンになる確率が上がるんですね。その元になるデータは広島・長崎の原発投下、それからチェルノブイリのような過去の原発事故、それから原発の作業者などから得られたものなんです。そのなかで、一番重要なのは、広島・長崎のデータです。原爆被ばくでは、爆心地からの距離で被ばく量が決まるので、どこにいたか聞くだけで、発がんとの関係が分かる。それによると、100ミリシーベルトを超えると発がん率が上昇しました。100ミリシーベルトで0.5%、200ミリシーベルトになると1%と被爆量に応じて、直線的にガン死亡率が増えてくる。その点、チェルノブイリでもそうですが、原発事故の場合では住民の被ばく量の把握が困難です。私も福島県の飯館村に2回調査に行ってきたんです。

養老 そこではどうでしたか。

中川 1メートル移動すると放射線の量が半分になったり急に倍になる。放射性物質が放出された3月半ば当時の天候や地形などによって変わってきちゃうんです。ですから、個人の被ばく量ってなかなか分からない。でも、現実には福島県の住民が年間100ミリシーベルト以上を被ばくすることはありえないと思います。

養老 それでも皆、放射線とガンの関連性を求めたがる。

中川 そうです。分からないから、100ミリ・シーベルト以下でも、被ばく線量が増えると直線的に発がんが増えると想定するのが今の考え。「しきい値なし直線モデル」と言いますが、これはもう哲学領域。つまり安全のために危ないことにしようというわけです。

補足であるが、中川教授によれば、発がん性ということに限れば、たとえばタバコの害は年間2000ミリシーベルトの放射線量をあびる危険に相当し、また飲酒の害も年間1000ミリシーベルトの放射線量をあびる危険に相当する。その他にも野菜不足や肉食等によっても発がんの危険は飛躍的に増大するので、それらの危険に比べると年間100ミリシーベルト以下の放射線量はほとんど危険がないというに等しいということになる。しかも、(中川教授によれば)福島県の住民が年間100ミリシーベルト以上被ばくすることは(現状では)考えられないとしているのである。

枝野長官が「ただちに健康に影響はない」と語り続けたのは、このような理由に拠っている。つまり「ただちに」という意味は、「発がんの危険が100%ないということではないが、だからといって心配するほどの放射線量ではない」ということである。補足をすれば、「そんな心配をするよりもわれわれの生活の中には発がんの危険になるものが他にもいっぱいあるんですよ」ということである。ただし、枝野長官がそんな下世話な話を公の場でするわけにはいかない。だから、「ただちに健康に影響のある値ではない」という、いかにもわけありそうな表現にならざるをえなかったのだろう。実際、中川教授のような専門家が「安心してください」といえばいうほど、何かわけがあるにちがいないと一般の国民はいぶかるのも当然といえば当然であった。

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(2)御用学者のレッテル

(2)御用学者のレッテル
それにしても、「御用学者」という言葉は久しぶりに聞いた気がする。この言葉は、かつての共産党に好んで使われた左翼色の強い言葉である。マルクスやレーニンの唯物史観によれば、資本主義国家というのはその支配階級であるブルジョワジーが、自らの政権を維持するために学者たちを雇い、彼らに自らの政権に都合のよい発言をさせることによって、その政権の支配を巧妙に維持しようとする、そのような意味合いで資本主義側に立った学者はひっくるめて御用学者というレッテルが張られた。したがって日本共産党によれば、反社会主義的な思想の持ち主はすべて御用学者ということになる。しかし、現代においては反社会主義的でない学者を探すことの方がむしろ難しいであろう。確かに60年代から70年代中頃までは、ほとんどの大学の学者はマル経(又は進歩派)であり、その傾向は文系だけでなく理系においても唯物史観を信じる学者たちが圧倒的に優位を占めていたので、社会主義に反対する「体制派の学者は=御用学者」というような批判が一定の説得力をもっていたわけであるが、今日では、ほとんどの学者が(共産党からすれば)右寄り、すなわち反社会主義的な学者ばかりになっているので、もはや共産党にとって御用学者という言葉が用をなさなくなっているのである(そういえば1970年にイザヤ・ベンダサンという謎のペンネームで「日本人とユダヤ人」を出版した故山本七平氏も、進歩派学者を徹底的に批判していたせいなのか、その後しばらくの間は御用学者という不名誉なレッテルを張り続けられていたように記憶する)。

しかしながら、3.11後の福島原発事故によって、実に久々に、かつての御用学者という言葉が本来の意味をなす言葉としてよみがえったわけである。その言葉によって惹起されるのは、要するに次のようなことであろう。長年、自民党の保守政権によって喧伝されてきた原発の安全神話というのは、実は原発利権に群がる企業と政府が一体となって自らに都合のよい主張をする学者たちを雇い、それによって根拠のない安全神話を国民は信じ込まされてきたのであるということ。すなわち原発は安全だとか、放射能はただちに健康に害をあたえるものではないとかいう学者はすべて体制側に雇われた御用学者ではないのかということである。そのような懐疑を強く抱かせたのは、原発事故後、何人かの非御用学者達(?)が放射線の危険性を誇大に主張するようになったせいでもある。中でも際立っていたのが涙の辞任会見で衝撃を与えた東大教授小佐古敏荘氏であろう。小佐古教授は内閣の官房参与として雇われた立場の身でありながら政府の御用学者にならずに、むしろ政府の公式見解に反旗を翻した(良心的)非御用学者として高く評価されたということである。小佐古氏が涙の辞任会見をした理由は福島県内の小学校や幼稚園の校庭での屋外活動を制限する放射線量の基準値を年間20ミリシーベルトとしたことが学問上もヒューマニズムの観点からも絶対受け入れられないとした点であった。

ただし小佐古教授の経歴をwikipedeaで調べてみると彼の「ヒューマニズムの観点から」という言葉に、少しひっかかるところがある。次のように書かれているのである。

「2003年以降の原爆症認定集団訴訟では、国側の証人として出廷し、国の主張に沿った証言を行った。特に被爆者の放射線量を評価するシステム、DS86とDS02については妥当性を主張しており、この点で原爆症の認定が不十分であるとする原告の主張と対立している(被爆者約25万人のうち、国が原爆症と認定した者は約2000人である)。なお、小佐古が証人として出廷した裁判は、国側が全て敗訴している。」

もちろんこれだけで確かなことはいえないが、小佐古教授は原爆訴訟問題では国側に立つまさに典型的御用学者として活動していたことになる。今回の原発事故で政府の官房参与として起用された理由も、おそらくそのような経歴が官僚に安心感を与えたからではなかろうか?原爆症認定訴訟で国側に立って国を弁護していた学者が、今回の原発事故では、一転反政府側に立って「ヒューマニズムの観点から」受け入れられないというのは、一見矛盾しているかのようにみえる。もちろん小佐古教授は、純粋に「学問的に」そして「ヒューマニズムの観点から」も、年間20ミリシーベルトの基準設定に学者としての良心をかけて反対したのだと素直に評価すべきなのかもしれないが、ではなぜ官邸は小佐古教授の進言を受け入れなかったのであろうか?もちろん内閣の官房参与として雇われたのは小佐古教授一人ではなかった。他にも多くの専門家がいたはずであり、その中では放射線の問題に関して真剣な議論がなされたはずである。官邸の発表では、小佐古教授の意見は他の学者たちの意見とあわなかったというのが真相であるとしている。もちろん年間20ミリシーベルトというのは、普通人が浴びてもよいとされる年間1ミリシーベルトの国際基準の20倍もの数値であるので、小佐古教授ではなくとも(学者の良心として)一挙に20倍もの上限値を設けるのはいかがなものかという意見がでるのは当然であろう。

しかし、現実問題としては福島県内の放射線量が国際基準を上回る数値であるということはどうしようもない現実であった。もし、可能なかぎり除染をしてもなお、その基準を設けなければならない厳しい状況であるとすれば、小佐古教授の意見が通らなかった背景には一筋縄ではいかない複雑な問題があるということになる。マスコミは決してその問題を詳しく伝えていない。あくまでも小佐古教授が学者の良心としてヒューマニズムに訴えた行動を勇気ある立派な行動として賞賛するという「いつものスタンス」であった。ここで「いつものスタンス」というのは、例をあげるまでもなく、こういった問題が起こるとマスコミは必ずヒューマニズム側に立つことに決まっているからだ。

話を前に戻そう。先の中川東大准教授がいうように、年間100ミリシーベルト以下の放射線量では発がんの危険はほとんどないとされている。これは中川教授の個人的な解釈ではなくICRP(国際放射線防護委員会)という国際機関の公式見解なのである。ただし、ICRPは通常時に浴びてもよい放射線の被ばく量を年間1ミリシーベルトという厳しい数値に設定しているわけだが、原子力事故等の緊急時には年間20ミリシーベルト程度の上限を設けるのはやむをえないともして、次のような声明を発表しているのである。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、原発事故などが起きた後に周辺に住む人の年間被曝(ひばく)限度量は、2007年の勧告に基づき、1~20ミリシーベルトの範囲が妥当とする声明を発表した。日本の現在の基準は、一律に1ミリシーベルト。福島第一原発事故の影響が収まっても、放射能汚染は続く可能性があると指摘し、汚染地域の住民が移住しなくてもいいよう、日本政府に配慮を求めた形だ。3月26日 Asahi.com

つまり菅内閣はこのICRPの声明に基づいて、年間20ミリシーベルトを上限として設定したわけだが、小佐古教授はそれではあまりにも子供たちが可哀そうだといって涙の辞任会見に相成ったというわけである。そしてその教授の涙は、以後、「御用学者」対「非御用学者」という図式を作り上げることになる。ただし、この図式はかつての共産党が好んで使った図式とは若干異なっているばかりでなく、複雑なねじれを起こしている。というのも小佐古教授のように従来の見方では御用学者とされる立場の人が事故後は一転して非御用学者のような顔をしているから、われわれは誰の言葉を信じてよいのか分からなくなるのである。たとえば中京大学の武田教授にしてもそうである。武田教授は、元々、原子力安全委員会の委員の一人であり、積極的な原発推進派でもあったとされる。ところが事故後は一転して安全神話の破壊に率先して発言している。特にICRPの年間20ミリシーベルトという設定値に対しては小佐古教授と同様受け入れられないという強硬な反安心論の立場をとっている。武田教授の場合は原発推進派として安全神話をふりまいてきた自らを深く反省しますという謝罪をしたうえで、自らがもはや御用学者ではないという宣言をしているので分かりやすいといえば分かりやすいのかもしれないが、もし科学者が学問に忠実たらんとすることが御用学者を意味し、逆に学問ではなく世論に迎合することが非御用学者を意味するとするならば、それは本末転倒であるといわざるをえないであろう。

いずれにしても、御用学者VS非御用学者の対決という図式は初めから勝負がついているわけで、要するに御用学者が100ミリシーベルト以下の放射線の被ばくがいくら安全だと統計学的資料の事実を並べて説明しても「そんなものは信用できない」という非御用学者の一言で安心理論は脆くも崩れ去ってしまうというのが目下の情勢である。中川教授がいうように、それはもはや「哲学領域」の話であり、いずれが正しい事実に基づいているのかという科学の話ではないのである。このような放射線に対するわれわれの不安心理、そして学者やマスコミの扱いをみると、これはまさしく山本七平が「空気の研究」で論じていた「空気」そのものであるということが分かる。

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(3)35年前の空気汚染

(3)35年前の空気汚染
もう35年以上も前に出された「空気の研究」であるが、(問題の深刻さは別にして)当時の日本社会でも似たような「空気」があったことが、その本の中に書かれている。当時は自動車の排気ガスによる公害問題が大きな社会問題として連日マスコミ等に取り上げられていた。そのきっかけは70年代の初めにアメリカの上院で自動車の排出ガス規制法案(マスキー法)が提出されたことである。それによると人体に有害な一酸化炭素や窒素酸化物を10分の1に減らすべきだというものであった。ただし、アメリカでは自動車メーカーの大反対により廃案にされたわけだが、その法案が約5年後に我が国で日本版マスキー法として提出され、当時のマスコミ等によってこの法案を通すべきだという圧倒的な世論(空気)作りがなされていった。故山本七平によると、これはまさしく「空気」がいかにして醸成されるかという典型例でもあるという見立てから、この問題を風刺的に紹介していたわけである。

もちろん一酸化炭素が人体に有害であるということは当然の話であるが、自動車の排気ガスが出す窒素酸化物(NOx)が人体に有害なものであるのかどうかということまでは必ずしも科学的(当時)に明らかではなかった。その証拠に公害先進国のヨーロッパでも排出ガス規制法はなかったのである。にもかかわらず日本だけが、排出ガス規制の世論(空気)が異常に強まったわけである。当時、新聞等で連日話題になっていたのは、窒素酸化物と日光が反応することによって光化学スモッグが発生するという問題であった。すなわち自動車の排気ガスによる具体的な被害として、そのような深刻な問題があることがクローズアップされたのである。あの頃、夏の晴れた日には必ず光化学スモッグ注意報が新聞などに連日掲載されていたのを覚えている方も多いだろう。それは今日の放射線量の情報とよく似た反応であるといえばいえるかもしれない。ところが奇妙なことに、その後、光化学スモッグという言葉はある種の死語になったかのように使われなくなってしまった。

もちろんだからといって光化学スモッグの被害がまったくなくなったわけではない。最近でもごく限られた地域によっては光化学スモッグが発令されることもあり、今現在でもその被害がなくなったというわけではない(最近では中国の大気汚染の影響が比較的強い九州地方で光化学スモッグ注意報が発令されることがあるようである)。光化学スモッグの被害が少なくなったのは、確かにその後の自動車の排ガス規制によって、排気ガスによる環境汚染が減少したためであると(今となっては)評価することができるかもしれない。しかし、光化学スモッグの話題がいつのまに少なくなったのは、現実の空気の汚れがなくなったからではなく、むしろ世論という名の別の「空気」が変わったからであるということもいえるのではないか?

話のついでであるが、空中に飛散する放射線量は3.11後の値よりも、実は50年代、60年代の方がはるかに多かったということがいわれている。そのことは日本放射線影響学会による以下の発表をみれば理解されるだろう。

福島第一原発の近辺を除けば、放射線リスクは放出された核分裂生成物の降下物による汚染に起因します。今回の福島第一原発事故のリスクを推測する参考事例としてチェルノブイリとスリーマイル島の事故を引用していますが、核分裂生成物による汚染は、実はそれより以前の方がかなりひどいということも思い起こす必要があろうかと思います。1950‐60 年代、米国などの国連の安全保障理事会常任理事国が大気圏内核実験をくり返し行ったため世界中の大気が汚染され、世界平均で1 平方メートルあたり74 キロベクレル(UNSCEAR2000 ANNEX C)の放射性セシウム(セシウム137)が降下していました。また、日本の国土にも福島第一原発事故以前の通常検知されていた量(1 平方メートルあたりおおよそ0.02~0.2 ベクレル)の約1,000~10,000 倍(1 平方メートル当たり200~2000 ベクレル)の放射性セシウムが降下していました。しかもその汚染は核実験が禁止されるまで10 年位続いていました。ちなみにチェルノブイリの時も短期間ですが、福島第一原発事故以前の通常検知されていた量の約1,000 倍の放射性セシウムが降下していました。現在50-60 歳代以上の人は皆これらの被曝を経験していることになります。この人達にこれらのことによって健康影響がでているということはありません。くり返しますが、核分裂による放射性同位元素の世界規模での汚染は、福島第一原発事故以前の通常検知されていた量の1,000 倍程度の放射性セシウムによる汚染を10 年間、すでに経験ずみなのです。勿論、このことが安全性を確約するものではありませんが、もし、影響があったとしても、そのリスクは非常に少ないと思われます。どのくらい少ないのかを正確に理解するためには低線量放射線の生体影響研究の今後の進展を待たなければなりません。 (日本放射線影響学会 掲載日:平成23 年3 月27 日、平成23年4 月3 日)

50年代、60年代といえば、確かに放射能という言葉がよく飛びかっていた時代であった。しかし、3.11後のようにそれは具体的な脅威であるとは誰にも思われていなかった。当時の子供たちは最近の子供のように部屋に閉じこもってパソコンやゲーム機に熱中することはなく、ほとんどの子供が校庭や屋外で遊びころげでいた時代である。しかも当時はエアコンもサッシ窓もない時代であり、夏になるとどの家も窓を開けっ放しにしていた時代である。当然のことながら、当時の子供は今よりもはるかに多くの放射線量を浴びていたことになるが、しかしその世代の子供たちが特にガンの発生率が高くなっているという事実は報告されていない。専門家によると、3.11後では空中の放射線量よりも内部被ばく率が高いので、そのような比較は適切ではないという意見も出されているが、しかし、50年代、60年代は内部被ばくという点でも現在よりはるかに無防備であったということは確かである。そもそもいかなる食物も出荷制限されることもなく市場に出され、地表部分はほとんど舗装もされていないので放射性物質が蓄積されやすく、ましてや下水設備も整備されていないため放射性物質は時が経てばたつほど濃密に蓄積されていたはずなのだ。もちろん、当時は安価な携帯用ガイガーカウンターもなかったので、どこそこで異常な値のホットスポットが観測されましたなどという懇切丁寧な情報提供もなかった時代である。

つまり当時の日本社会の現実の空気は今よりもはるかに放射能汚染が高かったにもかかわらず、その当時の世論という名の別の「空気」はそんなことをまるで意にも介していなかった。そんなことよりも、当時の社会の「空気」というのは対立する政治的イデオロギーの抜き差しならない修羅場であって、なによりも「安保」という二文字が多くの国民の関心事になっていた。資本主義と社会主義のどちらがより人間を幸せにする社会であるのか、あるいはどちらがより善なる社会であるのかという、きわめて抽象的な命題が多くのインテリ層の関心事であり、その命題によって国論も二分されていた。したがって政治家の関心もジャーナリストの関心も現実の空気の汚染については、まるで関心がなかったのである。現実の空気の汚染について日本人が真剣に関心をもちはじめたのは、おそらくは山本七平の「空気の研究」で取り上げられた日本版マスキー法以来のことなのかもしれない。

当時、水俣病に端を発した公害問題が政治的イデオロギーと一体化して大きな社会問題になりはじめていた。共産党や旧社会党が公害問題こそ資本主義社会の矛盾に他ならないということに気づいたからである。その結果、さまざまな公害問題がアンチ資本主義派の関心事となっていった。もちろん公害問題が資本主義社会の重大な矛盾であり、この問題はイデオロギーの枠を超える大きな課題であったことは確かな事実ではあったが、70年代はそれよりもまだイデオロギーの対決図式の方が根強く、公害問題は当初その対決図式の中で意図的に醸成された「空気」の色彩があった。すなわち資本主義の矛盾が公害問題に凝縮されているのであり、社会主義をよりよい社会だと信じる人々が、その問題を大々的に取り上げることによって公害反対という誰にとっても抗らえない「空気」が意図的に醸成されていったのである。したがって山本七平が「空気の研究」の中で、日本版マスキー法をめぐる「空気」の人工的醸成が「空気」の研究にとって大事な資料になるとしたのは、そういう経緯からであったと思われる。

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(1)菅降ろしのはじまり

(1)菅降ろしのはじまり
3.11後、私が故山本七平の「空気の研究」をふと思い出したのは、実は「放射能汚染に対する過剰な反応」としての異様な「空気」に触発されたのではなく、それよりもある意味ではもっとどす黒い人間の野心や陰謀が渦巻く永田町という世界の異様な「空気」に触発されたからである。今ではもうすっかりと忘れ去られた感もあるが、そもそも「菅降ろし」というのは昨年(2010年)以来、民主党内で燻っていた権力闘争がその発端にあることを思い出してほしい。この国では1年半も前のことなど誰も思い出せないかもしれない。それほど日本人という国民は忘れっぽい性格の民族ではないかと思うことがしばしばある。故山本七平氏もしばしばそのようなことをおっしゃっていた。そこでこの機会に菅降ろしに到る経緯を時系列で整理してみたい。

菅前総理の前に2009年に初代民主党総理として鳩山政権が誕生したことは誰しも記憶にあることだろう。彼は大胆なマニュフェストを掲げつつ、官僚主導から官邸主導の政治改革を謳いあげ、それに基づいて国家戦略室と行政刷新会議を設置し、政権発足後すぐに事業仕訳という前代未聞の荒業で徹底的に無駄な財政支出の洗い出しをしようとした。政権発足当時はそのような意欲的手法が国民の支持を集め一時は80%という高支持率を叩き出している。ところが発足後まもなく鳩山総理自身の親からの多額の献金疑惑が発覚したり、同時に小沢幹事長(当時)の政治資金虚偽記載の疑惑などで、途端に支持率を落とすことになる。そしてなんといってもマニュフェストに掲げていた普天間移転の公約がにっちもさっちも交渉が進まないという事態になって、政権発足後わずか266日で、突然、自らの口から辞任しますと言い出した。面白いことにその辞任の決意というのが、ハトならぬヒヨドリの招きだというから笑わせる。2010年5月29日の日韓中首脳会談の際に宿泊した韓国・済州島のホテルに飛来した一羽のヒヨドリをみて、「我が家から飛んできたヒヨドリかな。そろそろ自宅に戻ってこいよと招いているのかな。そう感じた」と記者団に語ったそうである。

鳩山さんが辞任すると同時に同じく政治資金の問題で疑惑を受けていた小沢幹事長を道連れにして二人揃って退くという表明をして、小沢さんは苦虫をかみつぶしたような顔をしながらも自らの幹事長職辞任を受け入れた。この結果、圧倒的多数の支持(樽床氏が対抗場に立ったが)で総理の座を引き継いだのが副総理格の菅直人であった。ただし、この後、菅内閣の脱小沢路線を鮮明にした組閣が以後の民主党内に波紋をもたらすことになる。仙石氏(官房長官)や枝野氏(幹事長)ら反小沢の急先鋒が要職につくことによって菅vs小沢という民主党内の確執が以後表面化してゆくことになる。一方、小沢氏は陸山会の政治資金虚偽記載の疑惑が検察の取り調べで不起訴となったにもかかわらず、誕生したばかりの検察審査会によって差し戻され、またしても疑惑の決着がつけられないことで政治家としての政治生命そのものが危惧されていくことになる。そんな中で誰もが驚いたのは菅内閣誕生後わずか3か月の民主党代表選で小沢氏が菅総理に対抗して代表選に打って出るという挙にでたことである。当然ながらそれは菅総理を引きずりおろして自らが総理の座につくことを目指したものであった。自らの疑惑が晴れない中であえて権力の座を求める強引な出馬は、当然ながら厳しい批判にさらされることになった。9月○日の朝日新聞の社説には以下のように指弾されている。

どうしてここまで民意とかけはなれたことができるのか。多くの国民が、あぜんとしているに違いない。 民主党の小沢一郎前幹事長が、党代表選に立候補する意向を表明した。 政治とカネの問題で「責任を痛感した」と、幹事長を辞して3カ月もたっていない。この間、小沢氏は問題にけじめをつけたのか。答えは否である。いまだ国会で説明もせず、検察審査会で起訴相当の議決を受け、2度目の議決を待つ立場にある。鳩山由紀夫前首相にも、あきれる。小沢氏率いる自由党との合併の経緯から、この代表選で小沢氏を支持することが「大義だ」と語った。「互いに責めを果たす」とダブル辞任したことを、もう忘れたのか。二人のこのありさまは非常識を通り越して、こっけいですらある。
 民主党代表はすなわち首相である。党内の多数派工作に成功し、「小沢政権」が誕生しても、世論の支持のない政権運営は困難を極めるだろう。党内でさえ視線は厳しい。憲法の規定で、国務大臣は在任中、首相が同意しない限り訴追されない。このため「起訴逃れ」を狙った立候補ではないかという批判が出るほどだ。政治とカネの問題をあいまいにしたままでは、国会運営も行き詰まるに違いない。より重大な問題も指摘しなければならない。 自民党は小泉政権後、総選挙を経ずに1年交代で首相を3人も取りかえた。それを厳しく批判して政権交代に結びつけたのは、民主党である。今回、もし小沢首相が誕生すれば、わずか約1年で3人目の首相となる。「政権たらい回し」批判はいよいよ民主党に跳ね返ってくるだろう。より悪質なのはどちらか。有権者にどう申し開きをするのか。



当初、小沢氏は鳩山氏の支持を取り付けることによって、民主党国会議員の数では互角の戦いとみられていたが、しかし投票権を有する地方議員と全民主党員の票が圧倒的に菅支持に傾いたために小沢の乱は不発に終わった。この後、菅総理は第一次改造内閣で、ますます脱小沢路線を明確にした組閣をする。このとき小沢氏の敗北の弁は「初心に帰り、一兵卒で民主党政権が国民の皆さんの期待に応えられるよう、みんなと手をつないで協力していきたい」と表向き殊勝なものであったが、小沢氏のその後の行動をみると誰の目にも一平卒に戻ったとはみえない。それどころか代表選の敗北後、ほとんど間髪もいれずに小沢氏の行動はますます政局一辺倒へと先鋭化してゆく。「みんなと手をつないで協力していきたい」という言葉はあくまでも小沢グループ内の協力という意味でしかなかったことがこの後はっきりとするわけだ。

小沢氏が自らの復権を大胆に志向したのは、一度差し戻された検察審査会の起訴相当の議決が検察によって再度不起訴相当になったという朗報のせいでもあるのかもしれないが、しかし彼の淡い期待をあざ笑うかのように10月4日、検察審査会は小沢氏の起訴相当の議決を再度発表した。これによって小沢氏の強制起訴は確定となり、もはや議員としての活動さえ制限されざるをえなくなる。国会では野党による証人喚問(または政倫審への出席)の要求がますます強くなる。菅総理は少なくとも小沢氏に政倫審への出席に応じるよう求めたが小沢氏は頑として受け付けなかった。一方、起訴が決まった以上、小沢氏は犯罪容疑者という身であり民主党は党としての処分もせざるをえなくなる。岡田幹事長によれば、やむなくもっとも緩やかな処分として「党員資格一時停止」という処分を課したとするが、小沢グループはこの処分に対しても一斉に反発する。

民主党政権樹立の最大の貢献者を処分すること自体が許せないというのだ。ここへきて小沢氏は再び一平卒から多数の部下をかかえるグループの将としての行動を迫られることになる。小沢グループが再度の反乱を起こす大義名分は次のようなものである。いまや菅内閣は先の衆院選で確約した民主党のマニュフェストをかなぐり捨て、大増税を指向する官僚主導内閣になり下がってしまった。しかも7月の菅内閣下での参院選挙で大敗し、その責任もとっていないというものである。したがって菅内閣は民意にそむいた非民主的政権であるというのである。ただし、小沢氏は強制起訴となった身であるから再度総理の座を目指すことは並大抵のことではなく、この時点で具体的な展望が拓けていたわけではない。ただ小沢氏にとって、菅内閣は打倒の対象でしかなくなったというのはもはや打ち消しのできない事実であり、目指すべきは政界再編という道しかなかったであろう。格好よくいえば、この時の小沢氏はまるで主流派から追い出された西郷隆盛の心境であったとみえなくもない。しかし、後々の彼の打算的行動をみると小沢と西郷を比較することは誤謬の極みであることはいうまでもない。以後、小沢氏及び小沢グループは展望なき展望の下に菅内閣打倒へと闇雲に突き進んでいく。

まず菅内閣打倒の一の矢として、2011年2月17日、小沢氏の処分に反対する議員渡辺浩一郎氏他16人の衆院議員が一致して民主党会派を離脱するという行動にでた。当グループ代表の渡辺氏は記者会見で次のように離脱理由を説明している。「菅政権は国民と約束したマニフェストを守っていない。国民との約束を果たす本来の民主党政権ではないため」。彼らはいずれも比例候補であったが、民主党を離党したわけではなく、あくまでも会派離脱という行為によって内閣が提出した法案などに今後は党議拘束から離れて行動する宣言をしたということになる。次に第二の矢としてその一週間後の2月23日、小沢一の子分で当時農水政務次官をしていた松木謙公氏が辞表を叩きつける。そして第三の矢として、さらにそれから10日後の3月3日に民主党の佐藤ゆうこ衆院議員が離党届を出して愛知の減税日本に入党するという意志表明をして、当時人気の河村愛知県知事と小沢派が連携して政界再編に動き出すのではないかという観測まででていた。当然ながら、このような民主党内の動きに野党が黙っているはずはなかった。政界は再編ムード一色となり、週刊誌はこれを煽るように連日、ありもしない組み合わせでポスト菅政権の予想記事が踊っていた。このような異常な政局の中で3月11日、東日本大震災が発生したということを、われわれは忘れてはならないだろう。

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(2)大震災後の政局

(2)大震災後の政局
大震災は明らかにわれわれの社会の空気を変えた。3.11は今後もその社会の前後が明確に区分される日として記憶されることになるだろう。それは1923年の9月1日に起こった関東大震災と同様、あるいはアメリカの9.11と同じように、われわれの社会のあり方や考え方を根本的に変えた日として、以後長く語り継がれることになるのだろう。

われわれ人間はこれほどの災害に遭遇すると、一個人としての考え方よりも共同体としての考え方がより強固になることは、ある種のDNAとして組み込まれているのかもしれない。その意味では人間という生き物は単なる個体ではなく、むしろ有機的共同体の一部としての存在に他ならないかのようにみえる。3.11の震災で首都が震度5強の大きな揺れに動揺していたとき、人々はわれ先に自分の身を守ることではなく、同じ運命共同体の一部としての冷静な行動を取るようにと、誰に教わらなくともそのようなある種のDNAの命令に従ってわれわれは行動していたのではないであろうか。それが世界の他国の人々からみると日本人の賞賛すべき性質なのかどうかは別にして、少なくともわれわれ人間はリチャード・ドーキンスのいうような利己的存在であるという単純な割り切り方はできない、ある意味で不思議な利他的性質をもった生物である。この震災後、多くの人々が助け合う精神をもって事にあたろうとしたことは、われわれの記憶の中でも大事にしておきたい希望のひとつである。もちろん、それは日本人だけがそうだったわけではなく、世界中から多くの支援があったことも同時に忘れてはならない。しかしながら、そのように人々の心が助け合いの精神に満ちているときに、永田町の汚泥の中にいる人々にとっては、まるで住んでいる世界が違うかのように異なった空気が充満していたことは驚きに堪えない。彼らは果たして正常な人間であろうかと疑ってみたくもなるほど、その精神は旧態依然としてグロテスクであった。

3.11前まで永田町では菅降ろしの計画がさまざまな陣営からだされていた。小沢グループは具体的な菅降ろしの計画として、5月頃に参院で多数を獲得できる見込みのある野党の問責決議案に相乗りするという案を固めていた。もちろん彼らが同調することで問責決議案が可決することは野党と裏取引をするまでもなく予想されることであった。野党の自民党や公明党は、もともとやむなく選挙に敗退して下野した立場であるから、当然のことながら自らの政権奪還のためにも菅降ろしの計画に加わるべき正当な動機があった。

しかし、あたりまえの話ではあるが政治家といえども人間である。一般国民と同様、震災のショックで永田町の空気は一時的にもせよ変化したことは事実である。最初の数週間に限っていえば国難に対処するために政治休戦すべきであるという考え方が与野党間に広がっていた。当初、挙国一致体制を築くべきであるという考え方は小沢氏に近い輿石氏からもでていたのである。そのような空気の中で、3月19日に菅総理が谷垣自民党総裁に電話で連立内閣の副総理として入閣の打診をしたが、谷垣総裁は「入閣すれば自民党が反対してきた子供手当法案など新年度関連法案の成立に協力せざるをえなくなる」(朝日新聞)という党内の反発を理由に断っている。ただし、谷垣総裁の弁護のためにいうと、氏は菅内閣の連立打診に相当悩んだらしい。後日、谷垣総裁は自民党の元総理のお歴々に伺いをたて連立内閣について助言を求めている。たとえば中曽根氏からは「一時的に連立を組んだらどうか」という助言がだされ、小泉氏からは「健全な野党としてやればよい」という助言がだされた。結局、谷垣氏は小泉元総理の助言を取り入れたということになるが、果たして自民党は以後健全な野党としてありつづけたのかというとはなはだ疑問であろう。

しかしながら驚くべきはその後の展開である。震災後わずか一カ月という短さで永田町の空気は一変して政治休戦の呪縛が解かれることになる。小沢氏がまたぞろ政局へと動き出したのである。菅降ろしが再度本格化するきっかけとなったのは震災からちょうど一カ月後(4月10日)の統一地方選(前半戦)の結果がでた後であった。この選挙で民主党は予想通りの敗北を喫するわけだが、この結果を招来した菅総理は政治責任をとって辞めるべきだという論がでてきたのである。めちゃくちゃといえば、めちゃくちゃな論法である。そもそも地方選挙で敗北したために総理が責任をとって辞任するという例は憲政史上にもない話だ。ましてや震災復興の最中でしかも福島原発の事故は依然として予断が許されない状況が続いており、ひとつ対応を間違えば日本国が滅びてしまうという瀬戸際に立たされている中である。しかし小沢氏によると、菅内閣の原発事故対応そのものが失政であり、日本を救うためにも菅内閣をこのまま続けさせることは許されないという判断だったという。ちなみに3月17日付産経新聞には以下のように記されている。


意地でも辞めようとしない菅直人首相を何としても引きずり降ろす-。そんな気持ちに駆られてか、民主党の小沢一郎元代表を支持する勢力が、ここにきて一斉に動き出した。小沢氏は12、13両日夜、東京都世田谷区の私邸に子飼いの議員を招き、首相批判を展開した。それは「菅降ろし」のゴーサインでもあった。グループ「一新会」の面々だ。結束を誓い合う場にしたかったのか、一新会所属議員であっても首相に比較的近いと判断された議員には実は声はかかっていない。当時の状況を出席者の証言をもとに再現すると、2日間とも小沢氏は酒が入る前に、「君たちに話がある」と切り出し、出席者を身構えさせるという役者顔負けの演出をしている。内容は2日間ともほぼ同じ。小沢氏の頭の中は福島第1原子力発電所事故のことでいっぱいで、なかなか収束しない事態に「失政の部分が大きい。これを許していたら後世、『あの政治家は何をやっていたんだ』といわれる。菅さんに働き掛けをするが、それでもダメなら(われわれは)覚悟して行動しなければならない」と語った。だが、小沢氏は内閣不信任案に同調することは示唆したものの、具体的な指示を出すことはなかった。しびれを切らした出席者が「われわれは何をしたらいいのですか」と聞くと、小沢氏は「まずは一致結束してわれわれで動く姿勢を示すことだ」と答えるのみ。

この記事をみると、なんともはやという感想をもたざるをえない。確かに、菅内閣の震災原発対応には不手際という他にない部分はあったかもしれない。それは週刊誌やテレビの報道で扇情的に報道されたために誇張され、あたかも菅内閣が震災被害を拡大させている張本人であるかのような印象を持つ方もいるだろう。しかし、それらはほとんど検証にたえられない2chレベルのデマゴーグに等しいものである。この記事の小沢氏の発言をみても、まさにデマゴーグに他ならないことが分かる。いや、そうではないと小沢氏を弁護したい人もいるかと思うので、この際、少し冷静になって考えてみよう。

小沢氏が「失政の部分が大きい」というのは、そもそも何を指していたのであろうか?先の記事をみるかぎり、福島原発の事故が一向に収束しないのは菅総理の「失政」であると(小沢氏は)いっているようだが、あれだけの原発事故がわずか一カ月そこそこで収束に向かうのがあたりまえだと考えているとすれば、それは原発事故の恐ろしさというものがどのようなものかという基本的認識すらないことを証明している。今現在(10月16日)においては、ようやく原発事故は100℃以下の冷温停止に向かって収束しつつあるが、事故後1か月の段階では収束どころか、何が起こってもおかしくない状況であった。さいわい、3月15日から始まった消防隊の決死の放水作業が功を奏して原子炉内の温度が下がり、最悪の事態は避けられるという楽観的見通しがあるにはあったが、まだまだ4月12日前後の段階では事態は収束どころではなかったのである。そもそも放射能とは何か?ウランやプルトニウムはなぜ巨大なエネルギーを生み出すのか?原子力エネルギーはいかにして安全が保たれるのか?今回の事故はいかなる事態を招来しているのか?仮に対応が間違っていなかったとしても、炉心溶融を引き起こした原子炉が冷温停止に至るまでにどれほどの時間が必要とされるのか?それらに関する基本的で正確な知識がなければ、菅総理が原発対応において「失政」をしたということは軽々にはいえないはずだ。ただ誰かががそう言っているからそうだと思うというのではデマゴーグ以外の何ものでもないだろう。

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